Ernesto Cortazar - Somewhere Over The Rainbow  (video inspired by god of star)



9 このスポーツについての論文は身体と心と魂を統一的に観ることに成功しています
This article about sports succeed to see in unity body, mind and soul

This article thinks comprehensively about sports not only aspects of human body as well as psychological aspects and soul.
Human body is from evolved monkey and soul and mind is from divided I consciousness of god, so it needs to see in unity body, mind and soul.
This article about sports succeed to see in unity body, mind and soul.

この論文は,スポーツについて人間の身体の側面だけでなく心理的側面,魂的側面も入れて総合的に考察しています。
人間の身体は進化した猿からのものですが神の私意識を分けて魂と心をつくったので身体と心と魂を統一的にとらえることが必要です。
みつきのこのスポーツについての論文は身体と心と魂を統一的に観ることに成功しています。



はじめに

次のような質問をいただきました。
「体育とスポーツの違いについて学んでいます。体育とは教育の領域であり スポーツはいろいろと楽しみや健康といったものであるということでした。そこで『人間にとってスポーツとは何か?』
という疑問がでてきました。
どう考えますか?」

そこで私は、
「なるほど、体育は教育の領域で、スポーツは、楽しみと健康ですか。
『人間にとってスポーツとは何か』について、いつも紹介しているサルカールの考えで、さっと思いついたことを書きます。」

[1]人間存在の三領域と心の二つの流れの方向

サルカールが直接的に体育やスポーツについて語っているわけではありませんが、興味深いことを言っていました。
まず、理解の前提として、身体と心と魂の三つの領域が交差するところに人間存在があると考えてください。
身体を構成する物質は、私たちの心の存在以前にもありますし、それ以前にもあります。
魂(アートマン=個体意識)は、サルカールによれば、私たちの心とともにありますが、生まれる前にも生まれる後にも無くならずにつづきます。
私たちの心は、魂と物的身体が出会ったところから出発します。

さて、心の流れには二方向あります。
一つの方向は身体⇒心⇒魂で、もう一つは、心から身体です。
通常の座学、すなわち机に座って学習する学問、すぐれた本をよんで感動し、実際の行動に生かす場合は、心⇒身体の流れです。

[2]楽しみとしてのスポーツ

身体⇒心の流れは、身体に影響することで、心と魂の前進の方向をめざすことです。
たとえば、適切なバランスのとれた食べ物は心に好影響を及ぼします。
あるいは、頭をがっくりと前に垂らしている姿勢では、心が暗くなります。
つまり姿勢も心に影響を及ぼします。胸を上にそらしてストレッチすると心は明るくなります。
ストレッチをして身体のホルモン分泌のバランスがとれるからです。
これは、身体⇒心という流れです。
多くのスポーツは、適度な運動をすることで、身体⇒心の流れをつくり、心をさわやかにする効果があるとおもいます。
スポーツが「楽しみと健康」というのはそこから来ているとおもいます。

[3]教育としてのスポーツ

次に教育としてのスポーツの意義について考えてみましょう。
大皿5枚、中皿2枚、小皿3枚が、皿の上に皿という形で積み重なっているとしましょう。
大皿が身体で、中皿が心で、小皿が魂です。
大皿3枚と中皿1枚だけで生きているのが動物です。
つまり中皿一枚の心は、食べ物である獲物を得るために、敵に襲われないようにするために、絶えず、外界である物的世界を見ています。
人間は、中皿の二枚目があります。二枚目の中皿とは、ものごとを深く考えたり、記憶したりします。
そして魂の小皿の部分とは、深い善悪の判断などがそこから由来するところです。
大皿の身体の部分がバランスがとれていてこそ、中皿、小皿のバランスもとれて、高く積み重なることができます。
つまり、人間として高い生き方ができます。
身体を動かすことは、大皿の部分のバランスに重要な役割を果たします。

以上は、教育としての体育の側面ですが、決して教育だけでなく人生においても意義がある見方だとおもいます。
柔道、剣道は、その名のように、「道」すなわち精神性=スピリチュアリティの追求を含んでいます。
さっきの例でいうと、大皿の部分での勝敗を追求しながら、同時に中皿、小皿の部分も鍛えることをその理念としています。
柔道や剣道にかぎらず、どのスポーツにしても、最先端の優勝をあらそっているような部分では、心の集中力が、つまり大皿(身体)だけでなく、中皿(心)と小皿(魂)の部分も、同時的に重要な役割を果たします。
どのスポーツも、すなわち新体操のような美しさを争うような競技においても、心の集中力を必要とするでしょう。

[4]競技選手のスポーツ

以上のような論だと、スポーツが気楽に楽しめるものではなく、道学的なイメージに聞こえるとおもいます。
気をつけないといけないのは、競技スポーツは、一つ間違えると、つまり本当は「自分に打ち勝つ」ことが目的であり、それなくしては成長できないのに、「相手に勝つ」意識にとらわれがちです。
「勝つ」ことだけにこだわると、自分を「束縛」してしまい、自分の成長を阻害することになってしまうことです。
自分が運動能力か高いことで、自分は「すごいんだ」と傲慢な気持ちをもってしまうことです。
そうするとスボーツの中で自分が堕落してしまいます。
有名選手やかつて金メダルに輝いたような人がその後、みじめな人生をおくっていたような場合があります。

「勝つこと」「優勝」は一時的な幸せで、その反作用があります。
永続的な幸せは、「勝つこと」「優勝」の喜びを超えたところにあります。
その「超えたところ」に自らをおけた優勝者はすばらしいとおもいます。
超えたところに置かないかぎり「喜びの反作用」が生じると思います。
(私が体験しているわけではなく、サルカールの論を適用するとそうなるとおもいます)

[5]スポーツの起源

スポーツの起源は様々です。
相撲は、モンゴルから東へ朝鮮半島、日本、西に向かってはトルコ、おそらくアルタイ語族の起源となったグループに広がっています。
日本には弥生人としてわたってきた人々ですが、神々に捧げる意味で試合をしたことが始まりかもしれません。
古代のギリシャのポリス間競技である古代オリンピックもギリシャの神々に捧げる神前試合の一種と推測します。

剣道や長刀、フェンシングといった武士や騎士の戦いからのちにスポーツに転じたものもあったとおもいます。

スキーやゴルフなどのように、もともとあった遊びや実用を金持ちの道楽としてスポーツ化したものもあります。
(これら、いろんなスポーツの起源については実証的な研究が必要です。ここでは思いついたことだけあげました)

[6]近代スポーツとナショナリズム

起源は様々であっても、近代国家の成立とともに近代スポーツが確立してきたとおもいます。
近代は、国民国家が領土をめぐって争いあう時代でした。
軍隊として組織するために頑健な国民を育てなくてはなりません。
また戦争にそなえ、集団訓練と国民意識(国防意識)を強化しようと指導者たちは人々を指導しました。
このような政治的社会的なニーズと近代スポーツの発展は切り離せないのではないかと推測します。

[7]ナショナリズムを超えるスポーツマン精神を

スポーツマン・シップは、本来、狭い国家主義、民族主義、すなわちナショナリズムの枠を超えて、友好を育む可能性を一方でもっています。
高いスピリチュアリティの達成は偏狭なナショナリズムと無縁だからです。
しかし、同時に、人々の心に根強く、サルカールが言うところのジェオ・センチメント(自分の地域偏愛感情)があります。
学問的にはエスノセントリズムといいます。
民族主義的な(悪魔的)知識人が、スポーツの闘いを自国の国民意識の高揚のために利用しようとます。
たとえば、自分の民族はこんなに優れていると。そしてサッカーなどではすでに各国で過激な右翼的暴力が発生しています。
そこまで至らなくても、スポーツをナショナリズムに利用できる側面があります。
スポーツにかかわるスピリチュアリストのめざすべきは、人類は一つだという意識です。
私たちは、スポーツは国際間の友好と連帯にこそ活用されるべきであって、民族意識高揚に利用させてはなりません。

[8]人間の四つのタイプとスポーツマン

サルカールは人間のメンタリティのタイプとして四つあげます
。物的身体的限界を超えることに生きがいを感じるクシャトリア(戦士)のメンタリティ、
知的な可能性を追求し、知的影響力を広げることに生きがいを感じるヴィプラ(知識人)のメンタリティ
、財の生産、交換などや蓄財に生きがいを感じるヴァイシャ(商人、資本家)のメンタリティ、
普通に毎日の暮らしにおわれているシュードラ(一般大衆、労働者)のメンタリティです。
自分の身体的限界を広げることに生きがいを感じているスポーツマンは、クシャトリア・メンタリティの持ち主です。
サルカールの言うこの四つは人間の心のメンタリティの分類であり、インドのカースト制度とは関係ありません。
サルカールはカーストの撤廃を強く主張しています)

[9]社会サイクル論とスポーツマン

サルカールの社会サイクル論によれば、社会のリーダーは、クシャトリア⇒ヴィプラ⇒ヴァイシャ⇒(シュードラ革命)⇒クシャトリア⇒というふうにまわってゆきます。
現代は、国際的にみて、資本主義社会、すなわちヴァイシャ・メンタリティの持ち主が社会をリードしている時代です。
大資本家の財力のもとに優れた学者もスポーツマンも屈して、迎合している時代です。
一方に富が過剰に蓄積し、他方でお金が一般大衆のところをまわらなくなり、豊かな社会なのに社会不安が増大している社会です。
一般大衆がより地位を向上させるためには、経済的に貧富の二極化が進む中で、経済的に転落し、一般大衆の立場に近づいた、ヴィプラとクシャトリアのメンタリティをもったものが、その誇りを失わず、一般大衆(労働者)とともに立ち上がり、民営化の名のもとに隠れて進む大資本家の無限な蓄財に制限をかけ、一般大衆の購買力を強化することで経済のバランスをとりもどす闘いを率いなくてはなりません。
クシャトリア・メンタリティをもったものが財力に迎合するのをやめて、労働者とともに進むことが必要な時代になってきています。

同じ趣旨をもう一度、繰り返します。
現在は、政治を動かしているバックにヴァイシャ(経団連とかの大企業の団体など)が存在しています。
そしてクシャトリアとヴィプラは、そのヴァイシャの僕とし活躍しています。
そしてそのような傑出したクシャトリアとヴィプラに、一般大衆シュードラは、批判力がないので、追随しています。
国際的にみて、ヴァイシャがいくらでも富を集中できるように、さらに進んでいます。
これまでにある程度機能していた富の過剰蓄積に対する制限が、自由化、民営化のもとに撤廃されて、ヴァイシャが自由に無限に富を蓄積できる体制になって、それがひどくなっています。
ヴァイシャの無限の富蓄積に対して社会的に制約を課す闘いが現在の世界史的課題になっています。
現代のクシャトリア・メンタリティの持ち主が、ヴァイシャへの迎合をやめて、社会サイクルの前進のために立ち上がるスピリチュアリストになることが求められている時代です。

傑出したスポーツマンたちのメンタリティはクシャトリアです。
(クシャトリアは、危険を省みず宇宙にでてゆく宇宙船の飛行士やあるいは政治闘争にかかわる人々や様々な人がいますから、スポーツマンだけではありません)
、今日、もともとオリンピックの精神であったアマチュア精神が放棄され、露骨な商業主義、すなわちスポーツの商業利用がはげしてくなっています。
これは、クシャトリアがヴァイシャの配下に下ることです。
クシャトリアは、その身体的な能力によって、一般大衆の心をつかむ力をもっています。
その誇り高きクシャトリアが直接にヴァイシャの財力に迎合しているのではありません。
身体の鍛練に時間をついやすクシャトリアは、どうしてもヴィプラ(知識人)の頭脳の力に服してしまいます。
そしてその今日のヴィプラはヴァイシャの財力の力に奉仕しているのです。
したがって、直接的にクシャトリアがヴァイシャの財力に服しているのではなく、ヴァイシャの僕となっているヴィプラ(知識人)を媒介としてクシャトリアもヴァイシャの財力の僕となってしまうのです。

しかし、この世の富にはかぎりがあります。
一方でヴァイシャのもとへの富の過剰蓄積が進むことは、他方で人類の中に困窮している人々を生み出していることです。
今日、不況や派遣労働などの労働者の無権利状態の問題の根源は、ヴァイシャの無際限の富蓄積への社会的制約をかけることに成功していないからです。
あるいは、今のイラクへのアメリカのやりかたのような他国に対する不公正、非道な取り扱いがあることも、背後にヴァイシャの富への欲望があります。
心あるヴィプラとクシャトリアは目覚め、財力と地位に迎合しなくなるでしょう。
(今の状態はどんどん迎合せざるをえない方向にもってゆかれていますが)
すぐれたクシャトリアメンタリティをもっているスポーツマンの中にも、商業主義、ヴァイシャへの迎合をしている状況を是としない心ある人々が登場してくるでしょう。
(ただ、身体を鍛えることに時間を費やすクシャトリアには単純な人が多く、容易にナショナリストのヴィプラにだまされるので、事態は簡単には進まないでしょうが)

[10]まとめ

もともと、ヨーガってなんかオウムのイメージで気持ちわるいというのが私にはありました。
しかし、最近、サルカールの研究するにつれて、競争的な心理をもたずに、身体のバランスをととのえる意味で、ヨーガ、太極拳、ストレッチ体操、あるいはリズム感ある人にはダンス、ラジオ体操も、などの争わずに、身体をリラックスさせるスポーツの普及が一般庶民にとってはとても大切なのではないかと思うようになりました。

もちろん、クシャトリア・メンタリティをもった特別に強い肉体と運動神経の持ち主が闘争的な競技スポーツをやることも、すでに述べたようにスピリチュアリティの領域まで成長させる可能性をもっており、意義があります。
しかし、一般庶民にとっては、争わず、バランスをととのえ、リラックス効果をもつスポーツが大事だとおもいます。

人間の存在は三層、物的身体的領域、知的精神的領域、スピリチュアルな領域が交差したところにあります。
物的身体的領域のバランスを整えるためにヨーガのストレッチがあります。
食べ物がなくても、戦争で生命が危なくても、物的身体的領域のバランスが崩れます。
お腹がとても空いている時、生命が危ない時には、スピリチュアリティの前進はありえず、スピリチュアリティの至福に浸ることは不可能です。

サルカールは60億人全員の物的身体的領域でのバランスを整える意味で、今日の資本主義社会のシステムの変革の必要性を進歩的活用理論(プラウト)で語ります。
人類60億人すべての人に最小限の衣食住と医療と教育が保障される世界をめざさなくてはなりません。
そのためにともに闘うことをスポーツマン・シップの精神で闘っている人々に訴えるものです。








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