"Messenger From God" Secrets Of Heaven, Mystery Teachings Of The Angels (Part 1) (video inspired by god of star)
社会フォーラム運動に参加している人の著書の助け合う人間社会を作ろうと訴える内容に人類社会全体を助け合う社会にしようというサーカーの言葉を紹介したものです
introduction of words of Sarkar to make to help each other in whole human society in refer to contents of appeal to make human society that help each other in book of participant of social forum movement
This article is introduction of words of Sarkar to make to help each other in whole human society in refer to contents of appeal to make human society that help each other in book of participant of social forum movement.
Appeal of socialist eath government of project of Heaven and gods is same spirit.
この論文は、社会フォーラム運動に参加している人の著書の助け合う人間社会を作ろうと訴える内容に人類社会全体を助け合う社会にしようというサーカーの言葉を紹介したものです。
天と神々のプロジェクトの社会主義地球政府の訴えは同じ趣旨です。
長野県の毛利正道弁護士のブックレットに
『復興・財源は、支え合いでこそ
-私たちと地球、明日の人類を救え-』
という本があります。
その中に「ご近所社会論」が説かれています。
「それは例えば、江戸時代の「街なか」にあたる江戸での裏長屋に続いています。
表通りと表通りとを繋ぐ細い通路を挟んで、
10戸から20戸程度の一部屋だけの居室があり、
そこに多種多様な人々が戸別に居住しているのですが、
居室以外は、井戸・生活道路などすべて共同利用共同管理の支え合い社会でした。
お裾分けしあう贈与社会で、みんなでのお祭り・遊びはたくさんあり、
公衆浴場・貸本屋などシェアなお店も発達しており、
極めつけはゴミ汚物のない完全リサイクル社会でした。
・・・
このような支え合い社会は、少なくとも農村部においては
戦後の1955年頃の高度経済成長が始まる頃まではそのまま存在しており、
現在においても、生まれたところで死ぬことが普通の地域においては、
今も生きていることが多いのです。
東北地方はそのようなところが多いですし、
6年前の新潟中越地震で壊滅全村避難の被災をした山古志村でもそうでした。
地震10日後には、集落毎に同じ避難所に入り、
仮設住宅も集会所を必ず併設して集落毎に入居し、
なじみの顔がそろうなかで安心感が生まれ、
「寄り合い」(話し合い)を重ねながら、
全村民の7割500戸・1400名が村に戻って再建の道を歩んでいるのです。
新潟日報の記者は、今回の大震災後に山古志村で出会った、
長岡市内に避難しているという福島県の男性が、
「山古志をお手本に、私たちも復興したい」と涙を滲ませながら話してくれたと記しています。・・・
このような「ご近所社会」は、
縄文時代のDNAを持つ日本人になくてはならないものだと思います。
もちろん、昔、女性が「三界に家なし」と言われた時代には
そんなご近所などない方がましと思われることもあったでしょうし、
戦争中は嫌がる人々を戦争に駆り立てる役割を担わされたこともありましたが、
それは、ご近所社会の本質ではありません。
個人の意思を束縛することは避けつつ、支え合うことは十分できることです。・・・
このように、ご近所社会の再生は、ここ日本にとって、戦後65年の、
ひょっとすると明治以来140年にわたる歩みのパラダイム的大転換になるのではないでしょうか。」
毛利正道著『復興・財源は、支え合いでこそ
-私たちと地球、明日の人類を救え-』より
毛利さんの文章に寄せた私のコメントです。
毛利さんの「ご近所社会論」の中身は、支えあいを軸とした社会なんですが、
私たちが未来を構想するにあたって私たちの社会の伝統にあった支えあいのスピリットに
新しい息吹を吹き込もうとされていることに共感します。
支えあい社会のスピリットは、
サーカーのいう「サマジ(社会)のスピリット」と響きあうものだと思います。
サーカーの論は毛利さんの「ご近所社会論」を含んで超えて
人類社会全体を「ご近所社会論」で組織しようというものです。
社会の精神 THE SPIRIT OF SOCIETY
サマジ(社会)という言葉の精神は、
共に動く一群の人々を意味しています。
すべての人が同じ強さや知性を持っているわけではありません。
それゆえ、ある人に欠けているものは、他の人が補なわなくてはなりません。
様々の人々が多様な能力を持っています。
ある人は肉体的強さを持っていますが、
知力は強くありません。
別の人は知力はありますが、働くための強さを持ちません。
また別の人は、強さも知力もありませんが、
自分たちの監督者の指導のもとによく働き、
平和的な心を持っています。
私たちは、自分たちのまわりに常に様々のタイプ、性質の人々を見ます。
この世界に完全に独立している人は一人としていません。
あらゆる人がなんらかの形で他の誰かに依存しています。
誰もが、他の人の助けを借りて、自分の足りないところを補っています。
大きな人々の集団が、自分たちの相対的な相違を
互いの同意によってまとまろうと努力している時、それを社会と呼びます。
社会とはどのようなものでしょうか。
それは、巡礼している人々の集団のようなものてす。
そのシーンを想像してみてください。
巡礼者の一人がコレラで倒れたとしましょう。
残りの人は、その病気の人を後に残して予定どおり進み続けるでしょうか。
いいえ、それは彼らにとって考えられないことです。
むしろ、一日か二日、旅を続けるのをやめて病人を世話するでしょう。
もし、それでもなお病人が歩けなかったら肩に背負って運んでゆくでしょう。
もし、食べ物が足りない人がいたら、
自分たちの食べ物を分け合うでしょう。
声を合わせて歌いながら、自分たちの持ち物を共有しながら、
共に前進してゆくでしょう。
他の人々とともに前進してゆくことに熱心な人々は、
三世代もさかのぼって自分たちの間の相互不信や対立に導いてきた
一片の土地をめぐってのくだらない不和を忘れます。
この集合的運動から生ずる協同の本質は、けちな障壁を壊し、
個人の心を拡大してゆくことにあります。
再度繰り返しますが、本当の社会は、
個人生活と社会生活のすべての問題を助け合って解決し、
共に旅を続けながら、
深い心理的な絆を作り上げてゆく巡礼集団のようなものです。
言葉の完全な意味での社会について言うならば、
人類は今日まで本当の社会を形成することができていません。
もし、インドがインド人だけのための社会を作り、 パキスタンがパキスタン人だけのための、
イギリスがイギリス人だけのための社会を作るなら、
三つに分かれた社会が存在することになります。
しかし、それを人類の社会として見ることはできません。
人類が諸集団に分割されてしまうと、
自ずとある社会は他の社会の活力を搾取することによって栄えようとします。
よく観察すると世界のある特定の地方に、
ある特定階層に対して、ある特定のイズムや信念にもとづいて、
いわゆる「社会」を確立しようとする努力がなされていることに気づきます。
そのような分割にもとづく「社会」意識は、
彼らがインド人であろうが、パキスタン人であろうが、
イギリス人であろうが、人々の心に潜在することになります。
だから彼らは、自分たちのより小さな集団の思考に同化したままになります。
社会意識が、インド人、パキスタン人、あるいはイギリス人という意識を
すべて含む形をとるのは、実際には外部のインパクトによるものです。
奴隷にされたネイションの社会意識は、
支配している植民地権力と戦争状態にある時にもっとも鋭くなり、
それ以上に強くなることはありません。
独立後、その意識は失われます。
(略)
どの程度まで社会はまとまってきたでしょうか。
人類は、いまだ人間社会を形成することができておらず、
巡礼団の精神をもって進むことを身につけていないと断言できます。
すべての人類が共通の愛のきずなによって
自己を他者と結ばなくてはなりません。
そして腕を組んで進んでゆかねばなりません。
その時のみ社会と宣言することができます。
うぬぼれの強い多くの人々は
「俺は誰の助けも必要としない。自分でうまくやってゆけている。
だから他の人のことにかかわりたくない。
他の人が俺のことで心配してほしくない。」と言います。
同一の存在価値を持ち、共に宇宙家族を構成しています。
この生命世界において、すべてのものによって解決されるべき、
すべてにあてはまるいくつかの根本的な問題があります。
この問題は、生き物の生活とダルマの共通の側面としてとらえることができます。
生き物の全面的な健全さはこの諸問題の幸福な解決にかかっています。
(略)
文明は無変化ではありません。
この世に静止しているものはありません。
あらゆるものが動的です。
文明もまたより良いものへ、より完全なものへと
究極のゴールである純粋のブラフマに向かう漸進的な現象です。
より洗練された性向を持つ人々が、
より文化的な人々です。
私たちは、洗練と偽善は同一ではないことを覚えておかなくてはなりません。
偽善者の外面的な見かけは、心の内側の動機と天地ほどの相違があります。
そして洗練された人には内面と外面の一致があります。
このように洗練されたやり方でなされたもの、
すなわち理性と礼節をもってなされたものは、
社会の悪化ではなく社会の健全さをもたらすでしょう。
(以下略)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Appeal of socialist eath government of project of Heaven and gods is same spirit.
この論文は、社会フォーラム運動に参加している人の著書の助け合う人間社会を作ろうと訴える内容に人類社会全体を助け合う社会にしようというサーカーの言葉を紹介したものです。
天と神々のプロジェクトの社会主義地球政府の訴えは同じ趣旨です。
長野県の毛利正道弁護士のブックレットに
『復興・財源は、支え合いでこそ
-私たちと地球、明日の人類を救え-』
という本があります。
その中に「ご近所社会論」が説かれています。
「それは例えば、江戸時代の「街なか」にあたる江戸での裏長屋に続いています。
表通りと表通りとを繋ぐ細い通路を挟んで、
10戸から20戸程度の一部屋だけの居室があり、
そこに多種多様な人々が戸別に居住しているのですが、
居室以外は、井戸・生活道路などすべて共同利用共同管理の支え合い社会でした。
お裾分けしあう贈与社会で、みんなでのお祭り・遊びはたくさんあり、
公衆浴場・貸本屋などシェアなお店も発達しており、
極めつけはゴミ汚物のない完全リサイクル社会でした。
・・・
このような支え合い社会は、少なくとも農村部においては
戦後の1955年頃の高度経済成長が始まる頃まではそのまま存在しており、
現在においても、生まれたところで死ぬことが普通の地域においては、
今も生きていることが多いのです。
東北地方はそのようなところが多いですし、
6年前の新潟中越地震で壊滅全村避難の被災をした山古志村でもそうでした。
地震10日後には、集落毎に同じ避難所に入り、
仮設住宅も集会所を必ず併設して集落毎に入居し、
なじみの顔がそろうなかで安心感が生まれ、
「寄り合い」(話し合い)を重ねながら、
全村民の7割500戸・1400名が村に戻って再建の道を歩んでいるのです。
新潟日報の記者は、今回の大震災後に山古志村で出会った、
長岡市内に避難しているという福島県の男性が、
「山古志をお手本に、私たちも復興したい」と涙を滲ませながら話してくれたと記しています。・・・
このような「ご近所社会」は、
縄文時代のDNAを持つ日本人になくてはならないものだと思います。
もちろん、昔、女性が「三界に家なし」と言われた時代には
そんなご近所などない方がましと思われることもあったでしょうし、
戦争中は嫌がる人々を戦争に駆り立てる役割を担わされたこともありましたが、
それは、ご近所社会の本質ではありません。
個人の意思を束縛することは避けつつ、支え合うことは十分できることです。・・・
このように、ご近所社会の再生は、ここ日本にとって、戦後65年の、
ひょっとすると明治以来140年にわたる歩みのパラダイム的大転換になるのではないでしょうか。」
毛利正道著『復興・財源は、支え合いでこそ
-私たちと地球、明日の人類を救え-』より
毛利さんの文章に寄せた私のコメントです。
毛利さんの「ご近所社会論」の中身は、支えあいを軸とした社会なんですが、
私たちが未来を構想するにあたって私たちの社会の伝統にあった支えあいのスピリットに
新しい息吹を吹き込もうとされていることに共感します。
支えあい社会のスピリットは、
サーカーのいう「サマジ(社会)のスピリット」と響きあうものだと思います。
サーカーの論は毛利さんの「ご近所社会論」を含んで超えて
人類社会全体を「ご近所社会論」で組織しようというものです。
社会の精神 THE SPIRIT OF SOCIETY
サマジ(社会)という言葉の精神は、
共に動く一群の人々を意味しています。
すべての人が同じ強さや知性を持っているわけではありません。
それゆえ、ある人に欠けているものは、他の人が補なわなくてはなりません。
様々の人々が多様な能力を持っています。
ある人は肉体的強さを持っていますが、
知力は強くありません。
別の人は知力はありますが、働くための強さを持ちません。
また別の人は、強さも知力もありませんが、
自分たちの監督者の指導のもとによく働き、
平和的な心を持っています。
私たちは、自分たちのまわりに常に様々のタイプ、性質の人々を見ます。
この世界に完全に独立している人は一人としていません。
あらゆる人がなんらかの形で他の誰かに依存しています。
誰もが、他の人の助けを借りて、自分の足りないところを補っています。
大きな人々の集団が、自分たちの相対的な相違を
互いの同意によってまとまろうと努力している時、それを社会と呼びます。
社会とはどのようなものでしょうか。
それは、巡礼している人々の集団のようなものてす。
そのシーンを想像してみてください。
巡礼者の一人がコレラで倒れたとしましょう。
残りの人は、その病気の人を後に残して予定どおり進み続けるでしょうか。
いいえ、それは彼らにとって考えられないことです。
むしろ、一日か二日、旅を続けるのをやめて病人を世話するでしょう。
もし、それでもなお病人が歩けなかったら肩に背負って運んでゆくでしょう。
もし、食べ物が足りない人がいたら、
自分たちの食べ物を分け合うでしょう。
声を合わせて歌いながら、自分たちの持ち物を共有しながら、
共に前進してゆくでしょう。
他の人々とともに前進してゆくことに熱心な人々は、
三世代もさかのぼって自分たちの間の相互不信や対立に導いてきた
一片の土地をめぐってのくだらない不和を忘れます。
この集合的運動から生ずる協同の本質は、けちな障壁を壊し、
個人の心を拡大してゆくことにあります。
再度繰り返しますが、本当の社会は、
個人生活と社会生活のすべての問題を助け合って解決し、
共に旅を続けながら、
深い心理的な絆を作り上げてゆく巡礼集団のようなものです。
言葉の完全な意味での社会について言うならば、
人類は今日まで本当の社会を形成することができていません。
もし、インドがインド人だけのための社会を作り、 パキスタンがパキスタン人だけのための、
イギリスがイギリス人だけのための社会を作るなら、
三つに分かれた社会が存在することになります。
しかし、それを人類の社会として見ることはできません。
人類が諸集団に分割されてしまうと、
自ずとある社会は他の社会の活力を搾取することによって栄えようとします。
よく観察すると世界のある特定の地方に、
ある特定階層に対して、ある特定のイズムや信念にもとづいて、
いわゆる「社会」を確立しようとする努力がなされていることに気づきます。
そのような分割にもとづく「社会」意識は、
彼らがインド人であろうが、パキスタン人であろうが、
イギリス人であろうが、人々の心に潜在することになります。
だから彼らは、自分たちのより小さな集団の思考に同化したままになります。
社会意識が、インド人、パキスタン人、あるいはイギリス人という意識を
すべて含む形をとるのは、実際には外部のインパクトによるものです。
奴隷にされたネイションの社会意識は、
支配している植民地権力と戦争状態にある時にもっとも鋭くなり、
それ以上に強くなることはありません。
独立後、その意識は失われます。
(略)
どの程度まで社会はまとまってきたでしょうか。
人類は、いまだ人間社会を形成することができておらず、
巡礼団の精神をもって進むことを身につけていないと断言できます。
すべての人類が共通の愛のきずなによって
自己を他者と結ばなくてはなりません。
そして腕を組んで進んでゆかねばなりません。
その時のみ社会と宣言することができます。
うぬぼれの強い多くの人々は
「俺は誰の助けも必要としない。自分でうまくやってゆけている。
だから他の人のことにかかわりたくない。
他の人が俺のことで心配してほしくない。」と言います。
同一の存在価値を持ち、共に宇宙家族を構成しています。
この生命世界において、すべてのものによって解決されるべき、
すべてにあてはまるいくつかの根本的な問題があります。
この問題は、生き物の生活とダルマの共通の側面としてとらえることができます。
生き物の全面的な健全さはこの諸問題の幸福な解決にかかっています。
(略)
文明は無変化ではありません。
この世に静止しているものはありません。
あらゆるものが動的です。
文明もまたより良いものへ、より完全なものへと
究極のゴールである純粋のブラフマに向かう漸進的な現象です。
より洗練された性向を持つ人々が、
より文化的な人々です。
私たちは、洗練と偽善は同一ではないことを覚えておかなくてはなりません。
偽善者の外面的な見かけは、心の内側の動機と天地ほどの相違があります。
そして洗練された人には内面と外面の一致があります。
このように洗練されたやり方でなされたもの、
すなわち理性と礼節をもってなされたものは、
社会の悪化ではなく社会の健全さをもたらすでしょう。
(以下略)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods