Community Forum at Social Justice High School: The Students Speak (video inspired by god of star)



多様性を認めあった上での統一は巨大な力を発揮します
Unity in recognized diversity exerts huge power

This article is that social forum movement should be developed as unity in diversity.
Diversity is law of universe.
There is no one as same thing in this universe.
Unity in recognized diversity exerts huge power.
This issues raised by Mitsuki is extremely important.



この論文は、社会フォーラム運動は多様性における統一として発展させるべきである、です。
多様性が宇宙の法則です。
この宇宙に同一のものは一つとしてありません。
多様性を認めあった上での統一は巨大な力を発揮します。
ミツキのこの問題提起はきわめて重要です。

1) 多様性における統一の場としての市民社会フォーラム

私は、このフォーラムは、世界社会フォーラムにならって、「政党としては参加しない」形で進んでほしいと思っています。
個人として何党に加入していても問題ないですが、政党所属はあきらかにせずに、中身で議論してゆきたいと思います。

その理由はいくつかあります。

理由の一つは、私はこの市民社会フォーラムが、歴史上初の政党を「含んで超えた」会として発展してほしいからです。
 このフォーラムの中でいろいろな方がおられ、共産党であれ、社民党であれ、新社会党であれ、民主党であれ、公明党であれ、自民党であれ、その他どのような政党に所属されていても問題ないと思います。
むしろ、私はいろいろな政党にかかわっている方が参加されて、ともに認識を深める場として、その中で友好関係が生まれた人たちはどんどんさらに関係を深めたらいいと思います。
問題は、社民党系に参加すれば、情報は社民党系の情報だけになり、共産党系に参加すれば、情報は共産党系だけになりがちです。
〇〇系に参加すれば〇〇系だけになります。
このフォーラムにすばらしいところは、
政党系だけでなく、さまざまな自発的なグループもたくさん参加されて
情報の交流が、おこなわれていることです。

ところが、世話人が、〇〇党だと言われると、
ここに〇〇党の支持者、〇〇学会、あるいはもろもろの立場の人が、 いっしょにこのフォーラムに参加しようとおもった時、
〇〇党きらいの人が参加するはずがありません。

問題は、〇〇党嫌いの人も、たとえば、私は、自分が不信感をもってきた〇〇同盟の人にも参加していただいて、議論し、多様性における統一にいたる道筋をさがしてゆきたいと思いますが、
どうして、そのような人が参加するでしょうか。
〇〇党に拒否感情がない人だけが参加するフォーラムになっては、めざすべき「多様性における統一」が実現できません。

各政党は各政党でがんばっていただけばいいと思います。

わたしたちは、政党を変えるのではなく、「含んで超える」新しい「市民社会」をつくってゆくべきだとおもうのです。
その新しい「多様性を認め合った」市民社会が、政治に影響するようになるときが本当の民主政治だと思います。
政治が市民社会に号令するのではなく、市民社会の合意が政治に反映するようになるのをめざすのです。
そうなると「市民社会フォーラム」が多様な立場の人々をのみこんで発展する必要があります。

2) 市民社会フォーラム運動のさらなる発展のために

日本社会では「多様性における統一」の考え方が普及せず、
一般の人々は、強いものにまかれるか、大多数の雰囲気に迎合するかです。
そして明確な考えをもった人々は、「多様性を前提」とした連帯と友好を発展させることはありませんでした。

そのため世界社会フォーラムの原理憲章にあたるものが必要だと思っています。
前にも申しましたが、たとえば、
「誰も市民社会フォーラムを代表して見解を述べる権限はない」
「政党や宗教団体としての参加はなく、個人としては、どの政党に所属しようが、宗教団体に所属しようが参加できる」
「多数決は取らない」とか定めます。
そして「参加者一人一人の認識を深め、多様な連帯を生み出す場」という性格をもつフォーラムであることが人々に浸透するならば、この市民社会フォーラムは発展しつづけると思うのです。
(だから、HPの市民社会フォーラムの参加呼びかけの後ろに、このような諸原理を世話人会で話しあって掲載するのがよいのではないかと思います)


実際、この市民社会フォーラムは、代表者もいないし、多数決もとりません。
あるのは、フォーラムの世話人だけです。
このような会は、20世紀にはありませんでした。
これは画期的なことです。

この市民社会フォーラムは党派を「含んで超えた」市民レベルでの自由な交流への可能性を切り開きつつあります。
各党派を否定するのではありません。
「含んで超える」のです。
今は、日本社会の中の潜在的な可能性にすぎませんが、
大きなうねりになる萌芽だと私は見ています。
そして、日本社会が次の社会サイクル段階を迎えるころは、多様な考え方をした人が相違を認め合って交流することは当然だという雰囲気が支配的になります。


3) 市民社会論の学的潮流

さて、実は、岡林さんと私が共感する書物は似ています。
(私の読んでいない学者も多々ありますが)
丸山真男をはじめとして、内田善彦、高島善哉、平田清明・・・書かれている学者たちは、1868年から1945年の社会サイクルの末期の悲劇を体験し、二度と戦争がない日本をつくってゆきたいという情熱のもとに政治経済や社会を研究した学者たちでした。
たとえば、丸山真男は心ある自民党員だって影響を受けた学者です。
岡林さんの学問的な度量の広さが感じられます。

1945年からの日本社会の民主化へのいぶきを反映した人々でした。

今、1945年からのサイクルで66年が経過し、時代の変化から個々の文言は、現在とずれていると思いますが、私たちが今日の社会サイクルの末期を乗り越え、新しい社会サイクルに前進する上で、参照すべき重要な人々であると思います。

岡林さんがあげられた人々は、市民社会論の視座をもち、いずれもソ連や中国の共産主義の問題を見抜いていた知識人でした。
だからといって共産党排除の立場もとっていない人々であっただろうと思います。

岡林さんがあげられていた学者の中で、私は、まず第一に内田義彦という学者の著書を推薦します。
(この市民社会フォーラムには、専門の学者先生がたくさんおられる中で恐縮ですが、若い時代に読んだ私のうろおぼえの記憶で述べさせていただきます)
内田義彦の経済学は、理屈だけが並んでいる経済学の書物、数字がたくさんでてくる経済学の書物とちがって、人間としてあり方まで考えさせられました。
アダム・スミスもふくめて研究することで、マルクスを「含んで超えよう」とするスタンスがあったんだと思います。
岩波新書の「資本論の世界」だったと思いますが、その本の中に「オリンピックに参加することに意義があるとクーベルタンは言った。
日本では、参加するというと自分の主体性は問われないけれども、英語では、take part inであり、パートすなわち、その部署を責任をもって引き受けるという意味があります」という趣旨のことが書かれていました。
「そうなんだ。参加するとは、自分の担当部分を引き受けることなんだ」と思いました。

この問題意識は、今もずっと持っています。
自立した主体的な個人の連合の社会のあり方が重要だと今でも思っています。
私のホラーキー社会論、
http://auwa.sakura.ne.jp/wakusei1/5horontheory/horontheory1.html
http://auwa.sakura.ne.jp/wakusei1/5horontheory/horontheoryzenbun.html

あるいは、この間、論じさせていただいたプラウトの自立した地域の連合という発想も、個人であれ、集団であれ、自立した上で連帯するという、内田義彦氏をはじめとする市民社会論の学派の問題意識を継承して、発達させたものです。

さらに、もう一冊、『日本資本主義の思想像』という本が印象に残っています。
その中に夏目漱石の坊ちゃんについて経済学的に分析?をしていてとても興味深かったです。
内田義彦によれば、ぼっちゃんは「純粋力作型」です。
赤シャツの教頭が「パーリア力作型」、「のだいこ」が「パーリア型」です。
有力者とのコネを上手につくっていって、かつ一定の能力の高さもっている人間類型は、パーリア力作型です。
無能なのに有力者とのコネをつくっていって地位につくのが「パーリア型」で、このような人々の配下にいたら災難です。
純粋力作型は、力量はあるが、出世できません。
愛すべき人たちです。

私としては、この「純粋力作型」の人々が、多様な立場を認め合って、「自立と連帯」を確立し、社会の主導権を握る時代をめざしたいわけです。

現在は、財力派が知力派、体力派を支配する時代です。
「パーリア力作型」「パーリア型」は、財力派に迎合します。

純粋力作型の人間類型こそ、大塩平八郎であり、山本宣治であり、天木元レバノン大使ではないでしょうか。
私たちは、純粋力作型、すなわち、現代の大塩と山本と天木を「多様性のもとに統一」することをめざしましょう。

P.R.サーカーの文章です。

「メディアがコントロールされていても、搾取された大衆から、搾取者たちの人々を騙すテクニックを見破った知的な人々が現れる日が来ます。
この段階で、自由の種子の発芽を妨げるために、搾取者たちは、知的に活発になります。
彼らは、教育システム、出版、宣伝機関をコントロールし、押し寄せる大衆の不満のうねりを抑えるために堤防を高くする最後の絶望的な企てをします。
しかし、まもなく変革の日はやってきます。
ヴィクシュッダVisubdha シュードラ(不満をもった大衆=私は大衆の生活状態に低下した純粋力作型の人々のことだと考えます)が、反抗revoltに立ち上がり、革命revolutionの波によって高い砂の堤防を洗い流します」P.R.サーカー


4)補足  私の愛読した思想史家

最後に岡林さんの言及に抜け落ちている重要な学者を紹介します。

丸山真男が、自分の唯一の論敵として認めた名古屋大学の思想史の守本順一郎です。
私が友人に守本順一郎を読んでもらうと、表面的にしか読まない段階は、「図式主義だ」と非難します。
しかし、丸山真男が、自分の論に脅威を与える論敵と認めたたったひとりの人物であるということは、守本順一郎の日本思想史がどれだけの深さをもっているか理解できると思います。
ケン・ウィルバーやサルカールは、人間社会の集合心理も、成立、発展、崩壊のサイクルをなしながら、より高いレベルへと発展してゆくようにとらえています。
日本でそのようにとらえた上で、実際に見事に分析している思想史研究家は、守本順一郎だけだと推測します。(他にいたら教えてください)

日本思想史の探求の中で、原始、アジア的、古代的、封建的なそれぞれの段階に対応する思想の生成、発展、崩壊を、守本順一郎は子細におっているのです。
残念ながら、60才くらいで亡くなり、江戸時代の日本思想でまで解明しておわりました。
彼は、古事記、日本書紀の段階のアジア的段階⇒仏教の古代的段階⇒儒教の封建的段階ということで江戸時代まで叙述しています。

続きを考えると、私は、1868年から1945年までのサイクルがナショナリズムであり、
1945年から今日までのサイクルが、インターナショナリズムが対応する思想であり
その次のサイクルは、「ユニヴァーサリズム(普遍主義)」「トランスナショナリズム(ナショナリズムを超える思想)」がくるとにらんでいます。

手頃なのは、
守本順一郎「日本思想史」上、中、下、新日本新書、
他に「日本思想史の方法と課題」新日本出版社
 「東洋政治思想史」未來社
 「アジア宗教への序章」未來社
 などなどがあります。

このメールグループの中には、新日本新書というだけで、〇〇系出版社と見る人もあるかもしれません。
しかし、岡林さんが紹介されていた学者たちが、〇〇系におさまらないように、
もし、関心をもたれ、じっくりとりくまれる方があるならば、マルクスを「含んで大きく超えた」学者であることを発見するでしょう。
 私たちが、日本社会の過去の思想を「含んで超える」未来の思想を構想するには、欠かせない思想史家であるとひそかに思っています。




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