Gay Couples Journey for Equal Rights to Children (video inspired by god of star)
女性と男性・・・サーカーとウィルバー
Soul has no gender distinction
「多くの他の(生物)の種の社会のように、人間の社会においても、
女性は男性よりは身体的に弱いです。
彼女たちの神経系はより弱いが故に、心もやや弱いのです。
それにもかかわらず、人間社会において
女性は男性よりも価値が劣るものではありません。
しかしながら、利己的な男たちは、女性の価値を軽視しました。
彼らは最大限彼女たちの弱さを利用してきました。
そして今も利用しつづけています。
男たちは、女性は社会の母として尊敬されるべきである言いながら、
実際には家畜の地位に彼女たちをおとしめました。
生活のあらゆる領域で、男たちは女性の権利を実質的に制限するか、
あるいは男たちの気ままと気まぐれを条件として女性の能力を行使させてきました。
人間の歴史の夜明けに生きた原始の人類には、
そのような態度は決して存在していませんでした。
原始の男たちは、自分たちの支配権を確立しようとして
社会の純潔の名目で女性を束縛して欺こうとは考えませんでした。
今日でさえ、原始的な種族raceの間では、
私たちは女性の自由に関して著しい雅量の無さを見いだすことはできません。
(略)
これまで女性はどんな類の扱いを受けてきたでしょうか。
女性が力?competenceの無さ故に、
ある場合にその権利と自由を次第に失ってきたのはまさしく事実です。
・・・
しかし、女性が権利を失ってきたのは、単に彼女たちの力competenceの無さのためでしょうか。
彼女らの心にあふれる感情にもある程度は責任があったかもしれません。
女性は感情に揺り動かされて自分たちの小さな利益を無視し、
次第にあらゆるものを与えてきたかもしれません。
自分たちを魅了していた高い社会的地位までも
彼女たちの夫、息子、兄弟に与えてきたかもしれません。
彼女たちのそのような謙虚さや大きな心に対して
ふさわしい敬意を払うことは理にかなっていないでしょうか。
もし、ふいに客が来た時、誰が客に食事だすでしょうか。
おいしい魚を調理して、自分だけ食べる女性はいません。
夫は、妻が病気の時、彼が病気の時に妻が看病してくれるほど、
彼女の看病をするでしょうか。
(略)
私は、男たちが普通の人類で、女性たちが天使だと言っているのではありません。
私は人類としての女性に焦点を当てて、彼女たちの特別の資質について述べてきただけです。
言いたいことは次のことです。
人々の素朴さや無知を利用する人々は、まぎれもなく人間の顔をした悪魔です。
そして人々の犠牲的感情を利用(搾取)してだます人々は、
悪魔よりもさらに悪いものです。
自由は闘いを通じて獲得されます。
誰も皿に載せて自由を運んできてはくれません。
なぜなら、自由は贈り物ではないからです。
それは生まれながらの権利です。
今日、女性が失ってしまった権利に関する
(少なくとも世界のほとんどの国々でそう思えますが)
適切な社会心理的分析socio-psycho-analysisは、
本当は女性が自分たちの自由を失ったのではないことを示しています。
むしろ、彼女たちは信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねたのです。
これは明白な真実です。
私はある種の上流きどりの婦人を見た時、笑わざるをえませんでした。
彼女は教養あるふりを装って、
自分の子どもの世話を女中にまかせて、
夫に買ってもらった車で旅行してまわり、
会合に出席して、女性の自由について長いスピーチをするのです。
自由freedom, or libertyと気ままlicenseは同じものではないことを
常に思い起こさなくてはなりません。
女性の自由freedomの考えは良いことです。
しかし、気ままが、自由の名で助長されるべきではありません。
男性か女性のどちらかを気ままにさせるとGiving license短期間に社会構造を崩壊させることがありえます。
それゆえ、女性の自由をもっとも強く提唱している人々は、
この提案されている自由のとる形を注意深く考察しなくてはなりません。.
私たちがなんらかの単純な真実に認める時、
それを情緒によっておこなうべきではありません。
ヒューマニズムにもとづいた合理性rationalityのみを受け入れるべきです。
自然から生まれた子どもとして、
男性と同じだけ女性は光、空気、大地、水へのアクセス権をもつべきです。
実際、それは女性に権利を与えるgranting rights問題ではなく、
彼女たちの権利を認知する問題です。
しかしながら、もし、女性の権利の認知が情緒的に論じられたら、
大きな社会的災難をもたらすでしょう。」
(2)「女性は自分たちの運命を信じて男性の手にゆだねた」サーカー
上記のサーカーの女性についての言及を紹介した中に次の箇所がありました。
「今日、女性が失ってしまった権利に関する
適切な社会心理的分析socio-psycho-analysisは、
本当は女性が自分たちの自由を失ったのではないことを示しています。
むしろ、彼女たちは信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねたのです」
という部分がありました。
これは明白な真実です」
サーカーの巨視的人類史サイクル史観でみると
シュードラ(原始社会)→クシャトリア(古代)→ヴィプラ(中世)→ヴァイシャ(近現代)であり
近く世界規模でシュードラ(大衆)革命の展開が生じて、次の人類史サイクルがはじまります。
(私たちは、新しい人類文明を生み出す前夜にいるわけです)
この巨視的人類サイクルの中で前期クシャトリア社会は母系制でした。
そして後期クシャトリア社会は家父長制に変化してゆくわけです。
その時、「女性たちは男性を信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねた」というわけです。
男性たちの悪意から女性たちを従属させたわけではありませんでした。
サーカーによれば、女性たちの地位の悪化は、
ヴィプラ時代に自分たちの指導権を維持したい悪意あるヴィプラ(知)が
自分たちの既得権益を守るために、
さまざまな女性差別のドグマをつくったことに由来すると論じています。
(3)「家父制は男と女の共同作品なのです」ウィルバー
ケン・ウィルバーは、このテーマではサーカーよりもマルクスを「含んで超える」形で論じています。
ウィルバーの場合、物的領域と知的心理的領域は対応して発展してゆくと見ており、自らの見方をマルクスの見方と重ねています。
そして女性が全体として男性に従属するようになった背景に生産力の発達を見ます。
女性の従属的地位への転化を鍬(くわ)農耕文化から鋤(すき)農耕文化にとってかわったことがあると見ています
「堀り棒や簡単な鍬(くわ)は妊娠した女で容易につかえます。・・・
こうした社会での食料の70%は女が生産したのです」。ケン・ウィルバー『万物の歴史』春秋社76ページ。
「こうした社会は、母中心社会であり・・・より『平等主義的』だった。
西洋でも東洋でも紀元前1万年前に始まっています」同書77ページ
「鋤(すき)の導入とともに、大規模な、文化における移行がはじまったのです。・・・」「ここで私たちは一時的にマルクスに触れるのです。
基本的生産力・・・この場合、鋤・・・の周りに組織化されはじめた社会的関係のゆえに、男たちは、政府、教育、宗教、政治という公的領域を支配しはじめたのです。
で女たちは、家族、炉辺、家庭という私的領域を支配したのです。
この区別はしばしば、男性による生産と女性による再生産(生殖)として言及されています。・・・
産業革命まで支配的な生産様式だったのです」同書82ページ
みなさんは、鍬(くわ)と鋤(すき)の違いがわかるでしょうか。
手にもって畑を耕すのがくわです。すきは牛にひっぱらせる道具です。
私は小学校の三年生のころ、田んぼで牛にすきをひっぱらせてもらったことがあります。
とても牛とすきをコントロールできなかったことを覚えています。
田舎のたんぼでは、どこの家でも女の人が牛にすきをひかせているところを見ることはありませんでした。
ウィルバーは重要な点をついていると思います。
(4)男性と女性は対等に協力しあう仲間
私が興味深く感じていることは
最初、女性の男性への隷属が゛男性たちの悪意(搾取的意図)からさ始まったわけではないと見ていることです。
「まず、事実上食料はいまやもっぱら男が生産するようになりました。
またそのために女性の労働力を「取り上げたり」「抑圧」したりしたのでもありません。
重い鋤起し作業は男性の仕事だと、男と女が一緒に決めたのです・・・
この『家父長制は、・・・厳しい環境に直面した男と女の共同作品なのです』
母系制から家父長制の社会に移行するにあたって、
女たちを従属させようという男たちの邪悪な意図があったのではなかった。
むしろ、男たちのやさしさがあり、男性と女性の共同の産物だった。
社会発展の段階がそれを必要としたというのです。
ここからは、男性と女性は協力しあう仲間という人間観がでてきます。
そして男女の役割分担自体を即差別だとする見方を克服できます。
(5)弁証法的視点(ホロン的視点)
ウィルバーは「進化の構造」を見る際に一貫して次のような弁証法的な見方をとっています。
「進化のあらゆる段階は、それ自体に固有の限界に達し、・・・
一種の混乱、混沌すら引き起し、そしてシステムは壊れるか(自己崩壊)、
またはより高次の秩序へと進化する(自己超越)ことによってこの混沌を免れる」同書79ページ、
すなわちある時代には適切であったものが、
時代の変化の中でそぐわなくなり、問題に直面し、
私たち人類はそれを「超えてゆく」ことを求められるわけです。
男女の役割分担もある時代に社会的必要性があって生まれ、
今やその役割分担の社会的存在根拠がなくなって
歴史はあらたな段階を迎えつつあるというわけです。
すなわち、鍬(くわ)という重い道具をつかう生産力段階は、男性優位の社会をもたらしたのだと
次のように論じます。
「男性と女性の両方を生物的な狭い役割に留めていたものは、進化のプロセスそれ自体であった。
そのプロセス自体が、つい最近まで生物圏に留まっていたのである。・・・・・
男女の特定の役割は、その当時には必要なことであったが、
今や、時代にそぐわなくなってきたのである。・・
男性と女性の間の生物的に差異化された役割を、
男性が女性に押しつけたものであると見ることは
同時に男性はまったくのブタであり、
女性はまったくのおバカさんであるということを意味する。・・・
男性と女性が特定の生物的な条件に直面して反応し、
しかもその条件がもはや決定的な要素でなくなったとしたら、
男性も女性もその特定の役割に捕らわれている状態から解放される必要である ということになる。・・・」ウィルバー『進化の構造1』春秋社239ページ
今、高校生の就職の企業からの求人票は男女別の求人は禁止されています。
男女雇用機会均等法によるものです。http://www2.mhlw.go.jp/topics/seido/josei/hourei/20000401-05.htm
実際に生徒につきそって、機械製造の工場にいってみると、コンピューター化されて
機械が重いものを持ち上げるようになっています。
旧来男性だけだった商品管理の職場にいっても女性たちが明るく働いていました。
まさしく生産力の発達によって、男性と女性も「特定の生物的な条件に」より、
「その特定の役割に捕らわれている」ことが必要ない時代に私たちはきているのです。
ウィルバーは弁証法を用いて見事に男性・女性論を論じていると思います。
来る社会変革、すなわち資本主義を克服し、
民主主義経済システムの地球惑星社会をめざす人類史的事業においても、
男性と女性は、同じ人類の仲間として対等に協力しながら進んでゆきましょう。
This article is that relation of men and women of words of P.R.Sarkar which was downed from god salanimrdam and study of Ken.Wilbur.
Both say that cause which became unequal relation was base on agreement of men and wemen.
I consciousness of human being is soul and same I consciousness reborn repeat both man and women.
Soul has no gender distinction.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)女性は男性よりは身体的に弱いです。
彼女たちの神経系はより弱いが故に、心もやや弱いのです。
それにもかかわらず、人間社会において
女性は男性よりも価値が劣るものではありません。
しかしながら、利己的な男たちは、女性の価値を軽視しました。
彼らは最大限彼女たちの弱さを利用してきました。
そして今も利用しつづけています。
男たちは、女性は社会の母として尊敬されるべきである言いながら、
実際には家畜の地位に彼女たちをおとしめました。
生活のあらゆる領域で、男たちは女性の権利を実質的に制限するか、
あるいは男たちの気ままと気まぐれを条件として女性の能力を行使させてきました。
人間の歴史の夜明けに生きた原始の人類には、
そのような態度は決して存在していませんでした。
原始の男たちは、自分たちの支配権を確立しようとして
社会の純潔の名目で女性を束縛して欺こうとは考えませんでした。
今日でさえ、原始的な種族raceの間では、
私たちは女性の自由に関して著しい雅量の無さを見いだすことはできません。
(略)
これまで女性はどんな類の扱いを受けてきたでしょうか。
女性が力?competenceの無さ故に、
ある場合にその権利と自由を次第に失ってきたのはまさしく事実です。
・・・
しかし、女性が権利を失ってきたのは、単に彼女たちの力competenceの無さのためでしょうか。
彼女らの心にあふれる感情にもある程度は責任があったかもしれません。
女性は感情に揺り動かされて自分たちの小さな利益を無視し、
次第にあらゆるものを与えてきたかもしれません。
自分たちを魅了していた高い社会的地位までも
彼女たちの夫、息子、兄弟に与えてきたかもしれません。
彼女たちのそのような謙虚さや大きな心に対して
ふさわしい敬意を払うことは理にかなっていないでしょうか。
もし、ふいに客が来た時、誰が客に食事だすでしょうか。
おいしい魚を調理して、自分だけ食べる女性はいません。
夫は、妻が病気の時、彼が病気の時に妻が看病してくれるほど、
彼女の看病をするでしょうか。
(略)
私は、男たちが普通の人類で、女性たちが天使だと言っているのではありません。
私は人類としての女性に焦点を当てて、彼女たちの特別の資質について述べてきただけです。
言いたいことは次のことです。
人々の素朴さや無知を利用する人々は、まぎれもなく人間の顔をした悪魔です。
そして人々の犠牲的感情を利用(搾取)してだます人々は、
悪魔よりもさらに悪いものです。
自由は闘いを通じて獲得されます。
誰も皿に載せて自由を運んできてはくれません。
なぜなら、自由は贈り物ではないからです。
それは生まれながらの権利です。
今日、女性が失ってしまった権利に関する
(少なくとも世界のほとんどの国々でそう思えますが)
適切な社会心理的分析socio-psycho-analysisは、
本当は女性が自分たちの自由を失ったのではないことを示しています。
むしろ、彼女たちは信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねたのです。
これは明白な真実です。
私はある種の上流きどりの婦人を見た時、笑わざるをえませんでした。
彼女は教養あるふりを装って、
自分の子どもの世話を女中にまかせて、
夫に買ってもらった車で旅行してまわり、
会合に出席して、女性の自由について長いスピーチをするのです。
自由freedom, or libertyと気ままlicenseは同じものではないことを
常に思い起こさなくてはなりません。
女性の自由freedomの考えは良いことです。
しかし、気ままが、自由の名で助長されるべきではありません。
男性か女性のどちらかを気ままにさせるとGiving license短期間に社会構造を崩壊させることがありえます。
それゆえ、女性の自由をもっとも強く提唱している人々は、
この提案されている自由のとる形を注意深く考察しなくてはなりません。.
私たちがなんらかの単純な真実に認める時、
それを情緒によっておこなうべきではありません。
ヒューマニズムにもとづいた合理性rationalityのみを受け入れるべきです。
自然から生まれた子どもとして、
男性と同じだけ女性は光、空気、大地、水へのアクセス権をもつべきです。
実際、それは女性に権利を与えるgranting rights問題ではなく、
彼女たちの権利を認知する問題です。
しかしながら、もし、女性の権利の認知が情緒的に論じられたら、
大きな社会的災難をもたらすでしょう。」
(2)「女性は自分たちの運命を信じて男性の手にゆだねた」サーカー
上記のサーカーの女性についての言及を紹介した中に次の箇所がありました。
「今日、女性が失ってしまった権利に関する
適切な社会心理的分析socio-psycho-analysisは、
本当は女性が自分たちの自由を失ったのではないことを示しています。
むしろ、彼女たちは信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねたのです」
という部分がありました。
これは明白な真実です」
サーカーの巨視的人類史サイクル史観でみると
シュードラ(原始社会)→クシャトリア(古代)→ヴィプラ(中世)→ヴァイシャ(近現代)であり
近く世界規模でシュードラ(大衆)革命の展開が生じて、次の人類史サイクルがはじまります。
(私たちは、新しい人類文明を生み出す前夜にいるわけです)
この巨視的人類サイクルの中で前期クシャトリア社会は母系制でした。
そして後期クシャトリア社会は家父長制に変化してゆくわけです。
その時、「女性たちは男性を信じて自分たちの運命を男性の手にゆだねた」というわけです。
男性たちの悪意から女性たちを従属させたわけではありませんでした。
サーカーによれば、女性たちの地位の悪化は、
ヴィプラ時代に自分たちの指導権を維持したい悪意あるヴィプラ(知)が
自分たちの既得権益を守るために、
さまざまな女性差別のドグマをつくったことに由来すると論じています。
(3)「家父制は男と女の共同作品なのです」ウィルバー
ケン・ウィルバーは、このテーマではサーカーよりもマルクスを「含んで超える」形で論じています。
ウィルバーの場合、物的領域と知的心理的領域は対応して発展してゆくと見ており、自らの見方をマルクスの見方と重ねています。
そして女性が全体として男性に従属するようになった背景に生産力の発達を見ます。
女性の従属的地位への転化を鍬(くわ)農耕文化から鋤(すき)農耕文化にとってかわったことがあると見ています
「堀り棒や簡単な鍬(くわ)は妊娠した女で容易につかえます。・・・
こうした社会での食料の70%は女が生産したのです」。ケン・ウィルバー『万物の歴史』春秋社76ページ。
「こうした社会は、母中心社会であり・・・より『平等主義的』だった。
西洋でも東洋でも紀元前1万年前に始まっています」同書77ページ
「鋤(すき)の導入とともに、大規模な、文化における移行がはじまったのです。・・・」「ここで私たちは一時的にマルクスに触れるのです。
基本的生産力・・・この場合、鋤・・・の周りに組織化されはじめた社会的関係のゆえに、男たちは、政府、教育、宗教、政治という公的領域を支配しはじめたのです。
で女たちは、家族、炉辺、家庭という私的領域を支配したのです。
この区別はしばしば、男性による生産と女性による再生産(生殖)として言及されています。・・・
産業革命まで支配的な生産様式だったのです」同書82ページ
みなさんは、鍬(くわ)と鋤(すき)の違いがわかるでしょうか。
手にもって畑を耕すのがくわです。すきは牛にひっぱらせる道具です。
私は小学校の三年生のころ、田んぼで牛にすきをひっぱらせてもらったことがあります。
とても牛とすきをコントロールできなかったことを覚えています。
田舎のたんぼでは、どこの家でも女の人が牛にすきをひかせているところを見ることはありませんでした。
ウィルバーは重要な点をついていると思います。
(4)男性と女性は対等に協力しあう仲間
私が興味深く感じていることは
最初、女性の男性への隷属が゛男性たちの悪意(搾取的意図)からさ始まったわけではないと見ていることです。
「まず、事実上食料はいまやもっぱら男が生産するようになりました。
またそのために女性の労働力を「取り上げたり」「抑圧」したりしたのでもありません。
重い鋤起し作業は男性の仕事だと、男と女が一緒に決めたのです・・・
この『家父長制は、・・・厳しい環境に直面した男と女の共同作品なのです』
母系制から家父長制の社会に移行するにあたって、
女たちを従属させようという男たちの邪悪な意図があったのではなかった。
むしろ、男たちのやさしさがあり、男性と女性の共同の産物だった。
社会発展の段階がそれを必要としたというのです。
ここからは、男性と女性は協力しあう仲間という人間観がでてきます。
そして男女の役割分担自体を即差別だとする見方を克服できます。
(5)弁証法的視点(ホロン的視点)
ウィルバーは「進化の構造」を見る際に一貫して次のような弁証法的な見方をとっています。
「進化のあらゆる段階は、それ自体に固有の限界に達し、・・・
一種の混乱、混沌すら引き起し、そしてシステムは壊れるか(自己崩壊)、
またはより高次の秩序へと進化する(自己超越)ことによってこの混沌を免れる」同書79ページ、
すなわちある時代には適切であったものが、
時代の変化の中でそぐわなくなり、問題に直面し、
私たち人類はそれを「超えてゆく」ことを求められるわけです。
男女の役割分担もある時代に社会的必要性があって生まれ、
今やその役割分担の社会的存在根拠がなくなって
歴史はあらたな段階を迎えつつあるというわけです。
すなわち、鍬(くわ)という重い道具をつかう生産力段階は、男性優位の社会をもたらしたのだと
次のように論じます。
「男性と女性の両方を生物的な狭い役割に留めていたものは、進化のプロセスそれ自体であった。
そのプロセス自体が、つい最近まで生物圏に留まっていたのである。・・・・・
男女の特定の役割は、その当時には必要なことであったが、
今や、時代にそぐわなくなってきたのである。・・
男性と女性の間の生物的に差異化された役割を、
男性が女性に押しつけたものであると見ることは
同時に男性はまったくのブタであり、
女性はまったくのおバカさんであるということを意味する。・・・
男性と女性が特定の生物的な条件に直面して反応し、
しかもその条件がもはや決定的な要素でなくなったとしたら、
男性も女性もその特定の役割に捕らわれている状態から解放される必要である ということになる。・・・」ウィルバー『進化の構造1』春秋社239ページ
今、高校生の就職の企業からの求人票は男女別の求人は禁止されています。
男女雇用機会均等法によるものです。http://www2.mhlw.go.jp/topics/seido/josei/hourei/20000401-05.htm
実際に生徒につきそって、機械製造の工場にいってみると、コンピューター化されて
機械が重いものを持ち上げるようになっています。
旧来男性だけだった商品管理の職場にいっても女性たちが明るく働いていました。
まさしく生産力の発達によって、男性と女性も「特定の生物的な条件に」より、
「その特定の役割に捕らわれている」ことが必要ない時代に私たちはきているのです。
ウィルバーは弁証法を用いて見事に男性・女性論を論じていると思います。
来る社会変革、すなわち資本主義を克服し、
民主主義経済システムの地球惑星社会をめざす人類史的事業においても、
男性と女性は、同じ人類の仲間として対等に協力しながら進んでゆきましょう。
This article is that relation of men and women of words of P.R.Sarkar which was downed from god salanimrdam and study of Ken.Wilbur.
Both say that cause which became unequal relation was base on agreement of men and wemen.
I consciousness of human being is soul and same I consciousness reborn repeat both man and women.
Soul has no gender distinction.
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods