Gayatri Mantra Legendado (video inspired by god of star)


( Japanese did not know that there was high civilization of 3000 years which had character )

Dear
I am god salamnidam who downed social cycle theory to P. R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki translated almost books of Sarkar.
Mitsuki understands theory which I downed Sarkar more than other people.
I downed theory to Sarkar for preparation of project of Heaven and gods.
We gods of star earth had not communication with gods of Heaven.
I knew by future reading.
Translating of assistant Mitsuki has become huge significance.
Mtisuki downed documents of Heaven.
Gods of heaven and gods of star earth share both theory and understand each other deeply.
This makes strengthen our unity.

Theme of this time is Japan social cycle in ancient times.
Japan had ancient hutomani civilization living with gods of star.
In this phase when Mitsuki wrote this article all Japanese did not know that there was high civilization of 3000 years which had character.
Mitsuki was received about hutomani civilization from god Apollo who is god of Sirius and made H.P. of hutomani civilization.
This is huge contribution to human society.
This civilization was highest level of human history.
This was erased by negative gods.
Now we gods of earth revive hutomani civilization in scale of whole earth together with gods of Heaven.


こんにちは
私はP. R. サ-カ-に社会サイクル論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
ミツキはサ-カ-の本をほとんど訳しました。
ミツキは私がサ-カ-におろした理論をほかの人々よりもよく理解しています。
私は天と神々のプロジェクトの準備のためにサ-カ-に理論をおろしました。
私たち地球の星の神々は天の神々とコミュニケ-ションがありませんでした。
私は未来リーディングを通じて知っていました。
アシスタントミツキが訳したことは巨大な意味をもつようになりました。
ミツキは天の文書をおろしました。
天の神々と地球の星の神々が両方の理論を共有し、相互に深く理解しました。
これは私たちの団結を強化しています。

今回のテーマは日本の古代の社会サイクルです。
日本は星の神々とともに生きる古代フトマニ文明をもっていました。
ミツキがこの論文を書いた段階では, 
日本人の誰も文字をもっていた3000年の古代文明があったことを知りませんでした。
ミツキは,シリウスの星の神である神アポロンからフトマニ文明について受け取り, フトマニ文明についてのホームページをつくりました。
これは人間の社会への巨大な貢献です。
この文明は人間の歴史で最高のレベルにありました。
今, 私たち地球の神々は天の神々とともに地球全体の規模でフトマニ文明を復活させます。


▼原始社会――大衆の時代

 縄文時代は、精神的には毎日の生活に追われるしかなかった大衆の時代です。
武勇、知力、財力の未発展の時代です。
そのかわりに、文明がもたらす「武勇、知力、財力を無限に求める欲望」のない、精神的にはバランスのとれた時代でもあったでしょう。
文明時代に入ることで人は武、知、財の無限の欲望にとらわれて生きることになります。
(ただし、新たな科学的発見によって、縄文時代のイメージが変化しつあります。
もしかすると、この時代に武勇、知力、財力の1サイクルがあったのかもしれません。
1万年前の旧石器時代を大衆の時代とすべきなのかもしれません。
このあたりは今後の歴史研究で明らかになっていくでしょう)

▼第1サイクル

◎第1サイクルのはじまり――武勇派主導の時代

○古代部族国家形成期

 弥生時代の中期には、各地に部族国家が多く成立したと考えられます。
『後漢書』東夷伝《とういでん》には中国大陸を統一した後漢の光武帝から西暦57年に倭《わ》の奴国王《なのこくおう》が金印をもらったという話がありますが、日本列島の部族国家の王が中国の権威をバックにして他の部族国家を従えようとしたものと思われます。

 107年には後漢の安帝に倭の国王の帥升《すいしょう》が生口(奴隷)160人を献上した記録が残っています。
さらに『後漢書』東夷伝には147~189年の桓帝から霊帝の時期の「倭国大乱」という記述があります。

 この時期は、環壕集落(小部族国家)の堀に示されるように戦乱の世であり、武勇派が社会の主導権をとって領域を持った国家をめざして戦っていました。

 日本列島の一部に緩やかな統一が実現しました。
『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』には、239年に邪馬台国《やまたいこく》の女王、卑弥呼《ひみこ》が中国の三国時代の魏の皇帝に使いを送っていることが書かれています。
「卑弥呼は鬼道を能《よ》くす」とあり、彼女は呪術を使うシャーマンであったと考えられ、原始的な知力派がその精神的力で社会に影響を与えていたことが推理されます。

 卑弥呼は248年に亡くなり、卑弥呼の後を継いだシャーマンの壱与《とよ》が266年に中国の晋《しん》の都の洛陽に使いを送っています。
この時期は知力派の時期です。

 以後約150年間の資料はありません。
記録に残っているのは391年に倭人が高句麗《こうくり》と戦ったことです。
これは広開土王の碑文に書かれています。

 413年以来、倭国は何度か中国の東晋に使いを送っています。
478年の武の中国の宋の皇帝への上奏文には、「倭、新羅《しらぎ》、任那《みまな》、加羅《から》、秦韓《しんかん》、慕韓《ぼかん》」の6カ国の「安東大将軍倭国王」と称していることが書いてあり、朝鮮半島と日本列島の支配者であると自称しています。

◎大和王権の確立――武勇派による最初の古代王朝

○大和朝廷の成立 5世紀

 大和朝廷の成立が朝鮮半島からやってきた遊牧騎馬民族によるものとする説もあり、この時期の王が朝鮮半島まで支配したのかもしれません。
あるいは通説のように大和の最強の豪族が朝鮮半島まで勢力を伸ばしたのかもしれません。
大陸からやってきた武勇派か、日本列島で生まれた武勇派か、いずれにしても武勇派の主導権の下に5世紀頃に地域的な部族国家を制圧した大和朝廷が成立したと考えられます。

○推古朝・飛鳥文化

 この時期に朝鮮半島からの渡来人が進んだ知識・技術を持ってきて国づくりに当たりました。
そして6世紀には仏教も渡来人が伝えました。
日本で最古の奈良の飛鳥寺はこの頃に造られています。

 朝鮮半島から渡来した知識人による指導の下で、日本最初の文字による文化が発生します。
渡来人たちの知識・技術で生産が発達し、私有財産としての富への欲望が高まることになります。

 聖徳太子は、冠位十二階と十七条の憲法を制定し、仏教を柱として天皇中心の集権国家をめざそうとしました。
これは武でも財でもなく、知に基づく国家体制の樹立をめざしたものでした。
彼は隋に南淵請安《みなぶちのしょうあん》などの留学生を送りましたが、彼らの知識は、次の社会サイクルの理念の種をまくものでした。

 622年に聖徳太子が没した後、蘇我氏は天皇の即位に関与し、天皇を操って政治に大きな影響を与え、権勢を振るいました。

◎知力派の主導権の時代へ

○律令国家の形成 大化改新

 645年、中臣鎌足《なかとみのかまたり》と中大兄《なかのおおえ》皇子が、権勢を振るっていた蘇我氏を倒しました。
大化改新と呼ばれるものです。
663年には白村江《はくすきのえ》の戦いで、百済を支援した朝廷の軍隊が、唐と新羅の連合軍に大敗しました。
この後即位した天智天皇によって政治は内政重視に移りました。
たとえば初めて律令のもとである近江令《おうみりょう》(その存在を否定する説も有力)や庚午年籍《こうごねんじゃく》という戸籍を作って、第2サイクルの天皇中心の中央集権国家としての国の形が整いました。

 天智天皇の死後、672年に壬申《じんしん》の乱が起こり、天武天皇(大海人《おおあま》皇子)が即位しました。
天武天皇は八色《やくさ》の姓《かばね》という官僚制度を整えました。

 この時期には南淵請安など随と唐の政治から学んだ元留学生たちとその弟子が、その知力によってこれらの諸政策に影響を与えていたと考えられます。

 天武天皇の妻の持統天皇が即位した690年には庚寅年籍《こういんねんじゃく》という戸籍を作り、唐の都城制をまねた藤原京を築きました。
この後、藤原不比等《ふひと》の指導の下、701年に大宝律令《たいほうりつりょう》が制定・施行され、718年には改訂した養老《ようろう》律令が定められました(施行は758年)。
これらの国づくりには多くの百済人の知識人がかかわっています。
聖武《しょうむ》天皇時代の最大の知力派は唐で学んだ吉備真備《きびのまきび》や玄隈《げんぼう》などです。
以上の経緯を見るとこの時期に知力派が主導権を発揮していることがわかります。

 また元明天皇の712年には『古事記』、713年には『風土記』、元正天皇の720年には『日本書紀』が編纂されました。
901年まで六国史といって国の歴史の編纂事業が行なわれました。
古代天皇制の確立は諸勢力との戦いに勝利した最強の武勇をもった人物が、古代の最初の王になったのであり、その子孫の天皇はその武勇を持ち合わせません。
これらの編纂事業は、武勇をもたない子孫が天皇の地位を安定的に世襲できるようにしただけでなく、知力派がその立脚基盤を固める意味をもっていたと考えられます。

 その後、藤原氏たち蓄財派の時代が院政、平氏政権と長く続きます。
この時代の中に次の時代を準備する武勇派が登場してきます。

◎蓄財派の支配とその破綻

 平安時代の支配者層の権力基盤は荘園にありました。
荘園制度は自墾地系すなわち自分の開拓した荘園から始まり、寄進地系荘園に変わっていきました。
勢力のある貴族や寺のもとに各地の土地が寄進され、その中でもっとも強い勢力を持ったのが藤原氏でした。

 寄進地が広がっていくと、朝廷はそこから税をとれなくなります。
902年に延喜《えんぎ》の荘園整理令が出されました。
ところが歯止めがきかず、1069年には書類不備の荘園を認めない延久《えんきゅう》の荘園整理令などが次々とだされましたが、結局は効果をみませんでした。
藤原氏の勢力はこの頃から翳りが見えるにしても、実質的な最高権力者が摂関家の藤原氏から院に代わっただけで、寄進地荘園はますます院に流れていきました。

 平氏は院を護衛する兵の一部でしたが、海賊退治などで名を上げ、武勇を買われて中央政界に乗り出していきました。
ところが平氏のしたことも院や摂関家と変わらず、寄進地系の荘園に加えて院の時代から始まっていた知行国など地域全体の支配権を握ることになりました。
平氏は全国の66カ国のうちの約30カ国を支配し、所有する荘園も500カ所を数えるようになりました。
平氏は皇族とのつながりのみを重んじ、諸国の武士を省みなくなったため、諸国の武士から不満が高まりました。
ないがしろにされた院の側にも不満が高まり、後白河法皇の第2皇子から各地の源氏に平氏追討の院宣が発せられました。
そして各地の武士団は平氏への不満から源氏の側に結集するようになっていきました。

これは、サーカーの社会サイクル論では、シュードラ(大衆)革命です。
源氏の側に結集した武士団のリーダーは、武勇派(クシャトリア)のメンタリティをもっていますが、蓄財派支配による富の不均衡の拡大のためにシュードラ的地位に下落しています。
したがって、彼らはヴィクシュブダ・シュードラすなわち「不満を持ったシュードラ」です。
実際はクシャトリアの彼らがシュードラの武士大衆をひきいて革命に立ち上がりました。



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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