Soil, soul and society: Satish Kumar at TEDxExeter (video inspired by god of star)
サティシュ・クマールは、星の神のインスピレーションに導かれて発言しています
Satish Kumar speaks by being led from inspiration of god of star
This article is impression after reading book of Satish Kumar.
Satish Kumar speaks by being led from inspiration of god of star.
この論文は、サティシュ・クマールの本を読んだ感想です。
サティシュ・クマールは、星の神のインスピレーションに導かれて発言しています。
紹介していただいた文章からサティシュ・クマールを知った程度で、
先日の会に参加させていただきました。
社会変革とスピリチュアリティの結合という私の問題意識と共通するものを感じたからです。
昨日、『君あり、故に我あり』講談社学術文庫が手元に届きました。
その最初の数ページを読んで思ったことをみなさんに伝えます。
1)
本の題名の「君あり、故に我あり」はもともとのサンスクリット語一つの解釈であって、
P.R.サーカーの弟子のヨガの先生が、常にこのマントラを唱え続けなさいと
指示した、そのマントラではありませんか。
私は、そのサンスクリット語を小文字のセルフselfは大文字のセルフSelfであると理解しています。
大文字のセルフとは無限の大宇宙です。
小文字のセルフとは有限の小宇宙です。
有限の境界に囲まれた小さなセルフを無限のセルフまで拡張してゆく
そういうマントラと理解しています。
2)
「私は口承文化の出身である」サティシュ
ああ、そうだったんだと思いました。
P.R.サーカーの本もすべて彼のスピーチを弟子がテープに入れて、書き起こしたものだそうです。
口承文化だったんですね。
3)
「私の心は東洋と西洋の統合によって形づくられている」サティシュ
東洋文明と西洋文明の統合の視点を以下に述べています。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/kyouiku/touzai.htm
この視点は、サティシュさんと共通するものではなかろうか。
4)
「母にとって人生とは何百万という小さな行為からなるタペストリーであり、
それらの行為の一つ一つがタペストリーの完成に欠かせないものだった。
母は英雄的な行為よりも、
大きな愛と想像力をもってなされる小さな行為を信じていた」サテシュ
「タントラの教えでは、宇宙は、あらゆるものが互いに継ぎ目なく一緒に織り込まれた織物として知覚します。
タントラは、『ウェブ=蜘蛛の巣』とも訳されます。
私たちは無限の蜘蛛の巣のように互いにつながりあっています」
これは、アメリカのタントラ・ヨーガのページからの文章です。
理論と実践のレベルで社会運動が分裂し、対立し、本当に団結できない状況があります。
私たちが社会運動をタペストリー的に折り込んだ織物しとしてとらえたらどうだろう。
しっかりした破れない運動になるだろうなあと思いました。
5)
「母はあらゆる物質的なものを尊重した。
物質は霊を運ぶ媒体として見なし すべてのをものを畏敬の念を持って取り扱った」サティシュ
物質のとらえ方が重要だと思います。
私は藤岡惇氏の唯物論哲学を宇宙規模に発展させる取り組みを支持しています。
「唯物論とスピリチュアリティの結婚・・・藤岡惇氏とケン・ウィルバー」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/61yuibutsurontosprituality.html
ワンネスの哲学は唯物論を含みます。
物質宇宙(サーカーの言葉では、エーテル体、気体、燃体、液体、固体の五要素の世界)
がまず成立して、そこから、生命が誕生し、進化し、人間に至るからです。
ただ、ワンネスの哲学は、サティシュのおかあさんのように物質までも聖なるものからできていると見ます。
物質とは何でしょうか。
科学者も物質はたんなる物質ではなく、
「God エネルギー(アインシュタイン)」からなるものだと見る人がいます。
ジェームズ・オシュマンは物質を聖なるものとは言っていませんが、
アカデミズムの膨大な実証研究を背景にして書いた『エネルギー療法と潜在能力』を書き 次のように述べています。
「量子力学の世界では、
わたしたちが『物体』とんでいるものを、
さまざまな事象、運動、関係、および、エネルギーの連続系、
すなわち自然の連続体における任意の一点と解釈する。
したがって、素粒子も素粒子からなる細胞、組織、生体も、
すべての物質は『物』ではなく、『活動のパターン』であり、
それだけ存在する独立した『物』は存在しないことになる」
これはこの前の小貫さんの菜園家族の報告と同趣旨です。
オシュマンは、次のような科学者の見解もあるとさらりと紹介していました。
「量子のこの力の背景には、意識と知性をそなえた心があると考えなくてはならない。この心はあらゆる物質の基質である」マックス・プランク
サティシュのお母さんは「物質が霊を運ぶ媒体」であると考えていたとあります。
ワンネス哲学ではなぜ、物質までもが尊いものになるのかですが
私なりの解釈で短く書きますと
意識の海があり、まったく風がなく、表面は純粋の平です。(ニルグナ・ブラフマ)
風がゆるやかな波を生じました。(波の形が生じてからをサグナ・ブラフマといいます)
そこから次第に複雑な波になって展開してゆきます。
意識の海に波が生じて、波によって海の材料である意識がまったく隠れた段階が固体物質です。
だから、固体物質も波+海の水(意識)であり、意識が隠れているだけです。
こうなると物質はまさしくスピリットの固まりです。
少し固まりがとけたのが心です。
さらに溶けたのがスピリットです。
完全に意識の海の中に溶け込むことをめざすのが
スピリチュアリティです。
6)
これは梵我一如だろうと思います。
それを永遠につづく人生の究極の目標としつつ
社会変革に携わり、人間による人間の搾取(利用)なき世界をめざしなさい
これが「スピリチュアリティ」と「社会変革」の結合ではないかと思っています。
サティシュ・クマール『君あり、我あり』の感想、その2
『君あり、我あり』の感想1をおくったのですが
そのつづきの数ページを読んだ感想を書かせてもらいます。
1)35ページ
歩きながら、母は私に適切に呼吸することを教え・・・
「注意を払うことが、瞑想なのよ」と母いっていた。
歩きながら瞑想するという考えを幼いうちから教えておけば
そのことで、私がくじけたりしないだろうと母は考えていたに違いない。
私かとりわけ覚えているのは、母のこの言葉だった。
「息を吸うときと吐くときの間の瞬間に気を向けなさい。
息を吸っても吐いてもいない一瞬を見つめるのよ。・・・
ただ見つめるのよ」
歩く瞑想についてですが
このまえの小貫さんの菜園家族の話のあった時に
私といっしょに出席しました天野さんから
歩く瞑想を学びました。
もし、サティシュさんを歓迎するこの実行委員会が
将来、スピリチュアリティと社会のテーマでなんからの形で会合があれば
天野さんからヴッパーサナの歩く瞑想法を学べばいいと思います。
30分で三回レッスンする機会があれば、一応のやり方はわかると思います。
自分の「一瞬一瞬の気づき」のレベルをアップすることに役立つと思います。
2)41ページ
オウムはA.U.Mの三つの音でなり立っている。
・・・・
我々の古代からの伝統によれば、存在そのものが『オウム』という音から生まれたとされている。
私は、サーカーのヨガ哲学の本を読んでいて、
オウムの言葉にであった時、非常に嫌悪感をもちました。
血塗られた言葉だったからです。
ところがいろいろ読み進むうちに
オウムの意味がわかってきました。
真言宗の呪文をお寺でよくみかけるオンもオウムですね。
たとえば、オン・マリ・キャマリ・モリ・ソワカ
全宇宙のすべての音の集合音がオウムということだそうです。
だから最初の全宇宙が発生する時の音でもあります。
このコスモスは、一が多となりました。
だから多は一でもあります。
「色即是空、空即是色」は、
多(色)はすなわち一(空)
一(空)はすなわち多(色)
とも解釈できます。
オウムとは、音の多すなわち一であるのです。
『君あり、故に我あり』の表題のサンスクリット語が
意味するものでもあります。
ミクシィにサーカーの音響論を紹介しています。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14280178&comm_id=928468
この中でサーカーがわかりやすくオウムについて説明してくれています。
(このサーカーの言葉をペ-ストします)
すべての音が一度に表現されたとしましょう。
何がおきるでしょうか。
あなたが市場に行ったとしましょう。
誰かが「じゃがいもはいくら?」とききます。
他の誰かが「なすびはいくら?お肉はいくら?」とききます。
そしてお店の人が「これこれだ」と言います。
買い手は、「いや、いや、そんなには払いたくない」と言います。
とても多くの音があります。
しかし、もし、あなたが市場から100ヤードのところにいるならば、どんな音に聞こえるでしょうか。
「わわわわー"hawawawawa"」のようになるでしょう。
いっしょになったすべての音は、妙な集合的な音を生み出します。
そうではないでしょうか。
あなたは、遠くから、じゃがいも、 豆、カリフラワーを聞き分けることができるでしょうか。
いいえ、あなたは音の集合の「わわわわー"hawawawawa"」を聞くでしょう。
同様に、幅広いカテゴリーの中に入るこれらすべての音、無数の音は、宇宙の集合的音を生み出すでしょう。
その集合的な音がアウムum, A-U-Mです。
この三つの音、アウムaum(a, u, ma)は、
それぞれ、創造、維持、破壊をあらわしています。
最初の音のアaは創造をあらわします。
第二の音のウuは、保持をあらわします。
第三の音は、破壊をあらわします。
だから、
無数の音のすべては、
すなわち50の音すべては、
この至高の音のアa・ウu・マmaによってあらわされます。
集合的にa-u-maはアウムaumになります。
だから、宇宙全体についての音響の側面が、アウムaum A-U-Mです。
それは仕事のすべての領域を含んでいます。
それは宇宙の仕事すべての集合的音です。
地球は、太陽の周りを回ります。
間違いなく音が生み出されています。
それはあなたに聞こえるかもしれませんし、聞こえないかもしれません。しかし、確実に音が生み出されています。
月は地球の周りを回ります。確実に波動が生み出されています。
その波動によって音もまた生み出されることは間違いありません。
それはあなたに聞こえるかもしれませんし、聞こえないかもしれません。
どこにも音があります。
たとえ、あなたが、猫がネズミを捕まえようとするように、こっそり動いても、そこにも音があります。
あらゆるところに波があります。
あらゆるところ光もあります。
その光はあなたに見えるかもしれませんし、見えないかもしれません。
夜中には、あなたは見ることができません。
しかし、フクロウは見ることができます。
夜に光があるからです。
アウムAumは、すべての音の集合です。
だから、アウムの領域の内部に世界のすべての活動が入ります。
すべての仕事に音があります。
アウムはすべての音の集合です。
だからアウムの領域の内部に世界のすべての仕事が入ります。
アウムはパラマ・プルシャの世俗のmundane表現をあらわします。
アウムは、パラマ・プルシャのこの世のworldly表現をあらわします。
(注、音と光を混ぜて、ここで述べられていますが、
サーカーの文章に、音は気体の中だけなく真空も伝わるとあって、疑問をもっていたのですが
なんと科学的にも音と光は似たものであり、波動であり、粒子であり、サーカーの言っていることは正しかったのでびっくりしました)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Satish Kumar speaks by being led from inspiration of god of star.
この論文は、サティシュ・クマールの本を読んだ感想です。
サティシュ・クマールは、星の神のインスピレーションに導かれて発言しています。
紹介していただいた文章からサティシュ・クマールを知った程度で、
先日の会に参加させていただきました。
社会変革とスピリチュアリティの結合という私の問題意識と共通するものを感じたからです。
昨日、『君あり、故に我あり』講談社学術文庫が手元に届きました。
その最初の数ページを読んで思ったことをみなさんに伝えます。
1)
本の題名の「君あり、故に我あり」はもともとのサンスクリット語一つの解釈であって、
P.R.サーカーの弟子のヨガの先生が、常にこのマントラを唱え続けなさいと
指示した、そのマントラではありませんか。
私は、そのサンスクリット語を小文字のセルフselfは大文字のセルフSelfであると理解しています。
大文字のセルフとは無限の大宇宙です。
小文字のセルフとは有限の小宇宙です。
有限の境界に囲まれた小さなセルフを無限のセルフまで拡張してゆく
そういうマントラと理解しています。
2)
「私は口承文化の出身である」サティシュ
ああ、そうだったんだと思いました。
P.R.サーカーの本もすべて彼のスピーチを弟子がテープに入れて、書き起こしたものだそうです。
口承文化だったんですね。
3)
「私の心は東洋と西洋の統合によって形づくられている」サティシュ
東洋文明と西洋文明の統合の視点を以下に述べています。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/kyouiku/touzai.htm
この視点は、サティシュさんと共通するものではなかろうか。
4)
「母にとって人生とは何百万という小さな行為からなるタペストリーであり、
それらの行為の一つ一つがタペストリーの完成に欠かせないものだった。
母は英雄的な行為よりも、
大きな愛と想像力をもってなされる小さな行為を信じていた」サテシュ
「タントラの教えでは、宇宙は、あらゆるものが互いに継ぎ目なく一緒に織り込まれた織物として知覚します。
タントラは、『ウェブ=蜘蛛の巣』とも訳されます。
私たちは無限の蜘蛛の巣のように互いにつながりあっています」
これは、アメリカのタントラ・ヨーガのページからの文章です。
理論と実践のレベルで社会運動が分裂し、対立し、本当に団結できない状況があります。
私たちが社会運動をタペストリー的に折り込んだ織物しとしてとらえたらどうだろう。
しっかりした破れない運動になるだろうなあと思いました。
5)
「母はあらゆる物質的なものを尊重した。
物質は霊を運ぶ媒体として見なし すべてのをものを畏敬の念を持って取り扱った」サティシュ
物質のとらえ方が重要だと思います。
私は藤岡惇氏の唯物論哲学を宇宙規模に発展させる取り組みを支持しています。
「唯物論とスピリチュアリティの結婚・・・藤岡惇氏とケン・ウィルバー」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/61yuibutsurontosprituality.html
ワンネスの哲学は唯物論を含みます。
物質宇宙(サーカーの言葉では、エーテル体、気体、燃体、液体、固体の五要素の世界)
がまず成立して、そこから、生命が誕生し、進化し、人間に至るからです。
ただ、ワンネスの哲学は、サティシュのおかあさんのように物質までも聖なるものからできていると見ます。
物質とは何でしょうか。
科学者も物質はたんなる物質ではなく、
「God エネルギー(アインシュタイン)」からなるものだと見る人がいます。
ジェームズ・オシュマンは物質を聖なるものとは言っていませんが、
アカデミズムの膨大な実証研究を背景にして書いた『エネルギー療法と潜在能力』を書き 次のように述べています。
「量子力学の世界では、
わたしたちが『物体』とんでいるものを、
さまざまな事象、運動、関係、および、エネルギーの連続系、
すなわち自然の連続体における任意の一点と解釈する。
したがって、素粒子も素粒子からなる細胞、組織、生体も、
すべての物質は『物』ではなく、『活動のパターン』であり、
それだけ存在する独立した『物』は存在しないことになる」
これはこの前の小貫さんの菜園家族の報告と同趣旨です。
オシュマンは、次のような科学者の見解もあるとさらりと紹介していました。
「量子のこの力の背景には、意識と知性をそなえた心があると考えなくてはならない。この心はあらゆる物質の基質である」マックス・プランク
サティシュのお母さんは「物質が霊を運ぶ媒体」であると考えていたとあります。
ワンネス哲学ではなぜ、物質までもが尊いものになるのかですが
私なりの解釈で短く書きますと
意識の海があり、まったく風がなく、表面は純粋の平です。(ニルグナ・ブラフマ)
風がゆるやかな波を生じました。(波の形が生じてからをサグナ・ブラフマといいます)
そこから次第に複雑な波になって展開してゆきます。
意識の海に波が生じて、波によって海の材料である意識がまったく隠れた段階が固体物質です。
だから、固体物質も波+海の水(意識)であり、意識が隠れているだけです。
こうなると物質はまさしくスピリットの固まりです。
少し固まりがとけたのが心です。
さらに溶けたのがスピリットです。
完全に意識の海の中に溶け込むことをめざすのが
スピリチュアリティです。
6)
これは梵我一如だろうと思います。
それを永遠につづく人生の究極の目標としつつ
社会変革に携わり、人間による人間の搾取(利用)なき世界をめざしなさい
これが「スピリチュアリティ」と「社会変革」の結合ではないかと思っています。
サティシュ・クマール『君あり、我あり』の感想、その2
『君あり、我あり』の感想1をおくったのですが
そのつづきの数ページを読んだ感想を書かせてもらいます。
1)35ページ
歩きながら、母は私に適切に呼吸することを教え・・・
「注意を払うことが、瞑想なのよ」と母いっていた。
歩きながら瞑想するという考えを幼いうちから教えておけば
そのことで、私がくじけたりしないだろうと母は考えていたに違いない。
私かとりわけ覚えているのは、母のこの言葉だった。
「息を吸うときと吐くときの間の瞬間に気を向けなさい。
息を吸っても吐いてもいない一瞬を見つめるのよ。・・・
ただ見つめるのよ」
歩く瞑想についてですが
このまえの小貫さんの菜園家族の話のあった時に
私といっしょに出席しました天野さんから
歩く瞑想を学びました。
もし、サティシュさんを歓迎するこの実行委員会が
将来、スピリチュアリティと社会のテーマでなんからの形で会合があれば
天野さんからヴッパーサナの歩く瞑想法を学べばいいと思います。
30分で三回レッスンする機会があれば、一応のやり方はわかると思います。
自分の「一瞬一瞬の気づき」のレベルをアップすることに役立つと思います。
2)41ページ
オウムはA.U.Mの三つの音でなり立っている。
・・・・
我々の古代からの伝統によれば、存在そのものが『オウム』という音から生まれたとされている。
私は、サーカーのヨガ哲学の本を読んでいて、
オウムの言葉にであった時、非常に嫌悪感をもちました。
血塗られた言葉だったからです。
ところがいろいろ読み進むうちに
オウムの意味がわかってきました。
真言宗の呪文をお寺でよくみかけるオンもオウムですね。
たとえば、オン・マリ・キャマリ・モリ・ソワカ
全宇宙のすべての音の集合音がオウムということだそうです。
だから最初の全宇宙が発生する時の音でもあります。
このコスモスは、一が多となりました。
だから多は一でもあります。
「色即是空、空即是色」は、
多(色)はすなわち一(空)
一(空)はすなわち多(色)
とも解釈できます。
オウムとは、音の多すなわち一であるのです。
『君あり、故に我あり』の表題のサンスクリット語が
意味するものでもあります。
ミクシィにサーカーの音響論を紹介しています。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14280178&comm_id=928468
この中でサーカーがわかりやすくオウムについて説明してくれています。
(このサーカーの言葉をペ-ストします)
すべての音が一度に表現されたとしましょう。
何がおきるでしょうか。
あなたが市場に行ったとしましょう。
誰かが「じゃがいもはいくら?」とききます。
他の誰かが「なすびはいくら?お肉はいくら?」とききます。
そしてお店の人が「これこれだ」と言います。
買い手は、「いや、いや、そんなには払いたくない」と言います。
とても多くの音があります。
しかし、もし、あなたが市場から100ヤードのところにいるならば、どんな音に聞こえるでしょうか。
「わわわわー"hawawawawa"」のようになるでしょう。
いっしょになったすべての音は、妙な集合的な音を生み出します。
そうではないでしょうか。
あなたは、遠くから、じゃがいも、 豆、カリフラワーを聞き分けることができるでしょうか。
いいえ、あなたは音の集合の「わわわわー"hawawawawa"」を聞くでしょう。
同様に、幅広いカテゴリーの中に入るこれらすべての音、無数の音は、宇宙の集合的音を生み出すでしょう。
その集合的な音がアウムum, A-U-Mです。
この三つの音、アウムaum(a, u, ma)は、
それぞれ、創造、維持、破壊をあらわしています。
最初の音のアaは創造をあらわします。
第二の音のウuは、保持をあらわします。
第三の音は、破壊をあらわします。
だから、
無数の音のすべては、
すなわち50の音すべては、
この至高の音のアa・ウu・マmaによってあらわされます。
集合的にa-u-maはアウムaumになります。
だから、宇宙全体についての音響の側面が、アウムaum A-U-Mです。
それは仕事のすべての領域を含んでいます。
それは宇宙の仕事すべての集合的音です。
地球は、太陽の周りを回ります。
間違いなく音が生み出されています。
それはあなたに聞こえるかもしれませんし、聞こえないかもしれません。しかし、確実に音が生み出されています。
月は地球の周りを回ります。確実に波動が生み出されています。
その波動によって音もまた生み出されることは間違いありません。
それはあなたに聞こえるかもしれませんし、聞こえないかもしれません。
どこにも音があります。
たとえ、あなたが、猫がネズミを捕まえようとするように、こっそり動いても、そこにも音があります。
あらゆるところに波があります。
あらゆるところ光もあります。
その光はあなたに見えるかもしれませんし、見えないかもしれません。
夜中には、あなたは見ることができません。
しかし、フクロウは見ることができます。
夜に光があるからです。
アウムAumは、すべての音の集合です。
だから、アウムの領域の内部に世界のすべての活動が入ります。
すべての仕事に音があります。
アウムはすべての音の集合です。
だからアウムの領域の内部に世界のすべての仕事が入ります。
アウムはパラマ・プルシャの世俗のmundane表現をあらわします。
アウムは、パラマ・プルシャのこの世のworldly表現をあらわします。
(注、音と光を混ぜて、ここで述べられていますが、
サーカーの文章に、音は気体の中だけなく真空も伝わるとあって、疑問をもっていたのですが
なんと科学的にも音と光は似たものであり、波動であり、粒子であり、サーカーの言っていることは正しかったのでびっくりしました)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods