第一抜粋『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス
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(1)
この統一体が現実の所有者であり、また共同体的土地所有の現実的な前提でもあるから、この統一体そのものは、これらおおくの現実的な特殊な共同団体の上に立つ、一つの特殊なものとして現れることができるのである。
そこでこの場合、ここのものは事実上無所有である、つまり所有――すなわち、個人のものとして、客体的なものとしての、労働と再生産の自然的諸条件にたいする個人の関係、彼の主体性の非有機的自然として現存する肉体――に、多くの共同団体の父である専制君主に具現される総合統一体が、特殊な共同体を介して個人に委譲する結果、個人にとって間接的なものとして現れる。
(2)
剰余生産物――これはともかく、労働によって現実に領有した結果として法的に規定される――は、そのためにおのずかこの最高統一体に帰属するのである
。東洋的専制主義とこの専制主義のばあいに法制上存在するように見える無所有のただなかでは、実際にはこの種族所有、または共同体所有が基礎として存在しているのであって、この所有は多くのばあい、小さいな共同体内部の工業と農業との結合によってつくりだされ、こうしてこの小さな共同体はまったく自給自足なものとなり、また再生産と剰余生産のいっさいの諸条件をそれ自身の中にもっている。
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第一抜粋の一回目である。
(1)
この統一体が現実の所有者であり、また共同体的土地所有の現実的な前提でもあるから、この統一体そのものは、これらおおくの現実的な特殊な共同団体の上に立つ、一つの特殊なものとして現れることができるのである。
そこでこの場合、ここのものは事実上無所有である、つまり所有――すなわち、個人のものとして、客体的なものとしての、労働と再生産の自然的諸条件にたいする個人の関係、彼の主体性の非有機的自然として現存する肉体――に、多くの共同団体の父である専制君主に具現される総合統一体が、特殊な共同体を介して個人に委譲する結果、個人にとって間接的なものとして現れる。
(天の神々による説明)
この記述は、農業生産力の場にもとづいて成立する構造についてである。
農業生産力の場は、生産手段の公有の構造を成立させる。
生産手段の公有は、誰も生産手段をもたないことを意味する。
所有とは、使用、譲渡、処分を決定する権利である。
生産手段の公有のもとでは、社会の代表者が生産手段の使用、譲渡、処分の権利をもっている。
これは、公有のもとでほんの少数の社会の代表者が生産手段を所有していることを意味する。
多くの人々は生産手段をもたない。
これが、資本主義以前の生産関係であった。
第一抜粋の二回目の天と神々のプロジェクトによる説明
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第一抜粋の二回目である。
(2)
剰余生産物――これはともかく、労働によって現実に領有した結果として法的に規定される――は、そのためにおのずかこの最高統一体に帰属するのである
。東洋的専制主義とこの専制主義のばあいに法制上存在するように見える無所有のただなかでは、実際にはこの種族所有、または共同体所有が基礎として存在しているのであって、この所有は多くのばあい、小さいな共同体内部の工業と農業との結合によってつくりだされ、こうしてこの小さな共同体はまったく自給自足なものとなり、また再生産と剰余生産のいっさいの諸条件をそれ自身の中にもっている。
(天の神々による説明)
この記述は、前近代社会の特徴についてである。
前近代社会の農業生産力の場は、地域社会の構造を成立させる。
地域社会は様々な形態をとった。
私たち天の神々は、マルクスに地域社会の構造の三つの典型的モデルをおろした。
一つはアジア的タイプである。
二つ目は、ギリシャ・ローマ的タイプである。
三つ目は、ゲルマンタイプである。
アジア的タイプは、生産手段の個人所有がなかった。
支配階級にすら個人所有はなかった。
社会全体が、一人のトップリーダーの所有として認識された。
これがアジア的専制の基礎である。
第二のタイプは、支配階級に生産手段の個人所有があった。
これが支配階級の古代民主主義の基礎である。
これは、支配している少数の人々の民主主義である。
三つ目のタイプは、人々が生産手段を使用する個人的権利をもっていることである。
生産手段の所有は、軍事的に土地を占拠している支配階級に属する。
これは、前近代社会の生産関係についてのおおざっぱな分類である。
第二抜粋『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス
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(1)
奴隷制が存在するところでは、どこでも解放奴隷はこのような生業によって自分の生計を立て、後にはこの生業で富をたくわえることもしばしばある。
そこでこれらの営業もまた、古代にあってはたいてい彼らの掌中にあり、その結果、市民にはふさわしくないものとされていた。
そこから手工業者に完全な市民権を認めるのは考えものだ、という意見が出てきた。
(彼らは、より古代のギリシャ人の場合には、除外されるのが普通だった)。
いかなるローマ人も、商人または商工業者の生活を営むことを許されなかった。
古代人は、中世都市にあるような権威ある同職組合制度のことを予想もしなかった。
そして中世都市にあってさえ、同職組合か氏族にうちかってゆくにつれて、勇武の精神はおとろえ、最後にはまったく消えうせてしまった。
したがってまた、外部から受けていた都市の尊厳や自由また消えてなくなった。
(2)
古代国家の種族は、二様の仕方で、つまり氏族または地域を基礎としていた。
氏族的種族は年代的には地域種族に先行するけれども、ほとんどいたるところで後者から駆逐される。
氏族的種族のもっとも厳格な形態はカスト制度であるが、この制度は、一つのカストは、他のカストから分離され、カスト相互に婚姻する権利がなく、カストの格式からしてまったくちがっており、カストはそれぞれ排他的な、普遍の職業をもっている。
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第二抜粋の一回目である。
(1)
奴隷制が存在するところでは、どこでも解放奴隷はこのような生業によって自分の生計を立て、後にはこの生業で富をたくわえることもしばしばある。
そこでこれらの営業もまた、古代にあってはたいてい彼らの掌中にあり、その結果、市民にはふさわしくないものとされていた。
そこから手工業者に完全な市民権を認めるのは考えものだ、という意見が出てきた。
(彼らは、より古代のギリシャ人の場合には、除外されるのが普通だった)。
いかなるローマ人も、商人または商工業者の生活を営むことを許されなかった。
古代人は、中世都市にあるような権威ある同職組合制度のことを予想もしなかった。
そして中世都市にあってさえ、同職組合か氏族にうちかってゆくにつれて、勇武の精神はおとろえ、最後にはまったく消えうせてしまった。
したがってまた、外部から受けていた都市の尊厳や自由また消えてなくなった。
(天の神々による説明)
この記述は、古代ギリシャ・ローマ時代の生産手段を所有している労働者についてである。
生産手段を所有している労働者は、人間の歴史の中のすべての地域に存在し続けた。
小生産手段とは家族労働のためのスペースと道具である。
家族労働のためのスペースと道具は、その時代の支配者の支配下にあった。
これは、本当の所有ではなかった。
支配者はいつでもスペースと道具を壊すことができた。
家族労働のスペースと道具の本当の所有権は、イギリスの前近代の最後の時代にあらわれた。
これは、ヨーマンと呼ばれた。
生産手段をもっていたヨーマンは、農業生産力の場における生産手段公有のもとでの階級闘争の最終的到達点であった。
第二抜粋の二回目の天と神々のプロジェクトによる説明
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第二抜粋の二回目である。
(2)
古代国家の種族は、二様の仕方で、つまり氏族または地域を基礎としていた。
氏族的種族は年代的には地域種族に先行するけれども、ほとんどいたるところで後者から駆逐される。
氏族的種族のもっとも厳格な形態はカスト制度であるが、この制度は、一つのカストは、他のカストから分離され、カスト相互に婚姻する権利がなく、カストの格式からしてまったくちがっており、カストはそれぞれ排他的な、普遍の職業をもっている。
(天の神々による説明)
この記述は、地域コミュニティにおける血縁の要素についてである。
人間社会の最初の段階では、人間関係は血縁にもとづいて組織されていた。
血縁関係は、人々を支配することを正当化するものに転化した。
血縁関係は、前近代社会の全領域で機能した。
血縁関係による差別は、人間のスピリチュアルな進歩を妨げてきた。
これは、前近代社会の特徴であった。
第三抜粋『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス
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別のことばでいえば、所有の経済外的起源とは、ほかでもない、ブルジョア経済の歴史的起源、すなわち経済学の諸範疇によって理論的にまたは観念的に表現されている生産形態の歴史的起源のことである。
前ブルジョア的歴史とその各局面もまた、自己の経済と運動の経済的基礎とをもっているということは、けっきょく人間の生活がそもそもの昔から生産に、なんらかのかたちで社会的生産――われわれはこの生産の諸関係をこそ経済的関係とよんでいる――に立脚していたということの、たんなる同義反復にすぎないのである。
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第三抜粋の全部である。
別のことばでいえば、所有の経済外的起源とは、ほかでもない、ブルジョア経済の歴史的起源、すなわち経済学の諸範疇によって理論的にまたは観念的に表現されている生産形態の歴史的起源のことである。
前ブルジョア的歴史とその各局面もまた、自己の経済と運動の経済的基礎とをもっているということは、けっきょく人間の生活がそもそもの昔から生産に、なんらかのかたちで社会的生産――われわれはこの生産の諸関係をこそ経済的関係とよんでいる――に立脚していたということの、たんなる同義反復にすぎないのである。
(天の神々による説明)
この記述は、生産を基礎とする経済社会についてである。
生産を基礎とする経済社会は、人間の歴史を通じて存在してきた。
人間の社会は、多層的である。
基底の層が経済社会である。
経済的層が社会の下部構造である。
私たち天の神々は、「下部構造は上部構造を規定する」をマルクスにおろした。
これは宇宙全体における真理である。
下位階層は、上位階層を規定するのである。
第四抜粋 『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス
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すでにわれわれの見たように、貨幣の資本への転化が、労働の客観的条件を分離し、労働者に対して自立化させた歴史的過程を前提するとすれば、――
他方では、すべての生産をみずからに従属させ、また至るところで労働と所有とのあいだの分離、労働と労働の客観的諸条件とのあいだの分離を発展させ貫徹するのはと、ひとたび成立した資本とその過程との作用である。
資本が手工業的労働、労働する小土地所有等をどのようにしてほろぼし、また労働に対立しては現れないような形態での――小資本のかたちの資本自身、また古い生産様式(また資本の基礎のうえに自己を更新した古い生産様式)と資本自身に合致した典型的て生産様式とのあいだの中間種類、雑種類のかたちの資本自身をどのようにしてほろぼすかは、もっとあとの展開でしめささるであろう。
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第四抜粋の全部である。
すでにわれわれの見たように、貨幣の資本への転化が、労働の客観的条件を分離し、労働者に対して自立化させた歴史的過程を前提するとすれば、――
他方では、すべての生産をみずからに従属させ、また至るところで労働と所有とのあいだの分離、労働と労働の客観的諸条件とのあいだの分離を発展させ貫徹するのはと、ひとたび成立した資本とその過程との作用である。
資本が手工業的労働、労働する小土地所有等をどのようにしてほろぼし、また労働に対立しては現れないような形態での――小資本のかたちの資本自身、また古い生産様式(また資本の基礎のうえに自己を更新した古い生産様式)と資本自身に合致した典型的て生産様式とのあいだの中間種類、雑種類のかたちの資本自身をどのようにしてほろぼすかは、もっとあとの展開でしめささるであろう。
(天の神々による説明)
この記述は、生産手段を所有する労働者を含む前近代社会についてである。
資本主義生産は、生産手段と労働者のつながりを破壊してきた。
生産手段と労働者のつながりは前近代組織の関係であった。
前近代的組織は、人間を狭い地域コミュニティに生活させた。
前近代社会の人々は、狭い世界観をもっていた。
狭い世界観は、人々のスピリチュアルな進歩を妨げた。
資本主義生産による前近代的人間関係の破壊は、進歩的役割の面をもっていた。
第五抜粋 『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス
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資本の概念規定にあたっては、貨幣のばあいには出ていな困難が見いだされる。
資本は本質的には資本家である。
しかし、同時にまた、資本家とは区別された、資本家の存続の要素として、すなわち生産一般として、資本である。
そういうわけで、われわれはさらに、資本の概念からすればそのなかにはいってこないように思われる多くのことが、資本のもとに包摂されているのを見いだすであろう。
たとえば、資本は貸し付けられる。
資本は蓄積される、等等。
すべてのこれらのよびかたでは、資本はたんなる物であるように見え、まだ資本を構成している質量とまったく合致しているように見える。
だが、それもこれも展開が進展するにつれて解明されるであろう。
(なおついでに冗談までに言っておくなら、すべての比喩的な言回しを、きわめて神秘的にうけとる勇敢なアダム・ミュラーは、世俗の生活で、死んだ資本とは反対に生きている資本ということをきいたのだが、さてまたこれを神智学的に整理する。
そういうことなら、エーゼルスタン王が彼に次のように教えてくれよう――私は私の財産の十分の一を、生ける家畜と死せる土地の果実とで神にそなえよう。)
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
マルクス、エンゲルスの重要ポイントを解説している。
今回はマルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』の第五抜粋の全部である。
資本の概念規定にあたっては、貨幣のばあいには出ていな困難が見いだされる。
資本は本質的には資本家である。
しかし、同時にまた、資本家とは区別された、資本家の存続の要素として、すなわち生産一般として、資本である。
そういうわけで、われわれはさらに、資本の概念からすればそのなかにはいってこないように思われる多くのことが、資本のもとに包摂されているのを見いだすであろう。
たとえば、資本は貸し付けられる。
資本は蓄積される、等等。
すべてのこれらのよびかたでは、資本はたんなる物であるように見え、まだ資本を構成している質量とまったく合致しているように見える。
だが、それもこれも展開が進展するにつれて解明されるであろう。
(なおついでに冗談までに言っておくなら、すべての比喩的な言回しを、きわめて神秘的にうけとる勇敢なアダム・ミュラーは、世俗の生活で、死んだ資本とは反対に生きている資本ということをきいたのだが、さてまたこれを神智学的に整理する。
そういうことなら、エーゼルスタン王が彼に次のように教えてくれよう――私は私の財産の十分の一を、生ける家畜と死せる土地の果実とで神にそなえよう。)
(天の神々による説明)
この記述は、資本と資本家についてである。
資本の概念は、資本家を含んでいる。
資本は資本家ではない。
資本は、資本家以上の意味である。
現在では、人間としての資本家はいない。
会社の経営者も含めてすべての人間が、生産手段をもたないプロレタリアートである。
今日の資本主義は、資本家のいない資本主義なのである。
これは、重要である。
社会主義革命が生産手段の共有を実現するとき、生産手段を失う人は誰もいないのである。
今日の資本主義は資本家がいないことを認識することは重要である。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods