ERNESTO CORTAZAR- Morelia's Waltz (video inspired by god of star)



1 与える愛とは相手が間違っているときにそれを受け入れることではない
when partner is wrong, to accept it is not love to give

This message is that when partner is wrong, to accept it is not love to give.
Project of Heaven and the gods lead to human society based on providence which is communist society.
Society based on providence is society that cooperate with each other on equal footing.
Society that cooperate with each other on equal footing make possible socialist society which is sharing means of production.

このメッセージは,与える愛とは相手が間違っているときにそれを受け入れることではない,です。
天と神々のプロジェクトは,人類社会を摂理にもとづく社会すなわち共産主義社会に導きます。
摂理にもとづく社会とは,互いに対等な立場で協力しあう社会です。
互いに対等な立場で協力しあう社会は生産手段共有の社会主義社会が可能にします。



(卒業生からの相談)
こんばんわ
結婚するまえに与える気持ちで行動しようと決めたのに仕事が終わり、十時半頃家につき、だんなさんが自分で飲んだり食べたりしたのをそのままに寝ているのをみて悲しくなり怒ってしまいました。
そのことでまた落ち込んでいます。
与える気持ちがない証拠なのでしょうか。


(私のメッセージ)
こんにちは
この前、「すべての人、動植物、物質もふくめてあらゆるものを尊重、尊敬する人は尊敬される」「あたえることは自分にもどってくる」という論をおくりました。
その時、最近、結婚した女性からメールをいただきました。
「あたえる愛」を決意して結婚したが、夜仕事につかれてかえったら、夫は、食べたものをほうりぱっなしで何もかたづけていなかったので、怒ってしまって、いやになっているとありました。
彼女は帰りが遅くなる仕事なのです。

ここで、「与える愛」とは、「相手がまちがっている時にそれを受け入れることではない」ということを明確にいっておきたいとおもいます。
いつも紹介しているサーカーSarkarによれば、人間の道徳的罪には「してはならないことをした罪」と「しなくてはならないことをしなかった罪」の二つがあります。
してはならないことの罪はみんな分かっているとおもいます。

しかし、クラスで文化祭などの行事があったとして、まったく協力しなかったとするとこれはしなくてはならないことをしなかった罪です。
崖からおちそうな人をみて、ほっておいたら、助けることをしなかった罪です。
中学の時に人がいじめにあっているのを助けようとしなかったことで自分をいやに感じている人がいましたが、それは「すべきことをしなかった罪」です。
妻が遅くまで働いてつかれているのに自分が食べたのをかたづけなかったのは、協力すべきことに協力しなかった罪です。
むしろ、自分が妻の分まで食事をつくってやるくらいが必要な場合だってあるでしょう。
ですから、それは罪です。

サーカーは、罪な人を罰する権利は誰ももっていないといいます。
怒って夫を処罰しようとおもっても、それは問題の解決にならないのです。
しかし、サーカーは、すべての人間が、自分のまわりの罪な人を変えて、まともな人間にかえてゆく権利をもっているといいます。
そうです。「しなくてはならないことをしないという罪」をおかす夫を、罪をおかさない人間にかえてゆく権利を妻はもっています。
だから、怒らず、平常心で一年かかっても二年かかっても、三年かかっても罪をおかさない人間になるように要求してゆく権利をもっています。
夫が思いやりのある人間なら、次第に自分を変える努力をしてゆくでしょう。

だから、「与える愛」とは、相手がまちがっている時、その間違いや罪をみとめることではないのです。
怒らず、平常心で、相手が罪をおかさない人間に、まちがいをおかさない人間にねばりづよく成長させてゆくこと(このことを矯正=きょうせいといいます)が、本当のあたえる愛です。
相手のまちがいに屈することではないのです。

もう一度、いいます。
自分のまわりの罪をおかす人間を正して成長させてゆく権利はすべての人間がもっています。
ただし、罰する権利はもっていません。
怒って相手に害をあたえようしてはいけません。
相手を正すのです。
それは愛です。
自分に子どもができて、罪やまちがいをうけいれてはいけません。
でもまちがいをしたからといって子どもを罰してはいけません。
あくまで正しい人間になるようにねばりづよく教えてゆくのです。
それが愛です。


新婚の彼女に次のように書きました。

いや、私は相手にいうべきことは言わないといけないとおもいます。
根底において、相手を尊重する気持ちをもっているということであって相手にも生活面で協力してもらうことは助け合う関係をつくるうえでかかすことができません。
自分の方も仕事でつかれているのですから当然だとおもいます。

自分で自分の片づけができないのは、悪気があるというより、そういう生活習慣でいままで生きてきているから、相手をそういう姿勢にかえるのはかなり困難ですが、長期戦だとおもって、ねばりづよく相手に要求しつつけることだとおもいます。
これは教育といっしょで、すぐに成果がでません。
何カ月もかかって、あるいは一年、二年かかって成果がでてきます。
言い続けて、長期的に相手を変えてゆくことです。
そのことは相手を人間として成長させることであって、相手に愛を与えることだとおもいます。
自分の子どもでも、ちゃんと自立できるようにそだててゆくことが愛であるように、かたづけなかったことを何もいわないでほっておくべきではありません。
ただ、いいつづけて、長くかかるとおもってください。
応援しています。
相手は必ずかわってくれます。
長くかかるけど。何年でもねばりづよく要求すべきです。
かっとこないで、冷静に要求しづつけるべきです。
つかれているからかっとくるんだとおもいます。
そういう日はきたないことはしかないとして、相手に対していうべき正当なことはいうべきです。
その方が、後々にいい関係ができるでしょう。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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