Pleiadian Message to the Lightworkers - New Earth Rising (video inspired by god of star)
心の質を高め神に近づけるためには物質世界を神の現れと見る必要がある
it is necessary to see material world as manifestation of gods in order to enhance mind to quality of god
This article is it is necessary to see material world as manifestation of gods in order to enhance mind to quality of god.
Material world is world of gods of base of universe.
It is not than looking at mere material world.
When you see truth that material world is world of gods, your mind become closer to god.
この論文は、心の質を高め神に近づけるためには物質世界を神の現れと見る必要がある、です。
物質世界は宇宙根底の神々の世界です。
単なる物質を見ているのではないのです。
神々の世界である物質世界という真実を見るときあなたの心は神に近づいているのです。
最近、サーカー を読んでいて、なるほどと思った箇所があったので、みなさんに繰り返し説明しているのですが、今も、同じことを知人に書きました。
参考に紹介します。
「瞑想して心の奥の平穏さに心を一致させるのが、
サイコ・スピリチュアルのパラレリズム(照応関係)の確立です。
でも、瞑想ばかりして生きてゆくわけにはゆきません。
どうしても私たちは、フィジコ・サイキックのパラレリズムが必要です。
つまり現実の物的世界に対して正確に対応する認識をもっていないと、
現実の壁にぶつかります。
しかし、この私たちの外側の世界は物的世界です。
自分の家族も自分の勤務先の人間関係も、心の外の物的世界に属しています。
物的世界に心が向かうと心は粗野化します。
そこで外の物的世界のすべてをもっとも精妙なブラフマのあらわれとして絶えずみるのです。
そして自分をブラフマの世界の中に確立するのです。
つまり、心のいちばん奥にブラフマがあり、見ている外側のこの物的世界もブラフマなのです。
サーカー が『自分の息子をブラフマのあらわれとしてみていますか』というのはそういう意味です。
内と外に精妙なブラフマを感じることによって、心は常に精妙な方向に向かい、安定を得ます」
とえらそうなことを書きましたが、
全部、サーカー の受け売りです。(^^ゞ」
もう少し、説明しておきます。
サーカー の人間存在論は、フィジカル(物的身体的)、サイキック(知的心理的)、スピリチュアル(精神性)の三つのレベルの重なるところに人間があるというものです。
(ちなみに、他の類書の訳者たちは、スピリチュアルを霊性と訳し、 サイキックも霊とふつう訳しますから、混乱しています。
サーカー についてはまちがいなく、サイキックは心の領域の文脈で論じています)
サイコ・スピリチュアルのパラレリズムというのは心と精神(心のもっとも奥)との照応関係の確立ということです。
目をとじて瞑想していると心は静かになってきます。
それが徹底的に澄みきった状態になることがサイコ・スピリチュアルのパラレリズムの確立です。
それは毎日、朝と夕方、ちょっとずつ練習しているとできるようになります。
(もちろん、ヤーマ、ニヤーマを守らず、たとえば、人を傷つけたりしているとその反作用で集中力が低下しますが(~_~;)、あるいはカフェインやお酒、あるいはキムチのような興奮させるものを飲食すると集中力は低下しますが・・・だから、心を純粋な意識に近づけるためには、どうしてもおこないや食べ物に気をつける必要があります)
で、このように心を静かにできたとしても、
私たちは実際には仕事をしたり、いろんな人と人間関係をもったりして生きてゆかなくてはなりません。
そこで、せっかく、朝、瞑想で得た平穏な心も崩れてしまいやすい状況があります。
この世俗の物的世界に適切に対応して生きてゆかなくてはなりません。
現実世界に対して正しい認識をもっていないと適切な対応ができません。
この現実世界を正しく把握し、認識して生きてゆくのが、フジコ・サイキックのパラレリズムです。
すなわち心と心の外の物的世界との照応関係です。
これはきわめて大切です。
これが確立しないと現実世界とぶつかって、
平穏な心は混乱に陥ってしまいます。
(そこで現実世界から逃避して心の平安をもとめる人がいます。
そのような生き方をサーカー は批判します。
私たちは物的肉体を維持するために食べ物を得なくてはならないから、
物的世界とかかわっていることを避けることはできません。
ですから現実世界から逃避で、本当の意味で心の平穏の実現は不可能なのです。
サーカー 以外のスピリチュアルな成長を説いている人は、ほとんどこのフジコ・サイキックのパラレリズムの確立がサイコ・スピリチュアルのパラレリズムの確立と同じだけの重要性をもっていることを説くことが欠けていると感じます。
サーカー の場合、このことがバランスのとれた世界をつくる進歩的活用理論(プラウト)などの創始と関連していると思います。
社会(物的世界)に対する「適切な対応」、ある場合は「闘いの必要」を説いているのは、類似の思想家でサーカー だけです)
さて、人は、ふたつのパラレリズムを確立しながら生きてゆくのが、内と外のバランスのとれた理想的生き方であることは理解していただいたとおもいます。
この場合、一方で、心は、内側のより精妙さに向かい、他方で、心は外側のより粗大な方向に向かいます。
サーカー によれば、心は念じるもの、考えることの形をとるようになります。
粗大な現実世界のことばかり念じる(たとえば、お金がほしい)と、あるいは粗大な現実世界で自己を確立する(たとえば、出世する)ばかり念じると、心は粗大化します。
朝、夕の瞑想で心が精妙化したとしても、昼の活動の間に、心は粗大な現実を考え、見つめますから、心は粗大化してゆきます。
ですから、ふたつの面でのパラレリズムの確立で人は適切に生きてゆけるけれども、サーカー の言う人生の最大の目標であるべき心をピュアにして純粋意識に近づけること、最終的に全宇宙の純粋意識に溶け込ませることは不可能です。
なぜなら、朝、夕の瞑想で心が精妙になっても、昼の活動で心が粗大化するので、プラス・マイナス、ゼロで、進歩がありません。
では、現実世界で生活しながら、心をピュアにして純粋意識に近づけるには、すなわち粗大な心を精妙な心にしてゆくにはどうしたらいいのでしょうか。
サーカー は、あらゆるものをもっとも精妙な純粋意識の固まったもの、すなわちブラフマの現れとして見よといいます。
そうしたら、昼の生活の中でみているあらゆるもの、
食べ物、人、建物、木、空気、水、大地、ありとあらゆるものは、
スピリチュアルに見えてきます。
すべてが精妙なものの現れとして見ていますから、
外に向かっている心は、精妙なものをみていますから、
物的なものを見ながら、粗大な物的なものも、精妙なものに見えるゆえに、
次第に心は精妙に繊細になり、純粋意識に近づいてゆきます。
すなわち、朝と夕方の瞑想で心が、精妙になるのに加えて、昼の活動の中でも心は精妙になってゆきます。
精妙化+精妙化ですから、心はどんどんピュアで精妙な純粋意識に近づいてゆきます。
サーカー はいいます。
親には「あなたは自分の息子をブラフマの現れとして見ていますか」
農夫には「自分の耕す大地を精妙なブラフマの現れとして見ていますか」と。
同じことを教師だったら「あなたは自分の生徒をブラフマの現れとして見ていますか」
お店で働いている人だったら「あなたはお客さんをブラフマの現れとして見ていますか、自分の出す料理をブラフマの現れとして見ていますか」
となると思います。
以上が、安定した心をつくるうえでの参考になれば幸せです。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Material world is world of gods of base of universe.
It is not than looking at mere material world.
When you see truth that material world is world of gods, your mind become closer to god.
この論文は、心の質を高め神に近づけるためには物質世界を神の現れと見る必要がある、です。
物質世界は宇宙根底の神々の世界です。
単なる物質を見ているのではないのです。
神々の世界である物質世界という真実を見るときあなたの心は神に近づいているのです。
最近、サーカー を読んでいて、なるほどと思った箇所があったので、みなさんに繰り返し説明しているのですが、今も、同じことを知人に書きました。
参考に紹介します。
「瞑想して心の奥の平穏さに心を一致させるのが、
サイコ・スピリチュアルのパラレリズム(照応関係)の確立です。
でも、瞑想ばかりして生きてゆくわけにはゆきません。
どうしても私たちは、フィジコ・サイキックのパラレリズムが必要です。
つまり現実の物的世界に対して正確に対応する認識をもっていないと、
現実の壁にぶつかります。
しかし、この私たちの外側の世界は物的世界です。
自分の家族も自分の勤務先の人間関係も、心の外の物的世界に属しています。
物的世界に心が向かうと心は粗野化します。
そこで外の物的世界のすべてをもっとも精妙なブラフマのあらわれとして絶えずみるのです。
そして自分をブラフマの世界の中に確立するのです。
つまり、心のいちばん奥にブラフマがあり、見ている外側のこの物的世界もブラフマなのです。
サーカー が『自分の息子をブラフマのあらわれとしてみていますか』というのはそういう意味です。
内と外に精妙なブラフマを感じることによって、心は常に精妙な方向に向かい、安定を得ます」
とえらそうなことを書きましたが、
全部、サーカー の受け売りです。(^^ゞ」
もう少し、説明しておきます。
サーカー の人間存在論は、フィジカル(物的身体的)、サイキック(知的心理的)、スピリチュアル(精神性)の三つのレベルの重なるところに人間があるというものです。
(ちなみに、他の類書の訳者たちは、スピリチュアルを霊性と訳し、 サイキックも霊とふつう訳しますから、混乱しています。
サーカー についてはまちがいなく、サイキックは心の領域の文脈で論じています)
サイコ・スピリチュアルのパラレリズムというのは心と精神(心のもっとも奥)との照応関係の確立ということです。
目をとじて瞑想していると心は静かになってきます。
それが徹底的に澄みきった状態になることがサイコ・スピリチュアルのパラレリズムの確立です。
それは毎日、朝と夕方、ちょっとずつ練習しているとできるようになります。
(もちろん、ヤーマ、ニヤーマを守らず、たとえば、人を傷つけたりしているとその反作用で集中力が低下しますが(~_~;)、あるいはカフェインやお酒、あるいはキムチのような興奮させるものを飲食すると集中力は低下しますが・・・だから、心を純粋な意識に近づけるためには、どうしてもおこないや食べ物に気をつける必要があります)
で、このように心を静かにできたとしても、
私たちは実際には仕事をしたり、いろんな人と人間関係をもったりして生きてゆかなくてはなりません。
そこで、せっかく、朝、瞑想で得た平穏な心も崩れてしまいやすい状況があります。
この世俗の物的世界に適切に対応して生きてゆかなくてはなりません。
現実世界に対して正しい認識をもっていないと適切な対応ができません。
この現実世界を正しく把握し、認識して生きてゆくのが、フジコ・サイキックのパラレリズムです。
すなわち心と心の外の物的世界との照応関係です。
これはきわめて大切です。
これが確立しないと現実世界とぶつかって、
平穏な心は混乱に陥ってしまいます。
(そこで現実世界から逃避して心の平安をもとめる人がいます。
そのような生き方をサーカー は批判します。
私たちは物的肉体を維持するために食べ物を得なくてはならないから、
物的世界とかかわっていることを避けることはできません。
ですから現実世界から逃避で、本当の意味で心の平穏の実現は不可能なのです。
サーカー 以外のスピリチュアルな成長を説いている人は、ほとんどこのフジコ・サイキックのパラレリズムの確立がサイコ・スピリチュアルのパラレリズムの確立と同じだけの重要性をもっていることを説くことが欠けていると感じます。
サーカー の場合、このことがバランスのとれた世界をつくる進歩的活用理論(プラウト)などの創始と関連していると思います。
社会(物的世界)に対する「適切な対応」、ある場合は「闘いの必要」を説いているのは、類似の思想家でサーカー だけです)
さて、人は、ふたつのパラレリズムを確立しながら生きてゆくのが、内と外のバランスのとれた理想的生き方であることは理解していただいたとおもいます。
この場合、一方で、心は、内側のより精妙さに向かい、他方で、心は外側のより粗大な方向に向かいます。
サーカー によれば、心は念じるもの、考えることの形をとるようになります。
粗大な現実世界のことばかり念じる(たとえば、お金がほしい)と、あるいは粗大な現実世界で自己を確立する(たとえば、出世する)ばかり念じると、心は粗大化します。
朝、夕の瞑想で心が精妙化したとしても、昼の活動の間に、心は粗大な現実を考え、見つめますから、心は粗大化してゆきます。
ですから、ふたつの面でのパラレリズムの確立で人は適切に生きてゆけるけれども、サーカー の言う人生の最大の目標であるべき心をピュアにして純粋意識に近づけること、最終的に全宇宙の純粋意識に溶け込ませることは不可能です。
なぜなら、朝、夕の瞑想で心が精妙になっても、昼の活動で心が粗大化するので、プラス・マイナス、ゼロで、進歩がありません。
では、現実世界で生活しながら、心をピュアにして純粋意識に近づけるには、すなわち粗大な心を精妙な心にしてゆくにはどうしたらいいのでしょうか。
サーカー は、あらゆるものをもっとも精妙な純粋意識の固まったもの、すなわちブラフマの現れとして見よといいます。
そうしたら、昼の生活の中でみているあらゆるもの、
食べ物、人、建物、木、空気、水、大地、ありとあらゆるものは、
スピリチュアルに見えてきます。
すべてが精妙なものの現れとして見ていますから、
外に向かっている心は、精妙なものをみていますから、
物的なものを見ながら、粗大な物的なものも、精妙なものに見えるゆえに、
次第に心は精妙に繊細になり、純粋意識に近づいてゆきます。
すなわち、朝と夕方の瞑想で心が、精妙になるのに加えて、昼の活動の中でも心は精妙になってゆきます。
精妙化+精妙化ですから、心はどんどんピュアで精妙な純粋意識に近づいてゆきます。
サーカー はいいます。
親には「あなたは自分の息子をブラフマの現れとして見ていますか」
農夫には「自分の耕す大地を精妙なブラフマの現れとして見ていますか」と。
同じことを教師だったら「あなたは自分の生徒をブラフマの現れとして見ていますか」
お店で働いている人だったら「あなたはお客さんをブラフマの現れとして見ていますか、自分の出す料理をブラフマの現れとして見ていますか」
となると思います。
以上が、安定した心をつくるうえでの参考になれば幸せです。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods