日本文明は揚子江文明の支流であることが解明されています


私は創造の源です。
アシスタントみつきが天の文書を受けとる前につくった
あいうえおヒーリングのテキストを紹介しています。
この箇所は、原日本人はどこからやってきたかがテーマです。
みつきは正確に揚子江文明の人々であったことを解明しています。
原日本人とは揚子江文明を作り上げていた一員でした。
日本文明は揚子江文明の支流なのです。


第六節 フトマニ文献の限界と「いにしえ」の教えのルーツ

(1) 真にワンネス哲学の「いにしえ」の教え

フトマニ三文献は、権力をもつ人だけが埋葬された古墳の時期に書かれたと思われます。
アマテルは12人の妃を娶ることで統治を可能にしており、子を生むために妾が推奨されている部分もあり、すでに二元の時代に入っている時期の作品であることがわかります。

フトマニ図の真にワンネス哲学の部分は「いにしえ」の教えとして言及されています。
クニトコタチの当時は群婚ですから血縁系譜でリーダー(カミ)が決まるのではありませんでした。
その部族の子どもたちはすべてこれら神々の子孫であり、決して特定の家系を聖なるものとして一般の人々と区別することはできないものでした。
古事記から削除されたこの部分のワンネス哲学の部分こそ私たちが今日的に復活させ価値があります。
フトマニ関連文献の中では、フトマニ図が創造の源からの直接のメッセージであり、その他は古代の人間の解釈が入っていると考えます。
私たちは21世紀に生きる人間としてフトマニ図を通じた今日へのメッセージを読み取るわけです。

(アシスタントみつきが創造の源にお聞きします。
この箇所の解釈の核心部分は正しいと今でも正しいと思っていますが
神アポロンに「ホツマツタヱ」の現代語訳をしてもらったとき、
古代朝鮮半島からきた騎馬民族が征服したために最終的に揚子江に起源をもつフトマニ語は完全に消滅させられ,
フトマニ語で書かれた文献を日本語では読むことはできないと繰り返し説明されました。
 奈良盆地のリーダーであったイサナギとイサナミの子の「アマテルは12人の妃を娶ることで統治を可能にしており、子を生むために妾が推奨されている部分もあり」とここに書いていますが、この解釈もありうるのか教えてください。

創造の源
この質問は重要です。
みつきが言うように「ホツマツタヱ」はフトマニ語で書かれており、日本語で解釈しようとした訳はすべて間違っています。
みつきの訳は神サラムダムがおろしたP.R.サーカーの哲学の理解にもとづいているので、「ホツマツタヱ」の真実にもっともせまっています。
しかし,質問にあったアマテルは12人の妃を娶ったと訳は,現代日本語ではそう受けとることはやむをえませんが、まったくの間違いです。
アマテルはそのような人間ではなく一人の妻を大切して生きた人間です。)


(2)あいうえお部族のルーツ



人類最初のリーダーは、住居と食べ物を保障したわけですが
現在の新自由主義の資本主義社会のリーダーは世界中にホームレスを増やしている政策を実施しており、
クニトコタチの社会進歩の精神から学ぶ必要があります。


(2) 「高い波を超えてやってきた」


このころは、群婚ですからクニトコタチの子かどうかはわかりません。
氏族の子どもたちは全員の子どもだったと考えられます。
さて、このあいうえお部族は「高い波」を超えてどこからやってきたのでしょうか。
ヒタカミは、西から見て「日高く登るように見える」意味かもしれません。クニタマ(地球)規模で述べてあり、古代は国境がありませんから、
日本列島に限定せずに考えた方がいいように思えます。

(4)「ニシノクニの『カ』からやってきた」



(5)クニトコタチを共通の祖先とする「あいうえお」部族

日本人は、縄文以前から住んでいた人々、朝鮮半島から、中国大陸からやってきた人々、東南アジアから北上した人々の混交と考えられます。
そしてフトマニ図に似た古代のものは東アジア地域に他にも多々あります。
その多様な中の一部族である五母音の「あいうえお」部族はどこからやってきたのでしょう。



当時は群婚でしたから最初のリーダーであるクニトコタチはすべての子の親でした。
血縁系譜でつながる特定の王家はありませんでした。
「あいうえお」部族はアマゾンで暮らすインディオの社会をイメージすると近いように思われます。
 クニトコタチは、アメ(創造の源)にゆき、アメナルミチとトコヨノミチを人々に教えたスピリチュアルリーダーであったばかりでなく、
穴に住んでいた人々に住居をつくらせ、
木の実の食べ方を教えた人類最初の経済的リーダーとして
表象されています。
クニトコタチの子孫の部族は「高い波を超えて東はるかのホツマクニ」にやってきました。
東のホツマクニに来る前に、クニトコタチの部族はどこにいたのでしょう。

 一つの仮説を述べます。
中国の長江文明は、黄河文明とは独自の稲作文明として発展しています。
1万4000年前に栽培した稲すら見つかっています。
(仙人洞・呂桶環遺跡)
また甲骨文字より早く今から4000年から2600年前ころと推定される時期に文字のような記号も見つかっています。
一万年以上前、長江の上流域で穴ぐらしをしていた「あいうえお」部族は、他の部族に押されて次第に下流に移動します。
クニトコタチが住居や木の実の食べ方を教えたのはそのころです。
揚子江の下流はひんぱんに洪水があり、部族は安全な地を求めて、6000年くらい前、安全な地をもとめて「東はるかホツマクニ」をめざします。
木の実を食べていた「アイウエオ」部族は、イサナキ、イサナミ夫婦の何代か前のウビチニ・スビチニ夫婦がリーダーだった時代に米を食べたことがでてきます。
ニシノクニに自分たちの親戚の部族が住んでいて交流があり、
稲作も学ぶことができます。
 縄文時代の稲は、熱帯ジャポニカ種で、長江文明の稲と共通であることが確認されています。
縄文時代に稲作のあった個所は次の地図に示されています。



この図の「縄文稲作は中国江南地方から来た」というホームページをつくった伊藤俊幸氏は、次のような諏訪春雄という研究者の「縄文土器が中国南部にも見られる」という見解を紹介しています。
「中国の馬橋文化(4,000~2,700年前)にも、・・・大量の縄文土器が出土している。・・・直接手にとってこの土器を見せてもらったが、私の眼では、日本の縄文土器との区別がつかないほどよく似ている。」(同上の伊藤俊幸氏のホームページより)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_03_01nettaijaponica_ha_dokokarakitaka.html
フトマニ図をもっていたあいうえお部族のルーツは、中国長江流域から西日本にやってきたこの縄文土器の人々であったのかもしれません。
7000~6000年前の河姆渡文化は長江下流域で最古の稲作がみつかってますが、ブタの家畜化なども行われており、獣食がなされています。
「ホツマクニ」の親戚のベジタリアンの部族のところにやってきた「ニシノハハカミ」は、自分たちが「オロカニテ シシアヂタシミ」(愚かにも獣肉を食べ)と嘆いたのかもしれません。


(アシスタントみつきから創造の源に質問です。
神アポロンから「ホツマツタヱ」とは「祖先の人々の言い伝え」という意味だと教えてもらいました。
ホツマを祖先の人々いう意味だとすると
ホツマクニ ヒガシハルカニ ナミタカク
祖先の人々は、東に向かって高い波を超えて
という意味になります。
「ニシノハハカミ」は,西の女性のリーダーという意味なり、
東と西だけは,現在の日本語にフトマニ語のキーワードが
伝わっていることになります。
本当のところはどうなのですか。

創造の源
みつきがおもったように日本の基本となる単語にフトマニ語がそのまま伝わってきています。
基本となる単語は征服者たちの単語におきかえることができなかったのです。
みつきは、フトマニ文献を読む際に今に残る基本の単語をつないで解釈したので
もっとも正確な訳を達成したのです。


(創造の源のまとめのコメント)
この箇所はきわめて重大な意義をもっています。
日本文明は揚子江文明の支流であることが解明されています。
現在の日本人はこの真実から切り離されて
古代史についてまったく嘘を教えられています。
この文章はすべての日本人が知るべき内容です。




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