Ako'y Binago Niya (Papuri Singers) (video inspired by god of star)
教育の目的は国家につくす人間を育てることではない
purpose of education is not to bring up human to serve nation
This is that purpose of education is not to bring up human to serve nation.
Purpose of education is to learn base of way of life to become eternal life living with true gods who overlap on time-space of earth by extending mind infinitely.
この論文は、教育の目的は国家につくす人間を育てることでない,です。
教育の本当の目的は心を無限に拡張させて時空に重なる真の神とともに生きる永遠の命になる生き方の基礎を身につけさせることです。
序)
広島市の高校教員の知人によれば、教育委員会は数年前から「君が代」を歌う時の教員の声量を三段階で評価し、報告するように各校長に指示しているそうです。
東京都の教育委員会は、国旗、国歌の押しつけだけでなく、職員の会議の挙手採決を禁止したとニュースになりました。
そのような状況の中で、政府与党の自民党と公明党によって教育基本法改正案に「わが国と郷土を愛する」と愛国心教育の文言が盛り込まれることになりました。
そして現行の教育基本法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」の文言が改正案から消えました。
参考)教育基本法改正案全文 http://www.sankei.co.jp/news/060413/sei098.htm
「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」こそ、これから人類がめざすべき教育理念です。
「わが国と郷土を愛する」と挿入することは、歴史的後退であり人類のモラリティの発展における後退です。
現行の教育基本法のこの教育理念は人類史におけるきわめて先進的なものです。
シン元インド大統領が「現代インドのもっとも偉大な哲学者」と述べているP.R.サーカー(サルカール)の考えを参照して、説明します。
1) 偏愛感情(ジェオ・センチメント)を克服し、心の普遍的拡張をめざす
サーカーは、人類社会の「多様性における統一」を提唱し、世界連邦政府をつくり、恒久平和の地球惑星社会をめざすべきだと論じます。
そして、人類社会を、内集団と外集団に分けて認識し、自分の所属する集団に対する「身内びいき」感情を抱くことを、ジェオ・センチメント(=地域偏愛感情)という言葉で表現し、そのジェオ・センチメントを克服してゆくべきだと論じます。
そして、その偏愛(身内びいき)する範囲が、マイホームであれ、自分の地域であれ、自分の宗派であれ、自分の党派であれ、すべて同じ病であり、病の領域の違いにすぎないと言います。
「より大きな集団に属する人は、常により小さな集団を軽蔑し、非難します。
自分自身の家族だけとかかわりをもち、単に会社勤めをし、家ではぶらぶらし、新聞を読むだけの人がいます。
カーストにもとづくコミュニティの人々は、そのような人を『家族だけにしかかかわっていない』と批判します。
そしてそれよりも大きなコミュニティに参加している人々は、その人々を『自分たちのカーストだけにかかわっている』と言います。
しかし、さらにより広い集団である国家に帰属意識をもっている人々は、『このようなコミュニティやカーストはナショナリズムに反している。もし、われわれがカースト、コミュニティなどにかかわるなら、それはナショナリズムの基礎を弱めてしまう。
彼らは国家の敵だ。彼らは宗派主義などの狭い考えを広げることで社会に害を与えている』と言い、ナショナリズム宣伝します」P.R.Sarkar 'Ism and Human Progress'
「以上に述べた全員が同じ病にかかっていることを忘れています。
唯一の違いは、その人の病の範囲が他の人の範囲よりもやや大きいかというところにあります。
実際には、彼らは同じ病にかっていることに気づいているのかもしれません。
しかし、利己的な利益に動機づけられているために、なおもこの種の考えを広めています。
自分をなんらかの特定の範囲の中に制限する人々は、その範囲の大きさにかかわりなく、すべてが社会センチメント(=偏愛感情)の領域の中に入ります」P.R.Sarkar ' Exploitation and Pseudo-Culture'
このようにサーカーは、社会集団の大小にかかわりなくそれらの社会センチメント(=偏愛感情)のすべてが、心に枠を設定して内と外を作り出している点で共通の病だと考えています。
違いは心の半径の大小であり、心に枠を設定している点では共通なのです。
私たちは、まず、「普遍」すなわち「人類社会」の一員という自覚とアイデンティティに立たなくてはなりません。
教育の目標は、子供たちの心を無限に拡張してゆくことであり、心の拡張に枠をはめてはなりません。
日本人の一員としてのナショナリズムの教育は、心のさらなる拡張、道徳性のさらなる前進を阻む枠を与えることです。
2) インター・ナショナリズムの限界
しかし、今回の教育基本法の改正案をつくった人は、愛国心の次に、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を挿入しているではないかと言うでしょう。
これは、インター・ナショナリズムです。
サーカーは、次のように言います。
「私が、ネイションの存在を認めて、私は、すべてのネイションのために働いていますと言う時、それは、一般的ヒューマニズムでもユニヴァーサリズム( 普遍主義)でもありません。
それは、単にインターナショナリズム(国際主義)です。・・・
さて、インターナショナリズム(国際主義) という用語を使う時は、別々のネイションの存在を前提としています。・・・
一つのネイションが他のネイションの血の上に栄えようする時、それに反対せざるをえません。
この反対は、最終的には戦争をももたらします。
だからインターナショナリズムも解決ではありません)P.R.Sarkar 'Pseudo-Humanism'
このように自分の国益を守り、他国の国益を尊重するというのがインター・ナショナリズム(国際主義)です。
この理屈から、日本政府はアメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣しました。
国際貢献」は、インターナショナリズムです。
かつて、労働運動で、スターリンのソ連を守ることが、インターナショナリズム(国際主義)だとされたことかあります。
19世紀末の社会主義者のインターナショナリズムも、平和と国際連帯を何度も誓いながらも、高まるナショナリズムを克服できず、第一次大戦の勃発の中で、ナショナリズムにとってかわりました。
4)「普遍的で個性ゆたかな文化の創造」こそめざすべき
サーカーは、教育基本法の言う「普遍的で個性ゆたかな文化の創造」をめざしなさいと次のように語っています。
「普遍的な社会は一つの文化をもちます。
その文化は、根本にヒューマニズムの価値をもっています。
普遍的な人間社会は、ただ一つの人間感情をもっています。
その感情は、人々を喜びで笑わせ、悲しみで涙を流させます。
彼らは他の人々を助ける社会を形成し、平和的に生き、平和的に死のうとします。
これが人間的な文化です。私たちはこの文化の根本を促進すべきです。
それは、人と人、そしていわゆる『民族nation』と『民族』とを結びつける絆です。
自己分割self- dividingの傾向は、既得権益をもつ人々が生み出すものです。
彼らは社会の悪魔です。
彼らは洗練されたサタンであり、戦争挑発者です。
私たちは、かれらの活動に対して不断に容赦のない闘争を開始しなくてはなりません」P.R.Sarkar'Discourses on Prout'
今日、サーカーの言う人類を分割する悪魔的傾向は、各宗教グループの原理主義の潮流、そして歴史修正主義などの自民族中心主義に現れています。
彼らは国民文化、国民道徳、国民の歴史を強調し、人類の間に分裂と対立を持ち込みます。
このような潮流に対して、諸宗教、諸民族の寛容と共存の人類の共同社会をめざす「多様性における統一」という考えが普及する必要があります。
私たちは、ナショナリズムの病にかかっている今日の政治傾向を克服し、その「普遍的」教育理念を守り、サーカーが主張するようにヒューマニズムにもとづく一つの人類文化を追求してゆく必要があります。
サーカーの普遍主義は、地域固有の文化的表現の発達を軽視するものではありません。
逆に地域固有の服装、言語、芸術などの文化的表現は、人間性に美しさと豊かさを加えているだけでなく、その人々の集団的強さも提供していると考えます。
その地域の文化、言語、文字などを崩そうとするどんな試みも心理的搾取の一形態と考えます。
したがって地域固有の文化的表現の多様なあらわれのすべてを尊重することを重視します。
「花園は様々な花が咲いてこそ美しくなります。
同じように文化表現の多様性によってこそ人類社会はより美しく豊かになるとサーカーは言います。
「統合の本当の精神は、普遍的イデオロギーにもとづいて多様性の中に統一を確立することにあります。
すなわち多くの多様な部分を等質的全体性の中に統一することにあります」P.R.Sarkar 'Talks on Prout'
私たちは、教育基本法における「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」の文言を守り、人類社会の「多様性における統一」をめざすべきだと考えます。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Purpose of education is to learn base of way of life to become eternal life living with true gods who overlap on time-space of earth by extending mind infinitely.
この論文は、教育の目的は国家につくす人間を育てることでない,です。
教育の本当の目的は心を無限に拡張させて時空に重なる真の神とともに生きる永遠の命になる生き方の基礎を身につけさせることです。
序)
広島市の高校教員の知人によれば、教育委員会は数年前から「君が代」を歌う時の教員の声量を三段階で評価し、報告するように各校長に指示しているそうです。
東京都の教育委員会は、国旗、国歌の押しつけだけでなく、職員の会議の挙手採決を禁止したとニュースになりました。
そのような状況の中で、政府与党の自民党と公明党によって教育基本法改正案に「わが国と郷土を愛する」と愛国心教育の文言が盛り込まれることになりました。
そして現行の教育基本法の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」の文言が改正案から消えました。
参考)教育基本法改正案全文 http://www.sankei.co.jp/news/060413/sei098.htm
「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」こそ、これから人類がめざすべき教育理念です。
「わが国と郷土を愛する」と挿入することは、歴史的後退であり人類のモラリティの発展における後退です。
現行の教育基本法のこの教育理念は人類史におけるきわめて先進的なものです。
シン元インド大統領が「現代インドのもっとも偉大な哲学者」と述べているP.R.サーカー(サルカール)の考えを参照して、説明します。
1) 偏愛感情(ジェオ・センチメント)を克服し、心の普遍的拡張をめざす
サーカーは、人類社会の「多様性における統一」を提唱し、世界連邦政府をつくり、恒久平和の地球惑星社会をめざすべきだと論じます。
そして、人類社会を、内集団と外集団に分けて認識し、自分の所属する集団に対する「身内びいき」感情を抱くことを、ジェオ・センチメント(=地域偏愛感情)という言葉で表現し、そのジェオ・センチメントを克服してゆくべきだと論じます。
そして、その偏愛(身内びいき)する範囲が、マイホームであれ、自分の地域であれ、自分の宗派であれ、自分の党派であれ、すべて同じ病であり、病の領域の違いにすぎないと言います。
「より大きな集団に属する人は、常により小さな集団を軽蔑し、非難します。
自分自身の家族だけとかかわりをもち、単に会社勤めをし、家ではぶらぶらし、新聞を読むだけの人がいます。
カーストにもとづくコミュニティの人々は、そのような人を『家族だけにしかかかわっていない』と批判します。
そしてそれよりも大きなコミュニティに参加している人々は、その人々を『自分たちのカーストだけにかかわっている』と言います。
しかし、さらにより広い集団である国家に帰属意識をもっている人々は、『このようなコミュニティやカーストはナショナリズムに反している。もし、われわれがカースト、コミュニティなどにかかわるなら、それはナショナリズムの基礎を弱めてしまう。
彼らは国家の敵だ。彼らは宗派主義などの狭い考えを広げることで社会に害を与えている』と言い、ナショナリズム宣伝します」P.R.Sarkar 'Ism and Human Progress'
「以上に述べた全員が同じ病にかかっていることを忘れています。
唯一の違いは、その人の病の範囲が他の人の範囲よりもやや大きいかというところにあります。
実際には、彼らは同じ病にかっていることに気づいているのかもしれません。
しかし、利己的な利益に動機づけられているために、なおもこの種の考えを広めています。
自分をなんらかの特定の範囲の中に制限する人々は、その範囲の大きさにかかわりなく、すべてが社会センチメント(=偏愛感情)の領域の中に入ります」P.R.Sarkar ' Exploitation and Pseudo-Culture'
このようにサーカーは、社会集団の大小にかかわりなくそれらの社会センチメント(=偏愛感情)のすべてが、心に枠を設定して内と外を作り出している点で共通の病だと考えています。
違いは心の半径の大小であり、心に枠を設定している点では共通なのです。
私たちは、まず、「普遍」すなわち「人類社会」の一員という自覚とアイデンティティに立たなくてはなりません。
教育の目標は、子供たちの心を無限に拡張してゆくことであり、心の拡張に枠をはめてはなりません。
日本人の一員としてのナショナリズムの教育は、心のさらなる拡張、道徳性のさらなる前進を阻む枠を与えることです。
2) インター・ナショナリズムの限界
しかし、今回の教育基本法の改正案をつくった人は、愛国心の次に、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を挿入しているではないかと言うでしょう。
これは、インター・ナショナリズムです。
サーカーは、次のように言います。
「私が、ネイションの存在を認めて、私は、すべてのネイションのために働いていますと言う時、それは、一般的ヒューマニズムでもユニヴァーサリズム( 普遍主義)でもありません。
それは、単にインターナショナリズム(国際主義)です。・・・
さて、インターナショナリズム(国際主義) という用語を使う時は、別々のネイションの存在を前提としています。・・・
一つのネイションが他のネイションの血の上に栄えようする時、それに反対せざるをえません。
この反対は、最終的には戦争をももたらします。
だからインターナショナリズムも解決ではありません)P.R.Sarkar 'Pseudo-Humanism'
このように自分の国益を守り、他国の国益を尊重するというのがインター・ナショナリズム(国際主義)です。
この理屈から、日本政府はアメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣しました。
国際貢献」は、インターナショナリズムです。
かつて、労働運動で、スターリンのソ連を守ることが、インターナショナリズム(国際主義)だとされたことかあります。
19世紀末の社会主義者のインターナショナリズムも、平和と国際連帯を何度も誓いながらも、高まるナショナリズムを克服できず、第一次大戦の勃発の中で、ナショナリズムにとってかわりました。
4)「普遍的で個性ゆたかな文化の創造」こそめざすべき
サーカーは、教育基本法の言う「普遍的で個性ゆたかな文化の創造」をめざしなさいと次のように語っています。
「普遍的な社会は一つの文化をもちます。
その文化は、根本にヒューマニズムの価値をもっています。
普遍的な人間社会は、ただ一つの人間感情をもっています。
その感情は、人々を喜びで笑わせ、悲しみで涙を流させます。
彼らは他の人々を助ける社会を形成し、平和的に生き、平和的に死のうとします。
これが人間的な文化です。私たちはこの文化の根本を促進すべきです。
それは、人と人、そしていわゆる『民族nation』と『民族』とを結びつける絆です。
自己分割self- dividingの傾向は、既得権益をもつ人々が生み出すものです。
彼らは社会の悪魔です。
彼らは洗練されたサタンであり、戦争挑発者です。
私たちは、かれらの活動に対して不断に容赦のない闘争を開始しなくてはなりません」P.R.Sarkar'Discourses on Prout'
今日、サーカーの言う人類を分割する悪魔的傾向は、各宗教グループの原理主義の潮流、そして歴史修正主義などの自民族中心主義に現れています。
彼らは国民文化、国民道徳、国民の歴史を強調し、人類の間に分裂と対立を持ち込みます。
このような潮流に対して、諸宗教、諸民族の寛容と共存の人類の共同社会をめざす「多様性における統一」という考えが普及する必要があります。
私たちは、ナショナリズムの病にかかっている今日の政治傾向を克服し、その「普遍的」教育理念を守り、サーカーが主張するようにヒューマニズムにもとづく一つの人類文化を追求してゆく必要があります。
サーカーの普遍主義は、地域固有の文化的表現の発達を軽視するものではありません。
逆に地域固有の服装、言語、芸術などの文化的表現は、人間性に美しさと豊かさを加えているだけでなく、その人々の集団的強さも提供していると考えます。
その地域の文化、言語、文字などを崩そうとするどんな試みも心理的搾取の一形態と考えます。
したがって地域固有の文化的表現の多様なあらわれのすべてを尊重することを重視します。
「花園は様々な花が咲いてこそ美しくなります。
同じように文化表現の多様性によってこそ人類社会はより美しく豊かになるとサーカーは言います。
「統合の本当の精神は、普遍的イデオロギーにもとづいて多様性の中に統一を確立することにあります。
すなわち多くの多様な部分を等質的全体性の中に統一することにあります」P.R.Sarkar 'Talks on Prout'
私たちは、教育基本法における「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」の文言を守り、人類社会の「多様性における統一」をめざすべきだと考えます。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods