Kitaro - The Light Of The Spirit (video inspired by god of star)
神の思念体の質を身につけた人間はコスモスの深部から社会変革に立ち上がる
spiritualist having quality of ectoplasm of god stands up for social change from deep in cosmos
This article is that spiritualist having quality of ectoplasm of god stands up for social change from deep in cosmos.
Way of true spirituality makes raise quality of soul S to highest level.
S of highest quality causes highest quality VO activities.
Highest quality VO activities means to send life of most contribution to presence world.
この論文は、神の思念体の質を身につけた人間はコスモスの深部から社会変革に立ち上がる、です。
真のスピリチュアリティの道は魂Sを最高の質に高めます。
最高の質のSは、最高の質のVO活動を引き起こします。
最高の質のVO活動とは顕在世界にもっとも貢献した人生を送ることです。
私は、プロティノスについて知りませんが、プロティノスについてケン・ウィルバーが述べていることに心を打たれたので、その考えを紹介します。
1)非二元の思想家
プロティノスは、ケン・ウィルバーによれば代表的な非二元の思想家です。
ウィルバーは、プロティノスを東洋の龍樹(ナーガルジュナ)とならぶ非二元の思想家と位置づけています。
(私なりに、非二元を説明しますと、非二元とは、神と人間、聖と俗、天上と地上というふうに二元論でなく、すべてを含めたコスモス全体を一とみなし、一が多として顕現しつつあるとみます。
したがって多の中に一を見る境地です。
ここからは真に「多様性おける統一」が生まれます。
たいていの宗教は神と人間は別々とみるので二元論です。
しかし、宗教の核心部分にせまる聖者たちは非二元の境地に達しました。
私は「汝の敵を愛せよ」という聖書の前後を読むとこの言葉は非二元の境地から発していると感じます。)
2)この世のことにかかわって闘ったプロティノス
ウィルバーによると
「プロティノスは『この世界』から離れて、『あの世界』を見つけようとするものは、 完全にポイントを見失っている。『この世界』『あの世界』があるのではない」と言ったと言及しています。
私は、「サーカーとウィルバー」を比較した文章の最後を、次のようにプロティノスを引用したケン・ウィルバーの言葉でまとめました。
プロティノスが位置あるこの世界にかかわって闘ったことがわかります。
「彼らが論争的であったのは、まさに彼らがチョギャム・トゥルンパの言う『慈悲』と『愚か者の慈悲』の違いを知っていたからである。
これはポリティカルにはコレクストな(政治的にお上品なことしか言わない)アメリカ人には、もっとも飲み込みにくい教えである。
アメリカでは愚か者の慈悲-違いを見抜く智恵を放棄すること、その結果、道徳的な声をあげる勇気を失うことが-があまりにしばしば、スピリチュアリティと同一視されているからである」ケン・ウィルバー『統合心理学への道』394ページ
二つ目に、無選択的な意識、すなわち無我の境地に達することを判断の放棄と勘違いしている。
深いレベルに達した意識からは、レベルの高い判断が湧き上がるという指摘です。
「人々は、無選択的な意識を何も判断しないことと取り違えている。
むしろ、無選択的な意識というのは、判断ないし、無判断が状況に応じて適切に生起することを許す、ということである。
なぜ、多くの偉大なスピリチュアルな哲学者が、時に信じがたいほどに激しく論争的であったかという理由は、まさにここにある。
プロティノスがあまりにも激しく占星学者たちを攻撃し、・・・さらにプロティノスはグノーシス派を呵責なく切り裂き、彼らは神性について語る権利さえ持たぬ、としたのである」同上書395ページ
第三に、真のスピリチュアリストは、意識の深いレベルから湧き上がる分別智をもって論争に参加するという指摘です。
「私は、こんなにまで激しく論争的であるような人は、あまりに悟っているとは言えないのではないかと考えたこともあった。
しかし、今はまったく逆であると理解している。
私たちは、本当のスピリチュアリティはこうした論争を回避すべきだと、信じがちであるが、実際は逆に、深度を判断する力の顕現として、すなわち分別智の顕現として、真のスピリチュアリティは情熱的に論争に参加する」同上書395ページ
第四に、それは個人的なレベルからではなく、より深い普遍的レベルの集合的福利のための全存在をかけた勇気ある心の叫びだという指摘です。
「それは、心の中から湧き上がる、鋭い叫び声である。
神経症を行動化することは、何の努力もいらない。
だが、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げることは、非常な勇気を要する。
私が、先に言及した哲学者や聖者を尊敬するようになったのは、彼らがそのすばらしい判断を、すべての力を使って残していってくれたからである。(中略)
自分たちがおかれている状況のひどさを何もかもはっきり見ている人は、数多く存在する。彼らはプライベートな状況ではそのことについて話をする。
彼らは私にいつもそのことについて語る。
反動的で、反進歩的で、退行的な雲が全分野を覆いつつあることを彼らは、心底心配している。
しかし、ほとんどの人は立ち上がって声を上げることをしない。
なぜなら、カウンターカルチャーの秘密警察が制裁や断罪を下すべく、いつも待ち受けているからである」同上書396ページ。
これらのケン・ウィルバーの指摘は、道徳的な声を上げる勇気を失うことがスピリチュアリティの高さではないこと。
逆に、今日、全分野を覆いつつある反動的で、反進歩的で、退行的な雲に対して、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げること、
そして明瞭に自らの深い判断力、分別智の顕現を示すこと、
それが本物のスピリチュアリストの証だというのです。
以上が「サーカーとウィルバー」の文章の最後の部分です。
この文章は長いですので、最後の部分だけ紹介しました。
もし、ケン・ウィルバーのこの解釈が本当ならば、プロティノスは位置ある世界にも積極的な態度をとっていると思うのですが。
3)おわりに
「サルカールと仏教」
という文章の中に、「2」革命的意義をもったブッダの思想と実践」とサーカーがみていることを紹介しています。
社会の動きと無縁のところに自己のスピリチュアリティの向上をもとめる人は多いのですが、ウィルバーやサーカーは、真のスピリチュアリストは、この形ある世界(位置ある世界)社会の前進と人類の進歩に積極な役割を果たすとみていると思うのです。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Way of true spirituality makes raise quality of soul S to highest level.
S of highest quality causes highest quality VO activities.
Highest quality VO activities means to send life of most contribution to presence world.
この論文は、神の思念体の質を身につけた人間はコスモスの深部から社会変革に立ち上がる、です。
真のスピリチュアリティの道は魂Sを最高の質に高めます。
最高の質のSは、最高の質のVO活動を引き起こします。
最高の質のVO活動とは顕在世界にもっとも貢献した人生を送ることです。
私は、プロティノスについて知りませんが、プロティノスについてケン・ウィルバーが述べていることに心を打たれたので、その考えを紹介します。
1)非二元の思想家
プロティノスは、ケン・ウィルバーによれば代表的な非二元の思想家です。
ウィルバーは、プロティノスを東洋の龍樹(ナーガルジュナ)とならぶ非二元の思想家と位置づけています。
(私なりに、非二元を説明しますと、非二元とは、神と人間、聖と俗、天上と地上というふうに二元論でなく、すべてを含めたコスモス全体を一とみなし、一が多として顕現しつつあるとみます。
したがって多の中に一を見る境地です。
ここからは真に「多様性おける統一」が生まれます。
たいていの宗教は神と人間は別々とみるので二元論です。
しかし、宗教の核心部分にせまる聖者たちは非二元の境地に達しました。
私は「汝の敵を愛せよ」という聖書の前後を読むとこの言葉は非二元の境地から発していると感じます。)
2)この世のことにかかわって闘ったプロティノス
ウィルバーによると
「プロティノスは『この世界』から離れて、『あの世界』を見つけようとするものは、 完全にポイントを見失っている。『この世界』『あの世界』があるのではない」と言ったと言及しています。
私は、「サーカーとウィルバー」を比較した文章の最後を、次のようにプロティノスを引用したケン・ウィルバーの言葉でまとめました。
プロティノスが位置あるこの世界にかかわって闘ったことがわかります。
「彼らが論争的であったのは、まさに彼らがチョギャム・トゥルンパの言う『慈悲』と『愚か者の慈悲』の違いを知っていたからである。
これはポリティカルにはコレクストな(政治的にお上品なことしか言わない)アメリカ人には、もっとも飲み込みにくい教えである。
アメリカでは愚か者の慈悲-違いを見抜く智恵を放棄すること、その結果、道徳的な声をあげる勇気を失うことが-があまりにしばしば、スピリチュアリティと同一視されているからである」ケン・ウィルバー『統合心理学への道』394ページ
二つ目に、無選択的な意識、すなわち無我の境地に達することを判断の放棄と勘違いしている。
深いレベルに達した意識からは、レベルの高い判断が湧き上がるという指摘です。
「人々は、無選択的な意識を何も判断しないことと取り違えている。
むしろ、無選択的な意識というのは、判断ないし、無判断が状況に応じて適切に生起することを許す、ということである。
なぜ、多くの偉大なスピリチュアルな哲学者が、時に信じがたいほどに激しく論争的であったかという理由は、まさにここにある。
プロティノスがあまりにも激しく占星学者たちを攻撃し、・・・さらにプロティノスはグノーシス派を呵責なく切り裂き、彼らは神性について語る権利さえ持たぬ、としたのである」同上書395ページ
第三に、真のスピリチュアリストは、意識の深いレベルから湧き上がる分別智をもって論争に参加するという指摘です。
「私は、こんなにまで激しく論争的であるような人は、あまりに悟っているとは言えないのではないかと考えたこともあった。
しかし、今はまったく逆であると理解している。
私たちは、本当のスピリチュアリティはこうした論争を回避すべきだと、信じがちであるが、実際は逆に、深度を判断する力の顕現として、すなわち分別智の顕現として、真のスピリチュアリティは情熱的に論争に参加する」同上書395ページ
第四に、それは個人的なレベルからではなく、より深い普遍的レベルの集合的福利のための全存在をかけた勇気ある心の叫びだという指摘です。
「それは、心の中から湧き上がる、鋭い叫び声である。
神経症を行動化することは、何の努力もいらない。
だが、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げることは、非常な勇気を要する。
私が、先に言及した哲学者や聖者を尊敬するようになったのは、彼らがそのすばらしい判断を、すべての力を使って残していってくれたからである。(中略)
自分たちがおかれている状況のひどさを何もかもはっきり見ている人は、数多く存在する。彼らはプライベートな状況ではそのことについて話をする。
彼らは私にいつもそのことについて語る。
反動的で、反進歩的で、退行的な雲が全分野を覆いつつあることを彼らは、心底心配している。
しかし、ほとんどの人は立ち上がって声を上げることをしない。
なぜなら、カウンターカルチャーの秘密警察が制裁や断罪を下すべく、いつも待ち受けているからである」同上書396ページ。
これらのケン・ウィルバーの指摘は、道徳的な声を上げる勇気を失うことがスピリチュアリティの高さではないこと。
逆に、今日、全分野を覆いつつある反動的で、反進歩的で、退行的な雲に対して、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げること、
そして明瞭に自らの深い判断力、分別智の顕現を示すこと、
それが本物のスピリチュアリストの証だというのです。
以上が「サーカーとウィルバー」の文章の最後の部分です。
この文章は長いですので、最後の部分だけ紹介しました。
もし、ケン・ウィルバーのこの解釈が本当ならば、プロティノスは位置ある世界にも積極的な態度をとっていると思うのですが。
3)おわりに
「サルカールと仏教」
という文章の中に、「2」革命的意義をもったブッダの思想と実践」とサーカーがみていることを紹介しています。
社会の動きと無縁のところに自己のスピリチュアリティの向上をもとめる人は多いのですが、ウィルバーやサーカーは、真のスピリチュアリストは、この形ある世界(位置ある世界)社会の前進と人類の進歩に積極な役割を果たすとみていると思うのです。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods