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この論文は人類社会の中で最高レベルの高校教育論となっています
This article is highest level of high school education theory in human society.

This article is intended to deepen high school education from perspective of four-quadrant holon development of Ken Wilber.
This article is highest level of high school education theory in human society.

この論文は、高校教育をケン・ウィルバーの四象限ホロン的発達の見方から深めたものです。
この論文は人類社会の中で最高レベルの高校教育論となっています。



はじめに、

私たちの花房高校は、普通科総合選択制として再出発しつつあります。
ここでは「総合」について考えみたいとおもいます。

「総合synthesis」も「統合integration」も、どちらも複数のばらばらのものを一つにまとめることです。統合の方がより一つにまとめるニュアンスが強いので、「統合」という言葉をキーワードにします。

たとえば授業も一つに統合された内容を提供しなければ、真意が伝わりにくいです。
統合のためには、静かに考えることが必要です。
私が自宅での教材準備(自宅研修)が望ましいと主張するのは、静かな思考環境こそ充分な統合へのインスピレーションが湧くからです。
追いまくられたり、思考が中断したりする環境の中で十分な統合的教材の準備ができません。

さて、普通科総合選択制の趣旨は、エリア選択を可能にするけれども、あくまで普通科として総合的な教育をしますよということだと理解します。

もし、選択制だけを強調して単位だけ取得だけしてよしとするならば、すなわち総合がなかったら、自動車学校や専門学校と変わらないものにあります。
「総合=統合」をキーワードとして理念・ヴィジョンを考えてみたいとおもいます。
総合の側面を帯びてこそ、公教育にふさわしい内容が提供できるとおもいます。

総合選択制への移行にあたって花房高校が従来もっていた普通科としての取り組みの良さを残しながら、総合学科として進むという合意がなされました。
これはきわめて賢明な道であると考えます。

「統合=総合」とは何かを、もっとも深く考えているとみられるアメリカのケン・ウィルバーの考えにそって主として考察してゆきます。

1)生徒の「四象限」統合アプローチ

(1)内面の「私」と「私たち」
① 「私」と「私たち」
生徒個人を基礎ホロンの内面の「私」とすると、内面の「私たち」とは、家族ホロン、地域社会ホロンでの友人や地域の人々との関係、学校ホロンでの友人や教師と関係の中にあります。
あるいはテレビにでてくる人物を内面に取り込む場合も、マスコミ界ホロンも「私たち」に入ります。
生徒個人の「私」の内面の意識は、これら「私たち」の発達の中で形成されます。

②生徒を取り巻く「私たち」の状況の問題点
(ア)(家族)テレビを通じた団欒すらなく、一人一人がバラバラに生活し、家族ホロンとしての意識の統合がかける
(イ)(友人)ファミコンによるつきあい、携帯電話による交際。すなわち友人との間主観的世界が貧弱である。
(ウ)(先生)問題を抱えた子どもが増えて、教師はますます忙しく、上からもコントロールが強まり、ゆとりがなくなって、じっくり子どもの相手ができない。
(エ)(マスコミにでてくる人物や文化)消費をあおり、人間の外面的なところのみ強調する傾向がある。
子どもの内面世界を豊かにし、かつ強力に子どもを魅了するものは藤子富士雄や宮崎駿などの作品以外には、きわめて少ない。
したがって、今日の子どもたちは、断片的な多量の情報の海に中に存在しており、それら大量の情報を心の内奥の『私Self』によって取捨選択して一つの統合する力が必要とされています。
しかし、すなわち意識を内面的な深化させてゆくチャンス(たとえば、一人でじっくり考える機会)が少ないために、多様なものを一つに統合にしてゆく力、統合力が育ちません。
そこに多動性の落ち着きの無さも含めて数多くのメンタルな問題が生じている一つの根源があります。
外側の学力の伸びに対応して内面的な統合能力が発達してゆかねばなりません。 もし、統合能力が発達しないならば、知識のための知識になり、人格性の発達にはつながりません。

(2)外面の「それ」と「それら」
① 外面の「それ」
心の活動には、物質である脳神経が対応しています。
内面の「私」に対応する「それ」とは脳神経です。
飲食物や運動と脳の神経ネットワークや脳神経伝達物質との関連については、1970年代からアメリカで発達しました。
たとえば、栄養と非行の関連を証明した栄養学者のシャウス、食品添加物と多動性の関係を証明したファインゴールド医師、シネイコ医師、ロンドン大学の医師などです。
日本では、栄養心理学を説いた元岩手大学の大沢博、栄養の及ぼす行動への影響を説いた福山女子短大の鈴木雅子などが有名です。
私たちが眼の前にしている生徒たちの食習慣もかなり指導が必要だと考えられますが、これは家庭科や保健の領域なので、ここではさし控えます。

② 外面の「それら」
外面とは、物的身体的領域を指しています。
個人の内面である「私」を支えている衣食住なども「それ」と「それら」です。
発達しつつある「テレビ、ファミコン、携帯電話」も「それら」です。
これらの発達は、マイナス面を減らす努力と、プラス面を活用するアプローチが合理的です。
たとえば、携帯電話に例をとると、一方で、マナーや適切な活用方法についての教育が必要ですし、他方で、携帯電話に宿題を出したら、全員が宿題をして成績がアップした学級が紹介されていたように、有効活用のアプローチもありえるかもしれません。

「家庭の経済状況」も「それら」の中に含まれます。
それは、学校としてはアプローチできない問題ですが、アルバイトせざるをえない生徒や就学困難な深刻な状況の生徒への理解も必要です。
今日の不安定な経済状況が生徒の家族という「私たち」の意識に影響を及ぼしていることは容易に察することができます。

③「私たち」と「それ」と「それら」の中で発達する「私」
このように生徒の内面の「私」の発達は、以上の四つの側面の中に位置しています。
私たちは、その四つの側面を別々のものとして見てしまいますが、本当は、この四つの側面は、一つのものとして統合的に発達してゆきます。
生徒の問題を考えるにあたっては、「私」、たとえば、生徒個人の成育史、「私たち」、たとえば、親子関係、影響を受けている人間、「それ」、たとえば、食品添加物や特定栄養素への反応、身体の健康状態、「それら」たとえば、家庭の経済状況、などの四つの側面を統合的に見てゆく必要があります。

2)高校教育の分析

(1)三つの領域と発達ライン
① 三つの領域
以上、「私」は「私たち」と「それ」「それら」の中で発達し、この世に「私」単独で成り立っている存在は一つとしてないことを述べました。
この発達段階に応じた適切なアプローチを、ケン・ウィルバーは全レベルアプローチと称しています。
ここからは発達の側面に焦点を移します。

まず、大きく三つの発達領域に分けます。
すなわち身体的領域、知的心理的領域、スピリチュアル(精神性)な領域です。
この三つの領域を、カリキュラムを念頭にして各発達ラインに分けて考えてみます。

② 三領域のバランスのある発達が大切
三つの領域の発達をわかりやすくたとえると、「肉の眼」「知の眼」「観想の眼=スピリットの眼」の発達に対応します。
「肉の眼」とは身体的領域の視力です。
「知の眼」とは、教科学習によって身につけた知識で見ることです。
「肉の眼」では木の葉は緑に見えます。
「知の眼」では、木の葉の緑はクロロフィルで光合成しているんだなぁと見えます。
「観想の眼」は心のもっとも奥から見ることであり、木の緑はさわやかに心を和ませる存在に映ります。
「肉の眼」を「含んで超える」ところに教科学習の「知の眼」が発達します。
「肉の眼」「知の眼」を含んで超えて「観想の眼」も発達します。
三領域のバランスのとれた発達が必要です。

身体能力だけ発達して、知性と精神性が劣るならば、動物に近い人間です。
知性だけが発達すると、「洗練された悪魔」が登場します。
頭でっかちとして批判されてきました。
精神性(スピリチュアリティ)だけを追求し、知性が低下しても問題です。
カルト集団の問題はその最悪の形です。
カルト集団の発生の基盤は現代文明が「観想の眼」を育まないところにあります。
三つの領域のバランスのとれた発達、すなわち総合的発達に取り組むことが必要です。

③ある発達ラインは別のラインの発達の十分条件ではないが必要条件である
とりあえず、身体的領域、知的心理的領域、精神性(スピリチュアルな)領域の三つの領域とその下位ラインにわけましたが、それらの領域とラインはオーバーラップして相互に影響しあう関係にあります。
ケン・ウィルバーがたくさんの事例を科学的に検討した結果、ある発達ラインは、別の発達ラインの必要条件であるが、十分条件でないことがわかりました。
たとえば知的に発達した人が必ずしもモラリティが高いわけではないが、高いモラリティの実現のためには知的発達が必要であるということです。
私たちは、学校教育の場で、それぞれバラバラに自分の担当する発達ラインを追求しているように見えますが、実は、それぞれの教育実践は、別の先生の担当する発達ラインの発達を促進する役割を果たしています。
私たちの教育実践の成果を個々人のものとして評価して採点する見方は、根本的な過ちをはらんでいます。

(2)身体領域

①身体能力の発達ライン(これは一例としてあげたものです)
(ア)基礎的身体能力・・柔軟性、耐久性、スピード、あるいは走、飛、投
(イ)各スポーツの技術的能力・・体育、部活動
(ウ)食生活能力・・家庭科
(エ)各芸術表現技能・・・音楽、美術、書道
(オ)情報処理能力・・・情報処理
(カ)字を書く能力・・・全教科

②身体能力の発達ラインのコメント
(ア)先行する能力段階を「含んで超える」発達
新生児が「はいはい=這う」能力を獲得します。
次に「よちよち歩き」の能力を獲得します。
歩く能力には這う能力が含まれています。
這う能力がなければ、歩く段階に到達できません。
「歩く」能力の次に「走る」能力を獲得します。
歩ることができなければ、走ることはできません。
しかし、走ることできる人は、歩くことができます。
発達とは、先行する段階の能力を「含んで超える」ことです。

ウィルバーは、身体能力、知的能力のそれぞれの段階もホロンといいます。
この世のすべての実体は、先行する実体を「含んで超える」段階的な発達をとげてゆきます。
たとえば、原子ホロンを「含んで超えて」分子ホロンが登場し、分子を「含んで超えて」細胞ホロンが登場しました。
原子がなければ、分子も細胞もありえません。
同様に人間の身体的、知的能力の発達も、前ホロンレベルを「含んで超えて」新たなホロンレベルに達します。

スポーツ技術もまたこのように発達します。
たとえば、スキーを装着して「歩く」能力。
次にプルークボーゲンの直滑降です。
スキーを履いて歩けない人は、プルークボーゲンの直滑降ができません。
次にプルークボーゲンの諸技術をマスターした後、パラレルへと移ります。
スキー初心者講習は、「含んで超える」発達の観点を見事に具体化しています。
その人の課題となっている発達レベルを修得することなしには、次の段階がマスターできません。

それぞれの発達ラインで高いレベルに達してしまっている教員は、空気を吸うように、低次の段階は自然と身についているものと勘違いしがちです。
しかし、自分が自然と身につけてしまったレベル段階についても、初心者、もしくはつまずいている生徒のために、スキー初心者講習のように「含んで超える」レベル段階を設定することが必要です。
各自、そのレベルの能力を獲得しないと次の段階に進めないというものがあるはずです。

芸術もパソコン能力も、スキーのようにこれができなければ、次に進めないと明確にでてこないだけで、その能力の発達は「含んで超える」発達段階があるはずです。

やる気がなくて勉強しない子とは別に、少数ながら漢字を覚えることが苦手な生徒がいます。
指先に覚えさせるので身体能力に分類しました。
漢字の修得も「含んで超える」発達段階があるはずで、できない子のためにはその発達のホロン段階を研究する必要があります。
たとえば、山、川などの漢字の部品、「へん」や「つくり」の構造認識など、漢字修得の順次性があるかもしれません。
空気を吸うように身につけてきた人間には、そんな研究はあほらしく感じられるので、誰もやっていないとおもいます。
どこかの段階の能力を身につけていないのです。

(イ)身体⇒心理⇒スピリット
身体と心とスピリットは密接に関連しています。
ショックなできごとがあり、気持ちが落ち込むと、がっくり 肩を落としてうつむきになり、前かがみになります。
これは心理⇒身体への流れです。
ところが、逆に、いつもうつむいて前かがみに歩いていると、胸腺が圧迫されて、さわやかな感情をつかさどる内分泌が弱くなり、暗い性格の人となります。
したがってストレッチ体操で胸を伸ばす動きは、その人の気持ちを明るくします。
これは、身体⇒心理の流れです。
体育は、各スポーツ技能の向上という側面ともに、技能がなかなか向上しない生徒たちにとっても心理的な向上に有意義である教育的側面があります。

さらに剣道、柔道などが「道」と呼ばれているように、スポーツをきわめることは「スピリチュアリティ」の向上に関連しています。
勝ち負けへのこだわりを超越したスポーツマンシップの境地と重なるものであると推測します。
ここでは、身体⇒心理⇒スピリットの流れがあることを確認しておきます。

(3)知的領域

①知的認識発達ライン
(ア)言語能力・・・国語、英語、
(イ)数的能力・・・数学
(ウ)自然認識・・・理科
(エ)社会認識・・・社会
(オ)生活認識・・・家庭
(カ)健康認識・・・保健
(キ)美的認識・・・芸術

②知的発達ラインへのコメント
(ア)実際には各教科が領域を超えて影響しあっている
これは、とりあえずの発達ラインの分類です。
実際は相互に影響しあっています。
たとえば、英語や国語などでも社会的認識がひろがるし、社会で言語能力が高まるし、というふうに相互作用しながらレベルアップしてゆきます。

(イ)励ましてゆくこと
具体的な生徒をイメージしてゆくと全体として低位にある生徒が多いです。
教育の基本としては、これらのうちどれか発達している部分を評価しながら、励まし、自信をつけさせてゆくことが大切であることは言うまでもありません。

(ウ)先行する段階を「含んで超える」発達
知的発達のラインにおいても、能力が「含んで超える」形で段階を踏まえて発達することを確認することが必要です。
教師は、空気を吸うように低位の知的能力を獲得してきていますから、その低位の段階の能力は人間すべてがもっている前提としての能力と考えてしまいます。

原子ホロンを「含んで超えて」分子ホロンが、そして・・・というふうに天地万物はホロンで成り立っています。
単語ホロンが集合して文章ホロンが生まれます。
文章ホロンが集合して文節ホロンが生まれます。
文節ホロンが集合して単元ホロンが生まれます。
思考実験で下位ホロンを消すと上位ホロンはすべて消えます。
上位ホロンが消えても、下位ホロンは残ります。

生徒は、教師が使う個々の単語を理解できなかったら文章レベルも文節レベルも理解できません。
「漠然としている」と言ったら、「漠然ってどういうこと?」と聞いてくれた生徒がいました。
そこでは漠然という単語だけがわからないので質問してきたのですが、たくさんの単語がわからなかったら質問もあきらめるでしょう。
理解できる個々の単語を増やしてゆかないといけません。

私たちは、個々の単語(言葉)が最初の基本ホロンだと考えて、そこから授業を出発させています。
ケン・ウィルバーの統合心理学によれば、単語(言葉、言語)の前の段階があります。

すなわち、知覚⇒イメージ⇒シンボル⇒概念⇒言語です。
まず知覚なしには、後のすべての段階は消えます。
木を知覚します。木をイメージします。知覚なしにイメージは生じません。
様々な木のイメージから、一つのシンボルとしての木ができます。
そこから木の概念が生まれ、それに「木」という言葉を当てはめます。

一般的に最近の生徒はファミコン・ゲームで育っていますから学力の出発点となる知覚体験が薄弱ということはあると思いますが、私の見るところ具体的に目に見えるものについては理解可能だとおもいます。
どんなできない生徒も知覚能力があるからです。

直接的に知覚できない語彙、すなわち具体的に指し示す言葉が理解できない生徒がいました。
たとえば、「皇帝」「王朝」「政府」「漠然」などです。
具体的に指し示すことができないこのような単語は、使っているうちわかるだろうと機械的に教えるのではなく、イメージ化、シンボライズ化のレベルから出発することが大切だとおもいます。
たとえば、皇帝については王冠の絵を板書するのはどうでしょうか。
イメージ化、シンボライズ化を補足して、生徒の頭の中に概念を形成しつつ、「皇帝」という言葉を教えるのです。

この背景には成育史において言語環境が貧弱であるために、理解できている語彙数が少ないことがあるとおもいます。
昔、私は、「恋愛感情は高校生段階まで発達しているが、恋愛の漢字が書けないように、テーマは高校生にふさわしい発達段階のものをやるべきだが、小学校三年生が読めるものに教材を改善する」というアプローチをしていました。
それは授業成立には役だちました。
しかし、生徒が知的能力を伸ばしてゆくためには、彼らが理解できない語彙に接させて、語彙数を増やしてゆくことが大切だと考えるようになりました。

アプローチの鍵は、言語以前の能力「含んで超える」発達レベルにあるとおもいます。
「知覚⇒イメージ⇒シンボル⇒概念⇒言語」という流れのうち「イメージ化⇒シンボル化」の段階で補強することで、直接的に知覚できないものについての語彙を増やしてあげることができるのではないかと考えます。

(エ)芸術へのコメント
教育として人間性の向上の一つの側面は、その人の切実な関心事が、物的身体的領域⇒知的心理的領域⇒スピリチュアルな領域と進むことでした。
芸術と美意識は、知的心理的領域からスピリチュアルな領域に進む道にあり、その道を促進します。

そして美意識の発達は次のスピリチュアルな領域の発達ラインとしても位置づけられるべきものです。
三領域のバランスのとれた発達の一環として、多様化や統廃合が進む中で芸術教育を軽視してしまうことにならないようにと思います。

(4)精神性(スピリチュアルな)領域

①スピリチュアル(精神性)な領域の発達ライン
(ア)自我Selfの発達(様々な発達ラインを統合するSelf)
(イ)モラルの発達(道徳性の発達、人権意識も入る)
(ウ)間人格的能力の発達(わかやすく言うと対人関係)
(エ)究極の関心事の発達(自分だけの事から広がってゆく)

②精神性(スピリチュアリティ)の発達のコメント
(ア)精神性の位置づけ
物的身体的領域の要求(カーマ)を知的要求(アルタ)に高め、さらにより高い人間的生き方がしたい(ダルマ=精神性=スピリチュアリティ)の要求に高めることが教育です。
物的身体的領域の要求とは、食や性などの要求であり、人間存在にとって必要なものです。
「人はパンのみにして生きるにあらず」というのは、パンは必要だけど、人間はただ物的身体的要求だけで生きる存在ではないという真実をあらわしています。
「物的身体的欲求」を「含んで」超えさせるアプローチが大切です。
たとえば、授業中、鏡を見て化粧ばかりしている生徒がいます。
これは外面的な身体的要求です。
背景に異性を引き付けたいという青年期の切実な要求があります。
これを否定するアプローチではなく、その要求を「含んで超える」アプローチが必要です。
したがって、「君は十分魅力的だ」と認めて、授業中まで化粧の必要はないことを伝えてゆくアプローチが適切だと考えます。

(イ)モラリティ
ホームルームなどのとりくみで、いじめはあかんとか、人間関係のフォロウをしたりしてとりくんでいます。
静かに考えさせる時間が必要です。
つまり外側からのアプローチだけでなく本人の内側からわきあがらせるアプローチも必要です。
謹慎はその役割を果たしています。

(ウ)人格的統合の中心の「私Self」の発達
人間の心は、三つの部分からなります。
すなわち心の材料は三つの部分からなります。
たとえば「私」が「何か」を「見ている、思っている」場合、一番奥が「私Self」です。
次に「見たり、思ったりする」作業する部分があります。
その結果、心の材料は「何か」を形作ります。
「私」は、「見たり、聞いたり、考えたり、思い出したり」たくさんの作業をストップすることなく続けます。
その結果として、たえず、心の材料は「何か」の形に多様に変化します。

心の中の一番奥の「私」が、心の作業とその結果をコントロールする力を強めなくてはなりません。
ストーカーは、「私」が心の結果として結ばれた女の人の映像にひきまわされて、心の部分のうち「何か」に形づくった部分をコントロールできなくなっていることです。
落ち着きなくしゃべっている子は、「私」が、心の「作業」をコントロールできなくて、夢の内容を「私」がコントロールできないように、「私」が自分自身の心の作業をコントロールできなくなっているのです。 したがって、心の中の「私Self」の部分を強化しなくてはならないのです。

それにはどうしたらいいのか。
それは「私」は「見る、聞く、考える」「何か」を、の三つの部分のうち、「見る、聞く、考える」「何か」の部分を消すか、一つにしぼるのです。
そして心の全部を「私」だけにするのです。
これが「私Self」の強化です。
前回のオリンピックの前に田村亮子選手は禅寺で黙想しているところがテレビにでていました。
これは、まさしく「私Self」の強化にほかなりません。

西洋哲学では、心が外界をコントロールできることをもって自由と論じ、心自体を、心の奥の「私Self」がコントロールできているかは問いませんでした。
これは、東洋哲学の正しい側面と西洋哲学を統合する道でもあります。
なお、「私Self」の統合力の強化とは、自我の肥大化とはまったく意味がちがいます。
自分はえらいんだと傲慢になったりすることはまったく逆で、「私」が強化されるならば、謙虚な人になります。

ここで、一番述べたいことは、「私」の統合力の強化のためには、「静かに」考える環境が必要であることです。
そして「私」の統合力がつちかわれずに、ある知的発達のラインや身体能力の発達があっても、人格の統合的な発達につながらず、その人の人生を幸せにすることにつながらないことです。
心の中で一番奥の「私」は、その「作業」と「結果」にふりまわされる人生を送ることになります。

(エ)人権教育・・・ネガティブからポジティブへ

これまで人権教育はネガティブな言葉で語られてきました。
外国人差別、女性差別、部落差別、うんぬんです。
そして反〇〇、あるいは、「いじめ」はいけない。
〇〇はいけないです。

ポジティブな思考が必要です。
普遍的な愛、慈悲の精神と結びつけることが必要です。
聖書には「太陽は良い人の上にも悪い人の上にもどんな人の上に区別なく恵みを与える」とあります。
この場合は、ユダヤ選民主義を批判して、ローマ人にもユダヤ人の上に区別なく神の愛がそそがれることを意味していると思います。
「汝が人からしてほしくないことは、ほか人にもするな」
「汝が人からしてほしいことを、ほかの人にしなさい」というような教えは、古来、洋の東西を問わず、ありました。
私は近代の人権と古来の慈悲=普遍的愛の精神を「統合」すべきだと考えています。
これをネオ・ヒューマニズムといいます。
すべての人類、すべての生命、すべての存在を普遍的に愛する精神です。
このようなポジティブな精神をめざす中に人権教育を位置づけるべきだとおもいます。
愛の無い人権教育は、どのような正しい理論であっても人間性を低下させてゆきます。

まとめ

以上、ケン・ウィルバーは、この宇宙をコスモスと言い、内側と外側をもった存在である。
そしてあらゆる実体は、単独で成立せず、集合体の中にある。
これが四象限の枠組みです。
生徒個々人もまた然りです。
そして生徒の発達は低次の能力段階のホロンを「含んで超えて」より高次の能力段階のホロンに進むことです。
未達成の段階があるならば、それ以後の段階の達成の障害になります。
この視点を高校教育に適用して考察してみました。

(ケン・ウィルバーとは、1949年、アメリカ生まれの思想家です。もともとは、個人の内面のみを考察した思想家でしたが、過去の自分の思想を「含んで超える」形で発達させ、自分でウィルバー1、ウィルバー2、ウィルバー3、ウィルバー4と発達を遂げていると述べています。ウィルバー3のあたりで、個人と集団、心の内側と外側を一つのものとして見る見方を確立しました。そして良質の西洋思想と良質の東洋思想を統合し、全人類的規模で思想の統合をはかりつつある最初の西洋人です。彼の思想のすべてを支持するものではありませんが、次第に私にも納得できる思想に近づきつつあります。ウィルバー5としてさらに成長を遂げるものと期待されます。近著は「進化の構造1」「進化の構造」「統合心理学」(いずれも春秋社)ですが、各5000円位で推薦できるものではありません。そして「統合心理学」は心理学の本ではなく、全領域を含む思想書です)




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