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52 アメリカ軍の悪魔的所業の反作用としてイスラムテロリストが出現している
Islamic terrorists have emerged as reaction of demonic doings of United States Army 

This article is that Islamic terrorists have emerged as reaction of demonic doings of United States Army.
Analysis of Iran-Iraq war of Mitsuki makes understand accurately that policy of United States is intended to bring out hatred of Middle Eastern people.
Deterioration of situation of Middle East is brought by military economic policy of United States.

この論文は,アメリカ軍の悪魔的所業の反作用としてイスラムテロリストが出現している,です。
みつきのイラン・イラク戦争の分析は,アメリカの政策が中東の人々の憎しみを引き出すものであることを正確に解明している。
中東情勢の悪化は,アメリカの軍事経済政策がもたらしていることが理解できる。



http://auwa.sakura.ne.jp/wakusei1/1peace/articlepeace3.html 詳しくはこのページをご覧ください。
「イラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)とイラクの軍事大国化-誰が軍事大国化を促したか
この論文を短くしたものです。

1、1979年のイラン革命までのイラン・イラクの軍拡と大国化

一九七〇年代は、国際政治において
米ソの力の均衡をもとめる政策のもとに
核軍拡競争がはげしく争われた時代であった。
その米ソの力の均衡をもとめる政策は、
ペルシャ湾岸においてアメリカのおす王制イランと
ソ連のおすイラクの力の均衡にもとづく軍拡にあらわれていた。

それは同時に、イラン・イラク両国の地下の石油が
地上に兵器の蓄積となってあらわれる過程であり、
米ソ両大国の兵器産業の一層の肥大化の過程でもあった。

まず、一九七〇年代におけるイラン・イラクの対抗の状況をみてゆこう。

(1)アメリカによるイランの軍拡 
(中東の民族解放運動の弾圧の憲兵としての王制のイラン)

七〇年代、サウジアラビアとイランすなわちリヤド・テヘラン枢軸は、
イスラエルのテルアビブとともにアメリカの中東政策の拠点であった。
とりわけ、ペルシャ湾岸ではイランが
アメリカの目下の同盟者として中東の憲兵として育てられてきた。
アメリカの兵器で強化される王制イランの軍事力は、
国内の階級的抑圧、少数民族の抑圧とともに
アメリカ軍の指導のもとで中東諸国への軍事的干渉に向けられていた。

たとえば、ソ連と結ぶイラクに対して一九七二~七五年まで、
クルド人の居住区でイラン軍部隊が軍事活動を行っていた他、
七一年には、アラブ首長国連邦のアブ・ムーサ島など三島に軍隊を出して占領し
、一九七三年十二月から七六年末まで、
オマーンにオマーン解放民族戦線のゲリラ闘争の鎮圧のために軍隊を派遣し、
戦闘に参加し、七六年には南イエメン上空をとぶイラン空軍機が
南イエメンによって撃ち落とされている。

さらにイランはアメリカの代理の憲兵として中東の範囲を越えて
直接な軍隊派遣や武器援助を行っていた。
たとえば七二年には南ベトナムのチュー大統領支援のためにファントム・ジェット機を供与し、
七三年はバルチー民族解放戦線のパキスタン軍との戦闘に三〇機の武装ヘリコプターを派遣して
パキスタン政府を支援し、七七年にはザイールとソマリアに武器援助を行ったりしていた。

またイランは当時のソ連と核軍拡競争をつづけるアメリカにとって、
ソ連監視の前線基地として役立っていた。

たとえば、ソ連とペルシャ湾、インド洋監視のために
十一の地上駐屯地と六つの空輸隊を使用する監視システムを構築し、
監視には数百名のアメリカ人監視専門家があたっていた。
またイラン軍のF-一四戦闘機によるペルシャ湾の監視には直接アメリカ軍人も参加していた。

(イラン軍拡を助けたアメリカ  地下の石油が地上の兵器に)

七〇年代のイランの石油収入の増加はアメリカへの兵器の代金となっていった。
アメリカのイラン向け武器輸出額は年毎に増加し、
その結果、イランは七〇年の半ばに世界最大の武器輸入国となっている。

すなわちアメリカからの武器購入額は、六五年がゼロ、六七年三八八〇万ドル、
六九年九四八〇万ドル、七〇年一億二七七〇万ドル、七二年二億一四八〇万ドル、
七四年六億四八六〇万ドル、七六年一九億二四九〇万ドル、
七七年二四億二四七〇万ドルであった。
七八年の王制の危機のはじまる時点で武器契約は二〇〇億ドルに達していた。
(「第三世界の変革」巣山靖司著二〇六ページ)

アメリカ製の戦闘機で戦うイラン空軍
Iran Air Force attacks Iraq (Part 2)
http://www.youtube.com/watch?v=K2DP-euH2AE&feature=related 

(映画と思われますが、雰囲気わかります。
アメリカ製戦闘機でイラクのロシア製ミグ戦闘機と戦っています。)

(2)ソ連によるイラクの軍拡 

(ソ連とイラク)
アメリカがイランを自分の代理の中東の憲兵として育てていることに対して、
ソ連はイラクに目をつけた。
・・
イラクを失いたくないソ連は、イラク国内の共産党の弾圧には、
目をつむってイラクに強力な兵器を送り続けた。
T六二、T七二戦車数百輌、ミグ21、ミグ23ジェット戦闘機数十機、
多数のMI24ヘリコプター、多数のフロッグ7、スカッドBミサイルなどである。
ソ連のおかげでイラク軍は、七三年から八〇年にかけて、兵員数を二倍、すなわち一二個師団、
兵員一五万人にすることができた。

七五年頃からイラクは徐々にソ連一辺倒を脱して
西側から兵器を調達するようになっていくが、
ソ連は石油とひきかえにイラクに兵器を供与しつづけていた。

・・・
このように米ソが力の均衡を追求する政策のもとで
ペルシャ湾岸ではイラン、イラク両国の軍拡競争が進んでいた。
そのことは同時に国内の少数民族の抑圧と階級抑圧の過程でもあった
そのことを次のイラン・イラク国境紛争とイラン革命の中でみていきたい。
(略)

3、イラン・イラク戦争 

(1)イラクの侵攻 戦争の開始 
(イラクによるアルジェ協定の破棄 イラクのイラン侵略)
イラン革命勝利の翌年の一九八〇年九月一七日、
イラクのフセイン大統領はイラン側の国境侵犯を理由に
一方的にアルジェ協定の破棄を宣言した。
九月二二日から二四日にかけて、
イラクは、イランの空港、空軍施設10カ所や製油所などを爆撃すると同時に、
機甲・機械化・歩兵師団各二個を含む総勢五万人以上のイラク軍部隊を
イランの南部国境四カ所を踏み越えて、イラン領土へ侵入させた。

その上で、イラクはイランに対して・シャトル・アラブ川のイラク領有の承認、
・イラク内政への不干渉、
・イランが占領しているペルシャ湾の三島(大、小トンブ、アブ・ムーサ)を
アラブ首長国連邦に返すことを要求した。

(イラクの侵略の目的)
略・・・

(2)戦争の経過(1980年9月~1988年8月)
戦況の状況から、ごく簡単にイラン・イラク戦争の展開を見ておく。

[イラクのイランへの侵攻からイランの反撃の時期(八〇年九月~八二年六月)]
イラン領に侵攻したイラク軍は、快進撃を続けた。
ところが十一月のアバダン総攻撃の失敗以来、
イラン軍とイラク軍が対峙しあって、戦線は膠着状態となった。

iran-iraq war
http://www.youtube.com/watch?v=WuaxYPKvXQ0&translated=1 


八一年三月ころからイスラム革命の意気に燃えた革命防衛隊を中心とした反撃が成功しはじめ、
八二年五月には、シャトル・アラブ川に面したホラムシャフルを解放した。
Khoramshahr 1982 - Libertaed by Iran
http://www.youtube.com/watch?v=u2P0CIoyEBQ 


[イランの逆侵攻の時期(八二年七月~  )]
八二年七月一三日から、イラン軍はイラク南部の都市バスラへの攻撃を開始した。
さらに八二年十月には中部国境からのバクダッドへの攻撃を試みた。
八二年十一月にはイラク南部の沼沢地帯でイラク軍を奇襲攻撃し、成功した。
この時期から人口で三倍の利点をもつイランの優勢のもとに戦線が再び膠着した。

イラン軍の侵攻に対してイラクは八四年二月には毒ガス兵器を使っている。

[タンカー戦争への拡大の時期(八四年一月~ )]

八四年一月末、イラク空軍はイランの石油積出し港のカーグ島周辺のタンカーへ
エグゾセ・ミサイルを発射し、五隻を大破させた。
以後を五月をピークにイラクはイランに対して激しくタンカー攻撃をおこなった。

五月には、報復にイラン側がイラクを支援する
クウェートとサウジアラビアのタンカーをミサイルで攻撃した。
以後、イランもペルシャ湾で船舶の攻撃をおこなった。

[アメリカの軍事介入 イランを攻撃(八七年五月~ )]
八七年五月アメリカのフリゲート艦スタークが
イラク軍のミサイルを被弾し、死傷者をだした。
レーガン大統領はペルシャ湾のアメリカ中東艦隊に対して
「準臨戦体制」を発動し、事前通告なしに接近するイラン機とイラク機を攻撃してもよいとの許可をあたえた。

しかし、アメリカの攻撃はすべてイランになされ、
実質的にイラクを支援するものとなった。

八七年七月からアメリカ軍中東艦隊は
イラクを支援するクウェートのタンカー十一隻の
イラン軍の攻撃からの護衛を開始した。
八月八日にはアメリカ軍は、イラン機にミサイルを発射し、
九月二一日にはアメリカ軍ヘリコプターがイランの機雷敷設艇を捕獲して沈め、
さらに十月八日には、イラン高速艇など三隻を攻撃している。

八八年七月三日にはイラン航空の民間旅客機が、
アメリカ海軍のイージス艦「ビンセンズ」の対空ミサイルによって撃墜された。
乗員、乗客の二九〇人は全員死亡した。

[都市へのミサイル無差別爆撃合戦 (八八年二月~五月)]
八八年二月二九日から五月二六日までの間に
イラクは、約一八〇発のミサイルでイランの諸都市を攻撃した。
http://www.youtube.com/watch?v=-defJzVspjA&feature=related 

そのうちの一三三発がテヘランへなされている。
それに対してイランはバクダッドへの五七発をふくむ
イラクの諸都市へ七四発の地対地ミサイルで反撃している。
それまでにもミサイルや空襲による都市攻撃はあったが、
この時期、イラン・イラク戦争はミサイルによる都市爆撃合戦のピークとなった。
Iraqi Air Force Su-22 Shoot-Down During Iran-Iraq
http://www.youtube.com/watch?v=kglpmQ-OPNg&feature=related 

[イラクの反攻開始と再度のイラン侵攻 停戦 (一九八八年四月~八八年八月)]

アメリカの軍事圧力がイランに加えられている時期、
ミサイル合戦のもとでイラク軍は地上戦でイランに占領された
国境地帯をほとんど奪回しつつあった。
八八年四月には、イラク南部の軍事的経済的要衝であるファオ半島をイラク軍が奪い返し、
さらに五月にはバスラを、さらに六月にはマジヌーン島を奪回した。
イランはイラクの占領地を失った。この時もイラクは毒ガス兵器を使っている。

七月十八日、イラン政府は、即時停戦をもとめる国連決議の受諾を発表した。
イラクは、停戦をより有利に展開するために、
イランの停戦受諾後に、大攻勢をしかけてイラン領を占領し、多数の捕虜をとらえた。

デクレヤル国連事務総長の調停で、停戦実施日は、八月二〇日となり、
国連監視団の監視のもとで、八年間にわたってつづいた戦火がやんだ。

イランは八年間の戦死者が合計一二万三二二〇人、行方不明者六万〇七一一人、
民間人の死者が一万一〇〇〇人であったと発表した。
イラン・イラク双方の死傷者はあわせて約一〇〇万人にのぼると推定されている。
(「イラン・イラク戦争」鳥井順著)

イランの報告によれば、八一年一月から八八年三月までに
イラクはイランに対して二四二回、毒ガスを使用し、
その犠牲者は四万四〇〇〇人にのぼったという。

(3)アメリカとイラン・イラク戦争 

(アメリカのペルシャ湾の代理の憲兵であったパーレビー・シャー政権の崩壊)

アメリカは、「西側の利益」とりわけアメリカにとっての石油を守るため、
六九年のニクソン・ドクトリンにもとづき、
ペルシャ湾における代理の憲兵としてイラン軍拡を進め、
パーレビー独裁政権を支援してきた。
そのためイランの民衆が、怒りをもって
「アメリカ帝国主義に死を」のスローガンでたちあがった。
七九年二月の反米、反国王独裁のイラン革命で、
アメリカはペルシャ湾における最大の軍事的政治的拠点としての「代理の憲兵」を失った。

アメリカは、七八年末には、CIAのイラン問題専門家をイランへ増派したり、
「暴動」鎮圧用の催涙ガス弾などの警備機材をイランに空輸するなどし、
七九年一月から二月にはアメリカ第七艦隊の二つの空母機動隊を
東シナ海からインド洋、ペルシャ湾に出動させて、パーレビー独裁政権への支援体制をとった。

八〇年一月に、アメリカは、国連安保理事会に
パーレビー・シャーの身柄引渡し求めた人質事件を
口実に対イラン経済制裁を提案した。
ソ連の拒否権発動で成立しなかったが、
四月には、イランと断交し、イラン「制裁」措置を発表し、
日本と西ヨーロッパの同盟国に同調をよびかけた。
さらに四月二五日には、テヘランの人質の奪還作戦を強行し、失敗している。

(アメリカ軍が直接ペルシャ湾の憲兵へ カーター・ドクトリン)

七九年十二月末のソ連軍のアフガニスタン侵入という情勢もふまえて、
八〇年一月二三日にカーター大統領は
「ペルシャ湾を支配しようとするいかなる外部勢力の試みも
アメリカの基本的国家利益に対する攻撃であり、
こうした攻撃に対しては軍事力を含むあらゆる必要な手段によって反撃する」とのべた。

アメリカの代理の憲兵としてのイラン軍事力を強化し、
ペルシャ湾地域を支配するニクソン・ドクトリンの方法が破綻したもとでは、
もはや、アメリカがペルシャ湾に直接的に軍事力を展開するしか
方法がなかったことのあらわれが、このカーター・ドクトリンであった。

ペルシャ湾に大規模なアメリカ軍をおくるために緊急展開部隊(RDF)を設置した。
すなわち、危機の発生時には、第六艦隊、第七艦隊はもちろん、
アメリカ本土から戦略予備軍を空輸して、
二二万五〇〇〇人からの大部隊を緊急に動員するものである。
沖縄の在日米軍も中東の紛争に直接的にまきこまれる体制ができあがった。

また八二年頃にはサウジアラビアに巨大なアメリカ軍基地が完成していた。
ハーリッド・ミリタリー・シティとよばれる七万人の兵士を収容できるという冷暖房完備の巨大な地下基地で、
イラクの国境線に一つとヨルダンとの国境沿いに一つと北イェメンの国境沿いに一つの
計三つの基地が七〇年代から建設がはじめられていた。

アメリカは、イランなきあとサウジアラビアをペルシャ湾の拠点として
維持するとともに自ら直接的にペルシャ湾に出動できる体制をとったのである。
これがすでに述べた八七年からのアメリカ軍のイランに対する直接的武力行使となっていった。

(アメリカとイラク   イラクを支持してイラン制裁へ)

イラクは、反帝国主義をかかげるアラブ民族主義であり、
かつソ連に支援されてきた経緯があり、アメリカの敵国であった。

しかし、ペルシャ湾での権益維持を追求するアメリカにとって
反アメリカ、反王制の革命の立場で現状変革をなしとげた
イランの革命の破綻につながるイラクの侵攻は、
アメリカに有利な新たな情勢をきりひらくために望ましいことであった。

そのようなアメリカの立場から八二年にアメリカは
イラクをテロリズム支援国からはずした。
さらに八四年五月ころからイラクと秘密交渉を開始し、
十一月に六七年の第三次中東戦争以来断交していたイラクと十七年ぶりに正式に国交を回復した。

しかし、驚くべきことに、まさにこの八四年二月から
イラクは戦闘に毒ガスの使用を開始して、
その凶暴な本質をあらわしはじめており、
アメリカの対外政策の基準がどこにあるかを示していた。

以後、アメリカは、事実上、イラク支持の立場を貫いた。
最後にイラクが優勢のうちに戦争を終結させることができたのも、
アメリカのイランに対する軍事的圧力とイラン制裁のおかげであった。

アメリカは、七〇年代にイランを軍事大国化することで、
その相手のイラクの軍事大国化を促し、
八〇年代のイラン・イラク戦争でイラクを支援してきたことを考えれば、
今日の攻撃的なフセインの軍事大国イラクを作り上げた責任を免れることはできない。
(注、この文章を書いたのは1990年)

(アメリカの兵器をイラク、イランへ売却)
アメリカは、過剰生産になっていた兵器を、
第三国を通じるなどして、イラクにも売りつけていた。

(次の「イラク軍兵器の全容」の表を見ると
アメリカ製の装甲車や航空機やヘリコプターも多数、
イラク軍兵器の中に見える。
アメリカもやはりイラクに対する「死の商人」であった・・・
注、「表」は(略)

アメリカは、イラクと八四年に正式に国交回復する一方で、
八五、八六年に秘密裡に交戦中のイランに兵器を売却していた。
レバノンの人質の交換の秘密交渉で、
TOWミサイル二〇〇八発を七八五万ドルで、
ホーク・ミサイル二三五基分のスペア部品を八〇〇万ドルで売却した。
判明したものよりも多量の武器が八五年から八六年にイランに渡され、
武器の代金の一部がニカラグアの反政府ゲリラのコントラに渡されていた。
アメリカは、血を流している両交戦国に対する「死の商人」も演じていた。

(4)「死の商人」の国々とイラクの軍事大国化

次の表をみるとフランス、ソ連をはじめとする多数の国々が
地下の石油とひきかえにイラン・イラクへ兵器を売りつけていたことがわかる。
まさにこれらの諸国はイラン・イラク戦争にたかる「死の商人」たちであった。
これらの国々は、イラクのクウェート侵攻にいたるフセインの軍事大国イラクを育てた責任のある国々である。
(「中央公論」一九九〇年一一月号の168と169ページの表)

「イラク軍事力の全容」(省略)

(5)イラクへの武器供給国

(フランス  「死の商人」に徹するミッテラン社会党政権)

イラクのフセイン大統領は、イラン革命の直前から武器の買い付けを強化し、
フランスが新たにイラクの主な武器供給国として登場した。
この戦争で、フランスのミッテラン社会党政権とフランス軍事産業は、
石油とひきかえに兵器を売りつけるなりふりかまわぬ「死の商人」としてイラク軍を強化した。

七九年五月、フランスはAMX-三〇戦車を一〇〇〇輌、
ヘリコプター一〇〇機など、一〇〇~一二〇億フラン分をイラクに売却するかわりに、
年間五〇〇〇万トンの石油をイラクから供給されることになった。

さらに七九年七月、フランスが超現代兵器、
とくに航空機、原子炉も供与するかわりに
イラクは五年間、フランスの石油総需要の三分の一の供給することが約束された。

七九年末、ミラージュ二〇〇〇を二〇機、
ミサイル搭載のミラージュF1が二四機(既契約分)が売り渡された。

八〇年六月にはフランスは八〇年度分の石油を三〇〇〇万トンの供給のかわりに
ミラージュ二〇〇〇を四〇機購入する契約ができた。
すでにフランスは、イラク軍将兵一〇〇〇人をフランス国内で訓練していた。

さらにフランスは、イラン・イラク戦争の勃発後も引き続き、
イラクに対する主な兵器供給国であった。

八一年の戦争開始後も八四年までに約五〇億ドルに相当する武器をイラクに供給し、
八二年から八三年、フランスの武器輸出の四〇%はイラクがしめていた。 

八三年一月には、ミッテラン大統領はアジズ・イラク副首相と会談して、
イラク産石油の買いつけの拡大と武器の支払い条件の緩和を決定している。

八三年六月には、エグゾセ・ミサイル装備のエタンダール機の貸与協定を結び、
十月に五機がイラクへとびたった。
この時、フランス軍パイロット七人とダッソー社の技術者あわせて
、 計三〇名くらいがイラク軍に加わっている。
八五年にはこのエタンダール機は、フランス軍に戻ったが、
新たにミラージュF1戦闘機二四機と多数のミサイルをイラクに売却した。
この時も、軍事顧問、パイロット、技術者、整備士などをイラクに提供した。
(「イラン・イラク戦争」鳥井順著による)

(略)

(6)イランへの武器供給国  

イランは、リビア、シリア、および北朝鮮、中国、ブラジル、チェコなどから武器を仕入れている。
そのほかにイスラエル、南アフリカ連邦、台湾などからも手にいれていた。

イランが、最大の敵としていたイスラエルから兵器を入手していたことは驚くべきことである。
暴露されたイスラエルとイランの売買契約書によれば、
MGMフランス地対地ミサイル五〇基、一五五ミリ用タムペラー砲弾四〇発、
一五五ミリ用鉄甲弾三七三〇発、一五五ミリ用高炸薬ヘラプ砲弾四六四〇発、
一五五ミリ榴弾砲M-一〇七用砲弾四三〇〇発、
およびMIM-二三ホーク対空ミサイル六八基で、
総額一億三五八〇万ドル、代金支払いはイラン中央銀行となっていた。
八二年までにイランのバンダル・アッバース港に陸揚げされた。
この他に、戦車の部品をイランに供給しただけでなく、
総額六〇〇〇~一二〇〇〇万ドルの借款援助をおこなったと言われている。
(「イラク・イラン戦争」鳥井順著による)

米国の武器禁輸で、パーレビー王朝時代のアメリカ製の兵器で戦うイランにとっては、
武器の入手競争では完全にイラクに負けていた。
手に入れることのできた武器もソ連タイプの一時代古いものであった。

  したがってイランはイスラエルを絶対に認めない立場であったが、
当面の敵はイラクであり、イスラエルから武器が入るなら、
イラン軍は革命前からのアメリカ製の兵器を使っており、
イスラエルからアメリカ製の兵器を入手することがイラクと戦う上で絶対に必要であった。
イスラエルにとってはイラク・イラン両国とも敵であったが、
地理的にイラクが近く脅威でもあり、
イラクの圧倒的な勝利におわるより、両国の力が戦争で弱まることが利益であった。

しかし、全体として兵器購入においてはイランの方が不利であった。
とりわけ、八七年十月、アメリカは西側同盟国にイラン制裁のために全面的禁輸措置をうちだし、
そのためにイランは軍事物資が不足し、継戦能力を失っていった。


(この文章から、イラン革命によってアメリカは自分の目下の同盟者としての
中東の憲兵イランを失い、サウジアラビアに基地をもうけるとともに
日本の沖縄などの米軍基地が、直接の中東への出撃基地になってゆくことが
わかると思います。
そして中東でのアメリカの政策の基準は
その地域に平和と民主主義をもたらすことではなく
その逆のことやっていることがよくわかると思います。
独裁政権を石油の利益と兵器を売るために
支援してきました。
アメリカの指導者が、個人的にいい人であっても
アメリカが中東でやっていることは、「悪魔的」とでもいいうるもので
アメリカが中東から一刻も早く撤退することが
世界平和につながる道であると思われます。
悪魔的なアメリカの行状に対する反作用として
悪魔的なイスラムテロリストが出現してきたのであって
その逆ではありません。
私たちが日本にある沖縄などの米軍基地を考える時
このことは重要だと思います。)



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