Heaven Got Another Angel - Original Song (Gordon True) (video inspired by god of star)
ミツキが一者と表現しているのは事実なのです
It is fact that Mitsuki express Heaven as one
This article is that all human beings are guaranteed life worthy of child of god because of human being is children of gods of Heaven.
Gods of star who are parents of human soul is working to become one under name of Heaven.
It is fact that Mitsuki express Heaven as one.
この論文は、天賦人権論の天は天の分身であるがゆえにすべての人間が人間として神の子にふさわしい生活が保障されるべきだ、です。
人間の魂の親である星の神々は、天の名のもとに一つになって活動しています。
ミツキが一者と表現しているのは事実なのです。
自由と民主主義の思想 明治初期に中江兆民などの自由民権運動家によってロックやルソーなどの天賦人権論や社会契約論などの普遍思想が日本に導入されます。
1945年の日本国憲法に基本的人権、国民主権が取り入れられたことによって 日本でも、そのスピリットが定着しているかはさておいて、制度としては実現することになります。
「六ツトセー 昔をおもえば亜米利加の独立したのもむしろ旗 コノいさましや 七ツトセー なにゆえお前がかしこくて 私らなんどは馬鹿である コノわかりやせぬ」 民権数え歌にはアメリカ独立がでてきます。
イギリス、フランス、アメリカなどの市民革命を準備した天賦人権論と社会契約論を簡単に見ておきましょう
トマス・ジェファーソンの起草したアメリカ独立宣言で考えます。
英文の「アメリカ独立宣言」 http://en.wikisource.org/wiki/United_States_Declaration_of_Independence
(1)
all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights
「すべての人間Menは平等にクリエイトされている。 クリエイターによって一定の譲ることができない権利を賦与されている」
クリエイトとは何でしょう。創造です。
クリエイターとは創造者です。
一者が多者として自己展開しているというワンネス哲学を理解できない多くの人々は 多者から切り離された一者(神)が、多者に平等な権利を与えたと読んだと思います。
しかし、(この文章を書いたトマス・ジェファーソンがどう考えていたかは、研究しないとわかりませんが) 私は、形なき無限の一者(クリエイター)が多者として自己展開しているという見方から すべての人間(多者)は一者の分身であるのだから、平等の権利を賦与されているのだと読みます。
もし、あなたが忍法で分身の術をつかったとすれば、分身の一人だけに特別な権利を与えないでしょう。
役割の違いはあったとしてもすべての分身に同じ権利を与えるでしょう。
私は本来のイエスの教えは、一なる無限の形なき一者の展開の分岐としてあなたが存在しているという ワンネス哲学の教えだっただろうと思います。
だから、誰の心にも、その心を超えた奥底に「神の国」があるのだと思います。
そして、人間の心が作り出した人間に似せた神の像を拝む偶像崇拝が禁止されていたのだと思います。
神は形無き無限の一者にほかならないからです。
ワンネス哲学はすべての人を形なき無限の一者から分岐した兄弟だと見るからです。
人民に力を与えるワンネス哲学に対して支配者に権力を集中させようとする人々が 依拠するのが王権神授説でした。
国王の権力は神から与えているから人民は国王の命令をききなさいというものです。
この神(一者)と多者は分離してしまい、自分の分身をえこひいしています。
これは人間の心が人間に似せて作り上げた一なる神にほかなりません。
無限の、形と属性のないワンネスの一者ではありません。
本来、ワンネスの観点であった原始キリスト教は、 325年のニケーアなどでの一連の宗教会議で ローマ帝国の皇帝支配を支えるものに変質したという説が 正しいのではないかと私は見ています。
しかし、キリスト教のワンネス哲学的側面は地下水脈のように 底流にあって社会の前進を目指した人々の頭にインスピレーションとして わき上がったと思います。
すべての人間が平等な権利をもっているという自然権思想は 究極のところ、一者が自己展開している多者(nature自然)だから 同じ権利を持っているところに発想の源泉があると思うのです。
私たちがもともと切り離されたバラバラの実体であるならば 自分のグループさえ権利が保障されたら 他のグループには低いレベルの権利しかあたえらなくても いっこうにかまわないわけです。
宗教的二元論はそうした思考を生みます。
(2)
アメリカ独立宣言には、続けて 譲ることができない権利とは、「生命、自由、および幸福追求の権利」であり その権利を守るために政府がつくられた(社会契約論)。
その政府が、人々のゆずることのできない権利を侵すならば、 人民は抵抗し、革命おこし、政府を取りかえる権利をもつ(革命権) が述べられます。
こうした西洋で培われた自由と民主主義の思想は 自由民権運動の中である程度、日本に持ち込まれ 1946年からの日本国憲法の原理の中に取り入れられました。
私たちは、資本主義物質文明を超え、新しい時代をめざすにあたって 自由と民主主義をめざした先駆的な運動を継承し それをさらに実のあるものにしてものにしてゆく立場に立つことが必要だと思います。
(3)
その際、三つの点に留意する必要があります。
一つは、ブッシュ政権が典型的なように、アメリカは「自由と民主主義」の名のもとで国内の資本主義を超えようとする傾向に「アカ」「共産主義」のレッテルを貼り、孤立させて排除してきました。
そしてベトナム戦争、イラク戦争など「自由と民主主義」を擁護するという大義で 非道な侵略戦争を行い、無数の罪無き人々を殺害してきました。
故丸山真男は、1964年に出版された本の追記で次のように述べています。
「これは現在アメリカで進行している過程ですけれども、 日本でも今後ますます行われるでしょう。
それは『民主主義的自由』という考え方を 漸次限定して行って、国民の意識なり、思想を規格化し、画一化してゆくことです。
元来、英米流の民主主義は、そういう思想なり言論なりの面における 多様性の尊重、多様性を通じての統一ということが前提となっている。
ところが「民主主義」が自己を積極的実現してゆく方向でなく 「民主主義」の名において民主主義の敵を排除するということが第一の主要な課題になって行く。
異端の排除=民主主義的自由と考えられてくるということです。 ・・・
個々の政治家なり政党なりの批判は許しても、体制自身の批判はタブーになる。 ・・・
(マカッカーシズム)ほど露骨でなくても、日本も多少ともそういう方向に進んでいる。」
これは、私たちが、資本主義物質文明を超えようとする運動を作り出そうとする場合にも きわめて重要な原理だと思います。
「多様性の尊重」「多様性を通じての統一」というこの丸山真男の言葉は、 サーカーの言葉でもあり、ケン・ウィルバーの言葉でもあります。
「多様性を通じての統一」という言葉は、マントラのように 絶えず、自分に言い聞かせる必要があります。
二つ目は、「自由」についてです。
私たちは三つの存在レベルがあると考えています。
物質レベル、知的・文化的レベル、スピリットのレベルです。
物質レベルは有限の世界です。限りある世界です。
富と貨幣もまた有限です。
一方に蓄積しすぎたら、他方に不足が生じます。
物質レベルの「自由」は、制限をなくしたら その財の力で、どんどん蓄積してゆきます。
したがって、財をもつものがさらに蓄財する「自由」に制約をかける必要があります。
すなわち物質レベル=経済レベルでは、「自由」に制約が必要です。
多国籍企業や金融資本の投機活動の「自由」に制約をかけることが必要です。
したがって、物的レベルでは「自由」に制限をかけ 知的・文化的レベル、スピリットのレベルにおいて「自由」を継承し 発展させてゆくべきだと思います。
三つ目は「民主主義」です。
民主主義は、すべての構成員が対等な権利をもち、その合意によって社会を運営してゆくことだと理解します。
現在の民主主義の理解は、政治レベルで何年かに一度、 選挙に勝って「万歳」と叫ぶ人を選ぶだけの民主主義です。
最悪な人を避ける意味で、もちろん重要な制度ですが、 選挙や政治活動の資金が必要なために、富裕者の資金援助のある人か やマスコミで大衆受けのする人が選ばれます。
数年の一度、選挙の時だけの民主主義です。
会社では民主主義的に幹部が選出されるわけではありません。
すなわち現段階の民主主義で、民主主義の終わりではないということです。
私達は、今日の民主主義を「含んで超える」立場から 経済的レベルや日常生活のレベルで民主主義を深化させてゆく必要があると思います。 これがホラーキー階層型の民主主義ビジョンです。
(参考) 「ホラーキー型民主主義の構想は、個と共同性の新たな地平を開く」 http://auwa.sakura.ne.jp/wakusei1/5horontheory/horontheoryzenbun.html
企業が民主主義的運営になり、構成員の合意で報酬配分がなされるならば 経営者が一般の従業員よりも日本で100倍、アメリカで1000倍の報酬を得るというような 格差は生じないと思います。
(ただし、当面は、経営幹部も含めて、報酬の最低と最高の割合を 法的に設定しておくことも必要だと思います)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Gods of star who are parents of human soul is working to become one under name of Heaven.
It is fact that Mitsuki express Heaven as one.
この論文は、天賦人権論の天は天の分身であるがゆえにすべての人間が人間として神の子にふさわしい生活が保障されるべきだ、です。
人間の魂の親である星の神々は、天の名のもとに一つになって活動しています。
ミツキが一者と表現しているのは事実なのです。
自由と民主主義の思想 明治初期に中江兆民などの自由民権運動家によってロックやルソーなどの天賦人権論や社会契約論などの普遍思想が日本に導入されます。
1945年の日本国憲法に基本的人権、国民主権が取り入れられたことによって 日本でも、そのスピリットが定着しているかはさておいて、制度としては実現することになります。
「六ツトセー 昔をおもえば亜米利加の独立したのもむしろ旗 コノいさましや 七ツトセー なにゆえお前がかしこくて 私らなんどは馬鹿である コノわかりやせぬ」 民権数え歌にはアメリカ独立がでてきます。
イギリス、フランス、アメリカなどの市民革命を準備した天賦人権論と社会契約論を簡単に見ておきましょう
トマス・ジェファーソンの起草したアメリカ独立宣言で考えます。
英文の「アメリカ独立宣言」 http://en.wikisource.org/wiki/United_States_Declaration_of_Independence
(1)
all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights
「すべての人間Menは平等にクリエイトされている。 クリエイターによって一定の譲ることができない権利を賦与されている」
クリエイトとは何でしょう。創造です。
クリエイターとは創造者です。
一者が多者として自己展開しているというワンネス哲学を理解できない多くの人々は 多者から切り離された一者(神)が、多者に平等な権利を与えたと読んだと思います。
しかし、(この文章を書いたトマス・ジェファーソンがどう考えていたかは、研究しないとわかりませんが) 私は、形なき無限の一者(クリエイター)が多者として自己展開しているという見方から すべての人間(多者)は一者の分身であるのだから、平等の権利を賦与されているのだと読みます。
もし、あなたが忍法で分身の術をつかったとすれば、分身の一人だけに特別な権利を与えないでしょう。
役割の違いはあったとしてもすべての分身に同じ権利を与えるでしょう。
私は本来のイエスの教えは、一なる無限の形なき一者の展開の分岐としてあなたが存在しているという ワンネス哲学の教えだっただろうと思います。
だから、誰の心にも、その心を超えた奥底に「神の国」があるのだと思います。
そして、人間の心が作り出した人間に似せた神の像を拝む偶像崇拝が禁止されていたのだと思います。
神は形無き無限の一者にほかならないからです。
ワンネス哲学はすべての人を形なき無限の一者から分岐した兄弟だと見るからです。
人民に力を与えるワンネス哲学に対して支配者に権力を集中させようとする人々が 依拠するのが王権神授説でした。
国王の権力は神から与えているから人民は国王の命令をききなさいというものです。
この神(一者)と多者は分離してしまい、自分の分身をえこひいしています。
これは人間の心が人間に似せて作り上げた一なる神にほかなりません。
無限の、形と属性のないワンネスの一者ではありません。
本来、ワンネスの観点であった原始キリスト教は、 325年のニケーアなどでの一連の宗教会議で ローマ帝国の皇帝支配を支えるものに変質したという説が 正しいのではないかと私は見ています。
しかし、キリスト教のワンネス哲学的側面は地下水脈のように 底流にあって社会の前進を目指した人々の頭にインスピレーションとして わき上がったと思います。
すべての人間が平等な権利をもっているという自然権思想は 究極のところ、一者が自己展開している多者(nature自然)だから 同じ権利を持っているところに発想の源泉があると思うのです。
私たちがもともと切り離されたバラバラの実体であるならば 自分のグループさえ権利が保障されたら 他のグループには低いレベルの権利しかあたえらなくても いっこうにかまわないわけです。
宗教的二元論はそうした思考を生みます。
(2)
アメリカ独立宣言には、続けて 譲ることができない権利とは、「生命、自由、および幸福追求の権利」であり その権利を守るために政府がつくられた(社会契約論)。
その政府が、人々のゆずることのできない権利を侵すならば、 人民は抵抗し、革命おこし、政府を取りかえる権利をもつ(革命権) が述べられます。
こうした西洋で培われた自由と民主主義の思想は 自由民権運動の中である程度、日本に持ち込まれ 1946年からの日本国憲法の原理の中に取り入れられました。
私たちは、資本主義物質文明を超え、新しい時代をめざすにあたって 自由と民主主義をめざした先駆的な運動を継承し それをさらに実のあるものにしてものにしてゆく立場に立つことが必要だと思います。
(3)
その際、三つの点に留意する必要があります。
一つは、ブッシュ政権が典型的なように、アメリカは「自由と民主主義」の名のもとで国内の資本主義を超えようとする傾向に「アカ」「共産主義」のレッテルを貼り、孤立させて排除してきました。
そしてベトナム戦争、イラク戦争など「自由と民主主義」を擁護するという大義で 非道な侵略戦争を行い、無数の罪無き人々を殺害してきました。
故丸山真男は、1964年に出版された本の追記で次のように述べています。
「これは現在アメリカで進行している過程ですけれども、 日本でも今後ますます行われるでしょう。
それは『民主主義的自由』という考え方を 漸次限定して行って、国民の意識なり、思想を規格化し、画一化してゆくことです。
元来、英米流の民主主義は、そういう思想なり言論なりの面における 多様性の尊重、多様性を通じての統一ということが前提となっている。
ところが「民主主義」が自己を積極的実現してゆく方向でなく 「民主主義」の名において民主主義の敵を排除するということが第一の主要な課題になって行く。
異端の排除=民主主義的自由と考えられてくるということです。 ・・・
個々の政治家なり政党なりの批判は許しても、体制自身の批判はタブーになる。 ・・・
(マカッカーシズム)ほど露骨でなくても、日本も多少ともそういう方向に進んでいる。」
これは、私たちが、資本主義物質文明を超えようとする運動を作り出そうとする場合にも きわめて重要な原理だと思います。
「多様性の尊重」「多様性を通じての統一」というこの丸山真男の言葉は、 サーカーの言葉でもあり、ケン・ウィルバーの言葉でもあります。
「多様性を通じての統一」という言葉は、マントラのように 絶えず、自分に言い聞かせる必要があります。
二つ目は、「自由」についてです。
私たちは三つの存在レベルがあると考えています。
物質レベル、知的・文化的レベル、スピリットのレベルです。
物質レベルは有限の世界です。限りある世界です。
富と貨幣もまた有限です。
一方に蓄積しすぎたら、他方に不足が生じます。
物質レベルの「自由」は、制限をなくしたら その財の力で、どんどん蓄積してゆきます。
したがって、財をもつものがさらに蓄財する「自由」に制約をかける必要があります。
すなわち物質レベル=経済レベルでは、「自由」に制約が必要です。
多国籍企業や金融資本の投機活動の「自由」に制約をかけることが必要です。
したがって、物的レベルでは「自由」に制限をかけ 知的・文化的レベル、スピリットのレベルにおいて「自由」を継承し 発展させてゆくべきだと思います。
三つ目は「民主主義」です。
民主主義は、すべての構成員が対等な権利をもち、その合意によって社会を運営してゆくことだと理解します。
現在の民主主義の理解は、政治レベルで何年かに一度、 選挙に勝って「万歳」と叫ぶ人を選ぶだけの民主主義です。
最悪な人を避ける意味で、もちろん重要な制度ですが、 選挙や政治活動の資金が必要なために、富裕者の資金援助のある人か やマスコミで大衆受けのする人が選ばれます。
数年の一度、選挙の時だけの民主主義です。
会社では民主主義的に幹部が選出されるわけではありません。
すなわち現段階の民主主義で、民主主義の終わりではないということです。
私達は、今日の民主主義を「含んで超える」立場から 経済的レベルや日常生活のレベルで民主主義を深化させてゆく必要があると思います。 これがホラーキー階層型の民主主義ビジョンです。
(参考) 「ホラーキー型民主主義の構想は、個と共同性の新たな地平を開く」 http://auwa.sakura.ne.jp/wakusei1/5horontheory/horontheoryzenbun.html
企業が民主主義的運営になり、構成員の合意で報酬配分がなされるならば 経営者が一般の従業員よりも日本で100倍、アメリカで1000倍の報酬を得るというような 格差は生じないと思います。
(ただし、当面は、経営幹部も含めて、報酬の最低と最高の割合を 法的に設定しておくことも必要だと思います)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods