Competition or Cooperation? Psychology: Relationships, Happiness, USA Public School System? (video inspired by god of star)
協力と分かち合いの21世紀の社会主義を支える集合意識へ人類の意識は必ず変化する
collective consciousness of humankind change from competition to sharing and cooperation of socialism of 21st century
This article is that collective consciousness which support capitalism is winner in competition rule society.
Those that lost competition is to obedience.
Competition is collective consciousness that supports capitalism, collective consciousness of humankind change from competition to sharing and cooperation of socialism of 21st century.
この論文は、資本主義を支える集合意識は競争で勝利したものが上に立ち、 競争に負けたものが下にあって服従するである。
競争原理は資本主義を支える集合意識であり、協力と分かち合いの21世紀の社会主義を支える集合意識へ人類の意識は必ず変化する。
(1)現在は競争原理で社会が編成されている
私は、個人の所属する集団(地域、職場、趣味、社会運動など)においても、
メンバーがともに発達を遂げるよう自己組織化をしてゆく能力を身につける仕方で
幼少のころから教育されてゆくことは
これからの人類社会に不可欠の能力であると 考えます。
現代は、すべての領域にわたって
「競争原理」は、当たり前の常識になっています。
もちろん、「協力原理」も説かれます。
しかし、それは、競争原理の下位におかれています。
他社との競争、他国との競争、
すなわちグループの間の競争として
あたかもスポーツチームのようにです。
そして個人間もスポーツチームのように
チームの人数の枠内に入る競争があり
チームに入ったら入ったで、
成果主義で、成果をあげる競争がまっています。
つまり、今日の社会編成は、
それぞれの領域で競争に勝利したエリートたちを
ピラミッドの頂点に立てるように組み立てられています。
それは、私たち時代の1%に富と貨幣が集中する
社会秩序を維持するための「隠れたイデオロギー」として
機能しています。
「500人の資産が、地球人口の半分の資産(アーヴィン・ラズロ)」
(マルクスとサーカーの両方に共通する言葉として
「その時代の支配階級の思想が
その時代の支配的思想となる」があります。
思想と訳すとなんか私たちの日常感覚と
はずれるのですが、要するに「考え方」です。
今の時代の支配階級の考え方は「競争原理」であり
それが、人々の間で支配的な考え方になっていて
その考え方で社会が編成され、運営されている
ということですが、
より焦点を絞って論じたいわけです)
(2)(原始社会 血縁による社会秩序 個は集団の中に「埋没」)
原始の狩りや採集の時代は、マンモスに一人でいどむとか
山の中の木の実を一人でとりにゆくことはなかったでしょう。
個は集団の中に「埋没」していました。
集団の秩序は、血縁=血のつながりによって形作られ
氏族、部族が単位でした。
「血のつながった先祖がやってきたように生きる」が
その時代の支配的考え方でした
年配者は、先祖がやってきたことを知っていますから
血縁集団のリーダーシップは年配者たちにありました。
そこには、「競争原理」も「協力原理」もありません。
なぜなら「個」が集合体に埋没しているところでは
自立した「個と個」との主体的意識をもった 「協力や連帯」は、生じようがありません。
もちろん、誰もが「事実上」の協力と助け合い のもとで生きています。
そうしなければ、生きてゆくことができなかったからであり、
人間精神の気高さを意味するものでありませんでした。
私たちは選択可能な時代に生きています。
相手と競争し、自分が勝者になって、
自分のすぐれたことを自覚し、
相手を見下すことができます。
「援助」にみせかけて
相手を自分に従属させることも
可能です。
逆に相手を対等な存在としてみて
協力し、連帯することも可能です。
相手が対等の自立的存在に
発達するようアプローチもできます。
現在は、私たちの前に選択可能性があります。
「競争原理」で生きるのか。
「協力と連帯」の原理で生きるのか。
選択は意識的行為です。
しかし、「協力と連帯」の原理が
人々の間で当然の意識として一般化する
時代になれば、私たちには、
自覚的に意識的に
そうした「選択」の必要がなくなります。
最終的に、人々が助け合い、分かち合い、協力しあい、
連帯してゆくことが、普通の共通意識になり、
社会が、 自立した個人、集団、地域の協力と連帯の原理によって 運営される時代がきます。
それが原始社会の組織原理の「高次復活」です。
(3)(アジア的段階 支配服従関係の最初の発生 血縁関係で支配の正当性を意識化させ秩序をつくる)
原始社会の氏族、部族の血縁集団が定住し、
農耕がはじまると戦争に勝利した部族が他を服従させ
貢納させる経済システムが生まれます。
生産における人間と人間の対等は崩れ
支配と服従の関係が「事実上」成立しています。
しかし、服属させた部族が独立を維持していますから
血のつながりをつくって血縁集団に似せる必要がありました。
そこでは支配部族と支配される部族では
親と子など血縁関係の装いをとった神話 によって支配が正当化されます。
経済的下部構造は血縁共同体ですから、
支配秩序を維持する意識構造も
親と子などの血のつながり(血縁)で説明されるわけです。
現在のように
競争で勝利したものが上に立ち、
競争に負けたものが下にあって服従するという
競争原理で秩序が意識されるのではなく、
血縁原理で支配服従関係が説明されるわけです
(4)血縁による社会秩序は、自然圏と人間圏の未分離を反映
原始社会からアジア的段階という太古の歴史において
人間と人間との関係は、血縁(血のつながり)として
意識されて、社会運営がなされていたという点について
ケン・ウィルバー『進化の構造1』264ページより紹介させて もらいます。
(血縁的=アジア的という先史社会について ウィルバーは。
血縁として人間関係を意識化している
ということは自然と人間が
未分離の意識発達の段階なのだととらえ
その点に焦点をあてて考察しています)
ハーバーマスの言葉を引用してあります。
「それぞれの個人が、共通の先祖の子孫(親族)であるという
事実によって集団的アイデンティティが確保される。
部族は自然の一部であると自覚される。
社会というリアリティが、自然というリアリティと
はっきり区別されていない・・・」
ウィルバーは、自然と人間の関係の方に考察を向けます。
地球の物質圏から、植物や動物の生物圏が生まれ
その中から人間圏が生まれているわけですが 人間圏の編成原理が、血縁という自然圏の原理で 表象されていることは、 自然と人間が未分化であることを意味しています。
ロマン派(部族生活の過去に理想郷を求める人々)のように
その未分化をそのまま美化してはだめですよというのです。
「エコロジカルにみて、ひどい状態にある現在、 多くの現代人が、もっと生物圏と調和していた 自然の知恵がもつ自然の知恵をよみがえらせようと するのも無理はない。
このアプローチにはまったく共感する。
共感できないのは、時計の針を逆にまわして・・・」
「環境を大規模に破壊してしまう能力をもたないからといって
だから知恵があるとはいえない。
部族意識は、未分化という意味では「自然と近接」していた。
だからといって知恵があるとはいえない。」
「こうした点から導かれる正しい結論は
部族・先史時代の意識構造は
かならずしも生態的な知恵をもっていた
とはかぎらない。
その無知が、地球に対して大規模な
被害をもたらすだけの手段をもっていなかった だけであるというものである。」
現代の大規模な生態系の破壊と部族社会の違いは
知恵の有る無しではない。
そうではなくて、環境に対してより危険な手段をもっているかの
違いであり、現代では同じ無知がもっと大規模に
演じられているだけなのである。
したがって、その治癒は
過去の部族社会の無知をよみがえらせることではなく
「自由市場は私たちを救う」などといった同じ無知を
現代的な形式で続行することではなく
生物圏と人間圏をより高い調和のなかに
統合してゆくことである。」
(以上、ウィルバーから用語はそのままでとはありませんが
要旨の引用です)
現在の「競争原理」ではなく
自立と協力にもとづく
次のような未来社会への道筋をつけることが ここで、ウィルバーの提起する
「生物圏と人間圏をより高い調和のなかに
統合してゆく」ということを実現してゆく
道だと考えます。
(各地域ごとに農、工、商のバランスのとれた 自給的再生産構造があり
それぞれの地域で小経営、協同組合(民主的企業)
公的経営のネットワークで民主主義的に運営され
個人と個人の関係でも、集団と集団の関係
地域と地域との関係においても
自立と対等協力の関係のネットワークで
組織化された世界)
遠隔地に住む富と貨幣を集中する1%勢力に
無意識的、意識的に奉仕する人々には
地球全域の「生物圏と人間圏を
より高い調和の中に統合してゆくことは
視界に入らないと思います。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Those that lost competition is to obedience.
Competition is collective consciousness that supports capitalism, collective consciousness of humankind change from competition to sharing and cooperation of socialism of 21st century.
この論文は、資本主義を支える集合意識は競争で勝利したものが上に立ち、 競争に負けたものが下にあって服従するである。
競争原理は資本主義を支える集合意識であり、協力と分かち合いの21世紀の社会主義を支える集合意識へ人類の意識は必ず変化する。
(1)現在は競争原理で社会が編成されている
私は、個人の所属する集団(地域、職場、趣味、社会運動など)においても、
メンバーがともに発達を遂げるよう自己組織化をしてゆく能力を身につける仕方で
幼少のころから教育されてゆくことは
これからの人類社会に不可欠の能力であると 考えます。
現代は、すべての領域にわたって
「競争原理」は、当たり前の常識になっています。
もちろん、「協力原理」も説かれます。
しかし、それは、競争原理の下位におかれています。
他社との競争、他国との競争、
すなわちグループの間の競争として
あたかもスポーツチームのようにです。
そして個人間もスポーツチームのように
チームの人数の枠内に入る競争があり
チームに入ったら入ったで、
成果主義で、成果をあげる競争がまっています。
つまり、今日の社会編成は、
それぞれの領域で競争に勝利したエリートたちを
ピラミッドの頂点に立てるように組み立てられています。
それは、私たち時代の1%に富と貨幣が集中する
社会秩序を維持するための「隠れたイデオロギー」として
機能しています。
「500人の資産が、地球人口の半分の資産(アーヴィン・ラズロ)」
(マルクスとサーカーの両方に共通する言葉として
「その時代の支配階級の思想が
その時代の支配的思想となる」があります。
思想と訳すとなんか私たちの日常感覚と
はずれるのですが、要するに「考え方」です。
今の時代の支配階級の考え方は「競争原理」であり
それが、人々の間で支配的な考え方になっていて
その考え方で社会が編成され、運営されている
ということですが、
より焦点を絞って論じたいわけです)
(2)(原始社会 血縁による社会秩序 個は集団の中に「埋没」)
原始の狩りや採集の時代は、マンモスに一人でいどむとか
山の中の木の実を一人でとりにゆくことはなかったでしょう。
個は集団の中に「埋没」していました。
集団の秩序は、血縁=血のつながりによって形作られ
氏族、部族が単位でした。
「血のつながった先祖がやってきたように生きる」が
その時代の支配的考え方でした
年配者は、先祖がやってきたことを知っていますから
血縁集団のリーダーシップは年配者たちにありました。
そこには、「競争原理」も「協力原理」もありません。
なぜなら「個」が集合体に埋没しているところでは
自立した「個と個」との主体的意識をもった 「協力や連帯」は、生じようがありません。
もちろん、誰もが「事実上」の協力と助け合い のもとで生きています。
そうしなければ、生きてゆくことができなかったからであり、
人間精神の気高さを意味するものでありませんでした。
私たちは選択可能な時代に生きています。
相手と競争し、自分が勝者になって、
自分のすぐれたことを自覚し、
相手を見下すことができます。
「援助」にみせかけて
相手を自分に従属させることも
可能です。
逆に相手を対等な存在としてみて
協力し、連帯することも可能です。
相手が対等の自立的存在に
発達するようアプローチもできます。
現在は、私たちの前に選択可能性があります。
「競争原理」で生きるのか。
「協力と連帯」の原理で生きるのか。
選択は意識的行為です。
しかし、「協力と連帯」の原理が
人々の間で当然の意識として一般化する
時代になれば、私たちには、
自覚的に意識的に
そうした「選択」の必要がなくなります。
最終的に、人々が助け合い、分かち合い、協力しあい、
連帯してゆくことが、普通の共通意識になり、
社会が、 自立した個人、集団、地域の協力と連帯の原理によって 運営される時代がきます。
それが原始社会の組織原理の「高次復活」です。
(3)(アジア的段階 支配服従関係の最初の発生 血縁関係で支配の正当性を意識化させ秩序をつくる)
原始社会の氏族、部族の血縁集団が定住し、
農耕がはじまると戦争に勝利した部族が他を服従させ
貢納させる経済システムが生まれます。
生産における人間と人間の対等は崩れ
支配と服従の関係が「事実上」成立しています。
しかし、服属させた部族が独立を維持していますから
血のつながりをつくって血縁集団に似せる必要がありました。
そこでは支配部族と支配される部族では
親と子など血縁関係の装いをとった神話 によって支配が正当化されます。
経済的下部構造は血縁共同体ですから、
支配秩序を維持する意識構造も
親と子などの血のつながり(血縁)で説明されるわけです。
現在のように
競争で勝利したものが上に立ち、
競争に負けたものが下にあって服従するという
競争原理で秩序が意識されるのではなく、
血縁原理で支配服従関係が説明されるわけです
(4)血縁による社会秩序は、自然圏と人間圏の未分離を反映
原始社会からアジア的段階という太古の歴史において
人間と人間との関係は、血縁(血のつながり)として
意識されて、社会運営がなされていたという点について
ケン・ウィルバー『進化の構造1』264ページより紹介させて もらいます。
(血縁的=アジア的という先史社会について ウィルバーは。
血縁として人間関係を意識化している
ということは自然と人間が
未分離の意識発達の段階なのだととらえ
その点に焦点をあてて考察しています)
ハーバーマスの言葉を引用してあります。
「それぞれの個人が、共通の先祖の子孫(親族)であるという
事実によって集団的アイデンティティが確保される。
部族は自然の一部であると自覚される。
社会というリアリティが、自然というリアリティと
はっきり区別されていない・・・」
ウィルバーは、自然と人間の関係の方に考察を向けます。
地球の物質圏から、植物や動物の生物圏が生まれ
その中から人間圏が生まれているわけですが 人間圏の編成原理が、血縁という自然圏の原理で 表象されていることは、 自然と人間が未分化であることを意味しています。
ロマン派(部族生活の過去に理想郷を求める人々)のように
その未分化をそのまま美化してはだめですよというのです。
「エコロジカルにみて、ひどい状態にある現在、 多くの現代人が、もっと生物圏と調和していた 自然の知恵がもつ自然の知恵をよみがえらせようと するのも無理はない。
このアプローチにはまったく共感する。
共感できないのは、時計の針を逆にまわして・・・」
「環境を大規模に破壊してしまう能力をもたないからといって
だから知恵があるとはいえない。
部族意識は、未分化という意味では「自然と近接」していた。
だからといって知恵があるとはいえない。」
「こうした点から導かれる正しい結論は
部族・先史時代の意識構造は
かならずしも生態的な知恵をもっていた
とはかぎらない。
その無知が、地球に対して大規模な
被害をもたらすだけの手段をもっていなかった だけであるというものである。」
現代の大規模な生態系の破壊と部族社会の違いは
知恵の有る無しではない。
そうではなくて、環境に対してより危険な手段をもっているかの
違いであり、現代では同じ無知がもっと大規模に
演じられているだけなのである。
したがって、その治癒は
過去の部族社会の無知をよみがえらせることではなく
「自由市場は私たちを救う」などといった同じ無知を
現代的な形式で続行することではなく
生物圏と人間圏をより高い調和のなかに
統合してゆくことである。」
(以上、ウィルバーから用語はそのままでとはありませんが
要旨の引用です)
現在の「競争原理」ではなく
自立と協力にもとづく
次のような未来社会への道筋をつけることが ここで、ウィルバーの提起する
「生物圏と人間圏をより高い調和のなかに
統合してゆく」ということを実現してゆく
道だと考えます。
(各地域ごとに農、工、商のバランスのとれた 自給的再生産構造があり
それぞれの地域で小経営、協同組合(民主的企業)
公的経営のネットワークで民主主義的に運営され
個人と個人の関係でも、集団と集団の関係
地域と地域との関係においても
自立と対等協力の関係のネットワークで
組織化された世界)
遠隔地に住む富と貨幣を集中する1%勢力に
無意識的、意識的に奉仕する人々には
地球全域の「生物圏と人間圏を
より高い調和の中に統合してゆくことは
視界に入らないと思います。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods