The Art and Culture of Kermanshah-Iran-09-25-2011 (video inspired by god of star)
23 イスラム以前、イスラム、イスラム以後の三層のホロンの正当な位置を与える全レベルアプローチが
イランについても必要とされている
all-level approach which is Islam earlier, Islam, Islam after is needed in understanding of Iran culture
This article is that all-level approach which is Islam earlier, Islam, Islam after is needed in understanding of Iran culture.
Approach that all holon layers are respected is important in all area of both presence and non-presence.
Mitsuki has holonic view about development of collective consciousness of Iranian society.
この論文は,イスラム以前、イスラム、イスラム以後の三層のホロンの正当な位置を与える全レベルアプローチが
イランについても必要とされている,です。
ホロン階層すべてが尊重されるアプローチは顕在,非顕在の全領域にわたって重要です。
ミツキは,イラン社会の集合意識の展開についてホロン的見方をしています。
(1)
アルコール論とイラン文化のつづきですが
イラン文化もホロン構造で見るべきだと思うのです。
古代ペルシャ文化があります。
それを含んでアラビア半島からの影響でイラン・イスラム文化が展開しました。
その二重の文化を内部に抱えながら西洋文明の影響を受けた近代イラン文化が登場しました。
しかし、西洋列強の手先となったシャーは、自己の支配を強化・安定させるために
古代ペルシャ文化と西洋文化を称揚し、イスラム文化をないがしろにしました。
モサディク政権の崩壊からホメイニー革命の時期は特にそういう性格をもった政権だったと思います。
その反作用として生じたホメイニー革命政権は、
イスラム以前のホロンとイスラム以後のホロンを抑圧しています。
イスラム以前、イスラム、イスラム以後の三層のホロンの
それぞれのホロンに正当な位置を与える全レベルアプローチが
ここでも必要とされていると思います。
その意味で、ハタミ大統領を支持した
テヘラン大学のアブドル・カリーム・ソロウシュのイスラム解釈は
重要であると考えます。
ソロウシュは、そもそも自分たちの文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反し、
他の文化に不寛容な人間を作ってしまうと考える。
自分たちの文化的ルーツを探ると、実際は単一の起源に向かう排他的なものではない。
日本の文化が自分たち独自のものとインド、中国、西洋起源の文化の後継者であるように、
イラン文化も異なった系列の文化の後継者であった。
「イラン人は三つの文化の後継者である。
前イスラムのペルシャ、イスラム、そして西洋である。
どれかが上にあるものではなく、
イラン人はこれら三つを調和させることを考えるべきである。」
このように事実を認識することによってイラン人は、
それらの文化的相違により寛容になることができると主張する。
(2)
そのためにはイスラム教という宗教の中心部分にあるスピリチュアリティ
(一者への道)も正当にぬきだす必要があります。
私は、ムハンマドは本当にヒラー山の洞窟での瞑想の中で
本当にパラマ・プルシャの声をきいたのだと思います。
イラン革命の時までテヘランで研究していたという井筒俊彦の
『イスラーム生誕』という本では
当時のアラビア半島は、血縁による部族統合の社会でしたから
部族間争いは血で血を洗うもので、一人がやられたらその何倍ものに人数を
仕返して殺すことが美徳とされた社会だったようです。
(今のイスラエルのガザ攻撃のようですね)
それをムハンマドは血縁原理を超えて、ワンネス哲学のもとに統合したのです。
すなわち神のもとに部族を超えて兄弟なのだというわけです。
つまり、パラマ・プルシャはムハンマドを通じてその当時のアラビア半島の統合のために
必要なメッセージを与えたのだと思います。
問題は、この世俗の世界は、時、場所、人の要素が変化するにもかかわらず
特定の時代のパラマ・プルシャのメッセージを宗教として
ドグマにして人々を拘束するものにしてしまったところに問題があると思います。
アルコール禁止は、ムハンマドがパラマ・プルシャの声を
聞くために必要なことだったと思います。
(これは、別に論じたいと思います)
普通の人間社会の生活にそれを持ち込み
ドグマとして禁止したことは宗教化による大きな間違いだったと思います。
〇〇さんによると井筒俊彦は、さらにイスラム教の深いレベルまで
研究を進めているそうです。
私はおそらく井筒俊彦は、私たちが探求しているスピリチュアリティ哲学を
イスラム文明圏にまですそ野を広げるのに役立つと見ています。
以下
参考資料です。
私は、ハタミを支持したテヘラン大学の
アブドル・カリーム・ソロウシュの視点に賛成します。
「アブドル・カリーム・ソロウシュ」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/personal/soroush1.htm
について長い論文を書いていますが
真ん中あたりから、ソロウシュのイスラム論を紹介しています。
ぜひ、研究してほしいです。
彼は、イスラム教を次のように解釈します。
上記の論文の中からいくつか引用しますので
ひまな時に目をとおしてみてください。
私は、このソロウシュの視点は、
サーカーの言っていることを解釈する時にも必要な視点を
述べていると思うのです。
「それは預言者の心に明らかにされた。
それはそのまましておかれるべきで、誰もそれを変えることは許されない。
同時に、経典の解釈がある。それは変わりうる。
解釈は(理論的)仮説なしにはありえず、仮説は時代の知識に拘束される。
時代の知識はいつも流動的である。」
したがって宗教は神聖であるが、宗教の解釈は人間の側に属することで、
変化するもので神聖ではないということになる。
「聖典はあなたに語らない。問いを発することによって、
それに語らせる。あなたが学識がある男の前にいるとしても、
あなたが彼に質問をしないなら、
彼は黙ったままである。あなたは彼の知識から利益を引き出せない。
もし、あなたが彼に問を発するならば,
あなたは、あなたこの質問のレベルに応じて、知識を引き出すだろう。
もし、質問が深められるならば、答えもまた深まったものであろう。
それゆえに解釈はわれわれの側に依存している。
・・・啓示は、われわれに直接に語ることによってその秘密を見せない。
我々は行って、そしてそれらを発掘して、そしてそこにある宝石を見いださなければならない。
われわれが宗教から得るすべては解釈である。・・・これらの解釈は歴史的であるから、
歴史性の要素がそこにある。・・・あなたは歴史にむかい、そこからコーランとハデースにいくべきである。」
「アイデンティティを排他的に追求することは、真理の探求をネグレクトさせてしまう。
それどころか、アイデンティティの探求者は、
ほとんど互いに相手を認める余地を持たないから、
究極のところ紛争状態にならざるをえない。
けれども、真実の探求者は、お互いを相互に必要とする。
このため互いを理解しあう。
明かりの光線のように真実は等質であり、
すべて同じ家族である。
アイデンティティの追求者は、不可避的に拡張主義者である。
ライバルの権利を認めることができない。
そして遅かれ早かれ、互いに闘争に巻き込まれてゆく。」
「真実のイスラムは、真実についてのみのイスラムの解釈である。
たといアイデンティティが結果としてつくられたとしても、
それは、その結果として生じたものである。
このイスラムはすべての種類のイスラムと調和する。
それはどんな民族や文化の利益のためにも使われない。
それは対話の扉を開いている。
そしてその信者はアイデンティティーの源としての実利のためにではなくその真実性のためにそれを求める。」
ソロウシュは、イスラムは民主主義と両立可能であるばかりでなく、
「それらの連携は避けられない。
イスラム社会では、民主主義のないイスラムは完全ではなく、
イスラムのない民主主義も完全ではない。」と主張する。
そしてイスラム民主主義の基礎として次の二つをあげる。
第一は、真の信仰のためには、それが自由意志にもとづくものでなくてはならないことである。
そのためには自由が保障されていなければならない。
「真の信仰者であるために、人は自由でなければならない。
圧力や強制を加えられて信仰するのは真の信仰ではないだろう。
そしてこの自由は民主主義の基礎である。」
だから、イスラムは国家によって押しつけることはできない。
理想的なイスラム国家は、大多数の国民の信仰と意志によって形づくられるべきで、
信者も非信者も含む多数によって選ばれたときのみ正当なものだと考える。
第二に聖典の解釈は変化するものであるから
宗教的複数主義を必要としていることである。
「聖典の解釈は常に変化の状態にある。
だから、誰も決して固定した解釈を与えることはできない。
誰もが解釈する資格がある。あるものは他のものより学識があるけれども、
だからといってその解釈も自動的により権威があるというものではない。」
すなわちウラマーであろうと政府であろうと公式の解釈を押しつけることはできず、民主主義が保障されてこそ経典解釈がより発展し、宗教理解が進むということである。
「宗教的イデオロギーの発想はそれを全体主義にする。
宗教の解釈は複数ありうるので宗教は公式の解釈者を必要としないのに、
イデオロギーは、解釈の公式の階層を必要とするからである。」
「公的な場所で女性の服装がすべて黒くなければならないということはイスラム(の教え)にはない。
私は以前、マレーシアで教えたことがあるが、ムスリムの女性は非常にカラフルな服装をしていた。
そして宗教指導者もそれに問題を感じていなかった。
イランで我々がもっているのは、一グループの悪い趣味である。」
[政治と宗教の分離の論点]
「世俗的社会が、世俗的法律のもとで適切に機能しているように、
宗教社会は当然、政府の宗教システムを必要とする。
それゆえ政教分離の論点は強制されるべきものではない。
もしこの分離が起こらざるをえないなら、当然それは起こるだろう。
宗教を熱烈にその心になお持っている社会に上から押しつけられることは解決ではない。
少なくともそのような押しつけは非民主的である。」
「ライセンス(解釈権)の拡大は支配階級としての ウラマーの考えと矛盾しませんか?
はい。啓示された聖典を解釈することができる人は誰でも学者alim である。
我々はウラマーが聖典を解釈するべきだと言うべきではない。
むしろ、誰が聖典を解釈するとしても、その能力がある人は学者である。」
さらに誰も特定の宗教解釈を押しつけることはできないという主張にとどまらず、
ソロウシュは、イスラムにおける聖職者の存在自体を否定する。
「もうひとつがイスラムには ウラマーの公式の階級がないということである。
牧師 clergyはウラマーと同義語ではない。
ウラマーの定義はそれより広い。
私が説明したように、啓示を解釈することができる人々をすべて含んでいる。」
「・・・しかしながら、神とその預言者の名前で自分たちを崇拝させるように導く集団が現れる。
彼らは、神とその創造物の間の覆いとなってしまった。
その集団が、神と預言者の名前ですべての権限を主張するとき、彼らは自由の剥奪者となる。」
ソロウシュも、強国が「基本的人権」を口実に他国に対して自らの文化を事実上押しつけることはには反対する。
「それ自身ポストモダニズムの産物である文化的相対主義の立場から
『いかなる社会も自分の権利と価値をもっている。
そしていかなる文化もその価値を他の社会に押しつける権利を持たない』
という議論がある。これは真実である。」
しかし、人権は、特定な文化に属するものではなく、
ある普遍な側面を持っていることも指摘されるべきで、
人権抑圧はいかなる文化をもつ社会であれ、肯定されるべきものではないと考える。
「人権の本質は、人間が、人間であるがゆえに、いかなる理由からも、
そしていかなる権力によっても奪われることのできない基本的な権利を
持っているということである。
誰も特定の信念を支持しているからいって
他の人たちに対してなんかの権利あるいは特権を得ることはできない。」
「・・・もっとも重要なことは、
人権が超宗教的思想であるということである。
それはどちらかというと自由意志の思想である。
我々が我々自身の主人公であるか、
それとも、ある決まったふうに行動するようにあらかじめて決定されているかどうかという問題である。
これはあなたが教義を通して答えることができる問題ではない。・・・
人権の思想は、宗教の外にあるものである。
なぜなら、それは、信念を前もって示すからである。特定な宗教に従うためには、
その選択を行使する自由があなたに開かれていなければならない。」
このようにソロウシュは、人権は宗教の教典からは引き出せない思想であり、
むしろ聖典を理解する前提条件として用いられるべきで、
理性で推論すべき問題だと考えている。
「自由には二つある。
内的自由と外的自由である。
内的な精神的自由については歴史を通じてに関わってきた。
たとえばモラビー(MOLAVI = RUMI)のような思想家詩人がそうである。
しかし彼は外的な政治的自由については論じなかった。
なぜなら、外的な闘争に携わることは、
内的精神的自由のための闘いをネグレクトすることになると考えたからである。・・・
東洋と西洋の思考の違いがここにある。
われわれは 外的自由をネグレクトし、現在に至っている。」
「ソロウシュは神とイスラムの理解を三つのタイプにカテゴライズした。
一つ目は、フェク(法)である。これは、神を法律を作り、
従わないものを罰し、従うものに報いる創造主とみなすものである。
神と宗教のこの理解は、大胆な改革・更新を必要としている。
もし改革しないなら、それは腐朽し、
人々にとってその意味を失った習慣になってしまうだろう。
これはもっとも一般的な神の理解である。」
「二つ目は、カラミー(言葉)で、これは神が
いかに完全にこの世界を創造したかの分析的理解である。
これは思想家、哲学者のイスラムであるが、
預言者はこのような理解を主張したわけではない。」
「三つ目は、ファルディー(個人)で、
これは神の理解への個人的な道である。
それは個人的体験を通じて宗教を認識する。
これは、神を愛するものの方法であり、スーフィーの神体験である。」として、
ソロウシュは、ルーミー(Jalaluddin Rumi)について高く評価する。
テレビ番組や講演でもルーミーについて数多く語り
、ルーミーについての著作も多い。
これは、イランの著名な歴史上の人物をあげることで
民衆に宗教の最小限理解を思い起こさせようという意図からであるものと思われる。
スーフィの倫理は、世俗=現世での生活よりも死後の世界での幸せを期待させた。
そして科学を死後の世界の幸福の達成にはなんの効果もないものと位置づけた。
「科学に対してわれわれの祖先が与えた低い地位は、 わが国の発展を遅らせる障害のひとつであった。
科学について、彼らはたいてい宗教的な科学を理解した。
科学者の社会の地位はかなりの部分神学者と宗教的な学者のそれより低かった。」
このようにこの世俗世界の科学は死後の生活の幸福の達成に効果がないとして
科学の位置を低く見る雰囲気が、社会の発展を妨げる一要素だったと言うのである。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Approach that all holon layers are respected is important in all area of both presence and non-presence.
Mitsuki has holonic view about development of collective consciousness of Iranian society.
この論文は,イスラム以前、イスラム、イスラム以後の三層のホロンの正当な位置を与える全レベルアプローチが
イランについても必要とされている,です。
ホロン階層すべてが尊重されるアプローチは顕在,非顕在の全領域にわたって重要です。
ミツキは,イラン社会の集合意識の展開についてホロン的見方をしています。
(1)
アルコール論とイラン文化のつづきですが
イラン文化もホロン構造で見るべきだと思うのです。
古代ペルシャ文化があります。
それを含んでアラビア半島からの影響でイラン・イスラム文化が展開しました。
その二重の文化を内部に抱えながら西洋文明の影響を受けた近代イラン文化が登場しました。
しかし、西洋列強の手先となったシャーは、自己の支配を強化・安定させるために
古代ペルシャ文化と西洋文化を称揚し、イスラム文化をないがしろにしました。
モサディク政権の崩壊からホメイニー革命の時期は特にそういう性格をもった政権だったと思います。
その反作用として生じたホメイニー革命政権は、
イスラム以前のホロンとイスラム以後のホロンを抑圧しています。
イスラム以前、イスラム、イスラム以後の三層のホロンの
それぞれのホロンに正当な位置を与える全レベルアプローチが
ここでも必要とされていると思います。
その意味で、ハタミ大統領を支持した
テヘラン大学のアブドル・カリーム・ソロウシュのイスラム解釈は
重要であると考えます。
ソロウシュは、そもそも自分たちの文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反し、
他の文化に不寛容な人間を作ってしまうと考える。
自分たちの文化的ルーツを探ると、実際は単一の起源に向かう排他的なものではない。
日本の文化が自分たち独自のものとインド、中国、西洋起源の文化の後継者であるように、
イラン文化も異なった系列の文化の後継者であった。
「イラン人は三つの文化の後継者である。
前イスラムのペルシャ、イスラム、そして西洋である。
どれかが上にあるものではなく、
イラン人はこれら三つを調和させることを考えるべきである。」
このように事実を認識することによってイラン人は、
それらの文化的相違により寛容になることができると主張する。
(2)
そのためにはイスラム教という宗教の中心部分にあるスピリチュアリティ
(一者への道)も正当にぬきだす必要があります。
私は、ムハンマドは本当にヒラー山の洞窟での瞑想の中で
本当にパラマ・プルシャの声をきいたのだと思います。
イラン革命の時までテヘランで研究していたという井筒俊彦の
『イスラーム生誕』という本では
当時のアラビア半島は、血縁による部族統合の社会でしたから
部族間争いは血で血を洗うもので、一人がやられたらその何倍ものに人数を
仕返して殺すことが美徳とされた社会だったようです。
(今のイスラエルのガザ攻撃のようですね)
それをムハンマドは血縁原理を超えて、ワンネス哲学のもとに統合したのです。
すなわち神のもとに部族を超えて兄弟なのだというわけです。
つまり、パラマ・プルシャはムハンマドを通じてその当時のアラビア半島の統合のために
必要なメッセージを与えたのだと思います。
問題は、この世俗の世界は、時、場所、人の要素が変化するにもかかわらず
特定の時代のパラマ・プルシャのメッセージを宗教として
ドグマにして人々を拘束するものにしてしまったところに問題があると思います。
アルコール禁止は、ムハンマドがパラマ・プルシャの声を
聞くために必要なことだったと思います。
(これは、別に論じたいと思います)
普通の人間社会の生活にそれを持ち込み
ドグマとして禁止したことは宗教化による大きな間違いだったと思います。
〇〇さんによると井筒俊彦は、さらにイスラム教の深いレベルまで
研究を進めているそうです。
私はおそらく井筒俊彦は、私たちが探求しているスピリチュアリティ哲学を
イスラム文明圏にまですそ野を広げるのに役立つと見ています。
以下
参考資料です。
私は、ハタミを支持したテヘラン大学の
アブドル・カリーム・ソロウシュの視点に賛成します。
「アブドル・カリーム・ソロウシュ」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/personal/soroush1.htm
について長い論文を書いていますが
真ん中あたりから、ソロウシュのイスラム論を紹介しています。
ぜひ、研究してほしいです。
彼は、イスラム教を次のように解釈します。
上記の論文の中からいくつか引用しますので
ひまな時に目をとおしてみてください。
私は、このソロウシュの視点は、
サーカーの言っていることを解釈する時にも必要な視点を
述べていると思うのです。
「それは預言者の心に明らかにされた。
それはそのまましておかれるべきで、誰もそれを変えることは許されない。
同時に、経典の解釈がある。それは変わりうる。
解釈は(理論的)仮説なしにはありえず、仮説は時代の知識に拘束される。
時代の知識はいつも流動的である。」
したがって宗教は神聖であるが、宗教の解釈は人間の側に属することで、
変化するもので神聖ではないということになる。
「聖典はあなたに語らない。問いを発することによって、
それに語らせる。あなたが学識がある男の前にいるとしても、
あなたが彼に質問をしないなら、
彼は黙ったままである。あなたは彼の知識から利益を引き出せない。
もし、あなたが彼に問を発するならば,
あなたは、あなたこの質問のレベルに応じて、知識を引き出すだろう。
もし、質問が深められるならば、答えもまた深まったものであろう。
それゆえに解釈はわれわれの側に依存している。
・・・啓示は、われわれに直接に語ることによってその秘密を見せない。
我々は行って、そしてそれらを発掘して、そしてそこにある宝石を見いださなければならない。
われわれが宗教から得るすべては解釈である。・・・これらの解釈は歴史的であるから、
歴史性の要素がそこにある。・・・あなたは歴史にむかい、そこからコーランとハデースにいくべきである。」
「アイデンティティを排他的に追求することは、真理の探求をネグレクトさせてしまう。
それどころか、アイデンティティの探求者は、
ほとんど互いに相手を認める余地を持たないから、
究極のところ紛争状態にならざるをえない。
けれども、真実の探求者は、お互いを相互に必要とする。
このため互いを理解しあう。
明かりの光線のように真実は等質であり、
すべて同じ家族である。
アイデンティティの追求者は、不可避的に拡張主義者である。
ライバルの権利を認めることができない。
そして遅かれ早かれ、互いに闘争に巻き込まれてゆく。」
「真実のイスラムは、真実についてのみのイスラムの解釈である。
たといアイデンティティが結果としてつくられたとしても、
それは、その結果として生じたものである。
このイスラムはすべての種類のイスラムと調和する。
それはどんな民族や文化の利益のためにも使われない。
それは対話の扉を開いている。
そしてその信者はアイデンティティーの源としての実利のためにではなくその真実性のためにそれを求める。」
ソロウシュは、イスラムは民主主義と両立可能であるばかりでなく、
「それらの連携は避けられない。
イスラム社会では、民主主義のないイスラムは完全ではなく、
イスラムのない民主主義も完全ではない。」と主張する。
そしてイスラム民主主義の基礎として次の二つをあげる。
第一は、真の信仰のためには、それが自由意志にもとづくものでなくてはならないことである。
そのためには自由が保障されていなければならない。
「真の信仰者であるために、人は自由でなければならない。
圧力や強制を加えられて信仰するのは真の信仰ではないだろう。
そしてこの自由は民主主義の基礎である。」
だから、イスラムは国家によって押しつけることはできない。
理想的なイスラム国家は、大多数の国民の信仰と意志によって形づくられるべきで、
信者も非信者も含む多数によって選ばれたときのみ正当なものだと考える。
第二に聖典の解釈は変化するものであるから
宗教的複数主義を必要としていることである。
「聖典の解釈は常に変化の状態にある。
だから、誰も決して固定した解釈を与えることはできない。
誰もが解釈する資格がある。あるものは他のものより学識があるけれども、
だからといってその解釈も自動的により権威があるというものではない。」
すなわちウラマーであろうと政府であろうと公式の解釈を押しつけることはできず、民主主義が保障されてこそ経典解釈がより発展し、宗教理解が進むということである。
「宗教的イデオロギーの発想はそれを全体主義にする。
宗教の解釈は複数ありうるので宗教は公式の解釈者を必要としないのに、
イデオロギーは、解釈の公式の階層を必要とするからである。」
「公的な場所で女性の服装がすべて黒くなければならないということはイスラム(の教え)にはない。
私は以前、マレーシアで教えたことがあるが、ムスリムの女性は非常にカラフルな服装をしていた。
そして宗教指導者もそれに問題を感じていなかった。
イランで我々がもっているのは、一グループの悪い趣味である。」
[政治と宗教の分離の論点]
「世俗的社会が、世俗的法律のもとで適切に機能しているように、
宗教社会は当然、政府の宗教システムを必要とする。
それゆえ政教分離の論点は強制されるべきものではない。
もしこの分離が起こらざるをえないなら、当然それは起こるだろう。
宗教を熱烈にその心になお持っている社会に上から押しつけられることは解決ではない。
少なくともそのような押しつけは非民主的である。」
「ライセンス(解釈権)の拡大は支配階級としての ウラマーの考えと矛盾しませんか?
はい。啓示された聖典を解釈することができる人は誰でも学者alim である。
我々はウラマーが聖典を解釈するべきだと言うべきではない。
むしろ、誰が聖典を解釈するとしても、その能力がある人は学者である。」
さらに誰も特定の宗教解釈を押しつけることはできないという主張にとどまらず、
ソロウシュは、イスラムにおける聖職者の存在自体を否定する。
「もうひとつがイスラムには ウラマーの公式の階級がないということである。
牧師 clergyはウラマーと同義語ではない。
ウラマーの定義はそれより広い。
私が説明したように、啓示を解釈することができる人々をすべて含んでいる。」
「・・・しかしながら、神とその預言者の名前で自分たちを崇拝させるように導く集団が現れる。
彼らは、神とその創造物の間の覆いとなってしまった。
その集団が、神と預言者の名前ですべての権限を主張するとき、彼らは自由の剥奪者となる。」
ソロウシュも、強国が「基本的人権」を口実に他国に対して自らの文化を事実上押しつけることはには反対する。
「それ自身ポストモダニズムの産物である文化的相対主義の立場から
『いかなる社会も自分の権利と価値をもっている。
そしていかなる文化もその価値を他の社会に押しつける権利を持たない』
という議論がある。これは真実である。」
しかし、人権は、特定な文化に属するものではなく、
ある普遍な側面を持っていることも指摘されるべきで、
人権抑圧はいかなる文化をもつ社会であれ、肯定されるべきものではないと考える。
「人権の本質は、人間が、人間であるがゆえに、いかなる理由からも、
そしていかなる権力によっても奪われることのできない基本的な権利を
持っているということである。
誰も特定の信念を支持しているからいって
他の人たちに対してなんかの権利あるいは特権を得ることはできない。」
「・・・もっとも重要なことは、
人権が超宗教的思想であるということである。
それはどちらかというと自由意志の思想である。
我々が我々自身の主人公であるか、
それとも、ある決まったふうに行動するようにあらかじめて決定されているかどうかという問題である。
これはあなたが教義を通して答えることができる問題ではない。・・・
人権の思想は、宗教の外にあるものである。
なぜなら、それは、信念を前もって示すからである。特定な宗教に従うためには、
その選択を行使する自由があなたに開かれていなければならない。」
このようにソロウシュは、人権は宗教の教典からは引き出せない思想であり、
むしろ聖典を理解する前提条件として用いられるべきで、
理性で推論すべき問題だと考えている。
「自由には二つある。
内的自由と外的自由である。
内的な精神的自由については歴史を通じてに関わってきた。
たとえばモラビー(MOLAVI = RUMI)のような思想家詩人がそうである。
しかし彼は外的な政治的自由については論じなかった。
なぜなら、外的な闘争に携わることは、
内的精神的自由のための闘いをネグレクトすることになると考えたからである。・・・
東洋と西洋の思考の違いがここにある。
われわれは 外的自由をネグレクトし、現在に至っている。」
「ソロウシュは神とイスラムの理解を三つのタイプにカテゴライズした。
一つ目は、フェク(法)である。これは、神を法律を作り、
従わないものを罰し、従うものに報いる創造主とみなすものである。
神と宗教のこの理解は、大胆な改革・更新を必要としている。
もし改革しないなら、それは腐朽し、
人々にとってその意味を失った習慣になってしまうだろう。
これはもっとも一般的な神の理解である。」
「二つ目は、カラミー(言葉)で、これは神が
いかに完全にこの世界を創造したかの分析的理解である。
これは思想家、哲学者のイスラムであるが、
預言者はこのような理解を主張したわけではない。」
「三つ目は、ファルディー(個人)で、
これは神の理解への個人的な道である。
それは個人的体験を通じて宗教を認識する。
これは、神を愛するものの方法であり、スーフィーの神体験である。」として、
ソロウシュは、ルーミー(Jalaluddin Rumi)について高く評価する。
テレビ番組や講演でもルーミーについて数多く語り
、ルーミーについての著作も多い。
これは、イランの著名な歴史上の人物をあげることで
民衆に宗教の最小限理解を思い起こさせようという意図からであるものと思われる。
スーフィの倫理は、世俗=現世での生活よりも死後の世界での幸せを期待させた。
そして科学を死後の世界の幸福の達成にはなんの効果もないものと位置づけた。
「科学に対してわれわれの祖先が与えた低い地位は、 わが国の発展を遅らせる障害のひとつであった。
科学について、彼らはたいてい宗教的な科学を理解した。
科学者の社会の地位はかなりの部分神学者と宗教的な学者のそれより低かった。」
このようにこの世俗世界の科学は死後の生活の幸福の達成に効果がないとして
科学の位置を低く見る雰囲気が、社会の発展を妨げる一要素だったと言うのである。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods