World Social Forum opens, anti-globalisation rally (video inspired by god of star)



社会サイクル論とフォーラムの意義  再論
Project of Heavens and gods support this idea of Mitsuki to unify all social movement based on diversity of human society

レオニードさん、
コメントありがとうございます。

1) 社会を統治するメンタリティは、武、知、財である。
武はけんかがつよく、パワーで何事をも克服してゆくことに生きがいがある、規律や勇気を重んじる。
知は頭がよく、知的な力で社会に影響をおよぼそうとする、
財は、経済活動の才があり、頭もいいが、その知は経済活動のために生かされる、知よりも人生の浮沈を覚悟する

大衆は、その日、その日の楽しみで暮らし、たくさん収入を得たとすれば、たとえばレジャーや酒などに消える。

2) 歴史はサイクルを通じて展開している。この宇宙のあらゆる存在と同じように永久に回転(サイクル)し、脈うっている。
社会サイクルも、永久につづき、終点はない。
(私は目標としての終着点を提起しているけれども、「歴史の終わり」はない)
そして歴史には、1、あるシステムが成立する時期、2、あるシステムが展開する時期、3、あるシステムに歪みが拡大する時期、あるシステムが崩壊する時期がある。
(歴史に大きな波があり、これは中くらいの波を話である)
このサイクルの流れを私は「武知財大衆ぷっちん革命」理論とよんでいる。
武⇒知⇒財⇒大衆の怒りが広がる時代⇒武⇒知⇒財⇒

3)
なぜか、
1のある新たなシステムをつくりあげる時代のリーダーシップは、強烈なパワーをもった戦闘的なマインドの人物がとる。
武のマインドが歴史の前面に押し出される。

(武の時期)
その武のリーダーシップに、知や財が協力し、大衆は武のリーダーシップに期待し、ついてゆく。
頼朝、義経がそうであった。徳川家康もそうであった。明治維新の志士たちもそうであった。
大日本帝国の1868年から1945年のサイクルを終わらせ、今日の体制へのレールを強いた時のリーダシップは外部からきた武がとったが、やはり武的メンタリティであった。
(おそらくニューディール改革の理想をもった知が、その実現の場を日本の改革にもとめた側面があり、1945年からの新たに出発するシステムのレールをその知が敷いてくれたことは、わたしたちの恩恵であった)

武的メンタリティは、規律や勇気、自己犠牲的精神を重んじ、軟弱を嫌う、ロシア革命の前衛の鉄の規律は、武的メンタリティの集団であったことを示している。
中国革命で、毛沢東が指導した紅軍も、規律と勇気をもち、武的メンタリティをもっていた。

徳川体制というシステムが安定し、綱吉ころから、武のメンタリティの必要性が後景に退き、知のメンタリティが、武の子孫である将軍の背後で、将軍をあやつるようになった。
武から知へはムスーズに展開し、大衆に迷惑をかけることがすくなかった。
武は、粗暴であり、システムが形成され、システムが安定したら、すみやかに、知に主導権を移すのが望ましい。

ところが、武のメンタリティの毛沢東は、周恩来など知に主導権をゆずりたくないもんだから、文化大革命を発動し、大衆に多大な迷惑をかけた。
毛沢東は完全平等というこのコスモスの存在原理に反するまちがった思想をもってのぞんで社会に迷惑をかけた面かあるが
スターリンは、口でいっている思想とは別に悪質な男であった。

武に対してすみやかに知に主導権をゆずらせる必要がある。

(知の時期)
具体的なことは省略するが、知も、積極的な役割を果たす時期から、自分が主導権を失うべき時代になると知もっているずるさや狡猾さで社会に迷惑をかけるようになる。

(財の時期)
次に財のメンタリティが政治舞台のバックにあり、政治舞台の武や知で活躍するものをコントロールする時代がくる。
江戸時代の後半は、財が大名にお金を貸して影響力を及ぼした。
今日も、経団連などが政治献金を通じて、国会で活躍する武と知に採点をつけてお金の額をきめてコントロールしているのは、まさしく、財がお金で社会をコントロールしてい時代を象徴している。

この財のメンタリティが支配する時期は、一部の財のところに富や貨幣が集中し、大衆のところを貨幣が循環しなくなる。
したがって大衆は困窮し、大衆全体に不満が広がる。
財のメンタリティは、財に奉仕する武や知に高い財の分け前をあたえて、自分たちの支配が長引くように、活動させる。
たとえば、莫大なお金を提供して、「国民の歴史」のような日本美化の本を、ただで社会科の教員に送りつけるとか、
靖国参拝をして、国民の意識を外国と対抗意識にもっていって、
人々の目が、今日、自分たちの生活が不安定になっている原因が、財のリーダーシップが歴史から去るべき時代になのに、いすわっていることを見抜けないようにする。
マスコミも結果的に財がお金でコントロールしている。民放はスポンサーが財である。財に都合が悪いことは流さない。
大衆は見抜けないので容易に操作される

(大衆の怒りの時期)
プロレタリア独裁というレーニンが定式化した言葉は、本人が考えた真の意味の働く労働者が会社を動かすもとの意味とはかけはなれた一人歩きしてスタ-リンの独裁に帰結した。(レ-ニンはパリコミュ-ンという労働者が会社を所有した社会を研究してプロレタリア支配と考えた)

革命後に登場するのは、大衆にやさしい武か、残忍な武かの違いはあっても、武的なリーダーシップとなる。
レーニンは知の人であったが、革命権力をとって実際に行政に携わる時には、武的メンタリティが前面に出ざるをえず、
歴史の進行は、武⇒知⇒財⇒大衆プッチン時代⇒・・・・の順番しかありえない。

武から知への進歩を妨げる動きを「反進歩」、ひとつのサイクルから、次のサイクルに進む革命を妨げる動きを「反革命」という。
スターリンや文化大革命期の毛沢東は、知へ主導権をゆずるのを組織した「反進歩」のために、反対するものを「反革命」と難癖をつけて、殺戮した。

わたしたちは、この社会サイクルを、スムーズに回転させてゆくことをめざなくてはならない。回転は永久につづくので、その回転をより大衆にとってよいものに、大衆が自立し、意識を高め、充実した人生をおくることができつるようにすることが、必要である。
ある理想を私たちがもって、その理想を社会に押しつけるのではない、社会の回転をよりよい回転にしてゆくのである。

(回転を促進する「社会フォーラム」)
この回転の軸心に、回転をスムーズに促進させる歴史貫通的な軸心をつくる必要がある。
それが「市民社会フォーラム」や「世界社会フォーラム」のような21世紀に登場してきた「多様性にもとづく統一」をめざすサドヴィプラ(精神性の高い批判的知の集団)である。

「社会フォーラム」は、財に富が手中し、大衆のところを貨幣がまわらなくなり、大衆の不満が高まるサイクルの末期には、財に味方する武と知と闘う、幅広い連帯をつくりあげる必要がある。

大衆の意識を高めて、武と知のマインドにすること、
支配層についていた武と知のマインドの人が、大衆が犠牲になる姿をみて、大衆の味方をしようとする人々がでてくる。(大塩平八郎、イラク戦争に反対した天木大使)
財からおこぼれにあずからず、これまで財に奉仕していた武や知の中から、大衆の経済境遇になるものがふえてくる。
たえとば、江戸末期の傘はりの内職していた下級武士、最近のリストラにあう知と武の才のある社員。

このような人々の受け皿が「多様性における統一」の場である「社会フォーラム」運動である。
今日の財の支配の時期に、財の支配が、社会的格差を広げ、矛盾を外部との対立や戦争の方向にむけようとしているのを危惧した、知と武の批判的マインドの人々があつまっている。
この流れは、次のサイクルのリーダーシップをとる民衆と平和の立場にたつ武のマインドを支援して、あたらな時代がよりいいものになるように努力する。
社会サイクルの回転を妨げることはできない。前に回転させるしか脱却の道はないからだ。

4)「多様性における統一」の考えの重要性
これは、特定政党だけではできない。それぞれの政党は、大衆の利益をまもるためにがんばってもらわないといけないが、
人間の信条は、そういっぺんにかわるものではない。どういう考えの人であってもいっしょに考えようという統一の場が必要である。

これが、世界社会フォーラムの原理憲章が、「政党としての参加を認めない」ときめている理由だと考える。
たとえば、自民党支持の意識をもっている武と知のメンタリティの人が、党関係なしに参加しやすくしておかないと多様性における統一ができない。、
(ただし、個人として政党員が参加するのは別、そしてチャベス大統領が挨拶したように、政治家もフォーラムの原理憲章の主旨に賛成の場合は、招待することがありうる)

そして原理憲章が、「複数主義(多元主義=プルラリズム)」「真理を独占しない」と決めているのも、大切である。
その中には、個人として社民党員や共産党員や民主党員が参加するだろう。
そして政党ではなく、大衆運動にもいろんな意見の違いがある。
その時、みんなが集まる原則の中に、「もともとみんな意見が違う」ことを前提とし、自分の意見が「相対的真理」であるという自覚をもつことで、互いの意見を尊重するようになる。

「採決しない」と「誰もフォーラムの見解を代表する資格がない」という原則も重要である。
採決すると、自分の意見の近い方に決まってほしいとおもって、議論自体に多数派工作的な気持ちがわいてしまう。
安心して参加して議論をきくことができる。どの党派からも中立なため、自分の気持ちが疎外されることがない。

運動団体はそうはゆかない。どんなに「多様性を認める」といっても方針は決めなくては、運動はなりたたない。
だから多様性を前提として、みんなが仲良くなる社会をつくるためには、
この世界社会フォーラムの「原理憲章」の考えは重要である。

5)政党との関係
決して、社会フォーラムは、フォーラムの原理憲章を認める参加者であるかぎり、政党員を排除するものではない。
世界社会フォーラムには、NGOのボランティアグループだけでなく、労働組合も参加している。
労働組合で言えば、大衆の先頭に立って、企業幹部と交渉したり、大きな政治問題にとりくむメンタリティは、知や武のメンタリティの党員が多いと推測する。

問題は、その人たちが、日本で、このようなフォーラム運動を開くことの重要性を認識し、とりくむかどうかにかかっている。

しかし、今、小泉構造改革、新自由主義経済政策の推進の中で、格差の拡大や社会矛盾が吹き出してきた。
この具体的な問題の解決をめぐっては、これまでの経緯を水にながして、話しあえば、未来の解決に向かって話しあうことの物的基盤が変化の中であらわれてきた。

しかし、政党であるかぎり、一議席でも奪いあわねばならない宿命がある。
政党が組織する学習会では、どうしても、心から、腹をわって、問題を深めることはできない。
自分たちで深めた政策が正しいと主張するしかない。
政策優位で支持の広がりを争うのが政党の宿命である。
政党としてあつまって話しあっても、個人として部分的に相手の方に賛成であっても、おいそれと、相手に賛成と言えない。そんなことを言えば、自分たちの政策的優位を立証できなくなる。

だから、政党から、独立して、「多様性における統一」にもとづく「社会フォーラム」が全国各地につくられる必要があるのである。そして多様な分科会、多様な立場の人が参加し、互いに交流しあう姿をみて、大衆は引きつけられて、耳をかたむけ、ふたたび、信頼を寄せてくるだろう。

大衆のマインドでは、労働組合の中で武と知のマインドの人々の献身的活動のおかげで給料がよくなって、労働条件が向上したりしても、パチンコや酒、そしてパソコン・ゲームなどに時間がついやされる。
そして大衆は、その時代に支配層のコントロールに容易に載せられて、大衆のためにがんばっているタイプの武や知の努力は理解しない。むしろ敵対するらする。

大衆の人間としての尊厳を尊重することは当然であるが、
財の物質主義的メンタリティが社会全体をおおっていている現状では、大衆はたえず、物的世俗的な波に共鳴する。

したがって、大衆の立場にたって、大衆のために活動する武や知は、たえず、大衆の意識を覚醒し、知的意識を向上させるように継続的に活動する必要がある。

私は、「多様性における統一」の社会フォーラムに大きな期待を寄せている。
全国の各地域に、「社会フォーラム」実行委員会ができ、その地域の諸グループをあつめて、世界と日本全体の動きを念頭におきながら、地域の問題を相談する。
そのうち、日本全体の「社会フォーラム」実行委員会が組織される。

それで、仲良くなるなかで、共産党、社会民主党、民主党の旧社会党系などの内部で、それぞれの党員が、統一して闘うように幹部をつきあげることになる。(そして、フォーラムには党員としてではなくて個人として心ある自民党員゜公明党員や創価学会の人も加わってくるかもしれない)
外部から、あなたたちは、似たことをいっているだから、選挙の時に協力しなさいといっても、それぞれは、民主的に運営しているのだから、内部の党員の意見をまずきくのが筋である。
だから、市民レベル、大衆レベルで、「社会フォーラム」をつくり、信頼関係を醸成する必要がある。


This article is proposal way and significance of Social Forum movement.
Project of Heavens and gods support this idea of Mitsuki to unify all social movement based on diversity of human society in order to realize socialist earth government.




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ