Christian - Marxist Dialogue, the Philippine Churches, & Progressive Social Change (video inspired by god of star)
創共協定のスピリット継承と中道の意味
This spirit become mainstream of coming age
1)
1974年に松本清張の仲介で故宮本顕治氏と池田大作氏が会談し、
創共協定を結んだ時、毎日新聞に二人の対談が連載されました。
「中道」の意味についての二人の考えが一致していた覚えがあります。
当時、公明党は、非自民、反共産の「中道」社公民路線をとっていました。
しかし、二人の会談では、中道とは、そのような右と左の真ん中という意味ではないということで一致していました。
しかし、当時の私は、では仏教でいう「中道」という意味がなんであるのか、 理解できませんでした。
2)
ここ8年間くらい朝晩、短時間瞑想(直観科学)しつつ、
サーカーやウィルバーを研究してみて、
中道の意味がわかりました。
中道とは、右へゆく道と左へゆく道の真ん中ではなく、
存在レベルを一段一段進化させる道です。
右でも左でもなく階段を下りてゆく、
あるいは上がってゆく三つ目の道なのです。
ウィルバーの「進化の構造」的な例えで言うと
宇宙の存在は、原子が出現し、分子が出現し、細胞が出現するというふうに
前者を「含んで超える」新たなより高次の存在レベルが出現してきました。
「中道」とは、水素原子と酸素原子のどっちがとういことではなく、
水分子という原子より高次の存在になる道です。
物質圏を「含んで超えて」生命世界が出現し、
生命圏を「含んで超えて」人間圏が出現しました。
そして人間世界を「含んで超えて」(スピリット=神)圏が登場します。
そして人間がより高次の存在に進むことが「中道」というわけです。
「サーカーと仏教・・・中道と八正道」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/buddhasarkar3.htm
の中に次のような説明を入れました。
「心が存在のより高い層に達することは、
「深み」とともに「抱擁する領域」が広がることです。
幼児期は、自分のことだけが視界に入り、
子ども時代には家族が視界に、
さらに自分の住む地域が視界に入り、
そして全人類、全生命、全存在が視界に入ります。
存在のすべてが「抱擁する領域」として自分の愛の枠内に入る時、
スピリチュアリティの極みに達しています。
だから、存在の層のより高みに達してゆく「中道」は
人間生命を最高の実現に導く道です」
(3)
私は、傑出した人物であるサーカーを読んでみて、
その弟子のレベルとは一つ一つの言葉に雲泥の差を感じます。
同じことは、イエス、ブッダ、マルクスの弟子たちにも言えると思います。
以前、レオニードさんとの議論で、
中世のキリスト教の蛮行にイエスは責任がないし、
マルクス主義者の蛮行にマルクスは責任がないし、
イスラム過激派の蛮行にムハンマンドに責任はないという趣旨を述べました。
たいてい祖にあたる人間は、高い存在レベルまで達しています。
しかし、いずれの賢者や聖者たちの弟子もその存在レベルまで達していません。
達していないから弟子なのです。
山の高い位置にある賢者が、その見える景色を語り、上り道を教えても、
低位置にあるものは言葉だけで解釈し、それをドグマにしてしまいます。
創共協定の宮本顕治、池田大作も、どちらも、こっぴどく悪人として世間で言われているけれども
聖者、賢者の部類ではないにしても、一定の存在の高みに達しているから、 あれだけの人々を引きつけたのではなかろうか。
しかし、共産党や創価学会は、宮本と池田の独裁組織ではありません。
弟子たちは、二人の指導者の高みには存在しませんから、
創共協定の真の意義を理解できず、
政治的な諸関係の中で消えていったのではないかと思います。
(http://critic2.exblog.jp/1606775/ このブログに創共協定の全文があり、 公明党から異論で消滅したとあります)
しかし、松本清張が宮本と池田を仲介して実現したこの「創共協定」の精神は、
無神論者、宗教者等々の「多様性における統一」の場である市民社会フォーラムのスピリットとして私たちが引き継いでゆくことのできるものだと思います。
創共協定の内容は
「相互の自主性を尊重し、互い理解を深める」
「創価学会は共産主義を敵視せず、共産党は信教の自由を守る」
「一切の誹謗中傷は行わない」
「核兵器の全廃とファシズムを防ぐために互いの立場で努力する」
市民社会フォーラムに無神論者(唯物論者)の人も、宗教者の人も、
幅広く参加し、その交流が広がる可能性があります。
したがって、この創共協定の精神は私たちが受け継いでゆかねばならないものです。
これは、新しい人類文明への道です。
この投稿はここまでです。
※ちょっとつけくわえますと
サーカーは、マルクス、レーニンを評価し、毛沢東だって最初はいい人だったいいますが
資本主義とともにソ連や中国を念頭に共産主義について徹底的に批判していました。
(しかも、ラビ・バトラの本によれば、サーカーは、西ベンガル共産党員の謀略で
殺人者にしたてあげられ、ガンジー政権のもとで七年近く獄中にあったとあります)
しかし、すでにソ連の共産主義も横暴をきわめた中国文革も、サーカーが予告したように
この地上から消えています。
次は、資本主義が消える番です。
サーカーの「進歩的社会主義(プラウト)」は時、人、場所に応じて具体化してゆきなさいといいます。
私は、創共協定のスピリットを受け継ぎ、市民社会フォーラムに結集しながら 反共主義に立たないで、資本主義を「超える」社会、あたらな存在レベルに達した社会をとともに追求できるのではないかと思っています。
This article is about agreement that leader of Japanese Communist Party and leader of Japanese religious political party promised cooperation of religion and communist.
Mitsuki argues that this spirit come alive as spirit of Social Forum movement.
Communism of Marx and Buddhism was downed to humankind by true god.
This spirit become mainstream of coming age.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)1974年に松本清張の仲介で故宮本顕治氏と池田大作氏が会談し、
創共協定を結んだ時、毎日新聞に二人の対談が連載されました。
「中道」の意味についての二人の考えが一致していた覚えがあります。
当時、公明党は、非自民、反共産の「中道」社公民路線をとっていました。
しかし、二人の会談では、中道とは、そのような右と左の真ん中という意味ではないということで一致していました。
しかし、当時の私は、では仏教でいう「中道」という意味がなんであるのか、 理解できませんでした。
2)
ここ8年間くらい朝晩、短時間瞑想(直観科学)しつつ、
サーカーやウィルバーを研究してみて、
中道の意味がわかりました。
中道とは、右へゆく道と左へゆく道の真ん中ではなく、
存在レベルを一段一段進化させる道です。
右でも左でもなく階段を下りてゆく、
あるいは上がってゆく三つ目の道なのです。
ウィルバーの「進化の構造」的な例えで言うと
宇宙の存在は、原子が出現し、分子が出現し、細胞が出現するというふうに
前者を「含んで超える」新たなより高次の存在レベルが出現してきました。
「中道」とは、水素原子と酸素原子のどっちがとういことではなく、
水分子という原子より高次の存在になる道です。
物質圏を「含んで超えて」生命世界が出現し、
生命圏を「含んで超えて」人間圏が出現しました。
そして人間世界を「含んで超えて」(スピリット=神)圏が登場します。
そして人間がより高次の存在に進むことが「中道」というわけです。
「サーカーと仏教・・・中道と八正道」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/buddhasarkar3.htm
の中に次のような説明を入れました。
「心が存在のより高い層に達することは、
「深み」とともに「抱擁する領域」が広がることです。
幼児期は、自分のことだけが視界に入り、
子ども時代には家族が視界に、
さらに自分の住む地域が視界に入り、
そして全人類、全生命、全存在が視界に入ります。
存在のすべてが「抱擁する領域」として自分の愛の枠内に入る時、
スピリチュアリティの極みに達しています。
だから、存在の層のより高みに達してゆく「中道」は
人間生命を最高の実現に導く道です」
(3)
私は、傑出した人物であるサーカーを読んでみて、
その弟子のレベルとは一つ一つの言葉に雲泥の差を感じます。
同じことは、イエス、ブッダ、マルクスの弟子たちにも言えると思います。
以前、レオニードさんとの議論で、
中世のキリスト教の蛮行にイエスは責任がないし、
マルクス主義者の蛮行にマルクスは責任がないし、
イスラム過激派の蛮行にムハンマンドに責任はないという趣旨を述べました。
たいてい祖にあたる人間は、高い存在レベルまで達しています。
しかし、いずれの賢者や聖者たちの弟子もその存在レベルまで達していません。
達していないから弟子なのです。
山の高い位置にある賢者が、その見える景色を語り、上り道を教えても、
低位置にあるものは言葉だけで解釈し、それをドグマにしてしまいます。
創共協定の宮本顕治、池田大作も、どちらも、こっぴどく悪人として世間で言われているけれども
聖者、賢者の部類ではないにしても、一定の存在の高みに達しているから、 あれだけの人々を引きつけたのではなかろうか。
しかし、共産党や創価学会は、宮本と池田の独裁組織ではありません。
弟子たちは、二人の指導者の高みには存在しませんから、
創共協定の真の意義を理解できず、
政治的な諸関係の中で消えていったのではないかと思います。
(http://critic2.exblog.jp/1606775/ このブログに創共協定の全文があり、 公明党から異論で消滅したとあります)
しかし、松本清張が宮本と池田を仲介して実現したこの「創共協定」の精神は、
無神論者、宗教者等々の「多様性における統一」の場である市民社会フォーラムのスピリットとして私たちが引き継いでゆくことのできるものだと思います。
創共協定の内容は
「相互の自主性を尊重し、互い理解を深める」
「創価学会は共産主義を敵視せず、共産党は信教の自由を守る」
「一切の誹謗中傷は行わない」
「核兵器の全廃とファシズムを防ぐために互いの立場で努力する」
市民社会フォーラムに無神論者(唯物論者)の人も、宗教者の人も、
幅広く参加し、その交流が広がる可能性があります。
したがって、この創共協定の精神は私たちが受け継いでゆかねばならないものです。
これは、新しい人類文明への道です。
この投稿はここまでです。
※ちょっとつけくわえますと
サーカーは、マルクス、レーニンを評価し、毛沢東だって最初はいい人だったいいますが
資本主義とともにソ連や中国を念頭に共産主義について徹底的に批判していました。
(しかも、ラビ・バトラの本によれば、サーカーは、西ベンガル共産党員の謀略で
殺人者にしたてあげられ、ガンジー政権のもとで七年近く獄中にあったとあります)
しかし、すでにソ連の共産主義も横暴をきわめた中国文革も、サーカーが予告したように
この地上から消えています。
次は、資本主義が消える番です。
サーカーの「進歩的社会主義(プラウト)」は時、人、場所に応じて具体化してゆきなさいといいます。
私は、創共協定のスピリットを受け継ぎ、市民社会フォーラムに結集しながら 反共主義に立たないで、資本主義を「超える」社会、あたらな存在レベルに達した社会をとともに追求できるのではないかと思っています。
This article is about agreement that leader of Japanese Communist Party and leader of Japanese religious political party promised cooperation of religion and communist.
Mitsuki argues that this spirit come alive as spirit of Social Forum movement.
Communism of Marx and Buddhism was downed to humankind by true god.
This spirit become mainstream of coming age.
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods