"Messenger From God" | Remembering The Angelic Assembly That Watches Over Us (video inspired by god of star)
27 穏健なナショナリズムもナショナリズムであるかぎり真の神から遠ざかる
moderate nationalism is away from true god as long as nationalism
This article is that moderate nationalism is away from true god as long as nationalism.
True of god is universal consciousness entity overlapping on space-time.
Consciousness worshipping part as holy entity is away from god.
I consciousness away from god is in anguish after death.
この論文は,穏健なナショナリズムもナショナリズムであるかぎり真の神から遠ざかる,です。
真の神は時空に重なって時空をなりたたせている普遍的意識実体です。
部分を聖なる実体として崇める意識は神から遠ざかります。
神から遠ざかった私意識は死後苦悩の中にあります。
(私はナショナリズム論を深めることはとても意義があると
思っています。
一般の良識ある人びとは「穏健なナショナリズムは是」として
論じています。
私がサーカーにひかれたひとつは、彼がナショナリズムを超えて
無限大に人間の心を拡張させてゆきないと論じていることでした。
属性ゼロポイントの一なるものに属性が賦与されて
多なる世界があらわれている。
多なる世界をいろいろな立場から切り取って、
そこにアイデンティティを確立することは可能です。
それは有限の私です。
私たちがコスモスの属性ゼロポイントに自らを確立する時
全宇宙は私たちの体になります。
本当は私たちは、そういう存在であり
その究極の真理に目覚めてゆく人びとが
これからふえてゆくとみています。)
霊的天皇制ナショナリズム論の続きを
もう少し論じさせてもらいます。
(1)
大林さんによると伊勢白山道さんは
「霊的リーディングなどで、日本は伊勢神宮に
日本の総氏神である天照大神が実際に存在していて、
天皇や日本国民は伊勢神宮に参拝することにより守られる」
とかおっしゃっておられるそうなんですが、
もう少し、問題提起をさせてもらいたいと思います。
こうした立場からは、
学校教育で「君が代」すなわち天皇を賛美させる曲を
歌わせることは、とてもいいことだとなります。
大阪で橋下知事が「君が代起立強制条例」をつくり
自民党が、「君が代」起立を強制をつよめる運動方針をつくっている
背後にある思想潮流だと思います。
(2)
1868-1945年の体制は
大日本帝国憲法(1889年)の第三条の
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」に
象徴されます。
1945-20??年の体制は
日本国憲法(1,946年)の第11条の
「国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」に
象徴されます。
つまり、犯すことのできないものは、昔は天皇であり、
今は、国民の基本的人権(human right 人間の権利)なのです。
天皇中心思考のゆきつくことろは、天皇=国家ですから
当時の国が進めていた満州侵略への反対者は
「治安維持法」をつくって逮捕し,死刑にすることが
できるところまでいきつきました。
(2)
私たちは、伊勢さんのように天皇制に神聖さを賦与して
昔の天皇中心思考をひきだすべきでしょうか。
日本国憲法には次のようにあります。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
(ここには「国民」とありますが、ややこしくなるので
その論点はひかえますが)
ここでは、「自由および権利を不断の努力で、保持しよう」とあります。
そして「個人」として尊重され、「生命、自由及び幸福追求」の権利が
述べられています。
私たちは、未来に向けて、伊勢さんのように
わが「天皇と国家」に神聖さを賦与するより
すべての人類が「個人」として尊重され、
「生命、自由および幸福追求の権利」をもつ
すべての人類に神聖さが賦与された世界の探求へと
向かうべきではないでしょうか。
この日本国憲法のスピリットこそ継承すべきでは
ないでしょうか。
天皇以外の日本人も外国人も、貴賤をとわず
すべての人類に神聖さ賦与されるワンネス哲学は
人間の尊厳をもとめて立ち上がっている
世界のすべての心ある人びとを励ますと思います。
(3)
形質と属性をもった存在に聖なる資質をあたえる
二元論の非普遍的な神概念は、
全宇宙を含まず、特定のエリアだけを聖なるものと認識させます。
全人類を含まず、特定のグループだけを聖なるものと認識させます。
天皇や国家を至高のものとして認識した人からは
1945年以後すら
浅沼社会党委員長を殺して
「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後、
自殺した山口二矢が生まれ
あるいは、その後も
朝日新聞記者射殺、長崎市長射撃事件など
天皇制原理主義者のテロがおきています。
遠くは、1945年までも、たくさんのテロがありましたし、
日本人を公教育をつかって天皇制原理主義者に育て上げ
侵略戦争の兵士とし、アジア人数千万人を殺しました。
(侵略というのは、よその国を攻めて、占領していることです)
二元論の世界観、有限の存在に神聖なる資質を与えると
神聖さを与えられた自分たちの枠外の存在には
非道なことをしても平気な心性になるのだと思います。
(4)
たとえば、沖縄は、日本と中国に従っていたとはいえ
琉球王国という独立国でした。
日本の神道や天皇とはまったく違う
女性たちによるシャーマン的伝統があり
政治のトップの王も、その伝統にささえられていました。
伊勢神宮が日本国民を守るという時
まったく沖縄の人びとは視界にありません。
むしろ、天皇を崇拝する自グループ中心思考の人びとは
沖縄の人びとを守るどころか
悲惨な目にあわせ、不利益をこうむらせても
平気な心性を日本人の中に生み出したと思います。
琉球王国は明治政府が制圧して大日本帝国にくみこみました。
「日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、
日本の一県として廃藩置県を断行した。
即ち、軍隊と警官を派遣して琉球藩(琉球王国のこと)
の廃止を宣言し」(ウィクペディア)
その後、1944~45年には、沖縄は戦場になり
一般住民10万人も巻き添えになって
亡くなりました。
そのまま、米軍基地がつくられて、土地は奪われたまま
騒音や米兵犯罪被害の中にさらされながら
沖縄は今日まできています。
天皇神聖化の論では
有限であり、属性あるものに神聖さを賦与し
普遍的にすべての人類に同じように神聖さを賦与しないので
人びとの意識に、自分たちが所属する集団以外には
自分たちのために「がまんしてもらおう」
「犠牲になっておいてもらおう」という
意識を発生させるのだと思います。
(というか、視界に入らず、無視するのだと思います)
(5)
もちろん、日本国憲法の
「個人」の「生命、自由、および幸福追求の権利」を尊重する立場から
すると
当然、当然、天皇を神として崇拝することは自由です。
特定の神が日本を守っていると考え、論じることも
もちろん、思想信条の自由です。
しかし、私たちが考えなくてはならないことは
神=天皇=国家という図式は
1978年のイスラム革命から今日までつづく
神の国イランと同じ図式です。
政治と神が分離していないのです。
そこには多様なる神々が同等なものとして
尊重されていません。
有限の神を通じて無限の普遍的なる神を探求する
様々な潮流の人びとの実践の権利も
もちろん、人びとの自由と幸福追求の権利に
入ります。
しかし、国と神が結びつく時
真の言論の自由はなく
思想、信条の自由が尊重されません。
天皇制原理主義者の国と
イスラム原理主義者の国は
本質的に共通性があります。
宗教、信仰が政治と切り離されるときに
真の民主主義が前進します。
多様な意見をもつ市民が対等に交流し
団結するためには、
一部の信仰だけが
特別の優遇をされるべきではありません。
日本という国に天皇なる神の宗教を置くとき
すでに、他の思想潮流を排除しているのです。
「君が代起立強制」を条例までつくって実施する流れは、
こうした思想信条の自由への無神経さをもつものです。
人びとの自由への権利意識の弱さを
土台にして支持されていると思います。
聖なる天皇である「君」は、私的な信仰としての権利はありえませすが
公的な場で強制されることは、それ自体が、個々人の「自由の権利」を
おかしていると私は考えます。
(6)
すべての人類を聖なるものとして認識し、
「生命、自由、幸福追求の権利」が
全人類に保障される世界をめざすのが
いいと思います。
この考えはアメリカ独立宣言にトマス・ジェファーソンが
「創造主Creatorは、人間を平等につくった。
そして一人一人の人間に奪うことのできない権利を与えた。
それは生命、自由、および幸福追求の権利である」
と書いたところに起源があると思います。
私は、この創造主は、トマス・ジェファーソンの頭の中では
普遍的な神(ユニバーサル・スピリット)であったと思います。
最高主観Subjectが、個々の人間のsubjectであるから
すべての人間は本質的に平等に生命、自由、および幸福追求の
権利をもつのだと思います。
普遍的な神なのか、非普遍的な神なのか、
これはきわめて重要なテーマであり
普遍的な形、属性なき「神」概念の設定こそ、
人類社会の福利を前進させると考えます。
この普遍的な、ユニバーサルなスピリットを
継承して人類社会の未来をつくってゆこう。
そう私は訴えたいわけです。
(5)
キング牧師の有名I have a dreamの演説の最後に
「all of God's children=神の子どもたちすべて」とでてきます。
http://www.fuchu.or.jp/~okiomoya/i%20have%20a%20dream.htm
すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、
プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取って
あの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。
「ついに自由だ、ついに自由になれた。
全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。
ここでは、人種や宗教を超えて、すべてが神の子だといっています。
すなわち全人類が神の子だという立場です。
これはワンネス哲学と同じです。
コスモスの一部分である
天皇や日本国家に神性を与えるという
非普遍的なものの崇拝を広めるのではなく
天地万物すべてを崇拝し
全人類を平等に聖なるものとして認める
ユニバーサルなスピリットが、広がってゆき、
新しい時代へと世界を進歩させる深部の力になると
みています。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)True of god is universal consciousness entity overlapping on space-time.
Consciousness worshipping part as holy entity is away from god.
I consciousness away from god is in anguish after death.
この論文は,穏健なナショナリズムもナショナリズムであるかぎり真の神から遠ざかる,です。
真の神は時空に重なって時空をなりたたせている普遍的意識実体です。
部分を聖なる実体として崇める意識は神から遠ざかります。
神から遠ざかった私意識は死後苦悩の中にあります。
(私はナショナリズム論を深めることはとても意義があると
思っています。
一般の良識ある人びとは「穏健なナショナリズムは是」として
論じています。
私がサーカーにひかれたひとつは、彼がナショナリズムを超えて
無限大に人間の心を拡張させてゆきないと論じていることでした。
属性ゼロポイントの一なるものに属性が賦与されて
多なる世界があらわれている。
多なる世界をいろいろな立場から切り取って、
そこにアイデンティティを確立することは可能です。
それは有限の私です。
私たちがコスモスの属性ゼロポイントに自らを確立する時
全宇宙は私たちの体になります。
本当は私たちは、そういう存在であり
その究極の真理に目覚めてゆく人びとが
これからふえてゆくとみています。)
霊的天皇制ナショナリズム論の続きを
もう少し論じさせてもらいます。
(1)
大林さんによると伊勢白山道さんは
「霊的リーディングなどで、日本は伊勢神宮に
日本の総氏神である天照大神が実際に存在していて、
天皇や日本国民は伊勢神宮に参拝することにより守られる」
とかおっしゃっておられるそうなんですが、
もう少し、問題提起をさせてもらいたいと思います。
こうした立場からは、
学校教育で「君が代」すなわち天皇を賛美させる曲を
歌わせることは、とてもいいことだとなります。
大阪で橋下知事が「君が代起立強制条例」をつくり
自民党が、「君が代」起立を強制をつよめる運動方針をつくっている
背後にある思想潮流だと思います。
(2)
1868-1945年の体制は
大日本帝国憲法(1889年)の第三条の
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」に
象徴されます。
1945-20??年の体制は
日本国憲法(1,946年)の第11条の
「国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」に
象徴されます。
つまり、犯すことのできないものは、昔は天皇であり、
今は、国民の基本的人権(human right 人間の権利)なのです。
天皇中心思考のゆきつくことろは、天皇=国家ですから
当時の国が進めていた満州侵略への反対者は
「治安維持法」をつくって逮捕し,死刑にすることが
できるところまでいきつきました。
(2)
私たちは、伊勢さんのように天皇制に神聖さを賦与して
昔の天皇中心思考をひきだすべきでしょうか。
日本国憲法には次のようにあります。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
(ここには「国民」とありますが、ややこしくなるので
その論点はひかえますが)
ここでは、「自由および権利を不断の努力で、保持しよう」とあります。
そして「個人」として尊重され、「生命、自由及び幸福追求」の権利が
述べられています。
私たちは、未来に向けて、伊勢さんのように
わが「天皇と国家」に神聖さを賦与するより
すべての人類が「個人」として尊重され、
「生命、自由および幸福追求の権利」をもつ
すべての人類に神聖さが賦与された世界の探求へと
向かうべきではないでしょうか。
この日本国憲法のスピリットこそ継承すべきでは
ないでしょうか。
天皇以外の日本人も外国人も、貴賤をとわず
すべての人類に神聖さ賦与されるワンネス哲学は
人間の尊厳をもとめて立ち上がっている
世界のすべての心ある人びとを励ますと思います。
(3)
形質と属性をもった存在に聖なる資質をあたえる
二元論の非普遍的な神概念は、
全宇宙を含まず、特定のエリアだけを聖なるものと認識させます。
全人類を含まず、特定のグループだけを聖なるものと認識させます。
天皇や国家を至高のものとして認識した人からは
1945年以後すら
浅沼社会党委員長を殺して
「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後、
自殺した山口二矢が生まれ
あるいは、その後も
朝日新聞記者射殺、長崎市長射撃事件など
天皇制原理主義者のテロがおきています。
遠くは、1945年までも、たくさんのテロがありましたし、
日本人を公教育をつかって天皇制原理主義者に育て上げ
侵略戦争の兵士とし、アジア人数千万人を殺しました。
(侵略というのは、よその国を攻めて、占領していることです)
二元論の世界観、有限の存在に神聖なる資質を与えると
神聖さを与えられた自分たちの枠外の存在には
非道なことをしても平気な心性になるのだと思います。
(4)
たとえば、沖縄は、日本と中国に従っていたとはいえ
琉球王国という独立国でした。
日本の神道や天皇とはまったく違う
女性たちによるシャーマン的伝統があり
政治のトップの王も、その伝統にささえられていました。
伊勢神宮が日本国民を守るという時
まったく沖縄の人びとは視界にありません。
むしろ、天皇を崇拝する自グループ中心思考の人びとは
沖縄の人びとを守るどころか
悲惨な目にあわせ、不利益をこうむらせても
平気な心性を日本人の中に生み出したと思います。
琉球王国は明治政府が制圧して大日本帝国にくみこみました。
「日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、
日本の一県として廃藩置県を断行した。
即ち、軍隊と警官を派遣して琉球藩(琉球王国のこと)
の廃止を宣言し」(ウィクペディア)
その後、1944~45年には、沖縄は戦場になり
一般住民10万人も巻き添えになって
亡くなりました。
そのまま、米軍基地がつくられて、土地は奪われたまま
騒音や米兵犯罪被害の中にさらされながら
沖縄は今日まできています。
天皇神聖化の論では
有限であり、属性あるものに神聖さを賦与し
普遍的にすべての人類に同じように神聖さを賦与しないので
人びとの意識に、自分たちが所属する集団以外には
自分たちのために「がまんしてもらおう」
「犠牲になっておいてもらおう」という
意識を発生させるのだと思います。
(というか、視界に入らず、無視するのだと思います)
(5)
もちろん、日本国憲法の
「個人」の「生命、自由、および幸福追求の権利」を尊重する立場から
すると
当然、当然、天皇を神として崇拝することは自由です。
特定の神が日本を守っていると考え、論じることも
もちろん、思想信条の自由です。
しかし、私たちが考えなくてはならないことは
神=天皇=国家という図式は
1978年のイスラム革命から今日までつづく
神の国イランと同じ図式です。
政治と神が分離していないのです。
そこには多様なる神々が同等なものとして
尊重されていません。
有限の神を通じて無限の普遍的なる神を探求する
様々な潮流の人びとの実践の権利も
もちろん、人びとの自由と幸福追求の権利に
入ります。
しかし、国と神が結びつく時
真の言論の自由はなく
思想、信条の自由が尊重されません。
天皇制原理主義者の国と
イスラム原理主義者の国は
本質的に共通性があります。
宗教、信仰が政治と切り離されるときに
真の民主主義が前進します。
多様な意見をもつ市民が対等に交流し
団結するためには、
一部の信仰だけが
特別の優遇をされるべきではありません。
日本という国に天皇なる神の宗教を置くとき
すでに、他の思想潮流を排除しているのです。
「君が代起立強制」を条例までつくって実施する流れは、
こうした思想信条の自由への無神経さをもつものです。
人びとの自由への権利意識の弱さを
土台にして支持されていると思います。
聖なる天皇である「君」は、私的な信仰としての権利はありえませすが
公的な場で強制されることは、それ自体が、個々人の「自由の権利」を
おかしていると私は考えます。
(6)
すべての人類を聖なるものとして認識し、
「生命、自由、幸福追求の権利」が
全人類に保障される世界をめざすのが
いいと思います。
この考えはアメリカ独立宣言にトマス・ジェファーソンが
「創造主Creatorは、人間を平等につくった。
そして一人一人の人間に奪うことのできない権利を与えた。
それは生命、自由、および幸福追求の権利である」
と書いたところに起源があると思います。
私は、この創造主は、トマス・ジェファーソンの頭の中では
普遍的な神(ユニバーサル・スピリット)であったと思います。
最高主観Subjectが、個々の人間のsubjectであるから
すべての人間は本質的に平等に生命、自由、および幸福追求の
権利をもつのだと思います。
普遍的な神なのか、非普遍的な神なのか、
これはきわめて重要なテーマであり
普遍的な形、属性なき「神」概念の設定こそ、
人類社会の福利を前進させると考えます。
この普遍的な、ユニバーサルなスピリットを
継承して人類社会の未来をつくってゆこう。
そう私は訴えたいわけです。
(5)
キング牧師の有名I have a dreamの演説の最後に
「all of God's children=神の子どもたちすべて」とでてきます。
http://www.fuchu.or.jp/~okiomoya/i%20have%20a%20dream.htm
すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、
プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取って
あの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。
「ついに自由だ、ついに自由になれた。
全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。
ここでは、人種や宗教を超えて、すべてが神の子だといっています。
すなわち全人類が神の子だという立場です。
これはワンネス哲学と同じです。
コスモスの一部分である
天皇や日本国家に神性を与えるという
非普遍的なものの崇拝を広めるのではなく
天地万物すべてを崇拝し
全人類を平等に聖なるものとして認める
ユニバーサルなスピリットが、広がってゆき、
新しい時代へと世界を進歩させる深部の力になると
みています。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods