"I see you in me" A song for Global Peace & Unity  (video inspired by god of star)



多様性における統一を実現する闘いは、押しつける相手を押しつけなくする闘いである
struggle to realize unity in diversity is fight not to force

This article is that struggle to realize unity in diversity is fight not to force.
This view is viewpoint of gods of star.

この論文は、多様性における統一を実現する闘いは、押しつける相手を押しつけなくする闘いである、です。
この見方は、星の神々の観点です。



この文章は「市民社会フォーラム」のメールに投稿しようとして文字化けなどして送ることができなかった文章です。

 先日の「宗教における多様性の統一」の投稿を、知人の大学の研究者の先生に、市民社会フォーラムへの加入の呼びかけを兼ねて転送したら、メールをいただき、意見交換になりましたので、その一部をここで紹介させていただきます。

1)「多様性の尊重」と言って、異教徒を殺害するような原理主義を認めるのか

まず、私の投稿の次の部分に
「信じなければ「地獄に落ちる」と宗教的ドグマに縛りつけられた人々を解放する道は、相手を間違っていると論じることではなく、相手の中にある正しい側面に共感しつつアプローチすることが、自分たちだけが救われるというその狭隘さを克服してゆく援助につながると思うのです。」

先方から
「例えば、創造主義キリスト教原理主義の人たちが、『異教徒』や『野蛮人」を殺害しないでいる間は、そのように寛容であり得るかもしれませんが、問題は自分や近親者が殺害されあるいは殺害されそうな時にも、かく寛容であれと仰るのですか」
と、コメントをいただきました。

2)宗教的原理主義的排外主義をもって宗教者とするなら、赤軍派やスターリンをもって唯物論者を非難することになる。

そこで私は次のようにメールしました。
「もちろん、私の言っているのは、「ドグマを取り去った宗教の核心部分には部分的真理がある」と見ることです。
部分的真理以外の側面、すなわち自分たち以外のものは地獄に落ちるなどということはもちろん批判的にアプローチします。
宗教の考えが100%間違いでないとしたら、その正しい面をみて「多様性における統一」の幅広い連帯を形成してゆくことを考えています。
もし、宗教原理主義のテロリストをあげて、普通の宗教者をいっしょに考えるならば、赤軍派やポルポト、スターリンなどをもって唯物論の代表にして、「問題は自分や近親者が殺害されあるいは殺害されそうな時にも、かく寛容であれと仰しゃるのですか。」と質問することもできると思います。
どちらも自分たち以外の考えの存在を認めないところから、残虐にいたっていると思います」

3)民主主義と暴力や押しつけの分岐点をどこに見るか。

さらに先方から次のような趣旨の返事をいただきました。
論点がわかるように私の方で文を変えています。
「平和を目指す立場と、テロリスト、侵略者、ドグマへのとらわれた立場をどこで区分するか、その区分の指標はどこにあるのでしょう。
しかし、たしかに指標の明確化だけを先行すると、排除の論理になりかねないことも懸念しますが」
そして次のような異なる意見を許さない暴力とのの闘いの思い出を語ってくださりました。
「暴力で大学を占拠されて、民主主義を思いながらそれと戦ったつもりの人間、筋違いと思われる糾弾会に引っ張り出されて、憤りをもってそれに対処した人間としては、民主主義と暴力の分岐点の基準・指標が大いに問題なのです。
といって、確かに、彼らの思いも、判るところはあり、一面では同じ時代、同じ社会を生きる人間だと言うことは大事にはしたいのです」

4)多様な存在を認めず、押しつけてくるものとは「多様性の統一」を守るために闘う必要がある。
それは、相手を適切な大きさに位置づける闘いである。

私は、だからこそ、いかなる意見も100%間違っていない立場から排除せず、しかし、「多様な意見」を認めず、押しつけてくる立場と断固として闘わないといけないと思っています。

大阪や広島など関西の地域の教育現場では、行政的に「部落民として自覚を育てる」解放教育が押しつけられました。
今度は、行政的に「日本人としての自覚を育てる国旗、国歌」の国家主義教育が押しつけられてきました。
私は、解放教育や国家主義教育の意見があってもいいけれども、行政的に画一的に、あるいは一つの学校の方針として、多様な意見が認められず、一つの立場が押しつけられることが根本的に間違っていると思います。

だから、今、押しつけられつつある「国家主義」教育への対案は、「多様性における統一」の立場だと思うのです。
(なお、私自身は、「人類としての自覚」を高める教育があり、その人類の多様な分岐としての様々な文化や言語、慣習として自分たちのことを認識するように教育を進めたいと思っています)
あわせて、今日のアメリカ・スタンダードによる経済グローバリズムは、アメリカの軍事力、経済力を背景に、アメリカの政治、経済、文化を世界に押しつけ画一化しつつあると思います。
私は、アメリカナイズと闘って地球のそれぞれの地域の固有性、多様性、伝統を擁護しながら、人類社会の「多様性における統一」をめざすべきだと考えています。
それは、アメリカの良さを否定することではなく、多様性の中のアメリカ文化を否定することではありません。
ちょうど、肥大化した癌細胞を適切な大きさにもどすことが大切なように、アメリカを適切な大きさにもどす闘いであって、反米ではありません。

「多様性における統一」とは敵対する相手を否定することではなく、押しつけてくる相手を、押しつけない相手に変える闘い、相手を適切な大きさに位置づける闘いです。相手を抹殺する闘いではありません。
もし、相手を全面否定したいという意識にかられるならば、相手は「作用反作用」の法則によって「反作用の潜在力」を蓄え、私たちに害悪を与えるもっと危険な存在として出現するでしょう。

ついでに、心理面の「反作用の潜在力」についてもう一言いいます。
私はひそかにマルクスの「共産党宣言」の最大の問題点は、たしか最後の一句にあった「資本家階級を恐怖におののかせよ」というような文章にあるのではないかと思っています。
それが書かれた1848年の二月革命の時点では檄文の意味もありますし、議会制民主主義による多数の支持による革命の道もありませんでしたから、その時代の相対的真理だったと思います。
しかし、闘う相手が、自分の存在を全面否定されて、恐怖におおのいては、相手の中に、必ず、集合心理面の深い層に「反作用の潜在力」を蓄積します。
その後の歴史を見れば、労働者階級の闘いの前進に恐怖におののいた資本家階級の集合心理を、自分たちを抹殺する共産主義よりも極右のグループを支持する方向においやった面があるのではないかと思うのです。

「サーカーの思想1」の進歩的社会主義(プラウト)においては、資本家の経営能力は、経済民主主義の協同組合で民主的に選出された経営者として活躍する余地があります。
資本家としての経営能力、才覚を適切に位置づけています。
この宇宙の存在するものにはすべて存在根拠があり、その存在根拠以上に肥大化しているものを適切な大きさにもどす闘いが、私たちの闘いであるべきだと思うのです。

5)同じ人間として相手を尊重することと相手の間違ったあり方を正す闘いは両立する。

そして最後に次のようにメールしました。
私は先生のスタンスに全面的に賛成です。
自分たちとちがう意見を一方的に糾弾したり、暴力的に自分たちの意見をおしつけるのは、相手の中にいかなる真実があろうと許してはならないと思います。
そうした「多様性を認めないものは、宇宙の道理に反しており、断固闘いなさい」というのがサーカーの教えなのです。
その闘いは相手を否定することではなく、相手を適切な大きさに位置づける闘いです。

深いレベルで、相手を同じ人間だと思うことと、相手が間違ったことをしている時にその間違いと闘うことは両立する話だと思っています。

まとめ)
最後にサーカー(サーカー )の言葉です。
「実際の領域では、プラウトは、様々の外観の中にある共通の要素を採用します。
そして分裂的傾向を押さえて対立する利害をもつグループや集団にこの共通の要素を強いてゆきます。
このようにしてプラウトは多様な様相の中での統一と統合を提唱します」(Talks on Prout)











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