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弁証法的唯物論にもとづいて考えることは神の思念体の質に近づき、神とともに永遠の命を生きる魂になることを意味します
Thinking base on dialectical materialism means that soul of human closes quality of ectoplasm of god and becomes to live eternal life living with god

This article is that material of dialectical materialism is synonymous with spirit
Base of material is time-space of Higgs particle.
True gods overlap on Higgs particle of time-space.
Dialectical materialism teaches to think base on specific points of time-space.
True gods base on universe think based on specific point of time-space.
Thinking base on dialectical materialism means that soul of human closes quality of ectoplasm of god and becomes to live eternal life living with god.

この論文は、弁証法的唯物論の物質とはスピリットと同義である、です。
物質の根底はヒッグズ粒子の時空です。
真の神はヒッグズ粒子の時空に重なっています。
弁証法的唯物論は時空の特定点にもとづいて思考することを教えます。
宇宙根底の真の神は時空に重なって時空の特定点にもとづいて考えます。
弁証法的唯物論にもとづいて考えることは神の思念体の質に近づき、神とともに永遠の命を生きる魂になることを意味します。



哲学的唯物論者が、その「物質」概念を、藤岡惇氏のように個人の意識の外に実在する1139億光年の全宇宙にイメージする時、他のワンネスの哲学思想と合流してゆくことになります。

1) ヘーゲルの「絶対精神」とは、「一者」である。
一なる「絶対精神」が思考し、この全宇宙に展開する多者が生まれた。
2) レーニンの「物質」とは、「一者」である。
一なる「物質」が思考し、この全宇宙に展開する多者が生まれた。
3) サーカーの「ブラフマ」とは、「一者」である。
一なる「ブラフマ」が思考し、この全宇宙に展開する多者が生まれた。
4) 朱子学の「太極」とは「一者」である。
一なる「太極」が思考し、この全宇宙に展開する多者が生まれた。

ヘーゲルの一者たる「絶対精神」が、レーニンの「物質」と対応していることについて、中沢新一は『はじまりのレーニン』の中で、つぎのように述べています。
「レーニンによれば、客観の世界は「物質」とか「絶対的自然」と呼ばれる、無限の階層性をそなえ、自己運動をおこなう実体によって、生み出されてくる。・・・
ヘーゲルの観念論とレーニンの唯物論とが「とんぼがえり」をおこなって、たがいに移行しあうのは、まさにここおいてなのだ。・・
ヘーゲルの場合、主観が客観と対立しながら同一であるような運動を「精神」と読んでいる。
そしてレーニンはそれを「物質」と呼ぶ。
・・「とんぼがえり」は、ヘーゲル的「精神」とレーニン的「物質」をひとつにつなぐ高次元な概念の場でおこる。
この高次元の概念の場があるからこそ、ヘーゲルの観念論の唯物論的「改作」が可能になるのである。・・・
だからレーニンの考える唯物論では、唯物論と観念論は、単純に対立しているのではない。
むしろ、・・・「かしこい観念論」はこの高次元概念を通過すると「かしこい唯物論」に変態をとげることを、レーニンは見いだした」71ページ

 すなわち、中沢新一がここで言おうしていることは、ヘーゲルの「絶対精神」もレーニンの「物質」も、全宇宙的一者であることです。
 おそらくレーニンにとって自分のまわりの唯物論者の仲間たちは、ヘーゲルよりも観念論者に見えていたことでしょう。

(興味深いことに、藤岡惇氏の目にも自分の仲間の「唯物論者」が観念論者に映ります。
生命が自我(私)という形をとってあらわれているのであり、私が生命を所有しているのではないという視点が藤岡氏にとっての唯物論であり、私が身体を所有しているというのは逆立ちした観念論だと近代経済学の人間モデルや仲間の学者の観点を批判されます。
藤岡氏の論は説得力があります。
まず精子と卵子が結合し、「いのち」が生み出されてから、自我が成立します。
物質圏⇒生命圏⇒心圏の唯物論的なホロン構造を藤岡氏は正確に把握されています)基礎経済科学研究所の『経済科学通信』2006年6月、No110号, :28ページ参照

ケン・ウィルバーは、ヘーゲルの「絶対精神」(一者)の自己展開としての多者という考えが、弟子たちに継承されなかったのは、理論を検証する実践方法をヘーゲルは提供できなかったからだといいます。
それは瞑想です。観察や実験で、形にあらわれた多者を認識することができます。形にあらわれない一者は、黙想的実践によるしか認識できないといいます。
レーニンの一者たる宇宙的広がりをもつ「物質」は、レーニンの仲間は、レーニンのようにヘーゲルの「絶対精神」レベルまでの深みまでは理解することはできなかったと思います。
Material(物質)を単に目の前に狭小な物質圏として、大多数のレベルの人は認識するからです。
宇宙的レベルまでに自分の心を拡張させたもののみが、レーニンの「物質」をヘーゲルの「絶対精神」と同様のものとして認識することができます。
ソ連の後継者たちやレーニン主義を叫ぶ人たちは、元祖レーニンの心の高みに達することはできませんでした。
レーニンを崇拝することと、レーニンのレベルに心が発達することとは別のことです。
キリスト教を信じる人で、イエスのような敵まで愛するレベルに心が発達する人がまれなのと同じです。
インドのP.R.サーカーのブラフマ(一者)は、ヘーゲルの絶対精神(一者)であり、レーニンの物質(一者)です。
レーニンの弟子たち、レーニン主義者たちは、瞑想などのスピリチュアル・プラクティスをしません。
P.R.サーカーの進歩的社会主義においては、革命家は、瞑想をして、心の性質を零にもってゆくことによって、怒りやこだわりから脱した心をつくるべきだと考えます。
そして一者の顕現たるこの世界に無私の奉仕をしてゆくことも自分の心を無限大に拡張してゆくスピリチュアル・プラクティスの一環だととらえます。
さらに毎日、朝夕、短時間の瞑想などのスピリチュアル・プラクティスをおこなうことによって、ブラフマ(一者)の直観的認識に至るだけでなく、真に社会に貢献してこの世を去ることのできる人格が形成されると考えます。




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