Spiritual Warfare - The Battle Belongs to The Lord (video inspired by god of star)



スピリチュアリティとは一者(神)に近づく努力
Spirituality which human beings close to god is no exception

This article is that development of spirituality is also holonic development.
Holon represents presence of certain stage.
To achieve certain stage make possible to go to next stage including its stage.
This is law of process of universe of all things.
Spirituality which human beings close to god is no exception.

この論文は、スピリチュアリティの発達もホロン的発達であるです。
ホロンとはある段階の存在をあらわします。
ある段階を達成し、それを含んで次の段階に進むことができます。
これは宇宙万物の展開法則です。
人間が神に近づく道であるスピリチュアリティもその例外ではありません。




(1) はじめに

1) 言葉は、時、場所、人に応じて変化する「相対的」なものです。

多くの人が「霊性」と訳されていることも真理です。
そして私が「精神性」と訳していることにも真理があります。
ですから、わたしたちの会も多様性を前提としながら、共通点をさぐってゆくのが一番ただしいスタンスではないかと思っています。

2)「霊性」の訳語は聞いたところによると鈴木大拙が最初のようです。

ヘーゲル関係は、すべて「精神」で訳されてきました。
ヘーゲルの「精神」はドイツの語のガイストでスピリットにあたるとどこかで読みました。
ところが「霊現象学」ではなく、「精神現象学」として訳されてきました。
ケン・ウィルバーの訳語も霊で訳されてきていましたが、最新の大著「統合心理学」は、霊ではなく、「精神」をつかって訳されています。
アンナダ・マルガのサーカーと同じようなヨーガの指導者のマハリシ・マヘーシュの「超越瞑想入門」読売新聞社は、霊はつかわず、「精神」で訳されていました。
とても読みやすかったです。
マハリシ・マヘーシュ関係の訳語は参考に値すると私は評価しています。
とてもすぐれた訳語で概念内容を歪曲することなく今の一般社会に通用する訳語を用いています。
シュタイナー関係の本は今まですべて「霊性」でしたが、最近の訳語を見ると「精神性」になっており、とても読みやすくなっています。
私はこの「精神」と「精神性」こそ、スピリチュアリティの訳語につかうべきだ。
そのことによって、一般社会に流布するあやしい霊性との差異化が可能になると思っています。
もちろん霊性という用語から入って高まってゆき、その正しい概念内容に至ることは価値あることであり、否定するものではありません。
しかし、あくまでわたしたちは、近代的科学的な精神を「含んで超える」立場を明確にして未来を模索すべきだと思うのです。
したがって、この訳語問題はきわめて重要であると考えます。
心あるどのスピリチュアル系の団体においても議論になっているそうです。

(2) 私たちの前にある課題

1) 私たちの前ある課題は、前近代と近代の知性の双方を「含んで超える」新しい世界観を提出し、次の人類文明創造の一翼を担うことだとおもいます。
前近代と近代のみならず、全世界に存在する多様な世界観を統合しうる世界観を提出することです。
そしてその世界観のグループが、「資本主義を乗り越える事業」と「人類社会の多様性おける統一という事業」の中核部隊の一翼となってゆくと考えています。
P.R.サーカーはインドのヨーガ的伝統の中から登場し、ヨーガ的伝統の言葉で語っていますが、社会論においては基本的にはこういうスタンスにあります。

2) サーカーのインド人の弟子のシャンブーシヴァナンダ先生に聞きました。

「インドでは、サーカーが繰り返しつかっているスピリチュアリティという言葉は、学校教育のような一般社会の中で日常的に使われている言葉ですか」と。
答えは普通に使われる言葉だと返事がきました。
たぶんもとはダルマというサンスクリット語だろうと思います。
サーカーの提起している個人の人間発達(ウィルバー流にいうと左上象限なんですが)のありようは、きわめて重要な提起です。
旧来の「偉大な宗教的伝統」が、社会経済を無視しているのに対して、プラウトという社会歴史経済の部門をもち、ネオ・ヒューマニズムという文化領域の部門をもっています。
個人の発達がそれらと統合されています。
したがって、もちろん、私たちは「偉大な宗教的伝統」を「含んで」超えるものにしてゆかねばなりませんが、偉大な宗教的伝統の概念内容よりも進んでいる内容であるために偉大な宗教的伝統とは異なる用語、偉大な宗教的伝統ではなく、近代の民主主義と科学の伝統の人々もアプローチできる、その両者を統合できるスタンスの用語を用いる必要があります。

(3)「精神」とは何か。

(ア) ヴェーダ・レイキを桝田こうしという40歳代の人に学びました。
彼の教えるスピリチュアリティの論とレイキは急速ないきおいで普通の庶民層にファンを増しています。
私の親戚にレイキ・ヒーリングを昨年受けて、びっくりしたのです。
そこには客観的事実としてのレイキがあったのです。
彼が三年前に教え始めて、口コミなのに、今もう300人以上が習っています。
ミクシィのコミュニティにもファンクラブがあります。
レクチャーで聞いた桝田氏の「精神」の説明はとても納得がゆきます。
サーカーはサンスクリット語の用語で論じていますが似た論点があります。

(イ) チャクラ論をご存じでしょうか。
一年前まで私は根拠ないものだと、根拠にもとづかない議論には嫌悪感がありました。
しかし、一年前にレイキ・ヒーリングをはじめてから、チャクラのところで、私の手が感知するのです。
で、尾てい骨のところの第一チャクラ、性器のあたりの第二チャクラ、みぞおちの第三チャクラ、胸の第四チャクラ、のどの第五チャクラ、眉間の第六チャクラ、頭頂の第七チャクラです。

いろんな見方がありますが、第一チャクラが物質圏、それを土台に第二チャクラの情動圏、それを土台に第三チャクラのmind圏がきます。
マインドは言葉の世界で、あれやこれや日々、いろんな考えをめぐらして、あいつが憎いとか嫌いだとか好きだとかの領域です。
そのレベルで生きる人は、あたかも波の表面にいるかのように作用反作用の中で生活しています。
そのmind圏を土台に第四チャクラのheart圏がきます。

ハートのある人とはどういう人か。
桝田氏は、マインド圏を心とよび、ハート圏を精神とよんでおられました。
心であいつは嫌いだと思っていても、その嫌いな人間がいじめられていたら、「ざまみろ」と思うではなく、そうした心の領域のレベルを「超えて」、その人を助けることをします。
嫌いな人間だけど、その人に愛を送ることができる生き方のレベルです。
それは、ハート(精神)のレベルを生きることであり、勇気と愛のレベルを生きたことになります。
第四チャクラのハートは、第一、第二、第三チャクラがなければ、存在しません。
しかし、それを「含んで超えて」います。
愛をもって生き、勇気をもって立ち上がり、臆病や不安や引っ込みじあんと闘うのは、第四チャクラ、ハート(精神)のレベルで生きることです。
つまり心圏を超えた精神性のレベルの生き方の領域に達するには、努力と闘いが必要なのです。
それは高い人間レベルへの道です。

さらにのどの第五チャクラへと眉間の第六チャクラの領域が、スピリットの領域です。
桝田氏はそれは、ゼロ性の領域だとして霊=零なのだと説明されました。
この段階では、mind圏にあったあいつが憎いとか嫌いだとかいうレベルが消えていますから、すなわちそうした心の属性をゼロにしていますから、愛をもって生きるのに「努力、闘い」は必要ありません。
地球からロケットを大気圏外にうちだすのに多大なエネルギーが必要ですね。
同じようにどんな人や存在に対しても愛をもって生きるのに努力、闘い、エネルギーが必要です。
これが精神性です。
これはこれまでの精神性の一般的理解と共通しています。
第三チャクラから第五チャクラにとびたつには努力と闘いが必要なのです。
しかし、いったんロケットが大気圏外にとびでたら、もうエネルギーはなくも、すなわち努力しなくても、すべての人や存在を愛して生きることができます。
これがスピリット圏です。すなわち心の属性がゼロになった地点です。
霊とされている地点は実は零ですね。

(ウ) このように精神性には、努力、闘争、エネルギーが必要とされることがわかります。
零性とは、すなわち霊性であらわされる境地には、努力、闘争、エネルギーがありません。
しかし、第一チャクラから第七チャクラはホロン構造になっています。
第三チャクラの心mind がなければ、第四チャクラのheartにゆけません。
第四チャクラがなければ、第五、第六チャクラにゆけません。
その第三チャクラから第五、六チャクラにむけて、自分の生きる存在レベルをアップする闘争が精神性の道です。
この精神性の闘争なしに、零の性質に安住する地点に至ることはできません。
闘争を避けて、すなわちこの世をさけて、山の中のお寺で修行するしかありません。
その時、レッスン方法をまちがえた人は、瞑想の中でかえって人格を崩壊させます。
多くの宗教団体の信者に狂った感じの人、かたよった感じの人を大勢見かけるのは、この第一から第七の全レベルへの適切なアプローチがかけているからです。
第一から第七への全レベルへの平行的なアプローチこそ、サーカーとケン・ウィルバーに共通するこれまでの思想にない特質だと考えています。
したがって、第三のmindから、第五、第六、第七のスピリット圏=ゼロ圏に達するには、精神性の道(努力=闘争=straggle)の道を進まなくてはならない。
「究極のゼロである第七を北斗七星のように常に見失わないで進んでゆきなさい」という趣旨のことをサーカーはいいます。

桝田氏によれば、90パーセントの人が、あいつが憎い、あいつが嫌いというmindの人生をおくっています。
スピリチュアリストの任務は、その90パーセントの人々が、作用反作用の波の中に生きる、その mind(心)の存在レベルから、究極のゼロ地点をめざす闘いの道を開始するように導き、激励することだと思うのです。
スピリチュアリティを「精神性」と訳すと努力を包含することが明確になります。
しかし、「霊性」と訳すと第三と第四チャクラを努力と闘争の中で「含んで超えてゆく」という性格が後景にしりぞきます。
サーカーとウィルバー以外のこれまでの霊性の人々は、この第三チャクラ(mind )から、第五チャクラ(sprit)の領域へのエネルギーを費やす努力と闘争の側面を抜かしてきたと思います。
逆に、武道などにある精神性の道は、努力と闘争を説きますが、到達目標としての究極のゼロ地点を説きません。
そのために国家主義的な大和魂という国家のために奉仕する精神性としてとして位置づけられて利用されてしまいました。
したがって、精神性とネイミングする時、その目標地点が心の性質を零にする究極のゼロ地点であることを明確にする必要があります。

(エ) では、スピリチュアリティの訳語として精神性を用いた場合は、その究極のゼロ地点を示すことができないかということです。
精神を分解すると精妙subtleの「精」、そして究極の一者としての「神」を組み合わせてからできています。
サーカーのスピリチュアリティの訳語としてこれ以上理想的な言葉はありません。
粗大な物質圏身体圏を土台にして知的心理的な圏、そしてスピリットのゼロ圏、これは粗大から精妙への回帰の旅としてサーカーはとらえます。
一者たる形質ゼロの「神」が粗大な多者として顕現している。
その一者たる究極のゼロ地点がわたしたちのふるさとであり、わたしたちは、出発した究極のゼロへの回帰の旅をおこなっているというわけです。


(3) 追記・・・サーカーのスピリチュアリティは、努力と闘争の「精神性」を含んだ概念である。

(ア) サーカーは、同様の思想をサンスクリット語で論じています。
私がここまで説明してきた努力を必要とする精神性のレベルを生きる存在のあり方について、それを瞑想と同じようにスピリチュアル・プラクティスの中に位置づけています。
Mind(心)レベルの好き嫌いとか憎いとかを「超える」闘いをする生き方をする人がシャークタです。
シャクティ(力=エネルギー)を活用するからシャークタです。
シャークタは四象限の闘いをします。
一つは自分の心の中の汚れと闘います。
二つ目には、自分の振る舞いの向上や病と闘います。
三つ目には、すべての人類、生物、存在を愛するレベルに達するように闘います。
四つ目に、すべての人類が基本的な生活必需品を保障されるとかの公平な人類社会の実現にむけて闘います。
(少し、私ふうの言い方になおしていますが、意味内容はこうなります)
この闘いをしている人がシャークタです。
(さっきの言い方では精神性のレベルで生きる人です。
市民社会フォーラムに結集する人はそういうレベルで生きている人が多数に思えます)

(イ) さらにサーカーでは、第五、第六、第七チャクラのレベルにあたる段階のスピリチュアル・レッスンが二つあります。
正確な言葉ではややこしくなりすぎるのですこしわかりやすい言葉になおして紹介します。
第五、第六チャクラにあたるのがヴィシュヌです。
第七チャクラのレベルにあたるのが、シヴァです。
ヴィシュヌのレベルのレッスンをヴァイシュナヴァ、シヴァのレベルのレッスンをシャイヴァというサンスクリット語で説明していました。
ヴィシュヌレベルでは、個体意識(魂=アートマン)に個別的属性が残っています。
(このレベルからスピリチュアル・ヒーリングにつかうエネルギーの活用や超感覚知覚による診断としてのアセスメントが可能となります)
そして有限な個体性を無限の普遍意識の中に完全に融合させてしまった段階の中にあるのがシャイヴァの段階です。
サーカーは二つにわけていますが、この二つは毎日の朝夕の定期的な瞑想レッスンの中で実現していきます。

(ウ) したがって、サーカーのスピリチュアリティは、愛と勇気をもったレベルの生き方をするために努力と闘いが必要である桝田氏の精神、精神性の段階を含んでいます。
普通の人間が、すべての人類、生命、存在が尊いというネオ・ヒューマニズムの意識をもって、全人類の福利をめざして、資本主義の克服と人類社会をめざした生き方をするには、そのように生きる努力と闘争を必要とします。
その意味内容を含む意味で、サーカーのスピリチュアリティはどうしても精神性と訳す必要があります。

(ア) もう少しつけくわえます。
ケン・ウィルバーの著書『ワン・テイスト ケン・ウィルバーの日記』の中にウィルバーは偉大なる霊的宗教的伝統の弱点として二つあげています。
それは、右下象限(集合体の心の外)において社会経済論がないこと、
左上象限(個人の心の内側)の西洋近代の心理学が解明してきた低次のレベルの人間発達の論をもたないこと、
この二つです。
P.R.サーカーの論は、この霊的宗教的伝統の弱点の二つを克服することができています。
(サーカーの弟子たちが実行できているかは別として)
なぜらな、サーカーにおいては、一つは、すべての人類に衣食住教育医療を保障する進歩的社会主義(プラウト)の社会経済論をもっていることです。
二つ目は、心圏を超えたスピリット圏のさらに究極のゼロの境地にいたる偉大なる宗教的伝統のプラクティスを導入しながらも、シャークタとして、人間発達の低次の心のレベルを闘争によってアップすることもスピリチュアル・プラクティスとして位置づけます。
そればかりか身体と情動というマインド(心)よりも低次のレベルについてもヨーガ・プラクティスなどを日々おこなうことをスピリチュアル・プラクティスの一環として勧めています。

(イ) 偉大な霊的伝統は、スピリチュアル・プラクティスとして、実質的にこの世のレベルでの判断力などの個人の主体性の確立の課題を放置したまま「超個」の段階をめざします。
すなわち個人の心理的個別性を消して、無思考の中に入ることをめざす実践をします。
つまり個人としての決断や判断力が後景にしりぞきます。
そのために宗教団体では、いわれるままにグルや宗教指導者について動くメンタリティが生じます。
そこに宗教団体の搾取が生じます。
サーカー的にいえば、心が指導者に鎖でつながれて従属していますから、肉体をしばられている奴隷と同じです。
わたしたちは、たくさんの宗教的な奴隷にされた人々をみてきました。
この人々の心mindを奴隷化する霊的伝統から解放してゆくためにも、わたしたちは、心を一段階上に成長させる努力と闘争を含む概念である「精神性」を用いる必要があります。
勇気をもって、好き嫌いや憎しみを超えて、すべての人類、生命、存在を愛する主体的な個へと成長させるためには、瞑想だけでは不可能です。
サーカーのいうシャークタ、すなわち闘う人にならなくてならないのです。
シャークタは、シャティ(力=エネルギー)をもちいる人です。

(ウ) 私は以上の理由から強くスピリチュアリティの訳語として「精神性」を支持し、採用するものです。
しかし、だからといって、霊性の訳語を好む人々、そしてスピリチュアリティの立場自体を、非科学的なものだと排除する現代の学問界、それぞれに根拠があり、「相対的真理」だと思います。
したがって排除するスタンスはとりません。
しかし、サーカーやケン・ウィルバーは、それらを統合し、人類をより高いレベル導く世界観への手がかりを提示していると思います。
したがって、偉大なる霊的宗教的伝統を「含んで超える」立場にたってスピリチュアリティの訳語を考える必要があるとみています。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ