Heaven came down & Glory filled my Soul. (video inspired by god of star)



この論文は、マルクスの唯物論哲学を真実の意味に復元しています
This article restores materialism philosophy of Marx on meaning of truth

This article restores materialism philosophy of Marx on meaning of truth.
Materialism that gods of heaven downed to Marx means material consisting of full and flow of Higgs particle which true gods are thinking overlapping on.
Marx's materialism philosophy is guiding I consciousness of human being (soul) to eternal life by thinking based on thinking method of gods.

この論文は、マルクスの唯物論哲学を真実の意味に復元しています。
天の神々がマルクスにおろした唯物論(マテリアリズム)とはヒッグズ粒子の充満と流れからなる物質を意味し、真の神々が物質に重なって思考していることを意味します。
マルクスの唯物論哲学とは神々の思考方法にもとづいて思考することで人間の私意識(魂)を永遠の命に導くためのものです。



はじめに    基礎研の研究交流集会に参加して

3月19日に、基礎経済科学研究所の研究交流集会の分科会に出席させていただきました。
報告者の後藤宣代氏、後藤康夫氏両氏のアメリカにおける議論の紹介を聞きました。ブッシュなど右派共和党の基盤にメガ教会があり、彼らの強さの背景として次のことが議論されていたそうです。
一つは、魂のテーマに左翼やリベラルが応えることができていないこと、
二つ目に、コミュニティを抱えているメガ教会や右派の側は、これまでの左派側の論点を雑多に多様に「含む」強さをもつようになったこと、それに対して左派やリベラルは、主義主張の一貫性を重視し、分裂していること

さらに、右派の強さの論点ではありませんが、後藤康夫氏のアメリカの労働運動の分裂の報告の中で、労働運動の側でグローバル(インター・ナショナル)な対応がせまられている点があげられていました。

以上の三つの論点は、そのまま、私の問題意識でもありました。
一つは、左派やリベラルが物質と心という二元論を「含んで超えて」魂の領域まで進む哲学がもとめられていること、
二つ目には、左派やリベラルが内部対立や分裂する体質を克服して、「多様性における統一」を実現する哲学を構築すること、
三つ目には、人々を狭い地域偏愛感情(エスノセントリズム)から解放して、グローバルなより広い普遍的な世界観に導く哲学を構築すること

1) 人々の魂のニーズにも応える唯物論哲学をめざす藤岡氏

本稿では、魂のニーズにリベラルや左翼の側が応えること取り組みとして、藤岡惇氏の「『唯物論的アニミズム』の世界観の構築」という論文をとりあげます。
この論文は、旧来型の唯物論哲学を「唯物論的アニミズム」として魂のニーズの領域まで対応できるものとして「含んで超える」拡張をとげる試みだと受け取りました。
当初は、「アニミズム」の言葉をみて、非統一性と非合理性に後退する試みかと誤解しましたが、中身は、「唯物論」哲学枠組みを拡張する(=含んで超え)ようとする試みであり、アニミズムは「高次復活」の文脈の中に位置づけられていました。

私の考えでは、「唯物論」哲学の枠組みを「含んで超える」試みには、次のふたつの道があると思います。

(1)物質概念の拡張  中沢新一著『はじまりのレーニン』岩波書店は、この試みであると考えます。
(2)より大きな世界観的枠組みの中に唯物論哲学を組み込む
これに成功している例を二つだけ知っています。
一つはケン・ウィルバーの「四象限とホロンの理論」、もう一つはサーカーの「大宇宙、小宇宙論」です。

藤岡論文を以上の人々の考えと比較しながら、論じてみます。

2) 意識レベルの深度の視点を導入する藤岡氏

ケン・ウィルバーが、『進化の構造』春秋社、『宗教と科学の統合』春秋社などの著書などで論じている中心テーマは、近現代文明が「フラットランド」であることです。
フラットランドとは、意識レベルの深度を抹消してしまい、スピリットの深みにいたる道を捨てたことです。
人権、民主主義、物質的利便性などの近代の光とともに、いわば「魂なき専門人、心情のない享楽人」の世界を造り出したことです。
そこには「愛への飢え」(マザー・テレサ)が生まれます。
ウィルバーは、近代は、意識レベルの深度を、前近代の迷妄を捨てる時にいっしょに捨ててしまったけれども、近代の科学と合理主義を「含んで」、そこに再度、意識レベルの深度を導入しようと企てます。
藤岡氏のとりくみは、事実上、唯物論陣営の側から、ケン・ウィルバーと同じテーマへのアクセスだと考えられます。

「意識レベルの深度」とは、藤岡氏の引用される宮沢賢治「自我の意識は個人から集団・社会・宇宙へと次第に進化する。・・・正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」の中に凝縮して述べられています。
まさしくウィルバーはこの「自我の意識が、個人から集団、社会・宇宙への進化」を、科学的研究をふまえて詳しく論じます。

4)自然と人間との関係の見方でケン・ウィルバーと共通する藤岡氏

(1) 自然と人間との関係をどう理解するかをめぐる二つの陣営の対立における藤岡氏とケン・ウィルバー

「自然中心主義の立場にたつディープ・エコロジストだ。環境団体としては『地球は第一』がこの立場に近い。・・・
他方、自然中心主義に対して人間中心主義陣営が対立しているという」藤岡惇、「『唯物論的アニミズム』世界観の構築」『唯物論と現代』2005年11月2ページ
と藤岡氏は、二つの陣営の見方を紹介した後で、「この二つのいずれにも、私は、賛成できない。・・・「『自我の意識は、個人から集団、社会・宇宙へと次第に進化』・発達していくとする宮沢賢治の考えがはるかに私の考えに近い」同上書2ページ、と述べられています。

これはまったくケン・ウィルバーと共通の立場です。
ウィルバーは、エコ対エゴとしてこのふたつの立場を紹介し、フラットランド(すなわち、人間の意識の深まり、発達をみない世界観)上で、両者はいがみ合っているとウィルバー論じます。(ケン・ウィルバー『進化の構造2』春秋社、177ページ前後)

(2) 自然が人間にとって「根源的価値」もつ

藤岡氏は、論文の中で、牧野広義氏の、自然は人間にとって「根源的な価値」をもつが、この価値性は、人間の主観に依存するのではなく、客観的に実存するという主張を支持されています。
これについても、ケン・ウィルバーも藤岡氏と同じ立場です。
ウィルバーは次のように自然と人間を論じます。
物質圏、生命圏、人間圏をホロン階層とします。
物質圏を「含んで超えて」生命圏があります。
生命圏を「含んで超えて」人間圏があります。
意識の深さのレベルからすると、物質圏が一番低く、生命圏がそれより高く、人間圏が一番深い意識レベルに達しています。
人間の方が生命圏よりも物質圏よりも、貴重なのです。
しかし、人間圏は、内部に生命圏、物質圏を含んでいます。
物質圏が毒で汚染すると人間圏は崩壊します。
生物圏の生態系がくずれると人間圏も存続できません。
自然は人間にとって「根源的な価値」(牧野広義)を持つのです。
ホロン階層からみる人間圏は生命圏、物質圏の上位にあります。
上位が下位を「抑圧」することができます。
その「抑圧」が今日の環境問題となって現れています。
下位である生命圏、物質圏を汚すことは、同時に上位ホロンである人間圏を汚すことでもあります。
ここに環境問題の重要性があります。
環境問題の真の解決へ向うアプローチは、「全ホロンレベル」でなされる必要があります。
すなわち物質圏、生命圏、人間圏の全レベルにアプローチし、それぞれのレベルのバランスを回復し、正常なホロン階層にしてゆく取り組みです。

5)物質概念の拡張

(1) フラットランドの世界の克服にむけて

「魂なき専門人と心情のない享楽人」の「フラットランド」の世界を克服するためには、意識レベルの深みを再導入する必要があります。
それは、人々が、近代が達成した人権や民主主義、科学、合理主義の光の上に、近代の影の部分である「愛への飢え」を癒すことになり、近代の影をも照らす光をもたらすことになるでしょう。
そしてその試みが成功するためには、「物質」を正当に位置づけた哲学となる必要があります。
多くのスピリチュアリストのように「物質」を汚れたもの、あるいは無視してしまうならば、近代より前に「退行」してしまいます。
そのために「物質」の哲学概念は重要です。

(2) レーニンの物質概念とドイツの唯物論的有神論者ベーメ

唯物論哲学の陣営に則して、物質概念の拡張を試みたものが中沢新一の『はじまりのレーニン』にみられます。
中沢は、レーニンの『唯物論と経験批判論』が「物質」の性質として、「客観的実在」「われわれの意識の外に存在する」という性質でとしていることを紹介します。
ところが、ヘーゲルを研究したレーニンの『哲学ノート』では、ヘーゲル観念論の方が、自分の周囲にいる唯物論者よりも、唯物論だということに気づいたことを紹介します。
そして中沢新一は、ヘーゲルの「絶対精神=ガイスト(スピリット)」は、レーニンの「物質」概念と共通点をもっていると考えます。
レーニンは「物質=絶対的自然」が自己運動して生命をつくりだし、人間の意識を生みだしたと考えます。
「物質=絶対的自然」をヘーゲルの「絶対精神」とおきかえれば、同じことになります。
ただ一つの絶対精神の思考の展開過程がこの万物として顕現します。思考は絶えず、矛盾と運動の中に存在します。
この世界は静止することはありません。
まさしくレーニンの「物質」概念は、この絶対精神の思考過程のように矛盾と運動の過程の中にありました。
ここでは中沢は、レーニンが、生き生きと生きている生命のような「物質」観に達していると見ます。
中沢新一『はじまりのレーニン』岩波書店、第三章ヘーゲルの再発見55~87ページ
まさしく、レーニンは、物質としての大宇宙全体を躍動的な「命」のようなものとして直観していた可能性があります。

そしてレーニンは、ヘーゲル哲学の起源となった中世の神秘思想家ヤコブ・ベーメについてふれます。
「彼(ベーメ)は精神だけなく、物質をも神化する。かれにおいて神は物質である。-ここに彼の神秘主義がある」
そして中沢は、ベーメの神概念を次のように紹介しています。
「神とは何か考える時、私はいう-神は万物に対する一者であり、永遠の無として底もなくはじまりもなく、場所もなく、神にとってあるのは神のみ。」
そして中沢は、レーニンは、このベーメを「唯物論的有神論者」として紹介したとし、さらに、マルクスは、ベーメを、ドンスコトゥスやベーコンのような「イギリスの唯物論者」とならべて「唯物論」の側においたと紹介しています。中沢新一、同上書、117~122ページ

(3) 藤岡氏の物質概念

レーニンのように「物質」を、「意識の外の客観的実在」であり、「絶対的自然」であるとするならば、「物質」とは、この直径137億光年の「大宇宙全体」にほかなりません。
藤岡氏にとっても、「物質」とは、通俗的な物質概念ではなく、137億年前に誕生したと考えられる大宇宙全体です。
この「大宇宙全体」(物質)おける衝突と結合の「陣痛」の中から「生命圏」さらには「人間圏」が生まれてきたと考えます。
そのことを藤岡氏は「ケンゲルスは、不毛な二元論を超えて、物質が精神を生み出し、自然が人間を生み出し、肉体が魂を生み出したことを率直に認めよ、説いている」と述べています。

6)「あなたあるゆえに、われあり」の第三段階の文明へ

そして藤岡氏は、この「大宇宙全体」という「物質圏」が「生物圏」そして「人間圏」を生み出し、わたし(我)を生んだという事実について、サティシュを引用しながら、「わたし(我)」と「大宇宙」との関連における三つの文明段階を設定します。
最初の二つは、大宇宙(物質=神)と「わたし(我)」は二元論の時代でした。第三の段階においては、あなたである大宇宙とわたし(我)を、高次のレベルで統合する見方が支配的となると考えます。

(1) 文明の第一段階

文明の第一段階は、大宇宙(物質=神)に支配され、依存する人間です。
物質圏を「含んで超えた」生命圏、さらにそれらを「含んで超えた」人間圏が登場しました。人は、さらにそれらを含んで超えた「神圏」に向かって進もうとしました。
しかし、それは、一段目、二段目、三段目の梯子の段があってこそ、可能なのですが、神に仕える人々は、神からの命令を伝えるものとなるか、出家して人々の暮らしという梯子の段(人間圏)を無視したものになりました。
ケン・ウィルバーは、これを上昇の道といい、現世の生活を軽視して神に向ったとします。その病理を次のように表現します。
「危険な人々である。この上昇者たちは、・・・頬に伝わる涙、うっとりと見上げる眼の陰で、上昇者は、世界を破壊しようとする。少なくとも世界が死に絶えるのに任せる。-約束の土地を手に入れるために」ケン・ウィルバー『進化の構造2』春秋社、36ページ

(2) 文明の第二段階

第二段階は、大宇宙(物質=神)の支配からの個人(我)が独立分離した段階です。すなわち大宇宙が生み出した物質圏、生命圏、人間圏が、個人(我)を絶対的に支配することからの脱却でした。
それは、物質圏、生命圏、人間圏という大宇宙(物質=神)への感謝を忘れた文明でした。
それは藤岡氏の言葉では「大我」への道を忘れた人々でした。
ケン・ウィルバーは、これを下降の道といいます。
「危険な人々である。この下降者たちは。・・・すべての高位を誤って破壊してしまうのである。もっと危険なことに、彼らは有限のこの世界を無限の価値をもつ世界に変えようと試みるのだ。すあらゆる下降者が、あらゆる方法で、まさにこれを行おうとした。彼らは,ゆっくりと、必然的に、不可避的に、この世界を破壊する。哀れな世界にけっして背負うことのできない重荷を課すからである。下降者はこの世界を破壊してしまう」ケン・ウィルバー、同上書、38ページ

(3)文明の第三段階

第三段階は、第一段階と第二段階の成果を「含んで超えた」ものなります。
そこでは「物質圏」「生命圏」「人間圏」という大宇宙(神)という「あなたいる、ゆえにわれあり」となります。
 そして「あなた」はもはや人格神ではなく、「宇宙意識」とその顕現した大宇宙全体の階層制としての「物質圏」「生命圏」「人間圏」となります。
その「あなたいる、ゆえにわれある」ゆえに、人間の謙虚さと感謝が復活します。
同時に、小我は大我となり、自己のアイデンティティは無限大に拡張し、「銀河系を自らの中に意識し」、命はおろか、宇宙のほこりの粒にまで心をふるわせるメンタリティが出現します。

小我から大我への上昇の努力、神(大宇宙全体)まで心を拡張、進化させる努力、高次への達する願望をウィルバーは「エロス」といいます。
そして低次への愛、「物質圏」「生命圏」への愛を「アガペー」いいます。
それを藤岡氏は「高貴なものは義務を負う」原理の復活と言います。
この第三段階では、「エロス」と「アガペー」の両方の同時追求がなされます。
したがって、人間発達の階段、すなわち物質圏⇒生命圏⇒人間圏⇒神圏のどのレベルも大切にされます。

まとめ

マルクスがこの論を読んだとしたら、このアニミズム的唯物論をベーメのように唯物論の側におくでしょう。
レーニンは、ベーメを評したように「唯物論的有神論」とコメントをいれるかもしれません。
「物質」たる意識の外にある客観的実在(大宇宙全体)は、あたかも命あるように「思考」し、静止することなく絶えず運動し、矛盾・衝突を繰り返しながら、生成、変化、消滅を繰り返して、高次の存在を現出させてきました。
物質圏(大宇宙)が生命圏を生み、生命圏が人間を生み、意識を生み出しました。チューリップの球根が幹となり、葉となり、花となるということは、球根の中に、幹と葉と花の要素(潜在的可能性)を含んでいるということです。
物質圏(大宇宙)が、「意識」を生み出したということは、意識の要素をそのはじまりからもっていたということです。
意識の要素は、物質圏に潜在してあり、生命圏において一定の顕現を見せ、人間圏において全面的に顕現したと考えられます。
物質とはエネルギーの缶詰ですから、エネルギーの中に意識の潜在的可能性が隠れていたということなります。
これは、あらゆる存在の中に「カミ=意識」を見るアニミズム的世界観の唯物論的高次復活です。
実は、これは、進歩的社会主義(プラウト)を創始したP.R.サルカールのワンネスの哲学、ケン・ウィルバーの非二元の哲学にほかなりりません。
この二人の論の特徴は、瞑想などの心の性質をゼロ(零)するレッスンによる心の水面を透き通った平面にすることにより、その大宇宙的真実を「黙想的」実践によって科学的方法で検証することにあります。(ウィルバーの「科学と宗教の統合」春秋社、参照)
大洋(大宇宙=一者)の波(我=多者)において、波が岸辺で砕け、個別性を失っても、自分は大洋の一部であることを認識している状態になります。
それは、多者である自分が、一者にほかならないことに気づくことです。
色即是空、空即是色(多は一であり、一は多である)





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