Third Day - Children of God - with Lyrics (video inspired by god of star)



親鸞の「悪人正機説」とは
Both words are downed by god of star

This article is explanation of thought of Buddhist Shinran by Mitsuki.
Mitsuki explain that words of Shinran that good people are saved and of course bad people are saved.
This is same to words of Christ that sun shine on good people and of course bad people.
Both words are downed by god of star.


この論文は、良い人が救われるのに悪い人が救われないはずかないという親鸞の思想をミツキが、神サラムダムがおろしたサーカーの言葉と比較して、その意味を説明したものです。
親鸞の思想も星の神がおろしたものなので同じなのです。





A
小野寺さんの以前の投稿なかに
日蓮が攻撃を加えた親鸞の「悪人正機説」について
間接的に触れられた場所がありました。
私の理解を投稿させてもらいます。

小野寺さん曰く
「そしてこの「念仏」
(悪いことをしていてもただ、それだけ唱えていれば救われる)
という教えは、どこかで似たような事例があるなと
思ったら、
「小泉構造改革」とお題目を唱えてればどんな悪いことを
していても「救われる」ということと
一緒だということがわかりました。」
以上、小野寺さんからの引用。

小泉構造改革などというとんでもないものと
親鸞の悪人正機説をいっしょにされては
あの世の親鸞ばかりか西本願寺、東本願寺とその門徒、 みなさん、お嘆きになると思います。

B
そこで、悪人正機説についての私なりの理解を述べさせていただきます。
悪人正機説とは、次の部分にでてくる
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というところだと思います。

「嘆異抄」
http://user.shikoku.ne.jp/manabeto/tannisyo.htm
善人なほもつて往生を遂ぐ。
いわんや、悪人をや。
しかるを、世の人常に言はく、
「悪人なほ往生す。況んや、善人をや」。
これは(似ているけれども)本願他力の意趣に背けり。
 その故は、自力作善の人は、他力を頼む心が欠け・・・・
しかれども、自力の心を(捨てて)、
他力を頼み奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
・・・
悪人成仏のためなれば、他力を頼み奉る悪人、
もつとも、往生の正因なり。
よつて、善人だにこそ往生すれ、まして、悪人は、と仰せ候ひき。」

C
コスモスの存在レベルのどの深度で述べるかによります。
キリスト教の聖書には、同一趣旨のことが
「天は良い人の上にも悪い人の上も雨をふらし・・・」という言葉がでてきます。
これは、天は良い人の上も悪い人の上にも差別なく恩恵をもたらすということですから
「良い人の上にすら天の恵みがあるのだから、どうして悪い人の上に天からの恵みがないはずがあろうか」とも解釈できます。

これは「悪いことをしても救われるから、
悪いことをしてもいいんだ」と言うような考えとは無縁のものだと思います。
浅はかな理解をして悪いことをして居直っただろう人がいただろうことは予想できます。
このコスモスの存在レベルを浅いレベルでしか理解しないからです。

ワンネスの哲学で考えてみましょう。
ワンネス哲学は、この宇宙は一が多として展開しているとみます。
この宇宙を一なる木に例えれば、枝や葉などの多様な存在として顕現します。
一はそのまま多として展開し、多のまま一なる木です。
だから、ブッシュも安倍首相もヒトラーも、あるいは犯罪者も、
聖人も、悪い人も良い人も、この顕現の世界では、みんな同じ葉です。
木はどの枝葉にも栄養を送り、生かそうとするでしょう。
一なる木にとって葉に向ける恩恵は、
悪い葉も良い葉も栄養(恩恵)を送り生かそうとするでしょう。

私たちは、心の根底でブッシュやヒトラーやどんな悪人も、
究極のポイントからみると、私たちと同じ一なるものの多としての顕現だと
とらえる必要があります。

ヨーガ哲学は神社仏閣モスク教会がありません。
一人一人の心の内奥に聖なるものをみてそれに敬意を払います。
これは、ドグマにそまった宗教とは異なります。
宗教からドグマの教義をとって、スピリチュアリティだけにしたものです。

サーカーは、ヨーガの聖者としては
弟子からシュリシュリ・アナンダムルティと呼ばれ
事実上親鸞と同じ「悪人正機説」と受け止められる言葉を残しています。

「それでは、スドゥラチャーリー(極悪非道の人)には未来はないのでしょうか?
そんなはずはありません。
彼らにも同様に未来があるのです。
誤ちの大小にかかわらず、誤ちを犯すのが人間です。
だから過失を犯す人もまた私たちの家族の一員であり、
社会の中の一個人であるのです。
彼らはいったいどこへ向かうのでしょうか。

もし、全てを後に残し、スドゥラチャーリー(極悪非道の人)が、
他のどんな思いもなしに、ただ(無限の意識)のみを瞑想するならば、
彼のサンスカーラ(反作用の潜在力)も完了し、
全ての罪から解放されるでしょう。」

すなわち、どんなに極悪非道の人でも、瞑想の中で自己の属性を消して、
「無限の意識」に溶け込むならば、「すべての罪から解放される」
というのですから
「悪人なおもて往生す」です。

D
実は、ナムアミダブツという念仏のもとの言葉は
小学館の百科事典によれば、
nam-amita-yusuとnam-amita-bhaという
サンスクリット語のマントラの漢訳だそうです。
Namは「信じゆだねる」です。Amitaは「無限の」です。
Yusuとbhaは時間と空間です。

「阿弥陀如来は民衆を救う48の請願をして成仏したので、
阿弥陀如来に深く帰依すれば救われる」
というようなお寺で言われている説明は
わかりやすく当時の大衆につたえるための宗教化であり、

南無阿弥陀仏の本当の意味は、
「無限の時空の存在の一部が私であり、
私は無限の時空が生み出したものである。
私は、無限の時空という絶対的な他力によって生まれ、
生かされている絶対的な他力の一部分である。
私の心をその絶対者である無限の時空の意志にゆだねます」
というような意味だと解釈します。

つまり私が木の葉っぱとすると絶対的他力とは木の生命全体です。
木の葉っぱは木の全体の生命によって生かされている。
木全体が阿弥陀仏amita-bha/yusuなのです。
これはまったくワンネス哲学そのものです。

E
しかし、私が思うに、サーカー以外のこの種の思想はすべて、
心の外側の客観的部分について軽視しています。
すなわち、物的身体的レベルの客観的考察が欠けています。

サーカーの哲学は心の外側の客観的世界の部分と内側の追求に
バランスよく目を向けています。
「唯物論」を含む巨大な哲学構想です。

もし、このサーカー思想が日本に定着するならば、
心の内奥へ進むことと、外側に向かうことの両方を
バランスをもって重視する、
日本の歴史にあらわれたまったく新しい思想ということになります。

サーカーの言う形での東洋思想と西洋思想の統合は、
この日本において基盤をもちうる可能性がおおいにあると考えています。





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