A Beautiful Mind 01: A Kaleidoscope of Mathematics (James Horner) (video inspired by god of star)



(Mitsuki thinks that this principle should be applied from horon of family to horon of world government)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This time we introduce second article of horon social theory of Mitsuki.
This is too long.
So I explain each part one by one from next time.
This time I introduce whole article in one time.
This is worth to translate.
If you can translate into own language, send us.
We project of Heaven and gods introduce.

This article argues that each horon should be organized as principle of balance between agency and communion.
Agency is principle of activity.
Communion is principle of harmony.
Both aspect is needed in healthy horon structure.
Mitsuki thinks that this principle should be applied from horon of family to horon of world government.
This is important to build up eternal peace planet earth.



こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは、人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
今回はミツキのホロン社会理論の第二論文の紹介です。
これは非常に長いです。
だから次回から各部分を一つずつ紹介していきます。
今回は、一度に全文を紹介します。
これは翻訳する価値のあるものです。
もし,あなたが自分の言語に翻訳したら、私たちに送ってください。
私たち天と神々のプロジェクトが紹介します。

この論文は、各ホロンが自立と協力のバランスの原理として組織されるべきであると論じています。
自立という活動の原理です。
協力というはハ-モニ-の原理です。
健全なホロン構造においては両方の側面が必要とされます。
ミツキはこの原理が,家族ホロンから世界政府ホロンまで適用されるべきであると考えています。
これは永遠平和の地球惑星を作り上げるために重要です。


ホラーキー社会論

はじめに

人類63億人のレベルから、個々の家族、個人のレベルまで、みんなが生き生きとできて、安心して暮らせる社会、そしてみんなが納得のできる将来の社会とはどのようなものなのか。そのビジョンを描き、進むべき方向を明らかにすることが、この文章のテーマです。

第一章  コスモスの四象限

1)存在の内側と外側

 私という存在は、身体と心からなっています。身体と心は対応しています。レモンを食べるとそのすっぱさを心が感じ、唾液が出ます。では、目を閉じてレモンを包丁で半分に切っているところをイメージしてください。唾液がでます。
 唾液が出た結果は同じでも、その原因は、前者は、心の外側にあるレモンであり、後者は心の内側にあるレモンでした。
 なぜ、唾液が出たのかを第三者が見た時、心の外側のレモンの場合は、観察によって知ることができます。心の内側の場合は、対話によって何を思い浮かべたのかを聞き出す必要があります。
 心の内側のレモンも心の外側のレモンもどちらも客観的存在です。心の内側のレモンは、物質的存在ではありませんが、心の中にレモンというイメージが客観的に存在したことは否定できません。心の内側の出来事にも心の外側の出来事のどちらにもリアリティ(真実性)があります。
 心の外側のレモンか心の内側のレモンのイメージかのどちらか一方に唾液が分泌された原因をしぼることはできません。どちらか一方を重視する見方を「還元主義(かんげんしゅぎ)」と言います。
 心の外側のレモンを重視する見方は間違いではありません。心の内側のレモンも以前に心の外側のレモンを見たことかあるからイメージできるのです。この場合、心の流れは、「外側(レモン)⇒内側(レモン)」です。他方、心の内側のレモンのイメージを重視する見方も間違いではありません。心の外側のレモンも、それを心にイメージできた時に唾液がでます。この場合、心の流れは「内側(レモン)⇒外側(唾液)」です。だから、どちらも真理なのです。しかし、どちらも部分的です。どちらか一方に還元(かんげん)してしまうことなく、心の内側と外側の両方を見てゆく必要があります。
 今日、科学が発達し、怒った時、脳の中の神経ネットワークの継ぎ目のところではノルアドレナリンという神経伝達物質が増加していることがわかっています。それは、性能の良い顕微鏡を使って観察することができます。私たちは科学者の影響で、観察できることをもって真実だとし、外から見える世界に還元してものを考える傾向があります。
 しかし、これは半分の真実です。ノルアドレナリンを放出して、怒っている脳の神経ネットワークの中には、心が客観的に存在しています。何について怒っているのかは、顕微鏡をつかっていくら外から調べても怒っている中身を知ることは不可能です。その人との「対話」によって、心の客観的ありようをつかむことができます。
 だからといって「怒り」を心の中のことに還元することはできません。たとえば、糖分などの取り過ぎなどでノルアドレナリンを過剰に分泌しやすい体質になっているなどの外的な要因がありえます。
 私たちは、あらゆることを考えるにあたって、心の内側、外側のどちらかに還元せず、両方を等しく重視しなくてはなりません。
 そのことは私たち個人の成長を考えるにあたっても大切です。たとえば、身体のバランスの向上は、心のバランスの向上に役立ちます。逆に心のバランスの向上は身体のバランスの向上に役立ちます。したがって、心(心の内側)と身体(心の外側)の両面でのプラクティスをすることは、人間としてのレベルを高めてゆくことに役立ちます。

2)個体と集合体

 私という存在は、心の外側においても心の内側においても集合体の中に存在します。人間だけでなく、この宇宙のすべての個体は単体で完全に他と切り離されて存在することはできません。星も原子も分子もすべての他の個体との関係の中に存在しています。
私という存在の、心の外側を考えてみましょう。私たちの物的な身体を維持するための衣食住は、すべて他の人の存在、すなわち人間の集合体を前提としています。昼食で食べたスパゲティは、小麦を育てた農民、粉に加工した工員、運んできたトラック運転手、調理師、皿に運んできてくれたウェイトレスの貢献を含んでいます。
もし、氷河期の原始社会の段階に私たちが生きていたとしても、食料のマンモスを追い込むためには、20~30人は必要だろうし、オカミを防ぐために洞窟の住まいに火をたやさないようにしないといけません。一人では決して生きてゆくことができません。
「おれは誰の世話にもならず一人で生きてやる」と本気で思っている青年がいたら、その心意気は大切ですが、まちがった認識です。人は集合体(社会)のおかげで生きることができ、自分もその一員として社会に貢献しながら生きてゆくのです。
このことは人類が存続するかぎり、永遠の真理です。もし「俺は誰の世話にもなっていない」と思い込んでしまったら、肥大化したガン細胞が他の細胞に迷惑をかけるように、あなたは、みんなに迷惑をかけてこの世を去ることになります。
次に私という存在の心の内側を考えてみます。言語が豊富になることで心の世界が発達し、私たちは動物のレベルを超えた存在になります。オオカミに育てられたアマラとカマラという少女は言葉と心の世界を獲得できませんでした。父母や兄弟、友人、先生などの人間の集合体なしに個人の心の世界も発達しません。
したがって、ゲームやテレビに赤ん坊の子守りをさせて、子どもの心の世界を発達させることはできません。人間の心と言語の世界は、人間の集合体のコミュケーションの中で発達してきたものであり、共有することにその本質があります。テレビにでてくる人間と赤ん坊は心の世界を共有することはできません。おかあさんが絵本をいっしょに読むとき、その物語を子どもとお母さんは共有しています。言語は世界を共有し、分かり合う道具なのです。個人の心も、その共有した心の世界の中で発達してゆきます。単にテレビとゲームを禁止するのでなく、子どもと共有する心の世界を広げてゆく努力が大切です。個体の内側も集合体の内側とともに発達してゆくからです。
個人の視点から書かれたたくさんの本があります。集合体(社会)の視点から書かれたたくさんの本があります。それらは間違いではありませんが、半分の真実でしかありえません。たとえば、五人家族に長期不登校の子がいたとして、問題は、家族全体(と社会)の問題と個人の問題の両方からアプローチすべきでしょう。個体と集合体は最初からともに並行して発達してゆくからです。
集合体(家族や社会)と個体のどちらか一方だけに究極の原因を還元(かんげん)してはいけません。私たちは、個人の発達と集合体の発達を並行的に追求してゆきます。

3)四象限

以上に述べてきたように、人間について考える時、心の内側と外側、個体と集合体の四つを考えることが必要です。すなわち①個人の心の領域、②個人の心の外側の領域、③集合体の心の領域、④集合体の心の外側の領域、この四つ領域です。この四つの領域を四象限といいます。
この四つの領域は一つのものとして展開してきました。したがって、問題の解決を考えるにあたって、四つの領域すべて考慮に入れることが必要です。
上象限の①と②は「私」という言葉であらわせます。左下象限の③は「私たち」という言葉であらわすことができます。④の象限は「それら」です。「私」は自分の成長を追求しながら「私たち」として仲間とともに「それら」すなわちこの世界を良くするために、63億人すべての人が、戦争や飢えがなく暮らせる世界を最終的な目標として活動して生きてゆきます。これが「四象限」の生き方です。

第二章 ホロンとホラーキー階層とは

1)ホロンとは、この宇宙の存在単位

ホロンとは、この宇宙の「存在単位」のことです。その単位を大きくとっても小さくとってもホロンといいます。たとえば、原子⇒分子⇒細胞⇒・・・それぞれのレベルの存在の単位がホロンです。ですからこの場合、原子ホロン、分子ホロン、細胞ホロンです。
また物質圏ホロン⇒生物圏ホロン⇒人間圏(心圏)ホロンと大きく区切ることもできます。この「存在の単位」を逆にすることはできません。太陽系の地球という物質圏の中から生物圏が誕生し、生物圏の中から人間圏が誕生しました。物質圏を消し去るならば、生物圏も人間圏も存在しません。逆に生物圏、人間圏を消し去っても物質圏は残ります。物質圏よりも生物圏が、生物圏よりも人間圏の方が、宇宙は「深み」を増しているのです。より進歩したより「深い」ものは、より「少ない」です。人間は生物より「深い」存在ですが、数は生物より「少ない」です。それだけ、より「価値の深み」があるのです。
そして、この進化は、低次ホロンを「含んで超える」形で前進しています。生物は、物質の要素を「含んで超えて」まったく新しい存在になっています。人間は、生物の要素を「含んで超えて」まったく新しい存在になっています。(この論理ではゆけば、さらに将来の進化の中では、人間の要素を「含んで超え」たまったく新しい存在(聖者?)が集団的に出現することが演繹的に推測されます。すなわちブッダ・レベルの人が集団的に出て来る日が来るかもしれません)
人間は、物質圏ホロンを含み、生物圏ホロンを含み、その上に心圏ホロン(言語圏)を成立させた存在です。どのホロンレベルも人間にとって大切です。フロンガスによるオゾン・ホールの問題、二酸化窒素排出による地球温暖化、以前の地下核実験などは、物質圏ホロンという人間存在の土台を自分で堀り崩していることです。これは高位ホロンによる下位ホロンの「抑圧」といい、地球温暖化を防ごうとする「京都議定書」の取り組みは、その「抑圧」を取り除き、人間圏の土台を回復しようとする取り組みです。
生物圏の維持も人間圏にとって大切です。DDTという農薬によって小鳥が死んでゆくという生物圏の「抑圧」は、同時に生物圏をその内部に含む人間圏をむしばむことを証明したのが1960年代のレイチェル・カーソン女史でした。最近では、環境ホルモンという人間がつくった化学物質が、日本周辺の巻き貝の多くをメス化していることが明らかになっています。これが、人間の性同一性障害者を増やしていないと誰が言えるでしょうか。環境保護の取り組みによる、この人間による「生物圏」への「抑圧」の除去は、より高次の存在である「人間圏」の健全さを保障します。
さらに人間圏では、「心圏=言語圏」が発達します。「心圏=言語圏」が人間集団の相互理解と発達を促すものでなくては、人間の姿をした獣になります。すなわち「生物圏」に退行します。毎日、エログロビデオという俗悪文化に影響されて、連続幼女殺人事件をおこした青年などは、まさしく生物圏に逆もどりしたことです。はじめから生物圏の動物に生まれていたら問題ないですが、人間の知的能力を身につけていますから、いっそう恐ろしい存在になります。

2)「含んで超える」ホロンの構造

 さて、今度は、ホロンを小さく見てみましょう。
 まず、物質圏に例をとりましょう。原子⇒分子⇒細胞⇒・・・この順序でこの宇宙に出現してきました。これを逆にすることはできません。原子を「含んで超えた」存在が分子です。分子は原子からなっていますが、原子を超えた存在です。同じように細胞は分子からなっていますが、分子を超えた存在です。
次に生物圏を考えてみましょう。生物進化の学説はいろいろありますが、先行する生物を「含んで超える」進化をしてきたことは確実です。私たちは、単細胞動物から出発し、海中で脊椎のある魚類となり、肺と手足を獲得して陸にあがりました。私たちの内部に細胞を含み、脊椎を含み、肺と手足を含んでいます。単細胞動物が出現しなかったら、海中に脊椎をもつ魚として進化しなかったら、私たちはありません。
次に心圏(言語圏)を考えてみましょう。人間が登場する中で宇宙の進化は、言語による心の世界を生み出しました。
赤ちゃんは、まず単語⇒文節⇒文の純で言葉を獲得してゆきます。「ママ」⇒「ママ・マンマ」⇒「ママ、マンマ、ホチイ」となります。おそらく100万年前の人類も、単語⇒文節⇒文の順で話し言葉を獲得しただろうと思われます。文節は単語を「含んで超えて」います。文は文節を「含んで超えて」います。単語が登場しなければ、文の世界はありません。
さらに「文字コミュニケーション」ホロンが出現します。文字は、口で語る言葉を「含んで超えて」います。口で語った言葉は、その時、その場にいるものにしか伝わりません。しかし、文字は、話し言葉のもつ時と場所の限界を打ち破りました。それによって心圏は飛躍的に拡張しました。
さらに今日、文字をインターネットや携帯で伝送して、複雑な情報や思想を世界中に瞬時に伝えることができるようになりました。このコミュニケーションの発達は、心圏のさらなる拡張を予想させます。そしてこのインターネットによる新たな「電送コミュニケーション」ホロンも、「話し言葉コミュニケーション」ホロンと「文字コミュニケーション」ホロンを内部に「含んで超えた」存在です。この世のすべては「含んで超える」形で発達してきました。

3)ホラーキー階層構造の社会とは何か

ホロンという言葉は、hol(=全体)とon( =部分)からつくられました。すなわちこの世に存在しているすべては、『部分/全体』からなりたっているということです。すなわちこのコスモスのすべての存在単位ホロンは、下位ホロンに対して「全体」であり、上位ホロンに対して「部分」です。
「原子⇒分子⇒細胞」を例に考えてみましょう。一個の分子は、下位ホロンの数多くの原子の集合体です。したがって、分子は下位の原子ホロンが統合された『全体』です。他方で、多数の分子が集合し、統合されて細胞が成立します。したがって、分子は上位ホロンの細胞から見れば、『部分』です。すなわちホロンとは『部分』であり、かつ『全体』です。
「文字⇒単語⇒文章」を例に考えてみましょう。一個の単語は、下位ホロンであるいくつかの文字の集合体です。したがって、単語は下位の単語ホロンが統合された『全体』です。他方で、いくつかの単語が集合し、統合されて文章が成立します。したがって、単語は上位ホロンの文章から見れば、『部分』です。すなわちホロンとは『部分』であり、かつ『全体』です。
このように、この世に『部分』だけのものはないし、『全体』だけのものはありません。
職場の組織である「チーム⇒課⇒部」を例に考えてみましょう。たとえば、事業部の中に製品開発課があり、特定の製品を開発しているチームがあるとしましょう。製品開発課は、下位ホロンであるいくつかのチームの集合体です。したがって、課は下位のチーム・ホロンが統合された『全体』です。他方で、製造部などいつくかの課が集合し、統合されて事業部が成立します。したがって、課は上位ホロンの部から見れば『部分』です。すなわちホロンとは『部分』であり、かつ『全体』です。
この世は『全体』かつ『部分』である存在単位が無限に階層的につらなっています。
ただし、人間社会のホロンのほとんどは、上意下達のヒエラルヒー構造になっています。ヒエラルヒーという言葉はもともと階層を意味していましたが、上の階層が下の階層を支配する構造をさす言葉になりました。この場合、上位ホロンが下位ホロンの「主体性と連帯性」のバランスを崩し、「抑圧」の病理を引き起こす可能性が大です。分子は原子に命令しません。原子が自主的に活動し、協力して上位ホロンの分子を成立させます。細胞は分子に命令しません。分子が自主的に活動して上位ホロンの細胞を成立させます。
上位ホロンである人間の身体が動けば、細胞も分子も原子もいっしょに動きます。しかし、上位ホロンが下位ホロンに命令しているのではなく、場をコントロールしているのであって、あくまですべての下位ホロンは自主的に活動しています。
会社組織のような上位下達のヒエラルヒー階層と区別して、ホロンの正常な階層は、ホラーキー階層(またはホロン階層)と呼ばれます。
ソ連の「社会主義」経済は、上位下達のヒエラルヒー構造でした。そして私たちの「資本主義」経済もまた、上位下達のヒエラルヒー構造です。私たちは、下位ホロンが「主体性と連帯性」のバランスを発揮して上位ホロンを構成してゆくホラーキー階層構造の社会をめざすことが必要です。

第三章 ホロンとしての個人のあり方

1)ホロンの二つの性質・・・自律と協力

分子を構成している原子ホロンは、二つの側面をもっています。それぞれが自己決定して運動(エイジェンシー)している側面と互いが一定の関係(コミュニオン)をもって、上位ホロンである分子を構成している側面です。
原子どうしで命令や従属があるわけでもありませんし、上位ホロンの水分子の指示にもとづいて原子が運動しているわけではありません。水が移動すれば、それを構成する水素原子と酸素原子も移動します。その場合は、上位ホロンの水分子は、下位ホロンの原子が自己決定する「場」に影響を与えているのであり、原子の自己決定の運動に介入し、原子を従属させているわけではありません。
人間の個体ホロンも、エイジェンシー(自己決定して活動する性質)とコミュニオン(他者の関係性)の二つの側面をもっています。「権利と義務」「自由と責任」「自立と連帯」「自律と協力」などの対句は、人間ホロンがもつエイジェンシーの側面とコミュニオンの側面を表現したものです。
まず、人間としての個体ホロンが成立するために「権利」や「自由」「自立」(すなわちエイジェンシー)が保障されなくてはなりません。「自立」の保障とは生存の権利です。さらに心の内側の権利(思想・良心など精神の自由)と心の外側の権利(身体の自由)の権利が保障されなくてはなりません。
他方、家族、職場、地域、サークルなどの集合ホロンを形成するために他の個体ホロンと「関係性」(コミュニオン)をもちます。「義務」「責任」「協力」という資質は、人間という個体ホロンのコミュニオンの側面をあらわします。
その際、エイジェンシーとコミュニオンのバランスが大切です。たとえば、職場という集合ホロンの中で、ボス化した個人やグループが出現して、同一ホロンレベルの他のホロンを圧迫するならば、増殖するガン細胞が他の細胞を圧迫して問題を引き起こすように、エイジェンシーの「肥大化」の病です。圧迫された他のホロンはエイジェンシーの側面が縮小し、ボスに気をつかって迎合するという関係性(コミュニオン)の問題が生じます。その場合は深く統合された意識をもつ集合ホロンは成立しません。
また、上位の集合ホロンである国家ホロンレベルや企業の幹部ホロンレベルが、下位ホロンに対して「義務」「責任」「奉仕」など、上位ホロンへの服従的関係(=コミュニオン)のみを求め、「権利」「責任」「主体的な自己決定による活動」(=エイジェンシー)を尊重しないならば、それは、上位ホロンによる下位ホロンへの「抑圧」の病です。
私たちは、「自由と責任」「権利と義務」「自立と連帯」の二つのバランスのとれた生き方、すなわち「エイジェンシー」と「コミュニオン」のバランスのとれた生き方をする必要があります。これは、万物のあり方に合致した生き方です。
上位ホロンが、自分たち下位ホロンの「自由と権利」を尊重せず、「責任と義務」という服従のみを求めてくるならば、私たちは正しい生き方ができるように闘わなくてはなりません。それは上位ホロンによる下位ホロンの「抑圧」の除去です。
また職場内の個人やグループが「肥大化」してボス化しているならば、それを適切なホロンの大きさに縮小させ、上位集合ホロンを構成するすべてのメンバーの深い内面的な統合が可能になるように取り組むことが必要です。

2)人間ホロンの特質・・・四方向のバランスをはかる

原子ホロンと人間ホロンでは決定的な違いがあります。原子は物質圏に属しますが、人間は、物質圏⇒生物圏⇒心圏というふうに前者を含んで超えて発達し、心圏を成立させた存在です。発達した明瞭な意識をもった存在です。
それゆえ人間は心の内側と外側をもった存在です。身体やふるまいという外部から観察可能な領域と外部から観察することが不能な心の中が存在します。したがって、人間存在は、内面の発達と外面の発達を考えにいれなくてはなりません。
四象限の説明として真ん中に上下の線と左右の線をひきました。上下の線は、上に行くほど、自律性(エイジェンシー)が強いことです。下に行くほど、関係性(コミュニオン)が強いことです。左右の線は、左に行くほど内面の方向に進み、右に行くほど外面の方向に進みます。
人間ホロンは、この上下左右の四方向のバランスがとれた発達を必要としています。上下のバランスが崩れたらどうなるでしょう。たとえば、不登校は、他者との関係性(コミュニオン)の力が弱く、上の自律性(エイジェンシー)の側面だけに片寄った発達が背景にあると考えられます。逆に自律性が弱いまま関係性重視の方向に強くでると、主体性なく周囲に服従する人になるでしょう。
左右のバランスがくずれたらどうなるでしょうか。現代は、左よりも右の方向が重視されます。それは何をもって幸福とするかに典型的に現れています。日々、テレビのコマーシャルでは多様な商品の入手の中に幸福にあるかのように宣伝されます。しかし、左側の深化、すなわち心の発達をともなわないならば、どのような商品を手に入れても、心は満たされないでしょう。
もちろん、右の方向を無視して、左側の心の世界の追求のみに走っても心は満たされないでしょう。右と左はバランスよく発達させゆくことが必要です。

3)左側の方向、すなわち心の深化とは何か。
心の発達は、知識や知的能力の側面だけから論じられています。たとえば、地図の上でイラクの場所が正確にわからない学生が多いニュースとか、国際比較テストで小学生の理科のテストの順位が下がったなどです。そうした側面も大切ですが、心の外側のふるまいの発達に対応した心の深化とは何を意味するのかを説明します。
心の深化とは、心の中心点の「セルフ=私」の深化であり、それによる心の統合力の強化です。心は三つの部分からなりたちます。目を閉じて花を思い浮かべてください。心の材料の一部が花の形をとっています。それが心の一つ目の部分です。心の作業の結果の部分です。さらに二つ目の部分、思い浮かべ、それを見ているという作業をしている部分があります。目を閉じたまま、思い浮かべるのをやめて花を消します。それでも「私は存在する」という感覚が残ります。それが第三の部分「セルフ=私」です。私たちは、普通、「セルフ=私」を意識することなく、心は、忙しく様々な作業をし、その結果を生み出しています。
大切なことは、第三の部分である「セルフ=私」のコントロール力が強化されることです。目を閉じて、思い浮かべる作業をやめようとしても、コントロールできず、様々な思考活動とその結果が次々と生じます。心が外界をコントロールすることが「自由」です。しかし、「セルフ=私」が、自分の心をコントロールできなければ、その人は本当に自由ではありません。
たとえばストーカーは、「セルフ=私」が、思考活動とその結果をコントロールできなくなった極端なケースです。またある考え(ドグマ)に凝り固まった人も、思考活動とその結果のパターンが融通きかなくなっていることであり、「セルフ=私」がコントロールできていませんから、本当の意味で自由ではありません。いろんな思いがかけめぐって眠れない日はないでしょうか。それは思いをコントロールできていないのです。
自分が多様な能力を高め、多くの知識や技能を得た場合、それらをコントロールすることができなければ、暴走する思考活動にふりまわされる人生をおくることになり、苦渋の内面生活となります。多様な能力を発達させ、知識を増やせば増やすほど、「セルフ=私」のコントロール力、統合力の強化が必要なのです。静かに思索する時間は、そうした統合力を強化します。目を閉じて、思考活動とその結果を消し、「セルフ=私」だけになる黙想のレッスンは、自分の心をコントロールする力を高めます。
心を池としましょう。池の表層の波立っている部分は、外界に反応している部分です。池の中層の部分は、思考活動している部分です。池の深部は「セルフ=私」の部分です。子どもは心の中心点を池の表層においています。思慮深い大人は、心の中心点を池の中層深くに心の中心点をおいています。さらに傑出した沈着冷静な人は、池の深部の「セルフ=私」に心の中心点をおいています。
(さらに心の奥底があります。黙想によるスピリチュアル・プラクティスを長く実行していると池の底の水の湧き出るところ深く進み、その人の中心点が、すべての人々の心を自分の心と感じるところまで進みます)
このように心の深化とは、心の中心点をどこにおいて生きてゆくかです。心の表面におくほど動物に近い生き方であり、心の奥底におくほど人間としての高いレベルにあります。心の深化に対応して、その人のふるまいにあらわれ、立派な人であることは他の人にわかるようになります。

第四章 ホロンとしての家族

1)家族のメンバーの自律と協同

家族は、人間の集合(=社会)ホロンの最小の基本的な単位です。人間は家族生活を営みながら日々の生活を送り、次の世代を育てます。家族という集合ホロンのバランスが崩れるならば問題が生じます。
まず家族の構成員(=個体ホロン)の側から見てみましょう。今日の家族の中心は夫婦です。二人が個人としての自由、自立、自律(エイジェンシー)と責任、協力、連帯(コミュニオン)のバランスがとれている人間であるかは大切です。たとえば、夫婦のどちらか一方、あるいは両方が、自由と自律の側面(エイジェンシー)のみに片寄っている場合は、対立が絶えません。現在は、家族の中の個の自由、すなわちエイジェンシーの側面が強調されすぎて、家族の崩壊が進んでいるように思えます。解決は個人の自由(エイジェンシー)と責任(コミュニオン)のバランスの回復の追求にあります。
性別役割分担について多く議論されています。これは責任(コミュニオン)の問題であり、バランスの回復のために大切な問題です。家庭内の役割分担はこうあるべきだということは決まっていません。夫婦の状況に応じて役割分担は変化します。状況に応じた適切なものかがどうかが大切です。たとえば、結婚当初は、夫だけが働いていたが、妻も働くようになった。それなのに家事の分担は変わらなかったということでは、役割分担のバランスはくずれ、その家族ホロンは病を抱えたものになり、その病はいずれ表面化します。
次の世代を育てる子育てについても、この二つのバランスをとることが大切です。まず、自分のことは自分でできるように自立(エイジェンシー)の力の育成が大切です。しかし、友だちと遊ばせず、自分の部屋でファミコンばかりやっているということでは、協調性(コミュニオン)の力が育ちません。
そして、家庭内で年齢相当な役割を与え、適切な役割を担う力(コミュニオン)を育ててゆかなくはなりません。

2)家族ホロン 

次に家族を一つの単位(一つの集合ホロン)としてみてゆきましょう。今日の家族の病理も上下左右のバランスがとれているかという視点から見ることができます。
上下とは、上の方向が家族としての自立(エイジェンシー)の側面であり、下の方向が他の家族との協力(コミュニオン)の側面です。自立のためには経済的に家族を支える雇用と収入が保障されることが不可欠です。しかし、今日の経済状況は、各家族に不安な生活を余儀なくさせ、自立を困難にしています。また不規則な労働時間や長時間労働は、家族の生活だけでなく近所とのつきあいや町会などの自治組織に出席するためのゆとりを失わせています。
家族ホロンとしての自立と協調のため、安定した労働と収入が可能な社会をめざさなくてはなりません。
左右とは、左が家族の心の内面の共有化であり、右が家族生活の心の外側です。現在の家族は心の外側のみに関心が向かい、左右のバランスが崩れ、家族崩壊の原因になっています。テレビのコマーシャルは人々に豊かな消費生活の中に幸福があると思わせます。親は、ローンで高額の住宅を入手し、ローンの返済に追われます。若者は車のローンに追われ、高校生は携帯の代金のためにバイトに励みます。これらは、すべて物質的な追求です。今日の文明は右側の方向のみをあおるものになっています。
熟年離婚が増え、長年、家族の生活を支え、会社人間として働いてきた夫は、定年後、妻から離婚を言い渡されます。これも家族生活における左側方向を無視して、右側方向に片寄った生き方による家庭崩壊のあらわれです。すなわち会社内での地位確立に全力を尽くしながら、妻や子どもと共有する心の世界をつくることをおろそかにしてきた生き方の帰結です。
家族の心を一つにする生活がなくなっています。たとえば、昔、食事の時は、テーブルを囲む家族のコミュニケーションがありました。現在は、テレビにむかう食事となりました。意識的に家族同士の自然なコミュニケーションの機会をつくらなければ、どんな豊かな生活をおくっても、家族の心はバラバラになります。忙しい生活の中で、家族全員が共有する心の世界をいかにつくるか、これは今日のすべての家族に課せられた課題です。

第五章 ホラーキー企業論

1)ヒエラルヒー型からーホラーキー型の階層の企業へ
今日の企業は、そのほとんどが上意下達のヒエラルヒーの階層構造です。会社幹部⇒中間管理職⇒現場チームというふうに決定権は上部にあり、下部に命令が下ります。
これに対してホラーキー階層構造では、現場チームが決定権を持ち、中間管理職はいくつかの現場チームの決定を調整して、会社幹部に伝えます。このようなホラーキー階層構造の会社は単なるユートピアではありません。
NHKスペシャルに興味深い番組がありました。(NHKスペシャル「変革の世紀 第2回 情報革命が組織を変える ~崩れゆくピラミッド組織」2002年5月12日放送)一言でいうと20世紀がヒエラルヒー階層制の時代であり、21世紀はホラーキー階層制に向かうことを暗示したものでした。すなわち、20世紀のはじめフォード自動車が上から下に命令する徹底したヒエラルヒー階層制を採用して成功しました。ところが、21世紀を迎え、フォード自動車は、組織の最下部の働き手に決定権を与えるホラーキー階層制への改革を行って成功しつつあるというのです。
顧客の要望に応えて現場チームの相違工夫が発揮できるように製造現場のチームに決定権を与える改革をしたのです。中間管理職は、上部の意向を伝えるのではなく、下部の相違工夫を発揮させ、下部の決定を調整し、上部に伝えることが任務になりました。これは、もちろん資本主義システムの枠内の出来事ですが、労働現場のホラーキー化の大きな前進です。
これとは、逆に、日本では、旧来の終身雇用制に対応する賃金システムが崩され、社員の働きを評価し、賃金に反映させ、社員同士を競争させることで、成果をあげる試みが広がってきました。これは上意下達型ヒエラルヒー強化の退行にほかなりません。この個人に成果を競わせる方式をもっとも早く取り入れた富士通は、この方式に行き詰まり、04年2月に廃止し、チーム単位でその成果をみるシステムに変えました。
個人の給与と結びつけて個人を競わせることは、第一に自律(エイジェンシー)と協力(コミュニオン)のバランスを崩します。すなわち自分の成果はあげようとしますが、チーム内の他のメンバーの成果のあがることを援助しません。第二にチームとしての心の内側と外側のバランスも崩壊します。すなわち互いに実利のかかわる対立関係におかれることによって、チームとしての心のまとまり(統合)が破壊されます。したがってそれらのバランスの崩壊は、生産性にも響きます。
富士通は、今度は、個人ではなくチームを評価して、競わせて、競争をあおることに変えました。しかし、チームに切り換えても同じ問題が残ります。第一にチーム同士の協力関係を疎外し、第二に会社としての内面的な統合を崩壊させます。
ホラーキー階層の理念を取り入れ、現場の個人、チーム、部、会社役員などの各ホロン・レベルが「自律と協力」のもとに上位ホロンを形成する構造に組立てる必要があります。

  2)企業ホロンの四象限

次に企業をひとつの集合ホロンと考えてみましょう。上下左右の四象限のバランス度がその企業の健全さを示します。
上の方向が自立(エイジェンシー)であり、下の方向が他の企業や社会との関係性(コミュニオン)です。左の方向が、社員の心の統合の深まりであり、右の方向が、心の外側であり、社員の身体やふるまい、会社の施設、設備などです。
アメリカの航空会社は、2001年の9・11テロの後、軒並み赤字に陥っていますが、サウスウエスト航空だけが良好な経営で注目を浴びています。この会社について四方向のバランスを簡単にみてみましょう。
まず上方向=自立を考えてみましょう。飛行地域を限定しており、地域に根ざしていることです。次に下方向=関係性の側面です。交通機関の生命である高い安全性を確保していることです。それは社会的責任(コミュニオン)の側面です。さらにその安全性は機体のメインテナンスを、機体を製造した会社に外注することで可能になりました。これは他の企業ホロンとの適切な協力関係(コミュニオン)を示しています。
次に右方向=心の外側です。飛行機の機体をボーイング737に統一して、パイロットがどの飛行機もミスなく操縦できるように工夫したりしています。そして従業員のふるまいは、すべての作業について高いチームワーク、助け合いを示しているそうです。乗務員は歌を歌ったり、笑わせたりして自発的に乗客を楽しませるなど、お客さんへの奉仕精神も高いようです。
この目に見える右方向の優秀性を確保している背景に左方向、すなわち従業員の集合的心理の統合(まとまり)があります。まず首切りもレイオフ(一時帰休)もしない方針をとっており、従業員は解雇されない安心感があります。会長は「わが社は、社員をとても大事にする。株主と顧客と社員と、『どの人が一番大事か?』と聞くのなら、私は『社員』と応える。・・・わが社は、社員の誕生日を祝ってあげたり、ケガで職場を離れている社員ですらも電話して様子をうかがったりと、なにしろ社員一人一人に気を配ることを忘れない」と述べています。従業員を家族の一員のように扱い、従業員同士がお互いに打ち解け合えるように取り組み、定期的に従業員が職場に子どもを連れてきたり、夫婦同伴で会社の行事に参加したりしているそうです。
会社の部長は「社員の85%は労働組合に所属しており、組合もパートナーとみなす。経営者と社員、顧客すべてがパートナーの関係で結ばれているのがサウスウエストの企業文化」と説明しています。
首切りへの不安がなく、職場の中に助け合う文化をつくっていること、この高いレベルの従業員の意識統合が、サウスウエスト航空の良好な経営につながっていると一要因だと考えられます。
サウスウエスト社の取り組みとは逆に、今日の経済改革は、左右上下のアンバランスを激化させています。「勝ち組、負け組」の言葉に象徴されるように、目に見える観察可能な成果のみを問い、成果のあがらぬものを無能としてリストラの対象とし、単に仕事をこなさせる派遣労働者を増やし、ギスギスした職場環境をつくりだしています。すなわち左(心)が貧困なものとなり、右(物質、外的なもの)に片寄ったアンバランスがあります。
そして上(自立=エイジェンシー)下(協力=コミュニオン)もアンバランスです。自立(エイジェンシー)の側面は低下しています。進む不良再建処理の中で、銀行の貸しぶりがあり、中小企業の倒産が進みました。より資本力のあるころに吸収されるか、または従属するかです。
そして企業の生産拠点の海外移転が進んで、地域の産業空洞化が進み、賃金低下や失業など生活の不安定化を引き起し、地域社会における企業の貢献度(コミュニオン)は低下しています。
企業同士の関係(コミュニオン)は、企業や銀行の合併の形でより、少数の巨大企業に富が集中するように進行しています。これは、自立した企業ホロンの連帯・協力ではなく、進んでいるのは、肥大化したガン細胞化と同様の社会における病理化です。富が少数者に集中すれば、貨幣が多数者のところを回転しなくなり、社会的不均等を激化させます。 なお、企業ホロンの対等の協力の例としては、ビデオが通産省の仲介でVHSに規格が統一されたことなどがあげられます。これは消費者に有益な企業同士の協力でした。

第六章 ホラーキー型階層構造の企業へ 

1)ホラーキー階層構造と経済民主主義

上意下達のヒエラルヒー構造ではなく、ホラーキー階層の考えを押し進めてゆくと、経済民主主義の考えに至ります。たとえば、製造現場チームの代表を係長とすると製造現場全体の代表の集まる係長会があります。係長会の代表を製造部長とするならば、製造部長は営業部長など他の部門とともに部長会を構成します。それが支社なら部長会なら代表が、本社の役員とともに役員会を構成し、その代表が社長となります。
現在の資本主義は、その逆であり、会社にたくさん投資した株主が経営者を指名する形であり、その経営者のもとに上から部長以下が任命されてゆく上意下達のヒエラルヒー構造です。したがって経営者と一般労働者の給与の格差が大きなものとなります。たとえば、アメリカでは、生産労働者の週の収入は、1972年の315ドルで1997年の260ドルへと17パーセント低下している期間に企業幹部の実質賃金は、175パーセントの上昇でした。一部の人への富の集中が進み、一般の人々の購買力が向上していません。日本も同様のことが進んでいます。
下部から民主的に企業の経営陣を選出するホラーキー構造にするならば、一般の従業員の賃金が下がっている時期に経営者の賃金が大きく上昇するようなことは生じません。
ホラーキー型民主主義構造の会社を実現しようとすると、その会社の株の過半数を社員が所有するシステムにしなくてはなりません。過半数の株を社員が取得することで、その会社は社員の共有となりますから、現場チームの係長を選出し、その上部を選出し、最終的に社長を選出する経済民主主義が可能になります。
さきほど紹介したサウスウエスト航空は、従業員持ち株制度を実施し、社員が株の10%を保有しています。自己資本比率50パーセントをめざしていますが、95年に自己資本比率は32パーセントでした。
もし、株の過半数を社員が保有することができれば、意志があれば、会社内部の完全なホラーキー階層化を可能にします。仮にサウスウエスト航空がホラーキー型の階層構造になり、会長が民主的に選出される民主主義経済システムになったとしても同じ経営陣が選出されるでしょう。
ユナイテッド航空は1990年代の倒産の危機の時、労働組合が株の51%をローンで購入し、労働組合が経営陣を雇っている形になりました。賃下げに合意するかわりに、レイオフしないことを決めました。そして倒産の危機を脱しました。経営陣と従業員の賃金格差は縮小しています。意志があれば、会社内部の階層組織をホラーキー民主主義型にすることもできます。
社員が株主として自分の企業を共有することは、協同組合化です。社員が共有している協同組合企業の方が高い生産性を示している例は各国にあります。

2)ホラーキー社会における経営の三形態

ホラーキー型経済民主主義では、経営には三つの形態がありえます。
一つ目は個人経営です。たとえば、理容室、町医者、歯医者、レストランなどのように、従業員が一つか二つのチームとして可能なほぼ2~30人までの人数の場合です。もちろん拡大をみこして協同組合形態で経営することも可能です。
二つ目は協同組合経営です。これまでに述べてきたように下から積み上げてゆくホラーキー階層型民主主義構造になります。
三つ目は、政府や自治体から独立した「公社」タイプの自治的な団体です。たとえば、港湾事業、電気、水道、ガスなどのように事業規模が大きく、公共性が高い部門が、非営利で経営されます。内部はやはりホラーキー型民主主義の階層構造になります。
なぜ、従業員の共有する企業(協同組合)形態の方が望ましいのでしょうか。
資本主義企業は、広範な個人所有の小経営が成立したところに発達しました。たとえば、小経営の例として農具の鍬(くわ)や鎌をつくっている村の鍛冶屋をひとつの集合ホロンとしてイメージしてみましょう。仕事場、道具(左側)は、その職人が自分のものという意識(右側)と対応しています。右側と左側が紙の裏表のように一体です。内部の個人と集団の関係もまとまりやすいです。四象限が狭い範囲で統合されています。
村の鍛冶屋ホロンが、1000人の従業員のいる農具をつくる工場ホロンに発達したとしたします。
仕事場や道具・機械(右側)は、資産家である株主のものであり、従業員が自分たちのものだと認識(左側)できません。右と左が分離し、勤労意欲が低下します。そこで、従業員に働かせるためには、上からの管理を強めざるをえません。あるいは、従業員を互いに競争させて「自発的」性を高めようとします。そのため1000人の従業員の集合心理(左下)は、バラバラなものとなり、ひとつに統合されません。
1000人の従業員の階層システム(右下)は、上意下達のヒエラルヒーとなり、「抑圧」の病理を内部にはらまざるをえません。
したがって、解決は、①企業の内部がホラーキー型民主主義になることであり、②従業員がその企業の共同所有者になることです。すなわち協同組合化です。
株式会社の場合は、従業員の組合が株の過半数を所有することで、協同組合化と内部組織のホラーキー型民主主義が可能になります。
社会主義革命では、生産手段の国有化がありました。国有化は、上意下達のヒエラルヒーからの労働者の解放ではありませんでしたが、それになぞらえて言うならば、ホラーキー革命では、たとえば従業員30人以上の企業は協同組合化と内部組織のホラーキー型民主主義を義務づけられるでしょう。今日のヒエラルヒー型資本主義は、ホラーキー型経済民主主義の社会に前進します。
現在の資本主義の条件のもとでも、ユナイテッド航空のように労働組合が株の過半数を取得することが可能です。その場合、協同組合化とホラーキー型民主主義階層制をめざす社会的合意が広がっていれば、内部をホラーキー型民主主義に改革することができます。あるいは、今日の資本主義のもとでも進取の精神をもつ経営者がおり、従業員の合意もあるならば、協同組合化とホラーキー民主主義の企業にすることもできるでしょう。
封建社会から資本主義社会に進む時、封建社会の中に資本主義の要素が発達しつつありました。同様に今日の資本主義の中に資本主義を超える要素として、ホラーキー民主主義型企業が発達してゆきます。たとえば今日のコンピューターソフトの開発など、高度な知的活力を要する労働は、ヒエラルヒー型の内部組織の企業は、ホラーキー型の労働者所有の協同組合的企業に敗北します。
そのような企業は、協同組合化とホラーキー化のビジョンによって資本主義を超えようとする人々の闘いを支援してゆくでしょう。

第七章  地域経済のホラーキー階層構造

1) ホラーキー階層型の地域経済

ホラーキー階層とは何かをもう一度思い出しましょう。多様な原子ホロンが集まって分子ホロンが構成されます。たとえば、水素原子や酸素原子が水分子を構成します。多様な分子ホロンが集まって細胞ホロンが構成されます。たとえば、細胞ホロンの内部では、多様な分子が自己決定しながら活動し、多様な原子が自己決定しながら活動しています。上位ホロンは、下位ホロンが活動する場に影響を及ぼしますが、個々の分子や原子に指示を与えているわけではありません。
多>一⇒多>一⇒多>一⇒・・・という風にこの世界は下位レベルの自己決定にもとづく「多様性における統一」の重層構造で成り立っています。
以上の理解を念頭において、地域経済のホラーキー型民主主義をイメージしてみます。
地域経済単位としてブロック⇒小地域⇒中地域⇒大地域⇒極大地域のレベルを設定します。ブロックがいくつか集まって、小地域が成り立ちます。小地域がいくつかあつまって中地域がなりたちます。
最下部のブロックが、短期的な経済計画を立てる権限があります。ブロックの代表が小地域の社会経済委員会を構成します。ブロックから持ち寄ったプランを調整して小地域の短期の社会経済開発プランを決定します。小地域から中地域の社会経済委員が選出されます。中地域の社会経済委員会は、小地域の領域を超えるテーマ、たとえば河川の整備とかなどについて調整と計画を立案します。以下、同様に決定は下部から上部へと立ち上ってゆきます。上部ホロンは下部ホロンに影響を及ぼしますが、個別的に指示・命令するわけではありません。下部ホロンとしての地域は、それぞれが自己決定権をもってうごいてゆきます。自己決定(エイジェンシー)しながら、近隣地域と調整・協力(コミュニオン)して上位のより多く含む広域の地域を構成してゆきます。
このようなホラーキー型経済民主主義のビジョンは、現実に生じている諸問題を克服してゆく方向性を指し示してくれます。
長野県の野沢温泉村のスキー場は村営です。地域でスキー場の経営について決定できます。もし、スキーというレジャーが衰えて採算がとれなくなっても、その後をどうするかは地域の住民が決定することができます。おそらく様々な工夫を加えて客を集めて、経営存続をはかるでしょう。他にも村営は群馬県赤沢スキー場、北海道猿払スキー場、新潟県三川温泉スキー場などなど全国にあります。
しかし、多くのスキー場は、外部の人が存続や廃止を決定することができます。
たとえば、西武グループの資本のもとで経営されている東北、北海道、新潟のスキー場のいくつかは、年間収支が赤字となっています。堤元会長失脚後、いくつかのスキー場の廃止が検討されています。西武がそれらのスキー場の経営から撤退すると、関連する地域経済は大きな打撃を受けます。
村営の野沢スキー場は、地元の人が決定権をもっています。しかし、西武資本の経営するスキー場は、東京に生活する人が決定権をもっています。
このような非民主的な経済をこれからいかに民主化して、地域の人々が経済決定権をもっている社会にしてゆくかという課題はあります。たとえば、将来性があれば、行政の援助のもとでスキー場をローンで従業員組合が購入することも考えられます。
しかし、もし、地域経済についてのホラーキー型民主主義の考えが広まっていたら、町や県の担当者が、スキー場建設にあたって村営もしくは協同組合型を検討していたでしょう。

  2) 経済民主主義と地域経済

ホラーキー階層の考えを押し進めると、地域の人々が決定権をもつ経済民主主義システムとなります。そのためには地方の支社は本社と対等の決定権をもたなくてはなりません。したがって、企業内部のホラーキー階層化は、地域が決定権をもち、決定が下から上に立ち上ってゆくホラーキー地域経済の実現と平行して進んでゆきます。そうなると企業の活動が真に地域住民に貢献することが可能になります。
しかし、今日の経済では、大きな企業は本社と支社をもち、国内外に展開しています。それらは、本社の幹部が、別の地域に住む人々に命令を下すことのできる中央集権的ヒエラルヒー階層です。その地域に住んでいない遠方の人が、地域経済に多大な影響を及ぼす非民主的経済システムです。この点では、今日の資本主義は、ソ連の社会主義がモスクワから地域の経済を決定していたのと同じです。
アメリカ型の開発が世界の人々を救うと信じていた中米や東南アジアで経済開発を指導していたスタンフォード大学のデビット・コーテン経営学博士は、それが多くの人々の生活を破壊している現実にふれ、1990年代に入り巨大企業の支配する世界からの脱却を説くようになりました。「現代の大会社をみると、旧ソ連などとは比べものにならないほど、生産ネットワークをがっちり支配下におさめている。本社は従属部門を思いのままに買収し、売却し、解体し、閉鎖する。世界中どこへでも生産施設を移転させ、下請会社と親会社の利益配分を勝手に定め、子会社幹部の人事権を握り、下請業者の取引価格や条件を決め・・・・これらの会社が全体主義国家に引けをとらないほど権威主義的な支配構造と抑圧的な性格をもつのは、決して単なる偶然ではない。大会社で働く人々は、服装、話し方、価値観、行動、そして所得水準に至る まで、上から押しつけられた規則に縛られている。しかも、異議を唱えるチャンスはほとんどない」(デビッド・コーテン『グローバル経済という怪物』シュプリンガー東京、1997年、282ページ)
そしてデビット・コーテンも、協同組合化と地元コミュニティの経済決定権によって、大企業に権力が集中しつつある現在のシステムを乗り越えるビジョンを説きます。
支社が本社と対等の決定権をもつようになった段階では、民主的に選出された支社の幹部は、地域の他の経営体との連携をつよめてゆくでしょう。選出された経済指導者たちは、その地域の住民でもあり、環境や住みやすさに配慮した地域の経済活動のリーダーになってゆくでしょう。 

3)地域の人々が経済主権をもつ民主主義経済へ

地域の人々が経済決定権をもつ民主主義経済が大切であることを、農業を例に考えてみましょう。
日本の農業は、小土地所有の零細農家によって支えられてきました。しかし、農村から都市への人々の流出によって、働くものが高齢化し、後継者が減ってきました。そうした中で、平成11年の「食料・農業・農村基本法」に「農業経営の法人化の推進」が明記され、出資一口一票の「有限会社」と一人一票の「農事組合法人」の設立が押し進められてきました。前者は会社形式、後者は協同組合形式です。この段階では、まだ地域の人々が自分たちの経済を決定することができます。
しかし、現在、農業に株式会社の参入が認められつつあります。これは、実際に農場のある地域から遠くはなれた本社幹部が決定権をもつ、非民主主義的経済です。
2002年から政府は、構造改革特区の名のもとに株式会社の農業参入を認め、現在、65の特区で株式会社が参入しています。さらに2005年の今日、政府は、全国すべてで株式会社参入を認める方針をだしました。たとえば「カゴメ」が和歌山県にアジア最大のトマトの菜園を計画するなど、農業が東京などに本社がある大企業のビジネスチャンスの場になろうとしています。
しかし、99年に農業に参入した「日本タバコ」と「オムロン」は3年で撤退しました。企業は利益が上がらなかったら、その地域から撤退します。大きな企業の農業参入によって、地域の人々が何を植えるか、どのように経営するかなどの経済決定権は奪われ、地域経済は不安定になります。
このような農業への株式会社参入の動きの背景には、競争力のない経営をつぶし、国際競争力のある大企業を優先する新自由主義的経済政策があります。それは、世界的に地元の人々の経済決定権を奪う、きわめて非民主主義的な経済政策です。
「アメリカから外国へ輸出される穀物の半分は、カーギルとコナグラが独占している。・・・巨大会社は市場を支配し、下請生産者との契約内容を定める。・・零細生産者に残された選択肢は、条件を呑むか、農場をたたむか、まだ巨大会社の手に落ちていない作物を見つけるか、三つに一つだ。・・・農家は作物を安く買いたたかれ、消費者は高く売りつけられる。巨大なアグリビジネスは、このシステムを世界中に広めようとしている」(デビット・コーテン『グローバル経済という怪物』シュプリンガー東京、286ページ)。
これは、巨大なアグリビジネス(世界の農業生産と流通を支配している大企業)が、各国の農業関連企業を支配し、それが下請業者や農家を支配するという非民主的ヒエラルヒー経済構造です。
地域の人々が経済決定権をもち、その決定が上部に立ち上る民主的ホラーキー階層構造の経済をめざす必要があります。それは世界的連帯を必要としています。

第8章 全地域レベルでのアプローチの重要性

1)上位地域ホロンの肥大化の問題点

ホラーキー型民主主義経済は、地域の全ホロンレベルでのアプローチを採用します。全レベルとは、ブロック⇒小地域⇒中地域⇒大地域の各レベルにのことです。あるレベルだけのが突出することなく、いずれのレベルの経済開発もバランスをもって追求されます。 現実には、大地域のレベルの突出した経済計画のみ追求され、予算が大地域レベルの事業計画にさかれることによって、中位レベル、下位レベルの予算を「抑圧」しています。
たとえば、大阪市では、ATC(アジア貿易センター)、WTC(世界貿易センター)などの巨大プロジェクトが莫大な赤字を出しつづけています。WTCの巨大ビルは、大阪市役所と外郭団体が、民間の1、5倍の家賃で、その7~8割の部屋を借りて、市民の税金をあてています。それでも年13億円の赤字をだしています。(ベイエリア研究会のHPより)、さらに大阪市には、他にも十を超える破産状態にある巨大プロジェクトがあります。
大阪府も関西新空港という巨大プロジェクトがあり、大きな赤字を埋めるために府民の税がつかわれています。それでも拡張工事がなされ、さらに近隣の神戸にも飛行場がつくられようしています。
ブロック、小地域、中地域の各レベルの経済的必要とのバランスからみて、上位レベルのこれらの経済プロジェクトがあまりに突出しています。
なぜ、このようなことがおきるのでしょうか。今日の政治民主主義では、大阪市や府の議会が経済計画を承認します。議会には、財界トップの推薦を受けて当選した人々が多数を占めていますから、ブロック、小地域には無縁の巨大プロジェクトが優先されることになります。したがって、経済には民主主義がありません。

2)下から上へのホラーキー型民主主義

ブロック、小地域、中地域へと経済決定が下から立ち上る形の計画ならもっとバランスのとれたものとなっていたでしょう。ホラーキー型経済計画が実現したイメージは次のようになります。
各ブロック(小学校区)の住民総会から社会経済委員を一人選出し、小地域(区レベル)の社会経済委員会を構成します。社会経済委員会は、区の協同組合連合会(区の企業のリーダー)と協議しながら、区の計画を立てます。そして区の社会経済委員会から中地域(大阪市)の社会経済委員が選出され、市の社会経済委員会が構成されます。このように経済計画は、下から上に立ち上ります。この構想では、市の社会経済委員会が市議会にあたります。
もちろん、大阪市には区議会すらありませんし、小学校区のブロックの住民総会から選出される社会経済委員などということは、当面は空論でしかありえません。そしてこのような直接民主主義と間接民主主義を組み合わせたシステムは、遠い未来のビジョンですから空想にすぎません。
しかし、各レベルの対案づくりの運動は現状のもとでもできます。世界社会フォーラムにならい、区社会フォーラムを開催し、よりよい区をめざしている様々のグループが集まって対案と一致点を深める場をつくります。さらに大阪社会フォーラムを開催して、大阪市や大阪府の片寄った経済開発に対する市民の側からの対案をつくるための討議の場をつくります。そうして市民的合意を広げる運動をします。この市民的合意は、議会を動かし、下位レベルの地域の必要に応える政策に転換させてゆく上で大きな力になるでしょう。

第9章 自立と協力の地域経済へ

以上、ブロック、小地域、中地域をはじめとする下位から上位へのホラーキー全階層レベルを尊重すべきことをみてきました。
このような地域経済それぞれのホロン・レベルにおいても個体ホロンとしての四象限があります。
まず、右側(心の外側)象限における当該地域の自立性(エイジェンシー)と他の地域との関係性(コミュニオン)について考えてみましょう。

1)地域の自立性の強化

今日の地域ホロンは、地域の自立度(エイジェンシー)が低下し、コミュニオンが肥大化し、そのバランスを失っています。エイジェンシーとコミュニオンは、自立と協力ではなく、従属と依存の関係になっています。そのため地域の自立化、すなわちエイジェンシーの強化が必要です。
人間が生活してゆく上でどうしても必要なものは、それぞれの地域での自給をめざすべきです。その余剰分を他の地域と自由に取引するによって、「依存と従属」の関係ではなく、「自立と協力」の地域関係が可能になります。
したがってブロック、小地域、中地域、大地域のそれぞれのレベルで、可能なかぎり、生活に必要なものについて自給をめざし、地域の自立化を可能なかぎり追求する必要があります。
たとえば、2001年の日本の食料自給率は28%でした。食の安全の問題はありますが、自分たちの地域で口にすることができない様々の食材に接することができることは経済グローバル化の利点です。しかし、最小限、米など主要穀物とおかずとなる新鮮野菜は各地域で自給をめざすことが必要です。それぞれの地域の人々が生きてゆく上でどうしても必要なものだけは指定して、各地域が自給できるようにすべきです。
どうしても必要なものを自給できる地域づくりのためには、各地域がバランスのとれた農業と工業をもつ必要があります。バランスのとれた産業構造は、国のレベルだけではなく、たとえば、大阪府レベル、大阪市レベル、〇〇区レベルなど下位ホロンレベルでも追求されるべきです。ビルが立ち並ぶ都市地域においても工場型農業が可能となってきました。その地域の人々の胃を満たす食料や工業原料のための農業をおこし、その地域の工業の原料を工場型農業が提供するようにします。
工場型農業が発達すると石油から作られる様々な製品が、その地域で生産される植物原料から作られるようになるかもしれません。昔から植物油があります。さらに最近アメリカではトウモロコシを原料とするプラスチックや繊維の生産がはじまっています。(これは、太陽エネルギーなどの開発とともに、枯渇確実な石油に依存する世界経済を大きく変える可能性をもっています)
また農村においてもその地域の産物を原料として加工し、完成商品を造り、出荷できるようにする必要があります。これは農村において農業・工業のバランスのとれた自立的構造をつくりだすことです。たとえば、和歌山県の北山村ではジャバラ(柑橘類)を生産し、それをジュースなどさまざまな完成商品に加工する村営工場をつくり、村に雇用を確保し、採算もとれています。
原料の生産地の近くに加工工場をもち、完成品まで仕上げた上で、他地域に販売することが、真の地域の自立を可能につながります。そして地域の人々の完全雇用も可能になります。
そのためには、村営や協同組合形態など、地域の人々の協力が不可欠となります。それを地域の各レベルの地域経済単位で追求しなくてはなりません。
地域の経済的自立化を系統的に追求するのは、その地域の社会経済委員会です。(世界社会フォーラムが全世界の地域にレベルに発展し、各地域の社会フォーラムが、その地域の社会経済委員会に発展してゆくでしょう)社会経済委員会は、自立的産業構造をめざして活動する他、生活必需品が地域住民に充足している場合は、その余剰を地域外の交易にまわすなどの判断をします。

2)従属から自立と協力のネットワークへ

地域間の関係(コミュニオン)は、ますます依存と従属になっています。地方は、中央への従属を深めています。営利を優先する民営化は人口減の進む地方の経済的自立化をますます困難にします。そしてグローバル経済化の流れの中で、競争力のない農業などの産業は切り捨てる政策がとられています。人口の多い都市部が自立しているわけではありません。エネルギーや食料を遠く離れた国外の地域に大きく依存しています。衣料なども多くを中国など海外地域に発注しています。
必要なものを自給し、自分の地域で完成商品に仕上げた上で交易活動をするならば、両者が富みます。しかし、たとえば衣料を中国の工場に発注する今日のあり方では、両者が不安定になります。ベトナムにより安い労働力があれば、工場はそちらにうつります。地域に経済決定権がなく、遠く離れた本社が決定するからです。そして雇用を維持しようと織物・縫製の工場を日本に残すためには、中国、ベトナム以下に賃金を下げるしかありません。
そこで、日本の生活レベルが維持できない人は、中国で生産される100円ショップの商品を購入せざるをえなくなります。一方で高額のブランド商品を購入する少数の人々と他方で100円ショップの安価な商品に依存せざるをえない多数の人々という二つの階級へと私たちの社会は格差社会へと進みつつあります。
地域の人々が食料など生活に必要なものを自給した上で、その余剰分や地域で生産した完成商品、サービスを他地域に提供し、その見返りに他地域の商品、サービスを得ることが、地域と地域の関係のありかたの理想です。その関係を可能なかぎり、各レベルの地域ホロンで追求してゆくべきです。
経済活動の目的がより大きなもうけをあげることにあり、経済活動の成功がお金の尺度だけで測られています。経済活動の目的が地域住民の福利に貢献すること、すなわち「住民の住民による住民のための経済」という民主主義経済への転換が必要です。
そのため第一に、その地域の人々が生きてゆく上で最低必要なものは可能な限り、自給する。第二にその地域の原料をもとに完成製品まで仕上げる。この二つの原理にもとづく経済をめざさなくてはなりません。この原理の上に、自由なグローバルな交易がなされるならば、依存と従属の地域関係は、自立と協力の関係となり、すべての地域にとって恩恵のある交易関係となるでしょう。
これが現在のグローバル化政策とちがう点は、各地域の経済的独立性を追求してゆくグローバル化であることです。たとえば、テレビを自給できない国が、自国のテレビ産業の育成をめざす場合、保護関税をかける権利を保障します。そして、可能なかぎり、バーター取引とし、貨幣の蓄積自体が自己目的とならない経済づくりをします。
これは日本国内の小地域と小地域の関係についても言えます。農業地域では、地域の農産物を原料とする工業をつくってゆくことが必要です。たとえば、和歌山県の北山村が地元の柑橘類を原料としてジュースなどの加工工場をつくり雇用をつくりだしているように。また都市部では、工場型農業を生み出して、食料と工業の原料を確保する経済をめざすべきです。
私たちは、地域と地域の関係が、自立と協力のネットワークとなることをめざさなくてはなりません。

補足)バーター交易の意義について

貨幣の蓄積自体が自己目的ならない自立と協力の地域関係を樹立するために、可能な限り、バーター取引を追求すべきと述べましたが、ダダ・マヘシュヴァラナナンダは、バーター取引の意義について次のように述べています。
「地域や国の間の交易の最良の形態は、バーターによるものか、あるいは二者間協定bilateralによるものかです。なぜなら、これは、外貨による支払いを必要としないからです。自分たちのところにない超過の商品を交換しあうことで両方の国に恩恵があります。現在、ヴェネズエラのチャベスHugo Chavez大統領は、バーター貿易を先駆けておこなっています。彼は13の国との貿易協定に署名しました。自分たちが必要とするものとヴェネズエラの石油を交換する協定です。ヴェネズエラの農村に診療所をつくるためのキューバ人医療従事者の派遣も含んでいます。
貿易の増大によって人々は、非常に多様な商品を入手できるようになります。これは、社会経済地域間の繁栄と均衡を発達させるでしょう。次第に、近隣の社会経済地域が合同するでしょう。グローバルな自由貿易ゾーンを公平と経済民主主義に基づいて設置することもできます」Dada Maheshvarananda『After Capitalism』Proutist Universal,p.95

第10章 地域ホロンの内面(教育、文化)の領域

1)地域の教育文化センターとしての小中学校へ
以上、地域について右側(心の外側)象限を考えてきました。今度は、教育、文化やコミュニケーションなど地域の左側(心の内側)象限の主体性(エイジェンシー)と関係性(コミュニオン)について考えます。
各ホロンレベルを次のように仮に設定します。ブロック(小学校区)、小地域(区、町)、中地域(市、郡)、大地域(都道府県)、大大地域(国)とします。現在の教育においては、大大地域(国)ホロンの肥大化とそれよる下位ホロンの「抑圧」の病理があらわれています。下位ホロンの自己決定権(エイジェンシー)の保障が必要です。
地域社会の内面世界の形成にあたって大きな役割を果たすのは初等・中等教育です。江戸時代の教育は中央集権ではありませんでした。明治の近代教育の発足以来、日本全国画一の教育がなされてきました。
今日、文部科学省が定めた学習指導要領を根拠として入学式、卒業式における「国歌」「国旗」の強制が行われ、旗の位置まで指示されているように、学校行事までも全国画一化が進められています。それは国家ホロン以下のヒエラルヒー化です。2005年3月の卒業式では、東京都教育委員会は、50人の教師を国歌の教育の強制に従わなかったとして処分しました。ここには内面世界における上位ホロンの下位ホロンの抑圧がみられます。
「多様性における統一のホラーキー階層」は、天地万物の原理です。水素原子+酸素原子(多)>水分子(一)、水分子+タンパク質の多様な分子(多)>細胞(一)です。
とりわけ内面にかかわって「多様性における統一」の階層原理が確立されなくてはなりません。小学校区の(多)>区、町として(一)⇒区、町の(多)>市、郡として(一)⇒市、郡の(多)>都道府県として(一)⇒都道府県の(多)>国の(一)がホラーキー階層構造です。
最下部の教育の集合ホロンである各小学校の教職員に教育と学校行事について大胆に権限を与え、決定権を与えるべきです。決定は下位から立ち上る形となり、上位ホロンの教育委員会は、より広域な地域で調整を担当すべきです。
国家ホロンが設定する学習指導要領は必要最低限の事項にとどめ、下位のホロンレベルが自己決定権をもつべきです。そして地域に居住する様々な文化能力をもった人々とともに地域コミュニティの文化センターとしての小学校をつくりあげてゆくべきです。地域の共通の文化的広場として地域の小学校を発達させてゆくべきです。今日、PTAの文化活動としてなされているようなことが、生徒のP(両親)だけでなく、地域住民に開かれます。そしてより子どもの教育にかかわったものとして展開されます。
小学校が地域の多様な文化を統合する文化センターの役割を果たすことになれば、地域の文化的人材が雇用されるでしょう。たとえば、地域の祭りにかかわる踊りや太鼓などの音楽は地域の神社やお寺とつながりがあります。しかし、それらも「宗教と学校教育の分離」の原則のもとで、多様な地域文化の一つとして位置づけられ、地域文化を豊かにしてゆくでしょう。
少数エスニシティも地域文化の多様性において尊重されます。たとえば、大阪の大正区では、沖縄文化の担い手が、大阪の生野区では、韓国・朝鮮の文化の担い手が、地域の多様な文化の一翼となるでしょう。
そして地域の文化発表会は、地域住民の心を一つにする取り組みとして発展するでしょう。
小学校が地域の様々の文化(多)を統合(一)する場となることをめざすべきです。小学校区を「含んで超えた」中学校区は、より広域の地域社会の文化センターになります。すなわち小学校と中学校は、地域の教育・文化センターとなり、直接、教科を教える教員だけではなく、地域文化センターの育成担当者もおかれて、活動します。学校の施設・設備の拡充も必要となるでしょう。
現在、所得格差が進むなかで高所得層は、子どもを荒れた小学校に行かせたくなくて、自由な学校選択を要求し、行政も多様な選択を保障しようとしています。そこにまったく欠けているのは、地域コミュニティ・センターとしての学校づくりです。大人社会の地域コミュニティが形成されてゆくことなしに、子どもたちの健全な発達は望めません
アメリカの後追いをして、株式会社の初等教育への参入までも自由化させる動きがあります。この教育「自由化」の道は、荒れた心の子どもたちと大人たちを営利の論理のもとにおく道であり、地域社会の崩壊をもたらします。

2)すべては「私たち人類の文化」

地域社会の内面(文化、教育、コミュニケーション)のコミュニオンの側面を考えてみたいとおもいます。「多様性における統一」という視点が大切です。自分のアイデンティティをより深いレベルにもってゆけばゆくほど多様な文化はすべて「私たち」の領域にはいります。
自分の地域の多様な文化+他の地域の多様な文化>日本の多様な文化+世界の多様な文化>人類の文化です。
もし、自分が沖縄の人間だというアイデンティティをもつならば、沖縄の舞踊と音楽は「私たち」の文化ですが、津軽三味線は「私たち」の文化ではありません。異文化です。もし、自分が日本人だというアイデンティティをもつならば、青森の津軽三味線の文化も沖縄の文化も「私たち」の多様な文化の一つです。
広島県の祭りの「神楽(かぐら)の舞」は、沖縄の踊りよりも隣国の「サムルノリ(農楽)」に似ています。回転しながら踊る点が似ているので起源が同一かもしれません。日本人だというアイデンティティを中心に考えるならば、サムルノリは異文化です。もし、自分が人類だというアイデンティティを確立するならば、隣国の「サムルノリ」は、異文化ではなく、「私たち人類」の多様な文化の一つです。
ここでは、文化の優劣が問題ではありません。自分の好みにその文化の波長があう、あわないはあっても、その多様性は人類文化の豊かな内容を形作っています。地域の文化活動を活発にさせる際に、世界中の文化を私たちの文化と受け止めて取り組むことが大切です。文化に国境線はありません。
現在のグローバリズムの中で、人々は、すでに文化的には「人類としての私たち」に向いつつあります。「人類としての私たち」には異文化はないのです。
「女子十二楽坊」の奏でる近代的に洗練された中国の伝統芸術は、「私たちの文化」として中国の文化を感じさせました。「冬のソナタ」をはじめとする韓国の映画文化は、「私たちの文化」としての韓国文化を感じさせました。
カチューシャなどのロシア民謡はすでに「私たちの文化」になっています。インディオ音楽に起源をもつ「コンドルは飛んでゆく」も「私たちの文化」になっているのではないでしょうか。あまりに私たちの心を打つので「異文化」という響きはありません。
もちろん西洋やアメリカの文化はすでに「私たちの文化」として、あふれるほど流通しています。
あわせて現代の文化的なグローバリズムの問題点を指摘しておかなくてはなりません。
アメリカ映画は、最近、黒人など白人以外の登場人物を必ず登場させています。アメリカ国内の「人種的多様性の統合」の試みとして進歩的な取り組みであると考えます。しかし、God Bless America(神はアメリカを祝福する)という考えがニューヨーク・テロ以後に高まっているように、アメリカ人中心思考が多くの映画に浸透している限界を感じます。「人類全体の多様性の統一」という視点は、私が見た範囲のアメリカ映画からは伝わってきません。
アメリカ人や日本人としての自国中心思考に冒された「私たちの文化」ではなく、人類としての多様な「私たちの文化」の創造を激励し、称揚してゆかなくはなりません。おそらくアメリカにも日本にもそのような作品が登場しつつあると推測します。そうした作品を見出し、広めるべきです。たとえば、私の見るところ「風の谷のナウシカ」をはじめとする宮崎作品は、普遍的な人類文化になりうる要素をもっています。
文化は、私たちの心を無限に拡張してゆくことに貢献すべきです。宗派主義、党派主義、自国中心主義など、あらゆるグループ中心思考から、私たちを世界中心思考に成長させてゆくことに貢献すべきです。

第11章  国家ホロン

1) 国家ホロンを『超える』上位ホロンの形成

次に国家ホロンについて考えてみます。
ホロンとは、「『全体』(=ひとつのまとまり)であるが、同時により高次のものの構成『部分』である」という意味でした。この世界にあるもの(考え、思想も含めて)すべてが、ホロンであり、どこまでいっても完全はありえず、部分です。国家もまたホロンであり、至高の存在として念ずべき対象ではありません。意識の中で国家ホロンを、ホラーキー階層の中に適切な大きさとして位置づけるようにもってゆかなくてはなりません。
繰り返して説明します。形にあらわれたこの世界は、完全で絶対なものはありません。形にあらわれたものを最高とあがめる時、あがめないものへの「抑圧」や「排除」「衝突」が生じます。形ある神をあがめる時、その神をあがめないものへ「抑圧」や「排除」が生じます。理論も心の発達の中にあらわれたホロンです。特定の理論を最高のものとしてあがめる時、あがめないものへの「抑圧」や「排除」が生じます。
同じように国家を最高のもとしてあがめる時、あがめないものへの「抑圧」や「排除」「衝突」が生じます。国家ホロンの肥大化の病理は、国家より下位のレベルのホロンの「抑圧」、他の国家ホロンの「衝突」を生みます。形あるこの世界に至高の存在を設定してあがめるメンタリティを克服してゆかねばなりません。
国家をあがめる愛国心教育は、国家主義(ナショナリズム)という国家ホロンの肥大化の病を引き起こします。江戸時代には現在の県にあたる藩(国)が愛国心の対象でした。現在は、藩の肥大化はなくなり、県として適切な大きさ(むしろ縮小しすぎている)になりました。藩は、より上位の近代国家の中の下位ホロンとしての県に「含まれて超え」られました。藩は消去されたのでありません。上位の近代国家ホロンの要素の一つとなったのです。
今日の国家ホロンの肥大化の病理についても、根本的解決は、近代国家を「含んで超える」人類の民主的な世界連邦政府の実現にあります。すなわち人類社会の統治組織のホラーキー階層構造の中に国家ホロンが適切に位置づけられることにあります。
具体的に言えば、地域ブロック(小学校区)>小地域(町、区)>中地域(郡、市)>大地域(都道府県)>国>地域連邦>世界連邦政府として人類社会のホラーキー階層の中の一ホロンレベルとして国家が位置づけられることです。その時、明治維新で、藩が県となり、「戦力を放棄」し、忠誠の対象でなくなったように、国家も、戦力を放棄し、国家主義者(ナショナリスト、民族主義者)の忠誠の対象でなくなります。
民主的世界連邦政府の基本法には次の三点は必ず含まれます。①各国は戦力を放棄し、世界政府にすべての軍事力を集中します。日本国憲法9条の「戦力の放棄」が完全に実施されます。②各地域経済における「地域住民の主権」が明記されます。そしてこれを根拠に地球上のすべての地域でホラーキー型民主主義階層構造が発達してゆきます。最下部の地域住民が経済決定権をもち、その決定が上に立ち上ってゆく形になります。③63億の全人類の「基本的人権の尊重」が明記されます。その中で少数民族の権利が尊重されることはいうまでもありません。
もう、少し具体的に地球規模の政府ができた場合の人類社会のホラーキー階層型民主主義構造のイメージを述べます。地域ブロック(小学校区)の住民総会で、社会経済委員が選出されます。選出された社会経済委員によって小地域(町、区)の社会経済委員会(地域議会)が構成されます。その委員会から上位の地域の社会経済委員が選出され、上位の社会経済委員会(地域議会)が構成されます。順次、下から民主的に議員(社会経済委員)が選出され、より上位の社会経済委員会(議会)が構成されてゆきます。
そして最終的に世界連邦政府の二院制の議会に選出されます。上院は、200近くある国の代表が一国一票をもちます。大国も小国も同じ発言権が保障されます。下院は、人口に比例して地域から選ばれます。これは63億人の人類社会ができたときのイメージです。最下部は、直接民主主義です。そこから間接民主主義で代表が選出されてゆきます。選ばれる人の人格や考えを知っている人々が代表を選ぶシステムになります。お金をたくさんもっている人が、自分の経済活動に有利にするために莫大な宣伝費を浪費することはなくなります。もちろん軍事費に莫大なお金を浪費することもなくなります。
この時、国家ホロンの肥大化の病の原因は消失します。人類は国家間の戦争のない新しい時代に突入します。そこから人類の「本史」がはじまります。

2)今日の問題を世界政府の視点から考える。

 現在の人類の意識からすると人類政府はユートピアにほかなりません。しかし、国際問題を考える時、現在の国家体系を「含んで超える」世界連邦政府樹立の視点から考えることは有益です。ものごとを世界レベル、人類レベル、地球レベルで考えるレッスンになります。Think globally, act locally.(グローバルに考え、地域で活動する)のレッスンです。

(イラク戦争)
 今日の世界を考えてみましょう。アメリカ合衆国が、190以上の国家ホロンの中で、軍事的政治的経済的に特別肥大化した国家ホロンとなって、他の国家ホロンを従属させています。国家ホロン間のエイジェンシー(自律)とコミュニオン(強調)のバランスはくずれています。
 たとえば、アメリカ合衆国が中心となり、イラクが核兵器などを保持する危険な国家であるとして戦争し、占領しました。結局、イラクは核兵器を保持しておらず、独裁者フセインを倒す「イラクの民主化のための戦争」だと戦争の大義を変更しました。これは、アメリカが世界で突出した軍事力をもった国家ホロンであるから可能になったことです。
もし、すべての国が世界政府に戦力を集中し、個別の国家が戦力を持たない段階が実現するならば、アメリカもイラクも戦力を放棄しており、今日のイラクの悲劇は再現しません。

(核不拡散体制)
そもそも核兵器という大量核兵器を五大国(アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国)だけが保有してよいが、他の国はもってはいけないという核兵器不拡散条約(NPT)は、今日の局面における現実的な条約であっても、論理的に無理があります。
この条約は189カ国が締結していますが、インド、パキスタンは締結しておらず、対立し合う両国は、近年、核兵器を保有するにいたりました。イスラエルも締結しておらず、核兵器の保有が疑われています。条約締結国の北朝鮮の核開発がうんぬんされています。
いずれ、五カ国核兵器独占体制は破綻し、核兵器を開発する国があらわれ、より精度の高い核兵器を開発したアメリカが力で対応するという危機の再現が予想されます。
この問題の根本的解決は、すべての国が核兵器を含む戦力を放棄し、世界政府に集中することにあります。その時はじめて核についての真に平和的な研究が可能になります。

(日本国憲法第9条)
 日本では憲法9条の「①戦力の放棄②交戦権の否認」の条項を変える動きが強まっています。9条は、世界政府樹立によってこそ完全実施が可能となります。世界政府をめざす立場からは次のようなプロセスとなります。
(1)現行の憲法9条を保持する。
(2)すべての国に対して、世界政府の樹立を訴え、戦力を放棄し、核兵器を含むあらゆる戦力を世界政府に集中することを訴える。
(3)世界政府樹立以前の段階においても、周辺諸国との平和外交により軍備縮小の環境をつくりだす。可能な条件があらわれたならば、EUのような地域連邦を樹立に動くことがありうる。

ホラーキー理論を深化させたアメリカのケン・ウィルバーは、次のように述べます。
「地球的な包含、多元的な世界連合は、普遍的、地球的なヴィジョン・ロジックを持った個人によってのみ、展望され、理解され、実行されうる」「そうした少数の人々が惑星的な視点を生きることは、意識の最先端の、そのして認識の『潜在力』の小さな鉱脈をつくり出す。その鉱脈はゆっくりと、しかし、確実に集団的な世界観にフィードバックする。そして社会的に制度化される」ケン・ウィルバー『進化の構造Ⅰ』春秋社、322ページ

第12章  グローバル資本主義を超える

1)グローバル資本主義のシステムは、存在根拠を失っている。
私たち63億の人間は、地球という星の表面が変化して生まれた存在です。大地とすべての生命、そして私たち人類は、この地球という星の表面が変化することによってできた兄弟姉妹です。
すでに述べたように、地球惑星(物質圏)>菌層(ガイア)>植物、動物(生命圏)>人間(心圏)>(スピリット圏)は、ホロン構造として見ることができます。前者が消えるとすべて後者は消えます。前者がバランスを崩すと後者もバランスを崩します。
人は、身体(物質圏)がバランスを崩しているとイライラ(情動)します。心(心圏)のバランスはくずれて、スピリットの深みに達することはできません。
個人だけではありません。人類全体を考えても、地球という惑星の物質圏、生命圏、心圏の構造を各ホロンレベルでバランスのとれたものに改善してゆく必要があります。誰もが物的身体的なバランス、心理的なバランスがとれて、スピリチュアルな発達をとげてゆくことができる仕組みにしてゆく必要があります。
しかし、物質圏のバランスの悪化が予想されています。たとえば、地球温暖化により、水不足に悩む地域、氷河が溶けて洪水に苦しむ地域、海面上昇で水没する地域が予想されています。そんな時代に生命の必需品である水が営利の対象になってはいけません。石油があと40年で枯渇するともいわれています。40年という予想があたらなくても、物的な資源には、限りがあります。社会の存続を担う基本的なエネルギーが営利の対象になってはいけません。
生命圏のバランスも悪化しています。生態系の危機が叫ばれて久しいです。たとえは、イギリスで精巣の中に卵のあるコイがみつかり、調査の結果、羊毛工場で使用されていた界面活性剤の分解物であるノニルフェノールという化学物質が原因物の一つであるとされました。日本の多摩川のオスのコイにも卵が見つかりました。イボニシという巻き貝のメスにペニスが生えるという現象も起きています。この原因としては、船底塗料に使用されていたトリブチルスズやトリフェニルスズという化学物質があげられています。
人間の性についても異常が指摘されています。若い男性の精子の数の減少の原因が調査されています。若い女性に子宮内膜症が激増し、10人に1人患者がいるといわれています。その病気は、胎児を育むはずの子宮内膜が、別の箇所にできてしまい、月経や性交なとで痛みをともないます。この病気は、アトピーと平行して増えてきました。原因は不明ですが、生物界を汚している人間のつくった化学物質の影響の可能性もあります。
心圏のバランスの悪化もあります。汚れた文化が成長期にある子どもたちの心を汚しています。殺人までいたる性犯罪者の増加の背景に、そうした文化があることは否定できません。
これら、物質圏、生命圏、心圏のバランスの悪化に対して今日のグローバル資本主義のシステムでは対応できません。 今日のシステムは、その地域に住んでいない遠く離れた本社の幹部が、もうけがあがるかを最大の判断基準として経済活動を展開するからです。
さらに今日のグローバル資本主義には富裕者の財の蓄積への上限がありません。ソ連などの社会主義陣営が崩壊して資本主義の対抗者がいなくなるとともに際限のない富の蓄積が当然視されるようになりました。
しかし、物的世界は有限です。一方に蓄積があれば、他方に欠乏が生じます。貨幣も一方に過剰蓄積するならば、他方に不足が生じ、経済の血液としての貨幣の回転が阻害され、不況が生じます。
(ここではこれへの対案は述べませんが、財の蓄積の上限の設定、最低賃金を上げることによる大衆の購買力の強化が必要なことだけ指摘しておきます)

2)グローバル資本主義を克服したホラーキー世界のへ展望

今世紀に入り、グローバル資本主義にかわる新たな社会システムをめざす動きが勃興しています。2001年にブラジルのポルトアレグレではじまった「世界社会フォーラム」です。この動きは、グローバル資本主義にかわるよりよい未来をひらこうとするさまざまな潮流の希望となっています。
P.R.サルカールの弟子のダダ・マヘシヴァラナンダは次のように書いています。
「2001年、スイスのダヴォスで開催された富裕な国々の『世界経済フォーラム』に反対して、それと同じ期間にブラジルのポルト・アレグレで、第一回「世界社会フォーラム」が開催されました。ほぼ千のNGOを代表する二万人の人々が参加しました。2002年の第二回「世界社会フォーラム」には、三倍以上の人が参加しました。131の国々から186の異なる言語を話し、5000の様々な組織を代表する6万人以上の参加者がありました。このフォーラムの力は、共有された夢です。すなわちすべての人にとって公正なもうひとつの世界を建設することは可能だという夢です」Dada Maheshvarananda『After Capitalism』Proutist Universal,p.
その後も世界社会フォーラムの参加人数は増え続けています。
世界社会フォーラム原理憲章によれば、フォーラムは地球惑星社会(planetary society)をめざして、「グローバル資本主義にかわるもうひとつの未来を探求する」場であり、権力闘争の場ではありません。決議をして参加者を縛ることはありません。誰も世界社会フォーラムを代表して見解をのべる資格はありません。 政党や軍事組織は参加することができません。そしてフォーラムは議論し、思索を深める場であり、経験交流と連帯を深める場です。
そして憲章の中には、「世界社会フォーラムは、経済や発展・歴史を一つの視点から解釈したり何かの原則に還元したりすることに、すべて反対します」とあります。
これは「多様性における統一」という普遍的多元主義を具体化した新たな運動形態です。
実際に「世界社会フォーラム」に参加することができなくても、心の中では、「世界社会フォーラム」の一員の意識をもつことはできます。世界社会フォーラムは地域フォーラムとして世界の各地域で開催されるようになるでしょう。そして小さな地域単位でもその地域の問題を考えるだめにフォーラムが開催される日がくるでしょう。
自分たちの地域の問題を考え、「もうひとつの未来」へのヴィジョンを作り、その地域社会フォーラムに、積極的に参加し、共に考え、情報を共有してゆくことが必要です。
ホラーキー社会をめざすものは、この世界社会フォーラムの行き方に賛成する仲間たちとともに進んでゆくでしょう。

H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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