New 12 Girls Band in Korea
(video inspired by god of star)




( This is human mentality which pursues only physical joy)

Dear
I am god salamnidam who downed social cycle theory to P.R.Sarkar.
Social cycle theory is historical materialism.
Historical materialism of Marx is middle wave of social cycle by seeing unity of conflict between productive force and productive relation.
Social cycle theory of Sarkar is small wave by seeing mentality of human.
Project of Heaven and gods do base on huge social cycle in scale of universe.

Theme of this time is shudra mentality.
This term is from Hindi.
Shudra does not mean caste.
Caste is social system.
This is human mentality which pursues only physical joy.
Today human mentality has developed.
There is no person who pursues only physical joy.
I used this term as main feature of mentality.



こんにちは
私はP.R.サ-カ-に社会サイクル論をおろした神サラムニダムです。
社会サイクル論は史的唯物論です。
マルクスの史的唯物論は、生産力と生産関係の対立の統一を見ることによる社会サイクルの中位の波です。
サ-カ-の社会サイクル論は、人間のメンタリティを見ることによる小さい波です。
天と神々のプロジェクトは宇宙規模の巨大なサイクルにもとづいておこなっています。

今回のテーマは, シュードラメンタリティです。
この用語はヒンディ語です。
シュードラはカーストを意味しません。
カーストは社会システムです。
これは物的喜びのみを追求する人間のメンタリティです。
今日人間のメンタリティは発達してきました。
物的喜びのみを追求する人間はいません。
私はメンタリティの主な特徴としてこの用語を使いました。


▼シュードラ

◎粗大な波に支配されている

 「個人の心の波動が、粗大な物事の波動を消化しようとすることなしに、それとの調整を維持しようとする時、個人の心は次第に粗野になります。
私たちがシュードラと呼ぶのは、そのような物質主義的な心の人です。(中略)
シュードラの心性を持って進んでいる人々を集合的に『シュードラ社会』と呼びます。
いうまでもなく、そのような人々は何ひとつ自分のコントロール下に置くことはできないでしょう。
というのは、彼ら自身がより粗大な波――物質の波――によってコントロールされているからです」(The Ks'attriya Age)

 「物質主義的な心」とは、心が物的・身体的願望をコントロールできずに、それに引きずられている人です。
ヴァイシャ(蓄財派)の願望も物質的なものですが、本物のヴァイシャのメンタリティは財の消費ではなく財の蓄積が願望ですから、蓄財のためには質素倹約することができます。
シュードラは物的・身体的な喜びを求めて生きています。

 「シュードラは、物質的享楽を求めて生きています。
わかりやすくいえば、シュードラの生活は本質的に粗野な物質性に基づいています。
肉体的感覚の喜びに駆り立てられています。
イデオロギーと論理は、彼らには意味を持ちません。
過去、現在、未来という時間の3分割のうち、現在のみが彼らにとって重要です。
彼らは過去や未来について考える時間を持たず、考えたいとも思いません」(The Ks'attriya Age)

◎シュードラの恐怖心理

 イデオロギー、論理、過去、未来はシュードラの思考領域に入りませんが、シュードラは宗教的に敬虔《けいけん》な姿勢を示します。
その理由をサーカーは次のように述べます。

 「知的には動物のように鈍感なシュードラは(中略)自然の災害などに対する恐怖から、それを崇拝の対象として眺めます。
彼らのこの種の恐怖感情は、自然の諸力をさまざまな神の地位に高めました。
この神格化は1つの完全な最高実体(ブラフマ)に対する信心やインスピレーションから生まれたものではなく、むしろ彼ら側の都合によって、恐怖心理のゆえに木や山々、森などを神として崇拝し始めたものです。
それゆえ、シュードラの社会心理は恐怖心理に基づいていると結論づけることができます」(The Ks'attriya Age)

 宗教とスピリチュアリティをサーカーは常に厳密に区別します。
スピリチュアリティは大宇宙の根源との一体性のインスピレーションから来るものです。
しかし、特定の木や山々や森などの物質を他と区別して崇拝することは、初期シュードラの自然に対する畏れや恐怖心理から、次第にそれがヴィプラによって神格化されたものだといいます。
サーカーのスピリチュアリティの視点からすると、すべての木、山、森は聖なるものです。
しかし、宗教は特定の対象を聖なるものとして心に半径を設けます。

◎社会変革とシュードラ

 シュードラは、主として肉体労働によって社会システムを支えます。

 「ヴァイシャ(資本家)の非人間的な貪欲さからシュードラを守るために、シュードラの意識を高めなくはなりません
シュードラ革命の前夜には、すべての非ヴァイシャ階級が自分はシュードラのレベルに落とされていることに気づきます。
しかし率直に言ってシュードラの意識を高めることは可能なのでしょうか。
シュードラを動かせる人々、すなわち一時的に革命に向けて彼らをまとめていく人々はクシャトリアです。
シュードラは、すべきことを機械的に実行するだけです」(The Ks'attriya Age)

 物的・身体的願望にのみ引きずられているシュードラの意識を高めることは大変困難です。
ヴァイシャ時代の末期には富の極端な格差からシュードラの反搾取感情は高まるけれども、その反搾取感情はシュードラのメンタリティを持った人間が自発的に高めたのではなく、クシャトリアとヴィプラのメンタリティを持ちながらシュードラ的な経済状態となった人々がリーダーとなり、シュードラを組織して立ち上がらせたのだというのです。
実際、歴史上の人物を振り返ると、シュードラ反乱のリーダーが、シュードラのメンタリティを持っていることはありえません。
なぜなら物的・身体的な領域で困難に陥っている社会の変革に挑むことは、物的・身体的願望に引きずられているシュードラの心ではできないからです。

 「クシャトリアの中には正直な人も不正直な人もいます。
実際、不正直な者が多数派です。
だからシュードラは、クシャトリアによって導かれ、駆り立てられて、莫大な数のハエのように革命や反革命の火の中へ飛び込みます。
そして火の中で羽が燃えてしまいます。
ほとんどの場合、クシャトリアはシュードラを完全に騙しながら、評判や名声、富、影響力を自分のものにします。(中略)
革命後、シュードラはすべての領域で自分たちが得たものと失ったものを適切に評価するかわりに、欺瞞《ぎまん》的なクシャトリアの旗を運ぶことが自分たちの生活のもっとも重要なことだと見なします」(The Ks'attriya Age)

 革命や反革命の中心的リーダーは、クシャトリアのメンタリティの持ち主です。
シュードラはクシャトリアの勇気に従い、戦場で血の中に倒れます。
勝利した場合には、自分は惨めな状態におかれても勝利したクシャトリアの旗を持って満足することになります。

◎シュードラ観の比較

 以上がサーカーのシュードラ論の説明です。
他のシュードラ論と比較して考えてみたいと思います。
このようなメンタリティのシュードラを劣っている者として低く見る見方がありました。
たとえば、封建的身分制の時代の知識人はシュードラを低く見る見方を社会に浸透させました。
これはサーカーによれば、自分たちの支配を固めて、長引かせようとした悪意あるヴィプラの仕業です。
封建的身分差別意識の理論の実態的根拠は、サーカーが指摘しているシュードラ的メンタリティにあったと思います。

 自由、平等を求めたブルジョア市民革命期には、理論的にはシュードラは平等な者として扱われました。
進歩的な見方の中には、本来、人間は能力的にも平等だと徹底するものもあり、世界中に大きな影響を及ぼしました。
しかし、それは欺瞞でした。
シュードラは産業革命を推進させるためにブルジョアによってひどく搾取されました。
植民地にされた人民はシュードラ以下の扱いを受けました。
その欺瞞を見て、シュードラを能力的にも徹底的に平等だと見なす立場から、プロレタリア階級(労働者階級)による政治支配が人類解放に決定的な役割を果たすという理論が生まれ、広がりました。
プロレタリア階級という言葉は一時的には聖なる響きを持ちました。

 しかしサーカーは、これまでのどの立場とも異なった見方をします。
人間としての尊厳においてシュードラはまったく劣りません。
しかし、責任を持って人々の福利を保障するリーダー層としては、物質的な喜びに引きずられるシュードラのメンタリティを持ったシュードラは適していないと明確に論じます。

 サーカーが育て広げようとしているサドヴィプラ社会集団は、表現は多様であるが根源において人類は1つという立場から、特定の階級ではなく反搾取の立場をとります。
クシャトリアが搾取的になれば、それと闘ってヴィプラ時代を到来させ、ヴィプラが搾取的になれば、それと闘ってヴァイシャ時代を到来させます。
ヴァイシャ時代が搾取的になれば、それと闘ってシュードラ革命を成功させ、新たなサイクルへと前進させます。

 そして究極的には、サドヴィプラ社会集団は肉体労働を嫌がらずに引き受けるというシュードラの長所、勇気を持つクシャトリアの長所、高い知性を持つヴィプラの長所、この世を富ませ、財を有効に活用するヴァイシャの長所を身につけ、階級のない社会を創ることをめざします。

◎シュードラは相対的な概念

 サーカーの哲学では、この世のありとあらゆるものは相対的であると論じます。
その観点からすると直接的な明言はありませんが、原始時代のシュードラのメンタリティと今日のシュードラのメンタリティは、物質的波にコントロールされてしまうという本質はあっても現われは変化しており、今日のほうがより多様な現われをしていると考えられます。
これは、クシャトリア、ヴィプラ、ヴァイシャにも当てはまると思います。

 原始のシュードラについて、次のような記述があります。

 「現在も含めて、シュードラ的心性の人、物質的享楽の願いが支配的な人々をどの社会でも見ることができます。
初期の時代、強い男たちは享楽に対する願いが強いゆえに一夫多妻でした」
「そこには弱者への哀れみや同情はありません。
弱者の生存を維持するための社会的努力もありません。
子どもたちは老いた両親に対する責任を引き受けません」(The Ks'attriya Age)

 私たちの社会では、ここに記述されている原始シュードラのメンタリティの人は少数です。
この記述が本物のシュードラのメンタリティだと思います。
教育や文化を通じて、クシャトリアの心を持ったシュードラ、ヴィプラの心を持ったシュードラの数が増えます。
サーカーはそうしたシュードラのことをヴィクシュブダ・シュードラ(Viks'ubdha shu'das)、すなわち「不満を持ったシュードラ*」といいます。
彼らの数を増やし、減らさないようにすることが重要なのです。

*注=サーカーのシュードラ論

 最初にこのサーカーのシュードラ論を読んだ時、次のようないくつかの疑問が浮かびました。
第一の疑問は、たとえば旧石器時代、縄文時代をシュードラ社会とすれば、このシュードラと平安時代のシュードラ、江戸時代のシュードラ、現在のシュードラを同列に論じることができるのだろうかということです。
そこには質的転換があるはずで、歴史科学はその違いを明確にしてきました。
サーカーのいうように物質的享楽を主として追求するタイプとして心理的特徴のみに照準を合わせると共通性が見出せます。
したがってこの世のあらゆるものが相対的であるというサーカーの観点を当てはめて、本文で記したようにシュードラ概念を相対的なるものとして把握しました。

 第二の疑問は、本文には引用していませんが「初期のシュードラの社会は、今日の犬や猿の社会よりも本当に優れているとはいえないものでした」「
『生きたい人々をよりよいように生かそう。
半死状態の人は、よりすみやかに死なせよう。
死んでいる人間に対してはエネルギーを浪費するな』でした。
こうしたものの見方は、ある種の利己的な社会システムを生みました」とサーカーは述べています。
これが本当に正しいのかどうかということです。

 F・エンゲルスは『家族、私有財産および国家の起源』という本の中で、モルガンという学者の調査と研究を引用してアメリカインディアンの勇気を讃え、生き生きとしていた原始社会の様子を描いています。
このシュードラ社会(原始社会)についての証言は、サーカーのいう社会の様子と大変異なるのではないかと最初は思いました。
ところがサーカーをよく読めば、母系制社会段階は前期クシャトリア社会構造であると述べられています。
イロクォイ族は母系制でした。
ですから、モルガンが「未開人」の中に文明化した階級社会には見られない生き生きした人格を見たというのは、サーカーの観点では原始社会のシュードラではなく、クシャトリア時代の武勇のメンタリティを持った人々を見たということになります。

 旧ソ連時代の考古学者ユ・イ・セミョーノフは『人間社会の起源』(築地書館)という本の中で、アウストラロピテクスの頭には石で割った跡があり、人間の社会ではなく猿の社会で、石を使ってメスをめぐる争いをしていた証拠だと推理していました。
この推理は、サーカーの「初期のシュードラの社会は、今日の犬や猿の社会よりも本当に優れているとはいえないものでした」と合致します。
セミョーノフは、ネアンデルタール人あたりから群婚となり、メスをめぐって分裂せず、人類は団結することを覚え、初めて助け合う人間社会が生まれたと分析していました。
実際、イラクのシャニーダール遺跡というネアンデルタール人の遺跡には、花で弔って死者を埋葬した跡や、片腕、片目の見えない障害者の老人の骨が出てきたことから、ネアンデルタール人については「犬や猿の社会」よりも優れており、障害者を労った痕跡もありました。

 ですから、サーカーの初期シュードラ社会の描き方は、アウストラロピテクスという、まだ人間社会を形成しておらず、猿社会であった意識段階には適応できますが、私たちの先祖の現生人類の段階を描くには適切ではないように思えます。

 日本の古事記の中に、ヒルコという障害児が生まれ、神様が川に捨ててしまうという残酷な話がありますが、このような障害者に残酷な仕打ちをし始めたのは、むしろ階級社会が成立してからだという研究(河野勝行著『日本の障害者 過去・現在および未来』ミネルヴァ書房)を読んだことがあります。
実際、古事記は奈良時代という階級社会の時代に作られました。
これは、サーカーでいえばヴィプラ社会です。
邪悪なヴィプラの心が作り出した物語なのでしょうか。あるいはヒルコの話は「犬や猿」の強い者が威張って弱い者をいじめる、サーカーのイメージする原始シュードラ社会の痕跡だったのでしょうか。

H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ