2011-03-04の作曲&録音「河上肇 枕上浮雲」
(video inspired by god of star)
(Marx thought to save proletariat by making sharing of means of production)
This article is true Marxism.
Japanese communist movement was begun by true understanding of Marxism.
This point of view of Kawakami Hajime is very important.
Marx did not write about rule of proletariat.
Marx thought to save proletariat by making sharing of means of production.
Sharing means of production makes economic democracy.
Economic democracy means is rule of workers related.
Understanding of Kawakami was exact.
Leader of society should be high level of spirituality person.
この論文は真のマルクス主義です。
日本の共産主義運動はマルクス主義の真の理解からはじまりました。
河上肇の見方はきわめて重要です。
マルクスはプロレタリアの統治について書きませんでした。
マルクスは生産手段の共有にすることよってプロレタリアを救うことを考えました。
生産手段の共有は経済を民主主義にします。
経済民主主義は関係する労働者が運営することを意味します。
河上肇の理解は正確でした。
社会のリーダーはスピリチュリティの高いレベルの人にになわれるべきです。
日本の社会主義思想 河上肇
私たちは先行するものを「含んで超える」というスタンスをとります。
したがって、資本主義物質文明の克服をめざす立場から
普遍思想であるマルクスの科学的社会主義の
日本共産党を築いた人が
日本にどのようにマルクスを導入したかを
私たちが公平な目で検討することは有益と考えます。
ワンネス哲学では、一者が分岐して多者として自己展開しているとみます。
それは不断の過程であり、一つのところにとどまりません。
したがって、普遍的な性格をもった理論は
その地域の課題、その時代の波長、その人々の心に
適合したものとして咀嚼されて人々に提供できるかが重要となります。
(1) 河上肇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E8%82%87
①人間存在を三層としてとらえる
ワンネス哲学は、人間存在は、物的身体と心の二層から成り立っているのではなく、
さらにスピリットという三層目が存在しているという立場に立ちます。
このスピリットが普遍的な一者につながっていると考えます。
河上肇は、私たちとまったく同一のワンネス哲学の観点から『貧乏物語』を書きました。
そこに彼の著書が数多くの人々の共感を得た秘密があると思います。
「思うにわれわれ人間にとってたいせつなものはおよそ三ある。
その一は肉体《ボディ》であり、その二は知能《マインド》であり、その三は霊魂《スピリット》である。
しかして人間の理想的生活といえば、
ひっきょうこれら三のものをば健全に維持し発育させて行くことにほかならぬ。
たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る 。
またからだもよし、あたまもよいが、人格がいかにも劣等だというのでも困る。
されば肉体《ボディ》と知能《マインド》と霊魂《スピリット》、
これら三のものの自然的 発達をば維持して行くがため、
言い換うれば人々の天分に応じてこれら三のものをばのびるところまでのびさして行くがため、
必要なだけの物資を得ておらぬ者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべきである。」
河上肇『貧乏物語』
貧乏を論じる場合、肉体的維持のための生活必需品だけでなく、
知能《マインド》と霊魂《スピリット》を発達させるための時間的余力や資力が保障されているかも
考えるべきだというこの見方は優れていると思います。
今日の憲法25条で保障された「最低限度の文化的で健康的な生活」といった場合、
本来、この内容が含まれるべきだと思います。
②文明の進歩とは、「道」=スピリチュアリティにある。
物的進歩ではなく、できるだけ多くの人が「道」を見いだすことにあるとする次の文章も
私たちの考えとまったく同一です。
「一部の経済学者は、いわゆる物質的文明の進歩――富の増殖――のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、
余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事をもってのみ、
真実の意味における文明の進歩と信ずる。」
ここで言う「道」とは、人間存在のより深いレベルに達する道、すなわちスピリチュアリティを意味しています。
③「士」(スピリチュアリティの高い人)を育てること
河上肇は、スピリチュアリティの視点を入れて人々を観察しているために
単に物質的な豊かさを追求するのではなく「恒産なくして恒心ある」ところの「士」を
生み出すこと、すなわち人々のスピリチュアリティの発達の追求こそ課題においていることです。
資本主義物質文明を超える意味で、この視点はきわめて重要です。
「しかしながら、丈夫な土台を造らなければ立派な家はできぬということはほんとうであっても、
丈夫な土台さえできたならば立派な家が必ずできるというわけのものではない。
人はパンなくして生くるあたわず、しかしながら人はパンのみにて生くる者にもあらず。
それゆえ孟子は、恒産なくんば因って恒心なしとは言ったが、恒産ある者は必ず
恒心ありとは言っておらぬ。・・・
なおその前に「 恒産なくして恒心ある者は惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す」と言っておる。
しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、
社会の事情、周囲の風潮は いかようであっても、
それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる『恒産なくして恒心ある』ところの「士」なるものを造り出すにある。」
④「士」が社会のリーダーシップをとるべき
そういう「士」が社会のリーダーシップをとらないと社会はよくならないと次のように 述べています。
「実はそういう人間(士のこと)が出て社会を指導して行かねば、
社会の制度組織も容易に変わらず、
またいかに社会の制度や組織が変わったとて、
到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、
そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、
確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題 も直ちに解決されてしまうのである。
この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。」
サーカーは、サドヴィプラが社会のリーダーシップを握るべきだと論じていました。
河上肇が、社会のリーダーシップは、プロレタリアではなく「士」にあるべきだと言っているのは
それとまったく同じ思想です。
「それゆえ私は、社会問題を解決するがためには、社会組織の改造に着眼すると同時に、
また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きを置き、両端を攻めて理想郷に入らんとする者である。」
この記述もまったく私たちと考えが同じです。
⑤
日本における過去の思想を正当に位置づけて論じています。
これは、このシリーズを多次元統合アプローチとして展開している
スタンスと共通する面があります。
たとえば、孟子から引用しています。
「恒産《こうさん》なくして恒心《こうしん》あるはただ士のみよくするをなす、
民のごときはすなわち 恒産なくんば因《よ》って恒心なく
、 いやしくも恒心なくんば放辟邪侈《ほうへきじゃし》、
ますます道に遠ざかるを免れざるに至るを信ずるがためのみである。」
孔子からも引用しています。
「子貢が政《まつりごと》を問いし時、孔子はこれに答えて
〈食を足し、兵を足し、民をして之《これ》を信ぜしむ〉(顔淵第十二)」
日本の儒学者熊沢蕃山からも引用しています。
「食足らざるときは、士貪《むさぼ》り民は盗《とう》す、
争訟やまず、刑罰たえず、上《かみ》奢《おご》り下《しも》諛《へつろ》うて風俗いやし、
盗をするも彼が罪 にあらず、これを罰するは、
たとえば雪中に庭をはらい、粟《あわ》をまきて、あつまる鳥をあみするがごとし。
……これ乱逆の端なり、戦陣をまたずして国やぶるべし。
兵 を足すにいとまあらず。いわんや信の道をや。」(集義和書、巻十三、義論八)
また引用を略しますが、「浄土真宗の蓮如上人」「儀山《ぎざん》禅師」などなどの仏教の僧の言葉にも言及されています。
もちろん河上肇は経済学者ですから、経済的な数字の分析によって貧富の格差を論じていますが、
最近のほとんどの経済学の書物において、スピリチュアリティが忘れられ、物的な側面だけが論じられている時
前近代の賢者、聖者がもっていた人間のスピリチュアリティの発達論をベースに据えて
論じている河上肇の姿勢を私たちは継承すべきだと思うのです。
私たちはウィルバーやサーカーを研究しましたが
より多くの人と問題意識を共有するためには
前近代の賢者、聖者の論のスピリチュアリティの核心部分から学ぶ必要があります。
注
17才のマルクスの文章、マルクスを一部読んだだけの段階の河上肇の『貧乏物語』を 取り上げてそこにワンネス哲学を見ました。
それは、マルクスや河上肇の思想ではないと思われるかもしれません。
しかし、人間の心理構造は、幼少期、児童期、青年期、中年期、・・・の各時期が
前者を「含んで超える」形で、深部に過去を含んでタマネギの層のように形成されます。
したがって、全人類への愛を培っている彼らのワンネス哲学的見方は、その後の人生展開において 深部で作用しつづけたはずだと見ています。
参考 「『私』と心の発達」
心はタマネギの層みたいに過去を「含んで超え」て展開していることを述べたものです。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Japanese communist movement was begun by true understanding of Marxism.
This point of view of Kawakami Hajime is very important.
Marx did not write about rule of proletariat.
Marx thought to save proletariat by making sharing of means of production.
Sharing means of production makes economic democracy.
Economic democracy means is rule of workers related.
Understanding of Kawakami was exact.
Leader of society should be high level of spirituality person.
この論文は真のマルクス主義です。
日本の共産主義運動はマルクス主義の真の理解からはじまりました。
河上肇の見方はきわめて重要です。
マルクスはプロレタリアの統治について書きませんでした。
マルクスは生産手段の共有にすることよってプロレタリアを救うことを考えました。
生産手段の共有は経済を民主主義にします。
経済民主主義は関係する労働者が運営することを意味します。
河上肇の理解は正確でした。
社会のリーダーはスピリチュリティの高いレベルの人にになわれるべきです。
日本の社会主義思想 河上肇
私たちは先行するものを「含んで超える」というスタンスをとります。
したがって、資本主義物質文明の克服をめざす立場から
普遍思想であるマルクスの科学的社会主義の
日本共産党を築いた人が
日本にどのようにマルクスを導入したかを
私たちが公平な目で検討することは有益と考えます。
ワンネス哲学では、一者が分岐して多者として自己展開しているとみます。
それは不断の過程であり、一つのところにとどまりません。
したがって、普遍的な性格をもった理論は
その地域の課題、その時代の波長、その人々の心に
適合したものとして咀嚼されて人々に提供できるかが重要となります。
(1) 河上肇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E8%82%87
①人間存在を三層としてとらえる
ワンネス哲学は、人間存在は、物的身体と心の二層から成り立っているのではなく、
さらにスピリットという三層目が存在しているという立場に立ちます。
このスピリットが普遍的な一者につながっていると考えます。
河上肇は、私たちとまったく同一のワンネス哲学の観点から『貧乏物語』を書きました。
そこに彼の著書が数多くの人々の共感を得た秘密があると思います。
「思うにわれわれ人間にとってたいせつなものはおよそ三ある。
その一は肉体《ボディ》であり、その二は知能《マインド》であり、その三は霊魂《スピリット》である。
しかして人間の理想的生活といえば、
ひっきょうこれら三のものをば健全に維持し発育させて行くことにほかならぬ。
たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る 。
またからだもよし、あたまもよいが、人格がいかにも劣等だというのでも困る。
されば肉体《ボディ》と知能《マインド》と霊魂《スピリット》、
これら三のものの自然的 発達をば維持して行くがため、
言い換うれば人々の天分に応じてこれら三のものをばのびるところまでのびさして行くがため、
必要なだけの物資を得ておらぬ者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべきである。」
河上肇『貧乏物語』
貧乏を論じる場合、肉体的維持のための生活必需品だけでなく、
知能《マインド》と霊魂《スピリット》を発達させるための時間的余力や資力が保障されているかも
考えるべきだというこの見方は優れていると思います。
今日の憲法25条で保障された「最低限度の文化的で健康的な生活」といった場合、
本来、この内容が含まれるべきだと思います。
②文明の進歩とは、「道」=スピリチュアリティにある。
物的進歩ではなく、できるだけ多くの人が「道」を見いだすことにあるとする次の文章も
私たちの考えとまったく同一です。
「一部の経済学者は、いわゆる物質的文明の進歩――富の増殖――のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、
余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事をもってのみ、
真実の意味における文明の進歩と信ずる。」
ここで言う「道」とは、人間存在のより深いレベルに達する道、すなわちスピリチュアリティを意味しています。
③「士」(スピリチュアリティの高い人)を育てること
河上肇は、スピリチュアリティの視点を入れて人々を観察しているために
単に物質的な豊かさを追求するのではなく「恒産なくして恒心ある」ところの「士」を
生み出すこと、すなわち人々のスピリチュアリティの発達の追求こそ課題においていることです。
資本主義物質文明を超える意味で、この視点はきわめて重要です。
「しかしながら、丈夫な土台を造らなければ立派な家はできぬということはほんとうであっても、
丈夫な土台さえできたならば立派な家が必ずできるというわけのものではない。
人はパンなくして生くるあたわず、しかしながら人はパンのみにて生くる者にもあらず。
それゆえ孟子は、恒産なくんば因って恒心なしとは言ったが、恒産ある者は必ず
恒心ありとは言っておらぬ。・・・
なおその前に「 恒産なくして恒心ある者は惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す」と言っておる。
しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、
社会の事情、周囲の風潮は いかようであっても、
それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる『恒産なくして恒心ある』ところの「士」なるものを造り出すにある。」
④「士」が社会のリーダーシップをとるべき
そういう「士」が社会のリーダーシップをとらないと社会はよくならないと次のように 述べています。
「実はそういう人間(士のこと)が出て社会を指導して行かねば、
社会の制度組織も容易に変わらず、
またいかに社会の制度や組織が変わったとて、
到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、
そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、
確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題 も直ちに解決されてしまうのである。
この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。」
サーカーは、サドヴィプラが社会のリーダーシップを握るべきだと論じていました。
河上肇が、社会のリーダーシップは、プロレタリアではなく「士」にあるべきだと言っているのは
それとまったく同じ思想です。
「それゆえ私は、社会問題を解決するがためには、社会組織の改造に着眼すると同時に、
また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きを置き、両端を攻めて理想郷に入らんとする者である。」
この記述もまったく私たちと考えが同じです。
⑤
日本における過去の思想を正当に位置づけて論じています。
これは、このシリーズを多次元統合アプローチとして展開している
スタンスと共通する面があります。
たとえば、孟子から引用しています。
「恒産《こうさん》なくして恒心《こうしん》あるはただ士のみよくするをなす、
民のごときはすなわち 恒産なくんば因《よ》って恒心なく
、 いやしくも恒心なくんば放辟邪侈《ほうへきじゃし》、
ますます道に遠ざかるを免れざるに至るを信ずるがためのみである。」
孔子からも引用しています。
「子貢が政《まつりごと》を問いし時、孔子はこれに答えて
〈食を足し、兵を足し、民をして之《これ》を信ぜしむ〉(顔淵第十二)」
日本の儒学者熊沢蕃山からも引用しています。
「食足らざるときは、士貪《むさぼ》り民は盗《とう》す、
争訟やまず、刑罰たえず、上《かみ》奢《おご》り下《しも》諛《へつろ》うて風俗いやし、
盗をするも彼が罪 にあらず、これを罰するは、
たとえば雪中に庭をはらい、粟《あわ》をまきて、あつまる鳥をあみするがごとし。
……これ乱逆の端なり、戦陣をまたずして国やぶるべし。
兵 を足すにいとまあらず。いわんや信の道をや。」(集義和書、巻十三、義論八)
また引用を略しますが、「浄土真宗の蓮如上人」「儀山《ぎざん》禅師」などなどの仏教の僧の言葉にも言及されています。
もちろん河上肇は経済学者ですから、経済的な数字の分析によって貧富の格差を論じていますが、
最近のほとんどの経済学の書物において、スピリチュアリティが忘れられ、物的な側面だけが論じられている時
前近代の賢者、聖者がもっていた人間のスピリチュアリティの発達論をベースに据えて
論じている河上肇の姿勢を私たちは継承すべきだと思うのです。
私たちはウィルバーやサーカーを研究しましたが
より多くの人と問題意識を共有するためには
前近代の賢者、聖者の論のスピリチュアリティの核心部分から学ぶ必要があります。
注
17才のマルクスの文章、マルクスを一部読んだだけの段階の河上肇の『貧乏物語』を 取り上げてそこにワンネス哲学を見ました。
それは、マルクスや河上肇の思想ではないと思われるかもしれません。
しかし、人間の心理構造は、幼少期、児童期、青年期、中年期、・・・の各時期が
前者を「含んで超える」形で、深部に過去を含んでタマネギの層のように形成されます。
したがって、全人類への愛を培っている彼らのワンネス哲学的見方は、その後の人生展開において 深部で作用しつづけたはずだと見ています。
参考 「『私』と心の発達」
心はタマネギの層みたいに過去を「含んで超え」て展開していることを述べたものです。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods