Loreena McKennitt- The Mystics Dream   (video inspired by god of star)



5 ,みつきのスピリチュアル哲学の探求の集大成
culmination of quest of spiritual philosophy of Mitsuki

This article is culmination of quest of spiritual philosophy of Mitsuki.
This view is fundamental criticism of materialistic views of current people believing generally in world.
Project of Heaven and gods call to deepen this mitsuki's writing as learning text.

この論文は,みつきのスピリチュアル哲学の探求の集大成です。
現在世界で一般的に人々に信じられている物質主義的な見方への根本的な批判となっています。
天と神々のプロジェクトはこのみつきの文章を学習会のテキストとして深めることを呼びかけます。

はじめに・・・・三つの領域の知り方

「人間は、物質・身体、知と心、そしてスピリット(魂)の三つからなりたっています。
物質・身体は、観察や実験によって知ってゆきます。
知と心は、観察や実験による外から見ることはできます。
話をして心の中で何を考えているかを知らなくてはなりません。
本に書かれていることは、読まなくてはなりません。
本が紙でできていることは外からわかりますが、インキで何が書かれているかは読まないとわからないわけです。
これが知と心の世界の知り方です。

もう、一つ、スピリット(魂)があります。
それは観察してもみえません。
対話や読むことでもできません。
目をとじて穏やかな透き通った心をつくった時、心のいちばん奥がみえてきます。
心の外の世界も美しくみえてきます。

以上、人間は三つの領域からなりたっています。
そして人間は個人であり、かつ個人では生きてゆきません。
一人の人間が高まるためにはみんながたかまってゆかなければなりません」

このように私の考えを説明しました。
三つの領域が個人と集団としてありますから、三領域六象限です。
三領域六象限の統合的したアプローチが必要です。

(ケン・ウィルバーは、心の内と外の二領域を設定し、四象限としていますが、ほぼ同じものです。
ウィルバーの四象限の方が一般社会に通用します)

1) 三つの「目」について

(ア)現代を支配している物質主義的な見方

 「先生が先程私に送ってくださったメールに、『知と心は、話をして何を考えているかを知らなくてはなりません。
本に書かれていることは、読まなくてはなりません。
本が紙でできていることは外からわかりますが、インキで何が書かれているかは読まないとわからないわけです。
これが知と心の世界の知り方です』
と書かれていたのですが、どういう意味でしょうか」
という質問をいだだきました。
そこで次のように答えました。

これは、アメリカのケン・ウィルバーという人の説の立場で、科学的な認識について説明したものです。
この世界の現実(リアリティ)として物的領域、知的心理的領域、スピリチュアルな領域を設定し、それぞれを探求する上で「肉の目」「知の目」「観想の目」があるということを詳しく説明します。

まず、物質からです。
厳密に哲学的な定義では言えば、心の外にあるものはすべて「物質」です。
経済活動も物質の生産と流通を扱っており、心の外に存在しますから、「物質」です。
もちろんお医者さんが扱っている人体は物質です。
物質は、「肉の目」で、実験や観察することによって認識を深めます。
望遠鏡や顕微鏡というのは、知によって作りましたが、「肉の目」の性能をアップさせるためのものです。
現在、「科学的」と言われているものは、この物質世界を外側から実験、観察して、データをとりだして、そこから推論してゆくアプローチのことをさしています。

江戸時代にもっとも知的権威をもっていたのは、儒学者でした。
平安時代にもっとも知的権威をもっていたのは、仏教の僧や陰陽道の人でした。
現代、もっとも知的権威をもっているのは、物質にかかわる「科学者」です。
先日、友人にさそわれて「養老孟司」という人の講演会にゆきました。
もと東大の先生でしかも解剖学という物質科学の先生なので、みんな「科学者」として尊敬します。
そして人生の師としての論まで彼にもとめます。
講演会の題は「今をどう生きるか」でした。
正直いって、解剖学以外の彼の人生論や哲学などは、きわめて短絡的で、そのへんのおっさんがしゃべっていることとかわりなかったです。
その人が元東大の物質についての科学者ということで、みんな信用しているのです。
彼は講演の中で、「人間の考えは変わります。一億玉砕と鬼畜米英と戦うといっていたのが、戦後、平和主義になった。このように人間の考えはがらりと変わります。
変わらないものをもとめました。
変わらないものとは普遍、不変です。
変わらないものとは物質です。
変わらないもの(普遍、不変)とは真理です。
死体は変わりません。
だから私は死体の解剖をやった。
私は変わらない普遍的真理をもとめたのです」
といっていました。
本当は養老氏の考えとは逆で、物質は変化します。
死体もすぐ腐りはじめます。
あくまで物質の研究は相対的真理の世界です。
決して物質は永久の真理ではありせん。
養老孟司は、解剖学者として、物質でできた人体を研究してきた人です。
しかし、彼の本がベストセラーになり、「いかに生きるか」というような講演会に呼ばれていることは、今日の人々は、物質についての「科学者」を人生の師として、権威として見ているこということです。

ここで、養老孟司についてだしたのは、彼を悪くいうためではなく、今日、物質に不変、普遍の絶対的真理を求めていると堂々と語る彼に多くの人がなびいていることです。
私の研究しているサルカールによれば、物質に永遠不変、普遍の真理を求めてゆくと、最後には人間は低下してしまいます。

物質は厳然としてあります。
したがって物質・身体とこの世の経済などについてしっかりとした認識をもつことはとても大切です。
しかし、物質世界は、リアリティ(現実)の一部分の真理、相対的真理にすぎません。
脳の神経細胞や分泌物は物質でできています。
ノルアドレナリンという怒りの時に分泌される物質は性能のいい顕微鏡で観察可能な分子の大きさです。
しかし、それが見えたからといって、その人に何に対して怒っているのかは、外側からはわかりません。
その人の心を知ることが必要です。
心には小さい心から大きい心までいろいろあります。
小さい心の人はささいなことに怒ったりします。
物質でできた身体を鍛えたりするスポーツやバランスをとったりするストレッチが必要なように、心も鍛えたり、バランスをとったりして、強くて、大きい心にしてゆくことができます。
知的心理的世界です。
物質主義的な見方の人ももちろん知的心理的世界の存在を認めます。

(ア) どのようにリアリティの三領域にアプローチするか

(肉の目)

このように、リアリティ(現実)には、心の外の世界(物質)と心の内側の世界(心)があることは誰も認めることです。
ケン・ウィルバーやサルカールによれば、もうひとつスピリットというリアリティの領域があります。
リアリティには計三つの領域があるのです。
「肉の目」「知の目」「観想の目」ということを紹介しました。
普通、私たちが見ているのは、「肉の目」と「知の目」です。
「観想の目」によってしか、三つの目のスピリットは認識できません。
しかし、心の外の世界(物質層)、心の内側の世界(心理層)を認識するさいに、鍛えられた「観想の目」はポジティブな役割をはたします。

「肉の目」とは、目、耳、鼻、舌、肌の五感をつかって、認識することです。
赤ちゃんが泣いたとしましょう。
耳で聴いて、泣き方で、腹がいたいのか、お腹が減っているのか、愛情をもとめているのかわかる人もいます。
赤ちゃんの顔が、赤くなっているのか、青白くなっているか、目による判断も必要です。
赤ちゃんうんちはくさくありません。
臭いがへんだと腸がおかしいのかもしれません。
直接赤ちゃんの状態を舌で確かめることはないかもしれませんが、飲ませるミルクの味をたしかめてへんなものが入っていないか見る必要もあります。
肌を触れて、赤ちゃんが愛情を感じて落ち着かせることも必要でしょう。

これらを実行することは五感による認識であり、「肉の目」です。
本能的に多くの母親はそうした智恵をもっているとおもいます。
私たちは「肉の目」を大切して、外から正確に観察して状況をつかむ力をもたなくはなりません。
友人が悲しそうな顔をしているな、今日は、何かあったのかもれないというのは、表情の観察でわかります。
これは「肉の目」です。

(知の目)

次の「知の目」は、しっかりとこのような「肉の目」を土台としているべきです。
「肉の目」に支えられて「知の目」があるべきです。
友だちが悲しそうな表情だと認識するのは「肉の目」です。
その把握の土台の上にたって、「知の目」を働かせなくてはなりません。
さりげなく話をすすめてゆくと、その友だちは、聞いてほしい心の中を友人のあなたに打ち明けてくるでしょう。
そして聞いてあげて、その人の心の中を「知る」ことだけで、あなたは友人の役にたちます。
心の中は、その人から直接聞くか、その人が手紙や日記に書いたものを読むことからしか知ることができません。
自分が人生論を深めていたら、より適切なアドバイスができるかもしれません。
それは「知の目」の性能をよくすることです。
「知の目」の性能をよくしてゆくと、友人だけでなく、この世の中でおきている様々のことをより深く理解できるようになるでしょう。
学校の英数国社理の勉強は、この「知の目」の性能を向上させることに役だつのです。

今、看護学校で勉強していることも、しっかり身につけて「知の目」を高めていることです。
実際に患者さんを前にした時、その「知の目」のレベルの高さが役だってきます。
さきほどの赤ん坊が泣いた時の対処、判断力も「知の目」のレベルが重要となってきます。
もし、病気の可能性があるなら、結局は、もっとも「知の目」のレベルの高いお医者さんに診てもらわなくてはなりません。
「知の目」が「肉の目」のレベルもアップすることをここで確認したいとおもいます。

(観想の目)

次は「観想の目」です。
「観想の目」とは、心の池の表面を穏やかにして波のない状態にしたものです。
それは毎日、目を閉じて心を静かにする練習をつづけるとそうなってきます。
肉体を鍛えるのに基礎練習といいますが、毎日、15分くらいの短時間の黙想で心を静かにする練習をつづけることで心をしだいに穏やかにすることができます。

心を池にたとえた方がわかりやすいので、「心の池」で観想の目を説明します。
「肉の目」「知の目」も、いずれも心で見ています。
しかし、その肝心の心が濁ったり、波立ったりしていては、「肉の目」「知の目」を曇らせます。

たとえば友だちと、あるいは家族とトラブルをおこして、自分の心の池が大きく波立っている時、表情を曇らせている友だちにあっても、その友だちの表情をあなたの「肉の目」はキャッチできないでしょう。
当然、「知の目」も働きません。
あるいは、自分が友人にひどいことをいってしまったと後悔している時に、美しい桜の花を見たとしても、ぼこぼこと沸き上がる後悔の泡立ちのために「心の池」の表面が波立って、美しい花は、心の奥に染みてこないでしょう。
ぼこぼこと沸き上がる心の底からのアワが、あるいは心の外側のトラブルが、心の表面を波立たせ、池を濁らせるならば、心の奥が見えないだけではなく、「肉の目」「知の目」も適切に機能できません。
「肉の目」も「知の目」も心が観察します。
その心自体が不適切な状態にあったら、「肉の目」「知の目」もレベル・ダウンするのです。

(観想の目と「粗大な心」の層と「精妙な心」の層)

サルカールによれば、心の池は、表面を「粗大な心」奥の方を「精妙な心」といいます。
「粗大な心」というのは、外界を見ている心です。
外界は形あるものです。心のその部分は花を見れば、花になり、すけべなことを考えればすけべな形になります。
目を閉じて、心を穏やかにして澄ませることとは、形をとった心の表面の部分を透き通った水にもどすことです。
(ここの部分はもう少し説明が必要ですが、長くなるので、簡単にしておきます)

パチンコに夢中で、車に残していたおいた赤ちゃんが熱で死んでしまったとか、ストーカーになってしまって、相手に迷惑をかけているのは、心の池の表面の形をとった部分が固まって、その部分を心の奥の「精妙な心」がコントロールできなくなっていることです。
「粗大な心」の部分が凍って固まった状態というのは、宗教のドグマに凝り固まっている人、年とって頭がこちこちになって固くなったおじさんをイメージすればわかります。
氷としてコチコチに固まっているとまわりと衝突します。
目を閉じて、黙想するとは、このコチコチに固まった部分を溶かすことです。

宗教同士の対立も、このコチコチになった「粗大な心」の部分を超えて、心のより深い部分に向かうことで、乗り越えてゆくことを模索しなくはなりません。

以上、心の池が濁ったり、波立ったり、あるいはドグマで固まっているならば、「肉の目」「知の目」も適切に機能しないこということを否定的な例でみてきました。

(観想の目とは、人生がより輝いてみえる目)

「観想の目」とは、黙想して、心の池を静かに澄みきらせる練習を毎日して、「澄みきった心、集中した心」で物事を見ることです。
その時、桜の花はより美しく、空の色も目に染みます。
そして赤ん坊が泣いている微妙な違いを感じることができるようになります。
当然、友だちのちょっとした表情も目に入ります。
美しい静かな音楽演奏会にいったとして、「黙想の目」すなわち澄みきった心の池をつくることに成功したならば、それまでよりもいっそう美しく聞こえるでしょう。
波立った心はロックのような激しい音楽しか味わうことができないでしょう。
激しく波立つロックが若者に流行るのは、若者の心の波は激しいから、精妙な音色はひびかないのです。

「観想の目」とは、スピリチュアルな目であり、人生がよりいっそう輝いて見える目です。

「肉の目」の土台の上に「知の目」が、そして「知の目」の土台の上に「観想の目」がなりたちます。
また逆に「観想の目」が「知の目」を強め、それらが見落としていたものを見えるようにします。
その結果「肉の目」の性能もアップします。

(三つの目のバランスをもった発達が必要)

この三つの目は、「肉の目」の上に「知の目」が、その上に「観想の目」が載っている形ですが、それを横にして、それぞれの領域のバランスのとれた発達が大切になります。
「肉の目」だけが発達して、「知の目」と「観想の目」が発達していてないと、怖い人間が生まれます。
「肉の目」だけで見ている人は、人間の身体をした動物ですから怖いです。
「知の目」「観想の目」でしか見ることができないものを何も見ていません。
教育は「肉の目」しかない人間ではなく、「知の目」もあわせもった人間を育てる作業です。
教育が必要なのはそのためです。
そして「知の目」だけが発達しても頭でっかちでとんちんかんな判断をするでしょう。
「肉の目」と「知の目」しかない人は、原子爆弾をつくったり、兵器をつくったりする工場につとめても、その意味を理解できません。
極端に進むと知的好奇心のために、生体実験までした7・3・1部隊のお医者さんのようになります。
そして「観想の目」すなわちスピリチュアルな目だけが、ほかの領域よりも発達すると、現実から浮いた生き方をする人なります。
スピチュアリストの集団はそのすべてが知的判断力を鍛えません。
その知的判断力の低下のために、容易に上に立つ人にひきまわされる人になるでしょう。
オウムの信徒はそのよい例です。最初とても知的レベルの高いお医者さんが、知的判断力を低下させ、殺人者にまでなりさがりました。
そのお医者さんは「観想の目」を高めようとして、その「知の目」を狂わせてしまいました。
私たちは、スピリチュアルな成長だけをめざすスピリチュアリストの集団を警戒しなくてはなりません。
三つの目のバランスをもった発達が必要なのです。

2)「壁」論

以上の「三つの目」を前提として、次のテーマにうつります。
次のようにメールをいただきました。
論点を明確にするために、番号を入れさせてもらいます。

「① 私は専門学校に入学してから専門学校の教員に〇〇さんは人と接する際に相手の話から相手がどのような感情で何を思っているかを知る事(感じとる)が出来ていないと指摘をいただきました。
②指摘をいただくまで人と話をしていて相手の事を自分は分かっている、理解出来ていると思っていましたしかし理解できていないとご指摘をいただいたので、では、どうすれば相手の心を知る事が出来るのかと考えました。
しかし分かりませんでした。
③教員からのご指摘内容には、私は自分の心に壁を作っているから人と接する際に相手の気持ちを知る事ができていないのではないかとのご指摘もいただきました。
ご指摘をいただいてから自分を見つめ、自分について知ろうとしましたが自分についてよく分からなくなりました。
また、自分が人と話している時に必然的に心に壁を作っているという指摘から壁はどうして出来てしまったかについても考えましたがやはりよく分かりませんでした。
自分を見つめてみて、ここまで自分の事が分からない事に悲しくなりました。
どうすれば自分を知る事が出来るのでしょうか・・・」

① 「相手の話から相手がどのような感情で何を思っているかを知る事(感じとる)が出来ていない」

これは気にしないでいいとおもいます。
これができたら神様です。
努力目標として意味があるとおもいます。
さきほど、説明してきた「肉の目」「知の目」をこれからも高めてゆくとともに「観想の目」を高めることです。
つまり、友だちのおもいや感情を感じとる力量のアップは、単に肉の目でもなく、知の目でもなく、三つ目の直観の目、黙想の目だからです。

② 「相手の事を自分は分かっている、理解出来ていると思っていました。
しかし理解できていないとご指摘をいただいたので、では、どうすれば相手の心を知る事が出来るのかと考えました」

1) これは成長・発達の一段階の出来事です。
成長・発達は、物的身体的領域、知的心理的領域とスピリチュアルな領域があります。
この「人との相互理解」の発達ラインは、心理的領域とスピリチュアルな領域にまたがっています。
ここでおっしゃっている発達ラインは、心と心を共有化する能力と感情を感じ取る能力の発達です。
指摘してくれた先生もふくめて、すべての人が早い遅いはあってもそれぞれの段階をのぼってゆくのです。
たとえは、赤ん坊は、おそらく自分の身体しか理解できません。
幼児期には自分の心と感情しか理解できません。
少年期に友だちと心を共有化することができるようになるとおもいます。
心といっても表面的な段階です。
そして青年期に心の奥底まで共有化できる友人ができるでしょう。
いいたい一つは、あなたが、相手の話を理解し、感じるとることがまったくできていないわけではありません。
あなたがある発達段階にあるということです。
社会生活の中でこれからも発達してゆくということです。
だからそれほど気にすることはないということです。
発達は、今までの自分の限界に気づいて、それを問題として乗り越えようとするところからはじまります。
そういう意味では先生のアドバイスをきっかけに、さらに一歩、次のステップへの自分が発達をとげようとしていることだとおもいます。

2) 長い間、教師をやっていて、次第に話を理解し、感じとるという面で進歩があったかなとはおもいますが、しかし、そうおもっても、本当には生徒のことが理解できていない場合もあります。
相手の心を知る力、理解する力は、自然な自分の発達の流れにまかせたらいいのではないでしょうか。
これで相手の心を理解すること力がついたというような段階は永久にありません。
その時その時に、自分にとって最大限の努力ができていたらそれでいいとおもいます。
たとえば、私の教師生活で、今、感じることは、生徒のことがどれだけ理解できたか、生徒の感情が理解できたかよりも、生徒を愛する眼差し、あるいは信頼の眼差しをもっているかの方が大切だとおもいます。
愛というのは誤解を与える言葉ですが、「相手に与えよう」という気持ちで接することです。
与えるものとは、物質レベル、知的レベル、情のレベルがあるとおもいますが、それは相手と自分の置かれた状況によるとおもいます。
私の場合ですと、生徒にこの授業で何をあげることができるのか、です。
相談してきた生徒があるとすると、何をあげることができるのかです。
たぶん看護婦さんだったら、患者さんに何をあげることができるのかという気持ちをもって接することです。患者さんの体や心の痛みを減らす協力はできても、患者さんの心は安易に理解できたとおもわないほうがいいとおもいます。
生徒だって同じことで安易に他の人の心は理解できません。
理解しようという努力は必要ですが、根本に愛の眼差しのない理解はなんの役にもたちません。
愛とはスピリチュアリティ(精神性)のレベルの話です。
スピリチュアリティは毎日短時間、目を閉じて心の池を静かにする練習の中でアップします。
静かな心だと人の心の微妙な動きを察知することができます。
やさしくなります。
そのレッスンの方法は私たちの会でやっていますが、一人で自分だけでやることもできます。

3) その人をとりまく人間関係は様々です。
自分と波長があう人、あわない人、いろいろいます。
そして自分より目下の年下の人、目上の年下の人、仕事上の患者さん、上司、これから様々の人と適切な距離をとっていきてゆかなくてはなりません。
深く理解しあえる友は、一人でいいのではないでしょうか。
人の心がわかるというのは、その人と深くつきあわないとわかりません。
たくさんの人を深く理解できるわけがありません。
それぞれの人と適切な距離をとってつきあってゆくことが大切です。
自分の中で位置づけの低い人、波長のあわない人には、ついつい、先生から指摘されたように相手のことを理解しようとしていないことになりがちです。
ある程度やむをえませんが、最低限失礼のないようにはしなくてはなりません。
自分と距離の遠い相手は、別に深く理解してあげる姿勢をもたなくても気にしないでしょう。
自分が担当する患者さんとか、相手が自分の方に何かをもとめてよってきている人に対しては、誠実に理解しようとする努力が必要だとおもいます。
基本は愛の眼差しです。
天地万物、他の人々のおかげで自分がいきています。
たとえば、自分と波長のあわない人であっても、つきあう距離の遠い人であっても、その人たちを尊重するという気持ちを失わないならば、まったく問題ないとおもいます。

③ 「壁」についてです。
養老孟司が「ばかの壁」でベストセラーをだしてから「壁」という言葉がはやっています。
しかし、養老孟司の講演で彼の「私」のとらえ方をきいて、彼がまったくわかっていないことにきづきました。
安易に「壁」という言葉をつかう人がふえ、日本国中で、あなたのように「壁」という言葉に困惑させられている人が多いのだろうとおもいます。
さて、「壁」についてです。

1) 『壁』論

(ア) 「壁」は自分の個別性、自律性を維持するために、どうしても必要なものです。
むしろ、イメージとしては、壁の内側をひろげていって、最後にこの全宇宙を自分の「壁」の中にいれてしまうことを目標に生きよというのが私の研究しているサルカールの考えです。
まず、究極的には、そういうことですが、まず、私たちの人生を生きるにあたっては、しっかりとした個人として自律し、かつ他の人々に協力(連携)していきてゆかなくてはなりません。
実は、この宇宙の万物が、自分という中心をもち、他者と関係をもって生きています。
『壁』のない存在はありません。
『壁』を無くしたら時、その個体実体は崩壊してしまいます。
『壁』のない家をつくったら、泥棒や強盗が自由に出入りするではないですか。
『壁』は必要だから生まれたのです。
しかし、自分の心をさらに拡張しようとしてその『壁』がじゃまになるとき、もっとひろい心の敷地をつくって『壁』をずっと遠くにつくった方が快適です。 その時、壁は崩れます。
壁だけ遠くにつくっても、その分、内側に大きな建物をつくってゆかなくてはなりません。

(イ) すべての実体は中心をもち、引き合って、それぞれがつながりあっています。
そして重層的です。
たとえば、原子はまわっています。
電子が原子核のまわりをまわっています。
それが原子です。
多数の原子がまわりながら、その引力で組み合わさって分子ができます。
多数の分子が組み合わさって細胞が成立します。
多数の細胞が組み合わさって生物が成立します。
それぞれ中心をもち、引力をもってまわっています。
原子は一つの中心をもちます。
そして他の原子と引き合い、協力する力をもっています。
中心を維持する力がエイジェンシー(自律)です。
他の原子と引き合い、協力する力がコミニュオン(協同)です。
この大宇宙のすべての実体が、大は銀河から、小は原子、クォークにいたるまで、中心にひっぱって、個体を維持しようとする力と、他の実体とひきあって、連携する力をもっています。
すべては中心をもち、他者との関係(引力)をもちます。
人間についても同じです。
肉体のレベルで、心のレベルで、中心があり、自己を維持しようとしています。
そしてその中心から引力(魅力)を発しています。
すべての存在は中心をもって互いに引き合っています。
あなたも魅力をもって他者を引き付けているのです。

(ウ) 移殖手術で困るのは、肉体が「自分」を維持して、「他者」を排斥しようとするからです。
心もそうです。
「私」意識の底に生まれてから死ぬまで連続するアイデンティティを継続させる引力が働いて私が成立しています。
その中心がスピリット(魂)です。
もし、あなたが、あるタイプの他者に心を開かず、「壁」をつくっているとすれば、最初にその「壁」をつくった時点では、あなたの自立性(アイデンティティ)を維持するための必要な反応として「壁」ができたはずです。
たとえば、ある時、ひどい言い方をされて、その人に心をとざしておしだまったかもしれません。
「壁」をつくったのです。
その時は、心の自律性を維持するために必要な反応でした。
で、同じタイプの人にあなたが無意識のうちに心をひらかず「壁」をつくったのかもしれません。
いったい、その壁とは何であり、どうやって壁を壊したらいいのかについては長くなるので、ここではやめておきます。
サンスカーラ(反作用の潜在力)というものに関係します。
この「壁」が問題になる場合は、他者とのコミニュオン(協同、協力、連帯)の邪魔になる場合です。
この宇宙のすべての実体は、中心をもって自律し、他の実体と引力で引き合い、協力していますから、自分が自律した、自立した、自分で自分のことをちゃんとできる人間で、他の人と協力でき、困った人があれば、助けるやさしい人間であれば、なんの問題もないのです。

2) もう一つ、ドグマという『壁』について、いったいそれが何であるのか説明したいとおもいますが、直接、あなたの問題にかかわるわけではないので、ここでは触れるにとどめておきます。
つまり、イスラム教徒とキリスト教徒の間に壁あるとか宗教を信じきっている人となかなか心をかわよせることができないという壁の問題です。
このような宗教と宗教の間の壁の他に民族と民族の間の壁とか、様々に壁があります。
そういう壁をとっぱらおうと養老孟司がいった点は評価できます。
しかし、その壁をとっぱらうためには、物質が変わることのない普遍的真理だという養老孟司の反対の道を進まなくはなりません。
しかし、ここでは難しいのでやめておきます。

4) 他の人の間に自分で「壁」を築いてしまう。
あるいは他の人との間に「壁」を感じてしまう。
この壁をとっぱらう考え方を、むずかしい哲学の説明ではなく、理解の簡単なスピリチュアルな表現で説明したいとおもいます。
真空は別としてこの世の気体、液体、個体は、すべて原子からなっていますね。
私たちが目にしているもの、机、壁、パソコン、本、空、セミ、水、わたし、あなた、この世の気体、液体、個体からなるすべてのものは、原子が、レゴの組み立ておもちゃのように組み立てられてできます。
とても小さな性能のよい顕微鏡でしか観察できない原子がその引力を利用して組み立てられているのです。
すべてものは、小さな小さな微細なもの、精妙なもので組み立てられています。
顔の形、姿、形はちがっても私たちはみんな同じ材料で組み立てられています。
わたしが研究しているインド人のサルカールという人によれば、心も、もっと精妙なものから組み立てられています。
そしてもっとも精妙なレベルでは、私たちの材料は一つです。
分けることのできない一つの実体が無数に分化したものから組み立てられて、心、身体が成立しています。

身体が同じものからできているように、誰の心も同じものででてきます。
同じものからできていますが、心も身体も、形にあらわれたこの世にあるものはすべて一つ一つ異なります。
この世に無数に輝く星にひとつとして同じものはありません。
サルカールによれば、原子だって同じものはないそうです。
この世に出現しているものは無限の多様性なのです。
個性、個性といわなくても、すべての人が異なり、同じ人はいないのです。
その人が成長してゆくと自然に個性も豊かにでてくるのです。
顔つきが同じ人はこの世にいません。一卵性双生児だって、まったく同じわけではありません。
顔や身体が同じ人がいないように、心も誰一人同じ人はいません。
心は、「知(観念)の流れ」です。
流れている川はたくさんありますが、同じ川はありません。
流れ方も微妙に違います。
しかし、材料は同じ水です。
私たちの心は流れです。
私たちは、ひとつの水が、分かれて多様に流れているのです。
あなたの心の流れとわたしの心の流れは、同じひとつの流れが、分かれて、流れているにすぎないのです。
男と女は、形がやや異なる川を流れている流れです。
しかし、同じ水が分かれて流れているのです。
「壁」がないと、個別の川として成立しません。
人間が本当に自分の心から「壁」をとっぱらう時は、川が、海洋にそそぎこみ、個別性を失う時です。
太平洋も大西洋もみんなつながっています。
そして世界中の川は、そしてその川の支流も、結局はひとつにつながっているのです。
同じように、心「知(観念)の流れ」も結局は、ひとつにつながっているのです。
「壁」があるから、個別性がなりたち、わたしであり、あなたであることが成り立っています。
しかし、「壁」=個別性を失う時は、人間として最高の境地に達することです。
サルカールは、無限の意識(海洋)に融合するまで、自分の心を拡大してゆくことを人生の目標にしなさい。それを片時も忘れずに生きてゆきなさいといいます。
自分の心を広く深いものにしてゆくのです、
そして小さな壁をとっぱらって、天地万物、あらゆる人、あらゆる生命、あらゆる存在が自分の愛しい兄弟だという心境まで達しなさいといいます。

それを可能にするのは、スピチュアリティの実践、すなわち最初に述べた「観想の目」を豊かにすることです。
しかし、スピリチュアリティだけを追求してはだめです。
「肉の目」があって「知の目」があり、「知の目」があって「スピリチュアルな目=観想の目」が成立して、豊かな視界が自分の人生にひろがるのです。

「肉の目」の層、すなわち現実の世界の人間関係や身体、経済などとても大切です。
その上で「知の目」も大切です。
看護師を目ざしているあなたが、しっかり勉強してふさわしい「知の目」を鍛えておくことはとても大切です。
並行してスピリチュアルな目も発達させるならば、看護師になった時、患者の心は、自分の心になるでしょう。
なぜなら、あなたが右手で、左手がケガをしている患者さんならば、右手が左手を世話している時、自分を世話していると感じるでしょう。

相手を理解するとは、こまごまと相手のことを知ることではなく、このように相手と自分が一であると「感じることができる眼差し」をもつようになることだと思います。







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