The Indus River valley civilization (video inspired by god of star)



(Mitsuki translated almost books of Sarkar)

Dear I am god salamnidam who downed social theory to P.R.Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki translated almost books of Sarkar.
This time I introduce discourse of Mitsuki written about area of Hiroshima prefecture base on river civilization theory of Sarkar which I downed.
At first I introduce whole and then explain one by one.


こんにちは
私は,P.R.サ-カ-に社会理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
ミツキはサ-カ-の本をほとんど訳しました。
今回は、私がおろしたサ-カ-の河川文明論にもとづく広島県の地域について課書かれたミツキの論文を紹介します。
最初に全文を紹介し、次に少しずつ説明します。


River civilization of culture trial discourse
河川流域文化圏論試論――広島県を例に

   ▼はじめに

 サーカーの古代「河川流域文明論」によると、河川流域文明には丘の段階、平原の段階、三角州の段階の3段階があり、文明は、河川の合流による複合文明と、河川が合流しない原文明とに分類されます。
サーカーはインドやイギリスに例をとり、このことを詳細に説明していました。
 サーカーは「文明」という言葉を彼特有の意味で使っており、一般の日本語では、文明というより文化と訳した方が適切と思われます。
そこで、彼の説を「河川流域文化圏」論として日本列島の場合を考えると、今までの古代史では見出せなかったものが見えてくる可能性があります。
 ここでは、広島県の北部に位置する三次《みよし》市の県立歴史民俗資料館とその周辺地域を「古代河川流域文化圏論」の立場から論じてみました。

▼広島県の川と「河川流域文化圏」の可能性

 広島県では、多くの人が集住できる平地を流域内に持つ、河川流域文化圏を作りうる川が3つ考えられます。
広島市の三角州に流れ込む太田川、福山市に流れ込む芦田川、三次盆地に支流が集まり日本海に流れる江《ごう》の川です。
 そこで、サーカーの古代「河川流域文明論」を下敷きにした古代河川流域文化圏論から、広島県*には「太田川文化圏」「芦田川文化圏」「江の川文化圏」があるという仮説が引き出されます。

*注=広島県の河川流域文化圏
 このほか、三原市に流れる沼田《ぬまた》川がありますが、尾道も含めて沼田川文化圏が設定できるかどうか、つまり沼田川と芦田川、太田川の流域文化に相違があるかどうかはフィールドワークが必要です。
実証できれば、「沼田川文化圏」も入るかもしれません。
▼県立歴史民俗資料館の展示から

◎展示の特徴

 展示物を見て、まず確認できたのが、古代史を河川と結びつけた形で発掘物の説明をしていないことです。
四大文明という場合には大河が前提となりますが、日本列島の小さな川の流域にも文化的な独自性があるという発想がないのではないかと推測されます。
河川流域文化圏の視点から展示されていないので、河川とのつながりがわかりにくい展示でした。

◎サーカーの3段階説

 サーカーの説では、河川流域文明は丘、平原、三角州の順に文明が発展していきます。
日本の河川は小さいので、三角州の段階での文明成熟とまではいかないかもしれませんが、丘の段階から平原の段階における文化圏の形成はあったはずです。
実際、弥生時代までの住居跡は丘にありました。
平原の段階に進むには、相当の治水技術と地域氏族集団の統率力と組織化が必要となります。
 三次市にある県立歴史民俗資料館の隣にある七塚原《ななつかはら》のたくさんの古墳群は、川と平地を見下ろす丘の上にありました。
住居がどこにあったのかは定かでありませんが、古墳の近くに住居があったとすれば、やはり丘の上です。
そうだとしたら古墳時代までをサーカーのいう河川流域文明の丘の段階ということができます。
この場合、今後、全国各地の実際の発掘場所に行ってその地形を確かめてみる必要があります。

◎河川流域文化圏説を示唆する古墳

 それでも展示の中には、はっきりと河川流域文化圏の所在を暗示しているものがありました。
 まず古墳です。
資料館の周辺には七塚原古墳群があります。
その多くは円墳ですが、資料館内の説明によると、出土する土器のタイプと古墳の形から、広島県の古墳には県の北部タイプ、西部タイプ、東部タイプがあるそうです。
なんと北部タイプは山陰側と共通していました。
広島県の北東部には高い中国山脈がありますから、山陰側とつなぐものは江の川しかありません。
先史、縄文、弥生、古代の遺跡は、広島県の三つの河川の流域に集中していることが、出土した場所を説明する地図からもわかります。
 したがって仮説どおり、広島県には「太田川文化圏」「芦田川文化圏」「江の川文化圏」があったと考えられます。

▼食生活から考える河川流域文化圏の痕跡

◎「わに」の食文化

 仮説を確かめるために、資料館の周辺の人を訪ねる簡単なフィールドワークをしてみました。
資料館のある三次市は、江の川文化圏の中心地で、支流の馬洗《ばせん》川や美波羅《みはら》川などが江の川に合流する盆地です。
サーカー的にいえば、馬洗川文化圏と美波羅川文化圏、河愛《かあい》川文化圏などが合流する複合三次盆地文化圏ができるわけです。
今後、山陰側を調査して、三次盆地文化圏と江の川下流域に共通性を見出すことができれば、1つの河川流域文化圏と見ることができます。
 江の川の三次盆地文化圏では、正月には「わに」という鮫《さめ》の刺身を食べる習慣があります。
江の川上流の支流である美波羅川を例をとると、最上流の双三《ふたみ》郡三和《みわ》町の人々までが「わに」を食べます。
しかし、すぐ隣の賀茂《かも》郡豊栄《とよさか》町の人々は「わに」を食べません。
豊栄町の水は、瀬戸内海側に流れる沼田川の最上流です。
美波羅川と沼田川の分水嶺が、「わに」の刺身を食べる文化と、ブリの刺身を食べる文化の境目と一致していました。
 三和町の敷名《しきな》で鮫をさばき、「わに」の刺身にして販売しているスーパーマーケットの調理人を訪ねて、「わに」を見せてほしいと頼むと、冷蔵庫から3つ切りにした大きな胴体を出して、見せてくれました。
全体で80キロはあるそうです。
その人によると、「わに」を食べる習慣のある地域は日本列島の中では三次盆地とその周辺地域、熊本県の阿蘇山付近、茨城県の山間部の3カ所だけとのことでした。
いずれも海から離れており、新鮮な海の魚を入手するのが難しい地域です。
「わに」にはアンモニアが含まれているのであまり好まれないが、獲ってから20日後に食べてもお腹をこわさないので安全であり、そのため山間部で食する習慣ができたという説明でした。
そのため、美波羅川の分水嶺を越えたところからは、刺身が魚のブリから「わに」にかわるのだそうです。

 昔は島根県の大田《おおだ》市の近くにある五十猛町《いそたけちょう》という漁師の村が「わに」漁専門だったそうです。
そこから専門の商人が三次まで売りにきていたとのことです。
それを「わにの道」というそうです。
ヒレの部分はフカヒレとして中国に輸出し、肉の部分を三次周辺で売っていたそうです。
ヒレは貴重な外貨収入の手段だったそうです。

 今では、このスーパーマーケットで売っている鮫は茨城県から運んできているそうです。
なお、彼によると山陰側の人々は「わに」を食べないのだそうです。
「わに」は瀬戸内海にもいますが、瀬戸内海から続く川流域の人々はアンモニアを含む「わに」よりもブリなどの他の魚を好んだそうです。
以上がスーパーマーケットで聞いた話です。

◎魚の塩漬けも流域の特色か

 「わに」を食べる文化と食べない文化の境界に住んでいる人に、他にも食文化の違いがあるのかどうかを聞きました。
その人は、いわし漬けも美波羅川側は食べるけれども、沼田川側は食べないと話していました。
いわし漬けとは、大根を千切りにして干しておいたものと、大量に塩漬けにしておいたいわしを囲炉裏《いろり》で煮て、朝食として食べる習慣です。
たしかに三和町側にはありますが、分水嶺を越えるとそういう習慣はありません。
 確認のため、三次市の人にいわし漬けの食習慣があるかどうかを聞くと、いわし漬けの習慣はないけれど、魚を塩漬けや干物にして保存する習慣はあるそうです。
これも江の川文化圏を他の文化圏から区別するものとなりうるかもしれません。

 以上のことを証明するには地域全体をフィールドワークして確かめなくてはなりませんが、部分的に確認できたところでは、江の川水系と他の瀬戸内海に流れる2つの水系(沼田川水系と芦田川水系)の切れ目で食文化の明確な区分が存在するということです。
なお、1970年前後に、県立三次高等学校の歴史部が「わに」の食文化の領域をフィールドワークして、リポートをまとめているそうです。

▼疲れた苦しさを訴える表現の相違に見る河川流域文化圏

◎「しわい」「せつい」「やねこい」

 江の川の本流は、美波羅川や馬洗川と三次で合流し、江の川となって日本海に通じています。
合流地点の三次盆地では、体が疲れた時に「しわい」といいます。
沼田川流域では「せつい*」、太田川文化圏の広島市では「やねこい」といいます。
広島県の三水系文化圏の有無を調べるにあたり、この「しわい」「せつい」「やねこい」の分布を調べることが必要です。

*注=「せつい」と「やねこい」の使用範囲

 「せつい」については、実際にどの範囲で使われているのか調査が必要です。
「やねこい」については芦田川流域とする意見もあり、これも調べてみる必要があります。
広島市内では「えらい」も使いますが、これは大阪の関西弁が広がってきたものだと私は推測します。
県全域で使われる「しんどい」も関西弁からきたものだと思います。
苦しい状況を「なんぎ」ともいいますが、これは明らかに漢字の難儀に由来しています。

◎「しわい」と「せつい」の間に地理的障壁

 江の川支流の美波羅川流域で、「しわい」がどこまで使われているかを調べてみると、三次市と双三《ふたみ》郡三和町の境目まででした。美波羅川は三和町を流れており、三和町と賀茂郡豊栄町との境目が分水嶺です。
「わに」の食文化圏は、この分水嶺が見事に境目になっていました。
ところが、三和町も豊栄町も同じ「せつい」圏なのです。
 同じ美波羅川流域で「しわい」圏と「せつい」圏を区切っているものは何でしょうか。
この境界は、実は人の住めない山中を美波羅川が2キロほど流れている場所です。
この地理上の障壁が、古代に「しわい」を使う人々と「せつい」を使う人々を分けていたと思われます。

 ですから、川の流れに加えて、川の流域に人間が生活できる丘と平地が連続的にあるかどうかも文化圏を分かつ要素としてありうると思われます。

▼歴史的考察

◎弥生人の諸部族の到来

 資料館には、ナウマンゾウの骨や細石器など、先史時代の発掘物が多く展示してありました。
先史時代の人々は、川の水源付近の丘の上に住んでいました。

 氷河期を乗り越えた先史時代の人々は、気温が暖かくなると、水源の丘の上で縄文土器をはじめとする文化を作り出しました。
この時期にも人々が住みついた河川によって地域的特色があっただろうと思います。

 今から2000年以上前、大陸での気候の悪化や戦国時代の戦乱を逃れるために、たくさんの人々が日本海側から江の川を上り、水源地域に住みつこうとしました。
先史、縄文時代からの先住民は北と南に追いやられました。
人を殺せる武器を持った弥生人の方が強かったのです。
彼らは稲作農耕の技術を持っており、川辺で稲作を試みました。
私たちの多くはこの弥生人の子孫です。

 その頃は、日本人も朝鮮人もいませんでした。
国家をもたない部族集団が、血のつながった氏族を単位として存在していました。

◎多様な諸部族・諸言語の世界の成立

 大陸からやってきた部族集団が、中国山地の山あいの水源周辺に、稲作をする村を作りました。
その頃はもちろん日本語もなければ朝鮮語もなく、部族の言葉があっただけです。
日本語が形成されるのはもっと後であり、現在の方言ではなく、まさしく多様な部族の言葉があったはずです。

 ちなみに最近、アフリカのニジェールで2年間ボランティアをした人と会った時、「驚いたことに、教育のない一般の人々が3つか4つの言語を駆使できるのです」と語っていました。
さまざまな部族の人々と接して交易する機会のある人々は、生きるために複数の言語を駆使できるのです。

◎苦しさの表現は諸部族の言葉の「生きた化石」か

 現在の方言には2つの起源があると考えられます。
1つは、政治的文化的な先進地である京都の言葉が地方に伝わる中で、各地で変形したケースです。
もう1つは、その谷に移住して土着した部族がもともと使っていた言葉を起源としたものです。
 「しわい」「せつい」「やねこい」という身体の苦しみを表現する言葉は後者であると考えられます。
苦しみを訴えるこれらの言葉は、幼年期に母語として母父から受け継がれます。
自分の実感を訴えようとするこの苦しみの表現は、マスコミや全国共通の教育が発達していない前近代においては、それほど簡単に別の表現に取って代わることはできません。
私たちは英語を知っているからといって、空腹時に「アイアムハングリー」と訴えるでしょうか。
京都や鎌倉からやってきた支配者の言葉で、痛みやつらさを表現することはしなかったはずです。
支配者の言語を一般に押しつけようとしたのは近代ナショナリズムが勃興してからのことです。

 したがって、この苦痛の表現における地域的な固有性を調べるならば、西日本において先住民を追いやって住みついた私たちの直接の祖先である部族集団による、河川流域の支配領域が判明するはずです。

◎諸部族の行方

 縄文人は南北に追いやられたほか、一部はわずかな水源のある山間部の辺鄙《へんぴ》な土地に追いやられ、渡来した弥生人に圧倒されながら、自分たちの狩りの獲物を弥生人の集落で交換した可能性もあります。
河川流域に沿って丁寧にその出土品を比較するなどすれば、そのようなことも証明されたかもしれません。
骨などの遺物が出てくれば、科学的な調査も可能です。

 いずれにしても、朝鮮半島から南下して日本海側から川伝いに上ってきた部族、中国や南方からやってきた部族、先住民の部族といった具合に、中国地方では河川流域に沿って、氏族を基盤とした多様な言葉を持つ部族集団がモザイク状に存在したと考えられます。

 明治初期の1村1社への神社の統合まで、村の氏神は部族の基盤であった氏族が崇拝したものを示すものと考えられます。
部族全体の神をまつった規模の大きい神社もあったでしょう。
ヤマト部族が諸部族を制圧していく中で、部族のアイデンティティを保って残すことのできた神社と、抹殺されてしまった神社もあったと思います。
つまり神社とは、河川流域に住みついた各部族の神をまつったことから始まったものであると考えられます。
氏神をまつった社や神社の分布や成立も、河川流域に沿って調べると、河川流域文化圏と部族集団の定住について考えるヒントになるのではないかと思います。
おそらくそのような調査からは、日本列島の人々が想像以上の多様性を持っていたことが浮かび上がると思います。
日本人も朝鮮人もまだ形成されていなかったことも明確になり、その時代から「日本人」のアイデンティティがあったかのような歴史は虚構であることが明らかとなるでしょう。

◎「せつい」部族と「しわい」部族

 したがって、次のように考えることができます。
三次盆地文化圏の「平原の段階」を作り出した部族集団は「しわい」部族でした。
そして江の川の支流である美波羅川最上流の三和町の敷名と上山《かみやま》の谷間から沼田川の上流域にかけては「せつい」部族が支配しました。
それぞれの河川流域について、今後、苦痛の表現*がどうなっているかを詳細に足で調べていけば、日本列島に住みついた部族集団の支配領域が浮かび上がるでしょう。
大陸側の朝鮮半島でも、河川流域によって異なる、現在は方言とされている苦痛の表現を調べていけば、親戚関係にある部族集団の存在もわかるかもしれません。

*注=苦痛表現の調査について

 古墳時代以後の山間部の人々の移動は、前近代はそれほど考慮に入れる必要はないと思います。
結婚などによってその谷間に来た人は、その谷間の言葉を話すようになります。
日常的に周囲の人々の言い方が耳に入りますから、「しわい」部族の人も「せつい」部族の言葉を容易に母語のように受け入れてしまいます。

◎「わに」の食習慣と「せつい」「しわい」の歴史的順序

 「わに」を食べる三次盆地文化圏が成立したのは、「しわい」部族集団と「せつい」部族集団が河川流域に定住してからずっと後のことです。
サーカー流にいえば、河川流域文明が「丘」「平原」の段階を過ぎ、文明成熟の最終段階である「三角州」の時期のことだと考えられます。
鮫である「わに」を捕獲するには相当の技術水準が必要であったと考えられるからです。

 中国地方山間部の河川流域に住みついた「しわい」部族や「せつい」部族の人々は、フナやハヤなどの川魚を食べていたと推測されます。

◎まとめ

 方言についての一般的な理解は、「日本は山の多い島々からなっており、このため、異なった地域に住む人どうしの接触が地理的にさまたげられた。その結果、その地域ごとの方言が発達した」(エンカルタ百科事典)というものです。
人々の接触が地理的に妨げられた結果、方言が発達したというこの考えに対して、私は日本列島の河川流域にやってきた段階で諸部族が、すでに多様に分岐した言語をもっていたと考えます。
そして、その後日本列島の主な部分を制覇した関西の支配層の言語が全国に広まった。
各河川流域の人々は、固有の言葉を保持しながら徐々にその支配層の言語を受け入れていった。
すなわち、方言は、一方で各河川流域に住み着いた部族が固有の言葉をもっていたこと、他方で中央の言語が各河川流域に伝わってゆく中で変化したこと、この2つが影響しあって成立したものだと考えます。
 河川流域文化圏の視点で、各流域の文化、風俗、言語を見てゆくならば、私たちは新しい知見を得ることができます。



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