Protest at privatisation of Social Welfare to G4S in Ireland (video inspired by god of star)
サーカーの思想と「福祉」と「社会福祉」について
Because alive itself becomes support with each other in spirit of welfare
1)サーカーに福祉論がみあたらない理由について
インドのベンガルという貧富の差が大きく最貧の人々の多い地域で教えを説いたためか、サーカーには、「障害者福祉」とかそのような福祉論が見当たりません。
私は、その理由を次のように考えます。
サーカーは、サンスクリット語のサマジャを「社会」として説明します。このサマジャの概念は、巡礼の旅人の集団が、一人が病気になれば、みんなが立ち止まって待ち、互いが思いやりをもって、ともに協同して進む精神をもった集団として説明しています。
そのようなサマジャ(社会)を人類はいまだ作り上げていない。そうしたサマジャをめざしなさいと言います。
サーカーのプラウト(progressive socialism)がめざす民主主義経済と分権経済にもとづく社会構想では、「次の雇用を見つけてあげるまで解雇できない」という法律があり、すべての人間の普通の生活必需品を保障する原則の実現のために、雇用による賃金の保障がなされます。
したがって、失業手当という社会保障の領域は格段に小さくなると思われます。
それぞれの地域が農業、工業、商業などのバランスのとれた再生産構造をめざしますから、勤務地は近く、豊かな家族生活が可能になります。もちろん定年退職もないでしょう。(定年のことにサーカーは触れていませんが)60才すぎても、地域でともに働けます。したがって年金の財源も少なくて済むようになるでしょう。
働くことのできない老人や障害者、病人に対しては、公的財源から保障がなされるでしょう。
地域で家族で、助け合いながら、生きてゆくという協同の精神が軸となりますから、可能なかぎり障害者も地元での雇用保障が追求されるでしょう。そして障害のために働くことができない者も可能なかぎり家族との生活が保障されるでしょう。
もちろん、それぞれの地域で一人になり、家族のいない老人や障害者のケアに公的な支援がなされるでしょう。
今日、老人や障害者の介護などの福祉の領域が、民営化として営利事業化されてきています。しかし、営利が目的であるために様々の問題を生んでいるように思えます。
サーカーは、資本主義企業が、民主主義的な企業、すなわち協同組合となることを将来的な展望としています。そして可能なところから協同組合をつくってゆきなさいと言います。
同じ論理から、老人や障害者の介護といった福祉サービスは、非営利の協同組合としてなされるのが望ましいかもしれません。
私は、今日、進む民営化(公的領域を民間の営利企業に移す流れ)を、さらに「含んで超えて」民主主義経済化として、協同組合化が追求できないだろうかと考えています。
協同組合経営のネットワークの経済システムを、サーカーは「進歩的社会主義」と呼び、その弟子のアメリカ在住の経済学者のラビ・バトラは、「大衆(人民)資本主義と呼びます。名称はどうあれ、今日の資本主義のあり方を「含んで超えた」あり方をさしています。
2)福祉についてのサーカーの言及
サーカーのスピーチの中で福祉国家という言葉を、1、2箇所、批判的文脈で見かけたことがあります。
サーカーは、一人一人の雇用の保障による経済的自立、そして基本的必需品を地域で自給することによる経済的自立を重視します。
ところが営利追求の生産である資本主義のもとにでは、一部に富を集中し、他方に大衆の失業や生活の不安定を生みだす構造があります。
そのようにして失業した大衆を、一部富裕者のための資本主義国家が、福祉政策で、失業者に給付したりすることは、結局のところ、個人の自立も地域の自立をも、促進せず、従属を固定化すると見ているのだろうと思います。
サーカーが、経済的独立を重視することは次の文章にあらわれています。
「政治的な独立は、もし、それが彼らに経済的独立を与えることができなかったら、彼らにとって価値のあるものではありません。・・・もし、強力な一つのネイション、またはネイション・グループを形成したら、搾取に対する闘いに着手しなくてはならないでしょう。社会主義、社会主義的やり方、あるいは福祉国家について単なる大げさな話は、なんの結果も生まないでしょう」
この搾取(exploitation利用)に対する闘いという考えも、従属から経済的自立へを意味しています。
そして資本主義国家も、人々を経済的自立に導いていない点で批判します。
「資本主義国、民主主義国においては、国家は理論上は、多数派の人々の幸福のためにあります。しかし、実際にはそれはヴァイシャ(富裕者のこと 訳者)という少数者による支配です。他のグループの人々は、二級市民にならざるをえません」
ソ連も同様に批判していました。
「1977年にソ連の憲法に大きな変化がありました。プロレタリアート支配というばかげた妖怪を放棄し、福祉国家を宣言しました。しかし、それは、軽く叩いたら崩壊するカードの家のようなものです」
さらに、たくさんもうけた資本家が、自分の名前を関した福祉施設などをつくらせることの内面を分析した上で、「欺瞞」だとして評価しません。たとえばカーネギーの名前が冠せられた建物があり、福祉に対して貢献したとしてカーネギーが尊敬されていますが、サーカーはそうした人をまったく評価しません。
雇用を保障し、人々に経済的自立を保障したか。それぞれの地域にバランスのとれた経済構造をつくり、地域の経済的自立を推進したか。そうしたことが大切だと考えたのだろうと思います。
3)サーカーによる福祉活動の推進
サーカーは、アナンダ・マルガというスピリチュアル社会福祉団体をつくりました。そして、内部にプラウト・ユニヴァーサルという社会変革の組織をつくっただけでなく、国連からNGOとして認可されたAMURTという国際救援組織をつくって、アフリカの飢餓などの救援をはじめ、今回の津波被害とか災害や飢えで苦しむ地域に弟子たちを派遣しています。
あるいは、モンゴルのストリート・チルドレンの世話する活動をしているマザー・テレサのような活動をしている弟子もいます。
人類社会のレベルで思考しているのがサーカーであり、世界連邦政府をめざします。その時、戦争もなくなり、軍事予算は、それこそ、飢えの地域への支援にまわし、地球各地域の経済的自立の支援にまわすことができます。
ここまでが、メールです。
以下は、付録で、サーカーのスピーチのうち「福祉」「社会福祉」「福利」という言葉がでてくる箇所を検索し、その前後を引用したものです。
もし、関心のある箇所がありましたらごらんください。
一党独裁やその他のタイプの独裁においては、独裁者は人々の利益を考慮に入れざるをえません。抑圧的な独裁者すら、国の福祉を軽視することはできません。さもないと彼らは権力を失うでしょう。しかし、民主主義においてはこの危険はありません。知性のないクシャトリアと無知なシュードラは、召使となったヴィープラに援助されてヴァイシャによる心をマヒさせmind-stupefying、生命をとりこにするlife-enchaining宣伝に容易にごまかされます。
ヴィープラも、その知力にかかわらず、そして彼らが何を言ったり、考えたりするかにかかわらず、恐れから、あるいは他にとりうる適切な方法がないために、ヴァイシャを支持します。だから、民主主義構造においては、とくに没落したヴィープラとクシャトリアの数が少なく、無知なシュードラが大多数をしめている構造においては、ヴァイシャは容易に選挙に勝ちます。(ヴィプラ時代)
人類の社会は、一つであり、分割できません。しかし、今日、迷信、ドグマ主義、狭量さ、分離主義、そしてあらゆる種類の「イズム」のために、人間社会は、無数の部分に裂けています。この状況に対抗して、人間社会を確立するためには、統合の道を採用することが必要です。それは奉仕と福祉の精神からはじまります。理想の社会を打ち立てることを企てながら、ある人々は総合synthesisの道を採用し、ある人々は、無自覚的には、あるいは利己的な動機から間違って分析analysisの道を採用します。しかし、分析の道は、その人の利己的な利益に役立つかもしれません、あるいはグループの利益には一時的には役立つかもしれません。しかし、恒久的で包括的な基礎にたつ人類の福利の助けにはなりません。人類社会の集合的福利のためには、総合の道が絶対に必要であることを明確に理解すべきです。(奉仕心理と集団心理)
緊急に救援を必要としている数多くの集団が世界中にあります。.彼らは,物的、心理的、精神的な喪失に苦しんでいます。それは現在ある様々の社会経済システムが、困窮者や社会全体ではなく、社会の特定部分に迎合しているからです。
たとえば、マルクス主義は社会を資本家とプロレタリアートに分けます。理論上は、国家はプロレタリアート、すなわちシュードラの幸福のためにあり、非プロレタリアートは、抑圧されます。これはシュートラの支配です。
しかし、現実には、シュードラによる支配はありえません。まさしくプロレタリアート・ディクタトゥーラの考え は、非現実的で非実戦的で非科学的です。マルクス主義は、現実の土壌に根をもたないユートピア的理想です。
1977年にソ連の憲法に大きな変化がありました。プロレタリアート支配というばかげた妖怪を放棄し、福祉国家を宣言しました。しかし、なおもマルクス主義は軽く叩いたら崩壊するカードの家のようなものです。それはこの現実の世界に何の感化も残さないでしょう。
資本主義国、民主主義国においては、国家は理論上は、多数派の人々の幸福のためにあります。しかし、実際にはそれはヴァイシャ(富裕者のこと 訳者)という少数者による支配です。他のグループの人々は、二級市民にならざるをえません。(遅れた階層の向上)
人間だけが奉仕の特性を持っています。奉仕する時、動機は、「私は与える。しかし受け取らない」というものでなくてはなりません。奉仕は一方的です。人間が寄付する時、その見返りは何も期待しません。たとえば、あなたが乞食に何か与える時に、あなたは何も見返りを期待しません。さらにいったん、あなたが何かを寄付したら、あなたはそれを忘れます。これが人間の特性です。けれども中には別の理由から寄付する人があります。
たとえば、慈善事業に十万ルピー寄付した人がいます。夜に彼は寝つけませんでした。朝起きたときに新聞記事に彼が福祉事業に多額の寄付をしたことが載っているかどうかを考え続けていたわけです。あなたがたはこのようにはふるまわないでしょう。あなたが何か寄付をしたら、すぐにそれを忘れるべきです。寄付は一方的です。もし、あなたがパラマ・プルシャに花を捧げ、同時に心の中で「パラマ・プルシャ、私の息子がちょうど試験です。息子が試験に合格するように見守ってください。娘がよき夫を得ますように。従兄弟に対する訴訟に勝利しますように・・・」 そうはなりません。あなたは見返りを何も期待せずに自分自身を提供しなくてはなりません。もし、あなたがその時自分自身を完全に提供するならば、あなたはもっとも高度な利益を得るでしょう。あなたはパラマ・プルシャと一体となり、あなたがパラマ・プルシャになるでしょう。もし,あなたが一ルピーのうち一パイサー( 百分の一ルピー) を自分のものにするならば、あなたはその一パイサーのためにパラマ・プルシャと一体になりえないでしょう。それゆえ、もし、あなた自身を提供したいならば、あなた自身を百パーセント提供しなさい。これだけが奉仕を意味します。(植物、動物、人間)
]アジア諸国は、長期にわたる道徳性と精神性の遺産があるにもかかわらず、外国の侵入の時期に、非常な屈辱をこうむってきました。東洋の賢者、聖人によって普及させられた高度な哲学は人類の文化と文明の宝庫への独自の貢献として受けとめられてきたけれども、この土地の人々は外国の侵略者に抵抗することができませんでした。アジア諸国は、数多くの宗教のある地域ですが、共に数世紀間、外国の力によって支配されてきた歴史を持ちます。この不均衡はかれらの物質的な略奪と政治的従属をもたらしました。
他方、西洋は完全に物質的発展に取りつかれてきました。政治、経済、科学、福祉などの分野でめざましい発展をなし遂げてきました。実際、あまりに大きな物質的発展を遂げてきたのでそれは、水、土地、空気の絶対的な支配者であるように思えます。しかし、それにもかかわらずそれは社会的な満足感を実現できず、悲惨なほど精神性の富を欠いています。東洋と違って、西洋では、富の豊富さが危機を生み出してきました。
それゆえ、どの国も一方にのみ偏った発展では調和ある進歩ができなことはあまりに明白です。それゆえ、東洋も西洋も両者を正しく統合する総合的なイデオロギーを受け入れることが必要です。東洋は西洋を精神性において援助できるのに対して、物質主義的な西洋は東洋に対してその物質的な援助を拡大できます。もし、ベンガル語でDive ar nive milave miliveと表現されるギブアンドテイクのこの黄金の政策を双方が受け入れるならば、互いの利益となります。(教育について語る)
これらの提言は、インドに存在する分裂的傾向を阻止しようとする努力です。しかし、私たちは、ネイション建設の要素として何かそれ以上のものを必要としています。一つのネイションあるいはネイションのグループの形成に向けて、今日のインドはそれに以上になにをなすべきでしょうか。
ほとんどのインドの人々は貧困に打ちひしがれています。彼らは搾取を取り除きたいと思っています。政治的な独立は、もし、それが彼らに経済的独立を与えることができなかったら、彼らにとって価値のあるものではありません。私は、多くの貧しい村人が、「私たちの票を英国という印しのある箱に投票できないかい。俺たちゃ、そうするよ。あの政府は良かった。」というのを聞いたことがあります。これらの意見は、今日の指導者に光栄を加えるものではありません。もし、強力な一つのネイション、またはネイション・グループを形成したら、搾取に対する戦いに着手しなくてはならないでしょう。社会主義、社会主義的やり方、あるいは福祉国家について単なる大げさな話は、なんの結果も生まないでしょう。これらのスローガンの結果として人々の心になんの感情も育ちません。もし、強力な感情が生まれないなら、一つのネイションやネイション・グループは形成されません。政府は、人々の中に感情が欠落しているために、その福利の仕事で、人々からの支持と協力をほとんど得ることができません。
インドは、感情を創出するのに多くの機会を持ってきました。今もあります。しかし、世界の友愛ために、人はそれを支持しないかもしれません。もし、反搾取感情が貧困に苦しむインドの大衆の間に生まれたら、強いネイションもしくはネイション・グループが形成されるだけでなく、このネイションあるいはネイション・グループは、相応の連帯感をもって長い間存続するでしょう。それゆえ、指導者は、過去の誤りを修正し、精力的に、新しい反搾取キャンペーンに着手してゆくべきです。インドを救う他の対案はありません。
しかし、指導者たちは、すすんでこうすることができるでしょうか。もし,彼らができるならば、それは良いことです。もし、彼らがしないならば、たぶん、彼らは、政府機関の圧力によって無理矢理、人々を統一させようとするでしょう。しかし、これは受け入れられるでしょうか。インド各地の様々の固有の特徴を政府機構のスチームローラーによってこなごなにすることはできません。そしてそのような統一はまったく望ましくないことです。スチームローラーが用いられれば用いられるほど、人々の不満が大きくなるでしょう。もし、力によって何かがなされることになれば、インドの状況はバルカン諸国の状況に似たものになってゆくでしょう。インド全体が、大小の数多くの州state(国)に分裂してゆくでしょう。大小の無数のネイションが互いに争うでしょう。だから、現在の指導者たちはインドのために辞退することが必要と思われます。(ナショナリズムについて)
人類の包括的福利と発展のために、社会は、いくつかの基本的な社会・政治原則に従う必要があります。そのような原理のしっかりとした基礎なしには、不統一、不公正、搾取が栄えるでしょう。これを避け、すべての人々の利益を守るために社会の指導者は、社会・政治の基本原則が厳密に守られるようにしなくてはなりません。さもなければ、個人と集団の進歩は決して実現できません。
侵害されてはならない三つの社会・政治の基本原則があります。第一に、代替の仕事が用意される前に、解雇されるべきではありません。第二に、一つの宗教から別の宗教へ強制的に改宗させられるべきではありません。第三に、どの母語も抑圧されるべきではありません。仕事、精神性の実践、母語は、人類にとって非常に重要なものです。もし、これらに関連する感情が傷つけられるならば、人類は深く悪影響を受けるでしょう。だから、あなた方は、これらの基本的な社会・政治原則を侵すべきではありません。
これらの三つの基本原則が侵害されることにより、個人生活と集団生活に多くの苦しみと騒乱が引き起こされてきました。(三つの社会・経済の基本原則)
中等教育( インドでは8 、9 、10年級) の期間に、学生たちの自然の性向とそれぞれの才能にそって、職業教育が導入されるべきです。有能な学生が、もし、貧しければ、特別な便宜が提供されるべきです。高等教育の後、才能ある学生は、政府の財政的援助のもとに研究活動をする機会を得るべきです。
試験制度は学生の知識が応用と理論の両面て評価されるように根本的変革が必要です。学生は社会福祉やキャンパス内の活動に積極的に参加することを奨励されます。教育を受けた後、学生は適切な雇用が保証されます。(ネオ・ヒューマニストの教育)
人間の心を粗大化し、乱暴で思いやりなくする傾向のある多くの哲学があります。彼らは、自分たちが神のお気に入りの子どもたちであり、その他の人々は呪われていると人々に信じさせます。
これらの見解が、哲学的に認可されていても、アートマンの認可を受けていません。
パラマ・プルシャが、心の思考を認可するただ一つのケースがあります。それは何でしょうか。それは、人間の心が差別なく全人類の福利に専念した時、唯一の意図が万物の福利を促進することにある時です。人間の心が、そのような感情に動機づけられて、身体でそれを行動に移している時、その行動のみが、真のヤタマーナyatama'naとしてみなすことができます。その他の努力は、そのようなものとして定義することはできません。(宇宙の福利を進める継続的努力)
社会サイクルの変遷とともに人間の社会は、その義務や責任を果たすためにいくつかの社会制度を発達させてきました。国家state は、ある土地の人々の集団を組織し、彼らを統治し、彼らの福利を促進し、彼らの善を監督する活力ある制度の一つです。この制度は強力です。なぜなら、それは主権を有する権力を享受しているからです。
権力の蓄積は、もし、それがいくつかのルールと基本的な原則によって導かれないなら危険です。国家stateの行いが適切であるためのすべてのルール、規則、原則が法典に編纂されたガイドブックが、憲法と呼ばれるものです。憲法は、人々の急速な進歩のために彼らに包括的なサービスを提供するための政策と原理で国家stateを導きます。
に移している時、その行動のみが、真のヤタマーナyatama'naとしてみなすことができます。その他の努力は、そのようなものとして定義することはできません。
(理想的な憲法の必要)
資本主義と共産主義のどちらも人類に適切なイデオロギー的インスピレーションと願望を提供できませんでした。人類の福利の利益において、これらのシステムはとりかえられるべきです。プラウトは資本主義による搾取と共産主義の偽りのドグマに反対します。どちらも人類の包括的進歩に有害です。もし、パラマ・プルシャが目標であるならば、あなたがたは、あらゆる種類の腐敗、卑劣さ、いわゆる「世俗主義」に対して闘わなくてはなりません。その時のみ、あなたはこの客観的実在の世界との調整を維持することができます。
ある人々は、不均衡は自然の秩序であるから、あるグループと別のグループ、富裕者と貧乏人の間などに違いなくてはならないと言います。しかし、そのような主張は根本的に間違っています。かわりに、多様性は、自然の摂理であるというのは正しいです。まったく同一というのは自然によるものではないことを覚えておかなくてはなりません。自然は同一性を支持しないでしょう。同一性が生じた時はいつでも、ある種のジャデスフォタjadasphota(構造的爆発)が生じます。そして全構造が粉々に砕けます。だから多様性は自然の法則ですが、同一性は決して自然の法則ではありえません。しかし、多様性は、不均衡と同じ意味ではありません。不均衡は相違にもとづく搾取を助長します。他方、多様性は、根底にある統一を反映する多様性を認めます。(イデオロギーの存在価値)
すべての創造物の福利well-being を確保するためのネオ・ヒューマニストの政策は、第一に人類に奉仕し、次に動物に奉仕し、 次に植物に、そしてその次に生命無きものに奉仕すべきです。人類は、動物王国の創造物を殺すべきではありません。もし、ある人が、生きるために牛を殺すとするならば、なぜ、その人のために牛が死ぬべきなのでしょうか。もし、牛を母性として表象するならば、牛のミルクを飲む人類は子牛です。バッファローと山羊も人間の飲むミルクを提供します。だから彼らも人々の母です。人類は、母性を尊重する感情からではなく、生命のより高い形態に対する尊敬から牛を殺すことを止めるべきです。バッファローや山羊の屠殺も、同じ理由からすぐに止めるべきです。
人類は、他の人間の痛みや苦悩を感じることができます。しかし、犬が悲痛にくれている時、誰もそれに注意を払いません。あたかも犬が痛みに苦しまないと考えているかのようです。動物も喜びと苦しみを経験するということを人類が理解するようになるなら、人類は新しい次元の賢明さを持つことになります。それは、すべての生命に対して同情的であるべきだという私たち人間の義務感とより高い知力のためです。
統合であるもの、それ自体で完全であるものは、人類を鼓舞するでしょう。物的身体的領域であれ、知的心理的領域であれ、精神性の領域であれ、誰も、個人では何もできません。最高主観性(すべての主観性の最高主観性)の前では、何事も秘密しておくことはできませんし、抑圧しておくことはできません。
この事実は、東の水平線に昇りつつある真紅の太陽と同じく優雅で魅惑的でカラフルです。真紅の太陽が私たちの顔に映る時、私たちは全日entire dayが私たちのものであることを理解すべきです。(プラウトとネオ・ヒューマニズム)
社会は、定立thesis、反定立antithesis、総合synthesis の三つの混成で前進します。定立している特定の理論が、集合的福利に及ぼすその適格性と力を失う時、その一般化している理論の反定立が生みだされます。これらの二つの対立する諸力の衝突と結合の結果として、ひとつの合成が生じます。この合成が総合 synthesisです。
社会の福利は総合の段階でのみ可能だというのは本当でしょうか。社会の福利を実現する義務と責任をもつ人々が、少数者や一般の人々を軽視する時、ある時代の総合は、それ自体が次の時代の定立に変化します。
社会正義の問題にかかわる根本的な原理は次のようなものです。全宇宙は動いているパノラマのように動きつつある現象です。この経験世界のあらゆるものは相対性の中に根ざしています。そしてあらゆるものが時、場所、人の活動範囲の内部で動いています。総合の段階において、ある社会、経済、政治理論は、特定の場所や集団において有益であるかもしれません。しかし、これは、同じ理論が、異なる時、場所、人の中で同じように有効であることを証明する保証はありません。変化した状況の中で、社会的不正義の犠牲者として絶望と気晴らしの中で日々を過ごしている抑圧された人々は、その時代の総合に対して反定立を提出します。
数の上での大多数と物理的な力が反定立の出現の唯一の前提ではありません。もし、抑圧された人々が知的なグループなら、どんなにその人数が少なくても、彼らは反定立を提出できます。反定立が生み出されるや否や、その前のイデオロギーは、総合であることを止めます。それは、次の段階の定立になります。そこで、第二段階において、反定立が、ふふたびそのまさしく定立に対して現れるでしょう。この段階において、総合が現れないかぎり、闘争が衰えずに続くでしょう。理論的に総合は絶対的な要素、最後の衝突もしくは最後の言葉ではありません。というのは定立、反定立、総合は、相対性の限界内で起きるからです。(弁証法的唯物論と民主主義)
過去、宗教的な論点で流血の戦闘に従事した人々は、戦闘が終わった後、再び手を結びました。同様に言語の問題についても数多くの衝突がありました。しかし、しばらしくして互いにそれまでの口論を忘れ、総合の結果と新しく混ざり合った言語が出現しました。このように外見の相違に反応するかわりに内的な統一を追求すべきです。社会を分裂させる様々の相違は、共同の福利のために取り除かれなくてはなりません。そうするために共通のきずな、様々の生活洋式と生活の多彩な表現の類似点 を探さなくてはなりません。類似点は、助長され、相違点は抑制されるべきです。(人間社会は一つであり、分割できない)
This article is about meaning and words of welfare that god salamnidam downed to P.R.Sarkar.
Term social welfare does not so big role when society is organized along principles of universe.
Because alive itself becomes support with each other in spirit of welfare.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)インドのベンガルという貧富の差が大きく最貧の人々の多い地域で教えを説いたためか、サーカーには、「障害者福祉」とかそのような福祉論が見当たりません。
私は、その理由を次のように考えます。
サーカーは、サンスクリット語のサマジャを「社会」として説明します。このサマジャの概念は、巡礼の旅人の集団が、一人が病気になれば、みんなが立ち止まって待ち、互いが思いやりをもって、ともに協同して進む精神をもった集団として説明しています。
そのようなサマジャ(社会)を人類はいまだ作り上げていない。そうしたサマジャをめざしなさいと言います。
サーカーのプラウト(progressive socialism)がめざす民主主義経済と分権経済にもとづく社会構想では、「次の雇用を見つけてあげるまで解雇できない」という法律があり、すべての人間の普通の生活必需品を保障する原則の実現のために、雇用による賃金の保障がなされます。
したがって、失業手当という社会保障の領域は格段に小さくなると思われます。
それぞれの地域が農業、工業、商業などのバランスのとれた再生産構造をめざしますから、勤務地は近く、豊かな家族生活が可能になります。もちろん定年退職もないでしょう。(定年のことにサーカーは触れていませんが)60才すぎても、地域でともに働けます。したがって年金の財源も少なくて済むようになるでしょう。
働くことのできない老人や障害者、病人に対しては、公的財源から保障がなされるでしょう。
地域で家族で、助け合いながら、生きてゆくという協同の精神が軸となりますから、可能なかぎり障害者も地元での雇用保障が追求されるでしょう。そして障害のために働くことができない者も可能なかぎり家族との生活が保障されるでしょう。
もちろん、それぞれの地域で一人になり、家族のいない老人や障害者のケアに公的な支援がなされるでしょう。
今日、老人や障害者の介護などの福祉の領域が、民営化として営利事業化されてきています。しかし、営利が目的であるために様々の問題を生んでいるように思えます。
サーカーは、資本主義企業が、民主主義的な企業、すなわち協同組合となることを将来的な展望としています。そして可能なところから協同組合をつくってゆきなさいと言います。
同じ論理から、老人や障害者の介護といった福祉サービスは、非営利の協同組合としてなされるのが望ましいかもしれません。
私は、今日、進む民営化(公的領域を民間の営利企業に移す流れ)を、さらに「含んで超えて」民主主義経済化として、協同組合化が追求できないだろうかと考えています。
協同組合経営のネットワークの経済システムを、サーカーは「進歩的社会主義」と呼び、その弟子のアメリカ在住の経済学者のラビ・バトラは、「大衆(人民)資本主義と呼びます。名称はどうあれ、今日の資本主義のあり方を「含んで超えた」あり方をさしています。
2)福祉についてのサーカーの言及
サーカーのスピーチの中で福祉国家という言葉を、1、2箇所、批判的文脈で見かけたことがあります。
サーカーは、一人一人の雇用の保障による経済的自立、そして基本的必需品を地域で自給することによる経済的自立を重視します。
ところが営利追求の生産である資本主義のもとにでは、一部に富を集中し、他方に大衆の失業や生活の不安定を生みだす構造があります。
そのようにして失業した大衆を、一部富裕者のための資本主義国家が、福祉政策で、失業者に給付したりすることは、結局のところ、個人の自立も地域の自立をも、促進せず、従属を固定化すると見ているのだろうと思います。
サーカーが、経済的独立を重視することは次の文章にあらわれています。
「政治的な独立は、もし、それが彼らに経済的独立を与えることができなかったら、彼らにとって価値のあるものではありません。・・・もし、強力な一つのネイション、またはネイション・グループを形成したら、搾取に対する闘いに着手しなくてはならないでしょう。社会主義、社会主義的やり方、あるいは福祉国家について単なる大げさな話は、なんの結果も生まないでしょう」
この搾取(exploitation利用)に対する闘いという考えも、従属から経済的自立へを意味しています。
そして資本主義国家も、人々を経済的自立に導いていない点で批判します。
「資本主義国、民主主義国においては、国家は理論上は、多数派の人々の幸福のためにあります。しかし、実際にはそれはヴァイシャ(富裕者のこと 訳者)という少数者による支配です。他のグループの人々は、二級市民にならざるをえません」
ソ連も同様に批判していました。
「1977年にソ連の憲法に大きな変化がありました。プロレタリアート支配というばかげた妖怪を放棄し、福祉国家を宣言しました。しかし、それは、軽く叩いたら崩壊するカードの家のようなものです」
さらに、たくさんもうけた資本家が、自分の名前を関した福祉施設などをつくらせることの内面を分析した上で、「欺瞞」だとして評価しません。たとえばカーネギーの名前が冠せられた建物があり、福祉に対して貢献したとしてカーネギーが尊敬されていますが、サーカーはそうした人をまったく評価しません。
雇用を保障し、人々に経済的自立を保障したか。それぞれの地域にバランスのとれた経済構造をつくり、地域の経済的自立を推進したか。そうしたことが大切だと考えたのだろうと思います。
3)サーカーによる福祉活動の推進
サーカーは、アナンダ・マルガというスピリチュアル社会福祉団体をつくりました。そして、内部にプラウト・ユニヴァーサルという社会変革の組織をつくっただけでなく、国連からNGOとして認可されたAMURTという国際救援組織をつくって、アフリカの飢餓などの救援をはじめ、今回の津波被害とか災害や飢えで苦しむ地域に弟子たちを派遣しています。
あるいは、モンゴルのストリート・チルドレンの世話する活動をしているマザー・テレサのような活動をしている弟子もいます。
人類社会のレベルで思考しているのがサーカーであり、世界連邦政府をめざします。その時、戦争もなくなり、軍事予算は、それこそ、飢えの地域への支援にまわし、地球各地域の経済的自立の支援にまわすことができます。
ここまでが、メールです。
以下は、付録で、サーカーのスピーチのうち「福祉」「社会福祉」「福利」という言葉がでてくる箇所を検索し、その前後を引用したものです。
もし、関心のある箇所がありましたらごらんください。
一党独裁やその他のタイプの独裁においては、独裁者は人々の利益を考慮に入れざるをえません。抑圧的な独裁者すら、国の福祉を軽視することはできません。さもないと彼らは権力を失うでしょう。しかし、民主主義においてはこの危険はありません。知性のないクシャトリアと無知なシュードラは、召使となったヴィープラに援助されてヴァイシャによる心をマヒさせmind-stupefying、生命をとりこにするlife-enchaining宣伝に容易にごまかされます。
ヴィープラも、その知力にかかわらず、そして彼らが何を言ったり、考えたりするかにかかわらず、恐れから、あるいは他にとりうる適切な方法がないために、ヴァイシャを支持します。だから、民主主義構造においては、とくに没落したヴィープラとクシャトリアの数が少なく、無知なシュードラが大多数をしめている構造においては、ヴァイシャは容易に選挙に勝ちます。(ヴィプラ時代)
人類の社会は、一つであり、分割できません。しかし、今日、迷信、ドグマ主義、狭量さ、分離主義、そしてあらゆる種類の「イズム」のために、人間社会は、無数の部分に裂けています。この状況に対抗して、人間社会を確立するためには、統合の道を採用することが必要です。それは奉仕と福祉の精神からはじまります。理想の社会を打ち立てることを企てながら、ある人々は総合synthesisの道を採用し、ある人々は、無自覚的には、あるいは利己的な動機から間違って分析analysisの道を採用します。しかし、分析の道は、その人の利己的な利益に役立つかもしれません、あるいはグループの利益には一時的には役立つかもしれません。しかし、恒久的で包括的な基礎にたつ人類の福利の助けにはなりません。人類社会の集合的福利のためには、総合の道が絶対に必要であることを明確に理解すべきです。(奉仕心理と集団心理)
緊急に救援を必要としている数多くの集団が世界中にあります。.彼らは,物的、心理的、精神的な喪失に苦しんでいます。それは現在ある様々の社会経済システムが、困窮者や社会全体ではなく、社会の特定部分に迎合しているからです。
たとえば、マルクス主義は社会を資本家とプロレタリアートに分けます。理論上は、国家はプロレタリアート、すなわちシュードラの幸福のためにあり、非プロレタリアートは、抑圧されます。これはシュートラの支配です。
しかし、現実には、シュードラによる支配はありえません。まさしくプロレタリアート・ディクタトゥーラの考え は、非現実的で非実戦的で非科学的です。マルクス主義は、現実の土壌に根をもたないユートピア的理想です。
1977年にソ連の憲法に大きな変化がありました。プロレタリアート支配というばかげた妖怪を放棄し、福祉国家を宣言しました。しかし、なおもマルクス主義は軽く叩いたら崩壊するカードの家のようなものです。それはこの現実の世界に何の感化も残さないでしょう。
資本主義国、民主主義国においては、国家は理論上は、多数派の人々の幸福のためにあります。しかし、実際にはそれはヴァイシャ(富裕者のこと 訳者)という少数者による支配です。他のグループの人々は、二級市民にならざるをえません。(遅れた階層の向上)
人間だけが奉仕の特性を持っています。奉仕する時、動機は、「私は与える。しかし受け取らない」というものでなくてはなりません。奉仕は一方的です。人間が寄付する時、その見返りは何も期待しません。たとえば、あなたが乞食に何か与える時に、あなたは何も見返りを期待しません。さらにいったん、あなたが何かを寄付したら、あなたはそれを忘れます。これが人間の特性です。けれども中には別の理由から寄付する人があります。
たとえば、慈善事業に十万ルピー寄付した人がいます。夜に彼は寝つけませんでした。朝起きたときに新聞記事に彼が福祉事業に多額の寄付をしたことが載っているかどうかを考え続けていたわけです。あなたがたはこのようにはふるまわないでしょう。あなたが何か寄付をしたら、すぐにそれを忘れるべきです。寄付は一方的です。もし、あなたがパラマ・プルシャに花を捧げ、同時に心の中で「パラマ・プルシャ、私の息子がちょうど試験です。息子が試験に合格するように見守ってください。娘がよき夫を得ますように。従兄弟に対する訴訟に勝利しますように・・・」 そうはなりません。あなたは見返りを何も期待せずに自分自身を提供しなくてはなりません。もし、あなたがその時自分自身を完全に提供するならば、あなたはもっとも高度な利益を得るでしょう。あなたはパラマ・プルシャと一体となり、あなたがパラマ・プルシャになるでしょう。もし,あなたが一ルピーのうち一パイサー( 百分の一ルピー) を自分のものにするならば、あなたはその一パイサーのためにパラマ・プルシャと一体になりえないでしょう。それゆえ、もし、あなた自身を提供したいならば、あなた自身を百パーセント提供しなさい。これだけが奉仕を意味します。(植物、動物、人間)
]アジア諸国は、長期にわたる道徳性と精神性の遺産があるにもかかわらず、外国の侵入の時期に、非常な屈辱をこうむってきました。東洋の賢者、聖人によって普及させられた高度な哲学は人類の文化と文明の宝庫への独自の貢献として受けとめられてきたけれども、この土地の人々は外国の侵略者に抵抗することができませんでした。アジア諸国は、数多くの宗教のある地域ですが、共に数世紀間、外国の力によって支配されてきた歴史を持ちます。この不均衡はかれらの物質的な略奪と政治的従属をもたらしました。
他方、西洋は完全に物質的発展に取りつかれてきました。政治、経済、科学、福祉などの分野でめざましい発展をなし遂げてきました。実際、あまりに大きな物質的発展を遂げてきたのでそれは、水、土地、空気の絶対的な支配者であるように思えます。しかし、それにもかかわらずそれは社会的な満足感を実現できず、悲惨なほど精神性の富を欠いています。東洋と違って、西洋では、富の豊富さが危機を生み出してきました。
それゆえ、どの国も一方にのみ偏った発展では調和ある進歩ができなことはあまりに明白です。それゆえ、東洋も西洋も両者を正しく統合する総合的なイデオロギーを受け入れることが必要です。東洋は西洋を精神性において援助できるのに対して、物質主義的な西洋は東洋に対してその物質的な援助を拡大できます。もし、ベンガル語でDive ar nive milave miliveと表現されるギブアンドテイクのこの黄金の政策を双方が受け入れるならば、互いの利益となります。(教育について語る)
これらの提言は、インドに存在する分裂的傾向を阻止しようとする努力です。しかし、私たちは、ネイション建設の要素として何かそれ以上のものを必要としています。一つのネイションあるいはネイションのグループの形成に向けて、今日のインドはそれに以上になにをなすべきでしょうか。
ほとんどのインドの人々は貧困に打ちひしがれています。彼らは搾取を取り除きたいと思っています。政治的な独立は、もし、それが彼らに経済的独立を与えることができなかったら、彼らにとって価値のあるものではありません。私は、多くの貧しい村人が、「私たちの票を英国という印しのある箱に投票できないかい。俺たちゃ、そうするよ。あの政府は良かった。」というのを聞いたことがあります。これらの意見は、今日の指導者に光栄を加えるものではありません。もし、強力な一つのネイション、またはネイション・グループを形成したら、搾取に対する戦いに着手しなくてはならないでしょう。社会主義、社会主義的やり方、あるいは福祉国家について単なる大げさな話は、なんの結果も生まないでしょう。これらのスローガンの結果として人々の心になんの感情も育ちません。もし、強力な感情が生まれないなら、一つのネイションやネイション・グループは形成されません。政府は、人々の中に感情が欠落しているために、その福利の仕事で、人々からの支持と協力をほとんど得ることができません。
インドは、感情を創出するのに多くの機会を持ってきました。今もあります。しかし、世界の友愛ために、人はそれを支持しないかもしれません。もし、反搾取感情が貧困に苦しむインドの大衆の間に生まれたら、強いネイションもしくはネイション・グループが形成されるだけでなく、このネイションあるいはネイション・グループは、相応の連帯感をもって長い間存続するでしょう。それゆえ、指導者は、過去の誤りを修正し、精力的に、新しい反搾取キャンペーンに着手してゆくべきです。インドを救う他の対案はありません。
しかし、指導者たちは、すすんでこうすることができるでしょうか。もし,彼らができるならば、それは良いことです。もし、彼らがしないならば、たぶん、彼らは、政府機関の圧力によって無理矢理、人々を統一させようとするでしょう。しかし、これは受け入れられるでしょうか。インド各地の様々の固有の特徴を政府機構のスチームローラーによってこなごなにすることはできません。そしてそのような統一はまったく望ましくないことです。スチームローラーが用いられれば用いられるほど、人々の不満が大きくなるでしょう。もし、力によって何かがなされることになれば、インドの状況はバルカン諸国の状況に似たものになってゆくでしょう。インド全体が、大小の数多くの州state(国)に分裂してゆくでしょう。大小の無数のネイションが互いに争うでしょう。だから、現在の指導者たちはインドのために辞退することが必要と思われます。(ナショナリズムについて)
人類の包括的福利と発展のために、社会は、いくつかの基本的な社会・政治原則に従う必要があります。そのような原理のしっかりとした基礎なしには、不統一、不公正、搾取が栄えるでしょう。これを避け、すべての人々の利益を守るために社会の指導者は、社会・政治の基本原則が厳密に守られるようにしなくてはなりません。さもなければ、個人と集団の進歩は決して実現できません。
侵害されてはならない三つの社会・政治の基本原則があります。第一に、代替の仕事が用意される前に、解雇されるべきではありません。第二に、一つの宗教から別の宗教へ強制的に改宗させられるべきではありません。第三に、どの母語も抑圧されるべきではありません。仕事、精神性の実践、母語は、人類にとって非常に重要なものです。もし、これらに関連する感情が傷つけられるならば、人類は深く悪影響を受けるでしょう。だから、あなた方は、これらの基本的な社会・政治原則を侵すべきではありません。
これらの三つの基本原則が侵害されることにより、個人生活と集団生活に多くの苦しみと騒乱が引き起こされてきました。(三つの社会・経済の基本原則)
中等教育( インドでは8 、9 、10年級) の期間に、学生たちの自然の性向とそれぞれの才能にそって、職業教育が導入されるべきです。有能な学生が、もし、貧しければ、特別な便宜が提供されるべきです。高等教育の後、才能ある学生は、政府の財政的援助のもとに研究活動をする機会を得るべきです。
試験制度は学生の知識が応用と理論の両面て評価されるように根本的変革が必要です。学生は社会福祉やキャンパス内の活動に積極的に参加することを奨励されます。教育を受けた後、学生は適切な雇用が保証されます。(ネオ・ヒューマニストの教育)
人間の心を粗大化し、乱暴で思いやりなくする傾向のある多くの哲学があります。彼らは、自分たちが神のお気に入りの子どもたちであり、その他の人々は呪われていると人々に信じさせます。
これらの見解が、哲学的に認可されていても、アートマンの認可を受けていません。
パラマ・プルシャが、心の思考を認可するただ一つのケースがあります。それは何でしょうか。それは、人間の心が差別なく全人類の福利に専念した時、唯一の意図が万物の福利を促進することにある時です。人間の心が、そのような感情に動機づけられて、身体でそれを行動に移している時、その行動のみが、真のヤタマーナyatama'naとしてみなすことができます。その他の努力は、そのようなものとして定義することはできません。(宇宙の福利を進める継続的努力)
社会サイクルの変遷とともに人間の社会は、その義務や責任を果たすためにいくつかの社会制度を発達させてきました。国家state は、ある土地の人々の集団を組織し、彼らを統治し、彼らの福利を促進し、彼らの善を監督する活力ある制度の一つです。この制度は強力です。なぜなら、それは主権を有する権力を享受しているからです。
権力の蓄積は、もし、それがいくつかのルールと基本的な原則によって導かれないなら危険です。国家stateの行いが適切であるためのすべてのルール、規則、原則が法典に編纂されたガイドブックが、憲法と呼ばれるものです。憲法は、人々の急速な進歩のために彼らに包括的なサービスを提供するための政策と原理で国家stateを導きます。
に移している時、その行動のみが、真のヤタマーナyatama'naとしてみなすことができます。その他の努力は、そのようなものとして定義することはできません。
(理想的な憲法の必要)
資本主義と共産主義のどちらも人類に適切なイデオロギー的インスピレーションと願望を提供できませんでした。人類の福利の利益において、これらのシステムはとりかえられるべきです。プラウトは資本主義による搾取と共産主義の偽りのドグマに反対します。どちらも人類の包括的進歩に有害です。もし、パラマ・プルシャが目標であるならば、あなたがたは、あらゆる種類の腐敗、卑劣さ、いわゆる「世俗主義」に対して闘わなくてはなりません。その時のみ、あなたはこの客観的実在の世界との調整を維持することができます。
ある人々は、不均衡は自然の秩序であるから、あるグループと別のグループ、富裕者と貧乏人の間などに違いなくてはならないと言います。しかし、そのような主張は根本的に間違っています。かわりに、多様性は、自然の摂理であるというのは正しいです。まったく同一というのは自然によるものではないことを覚えておかなくてはなりません。自然は同一性を支持しないでしょう。同一性が生じた時はいつでも、ある種のジャデスフォタjadasphota(構造的爆発)が生じます。そして全構造が粉々に砕けます。だから多様性は自然の法則ですが、同一性は決して自然の法則ではありえません。しかし、多様性は、不均衡と同じ意味ではありません。不均衡は相違にもとづく搾取を助長します。他方、多様性は、根底にある統一を反映する多様性を認めます。(イデオロギーの存在価値)
すべての創造物の福利well-being を確保するためのネオ・ヒューマニストの政策は、第一に人類に奉仕し、次に動物に奉仕し、 次に植物に、そしてその次に生命無きものに奉仕すべきです。人類は、動物王国の創造物を殺すべきではありません。もし、ある人が、生きるために牛を殺すとするならば、なぜ、その人のために牛が死ぬべきなのでしょうか。もし、牛を母性として表象するならば、牛のミルクを飲む人類は子牛です。バッファローと山羊も人間の飲むミルクを提供します。だから彼らも人々の母です。人類は、母性を尊重する感情からではなく、生命のより高い形態に対する尊敬から牛を殺すことを止めるべきです。バッファローや山羊の屠殺も、同じ理由からすぐに止めるべきです。
人類は、他の人間の痛みや苦悩を感じることができます。しかし、犬が悲痛にくれている時、誰もそれに注意を払いません。あたかも犬が痛みに苦しまないと考えているかのようです。動物も喜びと苦しみを経験するということを人類が理解するようになるなら、人類は新しい次元の賢明さを持つことになります。それは、すべての生命に対して同情的であるべきだという私たち人間の義務感とより高い知力のためです。
統合であるもの、それ自体で完全であるものは、人類を鼓舞するでしょう。物的身体的領域であれ、知的心理的領域であれ、精神性の領域であれ、誰も、個人では何もできません。最高主観性(すべての主観性の最高主観性)の前では、何事も秘密しておくことはできませんし、抑圧しておくことはできません。
この事実は、東の水平線に昇りつつある真紅の太陽と同じく優雅で魅惑的でカラフルです。真紅の太陽が私たちの顔に映る時、私たちは全日entire dayが私たちのものであることを理解すべきです。(プラウトとネオ・ヒューマニズム)
社会は、定立thesis、反定立antithesis、総合synthesis の三つの混成で前進します。定立している特定の理論が、集合的福利に及ぼすその適格性と力を失う時、その一般化している理論の反定立が生みだされます。これらの二つの対立する諸力の衝突と結合の結果として、ひとつの合成が生じます。この合成が総合 synthesisです。
社会の福利は総合の段階でのみ可能だというのは本当でしょうか。社会の福利を実現する義務と責任をもつ人々が、少数者や一般の人々を軽視する時、ある時代の総合は、それ自体が次の時代の定立に変化します。
社会正義の問題にかかわる根本的な原理は次のようなものです。全宇宙は動いているパノラマのように動きつつある現象です。この経験世界のあらゆるものは相対性の中に根ざしています。そしてあらゆるものが時、場所、人の活動範囲の内部で動いています。総合の段階において、ある社会、経済、政治理論は、特定の場所や集団において有益であるかもしれません。しかし、これは、同じ理論が、異なる時、場所、人の中で同じように有効であることを証明する保証はありません。変化した状況の中で、社会的不正義の犠牲者として絶望と気晴らしの中で日々を過ごしている抑圧された人々は、その時代の総合に対して反定立を提出します。
数の上での大多数と物理的な力が反定立の出現の唯一の前提ではありません。もし、抑圧された人々が知的なグループなら、どんなにその人数が少なくても、彼らは反定立を提出できます。反定立が生み出されるや否や、その前のイデオロギーは、総合であることを止めます。それは、次の段階の定立になります。そこで、第二段階において、反定立が、ふふたびそのまさしく定立に対して現れるでしょう。この段階において、総合が現れないかぎり、闘争が衰えずに続くでしょう。理論的に総合は絶対的な要素、最後の衝突もしくは最後の言葉ではありません。というのは定立、反定立、総合は、相対性の限界内で起きるからです。(弁証法的唯物論と民主主義)
過去、宗教的な論点で流血の戦闘に従事した人々は、戦闘が終わった後、再び手を結びました。同様に言語の問題についても数多くの衝突がありました。しかし、しばらしくして互いにそれまでの口論を忘れ、総合の結果と新しく混ざり合った言語が出現しました。このように外見の相違に反応するかわりに内的な統一を追求すべきです。社会を分裂させる様々の相違は、共同の福利のために取り除かれなくてはなりません。そうするために共通のきずな、様々の生活洋式と生活の多彩な表現の類似点 を探さなくてはなりません。類似点は、助長され、相違点は抑制されるべきです。(人間社会は一つであり、分割できない)
This article is about meaning and words of welfare that god salamnidam downed to P.R.Sarkar.
Term social welfare does not so big role when society is organized along principles of universe.
Because alive itself becomes support with each other in spirit of welfare.
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods