The Kingdom of God Is Within You by Leo Tolstoy Pt. 1 - FULL AudioBook | Greatest Audio Books (video inspired by god of star)
時空の特定点は流れの中にありますから、完成した完全な真理はありえないのです
specific points of time-space is in flow, there cannot be complete truth
The article is that recognition of human cannot have complete, only partial truth or relative truth.
I consciousness of gods overlap on flow of full of Higgs particle.
Flow of full of Higgs particle is time-space.
Ectoplasm structure based on specific points of time-space is truth.
Since specific points of time-space is in flow, there cannot be complete truth.
この論文は、人間の認識に完全はなく人間のすべての認識は部分真理であり、相対的真理である、です。
神々の私意識がヒッグズ粒子の充満の流れに重なっています。
ヒッグズ粒子の充満の流れが時空です。
時空の特定点にもとづいた思念体構造が真理です。
時空の特定点は流れの中にありますから、完成した完全な真理はありえないのです。
おっしゃるとおりだとおもいます。
この世の形あるものとしてあらわれたものは、
念仏であれ(なむあみだぶつという形をもった言葉になっています)
おっしゃるように、この世に形あるものとしてあらわれたものは
相対的真理だとおもいます。
1)念仏の意味
いつか論議としてからむならば、投稿の中で紹介しようとおもっていたのですが
南無阿弥陀仏は、中国語にする前にサンスクリット語では
ナムアミターユス、ナムアミターバ というマントラでした。
アミタは、無限のです。ユスとバは、時間、空間です。
ナムはゆだねるです。
(小学館の百科事典でこういう説明を読みました。)
親鸞はたしか「観無量寿経」という書を残しています。
量=空間、寿=時間、それが無限であることを観じるのです。
ですから、無限の形なき宇宙の根源の私たちを形作っているパワーにゆだねますよ
という、心を無限大に拡大するマントラだったのです。
しかし、言葉の形をとった瞬間にそれは、相対的なものになります。
時空という相対的に世界に入るからです。
だから、親鸞は、念仏を何万回もとなえようするような自力ではなく、絶対他力をとなえました。
「自分」という力ではなく、無限の力にゆだねなさい。
無限の力の中にあなたの生を重ねなさいということだとおもいます。
無限が形をとって有限のものとなっているのが、このコスモスだとおもいます。
だから、このコスモスのすべて、物質だけではなく心もふくめてすべてが相対的真理だとおもうのです。
もちろん、相対真理ということは、コスモスという巨大な山のある部分に根ざします
から、部分的真理、一面的真理とも言い換えることができると私はおもうのです。
コスモスという巨大な山に気づく時に、私たちが、その山をより広く把握しているか、より狭く把握しているかというレベルはあっても、すべての認識が相対的であるということです。
2)絶対的真理はこの世ではありえない
ですから
「、現在において
絶対的真理と思えても、時・人・場所によって変化すると考えます。
その意味で絶対的真理も相対的です」
とおっしゃていることは、まったく私も同感です。
現在、絶対的真理と思えることも、時、人、場所によって変化してきますから、絶対的真理だとおもっていることも、相対的真理です。
どんな宗教もどんな理論も、私5のレベルを含んで超えて、
私7レベルまで達して、このコスモスの姿を感じるならば、この形をとった世界に絶対真理はありえないのです。
マルクスやエンゲルスがヘーゲルをうけついだ弁証法も、生成、変化、消滅をとなえており、
形をとったこの世界には、絶対的真理はありえないということを教えているとおもいます。
エンゲルスがヘーゲルが当時のプロイセン国家をもって「歴史の終わり」としたことを批判して、歴史はおわらないというようなことをいっていました。
つまり、形にあらわれたこの世界には絶対的真理はないと。
3)すべては変化・発展の中にある
愛も前回の投稿で述べましたように、
心の抱擁する範囲は、人間の成長にしたがって弁証法的に発展してゆきますから、絶対的なものとはできません。
君を愛しているといっても、心は変化します。
自由もおっしゃるとおりだとおもいます。
自由も物質レベルでは、新自由主義が今日お金もうけの自由を謳歌していますが、一 方に富が蓄積して、他方で貧困化や生活の不安定化が進んでいますから、物質的な自由について制約をかける必要があります。
共産主義も、サーカーは、社会サイクルの革命の時期の、すなわち一方に富が他方に多数の人々が困窮化する 時期の、相対的真理だったと言います。
ある特定の社会状態をもって「歴史の終わり」というイメージ、そういうものとして「共産主義」がイメージされるとき、マルクスの弁証法の意図とちがって、いろんな地域で共産主義の名で蛮行がなされました。
相対的真理として吸収して、未来の構想に役立てる姿勢が必要だとおもいます。
したがって、「含んで超える」次の段階の思想やヴジョンを提起することが今日必要となっているとおもいます。
サーカーは、共産主義の崩壊後の思想的空白、これが危険だといっていました。
この思想的空白に悪魔的思想が入り込む。
いそいで、進歩的社会主義とネオ・ヒューマニズムの理想を伝えよといいます。
まあ、ネイミングはなんでもいいから、今日の時代、過去の諸思想を「含んで超えた」ヴィジョンが必要だと私はかんがえているわけです。
実際、悪魔的思想、各地で原理主義とナショナリズムが燃え上がっています。
ウィルバーの観点でいうならば
合理主義、普遍主義「私5」の意識レベルの人間がリーダーシップをにぎっていたのが、
それより意識レベルの低い「私4」の自分の所属する社会中心思考の人々が様々なグループのリーダーシップをにぎっているのです。
4)自分たちの理論も相対的真理であることを自覚して統合の道へ進もう
私は、世界社会フォーラムの原理憲章にあるような「私7」レベルの人々が、日本でも、大衆運動や諸グループの統合をはかる必要があるとおもっています。
そうした人々が政党や権力から独立した市民の諸運動や諸活動の統合の中核の場をつくってゆかれることを期待しています。
そうした統合の場として、この市民社会フォーラムも大きくなってゆくことを期待しています。
無私の奉仕精神で活躍されているこの市民社会フォーラムの参加者の方々は、すべての思想や運動は、それぞれ正しい、相対的真理をもっていることを認識しつつ、認め合って前進してゆく可能性をもっておられると考えています。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)I consciousness of gods overlap on flow of full of Higgs particle.
Flow of full of Higgs particle is time-space.
Ectoplasm structure based on specific points of time-space is truth.
Since specific points of time-space is in flow, there cannot be complete truth.
この論文は、人間の認識に完全はなく人間のすべての認識は部分真理であり、相対的真理である、です。
神々の私意識がヒッグズ粒子の充満の流れに重なっています。
ヒッグズ粒子の充満の流れが時空です。
時空の特定点にもとづいた思念体構造が真理です。
時空の特定点は流れの中にありますから、完成した完全な真理はありえないのです。
おっしゃるとおりだとおもいます。
この世の形あるものとしてあらわれたものは、
念仏であれ(なむあみだぶつという形をもった言葉になっています)
おっしゃるように、この世に形あるものとしてあらわれたものは
相対的真理だとおもいます。
1)念仏の意味
いつか論議としてからむならば、投稿の中で紹介しようとおもっていたのですが
南無阿弥陀仏は、中国語にする前にサンスクリット語では
ナムアミターユス、ナムアミターバ というマントラでした。
アミタは、無限のです。ユスとバは、時間、空間です。
ナムはゆだねるです。
(小学館の百科事典でこういう説明を読みました。)
親鸞はたしか「観無量寿経」という書を残しています。
量=空間、寿=時間、それが無限であることを観じるのです。
ですから、無限の形なき宇宙の根源の私たちを形作っているパワーにゆだねますよ
という、心を無限大に拡大するマントラだったのです。
しかし、言葉の形をとった瞬間にそれは、相対的なものになります。
時空という相対的に世界に入るからです。
だから、親鸞は、念仏を何万回もとなえようするような自力ではなく、絶対他力をとなえました。
「自分」という力ではなく、無限の力にゆだねなさい。
無限の力の中にあなたの生を重ねなさいということだとおもいます。
無限が形をとって有限のものとなっているのが、このコスモスだとおもいます。
だから、このコスモスのすべて、物質だけではなく心もふくめてすべてが相対的真理だとおもうのです。
もちろん、相対真理ということは、コスモスという巨大な山のある部分に根ざします
から、部分的真理、一面的真理とも言い換えることができると私はおもうのです。
コスモスという巨大な山に気づく時に、私たちが、その山をより広く把握しているか、より狭く把握しているかというレベルはあっても、すべての認識が相対的であるということです。
2)絶対的真理はこの世ではありえない
ですから
「、現在において
絶対的真理と思えても、時・人・場所によって変化すると考えます。
その意味で絶対的真理も相対的です」
とおっしゃていることは、まったく私も同感です。
現在、絶対的真理と思えることも、時、人、場所によって変化してきますから、絶対的真理だとおもっていることも、相対的真理です。
どんな宗教もどんな理論も、私5のレベルを含んで超えて、
私7レベルまで達して、このコスモスの姿を感じるならば、この形をとった世界に絶対真理はありえないのです。
マルクスやエンゲルスがヘーゲルをうけついだ弁証法も、生成、変化、消滅をとなえており、
形をとったこの世界には、絶対的真理はありえないということを教えているとおもいます。
エンゲルスがヘーゲルが当時のプロイセン国家をもって「歴史の終わり」としたことを批判して、歴史はおわらないというようなことをいっていました。
つまり、形にあらわれたこの世界には絶対的真理はないと。
3)すべては変化・発展の中にある
愛も前回の投稿で述べましたように、
心の抱擁する範囲は、人間の成長にしたがって弁証法的に発展してゆきますから、絶対的なものとはできません。
君を愛しているといっても、心は変化します。
自由もおっしゃるとおりだとおもいます。
自由も物質レベルでは、新自由主義が今日お金もうけの自由を謳歌していますが、一 方に富が蓄積して、他方で貧困化や生活の不安定化が進んでいますから、物質的な自由について制約をかける必要があります。
共産主義も、サーカーは、社会サイクルの革命の時期の、すなわち一方に富が他方に多数の人々が困窮化する 時期の、相対的真理だったと言います。
ある特定の社会状態をもって「歴史の終わり」というイメージ、そういうものとして「共産主義」がイメージされるとき、マルクスの弁証法の意図とちがって、いろんな地域で共産主義の名で蛮行がなされました。
相対的真理として吸収して、未来の構想に役立てる姿勢が必要だとおもいます。
したがって、「含んで超える」次の段階の思想やヴジョンを提起することが今日必要となっているとおもいます。
サーカーは、共産主義の崩壊後の思想的空白、これが危険だといっていました。
この思想的空白に悪魔的思想が入り込む。
いそいで、進歩的社会主義とネオ・ヒューマニズムの理想を伝えよといいます。
まあ、ネイミングはなんでもいいから、今日の時代、過去の諸思想を「含んで超えた」ヴィジョンが必要だと私はかんがえているわけです。
実際、悪魔的思想、各地で原理主義とナショナリズムが燃え上がっています。
ウィルバーの観点でいうならば
合理主義、普遍主義「私5」の意識レベルの人間がリーダーシップをにぎっていたのが、
それより意識レベルの低い「私4」の自分の所属する社会中心思考の人々が様々なグループのリーダーシップをにぎっているのです。
4)自分たちの理論も相対的真理であることを自覚して統合の道へ進もう
私は、世界社会フォーラムの原理憲章にあるような「私7」レベルの人々が、日本でも、大衆運動や諸グループの統合をはかる必要があるとおもっています。
そうした人々が政党や権力から独立した市民の諸運動や諸活動の統合の中核の場をつくってゆかれることを期待しています。
そうした統合の場として、この市民社会フォーラムも大きくなってゆくことを期待しています。
無私の奉仕精神で活躍されているこの市民社会フォーラムの参加者の方々は、すべての思想や運動は、それぞれ正しい、相対的真理をもっていることを認識しつつ、認め合って前進してゆく可能性をもっておられると考えています。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods