Power of independent thinking: Mark Dowley at TEDxWooster (video inspired by god of star)



人間関係は互いに独立した心をもって協力的に生きていくべきだ
Human relation should go cooperative to have independent mind each other

This e-mail is answer about consultation how to deal with student friends.
Mitsuki wrote very important in this mail.
Human relation should go cooperative to have independent mind each other.
Human relation is based on independence at first and cooperation.
Independence assumed full freedom of mind of expression.

このメールは、生徒の友人への対処のしかたの相談について答えたものです。
ミツキはこの中で非常に重要なことを述べています。
人間関係は互いに独立した心をもって協力的に生きていくべきだ。
人間関係はまず自立があって協力がある。
自立とは完全に自由な心の表現を前提としている。



おはよう。
昨日の返事を考えてみます。

1)「私は友達に冷たい態度とっている」
2)「休み時間に食堂ついてきてっていわれても、嫌なのが顔に出てしまって「もーいいわー」といつも言われてしまいます。
その時になんで快く「いいよー。ついていくでー。」って言われへんねんやろー。
周りの友達は嫌な顔一つせず快くついていってるのです。
4)校内センターテストの申し込みを友達と約束して、提出が迫っていたから私はM先生に提出しにいきました。
友達ももう提出しているだろうと勝手に私がおもって、後で聞いたら提出し忘れてたらしくて…。
気づいたときにはもう遅かって、友達は申し込めなくなってしまいました。」
なんでその時に友達に「私は提出したけどもう提出した?」と一言いってあげれなかったのか。
5)「そんな自分が嫌で嫌でたまりません。」
「なんでこんなに気がきかないのか。そんな自分が悔しくてたまりません。」
6)どうにかして治したいのですが、どうすればいいでしょうか?

以上の論点を考えてみたいとおもいます。

1) まず、全体としての感想ですが、
善悪という観点でみると、少なくとも、ここに書いてある例、すなわち食堂にゆく友人についてゆかなかったとか提出物のことを友人に言ってあげなかったということについて、Kさんの側にまったく落ち度や悪はありません。
たぶん、予想ですが、これがイギリスやフランスやアメリカのような個人主義の文化、つまり個人が自立してしっかり責任を果たすような見方の文化だと、Kさんのように責任を感じることはないだろうと予測します。
(もちろん、これら欧米の個人主義文化は、今は悪化して、資本主義が高度に発達した社会の中で悪い利己主義的なものになっているとは思いますが)
つまり、「食堂にいっしょに行ってほしい」とさそうことはどの社会でも当然あるわけですが 行ってくれなかったから「冷たいわ」といって非難されないだろうと思うのです。
また、仮に非難されても、自分はなんで冷たいのかしらと受けとめないだろうと思うのです。

日本社会の特徴として「集団主義」がいわれます。
この場合の集団主義とは、その中の自立した個人が集団的に協力するという意味ではなく、 個人はそれをしたくないのになんとなく集団にあわせなくてはならない雰囲気を感じてしまうのです。
「まわりの子はいつも快くついていっている」とあるけど、「いつも」ではないかもしれません。
時には、心の奥では、ついてゆきたくないとおもっている時もあるかもしれません。
あまり詳しく論じるのはやめますが、こういう風土では、本当の意味で言論の自由とかが発達しないのです。
人はまわりにあわせることばかり考えるのです。
個人の思いよりも、人間関係を優先してしまうからです。
今回は、問題提起だけにしておきますね。
ですから、本当は、食堂についてゆくのをことわる時、
からっと明るい感じで、ごめん、今、これをしたいのとか、
今、一人で考え事したいのとか、
言える雰囲気だったらいいのだろうとは思いますが、
その場面では、どういう心理なのですか、
あるいはどう答えているのですか・・・
もし、本当に食堂にはその時に、いきたくなかったら、
ことわること自体が問題ではないと思います。
でも、ひょっとしたら食堂にゆきながら、何か友人はKさんと話したかったかもしれないし、・・・・
ゆきたくないのに無理してゆくと、その友だちとの関係も無理が生じ、心がくるしくなります。・・・
いつものインド人によると、こうしたことには「絶対的にこうあるべきという真理はなく」
、 時、場所、人にあわせて「適切な調整」をしなさいということです。
食堂にさそわれたときが、ひまにしている時か、しなくてはならないことがある時なのか。
場の雰囲気、そしてさそった人は、ことわれられたらひどく気にするタイプなのか、ことわっても気にしないタイプなのか。
全体にこうあらねばならないということではないのですから、
自分と相手の状況にそって「調整」するのがいいと私は思います。

ですから、
1) の「私は友人につめたい態度をとっている」と頭から思いこむのではなくて、・・つまり、Kさんは決して、人間にたいして冷たいものの考え方をしている人間ではありません。

それなのに友人が「冷たい態度」と受けとめたのはなぜだろう
と問題をたてるべきだろうとおもいます。
そこには深い問題がよこたわっているとおもいます。
その中で「適切」な調整をして、友人が「冷たい」と感じないようにある程度、日本社会のありようと「調整=妥協」をすることだとおもいます。

2) 私は、Kさんのいいところは、そうしたグループ化しないところだと思います。
正直にいって、女性の人からおこられるかもしれませんが、
私が長い間、担任とかを経験してきて、思うことは、
クラスの中で、男子よりも女子の方がセクトにかたまりやすいことです。
波長のあうもの同士がグループをつくることは問題ないのですが、
一つ間違うとそのグループ同士が排他的になるのです。
それは、心に狭い半径をつくるのです。
そしてその狭い半径の中に子とその半径以外の子に、区別をもうけるのです。
それは普遍的愛につながりません。
愛はその半径を突破してゆくべきなのです。
ですから、グループをつくることは問題ではありませんが、
そのグループのリーダー的な人が、心に狭い半径をもうける排他的な人だったら、そのクラスは統一ではなく、分裂がはしります。
私たちがめざすべきは、統一であり、連帯です。
その時、実は、Kさんのような特定のグループにべったりとはならないタイプの人が全体の統一にむかっては役割をはたしやすいのです。
つまり、「冷たいわ」と思われている性格は、実は、クラスや社会全体が、愛にあふれる暖かい集団になるためにプラスに働くのです。

3) 校内提出の締め切りで言ってあげなかった件ですが、 
これこそ、個人主義の社会なら、その人の責任にほかなりません。
アメリカの西部開拓の時代に森をきりひらき、インデアンと戦いながら(インデアンの土地を侵略していたわけですが)開拓者たちが生活してゆく時、
他人に頼ることができませんでした。
そこでは、誰かがやってくれるということを期待することはできませんでした。
そこでは、自分が責任をはたさないとみんなが生きて行けません。
ですから子どもも甘えがないように、自分のやるべきことは自分の責任でちゃんとやるように育てざるえませんでした。
ですから、提出日をわすれているのはあくまで友人の責任です。
ですから、Kさんは、当然友だちは提出しているだろうと思っていたわけですから、まったく責任はありません。
早めにその話題をして、友人が「あっそうそう忘れていた」と思いださせてあげることになったということは、結果的にはありうるわけですが、
この場合はまったくKさんの責任ではありません。
自分の責任でもないことを、自分の心の荷物にしてゆく、最後には心にしょいきれないほどの荷物をかかえ、本当に友人の役にたつことができなくなってしまいます。
仮に親と仮定すると、そういう親は過保護になって、まちがった子育てをしてしまいます

4) 結論です。
Kさんは、友人に冷たい態度をとっているのではありません。
「冷たい態度をとっている」と受けとめる心の小ささをもっている友人がいたとしたら、その友人の心にあわせてある程度の「調整」が必要ということです。
問題は、友人が本当になやんだりしている時に、心の援助がしてあげられるかで、「心の冷たい」かどうかがとわれます。
崖から落ちそうで危ない友人を救いにいかなかったとしたら「冷たい人間」でしょう。
しかし、食堂やトイレについてゆかなかったからといって、冷たい人間ではありません。










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