YOUTH FOR DIALOGUE AND PEACE SSYC DOCUMENTARY (video inspired by god of star)



社会サイクル論と市民社会フォーラムの意義
Project of Heaven and gods support this idea

レオニードさん
コメントありがとうございます。
コメントに対してコメントしようとして今、三つテーマがたまってきました。
そのうちのひとつにコメントさせていただきます。

「また、進歩的社会主義は1つの理想像として素晴らしいけれども、そこに行きつく過程に大きな問題があります。資本主義を止めようとするならば、資本主義を止めるのに必要が権力を国家体制に持たせなければなりません。これは非常に危険なことです」

このレオニードさんの危惧に答えることとあわせて、この「多様性の統一」をめざすフォーラム運動の意義について論じたいと思います。

(社会サイクルの軸としての「サドヴィプラ社会集団」)
サーカーは、歴史貫通的な「サドヴィプラ社会集団Sadvipra Society」がこれまでの歴史で形成されてこなかったとして、社会サイクルを貫く「サドヴィプラ社会集団」を創りなさいといいます。
そして、それが社会サイクルの回転の軸となり、歴史貫通的に回転を促進してゆきなさい。と提起しています。

(サドヴィプラ社会集団とは、社会フォーラムのことである)
このサドヴィプラ社会集団こそ、私は、高いレベルの社会意識をもった知的な人々の「多様性における統一」の場としての「市民社会フォーラム」や「世界社会フォーラム」だと考えています。Vipraヴィプラとは知的な人々です。
ヴィプラの中には、ずるい狡猾な人も多いです。Sadサドがついているのは、「スピリチュアリティの高い」という意味です。

(Societyを社会集団としました。サーカーは、グループ(集団)という時、自分の教団中心思考、自分の国中心思考の発生する余地のある、内と外を区別するような意識の発生する集団をグループとして論じています。したがってサドヴィプラ社会集団は特定の党派的集団ではありません)

どういうことでしょうか。
サーカーによれは、この世界のすべては、生成generate、発展operation、消滅destruction(GOD)をくりかえします。
大は銀河(たぶん宇宙全体も)から小は原子より微細なものにいたるまで回転、振動、波の中に存在しています。
社会のあり方もその例にもれません。回転、変化、振動の中に存在します。あるシステムが成立し、展開し、消滅します。

サーカーが歴史サイクルを見る時、人間の特質を大きく三つにわけます。物的世俗的願望に流されやすい大衆(シュードラ)、物的身体的限界を超えて挑みたい願望をもつ武勇派(クシャトリア)、知力で世界に影響を与えたい知力派(ヴィプラ)、労働の組織化や蓄財に長けた蓄財派(ヴァイシャ)の四つです。

社会を統括する力をもつのは、武勇、知力、蓄財力の三つです。
社会サイクルは、原始の大衆の時代を武勇が統治します。さらに知力が必要となり、事実上、知力派が主導権をにぎる時代がきます。そして生産が発達し、武勇派と知力派を背後で蓄財派がコントロールする時代がきます。蓄財派が一方に富を貯めすぎて、大衆の貧困化が生じます。そして大衆反乱のシュードラ革命の時代がきます。そしてシュードラ革命を率いる勇気あるクシャトリアが権力をにぎります。
(シュードラ革命の中から次の時代のクシャトリアが登場せずに、次のサイクルがはじまる不完全サイクルの場合もあります)
この社会サイクルが永遠につづいてゆきます。
以下はサーカーの言葉を直接に引用した社会サイクル論です。むずかしいです。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/theoryofsarkar/2shoucycle.htm 
以下は日本史に適用した社会サイクル論です。最後に「サドヴィプラ社会集団」の形成を訴えて終わっています。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/japansocialcycle.htm 

この武勇⇒知力⇒財力⇒大衆革命⇒武勇・・・・と永遠に回転するサイクルの中心軸の位置に「社会意識が高くスピリチュアリティの高い知的な人々の社会集団」=「市民社会フォーラム」や「世界社会フォーラム」が位置付くのです。 この集団が、半永久的に、社会サイクルのあらゆる局面で、大衆の社会意識を向上させてゆきます。
この社会集団が大きくなることよって、大衆が時の権力者や財力をもつものによるマスコミなどを通ずるコントロールがしにくくなります。

これまでの社会変革は、たとえば、源頼朝が家来たちといっしょに政権をとりました。徳川家康が家来たちといっしょに政権をとりました。薩摩と長州の武士たちが明治政権を創りました。歴史が進むにつれて民衆の役割が増大していますが、そのときどきの大衆は、自分たちの支持する指導者が権力を握ることを応援しただけで終わりました。
自分たちの支持する指導者に権力を握らせたら、それが自己目的化していますから、それで喜びます。
しかし、21世紀に登場した「市民社会フォーラム」や「世界社会フォーラム」は、政治権力や財界、政党、宗教団体から独立した「多様性における統一」のフォーラムです。
フォーラムに参加する一グループが国家権力を交代させること成功しても、政党から独立して存在し、主体的に大衆の社会意識を継続的に高めてゆきますから、真に大衆が主人公の社会へと人々を導いてゆくことができます。

1945年に、はじまった現在の私たちのシステムにも終わりがきます。よりよいシステムに乗り越えてゆかなくてはなりません。で、その新しいシステムにも終わりがきます。
社会サイクルは、永久につづいてゆきます。
平安時代に生きた人は、永久に貴族の世の中がつづくと信じたでしょう。
徳川時代に生きた人は永久に武士の世の中がつづくと信じたでしょう。
2006年の今、永久に莫大な財を動かす大資本家の世の中が永久に続くと人々は信じているでしょう。
しかし、長い歴史的視野で見るならば、私たちのシステムもさらに「含んで超える」レベルのものに発達してゆきます。
社会サイクルに終わりはありません。
この「市民社会フォーラム」が発達するならば、その社会サイクルの回転軸となり、支配階級が搾取的となる期間を短くし、人々の犠牲を少なくして次の時代にサイクルをすすめる役割をはたします。
さらにサイクルのあらゆる時期に権力のチェック機能の役割を果たします。
サーカーは、これをnucleus revolution (中心軸革命)と呼びます。常にサイクルの軸の部分にあって回転を推進してゆくからです。

世界レベルでは、サドヴィプラ社会集団は、「世界社会フォーラム」としてすでに登場しています。
社会サイクルの中で、民衆のための批判勢力として歴史貫通的存在であるための要件が、世界社会フォーラムの中に存在しています。
1)政党などから独立  
「世界社会フォーラムは、さまざまな価値や考え方を認め、信条の違いを超え、政府機関や政党とは関係を持ちません」世界社会フォーラム原理憲章8条
2)真理を独占しない
「世界社会フォーラムは、経済や発展・歴史を一つの視点から解釈したり何かの原則に還元したりすることに、すべて反対します」9条
 これはすべての見解が相対的真理であるという自覚にもとづいていると私は考えます。この認識が「多様性における統一」を可能にします。
3)永久的に存在して、社会サイクルのあらゆる局面で批判的勢力たりうる
「世界社会フォーラムは一つの過程です」14条

この市民社会フォーラムも同じ資質をもっていると思います。

ですから、この市民社会フォーラムは、歴史的な意味をもつ可能性があるとおもっています。

その多様な課題と目標をもったグループの一つとして、将来、進歩的社会主義を目標とするグループも登場するだろうと思います。
進歩的社会主義グループは、
① 企業の民主化(経営者を社員が選出する協同組合企業)などの「民主主義経済」と
②それぞれの地域が農業などの基本的必需は自給できるように地域が経済決定権をもつ「分権経済」をめざします。
文化論として、すべての人類、生命、存在を尊重するネオ・ヒューマニズムに立脚します。
そして、それは、自分たちで真理を独占せず、フォーラムに結集する多様な流派とともに認識を深めつつ、進みます。

なお、進歩的社会主義は、将来、無政党民主主義をめざします。
以下にサーカーのものとはずれるかもしれませんが、私の無政党民主主義のイメージが書かれています。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/horaakyshakairon/11kokkahoron.html  



投稿はここまでです。

参考資料(1)、サーカーの言葉

「社会は、定立thesis、反定立antithesis、総合synthesis の三つの混成で前進します。
定立している特定の理論が、集合的福利に及ぼすその適格性と力を失う時、その一般化している理論の反定立が生みだされます。
これらの二つの対立する諸力の衝突と結合の結果として、ひとつの合成が生じます。この合成が総合 synthesisです。
 社会の福利は総合の段階でのみ可能だというのは本当でしょうか。
社会の福利を実現する義務と責任をもつ人々が、少数者や一般の人々を軽視する時、ある時代の総合は、それ自体が次の時代の定立に変化します。
 社会正義の問題にかかわる根本的な原理は次のようなものです。
全宇宙は動いているパノラマのように動きつつある現象です。
この経験世界のあらゆるものは相対性の中に根ざしています。
そしてあらゆるものが時、場所、人の活動範囲の内部で動いています。
総合の段階において、ある社会、経済、政治理論は、特定の場所や集団において有益であるかもしれません。
しかし、これは、同じ理論が、異なる時、場所、人の中で同じように有効であることを証明する保証はありません。
変化した状況の中で、社会的不正義の犠牲者として絶望と気晴らしの中で日々を過ごしている抑圧された人々は、その時代の総合に対して反定立を提出します。
数の上での大多数と物理的な力が反定立の出現の唯一の前提ではありません。
もし、抑圧された人々が知的なグループなら、どんなにその人数が少なくても、彼らは反定立を提出できます。
反定立が生み出されるや否や、その前のイデオロギーは、総合であることを止めます。
それは、次の段階の定立になります。
そこで、第二段階において、反定立が、ふふたびそのまさしく定立に対して現れるでしょう。
この段階において、総合が現れないかぎり、闘争が衰えずに続くでしょう。
理論的に総合は絶対的な要素、最後の衝突もしくは最後の言葉ではありません。
というのは定立、反定立、総合は、相対性の限界内で起きるからです。
(弁証法的唯物論と民主主義)


This article argues that social development in any stage need to have place of exchange of people with high level consciousness which continue to unite people.
Place of exchange makes people unite in diversity continuously.
Project of Heaven and gods support this idea.




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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