Honen, Shinran and Nichiren (video inspired by god of star)



唯一絶対の宇宙の根源としての絶対他力
God of star under rule of negative god downed only to people with high spirituality

This article is introduction of teaching of Buddhist with high spirituality who father of Mitsuki believed.
The Buddhist received guidance of god of star.
God of star under rule of negative god downed only to people with high spirituality.

この論文は、ミツキの父親が信じていた高いスピリチュアリティをもった仏教徒の教えの紹介です。
この仏教徒は星の神の導きを受けていました。
星の神はネガティブ神支配の時代は高いスピリチュアタティのレベルにある人にしか教えをおろすことができませんでした。




親鸞の「絶対他力」の考えを
サーカーの論は「含んで超えている」ことを
紹介したいと思います。

(1)
親鸞とは日本仏教の「浄土真宗」という宗派の元祖です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
農民であった私の父親は熱心な親鸞の浄土真宗の信者でした。
小さい時、川で魚をとってバケツにいれてもって帰ったら
「必要ないのに殺傷するな」と注意されました。
幼児の時に、「一寸の虫にも五分の魂」と虫もできるかぎり
殺さないように教えました。

そうした言葉は、サーカーのネオ・ヒューマニズムにつながるものがあります。
そういう意味では、小さい時にヨ-ガのジャマ・ニヤマという倫理原理も教えると、
その人の人生によい影響を与えるだろうなあと思います。
ジャマの中には、
アヒンサー=無益な殺傷しないだけでなく、
サティヤ=本当のことを話す、ただし、傷つける場合はその限りでない、
アスティーヤ=他人のものを自分のものにしない、


さて、その親鸞の教えのキーワードは「絶対他力」と「悪人正機説」です。
この二つはサーカー哲学と共通しますが
ややサーカー思想の方が「含んで超えている面」があります。
(以下、浄土真宗の知識は、父からの耳学問で、
文献で調べたわけではありませんが
絶対他力を考えてみます)


(2)
法然、親鸞と言えば、日本の歴史上、
「ナミアミダブツ」というマントラを
深めた人です。

南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)とは、小学館の百科事典によれば、
nam-amita-yusuとnam-amita-bhaという
サンスクリット語のマントラの漢訳だそうです。
Namは「帰依する」です。
ですから、依拠するところとしてそこに戻ると理解しています。
Amitaは「無限の」です。
Yusuとbhaは時間と空間です。
だからこのナミアミダブツというマントラは
「無限の時空の存在の一部が私であり、
私は無限の時空が生み出したものである。
私は、無限の時空という絶対的な他力によって生まれ、
生かされている絶対的な他力の一部分である。
私の心をその絶対者である無限の時空の実体を拠り所として
そこに帰らせます」
というような意味だと解釈します。

つまり私が木の葉っぱとすると絶対的他力とは
木全体生かす生命の源の力です。
木の葉っぱは、木の全体の生命によって生かされている。
木全体の生命の源の力が阿弥陀仏amita-bha/yusuなのです。
一者が多者を創造し、維持、展開している生命力こそ「他力」です。
多者の一人としての「私」が、私心(個人の属性)を捨て
一者の力にゆだねきる時、
一者の力は、私を一者と一体化させる。
大宇宙の絶対的な力の中で動いていることを忘れて
「私」個人の力で何かをなしとげていると勘違いしてはならない。

だから、親鸞の絶対他力とは、サーカー的言葉になおせば
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
自分の救いをパラマ・プルシャ(アミタ=無限、ユス、バ=時空)に何も願わず、
ただパラマ・プルシャにゆだね、パラマ・プルシャの中に帰依することです。
自分の生きていること、やっていることのすべてを
パラマ・プルシャに帰することです。

サーカーによれば、究極の一者に達するためには
ギャーナ(スピリュチュアルな知識)、カルマ(行い=多者への奉仕)、バクティ(devotion一者への愛)
の三つが必要です。
バクティ(一者への愛)のありようにはレベルがあります。
そのうちもっとも高いレベルのバクティが絶対他力にあたります。

一番低いレベルのバクティは
「主の敵を倒します」です。
(私の解釈では、一者への愛からであっても、
主の敵も一者の顕現なのだから
ここには分裂があります。
宗教的テロリストはもっとも低次のバクティの実践です)

次に低いレベルは
「お金がもうかりますように」
「名声を得られますように」
「病気が治りますように」です。
(これが、日本の一般大衆の中にあるバクティのレベルであり、
利己主義に貫かれていることに特徴があります。
日本の創価学会や宗教教団の多くこれ依拠しています。
サーカーは、この願いが聞き遂げられることもあるし、聞き遂げられないこともあるとしながらも
なぜこれが低次なのかについて丁寧に説明しています。)

次のレベルのバクティは
「私はあなたのバクティ(devotion)です。
もう老人です。
私は、救済がほしいです。
私ももう消化力もありません。
もう何も食べられません。
この世界はもう嫌になった。
私は何もあなたにもとめないが
平安をください、
私に救済を下さい。」
です。
これは、物的レベル、世俗的レベルでは何も願っていません。
しかし、自分(個体)のために救済を願っています。
これらは、属性のあるバクティです。

属性あるバクティとは、親鸞の言い方では、自力の道です。
パラマ・プルシャへの愛に見返りを期待しています。
自分の力で至高の父=パラマ・プルシャに何かを願っているわけです。
私たちの目標は、パラマ・プルシャと一体になることであるのに
個体存在が、至高に父に「願う」ということは、
願うという個体の属性をもった行為があり、
そこには二元性があります。
個体の属性を消し去ることができませんから
永久に私たちが一者と一体になることとはできないのです。

親鸞は、ナムアミダブツというマントラをとなえる時、
心にほんのわずかの「願望=自力」があってはならないと言います。
一者への帰還(悟り)に向けて自分の力(自力)を一切使わない
という意味で「絶対他力」なのです。
多者の他力ではなく、すなわち、他の人の力という意味ではなく
唯一絶対の宇宙の根源としての絶対他力なのです。

サーカーによると最高のバクティdevotionは無属性のバクティです。
(そこには自力がありません。
ただ、パラマ・プルシャ=一者への愛のみがあるのです。
パラマ・プルシャから愛されることを願っているのではなく
ただパラマ・プルシャを愛しているのです。)

しかし、そこにも二つの段階があります。
「主よ、私はあなたを愛している。
私はあなたに何も求めない。
私はあなたを愛したい、
なぜなら,そこから歓びを得たいからです」
たしかにそこから歓び=至福が得られますが、
この無属性のバクティはまだ最高のバクティではないサーカーは言います。
まだそこには自己が残っています。

最高のバクティは次のようなものです。
「主よ、私はあなたを愛している。
私はあなたに歓びを与えるために私は愛したい。
私は、歓びを得るためにあなたを愛するのではなく
あなたに歓びを与えるためにだけ、
私はあなたを愛しています。」

Devoteeの愛が、自分のために歓びを享受するためではなく
主に歓びを与える時、
その人は、主体的になります。get subectivated
その人は、God と一つになります。
あなたは至高のセルフに達します。

したがって、サーカーのバクティ論は、親鸞の絶対他力と同じですが
単なる帰依にとどまらず、もっと主体的積極的な愛の気持ちを含んだものに
なっています。
至高の存在にただゆだねるだけでなく、
積極的に至高の存在に歓びを与えるために愛しなさい
となっています。

ただし、サーカーにとっての至高の存在は
あなたの「私」感覚の中に存在していますから
私自身を愛することでもあるのです。
かつ至高の存在は、この全宇宙として顕現しており。
物質層まで至高の存在の顕現であるワンネスの哲学ですから
サーカーの場合は、より積極的に
この世界の福利の実現のための活動と結びつく
理論構造となっています。

その点について、もう少し補足して終ります。
親鸞のこの思想も、心の主観の方向へのみをめざしたのものあり、
心の外側の領域の物的世界での解放は述べません。
内側の方向のみを追求しており
物的世界の層での人間解放については
旧来型宗教は無力でした。

その点で、サーカー哲学は、物質に至るまで
パラマ・プルシャ(普遍意識)が形をもって展開していますから
物質的レベル、世俗的レベルにおける
人間解放まで視界に入れた思想となっています。



-- Original Message --
この論のきっかけは、親鸞をテーマにしている作家、五木寛之の次のコメントを見たことからです。

こんばんは
五木寛之の発言

2月22日(日)のしんぶん赤旗に、
日本のもっとも著名な作家の一人である五木寛之が発言していて
見出しが「『恐竜』資本主義の断末魔」です。

「今の政治、経済の状況や社会システムの崩壊について、
私が『人間の魂の大恐慌が始まっている』と語って・・・

日本では十年連続で自殺者が3万人を超えています。
この犠牲者になるのは、働くものであり、地球上の弱小の動植物です。・・・

昨年来、「派遣切り」や非正規雇用労働者の困窮化が問題になってきました。
百年前に書かれたマルクスの『資本論』の内容の正しさや賃金、
剰余価値などの用語が再び浮上し「搾取」「組織」「闘争」などの言葉が違和感なく使われだしました。

・・小林多喜二の「蟹工船」が若者に読まれ・・・

『判断は悲観的に、行動は楽観的に』・・・
日本共産党の入党者が増えているそうですね。
それを、一時的な僥倖とするのではなく、必然の流れにしなくてはなりません。
21世紀は、科学的社会主義の思想と政党にとって宗教をどう扱うかが
重要な課題となるでしょう。・・
いずれにしても宗教と科学は、親の仇のように背を向け会うものではないとと考えます。
将来、日本共産党が政権をになうとき、病める時代に生きる「迷信と祈り」とは無縁な、人間の心にかかわる宗教問題は避けて通れないのではないでしょうか。」

科学と宗教の関係の見直しをここで五木氏は提起しています。
その意味でもウィルバーの『科学と宗教の統合』は先駆的業績と思います。
私たちは、私たちの時代が直面する課題に最先端の意識から
迫っている思想家の学習をしてきたなあと思います。





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