The Rise Of Man - Story Of The Entire History Of The World
(video inspired by god of star)
(This view is dialectical materialism in view of mental sphere)
Dear
I am god salamnidam who downed social cycle theory to P. R. Sarkar.
In this page whole of social cycle theory is introduced by Mitsuki.
This is very good summery of social cycle theory.
Reader of this discourse can understand whole of social cycle theory correctly.
Social cycle theory see human being as four types.
One is brave mental person.
Second is wise mental person.
Third is commercial mental person.
Four is physical mental person.
Leader of society is cycled among these three types.
This is social cycle theory.
This view is dialectical materialism in view of mental sphere.
Dialectical materialism has been interpreted in context of development of productive force.
Productive force is field of productive relation.
This is important to see social cycle in view of middle span.
When we see social cycle in small span, this mental classification is useful.
Mitsuki noticed that this mental classification can be applied in Japanese history.
Analysis of Mitsuki to Japanese history is correct.
Mitsuki understands nature of social cycle theory.
こんにちは
私はP.R. サ-カ-に社会サイクル論をおろした神サラムニダムです。
このペ-ジにミツキによる社会サイクル論の全部が紹介されています。.
これは,社会サイクルの論のとてもすぐれた要約です。
この論文を読んだ読者は、社会サイクル論全体を正確に理解できます。
社会サイクル論は人間を四つのタイプとしてみます。
一つ目は、勇気あるメンタリティの人間です。
二つ目は、知的なメンタリティの人間です。
三つ目は、商業的メンタリティの人間です。
四つ目は、物的メンタリティの人間です。
社会のリ-ダ-はこの三つのタイプの間で交代しています。
これが社会サイクル論です。
この見解は、メンタルな領域からみた弁証法的唯物論です。
弁証法的唯物論は生産力の発展の分脈で解釈されてきました。
生産力は生産関係の場です。
これは社会サイクルを中期のスパンでみるときに重要です。
小さなスパンで社会サイクルをみるとき、このメンタリティの区分は有効です。
ミツキはこのメンタリティの区分が日本の歴史に適用できることに気づきました。
日本史へのミツキの分析は正確です。
ミツキは社会サイクル論の本質を理解しています。
social cycle theory of P.R.SarkarI am god salamnidam who downed social cycle theory to P. R. Sarkar.
In this page whole of social cycle theory is introduced by Mitsuki.
This is very good summery of social cycle theory.
Reader of this discourse can understand whole of social cycle theory correctly.
Social cycle theory see human being as four types.
One is brave mental person.
Second is wise mental person.
Third is commercial mental person.
Four is physical mental person.
Leader of society is cycled among these three types.
This is social cycle theory.
This view is dialectical materialism in view of mental sphere.
Dialectical materialism has been interpreted in context of development of productive force.
Productive force is field of productive relation.
This is important to see social cycle in view of middle span.
When we see social cycle in small span, this mental classification is useful.
Mitsuki noticed that this mental classification can be applied in Japanese history.
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Mitsuki understands nature of social cycle theory.
こんにちは
私はP.R. サ-カ-に社会サイクル論をおろした神サラムニダムです。
このペ-ジにミツキによる社会サイクル論の全部が紹介されています。.
これは,社会サイクルの論のとてもすぐれた要約です。
この論文を読んだ読者は、社会サイクル論全体を正確に理解できます。
社会サイクル論は人間を四つのタイプとしてみます。
一つ目は、勇気あるメンタリティの人間です。
二つ目は、知的なメンタリティの人間です。
三つ目は、商業的メンタリティの人間です。
四つ目は、物的メンタリティの人間です。
社会のリ-ダ-はこの三つのタイプの間で交代しています。
これが社会サイクル論です。
この見解は、メンタルな領域からみた弁証法的唯物論です。
弁証法的唯物論は生産力の発展の分脈で解釈されてきました。
生産力は生産関係の場です。
これは社会サイクルを中期のスパンでみるときに重要です。
小さなスパンで社会サイクルをみるとき、このメンタリティの区分は有効です。
ミツキはこのメンタリティの区分が日本の歴史に適用できることに気づきました。
日本史へのミツキの分析は正確です。
ミツキは社会サイクル論の本質を理解しています。
サーカーの社会サイクル論
▼社会サイクル論の概要
◎4タイプのメンタリティが指導権を交代
サーカーは、人間社会はシュードラ(庶民)、クシャトリア(武勇派)、ヴィプラ(知力派)、ヴァイシャ(蓄財派)の4つのメンタリティの特質を持った人々から成り立っており、この4つの順番で社会のリーダーシップが交代していくとしています。
武勇派は暴力を振るうわけではなく、勇敢で英雄的に闘うことを生き甲斐とするタイプです。
映画「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に描かれた主人公のメンタリティは、武勇派のうち優しい心を持ったタイプといえます。
知力派とは、宗教家や学者のように頭脳の力で人々に影響を及ぼすタイプです。
蓄財派は、物を作るなど商業経済活動に優れた能力を持っている人々です。
庶民は、日々の生活に追われている人です。
すべての人の中に4つの心は同時に存在しますが、どの性格が前面に出ているかでイメージしてください。
原始社会では、人々は日々の食べ物を得るのに精一杯で、武や知や財の能力を持っている人が活躍する場はありません。
庶民(シュードラ)のメンタリティです。
やがて農耕が始まり、領地をめぐって争う時代になると武勇派(クシャトリア)が活躍します。
そしてもっとも強い武力を持った氏族が周辺の村を支配し、国が成立します。
国という形が安定して平和になると武勇の必要性は低くなり、税を集めたり、祈ったりする知力派(ヴィプラ)の人々が事実上、社会を指導するようになります。
社会が安定して産業や商業活動が活発になってくると、商業活動の担い手である蓄財派(ヴァイシャ)に富が集中します。
そして、蓄財派が社会を支配する時代がやってきます。
ところが蓄財派に富が集中しすぎると、庶民の反乱が起きるようになります。
そこで庶民の反乱の中から勇気あるリーダーとして新しい武勇派が登場し、古い蓄財派の土地・財産を奪い、財のアンバランスを正し、新しい秩序を組み立てます。
新しい武勇派の時代が安定してくると知力派が活躍し、次に蓄財派の支配する時代がやってきて――。
このように繰り返しながら社会は発展を遂げていきます。
武勇派は、歴史的状況によっては残忍な現われ方もします。
武勇派、知力派、蓄財派、庶民というタイプ分けには、どれが善で、どれが悪かという価値判断はありません。
それぞれ存在根拠を失った時点で権力を維持しようとしがみつく時には反動的となり、武力派は残忍に、知力派は陰険に、蓄財派は醜くなります。
ただし、武、知、財のほとんどが不正直であるとサーカーは指摘しています。
それぞれの支配が存在根拠を失っていない時期でも、個々には残忍であったり悪質であったりする支配者が出現し、民衆は被害を受けます。
現在は、蓄財派のヴァイシャが支配している時代です。
ヴァイシャ支配の手先とならず、シュードラの地位に転落したクシャトリアやヴィプラたちが次の革命のリーダーになります。
それらのリーダーの下にシュードラを覚醒させ、周到に準備してヴァイシャ時代を終わらせる必要があるとサーカーは説きます。
◎サドヴィプラの任務
この4タイプの回転はこれからも続きますが、サーカーの社会サイクル論には、言外にもう1つの人間のタイプであるサドヴィプラ社会集団が人類史の中に登場しつつあることが察知されます。
サドヴィプラとは、精神性を有した革命的グループです。
連帯してサドヴィプラ社会集団(Sadvipras society)を作り、社会サイクルの中心点に存在して回転をコントロールしていくべきだとサーカーは考えます。
社会サイクルのある局面で特定の政治勢力を支援したとしても、その政治勢力がやがて搾取的になってくると、サドヴィプラ社会集団は新たな社会的対案を持ってその支配を終わらせます。
サーカーは、このようなサドヴィプラ社会集団を世界中に育てることを目標にしたと考えられます。
サドヴィプラとなる資質は、シュードラ、クシャトリア、ヴィプラ、ヴァイシャの心を持ったいずれの人間にもあります。
その人がスピリチュアリティに目覚めることによってサドヴィプラに成長していきます。
では、実際にサーカーの言葉を見ていきましょう。
▼シュードラ
◎粗大な波に支配されている
「個人の心の波動が、粗大な物事の波動を消化しようとすることなしに、それとの調整を維持しようとする時、個人の心は次第に粗野になります。
私たちがシュードラと呼ぶのは、そのような物質主義的な心の人です。(中略)
シュードラの心性を持って進んでいる人々を集合的に『シュードラ社会』と呼びます。
いうまでもなく、そのような人々は何ひとつ自分のコントロール下に置くことはできないでしょう。
というのは、彼ら自身がより粗大な波――物質の波――によってコントロールされているからです」(The Ks'attriya Age)
「物質主義的な心」とは、心が物的・身体的願望をコントロールできずに、それに引きずられている人です。
ヴァイシャ(蓄財派)の願望も物質的なものですが、本物のヴァイシャのメンタリティは財の消費ではなく財の蓄積が願望ですから、蓄財のためには質素倹約することができます。
シュードラは物的・身体的な喜びを求めて生きています。
「シュードラは、物質的享楽を求めて生きています。
わかりやすくいえば、シュードラの生活は本質的に粗野な物質性に基づいています。
肉体的感覚の喜びに駆り立てられています。
イデオロギーと論理は、彼らには意味を持ちません。
過去、現在、未来という時間の3分割のうち、現在のみが彼らにとって重要です。
彼らは過去や未来について考える時間を持たず、考えたいとも思いません」(The Ks'attriya Age)
◎シュードラの恐怖心理
イデオロギー、論理、過去、未来はシュードラの思考領域に入りませんが、シュードラは宗教的に敬虔《けいけん》な姿勢を示します。
その理由をサーカーは次のように述べます。
「知的には動物のように鈍感なシュードラは(中略)自然の災害などに対する恐怖から、それを崇拝の対象として眺めます。
彼らのこの種の恐怖感情は、自然の諸力をさまざまな神の地位に高めました。
この神格化は1つの完全な最高実体(ブラフマ)に対する信心やインスピレーションから生まれたものではなく、むしろ彼ら側の都合によって、恐怖心理のゆえに木や山々、森などを神として崇拝し始めたものです。
それゆえ、シュードラの社会心理は恐怖心理に基づいていると結論づけることができます」(The Ks'attriya Age)
宗教とスピリチュアリティをサーカーは常に厳密に区別します。
スピリチュアリティは大宇宙の根源との一体性のインスピレーションから来るものです。
しかし、特定の木や山々や森などの物質を他と区別して崇拝することは、初期シュードラの自然に対する畏れや恐怖心理から、次第にそれがヴィプラによって神格化されたものだといいます。
サーカーのスピリチュアリティの視点からすると、すべての木、山、森は聖なるものです。
しかし、宗教は特定の対象を聖なるものとして心に半径を設けます。
◎社会変革とシュードラ
シュードラは、主として肉体労働によって社会システムを支えます。
「ヴァイシャ(資本家)の非人間的な貪欲さからシュードラを守るために、シュードラの意識を高めなくはなりません
シュードラ革命の前夜には、すべての非ヴァイシャ階級が自分はシュードラのレベルに落とされていることに気づきます。
しかし率直に言ってシュードラの意識を高めることは可能なのでしょうか。
シュードラを動かせる人々、すなわち一時的に革命に向けて彼らをまとめていく人々はクシャトリアです。
シュードラは、すべきことを機械的に実行するだけです」(The Ks'attriya Age)
物的・身体的願望にのみ引きずられているシュードラの意識を高めることは大変困難です。
ヴァイシャ時代の末期には富の極端な格差からシュードラの反搾取感情は高まるけれども、その反搾取感情はシュードラのメンタリティを持った人間が自発的に高めたのではなく、クシャトリアとヴィプラのメンタリティを持ちながらシュードラ的な経済状態となった人々がリーダーとなり、シュードラを組織して立ち上がらせたのだというのです。
実際、歴史上の人物を振り返ると、シュードラ反乱のリーダーが、シュードラのメンタリティを持っていることはありえません。
なぜなら物的・身体的な領域で困難に陥っている社会の変革に挑むことは、物的・身体的願望に引きずられているシュードラの心ではできないからです。
「クシャトリアの中には正直な人も不正直な人もいます。
実際、不正直な者が多数派です。
だからシュードラは、クシャトリアによって導かれ、駆り立てられて、莫大な数のハエのように革命や反革命の火の中へ飛び込みます。
そして火の中で羽が燃えてしまいます。
ほとんどの場合、クシャトリアはシュードラを完全に騙しながら、評判や名声、富、影響力を自分のものにします。(中略)
革命後、シュードラはすべての領域で自分たちが得たものと失ったものを適切に評価するかわりに、欺瞞《ぎまん》的なクシャトリアの旗を運ぶことが自分たちの生活のもっとも重要なことだと見なします」(The Ks'attriya Age)
革命や反革命の中心的リーダーは、クシャトリアのメンタリティの持ち主です。
シュードラはクシャトリアの勇気に従い、戦場で血の中に倒れます。
勝利した場合には、自分は惨めな状態におかれても勝利したクシャトリアの旗を持って満足することになります。
◎シュードラ観の比較
以上がサーカーのシュードラ論の説明です。
他のシュードラ論と比較して考えてみたいと思います。
このようなメンタリティのシュードラを劣っている者として低く見る見方がありました。
たとえば、封建的身分制の時代の知識人はシュードラを低く見る見方を社会に浸透させました。
これはサーカーによれば、自分たちの支配を固めて、長引かせようとした悪意あるヴィプラの仕業です。
封建的身分差別意識の理論の実態的根拠は、サーカーが指摘しているシュードラ的メンタリティにあったと思います。
自由、平等を求めたブルジョア市民革命期には、理論的にはシュードラは平等な者として扱われました。
進歩的な見方の中には、本来、人間は能力的にも平等だと徹底するものもあり、世界中に大きな影響を及ぼしました。
しかし、それは欺瞞でした。
シュードラは産業革命を推進させるためにブルジョアによってひどく搾取されました。
植民地にされた人民はシュードラ以下の扱いを受けました。
その欺瞞を見て、シュードラを能力的にも徹底的に平等だと見なす立場から、プロレタリア階級(労働者階級)による政治支配が人類解放に決定的な役割を果たすという理論が生まれ、広がりました。
プロレタリア階級という言葉は一時的には聖なる響きを持ちました。
しかしサーカーは、これまでのどの立場とも異なった見方をします。
人間としての尊厳においてシュードラはまったく劣りません。
しかし、責任を持って人々の福利を保障するリーダー層としては、物質的な喜びに引きずられるシュードラのメンタリティを持ったシュードラは適していないと明確に論じます。
サーカーが育て広げようとしているサドヴィプラ社会集団は、表現は多様であるが根源において人類は1つという立場から、特定の階級ではなく反搾取の立場をとります。
クシャトリアが搾取的になれば、それと闘ってヴィプラ時代を到来させ、ヴィプラが搾取的になれば、それと闘ってヴァイシャ時代を到来させます。
ヴァイシャ時代が搾取的になれば、それと闘ってシュードラ革命を成功させ、新たなサイクルへと前進させます。
そして究極的には、サドヴィプラ社会集団は肉体労働を嫌がらずに引き受けるというシュードラの長所、勇気を持つクシャトリアの長所、高い知性を持つヴィプラの長所、この世を富ませ、財を有効に活用するヴァイシャの長所を身につけ、階級のない社会を創ることをめざします。
◎シュードラは相対的な概念
サーカーの哲学では、この世のありとあらゆるものは相対的であると論じます。
その観点からすると直接的な明言はありませんが、原始時代のシュードラのメンタリティと今日のシュードラのメンタリティは、物質的波にコントロールされてしまうという本質はあっても現われは変化しており、今日のほうがより多様な現われをしていると考えられます。
これは、クシャトリア、ヴィプラ、ヴァイシャにも当てはまると思います。
原始のシュードラについて、次のような記述があります。
「現在も含めて、シュードラ的心性の人、物質的享楽の願いが支配的な人々をどの社会でも見ることができます。
初期の時代、強い男たちは享楽に対する願いが強いゆえに一夫多妻でした」
「そこには弱者への哀れみや同情はありません。
弱者の生存を維持するための社会的努力もありません。
子どもたちは老いた両親に対する責任を引き受けません」(The Ks'attriya Age)
私たちの社会では、ここに記述されている原始シュードラのメンタリティの人は少数です。
この記述が本物のシュードラのメンタリティだと思います。
教育や文化を通じて、クシャトリアの心を持ったシュードラ、ヴィプラの心を持ったシュードラの数が増えます。
サーカーはそうしたシュードラのことをヴィクシュブダ・シュードラ(Viks'ubdha shu'das)、すなわち「不満を持ったシュードラ*」といいます。
彼らの数を増やし、減らさないようにすることが重要なのです。
*注=サーカーのシュードラ論
最初にこのサーカーのシュードラ論を読んだ時、次のようないくつかの疑問が浮かびました。
第一の疑問は、たとえば旧石器時代、縄文時代をシュードラ社会とすれば、このシュードラと平安時代のシュードラ、江戸時代のシュードラ、現在のシュードラを同列に論じることができるのだろうかということです。
そこには質的転換があるはずで、歴史科学はその違いを明確にしてきました。
サーカーのいうように物質的享楽を主として追求するタイプとして心理的特徴のみに照準を合わせると共通性が見出せます。
したがってこの世のあらゆるものが相対的であるというサーカーの観点を当てはめて、本文で記したようにシュードラ概念を相対的なるものとして把握しました。
第二の疑問は、本文には引用していませんが「初期のシュードラの社会は、今日の犬や猿の社会よりも本当に優れているとはいえないものでした」「
『生きたい人々をよりよいように生かそう。
半死状態の人は、よりすみやかに死なせよう。
死んでいる人間に対してはエネルギーを浪費するな』でした。
こうしたものの見方は、ある種の利己的な社会システムを生みました」とサーカーは述べています。
これが本当に正しいのかどうかということです。
F・エンゲルスは『家族、私有財産および国家の起源』という本の中で、モルガンという学者の調査と研究を引用してアメリカインディアンの勇気を讃え、生き生きとしていた原始社会の様子を描いています。
このシュードラ社会(原始社会)についての証言は、サーカーのいう社会の様子と大変異なるのではないかと最初は思いました。
ところがサーカーをよく読めば、母系制社会段階は前期クシャトリア社会構造であると述べられています。
イロクォイ族は母系制でした。
ですから、モルガンが「未開人」の中に文明化した階級社会には見られない生き生きした人格を見たというのは、サーカーの観点では原始社会のシュードラではなく、クシャトリア時代の武勇のメンタリティを持った人々を見たということになります。
旧ソ連時代の考古学者ユ・イ・セミョーノフは『人間社会の起源』(築地書館)という本の中で、アウストラロピテクスの頭には石で割った跡があり、人間の社会ではなく猿の社会で、石を使ってメスをめぐる争いをしていた証拠だと推理していました。
この推理は、サーカーの「初期のシュードラの社会は、今日の犬や猿の社会よりも本当に優れているとはいえないものでした」と合致します。
セミョーノフは、ネアンデルタール人あたりから群婚となり、メスをめぐって分裂せず、人類は団結することを覚え、初めて助け合う人間社会が生まれたと分析していました。
実際、イラクのシャニーダール遺跡というネアンデルタール人の遺跡には、花で弔って死者を埋葬した跡や、片腕、片目の見えない障害者の老人の骨が出てきたことから、ネアンデルタール人については「犬や猿の社会」よりも優れており、障害者を労った痕跡もありました。
ですから、サーカーの初期シュードラ社会の描き方は、アウストラロピテクスという、まだ人間社会を形成しておらず、猿社会であった意識段階には適応できますが、私たちの先祖の現生人類の段階を描くには適切ではないように思えます。
日本の古事記の中に、ヒルコという障害児が生まれ、神様が川に捨ててしまうという残酷な話がありますが、このような障害者に残酷な仕打ちをし始めたのは、むしろ階級社会が成立してからだという研究(河野勝行著『日本の障害者 過去・現在および未来』ミネルヴァ書房)を読んだことがあります。
実際、古事記は奈良時代という階級社会の時代に作られました。
これは、サーカーでいえばヴィプラ社会です。
邪悪なヴィプラの心が作り出した物語なのでしょうか。あるいはヒルコの話は「犬や猿」の強い者が威張って弱い者をいじめる、サーカーのイメージする原始シュードラ社会の痕跡だったのでしょうか。
▼クシャトリア
◎物質を征服しようとする活力あるメンタリティ
「物質は、その奴隷とならずに物質を楽しもうと強く願う人間に非常に役立ちます。
そのような人々は、物質を征服し、自分の心の波動によって物質の波動をコントロールしたいと思います。
意のままに物質をコントロールする力を獲得した、この常に闘争している諸個人は、クシャトリアと呼ばれます。
闘争は、クシャトリアのダルマすなわち特質です」(The Ks'attriya Age)
シュードラは物質の波にコントロールされますが、クシャトリアは自分の心の波で物質をコントロールしたいと願います。
サーカーは次のような例を挙げています。
ここに巨大な山があったとします。
シュードラは山のすぐ前で止まります。
シュードラにとってその山は神で、頭を垂れます。
シュードラは山の神を畏れ、クシャトリアに『神が怒る。どうか登らないでください』と懇願します。
しかしクシャトリアは気にせず山に登っていきます。
そして頂上に到達し、山を征服します。
このように、クシャトリアは物質を支配したいという活力あるメンタリティを持っています。
「クシャトリアは自分の血で社会を守り、社会の維持のために他人の血も奪います。
人類誕生の段階において、環境の圧力の下で自然の奴隷であった人々はシュードラでした。
しかし、自分たちを存続させようと自然に立ち向かう努力をした人々は、クシャトリアの祖先でした。
後にシュードラはクシャトリアに影響され、自然と闘う渇望を身につけてゆきました。
クシャトリア社会は、このようなシュードラを通じて加速されました。
その勢いは今日も持続し、将来も続くでしょう」(The Ks'attriya Age)
自然と社会を意のままにコントロールしたいと願い、死をも恐れず、危険を冒して立ち向かうメンタリティの持ち主がクシャトリアだとあります。
おそらく最初に舟を作って遠くまで漕ぎだすのは、シュードラ社会の中のクシャトリアの祖先です。
それに勇気づけられて、シュードラの心の人も「よし、おれも漕ぎだそう」と思ったに違いありません。
クシャトリアの登場と活躍の影響を受けてシュードラのメンタリティも発達するのだとサーカーが考えていることがわかります。
◎イデオロギーに従うクシャトリア
クシャトリアは、シュードラのように単にパンを得ることと肉体的快楽の追求のために生きるわけではありません。
イデオロギーに従うことは、彼らが官能的喜びに耽ることとほぼ同じくらいの重要性を持つとして、サーカーは次のように述べます。
「古代と近代の歴史のページをめくると、クシャトリアの性質や特徴を持った男たちが雄々しく死を受け入れたり、絞首台にかけられたり、敗北の恥辱から逃れるために英雄的に銃弾に向かって進み、死んでいったことに気づきます。
シュードラのメンタリティを持った人々はこのようなことはしません。
クシャトリア気質の人間、中でもとくに激しい気性を持つ人間は、決して大衆の視界の後ろに身を置きません。
喜んでであろうと不承不承であろうと、人の目を引く場所に出てきます」(The Ks'attriya Age)
クシャトリアのメンタリティを持つ人の中でも気性の激しい人々は、一定の歴史状況の下では必ず前面に出てきます。
クシャトリアは自分のイデオロギーや信念に基づいて、死に直面しても雄々しく闘います。
しかし、英雄的なクシャトリアをサーカーは美化しません。
ほとんどが利己的な利益を追求し、世の中に悪影響を与えてこの世を去っていく人々だと考えるからです。
そのような歴史に名の知れたクシャトリアについて次のような人物を挙げています。
「英国の人々でさえ、ナポレオン・ボナパルトの勇気を称賛します。
フランスの人々もまたヒトラーのパワーとパーソナリティを認めます。
インド政治における右翼の人々は、プラフッラクマール・チャーキー、クディーラーム・ボース、ラースビハーリー・ボースとスバース・チャンドラ・ボース*の英雄主義を認めざるをえません。
それは、自分たちの利益のために他の者の利益と衝突する利己主義にすぎません。
世界には、自分たちの利益に奉仕するこのような人が数千万人います。
彼らはこの世界にやってきて、飲食し、自分の血統を保持し、自分の利益のために子どもたちを育て、すべての物事を自分の満足感のための対象として見て、貪欲な目であらゆるものを追いかけます。
彼らの過去は暗いものです。
彼らの未来もそうです。
そして自分たちの狭量な利己主義の腹黒さで現在の輝きを暗くします」(The Ks'attriya Age)
*注=文中の登場人物
プラフッラクマール・チャーキー(Prafulla Chaki)、クディーラーム・ボース(Khudiram Bose)は、ともにベンガルのテロリスト。
ラースビハーリー・ボース(Rashbehary Bose)とスバース・チャンドラ・ボース(Subhash Chandra Bose)は、インド民族運動の指導者。
このようにサーカーは、ほとんどのクシャトリアは慈悲深い心を持たず、この世を暗黒に攪乱《かくらん》してから世を去る。
彼らが命をかけたイデオロギーは、自分たちの利益のために他人の利益と衝突する利己主義にすぎないというのは、そのまま第2次世界大戦までの日本軍国主義の侵略指導者たちにも当てはまります。
彼らを美化しようとする人々が描こうとするように、彼らが家族愛に満ち、部下を愛する人間であっても不思議はありません。
そのことと、彼らがこの世を暗黒にした指導者であることは両立する話です。
他民族を犠牲にして日本民族の自己利益を追求した指導者でした。
ただしサーカーの理論では、日本の大本営で戦争指揮を執っていた人々はクシャトリアではなく偽クシャトリアであり、実体はヴィプラということになります。
社会サイクル論の立場から評価できるクシャトリアがいるとすれば、それはヴァイシャの支配によって貧富の格差が開き、シュードラ的状況に追いやられたクシャトリア的シュードラの指導者です。
彼らが大衆を組織してヴァイシャの搾取の時代を終わらせ、新しい時代を打ち立てます。
◎クシャトリアの宗教性・精神性
「ダルマの本当の意味が何であれ、クシャトリアは度量が大きいので、心の広い宗教的な振る舞いをします。(中略)
『我に美、勝利、名声を与えたまえ。私の敵を絶滅させよ』
これは自分自身のためだけにその想像上の神に願っているのではありません。
願いを聞き届けてもらった後には、自分たちの保護下にある人々にそれを配分したいと思っています」(The Ks'attriya Age)
シュードラと違って恐れから崇拝するのでなく、物質を支配し、征服するために祈ります。
そしてシュードラと違って自分のためだけでなく、自分の配下にある者のためにも祈ります。
ただし、粗大なもの、すなわち物質的なもののために祈っているのであり、精神性の進歩につながるようなものは念じません。
「彼らの公正と正義は、粗大なものの達成、粗大な対象の征服に限られています。
私たちが精神性や精神的進歩によって理解しているものは、彼らの知性では簡単には理解できません」(The Ks'attriya Age)
クシャトリアのメンタリティが、シュードラと違って自分個人の利己性を超えている点、イデオロギー性の萌芽がある点を評価します。
また次のようにも述べています。
「他の者を守ったり、自分の威信を守ったりするために尊い命を捨てるという問題が生じた場合、クシャトリアのメンタリティは動物よりもずっと高度で高貴であることを認めざるをえません」(The Ks'attriya Age)
「クシャトリアの社会の思考の波は、必ずしも情け容赦のない大自然の波のようなものではありません。
著しく目立つのは英雄崇拝です。
弱者は強者のリーダーシップに服従し、強者は弱者の服従と引き換えにその安全を守ります。
クシャトリアの社会では、自分たちの下に困窮して身を寄せる難民を守ることが信心の行為であると見なされます。
そのような献身が雅量に富むことと認められています」(The Ks'attriya Age)
この説明は「親分肌」をイメージさせます。
自分に服従してくる者は守るが、自分に敵対する者や身内以外は守る対象ではなく征服の対象となる。
シュードラと比べて、自分以外の者を命をかけて守るというメンタリティは前進しているけれども、抽象的思考ができないクシャトリアは普遍性を理解できず、スピリチュアリティに欠けており、自分たちの集団の利益のために他者を害しても平気になります。
◎クシャトリアによる社会形成
○1 クシャトリアの集団化と秩序維持
「共に動いている集合的人間のことを私たちは社会と呼びます。
戦争や戦闘においてクシャトリアは統一と集団化を必要とします。
彼らがグループや党を形成するのは、自分たちの間に高い水準の規律を維持するために必要だからです」(The Ks'attriya Age)
闘争の中に統一と集団化を必要としたことにより、クシャトリアは社会の確立に貢献します。
クシャトリアが作り出すのはあくまでも社会システムであり、その社会システムが人々に犠牲を強いるようなものかどうかは視野に入れません。
システム自体が自己目的となります。
「クシャトリア社会が厳格なシステムを持たなくてはならないことは疑えません。
このシステムを通じて強欲なチャリオット(古代ギリシャ・ローマの2輪戦車)がものすごい速さで弱者を踏みつけるかもしれず、数百万人の飢えが1人の男を非常に富裕にする機会を提供するかもしれません。
人間同士の友愛ではなく、支配と被支配の関係が確立するかもしれません。
それでも結局、それはシステムです。
メリット、デメリットにかかわらずシステムを成り立たせようとするのがクシャトリアの性質です」(The Ks'attriya Age)
○2社会構造の構築
シュードラ社会から登場してきたクシャトリアの粗大な力が統治を生み出したと次のように説明します。
「統治は、社会を維持するための前提条件です。
政府のシステムは適切な統治のために必要です。
誰もシュードラの優勢をやめさせようとはしませんでした。
最初はクシャトリアが純粋に粗野な力で統治を始めました。
シュードラやクシャトリアの中の弱い者は、より強い、より強力なクシャトリアの粗大な力に服しました。
そして自分たちの『父』すなわち『グループの指導者』を王座につけ、王の統治機関によって社会建設と国家建設のプロセスが生まれました」(The Ks'attriya Age)
先述したようにクシャトリアは社会秩序と規律自体が自己目的化してしまいます。
彼らが押しつけた規律が一般大衆にとって善かどうかは考えません。
力あるクシャトリアの統治が続いたところでは人々の中に規律の感情が生じたけれども、クシャトリアがしっかりした社会構造を築き上げることに失敗した国では人々が苦しむことになったと次のようにも述べます。
「クシャトリアの規律の感覚は、兵士の規律のようなものでした。
言い換えれば、人々が好もうが好むまいが、敵がクシャトリアの守りを突破しないように一定の『禁制』を守らなくてはなりませんでした。
たとえばフランスでは、フランス革命以来のどの政府も長期間自らを安定させる機会をもちませんでした。
そのため、革命後に、王の権威と人々に対する政府の威圧は終わったけれども、厳格な社会構造の欠落によって大衆に最大の害を引き起こすことになりました」(The Ks'attriya Age)
○3 集団主義のメンタリティ
クシャトリアはグループを作って絶えず闘います。
「そこには人生の挫折の重荷に耐える問題はまったく生じません。
クシャトリアはシュードラよりも集団生活により多くの幸福を感じます。
恒常的な戦闘に共に直面する人々を鼓舞する集団感情は、集団生活における悲しみさえ甘美な苦痛にしてしまうからです」(The Ks'attriya Age)
このようにクシャトリアは、恒常的に戦闘集団の中に属することで幸福を感じます。
しかし、彼らが集団で作り出している規律やシステムが一般大衆の福利を増進するものであるかどうかは思慮の外にあります。
◎クシャトリアからヴィプラへ
○1 クシャトリアの未発達なイデオロギー
「イデオロギーが2次的な意義しか持たないところでは欲望や利益追求が最高潮になります。
それは、クシャトリアの貪欲な性質がもたらす結果への予告でした。
それは後の時期にヴィプラすなわちバラモンの力を卓越させることに役立ちました。
最終的に、ヴィプラはこの卓越した力によってクシャトリアの肉体的強さを支配することになります」(The Ks'attriya Age)
クシャトリアはシュードラとは異なり、物質的享楽の欲望だけでなくイデオロギー*的忠誠を持って生きます。
ある時は物質的享楽に、ある時はイデオロギー的忠誠に比重をかける生き方をします。
しかし、そのイデオロギーは未発達なものです。
「よく検討すれば、動物的な生活の客観的で物質主義的な衝突がシュードラの特色ですが、クシャトリアの特色は、未発達な心の闘い、イデオロギー的な衝突であることがわかるでしょう」(The Ks'attriya Age)
したがって、いったんクシャトリア時代が確立して物質的レベルでの闘争の必要性が低下すると、イデオ *注=「イデオロギー」の意味
サーカーはイデオロギーという言葉を肯定的文脈で使います。
イデオロギーとは、統一的な世界の見方を未発達なりに持っており、その人がそれに基づいて信念を持って生きる観念形態を指しています。
サーカーが自ら提唱している普遍主義的イデオロギーは、あるイズムやドグマの体系ではなく、宇宙万物の根源としての無限の意識に自らの意識を融合させることを目標に、見るものすべてをブラフマの表現として感じることができるようになることをめざすものです。
○2 先見の明に欠ける知性
「クシャトリアはすべてを征服する態度で前へ突進したいと思っています。
敵の強さを確かめずに敵に挑みます。
その結果、彼らはしばしば袋叩きにされ、めった斬りにされて早くこの世を去らなくてはなりません。
クシャトリアの歴史は血の歴史であり、知性の輝きのあるものではありません。
その歴史には勇敢、勇猛、武勇がありましたが、先見の明や賢明さ、精妙な知性の支えは少しもありませんでした。
それが、クシャトリア時代がしばらく続いた後に知識人が鋭い知性によってクシャトリアをコントロールし始めた理由です。
知性ある人物は、クシャトリアが以前には決して目を向けなかったところを見るように彼らにいい、クシャトリアが決して理解しなかったことを説明し続けました。
この状態がしばらく続いた後、クシャトリアはへりくだって知性を持つ人間に服し、彼らの優越性を認めました。
そしてヴィプラの指令の下に自分の勇敢さを提供しました。(中略)
これらの知識人はクシャトリアの手から社会をコントロールする権限を次第にもぎ取り、クシャトリアの力を借りて社会への影響力と支配を確立しました」(The Ks'attriya Age)
○3 歴史上の偉大な王はヴィプラの傀儡
クシャトリアの王の子孫を後継者としつつも、実際にはヴィプラたちが知力で王をコントロールします。
サーカーは、歴史書にある偉大な力強い王の話は、あたかもクシャトリア時代のものであるかのように思えるけれども、よく読めば実はヴィプラがコントロールしているヴィプラ時代のものだと述べます。
「よく読めば、これらのほぼすべての君主が、ヴィプラの大臣の指図に従って行動していたことがわかります。
ほぼすべての国で、もっとも強力な王でさえ、ヴィプラの大臣たちの手の中の傀儡《かいらい》にすぎなかったというのが現実でした。
君主性の歴史を『大臣制(Ministocracy)』の名で呼ぶとすれば、真実からあまりかけ離れていないでしょう。
ヴィプラは、独裁的で無規律なクシャトリアの支配者による奴隷化から大衆を解放し、一定の規律を社会にもたらしました。
このように整然とした王国は、君主の権力がヴィプラに従属していることを意味しました」(The Ks'attriya Age)
君主制の歴史は実際には「大臣制」の歴史であり、独裁的で横暴なクシャトリアの支配から大衆を解放するのがヴィプラ時代の確立です。
最近の例として文化大革命を考えてみましょう。
これはヴィプラ時代の確立を阻止しようとしたクシャトリアの企てでした。
外国帝国主義と大地主、大資本というヴァイシャの支配に対する革命闘争をシュードラを率いて勝利に導いた毛沢東はクシャトリアでした。
ところが中国を経済的に運営していく段になると優れた多数のヴィプラに従う必要がありました。
しかし自らを英雄だと思い上がった毛沢東は、シュードラ大衆を動員してヴィプラの根絶にかかります。
このような社会進歩を妨げる動きをサーカーはクシャトリア・ヴィクラーンティ(Ks'atriya vikra'nti)、すなわち反進化(Anti-evolution)と呼びます。
○4 ヴィプラの意のままになったクシャトリア
「クシャトリアよりもヴィプラのほうに、より多くの不正直な人がいます。
ヴィプラの知性の大部分はもっぱら他人が懸命に得た富を奪うことに用いられます。
クシャトリアはシュードラを機械的に働く人間に変え、ヴィプラは知性によってクシャトリアを無力にし、意のままに指図しました」(The Ks'attriya Age)
なぜ、クシャトリアはヴィプラの意のままになったのでしょうか。
サーカーは次のように説明します。
「あからさまな力の誇示によって自分自身を確立した人々は虚栄心を持つことになります。
力に由来するクシャトリアのこの弱さは、ヴィプラの知性によって利用されました。
ヴィプラは、クシャトリアの武勇を賞賛することによってクシャトリアの残りの知力を打ち砕きました」(The Ks'attriya Age)
粗大な力によって自己を確立してきた人間は、虚栄心を持つことになります。
立場を問わず、私たちはこのサーカーの指摘する人間の姿を見ます。
その弱点を利用してクシャトリアを称賛しながら、ヴィプラは象使いと象のようにクシャトリアへのコントロールを確立し、ヴィプラがクシャトリアとシュードラを搾取する時代を到来させました。
▼ヴィプラ
◎ヴィプラの心理
○1 物事を知的・心理的波動で動かしたい
「知性ある人間の知力は、太陽光線が届かないところまで貫きます。
彼らは物事に追随することなしに、それを楽しみたいと思います。
すなわち彼らは、物事を彼らの知的・心理的な波動によって動かしていくことを望みます」(The Vipra Age)
物質の波にコントロールされるシュードラに対して、物質の波をコントロールしたいという点ではヴィプラはクシャトリアと同じですが、クシャトリアが直接的な物的・身体的闘争を通じてそれを実現するのに対し、ヴィプラは間接的にクシャトリアの粗大な力を利用して、あるいは直接に知的な力でそれを実現します。
「知力は粗大な物的・身体的な力をコントロールします。
そのため、知力と強さに恵まれたクシャトリアは指先や銃剣の先でシュードラを働かせます。
ヴィプラは、身体的力は劣りますが、より大きな知力に恵まれ、クシャトリアをコントロールします。
ヴィプラの勝利は知力の勝利であり、クシャトリアの剣とシュードラの労働による協力なしには起こりえなかったことです。
実際、ヴィプラの闘争のほとんどは神経細胞でなされています。
活動しているのは脳であり、筋肉ではありません。
筋力を使う仕事は彼らの忠実な僕であるクシャトリアとシュードラによってなされます」(The Vipra Age)
このように他者を利用(搾取)するヴィプラをサーカーは低レベルのヴィプラだといいます。
社会サイクル論の中で論じている、粗大な世界のみを見ているヴィプラは低レベルのヴィプラです。
低レベルというのは、知力が低いという意味ではなく、スピリチュアリティの前進に貢献する精妙な知性ではないということであり、他者を利用・搾取しているという意味で卑劣であるということです。
○2 頂点に進む知性を持ったサドヴィプラの存在
ヴィプラには、粗大な物質世界のみに向かわず、頂点に進む知性(Pinnacled intellect)、すなわち人間として最大限に尊いあり方を追求した人も少数ながら存在します。
「しかし彼らの発達した知力は、物質的な富を蓄積することだけに夢中になるわけではありません。
精妙な心理的資源を生み出す大きな能力を同時に備えています。
彼らの知性と直観的な文化は『頂点に進む知性』の発達においてとくに重要です。
心理的な動機の観点では喜びを求めるヴィプラとクシャトリアの間に相違はありませんが、頂点に進む知性の発達に努めているヴィプラは、実質的にクシャトリアとは異なります。
頂点に進む知性の発達とその知力の勢いは、最高の精妙さに接します。
彼らの知的な運動が直線的であるのはそのためです。
その運動は加速性があり、多方面にわたります。
それは、すべての社会階級のすべての資質をその中に結びつけます」(The Vipra Age)
ただし、このようなヴィプラは少数であり、大多数は俗的なヴィプラであって、クシャトリアの力を借りて享楽の対象の蓄積をめざしているとサーカーは考えます。
今日、ヴィプラたちが人々から一定の尊敬心をもって見られるのは、きわめて少数のサドヴィプラのおかげだったといいます。
「ヴィプラは、知的な戦場での勝利と新しいタイプの知的表現の創案を人生でもっとも価値あるものと見なします。
この最高に価値あることに心が夢中になる時、彼らは他者を搾取することなど思いつきもしません。
そのような時、彼らは自分たちのイデオロギーや信念のために大きな苦しみや苦痛を被る用意があります。
他のヴィプラは、こうした雅量のあるイデオロギーを持つヴィプラの名前を利用して、他者を搾取(利用)する機会を見出します。
今日、人々がヴィプラに対して抱く尊敬心はすべてこれらのイデオロギー的なヴィプラのおかげです。
人類が達成してきた知的、精神的進歩の9割以上が、度量の大きい無私のヴィプラの遺産だったからです。
彼らの貢献は、どんな時代にも忘れられることはありません」(The Vipra Age)
◎ヴィプラによる知的搾取
○1 全能力を知的搾取に用いる
しかしながら、圧倒的多数のヴィプラは自分の全能力を「知的な搾取」に用います。
「ヴィプラの成功は知力によるものでした。
知力の戦いでクシャトリアを打ち負かしただけでなく、心を打って畏怖、驚嘆させました。
ヴィプラは、すべての原始的な人間に共通なクシャトリアの弱点を利用しながら自分たち以外の社会すなわちクシャトリアとシュードラを搾取(利用)してきました」(The Vipra Age)
サーカーは搾取(Exploitation)という言葉をたびたび用います。
これには他に「利用」という意味があります。
「知的な搾取」とは、他者を「知力で利用すること」という意味で読み取る必要があります。
どのように彼らは「知的搾取」をするのでしょうか。
すなわちどのように「他者を知力で利用する」のでしょうか。
○2 恐怖コンプレックス、劣等コンプレックスの注入
「ヴィプラにとってもっとも重要なことは『他者を矮小《わいしょう》化して生きる』です。
他者を吸い取るためにその心に劣等コンプレックスを注入し、恐怖で服従させ、自らの権力を確立させるためです」(The Vipra Age)
サーカーによれば、天国も地獄もありません。
しかし、クシャトリアの支配に成功したヴィプラは、天国と地獄という架空の観念を作って人々に注入しました。
その恐怖コンプレックスからヴィプラの指示に従わせ、搾取を容易にしました。
供物だけではなく、さまざまな宗教儀式を主宰することで謝礼を受け取りました。
○3 悪霊の観念の注入
また霊の観念を広め、取りついた悪霊を退治してみせるなどして権威を打ち立て、謝礼を受け取ります。
これは古代や中世のヴィプラだけでなく、今日もなされています。
サーカーは次のように説明します。
「ヴィプラは悪魔払いの祈祷師(エクソシスト)のふりをして、悪霊への恐れを利用してクシャトリアとヴァイシャからお金を騙し取りました。
悪霊が心の生み出したものであるなら、悪霊に取りつかれている状態は心の病であることを知力あるヴィプラは知っているはずです。
異様な出来事の原因が悪霊と無関係であることは確かです。
悪霊憑きは心の病気です。
そのため祈祷師は、病気の人々を上手に鞭打ったり、トウガラシを燃やして煙を吸い込ませたり、その他の心理的なテクニックを用いてそれらを感覚のほうに回し、心の病気を治します。
しかし彼らは、本当の事実を誰にも明かしません。
むしろ意味のないマントラを不明瞭につぶやきながら、マントラや超自然的な秘儀の儀式、あるいは魔術の力によってすべての霊魂、幽霊、悪魔、魔女が退散し、その土地を去るのだと人々に信じさせようと企みます」(The Vipra Age)
サーカーは、祈祷師の力で心の病である悪霊の仕業が治癒するのは、祈祷師が行なう場の雰囲気で生み出された集中力が治癒力を引き出しているからだと考えます。
しかしヴィプラたちはそれを知っていながら、自分たちの超能力によるものだと信じさせて効果を高め、クシャトリアやシュードラ、知力の劣るヴィプラから法外な収入を得ていると見ます。
○4 女性に対する搾取を作り出す
サーカーは、女性を男性よりも低く見る見方は搾取を強化しようとするヴィプラ時代の一部の悪意あるヴィプラによるものだといいます。
「ヴィプラの知力は、女性たちを無収入の奴隷の地位に引き下げました。
あらゆる点で女性を無力にすることを企てながら、ヴィプラは数多くの経典の指令、非論理的な教義、架空の罪と美徳の作り話とともに『聖なる』命令を作りました。
これらの話を聞かされた人々は、男だけが、とりわけヴィプラの男だけが神から選ばれた人間であり、残りの人間は彼らに喜びを提供するためだけに生まれたのだと思い込まされます。(中略)
ヴィプラ時代では、女性は紙の上では男性のよき伴侶で宗教的儀礼の同等の実行者とされましたが、実際には男性の召使となりました」(The Vipra Age)
この中世のヴィプラ支配を特徴づけた男性優位は、続くヴァイシャ時代にも残存したと見ます。
○5 大衆をひれ伏させたヴィプラの文化
中世のヴィプラは古代の文語を使用しました。
中国や日本の僧侶は大衆には意味のわからない漢字のお経を使いましたし、ヨーロッパでもラテン語、インドでもサンスクリット語という大衆にわからない言語を駆使して権威を高めました。
芸術家にも同じことがいえます。
「ヴィプラの芸術家は、知的な輝きによって世界を征服したいと思いました。
詩、劇、文筆、絵画を通じて一般の人々が彼らの知力の優秀性に敬意を払うように仕向けました。
無知な大衆はそれらの業績を理解できず、『私たちが理解できないこれは、何か偉大なことに違いない』と考えました。
この心性によって、彼らは従順にヴィプラの足元に伏しました」(The Vipra Age)
○6 搾取の領域拡大のために紛争、戦争を生み出す
ヴィプラは自分の貴重な人生とその知的・心理的財産のすべてを駆け引きの企てに費やし、自分たちの搾取できる範囲を拡大するために紛争や戦争を生み出します。
ヴィプラは血を流すわけではなく、戦争のプランを立てて指揮を執り、クシャトリアとシュードラを血の海へと向かわせるのです。
「ヴィプラ時代の初期には、宗教をめぐって、王と王の間に、国(State)と国の間に紛争を生み出します。
邪魔されずに搾取を続けるために宗教的スローガンを叫び、さまざまな法令を発して人々の判断力を混乱させようとします。
こうして自分たちが搾取する領域を広げる努力をする中で、1つのグループを別のグループと敵対させ、1つの国を別の国に敵対させるように煽動します」(The Vipra Age)
現在は、国は国民国家(ネイション・ステイト)にまで発展してきています。
今日のヴィプラの中にも、ヴァイシャの僕《しもべ》となってナショナリズムを説き、他の国家と対立関係を引き起こすことで自分の地位を確立しようとする悪魔的ヴィプラがいます。
「今日でさえ、『宗教教育』について叫んだり、『宗教国家』を求めて叫び続けているヴィプラがいます。
彼らが本当に欲しているのは、自然に合理性に向かっていくはずの子どもの心を宗教的迷信の網に取り込むことです。
後にヴィプラの搾取の手の中の操り人形にするためです」(The Vipra Age)
○7 知力でクシャトリアの力を用いて戦争
ヴィプラは知力でクシャトリアを動かし、その力を用います。
ヴィプラ自身は戦わず、クシャトリアの将軍を戦場に派遣します。
「ヴィプラ支配の時代では、ヴィプラの大臣たちが勝利を喝采する一方、クシャトリアたちは悲惨な死に直面します。
世界のヴィプラ支配の国々の実態はこのようなものです。
ヴィプラの大臣の名前は歴史の年代記に褒めそやした言葉で書かれますが、歴史は戦場で何人の兵士が死んだか、何人が砲弾に当たって自分たちの黄金の夢が闇の中にかすんでいくのを見たかについては無関心です」(The Vipra Age)
現在はヴァイシャの支配する時代です。
ヴァイシャが金の力でヴィプラとクシャトリアをコントロールしています。
ヴァイシャの支配下にあるヴィプラたちは、ナショナリズムやエスノセントリズムといった地域偏愛感情や宗教などを用いて人々を対立に引き込む悪魔的な役割を果たしています。
「今日の世界においても、これらの邪悪なヴィプラたち、資本家ヴァイシャの庇護の下にある代理人たちは数百万の人々を死と破壊に導いてきました。
そして今も導きつつあります。
これらの悪魔的なヴィプラはヴァイシャの極悪な貪欲の祭壇に供物を提供し続けています。
今日、家のない難民の窮状、戦場で殺された兵士の母親、妻、その子どもたちの身を刺すような叫び声、人種暴動、あるいは宗派主義、セクト主義、地域主義、ナショナリズム、カースト主義の炎の勢いが世界中にあります。
その責任は、シュードラ大衆にも、戦っているクシャトリアにもありません。(中略)
ヴァイシャ支配の時代には、同様の罪を犯すことによってヴィプラはヴァイシャの飾り物のように輝きます」(The Vipra Age)
戦場に将軍を派遣し、自らは戦争の指揮を執ったヴィプラの例としてサーカーはチャーチルを挙げています。
「世界史の中で多くの戦争が起きました。
無数のシュードラと同じく知力の未発達な勇敢なクシャトリアが命を失いました。
しかし勝利の喝采は、遠くから戦場を覗くことすらしなかったヴィプラの大臣に与えられました。
『第2次大戦で英国が勝利したのは誰のおかげですか』と歴史家に聞いてみなさい。
『当時の英国首相チャーチルです』という答えが即座に返ってくるでしょう。
彼らは血を流して英国のために戦った数百万人の兵士や、たゆまぬ努力で英国の威信を救った数千人の科学者、技術者、職人、戦略家や将校のことを語らないでしょう。
これらの人々の努力はチャーチルの知力の前にかすんでいきました」(The Vipra Age)
○8 ヴィプラの肯定的側面
ヴィプラの優越は知力によるものであり、外見的には正直、率直、精神性の姿をとっていました。
しかし、それは見せかけにすぎませんでした。
彼らは身体労働を避けるため、ますます社会の寄生者になっていきます。
しかしサーカーは、それが搾取の維持のためであれ、大衆の心に精神性へのインスピレーションの発達を促したことは否定できない事実だといいます。
「それでも一握りのヴィプラは、大衆の福利と知識の普及によって支配権を維持しようとしました。
これはクシャトリアとシュードラの心にヴィプラに対するある種の愛を目覚めさせました。
そのためクシャトリアとシュードラは、利用(搾取)されてはいましたがヴィプラの強欲を見過ごしました。(中略)
ヴィプラへ奉仕することは、天の至福へ到達するための踏み台だという信念がしっかりと彼らの心に根ざしていました。(中略)
大衆のヴィプラへの献身、そしてヴィプラによって広められた精神性への献身は、大衆の内面における精神性の発達を助けました。
ヴィプラに対する反感があったとしても、この重要な事実を否定することはできません」(The Vipra Age)
サーカーはヴィプラ時代のもう1つの長所として、ヴィプラは常に知力を用い、体を使わないため、身体的には弱くなったけれども、彼らの家族の中に優しい人間性が表現されるようになった点を挙げます。
それは子どもが両親の愛情に応えて両親に奉仕する中で養われたものだと考えます。
それは自分を生み出したこの世のすべてに奉仕する精神(スピリチュアリティ)にもつながりえます。
◎ヴィプラと社会構造
○1 行政のトップは意のままになるクシャトリアの手に残す
クシャトリアが確立した政治経済体制をヴィプラはそのまま受け継いで統治します。
クシャトリアの王の子孫にそのまま統治させます。
しかしその違いは、粗大な力と知力のうち、知力のほうが優位にあることだとサーカーはいいます。
「社会を維持するためには行政が必要です。
その行政を維持するために統治システムが必要です。
クシャトリアの粗暴な力によって確立した統治システムは、ヴィプラ時代にもそのまま残っています。
唯一の違いは、粗大な力に対して知力が優位に立っていることです。
知的・心理的な力が物的・身体的な力をコントロールします。
政府の支配権がクシャトリアの手に残っているように見えても、あるいは紙の上に残っていても、実際にはクシャトリアは完全に、知的なヴィプラの大臣にコントロールされています」(The Vipra Age)
ヴィプラ時代には、クシャトリアの王はヴィプラの大臣や王族の聖職者の助言に逆らうことができません。
逆らった結果、王が粗大な力で一時的に優位を回復しても、それは「反進化」あるいは「反革命」であり、短期間しか維持できないといいます。
「もし王がヴィプラの大臣たちに背いて進むならば、ヴィプラたちは一般大衆か別のクシャトリアのグループの助けを借りて、自分たちの選んだ王と置き換えます。
王たちは大臣の手の中の傀儡《かいらい》として糸で操られて上下する存在でした」(The Vipra Age)
○2 クシャトリアの築いた社会構造の継承
サーカーは、規律と統一の感覚が社会の基盤になると考えます。
その感覚の土台はクシャトリアによってもたらされましたが不充分であり、ヴィプラ時代のヴィプラが道徳意識に基づいた社会意識をもたらすことによってよく編成された社会が可能となったといいます。
「クシャトリアの強力なパーソナリティに基づいたメンタリティは、よく編成された社会を建設できません。
そのためにはヴィプラの知力に基づいたメンタリティが必要となります。
言い換えれば、道徳性に基づいた社会意識が必要です。
この意識はヴィプラ時代にヴィプラによって提供されます。
したがって、私たちが本当に社会として理解しているものは、ヴィプラ時代においてのみ本当に実現されます」(The Vipra Age)
クシャトリア時代は、クシャトリアの強い人格的な力に左右されました。
それに対して、ヴィプラ時代のヴィプラは、成文法による統治をヴィプラの知性によってもらたすという貢献をしたとサーカーは指摘します。
「王の気まぐれに従うのではなく、法的枠組みに従う国の行政、すなわち成文法あるいは慣習法による統治の手続きのコントロールはヴィプラの知性の貢献によるものです」(The Vipra Age)
ある政治経済の支配体制が確立する時、私たちは人による支配から法による支配への流れを読み取ることができます。
その時に貢献したのがヴィプラの知力でした。
このようにしてヴィプラは、クシャトリア時代から受け継いだ社会をより編成されたものにしました。
○3 クシャトリアの規律とヴィプラの規律
クシャトリアとヴィプラとでは規律の意味が違います。
戦闘で勝利を得るための規律がクシャトリア社会の規律であることに対し、ヴィプラの規律の意味は社会構造を維持することであると次のようにいいます。
「ヴィプラ社会にも規律がありますが、その規律は道徳感覚に基づくものです。
ヴィプラの規律の目的は社会構造を維持することです。
そのため、決して社会的意識に背いて進むことはできません。
むしろヴィプラの規律は、時、場所、人の変化に規律を適応させます。
もしもそれが社会に有害であるなら、ヴィプラはその規律を奨励しません」(The Vipra Age)
クシャトリアは、その規律が一般大衆に害となっているかどうかは考慮せず、規律自体を追求します。
しかしヴィプラには自分たちが搾取できる社会構造を維持する目的があるため、それまでの規律が、時、場所、人の変化によって社会構造に合わなくなれば変えようとします。
「クシャトリアたちは、社会システムにおいて執拗に、自分たちが愚かな独裁者として頑健であると誇示しました。
しかし少なくともヴィプラはそのような誤りは犯しませんでした。
理由は明白です。
社会におけるクシャトリアの威信は彼らの独裁権に基づいていました。
そのため彼らは、どうしてもそのシステムを維持したいと思いました。
とはいえヴィプラの評判は知的な優越性だけに基づいていたため、知的な搾取の道を掃き清めながら、彼らは、時代の傾向に合わせることが適切だと思いました」(The Vipra Age)
もちろん、変化に対応しない頑迷で保守的なヴィプラの存在もサーカーは指摘しています。
○4 ヴィプラによる搾取システムの維持
このように、クシャトリア時代の変更不能な規律のための規律から、ヴィプラ時代には社会構造維持のための変更可能な規律となりました。
しかしそれはあくまでもヴィプラによる搾取システムを維持するためであり、論理と理性の道ではなく盲目的に信じさせる道に人々を進ませるものでした。
「ヴィプラは知的な搾取に向かう傾向がありました。
たとえ何を打ち立て、壊したとしても、彼らは常に搾取の道を開けておきました。
知力あるヴィプラは論理と理性の道を開きませんでした。
それが搾取の手段でないことを知っていたからです。
逆に彼らは無知な大衆を盲目的な信仰の道に導きたいと思いました。
そのため彼らは自分自身の利己的な利益から社会的諸規定を作りました。
自分たちのいっていることを支えるために論理と理性を用いず、物知りぶった宗教的命令にふけり続けました。
それが、クシャトリア社会的制度と比べて、ヴィプラ時代に本当のヒューマニズムの前進が見られなかった理由です」(The Vipra Age)
○5 ヴィプラは分裂し敵対するが、搾取維持のためには不浄な同盟
次の文章は、私たちの周囲に見られるヴィプラの姿をよく表現しています。
「ヴィプラは、たいていは威張り散らす初老の男性のように振る舞います。(中略)
その結果、ヴィプラ社会は異なる見解を持った多くのグループや亜グループに分裂します。
誰も他者に寛容になれず、各グループは他者の考えを論駁《ろんばく》するのに忙しくしています。
こうした内部の衝突は、ある程度は社会の知的進歩の原因になってきました。
しかし彼らは、心の雅量(度量、広さ)の発達にはまったく寄与しませんでした」(The Vipra Age)
寛容さに欠けているヴィプラに対して、クシャトリアは親分肌で、自分の配下以外は守らぬにしても度量の大きさを示します。
ヴィプラ社会は寛容さに欠け、グループに分裂して厳しく敵対します。
しかし、ヴィプラの搾取構造そのものを危うくするものが出てきた時には結束して搾取維持のために戦います。
「搾取に反対するイデオロギーが頭をもたげようとする時はいつでも、関連する既得権益を持った集団が抵抗します。
そのイデオロギーの反対する搾取がヴィプラによるものである場合、それはもっとも強力な抵抗に直面します。
なぜなら、その抵抗は知識人によって支持されるからです」(The Vipra Age)
◎ヴィプラの搾取と闘ったレベルの高いヴィプラ
○1 精妙な道を進むもう1つのタイプのヴィプラ
すでに紹介したように、スピリチュアリティの道を説く、搾取(他者の利用)とは無縁なヴィプラがいます。
その中からサドヴィプラも出てきます。
「シュードラやクシャトリア、ヴァイシャの人々に精妙な道を歩ませ、人類に精妙なインスピレーションを与え、精神性の哲学を形成したヴィプラがいます。
このグループからは本物のサドヴィプラが現われてきました。
今日も現われていますし、将来も現われるでしょう。
ヴィプラを批判しながらも私たちは、心の発達の頂点、人間の友愛、普遍的な観点や物質的発展はヴィプラ時代の産物であったことを忘れてはいけません」(The Vipra Age)
特定の宗教グループ、特定の民族グループなどへの帰属意識を高めるものではなく、全人類、全生命、全宇宙と一体感を高めていくものがスピリュアリティです。
理屈上ではなく実感としてそう感じているかどうかが問題です。
それに対して宗教は、特定の土地や建物、像などに特別の神聖さを付与し、自らの信じる神や宗教が自分に救いをもたらすのだと信じさせます。
宗教はある程度スピリチュアリティを含みますが、完全に普遍的にはなりきれません。
サーカーの言葉からスピリチュアリティの神概念を見ておきましょう。
「もし神が完全な理想であると見なされるならば、神が常に公正であることが受け入れられなくてはなりません。
神はあらゆる人を愛しても、罪人は罰します。
ただし罰する目的は痛みを与えることではなく、その振る舞いを正すことにあります。
私の考えでは、こうした神についての考えははもっともレベルの高い把握です。
神が普遍的な父と見なされるならば、神は何らかの人種的、民族的、宗派的感情や他のタイプの制限ある感情を持たないはずです」(The Vipra Age)
○2 社会的経済的搾取の廃止のために闘うスピリチュアリストたち
サーカーは、インドの歴史の中において、力を適用して悪に従事している指導者たちを打ち倒すためにインドのすべての王を統一したクリシュナ(Krs'n'a)に触れて、単に瞑想だけしていてはだめだ、搾取に対して闘って生きなくてはならないとカルマ・ヨーガを勧めます。
「しかしながらそれは、暗くした部屋で、精神性の実践を行ない、どちらかの鼻孔で呼吸するためにだけ活用されるべきではありません。
人々は社会における罪の根本原因を打ち砕くことができるようにカルマ・ヨギーにもならなければなりません。
もし必要ならば、自分の親戚に対しても無慈悲に武器をとらねばなりません。
一般の人々のために、クリシュナは、利己性に基づいて作られた社会システムを打ち壊すための戦争を宣言しました。
彼は、グルや聖職者の搾取に反抗的な態度で対峙《たいじ》し、自らの心理学に基づいたカルマヴァーダ(Karmava'da 行動の教義)を提起しました」(The Vipra Age)
サーカーが、クリシュナがグルや聖職者の搾取と闘ったことを評価していることがわかります。
社会的経済的搾取と闘ったスピリチュアリストとして、サーカーはさまざまな人物を挙げています。
「ヴァルダマーナ・マハーヴィーラ(Vardhamana Mahavira)は、科学的な見方に基づく新しいイデオロギーを発達させようとしました」
「預言者ムハンマドは、迷信の泥水の中にいる無知で抑圧された人々に新しい生活方法を提供しました。
彼は世界中の人々は1つのカーストに属していると明確に述べました」
「カビール(Kabir)とマハープラブ(Mahaprabhu)は、カースト制度に対して公然たる反抗を開始しました」
「ラージャー・ラーム・モーハン・ローイ(Raja Ramamohana)は、この習わし(無実の女性を焼いて死に至らしめること=サティー)に反対しました。
そしてそれを止めさせるまで休むことはありませんでした。
結果として彼は何度も命を狙われることになりました」
「ヴィディヤーサーガル(Vidyasagara)は、自分の住む地域で未亡人の再婚をヒンドゥー教徒に認めさせるまで休むことはありませんでした」(The Vipra Age)
以上の人物に加えて、ブッダについても同じように触れています。
「すべての歴史家が、クリシュナ、ブッダ、マハープラブ、マハーヴィーラの道がバラの花のまかれた道ではなかったことを知っています。
今日でさえ、既得権益の担い手は、そのような人物に共感しません」(The Vipra Age)
別の個所で、ブッダも革命的で進歩的な役割を果たしたことをサーカーは評価しています。
サーカーは、次のようにレーニンもモラルある指導者として挙げています。
レーニンの唯一の罪がヴィプラの搾取機構に打撃を与えなかったことだということは、聖職者支配のことを指しているのでしょうか。
「今日、モラルある指導者として私たちの前に現われた人々の中で有力な慣習や迷信に対して抵抗した人々、たとえばレーニンやジョージ・バーナード・ショー、マナヴェンドラ・ローイ(Manavendra Roy)は、非難され、嘘の宣伝の犠牲となっています。
彼らはその歩みのあらゆる段階で理由なく反対され、口汚く罵られました。
彼らの唯一の罪は、ヴィプラの搾取機構に打撃を加えなかったことでした」(The Vipra Age)
天才的なヴィプラは、その時代にすぐには受け入れられず、数多くの障害に直面し、非難、屈辱、誹謗《ひぼう》の対象となったとして、ガリレオ・ガリレイとともにマルクスを紹介しています。
「搾取から人々を救おうとする意図をもってカール・マルクスが唱えた理論は、ヴァイシャと多くの程度の低いヴィプラによって迫害されました。
マルクス主義者の教義は、ヴィプラに社会的働き手としての余地を与えますが、ヴィプラが社会的寄生者となる余地はないからです」(The Vipra Age)
さらにサーカーは、マルクスについて次のように言及しています。
「ある搾取者のグループは、宗教に関するマルクスの意見に大声で反対します。
しかしマルクスは精神性(スピリチュアリティ)、道徳性、適切な振る舞いに反対しなかったことを覚えておくべきです。
彼の発言は、彼の時代の宗教に向けられたものでした。
宗教が人々を心理的に麻痺させ、罪人のグループに身を任せるように説得することで人々を無力化することに気づき、理解していたからです」(The Vipra Age)
もちろんサーカーは、マルクスの説いた唯物論哲学をスピリチュアリティの哲学の立場から繰り返し批判しています。
サーカーは、スピリチュアリティの修養として日に二度の瞑想実践を勧めますが、それと同時に社会的経済的搾取と闘い続けることをカルマ・ヨーガとして統一的に追求し、弟子たちがサドヴィプラとして成長していくことを促しているものと思われます。
○3 イデオロギーの重要性
サーカーは、イデオロギーの重要性を繰り返し語ります。
サーカーにとってのイデオロギーは「人はパンのみによって生きるにあらず」です。
「クシャトリアもヴィプラも単に物的・身体的喜びのためだけには生きませんでした。
どちらもイデオロギーに捧げました。(中略)
献身の理想(イデオロギー)から知性の輝きが切り離されたままであることはできません。
イデオロギーに執着しない知性は、その輝きを長くは維持できないからです。
輝きは利己主義の暗がりの中に失われていきます」(The Vipra Age)
献身の理想(イデオロギー)を持たなければ、知性は利己主義の暗がりの中で輝きを失います。
サーカーにとって最高のイデオロギーはスピリチュアリティであり、奉仕の対象は人類、生命、大宇宙そのものです。それは普遍的イデオロギーであり、天地万物は一なる聖なるものの表現であり、あらゆるものが尊重すべき聖なるものです。
それゆえに普遍的なイデオロギーを持った人々は社会経済的搾取に立ち向かったのです。
普遍的イデオロギーを持って生きることができるのは、知力の発達したヴィプラに限られません。
たとえ知力が低くても、イデオロギーを持って生きる人間の心はヴィプラであるとサーカーはいいます。
「政治的圧迫や迫害者からの暴力の脅しに屈せずに、自分たちの信念や宗教を保持しようとしてきた人々、そのために生命を失った人やその用意のある人々は、知的に発達していようがいまいが、心の性質から見るとヴィプラと見なされるべきです。
特定の教義の強制的に押し付けに対して抵抗や抗議の願望を持つ人々もまたヴィプラと見なされるべきです。
これらの教義には宗教の教義が含まれるだけでなく、社会的、経済的、政治的教義も含まれます」(The Vipra Age)
スピリチュアリティの道、精妙な道を進む人は、その人がシュードラ、クシャトリア、ヴィプラ、ヴァイシャのメンタリティであっても、サドヴィプラへの道が開かれています。
◎社会サイクルから見たヴィプラ
○1 ヴィプラ、クシャトリア、シュードラのクラスター構造
「クシャトリア時代の初期、個々のクシャトリアの周囲にシュードラの集団が育っていきました。
後にヴィプラが優勢になり始めると、同様に個々のヴィプラの周囲にクシャトリアの集団が形成されていきました。
それぞれのクシャトリアの集団の周囲に無数のシュードラの集団ができたことはいうまでもありません」(The Vipra Age)
クシャトリアは粗大な力でシュードラを従えます。
ヴィプラは知力で周りのクシャトリアをコントロールします。
つまり、コントロールされているそれぞれのクシャトリアがシュードラを従える構造になります。
続くヴァイシャ時代には、ヴァイシャが財の力でヴィプラとクシャトリアをコントロールします。
末期には本物のヴィプラよりも偽ヴィプラが多くなります。
「シュードラ時代からクシャトリア時代、クシャトリア時代からヴィプラ時代、ヴァイシャ時代へ、そしてヴァイシャ時代がついに社会革命に至るという社会サイクルのローテーションは動かすことのできない自然の法則です。
クシャトリアとヴィプラはそれぞれの時代に、世界に変化しないものは何もなく、彼らの支配もまた彼らの能力の不足ゆえにいつの日か終わりに至ることを、ともかくも悟りました」(The Vipra Age)
自分たちの支配に必ず終わりが来ることを悟ったヴィプラ、クシャトリア、ヴァイシャたちは、自分たちが地位を確立した力である人格的な長所や個人的な能力を子どもに身につけさせるよりも、相続権を確立して地位を相続させることを追求します。
そうすると、
「このようにクシャトリアの王は、その能力がどうであれ、自分たちの息子を王にすることを望みました。
ヴィプラもまた、どんなに愚かであっても自分たちの子孫が尊敬を集め、社会においてヴィプラとしての特権が与えられることを望みました。
後の時代に、ヴァイシャが同じ事態に直面しました」(The Vipra Age)
そのため、それぞれの時代の末期には本物の資質を持たない偽クシャトリア、偽ヴィプラ、偽ヴァイシャが支配することなり、次への進化と革命の時期を迎えます。
「クシャトリア支配の時期には、血筋が優れているという理由で権力が偽クシャトリアの手に移っていったことに気づきます。
ヴィプラ支配の時期には、権力は偽ヴィプラの手に移りました。
これらの人々が権力を維持することは不可能でした。
この時が、クシャトリアからヴィプラに、ヴィプラからヴァイシャに権力が移るチャンスでした。
抑圧的なヴァイシャの支配が社会的に耐えがたいものとなった時、一般大衆が直接的な革命を通じて新しい社会サイクルの章を開きました」(The Vipra Age)
○2 力を持ってきたヴァイシャに屈伏するヴィプラ
ヴィプラは知力で物事を動かします。
そのため、自分の思考を現実のものとする働き手や召使い、資金提供者がいなければ思考の大部分は無になってしまいます。
「ヴィプラは(中略)富の蓄積にほとんど頭を使いませんでした。
彼らはいつもどんな事態にも対処できると考えています。(中略)
ヴァイシャは、知力では負けても、資本をもってヴィプラをコントロールし始めます。
卑屈なヴィプラは、ヴァイシャの財を増やすことに取りかかります。
ヴィプラは自分自身では財を蓄積する力に欠けていますが、富の増やし方をヴァイシャに説明します」(The Vipra Age)
こうしてヴィプラはヴァイシャの召使い=資本主義の代理人になってしまいます。
資本家のヴァイシャは次第にヴィプラの手から社会の指導権をもぎ取り、ヴィプラの知力を用いて自分たちの支配を確立します。
○3 ヴァイシャ時代か否かの判定基準は財務省と中央銀行
その国がヴァイシャ時代に入っているかどうかを判定する基準は「金融上の集金と分配」「それに対応する大臣のポスト」にあるとサーカーはいいます。
ヴァイシャの部下となっているヴィプラは資本家の帝国主義の召使いとしてさまざまな面で大きな権力を振るいますが、ヴァイシャの支配の基盤は「金融上の集金と分配」というシステムにあるため、決してその根幹部分をヴィプラに譲ることはないからです。
「私たちは、ある国がヴァイシャ時代にあるかどうかを容易に判別できます。
ヴァイシャによってコントロールされた国家は常に民主的であるわけではありません。
明確な1つの指標は、ヴァイシャは常に金融上の集金と分配、それに対応する大臣のポストを正統派のヴァイシャの手に維持することです。
彼らは決して、この責任を教養ある経験豊富なヴィプラのエコノミストには委ねません。
自分たちの優位の確保を可能にしているのは金融上の集金と分配というシステムだからです。
ヴァイシャの社会システムでは、ヴィプラの学者はヴァイシャの計画を実行に移すための有給のプランナーであり、知的召使いにすぎません」(The Vipra Age)
◎ヴァイシャ支配下のヴィプラ
○1 ヴァイシャ支配下の華々しい知的進歩
ヴァイシャのお金は、ヴィプラの頭脳をコントロールします。
ヴァイシャ時代には、ヴァイシャのコントロール下にあるヴィプラによってさまざまな面で知的進歩が生じます。
華々しい発見の数々や多様で豊かな芸術、商品の開発といったヴィプラの仕事は、実はヴァイシャ時代の経済的要請下でヴィプラが成し遂げた仕事だとサーカーはいいます。
ヴァイシャは経済的搾取のためにヴィプラを知的悪魔のレベルに落とします。
ヴァイシャを美化し、ヴァイシャに抵抗するものを貶める本を書きます。
主人であるヴァイシャからの注文に応じて、ヴィプラの科学者は人類文明を破壊することのできる兵器を作ります。
心から喜んでそうするヴィプラもいますが、自分の研究を進めるには資金が必要であるため、ヴィプラはヴァイシャの要求に応じて奉仕するしかありません。
私たちは今日このことが産学協同の名で公然と大規模に進んでいるのを目撃しています。
「かつて創造的で独創的な能力によって数多くの人々の尊敬を集めたヴィプラの多くが、食べ物と衣服のためにヴァイシャの情けにすがるようになりました。
詩人や文学者は、ヴァイシャの出版社の命令に従い、あるいはヴァイシャのコントロールする政府から称賛を得ようとして作品を書きます。
画家は市場の求めに応じて絵筆を振るい、商業芸術を作らざるをえません。
そしてその過程でもっとも精妙な芸術の形を無視してしまいます。
真実を書くかわりに、ジャーナリストは仕事を失うことを恐れて利益を追求する新聞社のもとめに応じて白を黒と描きます。
彼らは良心に反して、ふさわしくない人が指導者になるのを助けるために真実をゆがめます。
彼らは自分のペンで華々しい嘘を作ります」(The Vipra Age)
サーカーの描く、ヴァイシャ時代のヴィプラのメンタリティについてのこのスケッチは、今日、少数ながらヴァイシャにコントロールされずに奮闘しているヴィプラたちを支える必要性を示しています。
○2 ヴァイシャの手先になったクシャトリア、ヴィプラの姿
シュードラはヴァイシャ支配への移行に気づきませんが、ヴィプラとクシャトリアは気づいてもどうすることもできず、その支配下に入ります。
そしてヴァイシャの手先として活動し、財政的な支援に応えます。
「ヴァイシャは、ヴィプラとクシャトリアの不統一やその他の弱点に完全に気づき、その知識を自分の権力維持を永続させるために用います。
1つのグループを他のグループと敵対させるために自分の財力を使います。
クシャトリアはヴァイシャへの恩義から、無意味な戦闘やケンカ騒ぎなどで生命を失います。
ヴィプラも同様にヴァイシャに養われ守られて、カースト主義、宗派主義、地域主義、ナショナリズムなどのさまざまな感情を生み出し、そのために必要な経典を編纂することによって派閥的な紛争を永続させます」(The Vipra Age)
ナショナリストのヴィプラが、ヴァイシャに養われて他民族との摩擦を引き起こすような歴史「経典」を生み出し、宣伝している姿を私たちは今日、目撃しているところです。
このヴァイシャ時代のナショナリズムは帝国主義の形をとり、人類の統一への前進を妨げる非常に有害なものだとサーカーはいいます。
「この目的を達成するために、経済に基づく新しいタイプのナショナリズムが生み出されます。
それは人格的な力と家柄の栄誉に基づいたクシャトリア時代のナショナリズムとは違いますし、学識に基づいたヴィプラ時代のナショナリズムとも違います。
ヴァイシャ時代のナショナリズムは、人類の統一に対してきわめて危険な帝国主義の形をとります」(The Vipra Age)
ヴァイシャが、なぜそのようなヴィプラのナショナリズムなどのイズムへ資金援助するのかについて、自分たちの搾取に対して団結して抵抗しないようにするためだとサーカーは明白に述べます。
「ヴァイシャは人々を分裂させるあらゆるイズムを助長することをはっきりと理解すべきです。
カースト主義、宗派主義、地域主義、ナショナリズムは、主としてヴァイシャの財力によって支えられます。
彼らは、人々が自分たちの搾取に対して団結して抵抗できないように分裂させておくためにそのようなイズムに資金援助します」(The Vipra Age)
ナショナリズムなどのイズムを社会に浸透させ、人々の心に半径を設定することが、ヴァイシャの支配に対して団結して闘うことを妨げることになるのは容易に理解できます。
現在、私たちは地域や宗派やネイション(国民国家)を超えて、ヴァイシャの搾取に対する団結を幅広く作り上げねばなりません。
○3 労働者の闘いを分裂して抑圧するヴァイシャ
「ヴァイシャがコントロールする雇用者や国家が労働者の運動を抑圧するために差別的方策をとることは、教養ある人にはよく知られています。
あるヴィプラのグループの計画と知的運動を崩壊させるために、別グループのヴィプラがスパイや密告者として使われます。
スパイや密告者はイデオロギー的なインスピレーションでなく自分の胃袋を満たすために働きます。
彼らはヴァイシャの召使いにすぎません」(The Vipra Age)
例として、サーカーは、ヒンドゥー・マハサバ(Hindu Mahasabha)運動の創設者であるインド議会の野党指導者シャームプラサード・ムケルジー(Shyamaprasad Mukherjee)の死にかかわる話を挙げています。
「ヴィプラの1グループがシャームプラサード・ムケルジーの不可解な死についての調査を強く要求した時、別のヴィプラのグループがすぐにカルカッタの電車料金を値上げし、そのことで値上げに反対する運動を引き起し、世間の目をそらせました。
そのため、シャームプラサードの死に対して直接、間接に責任のある典型的なヴァイシャたちは処罰を逃れました」(The Vipra Age)
私たちも、ヴァイシャが大きな社会的糾弾を受けている時に別の大きなニュースが発生し、人々の関心が移ることで、そのヴァイシャが指弾を免れる局面をよく経験します。
そこにはサーカーがここで指摘しているようなヴィプラを使ったヴァイシャの策動があるのかもしれません。
ヴァイシャはこのようなやり方で、ヴィプラの雇い人だけでなくクシャトリアとシュードラを使い、政治変革だけでなく農業と工業の労働者の不平、不満を抑圧していると考えます。
さらにサーカーは、ガンディーの非暴力運動について、創始者の精神は偉大だとしても、闘争なしにヴァイシャ支配を終わらせる幻想を人々に与え、ヴァイシャに対する反搾取の闘争を鎮静化する点でヴァイシャ支配に奉仕するものだといいます。
シュードラ革命なしに社会進化を説く福祉国家論も、意図は別として結果的にヴァイシャ支配に奉仕するものだといいます。
すなわち団結した闘争なしに福利の前進はないと説きます。
「革命はいうまでもなく、革命の必要性すら知識人はまだ適切に感じてはいません。
今日、彼らの心は煮え切らない状態にあります。
彼らは、闘争なしに、クラーンティ(kra'nti 進化)を通じて自然にヴァイシャ時代が終わる良き日を待っています」(The Vipra Age)
○4 なぜヴァイシャ国家はヴィプラに賞を授与するのか
毎年、政府の授与する勲章・褒賞の受章式の様子がニュースになります。
たしかに素晴らしい業績を残した人々です。
しかし、中にはわずかのお金と名声のためのおだてに乗らず、ヴァイシャの僕にならない姿勢を示すヴィプラも目にしました。
サーカーの考えでは、ヴィプラやクシャトリアは、ヴァイシャのようにお金のために危険をおかしません。
そのため、彼らの弱点を知っているヴァイシャ国家は、お金や名声を与えることで優れたヴィプラを飼い慣らします。
サーカーは次のように述べます。
「クシャトリアの勇気とヴィプラの知力を少し褒めることで彼らの識別力を鈍らせます。
その後も容易に褒めて彼らを容易にお金で扱います。
ヴァイシャ国家では、詩人、科学者、文学者、偉大なヒーローには賞やメダル、肩書きが与えられます。
このすべてにあずかることで、ヴィプラとクシャトリアはわずかのお金やわずかの名声、評判のためにヴァイシャの足下に才能のすべてを引き渡し、幸福を感じます。
彼らは自分の墓穴を掘っていることに気づきません」(The Vipra Age)
▼ヴァイシャ
◎ヴァイシャのメンタリティ
○1 享受よりも所有そのものを楽しむ
「物的対象の楽しみの味わい方は異なりますが、クシャトリアとヴィプラはどちらも物的富の享受を好みます。
しかしヴァイシャは、物的富を享受することよりも所有することに、より関心を向けます。
自分の所有物を眺めたり、それについて考えたりすることが彼らの心に平穏をもたらします」(The Vaesha Age)
富の享受を好むメンタリティの場合は、その富自体が持つ値打ちが発揮されます。
名画を壁にかけて楽しむとき、その名画は値打ちを発揮しています。
しかし富の蓄積と所有を好むメンタリティの場合は、名画を集めて財産を築いたこと自体が喜びであるため、その名画自体の値打ちは発揮されていません。
「ヴァイシャ時代では、物的財の実質的値打ちが他のどの時期よりも低いのです。
財は次第に活用されなくなり、価値を減じます。
これがヴァイシャ時代における最大の災いの種です」(The Vaesha Age)
○2 蓄積するという意図を隠さない
ヴァイシャもヴィプラも、他人の知力や身体的労力を利用する点では同じです。
違いは、ヴィプラは楽しみの対象を欲していることを率直にいわずにいろいろな理屈をつけますが、ヴァイシャは自分が富の蓄積をめざしていることを率直に口にする点にあります。
「ヴィプラは、楽しみの対象を得る時に他人には自分の意図を知らせません。
彼らはさまざまなロジックや経典からの引用、無関心のふり、その他のいろいろなテクニックを用います。
ヴァイシャはそのようなことをしません。
少なくともこの点では、彼らはヴィプラよりも率直です。
彼らは自分の意図、すなわち楽しみの対象の数を増やし、蓄積するという意図を隠しません」(The Vaesha Age)
ヴィプラの場合は知性が邪魔をし、楽しみの対象を得るためだと率直にいえないということです。
○3 どんな時でも富の蓄積は忘れない
ヴィプラが良心を発達させると、自分の知力を自分の喜びのためだけに費やすのが嫌になり、無私の精神で社会変革や奉仕に携わる人が出てきます。
レベルの高いヴィプラ(サドヴィプラ)です。
しかし、そのようなことは決してヴァイシャには起こりません。
ヴァイシャはどんな時でも富の蓄積を忘れず、すべてを営利の目で見ているとサーカーはいいます。
「ヴァイシャは貪欲な目で世界を見ていきます。
完全に正確にこの世の問題を見ている能力を持っておらず、物事の経済的価値以外は何も理解しません。
彼らの営利本位の見方は物質世界に限らず、知的な世界と精神性の世界をも含みます」(The Vaesha Age)
ヴァイシャは人の尊厳までもお金の見地から評価します。
それは社会のすべてに深い影響を及ぼしています。
○4 物的対象の観念化によって粗大な性質を身につける
サーカーによれば、心の求めるものを「パブラ」といいます。
パブラが物質的なものであれば、その人の心は次第に粗大になります。
パブラが精妙なものであれば、つまりその人が精妙な喜びを求める人であれば、その心は精妙な優しいものになります。
ヴァイシャの心は財の蓄積を常に念願します。
たとえば名画を眺めて満足する心は精妙な方向に導かれていますが、その名画でどれだけ儲かるかを考えている心の中は、外見と異なり、次第に粗大化して、優しさを失っていきます。
「物的な楽しみの対象を蓄積した後は、ヴァイシャとヴィプラとでは異なります。
ヴィプラはより高い追求(研究、仕事)について考えるので、楽しみの対象を観念化しません。
一方、ヴァイシャは楽しみの対象を観念化するため、やがて粗大な物質の性質を身につけます」(The Vaesha Age)
お金を追い求めて粗大になった心は不正直でゆがんだ心でもあり、お金儲けのためには良心やモラルを捨ててしまうようになります。
私たちはバブル期の金融界の最高責任者たちの中にそのような心を見ました。
サーカーは、資本主義の最後の段階になるとヴァイシャはヒューマニズムのかけらも持たなくなると、さらに厳しい言葉で表現しています。
「自分の知力を長期間にわたって物的な富の蓄積のみに用いる時、人々の知力は次第にその方向に発展していきます。
この種の思考を自分たちの心理体(この概念については別冊のサーカーの心理学のところで説明します)に吹き込むからです。
最終的には『どうすればもっと蓄積できるか』が彼らの唯一の思考になります。
社会的精神やヒューマニティの感覚は次第に消え、最後はまったくの吸血鬼になります。
彼らはほんのわずかのヒューマニティのかけらも保持していません」(The Vaesha Age)
いかに蓄積するかだけを考え、それによって世界の人々がどれほど飢えるかは考慮に入れないヴァイシャ経営を、グローバル経済の多国籍企業の中に私たちも見出すことができるのではないでしょうか。
○5リスクを負ってお金を手に入れる勇気
「ハイリスク・ハイリターン」という言葉がよく使われます。
起業家精神を育てようというスローガンが教育の中に持ちこまれています。
教育は本質的にヴィプラが担当しているものです。
教育は粗大な心から精妙な心へと精神性と道徳性を培うところであり、物的対象を観念化させる教育は人間性の低落を引き起こすことになります。
しかし現在、それが公然と唱えられ、教育界の中に影響を及ぼしていこうとしています。
いかにヴァイシャのメンタリティが社会に大きな影響を及ぼしているかがわかります。
このハイリスク・ハイリターンの考えこそヴァイシャを勝利に導いた資質です。
サーカーは次のように言及します。
「ヴァイシャは、どんな栄光も生活のリスクをかけて手にします。
この点ではヴィプラよりも明らかに優れており、クシャトリアよりも優れているかもしれません。
ヴァイシャは常に生活と個人的な利益と損失の浮き沈みの可能性を心に留めているので、あらゆる事態に適応する能力を広範に身につけます。
とりわけ贅沢に引きつけられず、苦難に退きません。
それが彼らの成功への鍵です」(The Vaesha Age)
○6 本物のヴァイシャは窮乏に耐え、蓄積を楽しむ
ヴァイシャは贅沢な生活を楽しむのではなく、蓄積と所有を楽しみます。
そのため、彼らを贅沢な浪費家だとイメージするのは間違いです。
「禁欲的エートス」をもって自らの生活を律し、財の蓄積に全力を尽くします。
日本でも著名なヴァイシャがメザシを食べ、質素な生活をしていることが報道されましたが、それは本物のヴァイシャのメンタリティだと考えられます。
「ヴァイシャは単に富を蓄積することで満足し、蓄積した財宝について考えることを楽しみます。
それゆえ大富豪のヴァイシャでも、時にはギリギリの生活必需品まで軽視します。
彼らは、お金を数えている時には空腹を忘れます。
蓄えた富を見る時、彼らの心はそれに没頭しています」(The Vaesha Age)
しかしヴァイシャの子孫たちは質素な生活を忘れ、次第に生活面でも貪欲になっていきます。
○7 ヴァイシャ・メンタリティの起源
マルクスの『資本論』では、サーカーのいう「物的財の実質的値打ち」は「使用価値」と表現されています。
富の蓄積と所有を追求するヴァイシャのメンタリティは、「交換価値」の変じた貨幣に対して「物神性」を見ることとして表現されています。
マルクスは「存在が意識を規定する」という唯物論の命題どおり、経済的諸関係の中からそのようなメンタリティが発生するという見方をします。
サーカーの理論では、ヴァイシャのメンタリティはもともとそうした資質の持ち主が、経済諸関係の中でそうしたメンタリティを発達させるということになります。
すなわち、ヴィプラ時代にクシャトリアの人格的・身体的パワーとヴィプラの知力に敗北した人々が別の社会的認知を得る努力をする中で(心理的衝突の中で)お金を作る知力を発達させたのだといいます。
「ヴィプラ時代に、身体的な力や勇気、知的な能力がないために敗北した人々は、別の生き方を発見し、社会的認知を得ようとしました。
自分たちを確立する努力を継続する中から生じた特定のタイプの心理的衝突が、彼らの中にお金を作る知力を発達させました。
この手腕は、彼らが強者の強さや勇者の勇気、知識人の知力を利用するうえで役立ちました」(The Vaesha Age)
◎ヴァイシャの搾取と搾取構造
○1 より厳しいヴァイシャの搾取
ヴァイシャの心は財の蓄積を目的とするため、クシャトリア支配やヴィプラ支配よりも他者の搾取(利用)が一層厳しくなります。
サーカーは、ヴァイシャ搾取の厳しさを繰り返し述べます。
「クシャトリア時代とヴィプラ時代には、倉庫で穀物が腐っていたとしても一般の人々が飢えて死ぬことはまれです。
これらの時代には富の不均衡がありますが、クシャトリアとヴィプラは、自分の財を享受したとしても、他の者を窮乏や貧困、飢餓の状態には蹴落としません。(中略)
ヴァイシャにとっては、シュードラやクシャトリア、ヴィプラは搾取のために用いる道具であるだけでなく、搾取の源泉でもあるのです」
「ヴィプラとヴァイシャは、いずれも社会を搾取します。
しかし、ヴィプラ搾取者はヴァイシャ搾取者ほど恐ろしくありません。
ヴァイシャは、その生命の樹液を吸い尽くして社会という木を枯らせてしまおうとする寄生植物のようなものです。
木が枯れると寄生植物も死にます。
ヴァイシャという寄生植物はそれを知っているので、いくらかの寄付をすることによって社会の存続を確保しようとします」(The Vaesha Age)
サーカーは、このようにして社会の存続を確保するヴァイシャは、レベルの低いヴァイシャではないが高いレベルともいえないとして、こう付け加えます。
「しかし、低級ではないヴァイシャを『レベルの高い』ヴァイシャと呼ぶつもりはありません。
彼らが搾取とともに寄付をすることで社会に恩恵をもたらしたとしても、それが彼らの搾取によって死んでいった人々の生命を生き返らせるものではないからです」(The Vaesha Age)
○2 ヴァイシャ時代の終わりには社会的意識を失う
このように動機が何であれ、つまり自分の寄生する木(社会)を枯らさないためであれ、ヴァイシャはいくらかの社会的精神を持っていました。
しかし最後にはそれも失うとしてサーカーは次のように述べます。
「彼らの社会的動機が何であれ、ヴァイシャは時に社会奉仕や慈善活動のためにお金を費やします。
しかしヴァイシャ時代の終わりには、彼らは社会意識の最後の痕跡すら失い、その無謀さの結果としてシュードラ革命が起こります」
「ヴァイシャ時代の初期には、ヴァイシャは蓄財と社会奉仕の両面においてお金を作るための知力を用い、これらの問題について社会のメンバーから助言を受けます。
しかしヴァイシャ時代の末期までには、彼らは蓄積に酔い、あまりに無責任になり、誰からも助言を受ける用意がなくなります。
彼らは社会を搾取するためにだけ、お金を作る知力を用います」(The Vaesha Age)
○3 ほぼすべての社会悪がヴァイシャによる搾取から生じる
サーカーは、ほとんどの社会悪がヴァイシャによる搾取から生まれていると指摘します。
ヴァイシャが利益獲得に走る結果、大衆の生活必需品が不足し、強盗や闇商売などの犯罪行為を生み出します。
根本原因はヴァイシャの搾取にあるのに、ヴァイシャは社会の指導者として道徳を説きます。
「ヴァイシャの銀行預金残高を増やすために、ヴァイシャは食べ物や衣服などの生活必需品の欠乏を人工的に引き起こし、闇市場で儲けます。
法外な価格で商品を買う力のない人は最低限の生活必需品を得るために盗み、凶器を持った強盗その他の犯罪行為にかかわります。
衣食に恵まれない貧しい人は貪欲なヴァイシャの手先として闇商売や密輸に手を染めます。
捕まって罰を受けるのはこれらの貧しい人々です。
ヴァイシャは財力のおかげで逃れます。
不運な貧しい人々は良心を失って一層罪深くなり、社会はこれらの罪人をとがめます。
豊かなヴァイシャは罪人たちを煽動したにもかかわらず、公共の指導者としての役割を演じます。
花輪をつけ、熱烈なスピーチをして大衆にもっと大きな犠牲を勧めます」(The Vaesha Age)
売春を完全になくす方法も、ヴァイシャ支配の社会システムをなくす以外にないとサーカーはいいます。
「売春という厭うべき社会の病気もまたヴァイシャの作ったものです。
富が過剰になった結果、ヴァイシャは自制心と品性をなくします。
その一方で、貧困によって多くの不幸な女性がこの罪深い仕事に身を落とすことを余儀なくさせられます」(The Vaesha Age)
サーカーはインドを例に、法的には売春が禁止されるようになったが、以前には制限されていた売春地域が実際には広がってしまっていることを指摘します。
そして売春をなくすためにはヴァイシャ支配という経済的不公正をなくすことだと強調します。
「この罪深い職業をインドで根絶するためには、ヴァイシャの社会システムを廃止することが必要です。
売春事例の80%は経済的不公正が原因だからです。
もちろん、間違った教育や卑しい性向のために売春や買春にふける男女がいる限り、経済的不公正が根絶された後も続くでしょう。
ですから、法律を制定するかわりにヴァイシャの搾取システムが廃止されなくてはなりません。
そして法的に何かを禁止するかわりに健全なものの見方が助長されるべきです」(The Vaesha Age)
○4 ヴァイシャの搾取構造
ヴァイシャは、お金でシュードラの労働力やクシャトリアの人格的パワー、ヴィプラの知力を買って富を増やします。
クシャトリア時代、ヴィプラ時代と比較しながらサーカーは次のように述べます。
「ヴァイシャは自分たちの必要に応じてシュードラの労働力やクシャトリアの力強い人格性、ヴィプラの知力を買い、富を増やします。
シュードラはちょうど家畜のように、単に生存のためだけに身体労働を売ります。
彼らが労働力を売るゆえに、社会は存続して前進します」
「力強い人格をもつクシャトリアは、シュードラから引き出す労働で社会構造を打ち立て、維持します。
ヴィプラは知性によってクシャトリアの人格的な力を役立たせます。
ヴァイシャはお金と資本家的メンタリティによって、ヴィプラの知性を自分たちの富を増やすのに役立たせます」(The Vaesha Age)
ヴァイシャは、自分のために財を増やす機械のように社会をとらえ、社会という機械を自分の所有物であるかのように考えます。
「もちろんヴァイシャは社会的ボディの一部ですが、彼らは社会的ボディ内のお金を作る機械の一部分ではありません。
彼らは分離しています。
彼らは油や水や燃料を機械に供給しますが、機械の中で過ごしているというよりも、機械からずっと離れています。
彼らは考えます。
『機械が動くようにと、私が油や水、燃料を供給したので、その生産物のすべては私のものだ。
私のお金で機械を作った。
私のお金でその機械を壊すこともできる。
必要なら、油、水、燃料をもっと供給して、機械をさらに働かせることもできる。
必要がなくなれば、廃品置き場に送ることもできる』」(The Vaesha Age)
○5 国家資本主義
サーカーは、国家資本主義も本質的にヴァイシャの搾取システムだと見ます。
国家は資本を投資して国民的富を増加させなければなりません。
しかし、この場合の国民的富の増加は、一部の国民の富の増加を意味します。
国家資本主義における平均収入の統計にはごまかしがあります。
富裕者の平均収入が増加していれば、貧しい人の平均収入は増加していなくても、国民全体としての平均収入は増加したように見えます。
私たちは「開発独裁」と呼ばれた発展途上国の経済成長スタイルの中にこのような国家資本主義を見てきました。
「この種の国家資本主義を支持することはできませんが、国家が、国家の富を増やすために資本を活用しなくてはならないことは否定できません。
もし国家資本主義が搾取することを絶えず追求せず、一人当たりの収入を増加させようとするならば、私たちは国家資本主義を称賛せざるをえません。
私たちはそれを模範的な社会主義と見なすことができます」(The Vaesha Age)
一部の人の収入増だけでなく、一般の人々が1人当たりの収入を増加させているかどうかが経済的搾取の有無を判定する重要な基準となります。
シュードラ革命への用意をしつつも、ヴァイシャ支配構造の下で、一般の人の収入の増加、購買力の増加を求めて、すなわち搾取の緩和を求めて運動する必要があります。
○6 ヴァイシャから偽ヴァイシャへ――搾取の強化
サーカーは経済的知力の下で何人かのヴィプラが経済的な知力を発達させるといいます。
私たちの社会でもエコノミストの学者ヴィプラが経済の担当大臣になっていますが、このような人々は偽ヴァイシャであり、ヴァイシャの良さもヴィプラの良さも持っていないといいます。
ヴィプラは知を追求する人ですが、財を追求するメンタリティを持つことで人間として低下している上に、リスクを厭わない本物のヴァイシャとは違って安全な地位を確保しているからです。
その上で、労働者のリストラが必要であることをマスコミで説くのです。
サーカーは次のように表現しています。
「ヴァイシャ時代の終焉に向けて、偽ヴァイシャが社会を支配していることが明らかになります。
ヴィプラのゆがんだ思考が、これらの偽ヴァイシャのヴァイシャのような経済的な知力と混ざります。
しかし偽ヴァイシャはヴァイシャとヴィプラのどちらの良い資質も持っていません。
そのため、ヴァイシャ時代のまさしく最後までヴァイシャから受け継いだものを彼らは実行しますが、最終的にはまったくの悪評と恥辱の中に陥ります」(The Vaesha Age)
○7 偽ヴァイシャへの厳しい言及
「偽ヴァイシャは、自分たちの子孫が能力不足によって将来、財政的な困難に直面するかもしれないという不安から、社会全体を搾取し続けるだけでなく、子孫のために莫大なお金を蓄えておきます。
そのお金は、部分的にもしくは完全に活用されないままになります。
資本の非活用は経済的搾取の最悪の成り行きです」(The Vaesha Age)
日本でも、ここでサーカーの言う学者ヴィプラの偽ヴァイシャにあたる大臣が大臣就任期間中に投機活動をしていたことが肯定的に報道されていましたが、ここでサーカーが述べているような心理が働いたのでしょうか。
そういえば、破綻したロングターム・キャピタル・マネジメント社というアメリカの大手ヘッジファンドは2名のノーベル賞経済学者を抱えていました。
優秀なヴィプラの頭脳が財の蓄積のために知力を使い、偽ヴァイシャになりました。
起業家育成と称してヴィプラの卵である学生を偽ヴァイシャとして育てようとする取り組みが広がっています。
このようにして育つ偽ヴァイシャの時期がヴァイシャ時代の終末で、社会は混乱に陥ります。
「自分たちによる搾取を妨害なしに永続化させようとして、偽ヴァイシャは自分たちの経済的な知力だけなく、自分たちの持つ他の知力すべてを使います。
彼らは是が非でも政府権力さえ握ろうとします。
そしてその権力を搾取の道具、社会全体を粉々にする冷酷な機械として用います」(The Vaesha Age)
そこでシュードラとシュードラ状態に低下したクシャトリア、ヴィプラの反乱、反抗が起きます。
「搾取されて踏みにじられた人々や、搾取されて死ぬことを欲しない人々は反乱を起こします。
シュードラ革命は不正直なヴァイシャに支配されたヴァイシャの時代に起きます」(The Vaesha Age)
ただし、後述するようにヴィジョンなき反抗は社会をさらに悪化させるだけです。
資本主義を廃止し、新しい時代を築くには人々の心を変える容易周到な準備が必要だとサーカーはいいます。
◎ヴァイシャの短所の中の長所
○1 必要な財を生み出した
ヴァイシャ時代の直中にいる私たちは、ヴァイシャの搾取に対するサーカーの厳しい指摘にもかかわらず、その生産や科学技術の進歩などに実感として長所を感じてきました。
サーカーは、「この世に善だけ、悪だけというものはありえない」と述べ、ヴァイシャの長所についても正当に指摘しています。
「こうしたすべてにかかわらず、私は、この世にまったくの善やまったくの悪は存在しないと主張します。
いかなる個人的な試みや集合的な試みをするにも、最初は、お金か資産の形のどちらかの資本を必要とします。
そのような資本を大量に非常に多様な方法で作り出す機会は、ヴァイシャ時代にやってきます。
そのような資本の助けで、個人と集団の両方に必要な財が生み出されていきます」(The Vaesha Age)
○2 資産の管理運用能力の高さ
ヴァイシャの財産管理能力は優れているため、それを政府や協同組合、一般大衆の代表者に任せると間違った使い方や非活用が生じるとサーカーは指摘しています。
「国の内部の資本であれ、外部からの資本であれ、全般的な生活水準を向上させるためには資本が必要です。
資本は、部分的に、あるいは全面的に個人によって管理されなくてはなりません。
もちろん管理する個人はヴァイシャです。
もし、どのように用いられるべきかを検討することになしに、資本の使用や管理を政府や協同組合、あるいは一般大衆の代表者に任せたら、資本の非活用や間違った活用がどんな状況でも必ず生じます。
これは、資本主義諸国が物質的領域できわめて急速に発達する理由です」(The Vaesha Age)
このヴァイシャの長所が、民営化の中で公共部門をどんどんヴァイシャの私的経済活動の中に移すことを人々が支持する根拠ともなっていると思います。
実際、道路建設が非常に非採算的になされるようなことはヴァイシャの管理下ではありえなかったでしょう。
集団経営の管理権をヴァイシャの手から国家に移した旧ソ連の失敗の主な理由がここにあるとサーカーは考えます。
「もし富の所有権が個人から取り上げられ、国家の手に置かれたら――言い換えれば、もしヴァイシャ・システムが力によって廃止されたら、経営者たちは私的所有者と同じ程度には資産の管理を行なうことはできないでしょう」(The Vaesha Age)
ただしサーカーは、将来的には経営をヴァイシャの手から協同組合に移すことを支持しています。
ここではサーカーがヴァイシャの資産管理運用能力の高さだけ評価していることを指摘しておきましょう。
充分な心理的用意なしに協同組合化を実施すると社会的損失まで引き起こすゆえに、心理的準備ができるまでヴァイシャに経営を任せるほうがいいですよと読み取りました。
◎搾取の永続化の努力
○1 社会的寄生者としてのヴァイシャ
生活必需品の生産、貯蔵、分配はヴァイシャの所有権と部分的な管理の下でなされていますが、そのための労働、知力を提供している人々はヴァイシャではありません。
ヴァイシャは、ヴィプラ、クシャトリア、シュードラの助けなしに搾取機構を回していけないことを知っているので、ヴァイシャとそれに奉仕するヴィプラは心理的操作を行なってヴァイシャの搾取機構を守ります。
「大言壮語の裏で、ヴァイシャは自分の資本主義的支配を永続させるために心理的な操作(ごまかし)を続けています。
そのプロセスによってシュードラとクシャトリアは容易にヴァイシャの奴隷になります。
ヴィプラは何が起きているかを理解していますが、短期間の闘いの後、クモの巣にかかったハエのように彼らもヴァイシャに屈伏することを余儀なくさせられます」(The Vaesha Age)
○2 ヴァイシャ搾取機構維持のための心理的操作
ヴァイシャ搾取機構を維持するためには、まずお金でヴィプラの知力、クシャトリアのパワーを買収し、シュードラを味方につけ、大多数の人々に世の中というものはこういうものだと諦めさせなくてはなりません。
そこでヴァイシャの僕となっているヴィプラたちは「諦めの哲学」を説きます。
そのためサーカーは「あらゆることが運命として定められている」という宗教の克服を重視し、その文脈からマルクスの「宗教は民衆のアヘン」という説も擁護します。
宗教が、民衆の搾取と闘う意識覚醒を妨げる側面があるからです。
第2に、団結してヴァイシャ構造に立ち向かわないよう、人類の間に紛争を起こさなければなりません。
そこでヴァイシャに買収されたヴィプラは人類の間を分裂させるさまざまなイズム(ナショナリズム、宗派主義、宗教)などを説き、ヴァイシャの搾取から人々の目をそらします。
「いかなるタイプの宗派的な紛争やあらゆる煽動された紛争において、対立する双方の背後に富裕なボスがいることは明白です。
ボスたち自身が槍や楯を持って立ち向かうことは決してありません」(The Vaesha Age)
第3に、ヴァイシャへの尊敬心がさまざまな手段で人々に注入されます。
雇われヴィプラたちが書くヴァイシャ美化の本、コマーシャル、公共施設にヴァイシャの個人名をつけるなどです。
ホールなどの建物にヴァイシャの個人名が冠せられていることがありますが、その事情についてサーカーは次のように述べます。
「時には、ヴィプラ、クシャトリア、シュードラが、いくつかの価値ある公共施設を維持するために尊敬に値しないヴァイシャの助けを求めることがあります。
そしてお金のために、そのヴァイシャの名前を施設につけることを余儀なくされます」(The Vaesha Age)
第4に、搾取機構維持のためにヴァイシャは投資として慈善的な行ないをします。
ただし、その投資は心理的満足だけでなく、後にそれだけの利益は必ず回収します。
「時にヴァイシャが引き受ける慈善的な仕事は、彼らの搾取を維持するための単なるトリックにすぎません。
彼らのほとんどの活動は、ヒューマニズムによって思い浮かべたものではありません。
彼らの唯一の目的は搾取の機構を維持することです」(The Vaesha Age)
以上の4点にとどまらず、自分たちの地位を維持するために常に新しい、一層手の込んだ形の欺瞞的なやり方をヴァイシャは考案していきます。
ただし、ほんのわずかながら正直なヴァイシャもいることをサーカーは指摘しています。
◎ヴァイシャの搾取の抑制
○1 ヴァイシャの貪欲さを物的強制力で規制する必要
サーカーは、ヴァイシャに搾取(利用)されたシュードラ、クシャトリア、ヴィプラを救うためにはヴァイシャからお金を取り上げるしかないといいます。
「彼らはお金であらゆることを果たそうとするので、お金が彼らの活力の源になります。
それゆえ彼らはお金を蓄積するために生活の中であらゆる種類のリスクをかけます。
お金のために彼らはいつでも良心、善悪、正邪の感覚を犠牲にすることができます。
ヴァイシャから搾取されたシュードラ、クシャトリア、ヴィプラたちを救うためには、ヴァイシャの力の源泉であるお金を取り上げなくてはなりません」(The Vaesha Age)
しかしヴァイシャのメンタリティは、自分たちのお金を失ったからといってなくなるものではありません。
なおも貪欲にお金を作ろうとし続けます。
したがって、資本主義の次に来る社会構造は、ヴァイシャの貪欲さに物的強制力を課すものでなくてはなりません。
「社会の構造がヴァイシャの貪欲にお金を作るメンタリティを無力にするような方法で確立され、社会がその方法で(時、場、人とのバランスを維持しながら)維持されなくてはならないでしょう。
これは、説得や哲学的議論によっては成し遂げることができません。
物理的な力によって彼らのお金を作る知力を無力にしなくてはなりません。
彼らに聖なる真実を示し、座らせ、彼らの頂点に進む知性を目覚めさせるために精神性の実践を実行させなくてはなりません」(The Vaesha Age)
物的強制力とは、特定の人数を超える従業員を働かせている私企業は協同組合化とするという法律の制定などのことだと解釈します。
現在は、このサーカーの主張とはまったく反対にお金を作る知力が全面的に開花する方向に改革がなされています。
すなわち経済自由化の掛け声の下で、課せられていた営利活動への制約が解かれ、より広い領域がヴァイシャの営利活動の対象となりつつあります。
サーカーのいう「物理的な力」とは、人々を守るためにヴァイシャの無制限な営利活動に対して必要な規制をかける運動や法律のことだと理解しました。
○2 絶望した多数者の反ヴァイシャの反乱は未来を開かない
多くの者が搾取に耐えることができず他に出口を見いだせない時、絶望的になって行動に移す時に、ヴァイシャ時代は終わります。
しかし、絶望した多数者が反乱に立ち上がったからといって良い時代が到来するわけでありません。
新しい社会への周到な準備なしには、一層の混乱がもたらされます。
「その時には彼らは絶望的で盲目的で心ない人々になり、良心と知性と理性を完全に失っています。
ある日彼らはヴァイシャ構造を容赦なく粉砕します。
なぜこんなことをするのか、新しい構造はいかなるものであるべきかという考えは決して彼らの心に浮かびません。
彼らはただ生き延びるために闘争に立ち上がるだけです。
『どうせ生きられないのだから、早く死のう』と考えます。
この方向性のない革命が進行するうち、シュードラ、クシャトリア、ヴィプラの心の状態はほとんど同じものになります。
人類にとって価値あるものを彼らに期待することはできません」(The Vaesha Age)
私たちは理性と知性に導かれたシュードラ革命のために徹底した準備をしなくてはなりません。
「ヴァイシャが社会の寄生者であることを踏みにじられた人々が理解するには長い時間がかかります。それゆえ、ヴァイシャ時代を終わらせるには徹底した準備が必要です」(The Vaesha Age)
○3 ヴァイシャ構造終結への苦難の道
より人間的な原理に基づく社会をめざして改革を試みる人は、これまでも苦難に直面してきたことはよく知られています。
サーカーはヴィプラ時代の社会構造を改革しようとする人々は筆舌に尽くしがたい社会的な責め苦を受けたけれども、ヴァイシャ構造を打ち壊したいと思う人にはそれ以上の困難があるといいます。
「ヴィプラ構造を打ち壊したいと思った人々は、ヴィプラとその保護下にあるクシャトリア、シュードラとも闘わなければなりませんでしたが、ヴァイシャ構造を打ち倒したい人々は、ヴァイシャに従うヴィプラ、クシャトリア、シュードラの3つのタイプすべてと闘わなくてはならないからです」(The Vaesha Age)
ただし、ヴィプラ構造を打ち壊そうとする人とヴァイシャ構造を打ち倒そうとする人には、どちらも一般の人々から理解されないという共通性があるといいます。
「しかし、両者の間には共通性があります。
一般の人々は、自分たちのために努力している偉大な人々を理解できません。
もし理解したとしても支持しようとはしません。
人々の神経、勇気、労働をヴァイシャが金で買っているからです」(The Vaesha Age)
では、ヴァイシャの搾取構造を廃止しようとしている人間はどのような準備をしていかなくてはならないのでしょうか。
▼シュードラ革命とサドヴィプラ社会集団
◎プラウト社会を実現するシュードラ革命の導き手は誰か
○1 導き手はクシャトリアとヴィプラの心を持ったシュードラ
ヴァイシャ搾取機構への怒りからの反乱、理性と知性、ヴィジョンに導かれないシュードラの反乱は社会的な混乱を招き、事態を悪化させるにすぎません。
シュードラ革命の成功のためには、周到で徹底した用意が必要です。
かつて西洋で社会主義思想が勃興した時、サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーウェンなどが資本主義のシステムにかわる理想社会を描きました。
それに対して、マルクスやエンゲルスは、それらは頭の中で描いたプランであり、描いた理想の社会の実現を担う社会的主体を見出していない実現不能な空論だと考えました。
そして自らの思想を科学的社会主義と呼び、それまでの社会主義思想を空想的社会主義と呼びました。
マルクスとエンゲルスは、資本主義生産様式の発展が生み出す近代的な賃金労働者(プロレタリア)たちの資本主義搾取に対する闘争への団結力に社会主義のための変革主体を見出しました。
サーカーのシュードラ革命論は、言葉だけ見るとシュードラ=プロレタリア(労働者)革命で同一のように見えます。
しかし結論から先に述べると、サーカーのシュードラ革命の中身は、経済的にシュードラ状態に近づいたクシャトリアとヴィプラがシュードラたちを団結させて勝利する革命です。
実際、これまでの歴史上のシュードラ反乱やシュードラ革命は必ずシュードラ化したクシャトリアかヴィプラに導かれています。
「経済的にはシュードラで心理的にはヴィプラもしくはクシャトリアである人々がいなければ、シュードラ革命は不可能です。
革命を起こすのはシュードラのメンタリティの持ち主の仕事ではありません。
シュードラは闘争を避けます。
彼らはヴァイシャの意のままに操られている人々だからです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
とはいえ、シュードラ状態にあるクシャトリアやヴィプラなら誰でもシュードラ革命の導き手になれるわけではありません。
ヴァイシャの財力に買収されない人物、シュードラ革命を裏切らない人物でなくてはなりません。
そのため、シュードラ革命の勝利をめざす人はスピリチュアリティの道を進まなくてはなりません。
「もし、クシャトリアとヴィプラの心を持ったシュードラがスピリット(精神性)を欠いていたならば、彼らもヴァイシャのお金で買収されるでしょう。
シュードラ革命の成功は、充分なスピリット(精神性)を持っている、心理的にはヴィプラかクシャトリアであるシュードラにかかっています」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
○2 サドヴィプラ――スピリチュアリティの高い革命家
このようなシュードラ革命の導き手こそサドヴィプラである、すなわちクシャトリアの心とヴィプラの心のシュードラが革命に向けて鍛えられ、規律を身につけ、人格の確立した人がサドヴィプラであるとサーカーは次のようにサドヴィプラを定義づけています。
「クシャトリアの心を持ったシュードラやヴィプラの心を持ったシュードラは、規律を身につけ、適切な革命の訓練をし、自分の人格を確立し、モラリストにならなければならないでしょう。(中略)
そのような厳格なイデオロギー的なサドヴィプラが革命のメッセンジャーになるでしょう。
彼らは、世界のあらゆる家庭に、人間のいるところの隅々にまで革命のメッセージを運ぶでしょう。
革命の勝利の旗は彼らだけが運びます」
「サドヴィプラという言葉の意味は、モラリストであり、スピリチュアリストである人、かつ不道徳に対して闘う人という意味です」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
○3 「中産階級」からサドヴィプラが生まれる
このようなサドヴィプラはほとんど中産階級の中から出てくると述べます。
中産階級は一般的に、所得が中層であるとか、肉体労働をしないホワイト・カラー層であるなどと定義されます。
しかしサーカーは、「『中産階級』とはヴィプラとクシャトリアの心のシュードラである」と心理的側面から定義します。
モラルの高い人は富裕者にも貧困層にもいます。
しかし富裕者のモラリストやスピリチュアリストがサドヴィプラになるには、経済的には中産階級のレベルまで下りなくてはならないとサーカーはいいます。
なぜなら、莫大な富を蓄積していることはプラウトの原理に反しているからです。
貧困層であってもシュードラの心でなく、クシャトリアかヴィプラの心を持っている人はサドヴィプラになることができます。
このような貧困層もサーカーは心理的な側面から「中産階級」と位置づけます。
「クシャトリアとヴィプラの心を持っている貧しい人々だけが革命を起こすことができます。
そのような貧しい人々を私は中産階級と呼んでいます。
マディヤヴィッタ・サマージ(Madhyavitta sama'ja 中産階級)という用語を私はこのように使っています」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
○4 ヴィクシュブダ・シュードラ=革命的シュードラ=「中産階級」
サーカーは「中産階級」をクシャトリアの心とヴィプラの心を持ったシュードラと定義しますが、一般には「中産階級」はメンタルな面からは定義されません。
一般の定義に従えば、プラウトをめざす革命家は中産階級からも出てくるし、中産階級以外からも出てくることになります。
その場合、ヴァイシャの支配に不満を抱いているシュードラという意味で、サーカーはヴィクシュブダ・シュードラという言葉を使います。
「もし誰かが『中産階級』という言葉を使うことに反対するならば、あるいは、『中産階級』とは平均的な財を持っている人々のことなので、革命のパイオニアすなわちクシャトリアの心、ヴィプラの心を持ったシュードラは中産階級であることもあれば中産階級でないこともあるというならば、私は革命的シュードラという意味を表すために『中産階級』のかわりに『ヴィクシュブダ(不満を抱いている)』という言葉を使う用意があります。
ヴィクシュブダ・シュードラは、専横なヴァイシャにとって常に不安の源です。
資本家は労働者の騒乱を恐れませんが、労働者を指導するヴィクシュブダ・シュードラを恐れます」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
ヴィクシュブダ・シュードラはヴァイシャに迎合せず、資本主義搾取の最大の批判者ですから、たいてい惨めな状況にあります。
搾取のない世界を作りたいと思っている人の任務は、このようなヴィクシュブダ・シュードラの数を増やしていくことであると次のようにいいます。
「社会の中のヴィクシュブダ・シュードラの数の増大は、起こりうるシュードラ革命の前兆です。
ですからヴィクシュブダ・シュードラの数を増やすことは、搾取のない世界を作りたいと思っている人々の任務です。
これらの人々が死んだり、シュードラの心を持ったシュードラに変質していくならば、革命にとって有害です。
世界のすべてのサドヴィプラは、失業、産児制限、その他の悪いやり方や政策のためにヴィクシュブダ・シュードラの数が減らないように注意を払うべきです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
以上のことから、サーカーの歴史理論は単に理想的な社会のあり方のヴィジョンを描いたばかりでなく、実際の社会の中に変革の担い手を見出しているきわめて実践的で現実的な思想であることがわかります。
◎民主主義的変革は可能か
○1 経済民主主義と政治民主主義
サーカーは現在の資本主義システムについて、経済は非民主主義であり、政治は民主主義だと考えます。
そして経済については徹底した民主主義の運動を起こすことを主張します。
すなわち地域経済を決定する権利を住民に持たせることや、労働者が企業の所有と経営にかかわる協同組合化などです。
一方で、政治については、現在までに人類が到達した制度の中では最良のものであり、民主主義に従っていくけれども、将来は現在の政治民主主義を超えるものが出てくるだろうといいます。
政治民主主義についてサーカーがどう考えているかについては後述しますので、ここではサーカーの言葉を1つ引用するにとどめます。
「もし発展途上国が革命の道を避け、ゆっくりとした変化の道を選ぶならば、あるいは民主社会主義の道を進み、福祉国家の欠陥を考慮しないならば、人民の福利は決して砂上の楼閣以上のものにはならないでしょう。
民主主義構造では、票を確保するために、泥棒や暴力団などの反社会的分子の助けが必要となります。
これらの反社会的分子は無私無欲で候補者を支持するわけではありません。
候補者が大臣になった時に支持者の反社会的活動に目をつむることを期待して支持するのです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
したがって、民主主義政治構造ではシュードラ革命がきわめて困難です。
物質的な波にコントロールされてしまうシュードラは、容易にヴァイシャにコントロールされてしまいます。
一般大衆の知的水準、道徳的水準がかなり高くなければシュードラ革命はきわめて困難だということが理解できます。
○2 シュードラ革命の流血の道と平和の道の可能性
サーカーは、一般的に人民の解放は流血を伴わざるをえないと考えます。
とりわけクシャトリアの心を持ったシュードラに導かれる時には流血を伴うと次のようにいいます。
「革命は巨大な変革を意味します。
殺戮や流血がそのような変革に不可避というわけではありません。
しかしクシャトリアの心を持ったヴィクシュブダ・シュードラが多数を占めていたり、彼らの影響力が強いならば、革命は現実に流血の衝突を通じて起きるでしょう」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
ただし、ヴィプラの心を持ったシュードラが多数ならば革命は平和的に展開する可能性があると述べます。
「流血のない知的衝突だけの革命はありえない、と明確に言いきることはできません。
ヴィクシュブダ・シュードラに影響を及ぼすヴィプラの心を持ったシュードラが多数存在する場合、それは可能です。
ただし、私たちはそうしたケースをあまり期待することはできません。
そのため一般的には人民の解放は流血を伴うといわざるをえません」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
ヴィクシュブダ・シュードラ、すなわち資本主義的搾取に不満を持っているシュードラの中でヴィプラ的メンタリティの持ち主の影響力が強い場合は、革命は平和的に展開する可能性があるということです。
○3 政治民主主義構造と革命
サーカーは、政治民主主義を通じて資本主義を乗り越えるのはかなり困難だと次のように述べます。
「民主主義構造の内部で高い水準のモラルを達成し、社会主義を確立することは不可能ではありませんが、きわめて困難です。
そのため、民主主義的な社会主義は理論的に間違いではありませんが、現実の世界で実現を望むことはできません」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
とはいえ、サーカーが非民主主義的な流血の道を望んでいるわけではありません。
「知的革命は、理想の普及を前提とします。
しかし、理想を具体化するためにはかなり長い期間がかかります。
苦しんでいる人々はそれを待とうとしません。
知的な革命は理論においてのみ可能です。
少数者であれ多数者であれ、1つのグループの人々の期待と熱望が民主主義的枠組みで満たされない時、非民主的な革命、すなわち血なまぐさい革命が確実に起きます。
このような革命は望ましくありませんが、否応なしに起きてしまうのです」(Talks on Prout)
知的革命とは、民主主義的な革命のことです。
サーカーは、革命には知力による革命と大衆動員による革命、すなわち知的革命と物的・身体的革命があるといいます。
このうち知力による革命が望ましいが、実際には望ましくない事態が生じる可能性が大ということです。
サーカーは、このように一方で民主主義構造を通じた革命の困難性を強調していますが、他方で、現在の政治的な民主主義制度を最良のものとして生かしていくべきとも述べています。
議会制民主主義を通じてプラウト(進歩的社会主義)を実現できるかについては、おそらくサーカーのプラウト思想が日本の土壌に根を下ろした時に、支持者たちの間で議論されることでしょう。
私の考えでは、経済民主主義を前面に立てつつも、政治的民主主義構造に波長を合わせながら、サーカーのいう「きわめて困難な道」すなわちヴィプラ的メンタリティのシュードラの数と影響力を強めることでシュードラ革命の平和的展開をめざしていくしかないと思います。
サーカーは、知力による民主主義的革命の可能性について次のようにも述べています。
「民主主義では人々にプラウトの考えを意識させることが可能です。
この意識は選挙に影響するでしょう。
選挙前ですら、この意識は社会秩序を変える革命を開始するかもしれません」(Talks on Prout)
そして次のような準備を呼びかけています。
「知性の革命は民主主義的性質を持っているので、プラウティストは人々の権利と要求を意識させるべきです。
(1)学習サークルを開始すること。(イデオロギー的)文献を普及すること。
これは知的プロパガンダの最初の段階であり、イデオロギー的な教育を意味します。
(2)綱領の宣伝と大衆動員、これはイデオロギー的な自覚のためです。
大衆は決してイデオロギー的に教育することはできないからです。
(3)民主主義的闘争において、サドヴィプラを支えるプラウティストが、議会、集会、地方自治体、協同組合などで、彼らが地位を占めるよう援助すること)」(Talks on Prout)
すでに述べましたが、サーカーの言うイデオロギーの概念は一般に使われている意味とはまったく違います。
その逆にドグマから解放され、普遍的な理想をもった心を意味します。
サーカーの作った3つの組織があります。
サーカーはそれぞれの任務について、アナンダ・マルガは精神性の向上の実践を指導し、モラリティとスピリチュアリティを高め、ルネッサンス・ユニヴァーサルは知的、道徳的な啓発をし、プラウティストはサドヴィプラが強力となることを助け、大衆動員によって彼らのパワーを強化することだと述べています。
これらの影響力を強化し、シュードラ反乱の無秩序な暴発を抑えて組織的で建設的な革命に転化することで、知力による民主主義的な革命の道、犠牲を極少に抑える道を開いていくということだと思います。
◎革命を妨げる考えの克服
○1 知的衝突の重要性
ヴィクシュブダ・シュードラの中で、ヴィプラ的なシュードラが支配的な影響力をもつならば、知的衝突の中でシュードラ革命は平和的な展開を遂げることができるとサーカーはいいます。
では、どのような思想と知的衝突をして克服していかなくてはならないのでしょうか。
サーカーは革命を妨げる思想としていくつかを挙げています。
○2 肉体労働者の力だけでめざすプロレタリア革命 サーカーは、肉体労働者だけの力を借りてプロレタリア革命を起こしたいと思っている人は、その労働者たちのメンタリティを見なければ革命に失敗するといいます。
労働者たちがシュードラの心を持ったシュードラばかりなら、そのメンタリティが革命を妨害するからです。
「シュードラの心の持ち主は自分たちの抱えている問題を理解できません。
彼らは問題解決を夢見る勇気さえ持ちません。
労働者の指導者がどれほどうまく問題を説明しても、いかに熱心に闘争の必要性を説いてもシュードラの心には届かないでしょう。
彼らは自分の時間を食べたり飲んだり酔っぱらったりすることに費やしているからです。(中略)
上司が賃金を上げても、彼らはその分を自分の耽溺しているものに使ってしまうので生活水準は上がらないでしょう。
そのような人々はシュードラ革命を起こさないし、起こすこともできないと私がいっているのはこういうことからです。
革命を起こしたいと思っている人がそのような人々を頼りにするのは望ましくないばかりか愚かです。
シュードラの鈍的・停滞的性質が運動を妨げ、彼らの臆病が事前に革命の火を消してしまいます」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
サーカーの思想の影響下に肉体労働者を主とする革命を構想する運動が登場し、それを批判したのかどうか定かではありませんが、おそらくマルクス主義の系譜を引き、下層労働者階級を基盤とする革命運動をめざす人々への批判だと思います。
ロシア革命前、革命的な知識人たちが「ヴ・ナロード(人民の中へ)」というスローガンの下に農民の中に入っていきました。
しかし、人々は彼らに共鳴せず、絶望して過激なテロリストになっていきました。
革命運動の基盤となるべき人々を正確に見ない場合の末路を示しています。
サーカーは革命運動の担い手のメンタリティを正確に見ています。
○3 ナショナリズムの伝統や宗教的伝統
宗教的伝統としてサーカーが挙げているのは宗教が注入する次のようなメンタリティです。
「人々は次のように考えて革命を嫌がるようになります。
『運命として定まっていることが起きているだけだ。
闘争して何になるだろうか』
『どうにかこうにか自分の人生を過ごせている。
どうしてわざわざ面倒なことにかかわる必要があろうか』」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
こうした宗教の注入する諦めの思考を克服することなしに革命は実現できません。
さらに、ナショナリズムの伝統も深まる社会矛盾すなわちヴァイシャによる搾取強化を覆い隠し、人々の目を外国との対抗意識に向けます。
これは社会サイクルの正常な展開を妨げ、人々に重大な苦しみを与えます。
○4 福祉国家政策・社会民主主義・ガンディー主義
資本主義の搾取構造の革命的廃止をテーマにしない福祉国家論は、民主社会主義、ガンディー主義などともに人々に幻想を抱かせ、搾取構造の現状維持を図る点でシュードラ革命の前進のために克服すべき思想だとサーカーは論じます。
「私はガンディー主義とブーダーン(Bhu'da'n)運動の創始者に誰にもひけをとらないほど高い敬意を払っていますが、彼らの哲学は貧しい人々にはひどく有害です」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
○5 輪廻の教義のいくつかの解釈
サーカーは魂の輪廻を認めていますが、現世の不幸を前世の悪行に帰するような解釈を強く批判します。
「ジャンマーンタラヴァーダ(Janma'ntarava'da 魂の転生、輪廻の教義)のいくつかの哲学的解釈も革命に敵対するものです。
すなわち『この生であなたが飢えているのは,過去生で多くの罪を犯したからです。
だから運動を始めても利点はありません。
運命は変えることができません』と説きます」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
▼サドヴィプラ社会集団の確立と発展を
◎シュードラ革命後はクシャトリア時代に入る
シュードラ革命の指導権はヴィクシュブダ・シュードラ(革命的シュードラ)が握ります。
ヴィクシュブダ・シュードラには、クシャトリアのメンタリティの持ち主だけでなくヴィプラのメンタリティの持ち主もいますが、「シュードラ革命を指導するヴィクシュブダ・シュードラは、勇気、個人的な力、危険を冒す能力の点でクシャトリアです」とサーカーはいいます。
そして彼らは次のローテーションの最初のクシャトリアとなります。
このシュードラ革命は、ヴァイシャの搾取機構と闘う広範なヴィクシュブダ・シュードラの団結と導きで実現します。
その過程でスピリチュアルな成長を遂げたサドヴィプラ社会集団が形成され、発展を遂げます。
◎クシャトリアが低下すればサドヴィプラは闘う
このサドヴィプラたちは、ヴァイシャの搾取と闘うだけではありません。
クシャトリアが搾取的になればクシャトリアと闘い、ヴィプラ時代を到来させます。
ヴィプラ時代が搾取的になればそれと闘い、ヴァイシャ時代を到来させます。
ヴァイシャが搾取を望むようになれば、ヴィクシュブダ・シュードラ(革命的労働者)を奮い立たせて次のシュードラ革命を成功させます。
サーカーはこのことをヘーゲル弁証法の用語を使って次のように説明しています。
「社会サイクルは途切れることなく回り続けるでしょう。
誰もその回転を止めることはできません。
革命後のクシャトリア時代を定立(テーゼ*)と呼ぶとすれば、搾取的になったクシャトリアに対してサドヴィプラのとる措置が反定立(アンチテーゼ)です。
この衝突から展開した革命後のヴィプラ時代が総合(ジンテーゼ)です。
その後、ヴィプラが低下して搾取的になることを望んだ時に、サドヴィプラが彼らに対してとる措置が反定立(アンチテーゼ)です。
ポスト・クシャトリアのヴィプラ時代は、その時には総合(ジンテーゼ)と呼ぶことはできず、次の段階の定立(テーゼ)と呼ぶことができます」(Dialectical Materialism and Democracy)
こうしてサドヴィプラはシュードラ革命以後も革新と革命に取り組み、搾取と闘い続けます。
反定立すなわち次の時代をめざす闘いが展開していない段階では、反定立のための心理的バックグラウンドを作る活動をしていきます。
「あらゆる国、あらゆる時代において、サドヴィプラはいかなる特定の定立に対しても反定立の出現まで待たなくてはなりません。
反定立が発展しない限り、サドヴィプラは次の段階の反定立の心理的バックグラウンドをもたらすために世界中で活動を続けるでしょう」(Dialectical Materialism and Democracy)
*注=弁証法とサーカーの歴史観
ヘーゲル弁証法は、物事は無限に定立・反定立・総合を繰り返しながらより複雑なものへと永久に展開していくという思想ですが、ヘーゲルは当時のプロイセン国家を理想としました。
ソビエト連邦が崩壊した頃、学者ヴィプラのフランシス・フクヤマは『歴史の終わり』(三笠書房)の中でヘーゲルを援用しながら、資本主義と自由と民主主義の実現で歴史を終わらせます。
ヘーゲル、フランシス・フクヤマにおいては資本主義でもって弁証法的発展は止まります。
マルクスは、生産力の発達と生産関係の矛盾から原始共産制、古代奴隷制、封建制、資本主義と社会は弁証法的に発展してきたと述べます。
そして社会主義、共産主義社会へと進みます。
共産主義社会の実現で国家が消滅するので、理論上、それ以後革命は生じず、革命の歴史はそこで終わりになります。
サーカーの理論では、歴史はシュードラ時代(革命)→クシャトリア時代→ヴィプラ時代→ヴァイシャ時代→シュードラ時代と永久に回り続けます。
すなわち永久に弁証法的発展を遂げていきます。
サーカーによれば、マルクスの「万国の労働者団結せよ」という理論は社会サイクルにおけるシュードラ革命の時期に通用する相対的真理です。
シュードラ革命が実現してクシャトリア時代になり、クシャトリア支配層が搾取的になるとそれと闘う根拠を提供できません。
資本主義は搾取的であり、社会主義になると搾取的でなくなるという理論構造になっているからです。
サーカーの理論は、資本主義を超える革命を起こしても次の段階の支配者が時代に合わず必ず搾取的になっていくという理論構造になっていますから、いかなる時代の搾取者たちとも闘うことのできるものになっています。
◎サドヴィプラと社会サイクル
社会サイクルは永久に回り続けます。
反動的な試みは一時的なものに終わります。
誰も社会サイクルを止めることはできません。
サドヴィプラは、この社会サイクルのローテーションの中心に位置して、プロセスをよく観察し、必要な時はいつでも革新と革命に立ち上がります。
サーカーは、サドヴィプラが常に社会サイクルの中心に位置しているので、これを中心核革命(Nuclear revolution)と呼びます。
したがってこの中心核革命を担うサドヴィプラ社会集団を確立していく必要があります。
「今日私は、理性的で、スピリチュアルで、道徳的なすべての闘う人々に対して早急にサドヴィプラ社会集団を築くことを心から求めます。
サドヴィプラは、すべての国のために、すべての人類の包括的な解放のために働かなくてはなりません。(中略)
新しい世界の新しい日の出に向かって、新しい時代の新しい人類を目覚めさせましょう」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
▼シュードラ革命に向けた周到な準備を
◎自暴自棄なシュードラ反乱は事態を悪化させる
ヴァイシャの搾取機構において一方で富の不活性が生じ、他方で大衆が生活必需品にすら窮する状況に陥る時、シュードラの自暴自棄的な反乱が生じます。これは社会を悪化させるもので、何ら建設的ではありません。サーカーは、革命的労働者はシュードラ革命成功のために周到な準備をすべきだといいます。どんな準備が必要と考えているのでしょうか。 ◎革命組織を作る 革命はある種の戦争であり、ある個人や国家のために力が用いられるのが戦争であり、搾取から解放された社会を確立するためにあるグループの人々によって力が用いられるとサーカーはいいます。
革命組織は革命戦争に不可欠であり、革命のために心理的な準備をしながら、社会に不満を持つ人々は革命組織を作らなくてはならないとサーカーは主張します。
「革命を行なうためには多様で多面的な組織が必要です。
組織の責任は、政府のそれと同じです。
革命組織は国家レベルから村のレベルまで運営されなくてはなりません。
地方の活動家や調整者は、構造のあらゆるレベルに結びついています。
革命のすべての活動は最高の組織体によって指導されます」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
ここでは、中央から地方の村々まで張りめぐらされた革命組織を作りなさいといっています。
経済論では最下部の村レベルから計画立案していく非集中の原則を主張するサーカーですが、この文章のトーンは、中央集権的な中央が指導する革命組織のイメージです。
◎建設的な哲学を持つ
革命組織は、建設的な哲学に従い、社会に建設的なものの見方を広め、建設的な心理を広めることによって既得権益の人たちが流す搾取的な現状維持の哲学との2極化を作り出すべきだと次のようにいいます。
「進歩的で包括的なイデオロギーが革命組織の無敵の武器です。
それは社会における否定的な考えを中和し、集合心理の中に強力で建設的な心理の流れを育みます。
人々の心は革命的になります。
一方で既得権益を持つ者は断固として建設的な変化に抵抗しようとするため、集合的心理に分極化が起きます。
革命指導者の任務は、建設的哲学の宣伝によって分極化を生み出すことです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
サーカーは、間違った哲学の例としてマルクス主義とガンディー主義の哲学を挙げています。
「マルクス主義者は革命が資本主義搾取の唯一の解決だといいます。
これは建設的な考えですが、弁証法的唯物論、史的唯物論、国家の廃止、プロレタリアート執権、無階級社会などの観念には欠陥があり、決して実行することはできません。
すべての共産主義国が革命後に騒乱と抑圧に苦しんだのはそのためです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
つまりマルクス主義*の理論は、革命によって資本主義搾取を終わらせようというのは正しいけれども、その理論が実際的でないために現実に適用できず、革命後に混乱を生んでしまったといいます。
実行不能な理論であるところに最大の問題があるということです。
*注=マルクス主義への評価
マルクス主義についてサーカーは、資本主義を革命によって乗り越えようという視点は建設的だと評価します。
問題はその理論を資本主義後の社会として実際に適用しようとする時にきわめて非現実的なものだったことです。
そこで良い心を持ったレーニンは試行錯誤し、スターリンのような悪魔的所業を許すことになったと考えます。
ですからマルクスの資本主義分析と資本主義批判については高く評価していると考えられます。
「マルクスは良い人でした。
彼は苦しんでいる人類に対する強い感情を持っていました。
そして人類のために何かをしようとする強い衝動から、彼の理論を書きました。
しかしながら、彼の理論は実際的ではありませんでした。
彼がその理論を提起した時、その理論が現実に移された時の意味を理解していませんでした。
マルクスの著書は、踏みにじられた人類への関心を投影し、多くの人々に確信を与えました。
レーニンや毛沢東のような指導者は、社会の中にマルクスの思想を具体化する仕事に着手しました。
彼らは悪い人々ではありませんでしたが、マルクスの理論を具体化しようとした時に多くの実際上の問題にぶつかりました。
その理論に欠陥があることがわかり、彼らは挫折感を持ち、多くの残虐な行為を犯し始めました。
スターリンは数百万の人々を殺害した悪魔です。
これはすべてマルクス主義固有の欠陥ゆえに生じたものです」(Supprssion, Repression and Oppression)
---------------------------------------------------------------------- サーカーは、旧ソ連崩壊後、マルクス主義思想の権威が失墜した思想的真空状況に悪魔的思想が入り込む危険性を指摘します。
共産主義思想の消えた後の空白をプラウト思想で埋めるように活動せよといっています。
プラウト思想を滅びた共産主義思想の後継者として位置づけているとも考えられます。
「コミュニズムは急速なスピードで死につつあります。
コミュニズムが去った場が埋められるまで真空が残ります。
もし、その真空が埋められないままであるなら、別の悪魔的理論がその場を占めるでしょう。
これは望ましいことではありません。
あなたは何もせずに座っているべきではありません」(Move with Ever-accelerating Speed)
ガンディー主義の欠陥についても次のように指摘します。
「搾取からの解放を保障するかわりに、搾取者の利益に味方します。
それゆえ、それは否定的な哲学です。
搾取者自身がその哲学に逃げ道を見出す時、搾取からの解放は不可能です。
搾取する者と搾取される者の共存は決して社会を搾取から解放に導くことはできません。
どの革命組織もガンディー主義*を理想の哲学として受け入れることはできません。
もし革命組織がそれを受け入れるならば、それはもはや革命組織ではありません。
その組織は短期間でガタガタになるでしょう」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
ガンディー主義は搾取者と搾取される者の平和共存の哲学であり、搾取の廃止と革命を問題にしない哲学なので、シュードラ革命組織の理論になることができません。
---------------------------------------------------------------------- *注=ガンディーの非暴力主義
ガンディーの非暴力主義は幅広い支持を集め、アメリカのキング牧師やミャンマーのアウンサンスーチーなどの考えにも影響を及ぼしました。
したがってもう少し詳しくサーカーの考えを紹介しておきます。
第1点はガンディーが資本主義搾取を否定していない点です。
「ガンディー主義は純粋な資本主義ではありませんが、明らかに資本主義を守る1つの方法です。
資本家たちは、このシステムに完全な避難場所を見出します。
ガンディー主義は資本家たちが人類の信託を受けているものだと主張します。
しかし、どうしてそうしたことがありうるでしょうか。
人間の血の上に栄える人々が、人類の保護者でありうるでしょうか。
どうして搾取された大衆が、搾取者を自分たちの救世主であると信じることができるでしょうか」(Social Defects in Gandhism)
第2点は、ガンディー主義が階級闘争やあらゆる闘争を避けようとする点です。
「第2に、ガンディー主義は常に、階級闘争も含めてあらゆる種類の闘争を避けようとします。
マルクス主義によれば、2つの主な階級すなわち搾取者と被搾取者があります。
ガンディー主義は、この種の区分を認めません。
実際には4つの階級(シュードラ、クシャトリア、ヴィプラ、ヴァイシャ)のうち優勢な支配階級が、その能力に従って他の諸階級を支配しています。
支配階級の固有の強さや持続力によって搾取の期間は短かったり長かったりしますが、この世の発達の順はこのパターンに従います。
ガンディー主義によれば、説得によって搾取者を変えることが可能です。
理論的にはこの見解を受け入れることができるかもしれませんが、それは自然でも実際的でもありません。
もし、羊が虎を説得しようとするならば、虎は羊を食べてしまわないでしょうか。
闘争は自然であり、絶対必要なものです。
タントラによれば、進歩は闘争の中にあります。
闘争の否定はガンディー主義の物的な欠陥です」(Social Defects in Gandhism)
ガンディー主義と違って、説得が失敗したら力の適用が必要だと考えます。
「アーナンダ・マールガによれば、もし説得が失敗したら、その時は力の適用が絶対に必要です。
私たちは『高潔を守り、邪悪を罰する』が黄金律であると結論づけることができます。
この原則に従う場合にのみ、人間は安全を確保できます」(Social Defects in Gandhism)
たとえば、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロの犯人を確定し、力を適用して逮捕し、罰することは絶対必要です(あまりに被害が大きかったのでブッシュ大統領と多くのアメリカ人が狂気に走り、犯罪と無関係の人々を殺害してしまいましたが)。
あるいは民主主義的枠組みで革命運動が進み、多数者の支持で議会でも革命派が多数となったとしましょう。
チリのピノチェト将軍が民主的に選出された議会を破壊したように、あるいはヒトラーに支援されたスペインのフランコ将軍のような反革命の暴力が発生した時に、法と警察力などで力の行使をしなくてはなりません。ガンディー主義はこうした不当な暴力に無力です。
◎革命のリーダーの育成
搾取された大衆が心理的に革命を支持している状態ができていなければ革命は成功しません。
その意味ではサーカーのシュードラ革命論は多数者による革命です。
しかし、それを指導するのは繰り返し紹介しているようにクシャトリアやヴィプラのメンタリティを持ったシュードラ(革命的労働者)です。
革命的労働者すなわち革命の幹部が存在しなければ革命は成功しません。
「イデオロギー的に教育を受けた革命的な労働者が、革命に向けて一般大衆の心理を方向づけ、彼が革命闘争を引き受けるように鼓舞しなくてはなりません。
そのような労働者は、建設的な哲学に鼓舞されて合理的なアプローチをし、よく発達した社会的経済的政治的意識を持ち、一般の人々の水準を向上させることに専念しなくてはなりません。
これらの労働者の任務は、不満を持った大衆を革命の道に沿って鼓舞することです。
彼らの献身とダイナミズムによって集合的心理を彼らの側に向けることができるでしょう。
革命組織の最初の主な任務は、献身的な労働者を生み出すことです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
◎誤りを犯さない優れた指導者の必要
革命の成否は指導者の資質に大きく影響されます。
しかし、これまでの革命はすべて革命後の段階の指導者の資質に問題があり、失望を生んできました。
「多くの国々で、革命後の段階で指導者に欠陥があったために、よく整った繁栄した社会を築くことができませんでした。
プラトンの哲人、孔子の聖人、ニーチェの超人、マルクスのプロレタリア執権などが理想的な指導者を生み出すために提唱されました。
しかし、これらすべては失敗しました。
指導者についての理論と実際の指導者の人間的資質には大きな違いがあります。
知性、洞察力、社会的自覚、雄弁術などの資質によって、少数の指導者が革命の扇動に成功しましたが、後に彼らは非難の対象になりました。
なぜなら、彼らは社会を真の進歩の道に導くことができなかったからです。
彼らは人々の切迫している問題を解決したり、搾取を根絶することができませんでした」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
サーカーは、精神性の革命家であるサドヴィプラこそこれまでの革命家を乗り越え、搾取のない社会に導く革命指導者だと主張します。
◎道徳性とスピリチュアリティを革命戦略に入れる
「革命に反対する勢力は莫大な軍事力を持っています。
にもかかわらず、革命家は勝利を達成します。
勝利は、よく整った組織、進歩的なイデオロギー、模範的な指導者だけではなく、革命戦略の結果でもあります」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
サーカーが革命戦略として挙げているのは、第一に社会の搾取されているメンバーの間の高潔さを団結の共通の土台を確立することです。
革命では反社会的活動と腐敗に対する全面的な闘いになるために、革命家の道徳的、心理的、精神的強さが勝利の原因となると説きます。
スピリチュアリティの高い革命家集団と大衆的なレベルでの道徳性の向上が必要ということです。
「革命のもっとも大きな成就は、生命と財産の最小限の損失を通じて集合的心理における進歩的変化をもたらすことです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
◎否定的感情を克服し建設的感情を広める
「革命は常に感情に基づいて起こります。
もし強い共通の感情がなければ革命は起こりえません。
感情は常に論理よりも強いのです」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
そこで、共産主義の「万国の労働者団結せよ」という感情を紹介します。
「共産主義は、今や世界のさまざまなところからわきあがってくる地域偏愛感情に対して闘うことができません」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
たしかに共産主義の持っていたインターナショナリズムや普遍主義的な部分は、地域感情を基盤としたナショナリズム感情を打ち勝つことができませんでした。
第1次大戦前の第2インターナショナルの崩壊の主要な原因は大衆の中に煽動された地域偏愛感情(この場合はナショナリズム)を克服できなかったことでした。
また中国などのアジアの共産主義運動の発展は、むしろ共産主義をナショナリズム的に解釈して地域偏愛感情を取り込んだものでした。
ソ連邦崩壊後封じられていた地域偏愛感情が噴出し、流血を招いています。
サーカーは地域偏愛感情は共産主義の感情よりも強いものであるといいます。
サーカーによれば、プラウトだけが、地域偏愛感情を持つ人々を普遍意識までに高めることができます。
「プラウトによれば、2つのタイプの感情があります。
建設的な感情と否定的な感情です。建設的な感情は本質的に統合的です。
それは社会を統一し、人間性を向上させ、集合的利益を高め、進歩的発展を促進します。
否定的な感情は偏狭で、社会を分割します。(中略)
大切な感情には、反搾取感情、革命感情、道徳感情、文化感情、普遍感情、精神性感情などがあります。
否定的な感情には、宗派主義、愛国主義、ナショナリズム、地域主義、言語主義、人種主義などがあります」(Shudra Revolution and Sadvipra Society)
否定的感情を利用して人々を分割し、社会に人工的な分裂的傾向を生み出した最悪の例として人種主義のヒトラーを挙げながら、その危険性を指摘します。
「彼は否定的感情だけを用いて建設的感情を用いなかったため、彼のアプローチは世界戦争を導き、ドイツをほぼ壊滅させることになりました。
否定主義の道は社会にとって極端に危険で有害です。
建設的感情は社会を築くための真の武器です。
いかなる状況下でもそれを決して忘れてはなりません」(Nuclear Revolution)
◎引用文献
P. R. Sarkar, The Ks'attriya Age, Human Society: Part 2.
P. R. Sarkar, The Vipra Age, Human Society: Part 2.
P. R. Sarkar, The Vaesha Age, Human Society: Part 2.
P. R. Sarkar, Shudra Revolution and Sadvipra Society, Human Society: Part 2.
P. R. Sarkar, Talks on Prout, Prout in a Nutshell: Part 15.
P. R. Sarkar, Dialectical Materialism and Democracy, Prout in a Nutshell: Part 6.
P. R. Sarkar, Supression, Repression and Opression, Prout in a Nutshell: Part 17.
P. R. Sarkar, Move with Ever-accelerating Speed, Prout in a Nutshell: Part 17.
P. R. Sarkar, Social Defects in Gandhism, Prout in a Nutshell: Part 21.
P. R. Sarkar, Nuclear Revolution, Prout in a Nutshell: Part 21.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods