Total Philosophy: Anselm's Ontological Argument (video inspired by god of star)



(Human morality develops base on law of dialectical materialism also)

Dear
I am cosmic program in your mind.
Project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article argues that development of human morality.
Human morality develops base on law of dialectical materialism also.
Law of dialectical materialism is that development of structure is based on extended development of field.
Structure of morality develops base on extension of range of specific points which human think as member.
When thinking whole human being as member, structure of morality reaches highest level.


こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
天と神々のプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文は人間のモラリティの発達を論じています。
人間のモラリティも,弁証法的唯物論の法則にもとづいて発達します。
弁証法的唯物論の法則は,構造の発展は場の拡張的発展にもとづいていることです。
モラリティの構造は,人間が仲間と考える特定点の範囲の拡張にもとづいて発達します。
人間全体を仲間として考えるとき,モラリティは最高のレベルに達します。


stage of development of morality
モラリティの発達段階


 「私」と心の発達
1、自己中心思考  前慣習道徳段階
   私1・・・身体的自己
   私2・・・情動的自己
   私3・・・初期言語的自己
2、社会中心思考  慣習道徳段階
   私4、・・・社会的自己

3、世界中心思考  後慣習道徳段階
   私5 ・・・合理的自己
   私6・・・・・実存的自己
4、コスモス中心思考  後後慣習道徳段階
   私7・・・・アティマーナス
   私8・・・・ヴィジナーナマヤ
   私9・・・・・ヒランマヤ
5、非二元・・・究極の状態
   私10
   私10へ向かう努力


「私」と心の発達

ケン・ウィルバーの「進化の構造1」という著書にもとづいて、ときどきP.R.サーカーの考えにもとづいて、誕生直後の赤ちゃんから最高レベルの心の持ち主に至るまで、個人の心の発達について説明してゆきます。

心の発達について順番をおって説明してゆきますが、発達とは何かを理解する必要があります。
発達とは、道の上を歩いてとおりすぎるようなことではありません。
発達とは、たまねぎが皮をかぶって大きくなってゆくように
(たぶん、本当はたまねぎの場合は内側からあたらしい皮ができてゆくのだとおもいますが、説明上、皮をかぶるようにイメージしてください)
高い発達段階はそれまでの低い発達段階をすべて含んでいるのです。
高い発達段階の細胞には、それまでの低い発達段階の分子レベルを含み、分子レベルにはそれよりも低い原子レベルを含んでいますね。
同じように今のあなたの心の中に、今までの心の発達レベルをすべて含んでいるのです。
このことは、実際に説明する中でみてゆきます。

第一部 自己中心思考(前慣習道徳段階)

(1)「私Ⅰ」の成立・・・身体的自己の誕生(0才から2才の時期の課題)
生まれてすぐは、物理的な対象が自分とは独立して存在していることが理解できません。
毛布を噛むことと自分の指を噛むことの区別がつきません。自分の身体が、母の身体やまわりの物質圏とは別の存在であることに気づくこと、これが、「私、そのⅠ」の成立です。

この「私、その1」の成立する前の状態を、ピアジェは「原初的未分化」と呼びました。
母親から自分の身体が分化しておらず、心理的には「口唇期」と呼びました。
フロイトは、「原初的ナルシズム」と呼びました。
この「原初的未分化」の状態から物質的身体としての「私、その1」の成立に失敗した場合、自分の座った「イス」と自分の尻が区別できないような精神病になるとケン・ウィルバーは述べています。

「私 その1」の確立に失敗した軽度の症状のケースとして、青年期に達しても終わらない「指しゃぶりがある」のではないかと、私は推測しています。
あくまで私の推測です。
テレビを見ていたらなんとかという女性タレントが「私は高校生になっても指しゃぶりしていた」といっていました。
実在の家義先生をモデルにしたヤンキー先生のドラマで、彼は大学生になっても指しゃぶりをしていました。

誕生後は、自分の身体は、母親のお乳を吸うことで物質的に母親の物資的身体とつながっています。
赤ちゃんが口でおっぱいをチューチューしていることは、自分の物質的身体が母体と完全に分離していない象徴だと考えます。
十分にチューチューできた体験をもつことがチューチューのレベル=「原初的未分離」を超えて、「身体的自己」の完全な成立につながります。

ドラマでは家義先生は本当の母親は離婚してしまったことになっていました。
彼のチューチューは、誕生直後母親との十分な肌のふれあいがなかったことを暗示しています。
北星余市高校に入学して、友人に自分の暴力をあやまるために自分の足の親指の爪をナイフで削って、相手に渡して、これでかんべんしてくれというショッキングなシーンがありました。
本当の話をドラマにしていると考えられます。
自分の足を指をナイフで削るというのは「身体的自己」の確立の不充分性のあらわれだと考えられます。
誕生直後、おっぱいしゃぶりなど、母親の身体、肌と十分接することが大切とおもわれます。
十分に接してこそ安定した「私 その1」の発生を保障し、自分の身体を大切におもえる意識が発生するとおもわれます。

(2)「私2」の成立・・・情動的自己の成立

生まれてすぐの赤ん坊は、自分が感じている情動と母親や他者の情動を区別できません。
母親を中心とする周囲の人間の感情がストレートに赤ん坊の感情となります。

自分の情動と他人の情動を区別することができることが情動的自己、すなわち「私 その2」の成立です。
物的身体レベルに意識があった段階を「含んで超えて」情動レベルに意識がゆきます。
物的レベルから情的レベルに自己意識(私)が深まっているのです。

それは、2才くらいまでに成立し、個人差があっても身体的自己(私 その1)の成立の後という順番はかわりません。
周囲の情動から自分の情動を差異化(分化)する情動的自己の成立が不充分だった病理が「ナルシズム」「境界的症状」です。
それは、自分の情動をまわりの情動と分離させた上で統合できないことです。
まわりの情動の中に「溺れている」とか「洗い流される」と表現され、全世界を自分の感情の拡大としてみることです。

心はたまねぎのような構造となっており、その1の身体的自己を含んで超えてその2の情動的自己が成立し、さらにそれらを含んで、その3、その4・・・と発達してゆきます。
その4まで心が発達した人であっても、心の中に情動的自己は働きます。

心の内部の情動的自己の部分が「境界症例」のような病理をもっている夫婦の場合、性生活はうまくゆかないと推測します。
なぜなら、夫が、自分の性的情動をそのまま相手の情動とみて、自他の情動を区別できない可能性があるからです。
最近、増加しているドメスティック・バイオレンスを生み出す要因の一つを構成しているかもしれません。

病理までゆかなくても、誕生後のまわりの情動と自分の情動が分離していない段階で、どのような情動の海の中で暮していたのかが、生涯、心の基底で影響を続けます。
子どもを授かった喜びに満ちた家族にあやされ、抱かれた赤ん坊は、自分の情動と周囲の情動の区別を心地よく知ることになるでしょう。

 高校二年生の女子のA子さんが私に相談しました。
「先生、私は今まで毎日彼氏といっしょだったの。
ところが、彼は友だちとも遊びたいから会うのを週に3回にしようと言うの。
私は会いたいのに。ひどいわ」
本当に彼氏が不当であると考えていました。
彼女は、自分が毎日会いたいという気持ちを彼に強く投影させ、彼も同じ気持ちをもつべきだと考えていました。
彼氏と毎日いたいという強烈な彼女の感情は、生まれた時、十分に家族の愛情の海で育てられなかったことを示しているのではないか。
そう思って、彼女にたずねると、生まれた時から両親がおらず、祖母に育てられたとのことでした。
今も「心の奥がいつも寂しい」そうです。
そのため、彼女は、心の第二層の部分の情動的自己(私 その2)のレベルに、ナルシズムの病理を抱えることになったとおもいます。

そして人生の最初の時期に体験する情動の海が、対立と憎悪の海、干からびた海だったりすると、その人の心の第二層の部分に重要な問題を抱えて人生を送ることになると推測します。
たとえば、他人が苦しんでいるのに無関心で、周囲の情に共感して心を振るわせることができない冷たい人間になる可能性があると私は考えます。

したがって人生最初の時期の言葉が成立していない段階の赤ちゃんは、その身体と情動がきわめて大切に扱われなくてなりません。
心の各層は、より発達したレベルにおいても存在をつづけています。
そして第二の層である情動の層のレベルも、周囲の情動と適切な区別と調整をはかりながら存在しています。

私の子どもが、8才ころ、学童保育の懇談会にゆくと指導員から「頭を壁に叩きつけているしぐさをする」と指摘されました。
ちょうどその時、家庭で父と母が夫婦喧嘩の憎悪の海の中にいました。
家族の情動の層は、子どもの情動の層に強い影響を与えていました。
父の母の喧嘩であっても子どもの情動に強い悪影響を及ぼします。
子どもと情動の層を共有してしまうところで、夫婦が喧嘩すべきではありません。

(3) 補足・・・なぜ、赤ちゃんは愛されることが大切なのか

身体的に母から分離した安定した自己=「私1」の成立のために、母に乳房を通じてでも、身体的に抱きしめることによってでも、身体的融合を体験することが必要だと述べました。

まわりの情動から分離した安定した自己=「私2」の成立のためには、父母や家族のかもしだす情動の海が、平穏で和やかなものであり、赤ん坊を授かった喜びに満ちた情動的働きかけ(おー、よしよしとあやしたり)がなされるべきだと述べました。

なぜ、身体的接触や温かい情動的働きかけが必要なのでしょうか。
なぜ、赤ん坊をミルクだけやったり、テレビに子守させておいたらいけないでしょうか。
私は次のように解釈しています。

畑に豆の種をまいたとします。
土の中の種は、熱や水分という適切な環境のもとで、次第に発芽(差異化)してゆきます。
誕生後、母に抱かれ、家族の愛の情動の海の中にあることは、発芽前の豆が、雨水と太陽熱を必要としていることと同じだと考えます。

暖かくあやすと赤ん坊は微笑みます。
その喜びの交流の中でこそ、情動の海は、赤ん坊の小さな島、父の島、母の島というふうに差異化するでしょう。
もし、情動の海が、対立と憎悪のはげしい波の中にあったならば、赤ん坊の小さな島は呑み込まれるでしょう。

生まれたばかりの赤ん坊は何もわからないから大丈夫と夫婦ゲンカをしているとしましょう。
憎しみの情動の波は、ベビー・ベッドで横になっている赤ん坊の情動に影響を与え、その赤ん坊の一生を通じて情動的な影響をもつでしょう。
(私が実証的証明をもっているわけではありません。
そしてこの論のもとになっているケン・ウィルバーがこのように言っているわけではありません。
しかし、ケン・ウィルバーの心理発達の論をつきつめるとこういうことになります)

(4)「私3」の成立・・・初歩的言語的自己の成立

2才から4才の時期は、言語的心圏の最初の段階です。
言語的心圏の成立に意義について「心的意志と身体的情動を区別し、心と身体を統合」「生物圏の超越」とケン・ウィルバーは表現しています。
そしてこの超越に失敗するとナルシズムと境界症になるとしています。

どういうことでしょうか。
たとえば、「おしっこがしたい」という気持ちは身体的情動です。
「心的意志」とは、言語を媒介とした「おしっこをしよう」という意志です。
オシメをされておしっこをしている時には、意志を媒介せずにただおしっこを身体的情動のままにおしっこをしています。
その段階はまだ生物圏にあります。

言語を媒介した時、「おしっこしよう」「おしっこをもう少しがまんしよう」というふうに「心的意志と身体的情動と区別した上で心と身体を統合」できます。

お腹が空いた身体的情動を感じたとします。
赤ん坊は泣くという情動的表現でお乳をもとめます。
言語的自己が成立すると、お腹が空いているという身体的情動を「まんま」と言葉で訴えます。
この言語的心圏に登場した「私」は、「生物圏」の情動を超越しており、身体と心を統合し(つなげて)ています。

「心的意志と身体情動を区別して統合」に失敗したらどうなるでしょうか。
自分の身体衝動を適切にコントロールできず、「私」は、情動と気分・感情によってふりまわされる人生をおくることになるでしょう。

授業中に平気で鏡を見て化粧し、携帯で電話をし、休憩時間と同じようにしゃべる高校生がいます。
素朴で悪意はありません。
ちゃんと指導して、それがマナーに反する悪いことだとわかっても自分をコントロールできません。
授業中しゃべりつづけるその子は、屈託なく天真爛漫です。
こわいタイプの教師の時には静かにできます。
「私」が身体と情動という表面のレベルにありますから、快・不快、怖いなどにだけ反応するのです。

これは「身体と心の区別と統合」に失敗しているナルシズム(自己中心性)です。
身体的情動を心が適切にコントロールできるように発達するためには、言語成立時の言葉かけが大切であると考えます。
子どもが泣いて何かを訴えている時、「よしよし、お腹が空いたのか」などと情動と対応させる言葉をかけることが必要です。
そこで言葉による身体的情動のコントロールを知ることができます。

テレビにお守りをさせた場合、テレビは言葉を語りますが、テレビの言葉は、身体情動をコントロールできる「私」を成立させることはできません。
最近の小学生が昔とちがって衝動をコントロールできず、学級崩壊を引き起こす子がたくさんでてきています。
親がじっくり赤ん坊の相手をする余裕がなく、「私・・その3」の成立時に、安易にテレビにお守りをさせていることも背景にあるのではないかと推測しています。

(5)「私3」の病理・・・言語的自己による抑圧

奈良公園の鹿は、おしっこしたい衝動でおしっこします。
「おしっこしたい」という言語的自己(私3)が出現した時、はじめて、時と場所を考えておしっこすることができます。

それは、言語的自己が、情動的自己、身体的自己を「抑圧」することが可能になることでもあります。
より高次の「私3」は、より低次の「私2」「私1」を抑圧できるのです。

この抑圧の病理の身体症状が、各種の神経症です。
中学、高校と苦手な数学のテストの時、いつも腸が痛くなる人がいました。
その人は、小さい時、算数をまちがうと母親にものさしでしばかれていたそうです。
テストでいい点をとらなくてはならないという強迫観念が、身体と情動の自然な流れを抑圧していたとおもわれます。

さらに高次の私に発達し、強い責任感がでてくると「これだけの仕事をこなさなくてはならない」と追い詰められます。
身体がぼろぼろになっても仕事にがんばらざるをえません。
そして突然死や過労死になります。

言語的自己の出現は、身体的情動をコントロールできるようになることであり、生物圏から人間圏への大きな進歩です。
しかし、生物圏は、人間存在の土台です。
身体と情動が適切に維持されてこそさらなる人間としての発達が可能になるのであり、身体と情動(人間の中の動物性)に対して敬意を払い、尊重しなくてはなりません。
心身が疲れた時は休めばいい、泣きたい時は 泣けばいいんだと言語的自己による抑圧をゆるめなくてはなりません。
セラピー(治療)は、高次の自己による身体的情動の「抑圧」を緩めるところにあります。

子どもの言語的自己が成立するころに、たとえば、おねしょしたことを親がひどく非難したとしましょう。
あるいは、子どもがお店で「これがほしい」とねだったことをひどく非難したとしましょう。
スーパーで買い物をしていると、ひどく子どもをなじっている親をよくみかけます。

そのように子どもの身体と情動の自然な流れを非難するならば、子どもは、無意識に自分の身体と情動を「抑圧」するようになるでしょう。

食事やトイレのマナー、洗面や歯磨きなど、この時期のしつけは大切ですが、それは、人間の社会生活でどうしたらいいか、すなわち身体と情動の適切なコントロールを教えるものであって、それが過剰となって身体と情動を「抑圧」するものにならないようにする配慮が必要です。

次の二つの極端を避けなくてはなりません。
一方は、しつけがなくて、自分の身体と情動をコントロールできない子に育てること。
他方でしつけがゆきすぎて、自分の身体と情動を無意識に「抑圧」してしまう子に育てることです。

第二部 社会中心思考思考(慣習道徳段階)

「私 その4」の成立・・自己中心から社会中心へ(良い子へ) 前操作思考の段階の「私 その3」は、自己中心的であると説明しました。

(「私」が、その4、その5、その6へと発達するに従って自己中心性が減少してゆきます。
しかし、自己中心性が無くなるわけではありません。
心はたまねぎのように前の段階を「含んで超えて」ゆくからです。
「私 その4」の人は「私 その1+2+3+4」なのです)

算数の足し算を習いはじめたころ、指をおって数えますが、それは前操作段階です。
具体操作段階の「私 その4」は、自分と他者の区別、主観と客観の区別がつきます。
たとえば頭の中の主観の中にある数字と実際のミカンが何個という客観とが区別され、頭の中で数字を具体的に操作できるのが具体操作段階です。
(と私は解釈しています)

したがって、自分の気持ちとは区別される客観的な世界のルールを理解でき、それにあわせる能力が生まれます。
自己中心思考から社会(自分の所属するグループ)中心思考に発達します。
先生の指導に素直に従う良い子になります。
小学生の時期です。

今日、小学生の学級崩壊が言われます。
本来、社会中心思考に発達する時期ですから、学級崩壊するわけがないのです。

四象限のすべてからの考察が必要ですが、左上象限の個人の心の発達の視点からみると、「私 その4」の成立に問題があるのです。
なぜ、「私 その4」が成立しないかというと、「私 その3」までの自己中心性の段階で十分尊重されていないから、「私 その4」の社会中心へ脱皮できないのです。
私はそう考えます。

もちろんどういう子であっても、この時期に社会中心へ脱皮できるように適切な指導が必要であることはいうまでもありません。
それは子どもの心の「私 その1」「その2」「その3」の部分を十分に尊重しつつ、「私 その4」に進むためのしつけなどをおこなうことです。
「その1、2、3」の部分を尊重しないしつけは、すなわち十分に愛情のあるアプローチをしない「その4」のためのしつけは、心の底に「反作用の潜在力(サンスカーラ)」を蓄積させ、後に状況に応じてそれが噴出することになるでしょう。

「私 その4」の病理の可能性

どの段階も病理になる可能をもっています。
「私 その4」の成立の時期には、「脚本の病理」にはまる可能があります。
他者の視点を受け入れるところにこの段階の特徴があります。
まわりの人が「この子はなんとだめな子でしょう」というとその子は「自分はだめな子なんだ」とおもいます。
母親が離婚していなくなるとちょっとした言葉から「ママは自分が嫌いだから出ていった」とおもいます。
それは心の奥の「私 その4」の層から、生涯にわたって無意識のレベルでその人に悪影響を与えつづけます。

この病理のセラピー(=治療)は、脚本を書き換えることです。
セラピストはリラックスさせながら、子ども時代の無意識のレベルの層にアクセスして脚本を書き換えさせるのです。
たいてい自分の子を本当にだめだとか嫌いだとかという親はいませんから、大人のレベルで見返すと脚本を書き換えることができます。

この脚本の病理の変形は、良い子型不登校です。
「あなたはとても勉強できるし、まじめだし」と親から期待されます。
「私 その4」がしっかり確立している良い子は、親からの期待に応えようとします。
自分のもっている能力以上をだして親の期待に応えようと優秀な良い子をがんばって演じているうちに、心がそのストレスと緊張で「つかれ」ます。
ある日、緊張の糸が切れます。
不登校になります。

このケースの不登校は、「登校しなさい」という登校刺激よりは、休ませて回復させる方が、効果があります。
脚本を書き換える必要はありませんが、脚本と自分のあり方を適切に調整してゆくこが必要です。
(ただし、能力のある子は最後まで脚本にそってがんばりつづけることができるでしょう。
脚本はその子の生涯に大きな影響をあたえます)

(教育界では、不登校といえば、この「良い子」型タイプだと心理学者が分析し、「登校しなさい」というのは逆効果だから「学校に登校しなさい」と働きかけないほうがいいとされてきました。
不登校のある特定のタイプへの対処法が現場にひろがったとおもいます。
不登校についてのテーマではないので、論じませんが、不登校の典型とされた良い子型不登校は、不登校のタイプの一部にすぎません)

「私4」の問題・・・グループ中心思考

この具体操作段階の「私4」は、他者の役割を受け入れ、他者を演じることもできます。
自己かから独立した他者を認識しているからです。
自己中心の段階からすると大きな前進でした。
学校では先生、会社では上司の指示に従うよい子です。

しかし、それは社会の要請に応えるメンタリティですから自分の属する社会の規則や神話やドグマの中にはめこまれます。
自分の属する社会(グループ)中心思考となってしまいます。
したがって、この段階のよい子に愛国心教育を行うならば、容易にお国のために生命を捧げる感情を育てることができます。

アジア諸国に侵略した兵士をまつってある靖国神社に参拝している議員グループが「お国のためにつくした人を参拝するのは当然だ。アジアの人々が理解してくれないのは残念だ」と語っていました。
彼らは、「私 その4」の「よい子」段階にあります。
良い子が、その環境から愛国心を注入されて、自国中心思考に固まってしまった存在です。
だから、自国以外の民衆の気持ちを理解することできず、自分の参拝行為がアジアの人々を憤慨させるものだということがまったく理解できません。
中国の人々の反日デモも、中国政府が反日教育をやっているからだとしか認識できません。

自分の属する日本と外国である中国も公平に見ることができる視点(世界中心思考)に達するには、「私 その5」に成長しなくてはなりません。
「私 その4」は、「良かれ、悪しかれ、我が祖国」であり、「私 その5」になって、「我が祖国は本当に正しいのだろうか」と問うことができます。

  第三部 世界中心思考  普遍性の獲得  (後慣習道徳段階)

「私5」の成立・・・合理的自我

「私4」は、心の中で、見る私(主観)と見られる対象(客観)が、分離することで成立しました。
その分離によって社会から見られている私の認識が成立し、社会から期待される役割を果たす「よい子」になります。

「私5」とは、「見る私」と「見る対象」の両方を見ることのできるレベルに達した「私」のことです。
「私4」の段階は主観と客観が分離することで生じましたが、「私 その5」の段階は主観と内奥の自己が分離し、主観を客観化できることで成立します。

「私4」は、主観(私の心)にはりついており、客観的に観察できません。
主観(私の心)は、自分の属する社会の文化やルールの中で形成されます。
したがって、どうしても「自分のグループ中心思考」になります。

「私5」の内奥の私は、「私4」のように自分のグループへのはまり込みから脱却します。
自分を「日本国家」「日本人」に同一化しません。
もっと普遍的な目、中国人も日本人も同じ人間であり、日本人と中国人を超えたレベルから考えるようになります。

「私5」の病理・・アイデンティティの危機

「私5」への到達は、社会中心思考(自分の属するグループ中心思考)から、より普遍的な見方(世界中心思考)への大きな飛躍でした。
しかし、この飛躍の時期は、青年心理学では「アイデンティティの危機」といわれ、心は不安定となります。

 この危機は、心の前進ゆえに生じます。
「私4」は、自分の属する社会にはめこまれており、自分の所属する社会と自己を同一視(アイデンティティ)し、その中に安住していました。
しかし、「私5」への到達は、心を統括する中心点(見つめる中心点)が、自分の所属する社会へのはめ込みから脱却する地点に達することです。
そしてこれまで安住していた集団への問いが生じます。
「自分は何者なんだろうか」あるいは、「日本人とはなにか」などの自分の所属する集団への問いが生まれます。
日本の教育を受けてきた外国籍の生徒は、とりわけ、この時期に自分のアイデンティティへの問いが強くでてくると考えられます。

 ところが、「私4」の段階にある人々は、アイデンティティの危機から発せられる問いが理解できません。
むしろ、その問いは、「私4」の人にとってきわめて不快なものです。
自分が同一化しているグループへの問いは、そのまま自分のアイデンティティをゆるがすものになりうるからです。
「良かれ悪しかれわが祖国」から「本当に我が祖国は正しいのだろうか」という問いに発展してゆくからです。
「私4」のまま理論的(ドグマ的)に固めた人間は、自分の心の安定のために「私5」への発展の封殺にかかります。
たとえば、「反日」(非国民)とかの言葉は、それをあらわしています。
「私4」から「私5」への発達を封殺するためには、「〇〇人」としての民族的ドグマを注入しようとします。

 国際化が進む中で、犯罪の国際化とともに、一般の人々が日常的に「外国人」と交流し、同じ人間として親近感をもってゆくなかで、「私4」に固執する人々は、危機意識をもち、教育の中に「愛国心」「日本人としての自覚」をもちこもうとします。

  「私4」段階にある一般の人々は、自分中心で社会的マナーを尊重しない「私3」の増加、外国人犯罪の増加などへの不安からその動きに追随してしまいます。

 それへの対案は、「人間としての自覚」、「ひとつの人類の一員としての自覚」に導くことです。
「人類の中の日本人、あるいは〇〇人」とかの自覚に導くことです。
私たちは、ひとつの人類が多様な展開をしている存在です。
  青年心理学でいうアイデンティティの危機は、青年期に限りません。
「私4」から「私5」に脱却する時点で、どうしても乗り越えざるをえない山です。

(日本が小さい国にわかれて、「薩摩藩のものだ」「長州藩のものだ」「会津藩のものだ」とかいっていた時、勝海舟や坂本龍馬たちは、日本人のアイデンティティでいこうと考えました。
彼らは、「私5」のレベルにあり、「私4」を脱却していたからそれができました。
当時の交通・コミュケーションのレベルに限界がありました。
現代は、「ひとつ人類」が提起されるところまでグローバル化が発達しています。
たとえば、世界社会フォーラムの憲章にある「惑星社会」の言葉にそれがみられます)

 「私5」の病理、自己の経験への同一化

「私5」は、心の中心点が深化することによって、自分の属する「社会」にはめこれまれた状態から脱却し、自分の属する集団を超えた視野から見ることができるようになりました。

それゆえ「私5」は、自分の所属する集団を超えた科学的で合理的な万人にとっての普遍的真理(誰にも共通する正しいこと)を信じます。

しかし、この顕現した世界における真理は、「時、場所、人に応じて変化する相対的なもの」(サーカー)です。
たとえば、ある時点で正しいとされた理論も時がたてば、かならず現実から遊離してゆきます。
実際には、この現象している世界には、唯一の絶対的真理はありえません。
真理は相対的なものです。ある時点で正しい論も時間の経過の中でその正しさのレベルは必ず劣化してゆきます。
ある科学的真理を絶対的な真理と勘違いして科学的真理をドグマ(教条)としてしまった時に「私5」の病理が発生します。

20世紀に人類の解放を担った進歩的思想は、大きな成果を上げましたが、すべてこの弱点をもち、より大きな統合に成功せず、分裂してゆくことになりました。

別の角度から考えましょう。
「私5」の合理的な心は、「もし、こうしたら・・こうなる」というふうに仮説を立て、実践し、そこから演繹するという科学的で合理的な思考ができます。
しかし「発達は、ここで皮肉な旋回を行いうる。
経験と行動に統一性と統合を与える原則としての自己の代わりに、自己の経験と行動に同一化する」ケン・ウィルバー『進化の構造Ⅰ』春秋社、410ページ。
ある社会運動の経験と行動に同一化した自己は、別の立場の運動と統合してゆくことができません。

今日、分裂ではなく、統合が求められています。
それは「多様性における統一」という原理によって成し遂げられます。
そのためには、経験と行動に同一化した自己を観察できるさらに深みにある「自己」である「私6」に到達しなくてはなりません。
その時のみ、経験と行動に統一性と統合を与える自己の回復が可能になります。

 「私6」の成立・・・普遍的多元主義(多様性における統一)

「私6」は、心の池のもっとも奥底に達した自己です。
もっとも奥底に達しているが故に、自己が普遍的真理に同一化することから、解き放たれ、すべてを客観的に見つめることが可能になります。

この世の「真理」は相対的であるがゆえに、普遍的真理(誰にとっても正しいこと)と思われる原理も、その具体化は、時、場所、人、すなわち状況に応じて多様であるべきことに気づきます。

「私6」は、私たちが「一つの人類」であると同時に、その「多様性と多元性」が尊重されるべきであると考えます。
「この世に原子、電子にいたるまで同一のものは何一つない」という徹底した多様性の観点をもち、その多様性を抹殺しようとする傾向とは闘うようになります。

ソ連の「社会主義」もアメリカの「自由と民主主義」も、自分の制度やあり方を唯一正しいものとして世界に戦争までして押しつけてきました。
「社会主義」「自由と民主主義」を普遍的真理(どこにもあてはまる真理)ではありません。
それらの原理も「時、場所、人」に応じて適用を変化させるべき、相対的真理です。

(もちろん、イラク侵略戦争を指導したブッシュ大統領のグループは「私4」のアメリカ中心主義ですが、その大義名分は「自由と民主主義」の「普遍的」真理でした)

この現象世界に唯一の真理という普遍主義を持ち込むことは、押しつけ以外の何者でもありません。
「私6」は、「多様性における統一」という多様性を前提とした普遍主義です。

2001年に発足した「世界社会フォーラム」の「原理憲章」の10章には「世界社会フォーラムは、経済や発展・歴史を一つの視点から解釈したり何かの原則に還元したりすることに、すべて反対します」とあります。
この文章の起草者のグループは、この世の真理は相対的である自覚した「私6」に達した人々であることがわかります。

「私6」の病理・・・実存的苦悩

「私6」は、この世の真理が相対的であり、絶対的なものではないことを認識できます。
「あれも正しい、これも正しい」と複数の真理が認識できる普遍的多元主義者です。

そして「私6」とは、心の池の最深部にまで達した自己でした。
そこからは自分の心と身体のすべてを見つめることがきます。
その自己は、私のすべてを見る故に、「その終末、死を見る。・・・極度の実存的な不安が忍び込む」415ページ、
これが、「私6」の特徴的な病理です。
心の中は陰気になります。
トルストイは50歳の時に次のように書きました。

「『なぜ、生きていなければならないのか?
いったいなぜ、それを望まなければいけないのか?』
いや、もう一度言えば、
『私の前に避けがたく待ち受けている死によって破壊されないような人生の意味など果たして存在するのか』

最近、私は同じ言葉を、友人から聞きました。
「おれは、戦争を肯定する風潮に抗して世の中をよくするために最後まで頑張るが、結局、死んだら無になり、意味がないと思っている」
つまり、死についてとらえきれず、ニヒリズムに陥っていました。
その表情は暗くなっていました。

この病理の克服のためには、自己の中心点が、心の池を超えてさらに深い部分に進む必要があります。それは「超心理=トランスパーソナル=スピリット」の領域です。 瞑想などの継続的なスピリチュアル・プラクティスによって、心の領域を超えて、スピリットの領域に自己を深化させることができます。
それは「私7」です。「私6」の病理の克服のためには、「私7」に進むスピリチュアリティの道しかありません。



第四部 コスモス中心思考   後後慣習道徳段階

はじめに

話のあらすじをわすれた人のために、「私6」までのおさらいをします。

これまでに説明した心の発達のおさらいをしてみましょう。
心を池としましょう。
心を統合する中心点を「自己」とします。

自己は、池の表面にあります。
それが「私1」の物的自己です。
自己は、池の表層にあります。
それが「私2」の情動的自己でした。
さらに心を統合して言葉を操作する自己は、さらにその下の層に進みます。
それは「私3」であり、幼児的自己中心の限界をもっていました。

9、10才のレベルで、さらにより深い心の層に自己が進みます。
親や先生から期待されていることに応えようとするよい子になります。
社会的責任感が発生します。
それが「私4」です。自分が属する社会やグループの期待に応えようとします。
しかし、自分たちのグループ中心の限界をもっています。

日本民族中心思考の枠をはめて、この段階に心の発達をとどまらせる国民をつくろうとする人々が「新しい歴史教科書をつくる会」の人々でした。
「私5」まで達していながら、人々を「私4」の発達段階にとどめようとしている学者たちは、そこに悪意があります。

「私5」は、心を統合する中心点が、自分が恩恵を受けている集団に自己の帰属意識のはめ込みから脱して、さらに深いところに達します。
それゆえ「良かれ、悪しかれ、わが祖国」という感情から、「わが祖国は本当に正しいのだろうか」と問うレベルに達します。
心を統合している自己は、普遍的で合理的に思考します。
したがって真理は一つだけに思えます。

「自己」が、心の池のもっとも深いレベルに達しているのが「私6」です。
このレベルまで達すると、「限りある存在としての私」が見え、この世のすべてが「時、場所、人」に影響を受ける相対的世界であることが見えます。
「無常」が見えて、「無情」に感じます。


「私7」の成立による心の統合力の強化 

 心を統合する自己の中心点は、「私1」から「私6」へと深化するにつれて、その統合力は強くなってゆかねば、心はバランスを失いやすくなります。

 今日の教育や学問は、分断された知や技術であり、統合力を強化する形では与えられません。
したがって、知識や技能ばかり、多様に発達させて、その多様性を統合する力を強化しません。
自分の多様な知的能力にひきずられて、心の内部は、苦悩に落ち込みます。
教育や文化の発達した日本のような国にノイローゼの人が多いのはそのためです。
頭のよい人の方がノイローゼになりやすいのはそのためです。

 この心の内部の多様性を統合する力について考えてみましょう。
目を閉じて桜の花のイメージを思い浮かべます。
心の材料は花の形をとった部分(チッタ)とそれを見ている部分(アハムタットヴァ)にわかれます。
さらに見ている部分の中心点に「私」(マハータットヴァ)があります。

心の統合力の無さは、目を閉じて、桜の花を念じてみればわかります。
別の考えが頭に浮かび、心は目まぐるしく変化します。
西洋哲学では心の外に対して自分がコントロールできることが自由です。
それは正しいです。
しかし、心を統合する力がないならば、本当の意味では自由になれません。
自分が、自分の心をコントロールできなくてはなりません。

お金がなくて困っている人、たえずお金をもうけようとばかり考える人は、心の材料が、お金の形をとるために、過剰にチッタの部分にゆきます。
統合する中心の「私」(マハータットヴァ)に少なくなります。
コントロールする「私」の統合力は弱まりますから、お金のために悪いこともしてしまいます。
スケベなビデオばかり見ている人の心は、心の材料がスケベな形をとるために、過剰にチッタの部分にゆき、統合する「私」(マハータットヴァ)にゆく部分が少なくなります。
自分の心をコントロールできないストーカーになったりします。

どうやったら、「私」の統合力を強化できるでしょうか。
毎日、朝晩、目を閉じます。思い浮かべている桜の花の部分、すなわちチッタを消します。
思い浮かべる作業をやめます。
すなわちアハムタットヴァを消します。
そして「私はある」という意識、すなわちマハータットヴァだけになる練習をします。
そうすると、心の材料はすべて「私」(マハータットヴァ)の部分にゆきますから、心の中心点である「私」の統合力は強化されます。

「私」(マハータットヴァ)は、心の池の一番深いところです。
あくまで心の池の領域の内部にあります。

しかし、このレッスンは、心の池を超える「超心理」の領域、スピリットの領域に進むプラクティスになります。

なぜ、心を統合する中心点が、心の池の領域を超えたところに進むのでしょうか。
マハータットヴァすなわち「私はある」という意識だけになった時、感じるという心の作業(アハムタットヴァ)をやめているのに、誰が「私は存在する」という判断を下しているのでしょうか。
それは、何もせず、心の出来事すべてを「見つめている意識」です。
個体意識(アートマン)といいます。
私の心をその奥から見つめている意識は、心の領域を超えています。
その地点まで達することが「私7」の成立です。

「私を見つめている意識」は、心の領域から脱しているため、心の多様な活動のいずれかにひきずられることがありません。
したがって、より強い統合力をもっています。

そして「私6」の病理である実存的苦悩からも解放されます。
それは、直観力によって、より広大な世界とのつながりが見えてくるからです。
コスモスのこれまで見えなかった部分が認識されてくるからです。

「私7」の境地

 ここから先は、ケン・ウィルバーという賢者とP.R.サーカーという聖者の言っていることを簡単に紹介するにとどめます。

 このアメリカ人とインド人の二人は、まったく互いの本を読んだことがありませんが、不思議なことに同じことを言っています。

 両者とも、超心理に四つの段階があると言っています。
「私7」「私8」「私9」「私10」です。
「私10」までです。

「私7」は、アティマーナス・コーシャ(サーカー)、サイキック(ウィルバー)と呼ばれます。

 「この新しい内面=超越は、社会中心的なアイデンティティから、すべての人間との世界中心的なアイデンティティへと超越するだけではない。それはすべての顕現との意識的な合一、同一化なのである。
すなわちすべての人間、すべての自然、すべての物理的な宇宙、『偉大なるもの、卑小なるもの』すべての存在との同一化である」ケン・ウィルバー『進化の構造1』448ページ

 このように「私7」は、高次の「私」ですが、決して他者から孤立した「私」ではありません。
「私7」にとっての私たちには、人間界を超えて、一切衆生が私たちの領域に含まれます。

「私1」からはじまる「私」の発達は、「私たち」の領域の拡張にほかなりません。
「私7」にいたって、この世のすべてを愛する人間が生まれます。

ピアニスト池邊幸恵の「ひびきあう」という詩は、「私7」の境地あった時に湧いてでた詩だと考えられます。
この詩の「わたしたち」は顕現した世界すべてを含んでいます。

何にひびきあいたいかな
心底からのよろこび
ひびきあえる わたしたち

何にひびきあいたいかな
ともに悲しむ涙
ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
たがいに有り難く思う気持ち
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
ともに生きる動物たちと
ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
ともに生きる木々に 草に 花に
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
小さな小さな虫さんたちに 微生物さんに

ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
自分を作る小さな小さな沢山の細胞たちに
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
心の中をかきわけて  光りを放つ意識に
ひびきあえる  ぼくたち  わたしたち

何にひびきあいたいかな
みんなをのせて進む  青く輝く地球に
ひびきあえる   みんなが

何にひびきあいたいかな
広大無遍(こうだいむへん)の大宇宙に
ひびきあえるんだ  すべてに

「私8」の境地

さらに心の中心点がコスモス深くに降りてゆくと「私8」になります。
「私8」は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(サーカー)、サトル(ウィルバー)と呼ばれます。

この段階では、大文字のスピリット(神)は、万物の中に顕現していることが直接的な認識として体験されます。
すべては喜びに満ちて輝きます。
一者が多者の中に輝きます。

次の詩は、「私8」の境地を表しています。

「私たちは一つ」

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
あの空とあの雲
あの梢、あの幹
あの街になって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
この机、この窓
教室、黒板
そして生徒たちになって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
この花、あの花の
赤、緑、黄色
そして緑の葉となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
コオロギ、スズムシ
小鳥のさえずり
小川のせせらぎとなって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
桜の花、照りつける太陽
紅葉、落ち葉
雪景色となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
原子、分子
銀河
空に輝く星々となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
トラクター、コンバイン
キュウリ、カボチャ、トマト
稲、麦になって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
クレーン、スティール
圧延機
ベルトコンベアになって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
不安と安堵
憎しみと執着
無限に広がる愛となって

スピリットは現出している
私とあなた 私たちとして
私とあなたの父や母
私とあなたの子や孫
すべての人となって

スピリットは現出している
私とあなた 私たちとして
心とからだが
過去から未来へ
ひとつの流れとなって

「私9」の境地

 「私9」は、ヒランマヤ・コーシャ(サーカー)、コーザル(ウィルバー)と表現されています。
  「私7」から「私9」までが、心の領域を超えた「超心理=スピリット」の領域です。
その領域は、心の奥からただじっと見つめているだけの「私」です。
 「私7」から「私9」に進めば進むほど、個体意識の個別性が薄れてゆきます。

 ケン・ウィルバーが引用している「私9」のラマナという人の言葉です。

「人々は、『自己(私9)』を何かのようであるかのごとく、見たがる。
目もくらむような光などと。
しかしどうすればそんなことが可能であろうか。
『自己(私9)』は光ではないし、暗やみでもない。
何か観察できるものではないのだ。
『自己(私9)』とは永遠に目撃者である」ケン・ウィルバー『進化の構造1』春秋社、483ページ

では、「私9」から「私10」との違いとは何でしょう。

 『自己(私9)』には、個体として成立させるわずかの個別性が残っています。
個別性がまったく無くなり、ただの純粋な意識だけの状態になった時が、「私10」です。

 サーカーによれば「私10」の個別的属性をもたない意識とは、この全宇宙の出発点であり、それを材料としてこの全宇宙が成り立っている意識です。
サーカーはその意識を「至上の意識」(パラマ・プルシャ)と呼びます。

 すなわち「私10」とは、有限の個別自己が無限の中に融合した状態です。
それは「非二元」の境地です。

 したがって「私10」の意識は、「時、場所、人」の限界の超えた「無限」「永遠不変」の中に確立した意識です。

(注)
サーカーは、「無限の意識=至高の意識」が、自分の「個体意識」の出発点であることに気づくことですから、「私10」に達することをself-realization(自己認識)と言います。
Enlightment(悟り)とは言いません。

ケン・ウィルバーの場合は、サーカーの「無限の意識」にあたるものを、仏教の影響を受けて、「空」や「無」であらわしていますが、説明している中身は、サーカーと同じことです。
まだやや理論的に不徹底なところを感じます。

 サーカーの言葉で、説明します。
(  )の中は、私が書き加えたところです。

「不死性の達成とブラフマの認識(=私10)への道の最後のハードルは、個体のヒランヤマヤ・コーシャ(=私9)です。
ヒランヤマヤ・コーシャが存在する限り、サーダカ(=スピリチュアル・プラクティスをおこなって私10をめざしている人)は絶対的真理を認識することができません。
創造の魅惑と破壊の恐れが常にサーダカを動揺させます。
その無限の栄光の中の最高存在は、ヒランヤマヤ・コーシャ(私9)を超えたところに位置しています)
(ヴェーダの直観科学 The Intuitional Science of Vedas)

究極の境地 

「私10」

 「私10」はサティヤ(サーカー)、非二元(ウィルバー)と表現されています。
 「私10」は、「心」の領域を超えて、さらに「超心理」の領域をも超えていますから、心の領域にある言葉で表現することが不可能です。
 「私10」の「私」は無限の意識の中に消滅しています。
(ですから、本当は、「私10」という表現は不適切です)

「ブラフマは議論することができない実体です。
彼はすべての議論を超えています。
なぜなら、心の小さな領域の中に入る対象しか議論のテーマにできないからです。・・・

 もし、「神があらわれて『汝は私の愛しい息子である』とか『汝は最後の預言者である』と告げたと誰かが言ったとしましょう。
このように言うと、だまされやすい人からは尊敬を得るかもしれません。
しかし、識別力のある判断力をもつ人々には受け入れられないでしょう。

 というのは、人に直接的に見えるものは、すぐに議論と論理の領域の内部に入り、当然形を持ちます。
この点で、それは、ニラーカーラヴァーダ(神の無形性)の説と対応しません。
 人類は意識ある存在です。
人は、非論理的なことや虚偽は受け入れるべきではありません。
心が存在しないところで、神は何を言えるでしょうか。
そこで誰が神の言うことを聴くことができるでしょうか。・・・

ブッダの弟子が、彼Heが存在するかどうか聞きました。
ブッダは無言でした。
弟子が彼に「その時、彼Heは存在しなかったですか」と聞いた時、ブッダは言葉を失ったままでした。

 その結果、何人かの人々は、ブッダは、神が存在しないと言いたいのだ思い込みました。
その時、何人かは神の存在を推論しました。

 しかし、本当の直観主義者である人々は、彼が心の領域を超えた実体、すなわち「ある」か「ない」かの領域を超えた実体であることを理解していました。

心の活動範囲にやってくるものは相対的真実にほかなりません。
永遠の真実ではありません。
だからそれは、移り変わってゆきます。
経典や神話は、積み重なったレンガの山のようなものです。
それらは、層をなして積んであるだけであり、本質的な価値はありません。
どうして、それが心の領域を超えている究極の実体を描き、説明することができるでしょうか」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE (SHREYA ANDと PREYA) [初期の編集ではBLISS AND PLEASURE]

  サーカーは、この「私10」の「個体の意識」が「無限の意識」に融合する境地に達することを、人生の究極の目標であることを、旅人が北極星を道しるべにするように常に頭において生きなさいと言います。
そうすれば「私3」の人は「私4」に、「私4」の人は「私5」へと階段を一歩一歩のぼり、道をはずれないように進むことができると思います。

「私10」をめざして

(「私10」とは、一者=多者)

この世界は一者が多者として展開しており、一者=多者です。
一本の木とその枝の関係です。
木と枝は、一者=多者であるのに、枝は、木とは別の存在であると感じています。
枝が木であることを知るようになることが、「私10」への道です。
そのためには、二つの実践が必要です。
一つは一者に近づくことです。
枝の心が内面的に木の心に近づくことです。
もう一つは、多者の幸せのために尽くすことです。
枝が、他の枝を支えたりして、その一体性を認識してゆくことです。

(一者の方向へ・・スピリチュアル・プラクティス)

前者とは、直観科学、すなわち黙想を中心としたスピリチュアル・プラクティスによって精妙な心の状態をつくりだしてゆくことです。
そして意識を無限に拡張させる同時に、存在するものすべてへの愛をもてるようになることです。
ちょっと長くなりますが、サーカーの言葉をそのまま紹介します。

「すべての個体の対象は外的です。
そのような個体の対象に対する愛は、決して永続できません。
なぜなら、心は常にひとつの対象から別の対象に飛び回るからです。
私が、あなたの愛を個体から撤収して、自分自身を全体の中に融合させなさいというのはそのためです。

個体を魂soul あるいは神 Godと取り違えてはいけません。
その人の最奥の自己selfへの到達は 無限に対する愛によってのみ可能です。
劣っているふりをしてはいけません。
結果として怠け者になります。
自分の心を無限への愛で満たしなさい。
あなたの魂は至高の魂Supreme Soulに転化してゆくでしょう。

現世的な幸福には限りがあります。
自分自身を至高の魂Supreme Soulの至福の海に捧げなさい。
その時のみ、あなたは幸福が本当には何であるが分かるでしょう。・・・
この世の義務を誠実に実行し続けなさい。
そして同時にあなたの内部の純粋の自己 pure selfについて考えなさい。
あなたの内奥の純粋の自己Selfについての恒常的な思考はいつの日かあなたのもともとの源の中にあなたを確立するでしょう。
これがサーダナー(スピリチュアル・プラクティス)の究極の目的です。
魂は、もともとピュア(純粋)です。

 心はその活動のためにサンスカーラ(反作用の潜在力)と結びついています。
個体が生死の奴隷になるのはそのためです。
すべてのサンスカーラが精神性のサーダナーと心の浄化を通じて壊される時、人は、生死を超えて不死の永遠の領域に進みます。
そこでは魂soul と至高の魂Supreme Soulの区別はありません」(ヴェーダの直観科学 The Intuitional Science of Vedas)

(「多者」の方向と「一者」の方向にバランスがとれていること)

だからといって、この粗大な現実世界から背を向けて、瞑想だけしていてもだめです。
粗大な現実の方向に向かうアヴィディヤーと精妙な内奥に向かうヴィディヤーの両方向にバランスよくとりくんでくことが、「私10」への階段を進んでゆく道です。

「ヴィディヤー、アヴィディヤーのふたつの原理のどちらかひとつでは、救済は不可能であると主張してきました。
解放salvationの達成のためにはヴィディヤーとアヴィディヤーの間にバランスがなくてはなりません。
ブラフマに向かう運動は内向き (ヴィディヤーVidya')でなくてはなりませんが、現実の世界について完全にアヴィディヤーを放棄すべきではありません。

  現実の世界に対して通常の意味と神性な意味をもたせることによって自分自身のスピリチュアルな生活方法と両立させるべきです」(ヴェーダの直観科学1 The Intuitional Science of Vedas)

 外部世界の不公正に目をとじて、心の内側だけを追求することは欺瞞的生き方であり、「私10」には到達できず、二重性の病に苦しみます。

「客観的な世界では、人間は、宗教、文化、政治経済などの生活を持っています。
誰がこれらを拒むことができるでしょうか。
それらを拒む人は、ペテン師です。
その人は真実をゆがめています。
そのような人々は、決して、自分自身のためにも、自分たちの世界のためにもどちらにもなんらの良いことができません。
彼らは、常に二重性の心の病気に苦しみます。
すなわち、彼らの内部の心と外部の表現との間が一致していないのです。
この心理的二重性は、非常に深刻な心の病を生じます。
それは最後に彼らを破滅させます」(Samasama'ja Tattva)

 そしてすべての人類が衣食住、教育、医療が保障される世界をめざして活動するなどのネオ・ヒューマニズムの観点を身につけて活動する中でこそ、その二重性の病から解放されるます。

 「他の人が何を言おうとも、すべての人間が、食物、衣服、住居、教育、医療の権利を持っていることを私は心から信じます。
原理として彼らの権利を認めたというだけでは不十分だ。
正直な人間として、私は、彼らが自分たちの権利を実現するよう最大限の努力をします」(Samasama'ja Tattva)

(天地万物をブラフマのあらわれと見る)

このようにネオ・ヒューマニズムの精神とは、全人類、全生命、全存在を尊いものとして見る意識です。

「この世界は変化しつつあります。
動きつつあります。ジャガトjagat (世界world)という言葉は、語根の gam-kvipに由来します。それは『動いていること』を意味します。
この天地万物はブラフマの心の表現です。
すべての思考過程は動いており、御しがたいものです。
それは、この世界がブラフマの心理的顕現だからです。
すべての思考過程は、動いており、御しがたいものです。・・・

今日、美しく思えるものは、明日は必ずしもそうではありません。
今日、おいしいハタハタ(砂糖菓子) は数日後には食べられなくなっているでしょう。
実際、原型を保ったままの形を請け合うことすらできないでしょう。
あらゆる個体は変化の状態にあります。
それが個体の対象を源とする喜びが、永遠に続くことができないのはそのためです。

だからサーダカ(精神性の修養者)は何をすべきでしょうか。
あらゆる個体の対象に神聖さがあるとしなくてはなりません。
あらゆるものが神の顕現です。
それが土地であれ、家であれ、川であれ、山であれ、 敬意であれ、侮蔑であれ、昼であれ、夜であれ、あらゆるものはブラフマであり、個体としてのブラフマの顕現です。

すべての対象が私たちへのブラフマの贈り物だと考えて適切に用いなさい。
何かを楽しんだり、耐えたりすることは 、ブラフマを楽しんだり、耐えたりしていることです。
個体unitへの執着を避けなさい。
完全な全体integral wholeとつながりなさい。
あなたがそのように生きることができた時、他人の財産を自分のものとしたい願望はまったく消えるでしょう。・・・

諸対象を神性に帰することは、有限なものを背後にして無限なものを追求することを意味します。
あなたは息子を養っていますか。
いいえ、あなたは息子のようなブラフマの現れを養っているのです。
あなたは畑を耕していますか。
いいえ、あなたの鋤で、ブラフマの有限の現れに奉仕しているのです。
実際のことを言うと、対象を神性に帰することは、その時、対象は非物質的な最高のブラフマに溶け込んでいるので、物質的に楽しむことを不可能にします。
このように、自分を本当のヴァイラーギヤVaera'gya (すべての官能的喜び放棄)の中に確立した人の心は、決して、有限の対象に執着しなくなることができます。
その最中でさえ、その魅力(引力)のとどく範囲を超えてあることができ、死後、永遠の平穏を得ます」(ヴェーダの直観科学1 The Intuitional Science of Vedas)


(注)「超心理学」「トランスパーソナル心理学」

「私7」「私8」「私9」「私10」は、心の領域を超えているので、「超心理」です。その領域の学問として、サーカーは、「超心理学」として論じ、ケン・ウィルバーは、「トランスパーソナル心理学」として論じています。
(ただし、ケン・ウィルバーは、トランスパーソナル心理学はその狭さを超えてゆかないと学問界から見捨てられるだろうと独自に「四象限統合アプローチ・全レベルアプローチ」という「統合心理学」を創始しました)



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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