Imagine , Iranian song of peace. (video inspired by god of star)


(Nature of this war is battle for profit of big capitalist of foreign countries)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This time I introduce discourse about Iran-Iraq war.
Iran-Iraq war was battled from September1980 to August 1988.
This war was pre-war of Iraq war of America.
This discourse is very important to understand what Iraq war of America was.
Mitsuki wrote lran-Iraq war is proxy war.
America brought up dictatorship of Pahlavi Shah Iran.
America sold Iran weapon.
Iran bought weapon by oil money.
Oil money converted to weapon..
Soviet Russia sold weapon to Saddam Hussein of Iraq.
Iraq bought weapon by oil money.
Oil money converted to weapon.

In Iran people did revolution.
This revolution was against shah dictatorship buck up by America.
America hated revolution of Iran.
America supported Saddam of Iraq to destroy Iran revolution.
This was beginning of Iran-Iraq war.

Iran-Iraq war was battled in eight years.
Soviet Russia collapsed.
Saddam of Iraq bought weapon from France.
This made Iran-Iraq war complex.
Nature of this war did not change.
Nature of this war is battle for profit of big capitalist of foreign countries.
(In lower part Japanese discourse of Iran-Iraq war is uploaded)


(この戦争の本質は,外国の大資本家の利益のための戦いでした)

こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの
生涯にわたる研究を紹介しています。
今回は,イランイラク戦争の論文を紹介します。
イランイラク戦争は,1980年9月から1988年8月にかけて戦われました。
この戦争はアメリカのイラク戦争の前提をつくりました。
この論文は,アメリカのイラク戦争とは何であったのかを
理解するために非常に重要です。

ミツキは,イランイラク戦争を代理戦争であると書きました。
アメリカはイランのパーレビーシャー独裁政権を育てました。
アメリカはイランに兵器を売りました。
イランは,オイルマネーで兵器を買いました。
石油のお金が兵器に転化しました。
ソ連は,イラクのサダム・フセインに兵器を売りました。
イラクはオイルマネーで兵器を買いました。
石油のお金が兵器に転化しました。

イランで人々は革命をおこしました。
この革命はアメリカにバックアップされたシャー独裁政権を倒すものでした。
アメリカは,イラン革命を憎みました。
アメリカは,イラン革命をつぶすためにイラクのサダムを支持しました。
これが,イランイラク戦争の始まりでした。

イランイラク戦争は,八年間にわたって戦われました。
ソ連は崩壊しました。
イラクのサダムは,兵器をフランスから買いました。
これがイランイラク戦争を複雑にしました。
この戦争の本質は変わりませんでした。
この戦争の本質は,外国の大資本家の利益のための戦いでした。
(下にイランイラク戦争の日本語の論文を載せています)

『米ソ協調と湾岸危機・戦争』巣山 靖司 (編著)
1980 era Iraqi war propaganda "Story of Iran-Iraq war (1980-1988)"







イラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)とイラクの軍事大国化
.......誰が軍事大国化を促したか......
(この文章を読んでいただいたら、アメリカはイラクのイラン侵略であった1980年から1988年のイラン・イラク戦争で、なんとフセイン大統領を支持し、彼を増長させていたことがわかります。
アメリカは、1979年におきた反王政反米のイラン・イスラム革命憎しで、その革命をつぶしたいためにフセインのイラクを支援しているのです。
敵の敵は味方の論理です。
そしてそのフセインのイラクに対して今アメリカは再度戦争しようとしています。
かつてビン・ラディンを反ソの立場から支援したのと同じです。
アメリカはパーレビー独裁王政を自らの傀儡として育て、その結果、イラン人民の怒りを引き起し、イラン・イスラム革命を引き起こしてしまった歴史的経緯から自らの中東政策を見つめる必要があります。
2002年9月15日)


(この論文は1990年12月に書いたものです)
序、本論の目的 
フセイン大統領率いるイラクがクウェートに侵入した今回の事件を理解する上で、八年間にわたって戦われたイラン・イラク戦争とそれにいたるイラン・イラク関係について考える必要がある。
その理由は、大国の軍拡競争を背景としたペルシャ湾でのイラン・イラクの軍備増強競争とイラン・イラク戦争が、地下の石油とひきかえのイラクの軍事大国化を促したからであり、かつクウェート侵攻へいたる政治、経済事情が形成されてきたからである。
アメリカをはじめとする諸大国とのかかわりの中でイラン・イラク関係をふりかえり、誰が「独裁者」フセインを支え、育ててきたのか明確にしたい。

1、1979年のイラン革命までのイラン・イラクの軍拡と大国化
一九七〇年代は、国際政治において米ソの力の均衡をもとめる政策のもとに核軍拡競争がはげしく争われた時代であった。
その米ソの力の均衡をもとめる政策は、ペルシャ湾岸においてアメリカのおす王制イランとソ連のおすイラクの力の均衡にもとづく軍拡にあらわれていた。
それは同時に、イラン・イラク両国の地下の石油が地上に兵器の蓄積となってあらわれる過程であり、米ソ両大国の兵器産業の一層の肥大化の過程でもあった。
まず、一九七〇年代におけるイラン・イラクの対抗の状況をみてゆこう。

(1)アメリカによるイランの軍拡 
(中東の民族解放運動の弾圧の憲兵としての王制のイラン)
七〇年代、サウジアラビアとイランすなわちリヤド・テヘラン枢軸は、イスラエルのテルアビブとともにアメリカの中東政策の拠点であった。
とりわけ、ペルシャ湾岸ではイランがアメリカの目下の同盟者として中東の憲兵として育てられてきた。
アメリカの兵器で強化される王制イランの軍事力は、国内の階級的抑圧、少数民族の抑圧とともにアメリカ軍の指導のもとで中東諸国への軍事的干渉に向けられていた。
たとえば、ソ連と結ぶイラクに対して一九七二~七五年まで、クルド人の居住区でイラン軍部隊が軍事活動を行っていた他、七一年には、アラブ首長国連邦のアブ・ムーサ島など三島に軍隊を出して占領し、一九七三年十二月から七六年末まで、オマーンにオマーン解放民族戦線のゲリラ闘争の鎮圧のために軍隊を派遣し、戦闘に参加し、七六年には南イエメン上空をとぶイラン空軍機が南イエメンによって撃ち落とされている。
さらにイランはアメリカの代理の憲兵として中東の範囲を越えて直接な軍隊派遣や武器援助を行っていた。
たとえば七二年には南ベトナムのチュー大統領支援のためにファントム・ジェット機を供与し、七三年はバルチー民族解放戦線のパキスタン軍との戦闘に三〇機の武装ヘリコプターを派遣してパキスタン政府を支援し、七七年にはザイールとソマリアに武器援助を行ったりしていた。
またイランは当時のソ連と核軍拡競争をつづけるアメリカにとって、ソ連監視の前線基地として役立っていた。
たとえば、ソ連とペルシャ湾、インド洋監視のために十一の地上駐屯地と六つの空輸隊を使用する監視システムを構築し、監視には数百名のアメリカ人監視専門家があたっていた。
またイラン軍のF-一四戦闘機によるペルシャ湾の監視には直接アメリカ軍人も参加していた。

(イラン軍拡を助けたアメリカ  地下の石油が地上の兵器に)
七〇年代のイランの石油収入の増加はアメリカへの兵器の代金となっていった。
アメリカのイラン向け武器輸出額は年毎に増加し、その結果、イランは七〇年の半ばに世界最大の武器輸入国となっている。
すなわちアメリカからの武器購入額は、六五年がゼロ、六七年三八八〇万ドル、六九年九四八〇万ドル、七〇年一億二七七〇万ドル、七二年二億一四八〇万ドル、七四年六億四八六〇万ドル、七六年一九億二四九〇万ドル、七七年二四億二四七〇万ドルであった。
七八年の王制の危機のはじまる時点で武器契約は二〇〇億ドルに達していた。(「第三世界の変革」巣山靖司著二〇六ページ)

(2)ソ連によるイラクの軍拡 
(ソ連とイラク)
アメリカがイランを自分の代理の中東の憲兵として育てていることに対して、ソ連はイラクに目をつけた。
イラクではバース党と軍部が六八年七月のクーデターで権力につき、当時三二才のフセインが六九年十一月にイラク革命評議会の副議長に就任し、アブ・バクル大統領兼革命評議会議長の片腕となっていた。
アメリカを背後にもつイスラエルやイランの軍事力に対抗できるだけの力をつけようとするフセインにとっては、アメリカの敵国、ソ連と手を結ぶしかなかった。
まず経済協力を中心として接近がなされた。
七一年六月二四日、ソ連が、イラクの北ルメイラ油田開発の援助をし、原油をイラクから輸入するなどの「ソ連・イラク経済技術協定」が結ばれ、七二年からソ連とイラクの経済協力関係がすすんだ。
軍事面では次のように協力関係が展開した。
七二年四月に、軍事同盟である一五年間有効の「ソ連・イラク友好協力条約」を結ばれ、「国防力強化のための協力発展」が約束され、ソ連軍はペルシャ湾の奥にあるウム・カスル港に出入りできるようになった。
ソ連は、七二年末頃、地対空ミサイルSA-3サイトを、七三年一~四月に、オサ級ミサイル艇と六五人乗りのミマMi -16ヘリコプターを供与し、イラクのパイロット四〇人をソ連で訓練した。
ただし、イラクの姿勢はあくまでソ連を利用しようとするもので、ソ連の衛星国化はしなかった。
イラク政権には、親ソ派イラク共産党も加わっていたが、七八年から共産党弾圧にふみだした。
フセインは五月二五日には、軍隊内の共産党員約五〇人を逮捕し、翌日二五人を処刑し、一二月三一日にも軍隊内の党員一八人を処刑している。
しかし、イラクを失いたくないソ連は、イラク国内の共産党の弾圧には、目をつむってイラクに強力な兵器を送り続けた。
T六二、T七二戦車数百輌、ミグ21、ミグ23ジェット戦闘機数十機、多数のMI24ヘリコプター、多数のフロッグ7、スカッドBミサイルなどである。
ソ連のおかげでイラク軍は、七三年から八〇年にかけて、兵員数を二倍、すなわち一二個師団、兵員一五万人にすることができた。
七五年頃からイラクは徐々にソ連一辺倒を脱して西側から兵器を調達するようになっていくが、ソ連は石油とひきかえにイラクに兵器を供与しつづけていた。

(イラク軍拡の目的)
本来、社会主義の理念からするとソ連の第三世界への援助は、その国の民族的民主的な発展の道にそって、その発展を支援するような形でおこなわれるべきであろう。
ところがイラクの軍拡は、国内の民族的民主的な発展につながるものではなかった。
その目的は第一にアメリカがバックアップする王制イランの軍拡に対抗するためであり、第二にイランが武器を供与するイラク国内の少数民族クルド人の独立をめざす反乱の鎮圧の実現であった。
そして第三に今日クウェー侵攻までいたったようにクウェート併合の実現のためである。
一九三一年に独立したイラクは、六一年のクウェート独立時、「オスマン・トルコ時代、クウェートはバスラ州の一部であったから、今日のイラク・バスラ州とクウェートは切り離せない」と主張し、クウェート独立承認後も、クウェートの領有するブービアン島とワルバ島の併合要求をつづけていた。
もちろん、第四としてアメリカのバック・アップするイスラエルとの対抗もあげておかねばならない。
実際、イラクの軍事力はクルド人の鎮圧、イランとの戦争、そして今回のクウェート侵攻に順次使われることになった。
ソ連が石油とひきかえにイラクへ兵器売却を進めてきた事実は、アメリカが「自由と民主主義」の名の下にそれを踏みにじってきたように、ソ連が「社会進歩と社会主義、民族解放」の立場を放棄し、石油確保のための建前にしてしまったことを示していた。
  このように米ソが力の均衡を追求する政策のもとでペルシャ湾岸ではイラン、イラク両国の軍拡競争が進んでいた。
そのことは同時に国内の少数民族の抑圧と階級抑圧の過程でもあったことを次のイラン・イラク国境紛争とイラン革命の中でみていきたい。

(3)イラン・イラク紛争の背景と歴史 
人種、民族、宗教、言語などが違うからといって、即、そこから対立関係がおこるというわけではないが、まず、それぞれの違いを簡単におさえておこう。
(イラクとイランは人種、言語が全く異なる)
(略)
(イラクとイランの宗教  イスラム教スンニ派はシーア派の対立関係)
(略)
(領土 国境紛争にしぼって)
(略)

2、1979年のイラン革命
イランで、七八年末から七九年はじめにかけて反アメリカ帝国主義、反パーレビー国王独裁をかかげるシーア派イスラム教の指導的僧侶ホメイニーの率いる革命が勝利した。
この革命は、ソ連のおすイラクとアメリカのおすイランの対抗の中で安定していたペルシャ湾情勢を根本から変える性格をもつものであった。

(1) 革命前のイランと近代化政策の矛盾  
(略)
(2)イラン革命の展開
(略)
(3)シーア派イスラム教僧侶の指導権の確立
(略)
(4)イランのホメイニーとイラクのサダム・フセイン
(略)
3、イラン・イラク戦争 
(1)イラクの侵攻 戦争の開始 
(イラクによるアルジェ協定の破棄 イラクのイラン侵略)
イラン革命勝利の翌年の一九八〇年九月一七日、イラクのフセイン大統領はイラン側の国境侵犯を理由に一方的にアルジェ協定の破棄を宣言した。
九月二二日から二四日にかけて、イラクは、イランの空港、空軍施設10カ所や製油所などを爆撃すると同時に、機甲・機械化・歩兵師団各二個を含む総勢五万人以上のイラク軍部隊をイランの南部国境四カ所を踏み越えて、イラン領土へ侵入させた。
その上で、イラクはイランに対して・シャトル・アラブ川のイラク領有の承認、・イラク内政への不干渉、・イランが占領しているペルシャ湾の三島(大、小トンブ、アブ・ムーサ)をアラブ首長国連邦に返すことを要求した。
(イラクの侵略の目的)
イラクのフセイン大統領のイラン侵攻の目的は、クルド人問題が背景にあって不満足な形で決着をつけた七五年のシャトル・アラブ川のイランとの国境線をイラクに有利にかえることであった。
アルジェ協定では、川の中央(渇水時の最深部)が国境線になっていたものを、それまでの川全部がイラク領という国境にもどそうというものである。
そして、あわよくばイラン革命で中央権力が弱体化したところで、イランのアラブ人の居住区のフーゼスターンの併合を念頭においていたと考えられる。
フーゼスターンはアラブ人の居住区で、イラン革命直後アラブ人の自治をもとめる運動がおこっていた。
しかも、フーゼスターンは、イランの石油の大半を生産している州である。
すでにイラクのカセム前政権は、六一年のクウェート独立のイギリスからの独立時に、クウェートの領有権を主張するとともにイランのフーゼスターンをアラベスターン(アラブ人の居住地という意味)と呼び、その領有をも主張していた。
さらに、七一年、イギリス軍がペルシャ湾から撤退する際にパーレビー国王が軍隊を上陸させて占領した三島をアラブ首長国連邦と主張したのは、この戦いをアラブの代表とし戦うと位置づけ、アラブ世界の中で主導権をにぎろうとしたと考えられる。
また政教一致のホメイニー革命の理論の影響の拡大は、被支配層にシーア派住民を多くかかえるイラクのバース党フセイン独裁政権にとっては、自己の政権基盤をゆるがすものに発展する可能性もあり、革命イランをたたき、「イラク内政への不干渉」を確保しておくことが必要であった。
実際、七九年六月にはイラクの首都バクダッド、バスラ、ナジャフなど各都市でシーア派イスラム教徒のデモが発生し、ナジャフでは三〇〇〇人が逮捕された。
また八〇年四月一日にはタリク・アジズ副首相が手榴弾をなげられて負傷する事件かおこり、フセイン大統領はイラクのシーア派組織「アル・ダワー・アル・イスラミア」(イスラムの叫び)の弾圧を決意し、ナジャフに住むイラクのシーア派最高指導者のアヤトラ・バーキル・サドル師を処刑した。
(イラクの目的実現のための絶好のチャンス)
イスラム教の周辺諸国の支配層は、ホメイニーの政教一致のイスラム政権をつくろうとするホメイニー師のよびかけにこたえた革命運動の高まりに不安をいだいていた。
七九年十一月二〇日にはサウジアラビアの聖地メッカのカーバ神殿のあるアル・ハラム寺院が武装グループ四〇〇人に占拠され、王制打倒、イスラム政権樹立をよびかけたり、パキスタンのイスラマバードでは、アメリカ大使館が襲撃されたりしていた。
イラクのイラン侵攻は、現状維持をねがうアラブ諸国またイスラム諸国を味方に戦える情勢にあった。
また国際的枠組みから見ても、米ソの勢力均衡をもとめる軍拡の中で、イラン・イラクはペルシャ湾岸の米ソの代理として互いに軍拡を進めつつ、勢力の均衡をはかってきた。
その一方のイランに革命がおこり、均衡がくずれたことは、大国を背景にもたなくなったイランにイラクが侵攻する絶好のチャンスであった。

(2)戦争の経過(1980年9月~1988年8月)
戦況の状況から、ごく簡単にイラン・イラク戦争の展開を見ておく。
[イラクのイランへの侵攻からイランの反撃の時期(八〇年九月~八二年六月)]
イラン領に侵攻したイラク軍は、快進撃を続けた。
ところが十一月のアバダン総攻撃の失敗以来、イラン軍とイラク軍が対峙しあって、戦線は膠着状態となった。
八一年三月ころからイスラム革命の意気に燃えた革命防衛隊を中心とした反撃が成功しはじめ、八二年五月には、シャトル・アラブ川に面したホラムシャフルを解放した。
[イランの逆侵攻の時期(八二年七月~  )]
八二年七月一三日から、イラン軍はイラク南部の都市バスラへの攻撃を開始した。
さらに八二年十月には中部国境からのバクダッドへの攻撃を試みた。
八二年十一月にはイラク南部の沼沢地帯でイラク軍を奇襲攻撃し、成功した。
この時期から人口で三倍の利点をもつイランの優勢のもとに戦線が再び膠着した。
イラン軍の侵攻に対してイラクは八四年二月には毒ガス兵器を使っている。
[タンカー戦争への拡大の時期(八四年一月~ )]
八四年一月末、イラク空軍はイランの石油積出し港のカーグ島周辺のタンカーへエグゾセ・ミサイルを発射し、五隻を大破させた。
以後を五月をピークにイラクはイランに対して激しくタンカー攻撃をおこなった。
五月には、報復にイラン側がイラクを支援するクウェートとサウジアラビアのタンカーをミサイルで攻撃した。
以後、イランもペルシャ湾で船舶の攻撃をおこなった。
[アメリカの軍事介入 イランを攻撃(八七年五月~ )]
八七年五月アメリカのフリゲート艦スタークがイラク軍のミサイルを被弾し、死傷者をだした。
レーガン大統領はペルシャ湾のアメリカ中東艦隊に対して「準臨戦体制」を発動し、事前通告なしに接近するイラン機とイラク機を攻撃してもよいとの許可をあたえた。
しかし、アメリカの攻撃はすべてイランになされ、実質的にイラクを支援するものとなった。
八七年七月からアメリカ軍中東艦隊はイラクを支援するクウェートのタンカー十一隻のイラン軍の攻撃からの護衛を開始した。
八月八日にはアメリカ軍は、イラン機にミサイルを発射し、九月二一日にはアメリカ軍ヘリコプターがイランの機雷敷設艇を捕獲して沈め、さらに十月八日には、イラン高速艇など三隻を攻撃している。
八八年七月三日にはイラン航空の民間旅客機が、アメリカ海軍のイージス艦「ビンセンズ」の対空ミサイルによって撃墜された。乗員、乗客の二九〇人は全員死亡した。
[都市へのミサイル無差別爆撃合戦 (八八年二月~五月)]
八八年二月二九日から五月二六日までの間にイラクは、約一八〇発のミサイルでイランの諸都市を攻撃した。
そのうちの一三三発がテヘランへなされている。
それに対してイランはバクダッドへの五七発をふくむイラクの諸都市へ七四発の地対地ミサイルで反撃している。
それまでにもミサイルや空襲による都市攻撃はあったが、この時期、イラン・イラク戦争はミサイルによる都市爆撃合戦のピークとなった。
[イラクの反攻開始と再度のイラン侵攻 停戦 (一九八八年四月~八八年八月)]
アメリカの軍事圧力がイランに加えられている時期、ミサイル合戦のもとでイラク軍は地上戦でイランに占領された国境地帯をほとんど奪回しつつあった。
八八年四月には、イラク南部の軍事的経済的要衝であるファオ半島をイラク軍が奪い返し、さらに五月にはバスラを、さらに六月にはマジヌーン島を奪回した。
イランはイラクの占領地を失った。
この時もイラクは毒ガス兵器を使っている。
七月十八日、イラン政府は、即時停戦をもとめる国連決議の受諾を発表した。
イラクは、停戦をより有利に展開するために、イランの停戦受諾後に、大攻勢をしかけてイラン領を占領し、多数の捕虜をとらえた。
デクレヤル国連事務総長の調停で、停戦実施日は、八月二〇日となり、国連監視団の監視のもとで、八年間にわたってつづいた戦火がやんだ。
イランは八年間の戦死者が合計一二万三二二〇人、行方不明者六万〇七一一人、民間人の死者が一万一〇〇〇人であったと発表した。
イラン・イラク双方の死傷者はあわせて約一〇〇万人にのぼると推定されている。(「イラン・イラク戦争」鳥井順著)
イランの報告によれば、八一年一月から八八年三月までにイラクはイランに対して二四二回、毒ガスを使用し、その犠牲者は四万四〇〇〇人にのぼったという。

(3)アメリカとイラン・イラク戦争 
(アメリカのペルシャ湾の代理の憲兵、パーレビー・シャー政権の崩壊)
アメリカは、「西側の利益」とりわけアメリカにとっての石油を守るため、六九年のニクソン・ドクトリンにもとづき、ペルシャ湾における代理の憲兵としてイラン軍拡を進め、パーレビー独裁政権を支援してきた。
そのためイランの民衆が、怒りをもって「アメリカ帝国主義に死を」のスローガンでたちあがった。
七九年二月の反米、反国王独裁のイラン革命で、アメリカはペルシャ湾における最大の軍事的政治的拠点としての「代理の憲兵」を失った。
アメリカは、七八年末には、CIAのイラン問題専門家をイランへ増派したり、「暴動」鎮圧用の催涙ガス弾などの警備機材をイランに空輸するなどし、七九年一月から二月にはアメリカ第七艦隊の二つの空母機動隊を東シナ海からインド洋、ペルシャ湾に出動させて、パーレビー独裁政権への支援体制をとった。
八〇年一月に、アメリカは、国連安保理事会にパーレビー・シャーの身柄引渡し求めた人質事件を口実に対イラン経済制裁を提案した。
ソ連の拒否権発動で成立しなかったが、四月には、イランと断交し、イラン「制裁」措置を発表し、日本と西ヨーロッパの同盟国に同調をよびかけた。
さらに四月二五日には、テヘランの人質の奪還作戦を強行し、失敗している。
(アメリカ軍が直接ペルシャ湾の憲兵へ カーター・ドクトリン)
七九年十二月末のソ連軍のアフガニスタン侵入という情勢もふまえて、八〇年一月二三日にカーター大統領は「ペルシャ湾を支配しようとするいかなる外部勢力の試みもアメリカの基本的国家利益に対する攻撃であり、こうした攻撃に対しては軍事力を含むあらゆる必要な手段によって反撃する」とのべた。
アメリカの代理の憲兵としてのイラン軍事力を強化し、ペルシャ湾地域を支配するニクソン・ドクトリンの方法が破綻したもとでは、もはや、アメリカがペルシャ湾に直接的に軍事力を展開するしか方法がなかったことのあらわれが、このカーター・ドクトリンであった。
ペルシャ湾に大規模なアメリカ軍をおくるために緊急展開部隊(RDF)を設置した。
すなわち、危機の発生時には、第六艦隊、第七艦隊はもちろん、アメリカ本土から戦略予備軍を空輸して、二二万五〇〇〇人からの大部隊を緊急に動員するものである。
沖縄の在日米軍も中東の紛争に直接的にまきこまれる体制ができあがった。
また八二年頃にはサウジアラビアに巨大なアメリカ軍基地が完成していた。
ハーリッド・ミリタリー・シティとよばれる七万人の兵士を収容できるという冷暖房完備の巨大な地下基地で、イラクの国境線に一つとヨルダンとの国境沿いに一つと北イェメンの国境沿いに一つの計三つの基地が七〇年代から建設がはじめられていた。
アメリカは、イランなきあとサウジアラビアをペルシャ湾の拠点として維持するとともに自ら直接的にペルシャ湾に出動できる体制をとったのである。
これがすでに述べた八七年からのアメリカ軍のイランに対する直接的武力行使となっていった。
(アメリカとイラク   イラクを支持してイラン制裁へ)
イラクは、反帝国主義をかかげるアラブ民族主義であり、かつソ連に支援されてきた経緯があり、アメリカの敵国であった。
しかし、ペルシャ湾での権益維持を追求するアメリカにとって反アメリカ、反王制の革命の立場で現状変革をなしとげたイランの革命の破綻につながるイラクの侵攻は、アメリカに有利な新たな情勢をきりひらくために望ましいことであった。
そのようなアメリカの立場から八二年にアメリカはイラクをテロリズム支援国からはずした。
さらに八四年五月ころからイラクと秘密交渉を開始し、十一月に六七年の第三次中東戦争以来断交していたイラクと十七年ぶりに正式に国交を回復した。
しかし、驚くべきことに、まさにこの八四年二月からイラクは戦闘に毒ガスの使用を開始して、その凶暴な本質をあらわしはじめており、アメリカの対外政策の基準がどこにあるかを示していた。
以後、アメリカは、事実上、イラク支持の立場を貫いた。
最後にイラクが優勢のうちに戦争を終結させることができたのも、アメリカのイランに対する軍事的圧力とイラン制裁のおかげであった。
アメリカは、七〇年代にイランを軍事大国化することで、その相手のイラクの軍事大国化を促し、八〇年代のイラン・イラク戦争でイラクを支援してきたことを考えれば、今日の攻撃的なフセインの軍事大国イラクを作り上げた責任を免れることはできない。
(アメリカの兵器をイラク、イランへ売却)
アメリカは、過剰生産になっていた兵器を、第三国を通じるなどして、イラクにも売りつけていた。
(次の「イラク軍兵器の全容」の表を見るとアメリカ製の装甲車や航空機やヘリコプターも多数、イラク軍兵器の中に見える。
アメリカもやはりイラクに対する「死の商人」であった・・・注、そのうちスキャナーで表で読み込んで紹介します)
アメリカは、イラクと八四年に正式に国交回復する一方で、八五、八六年に秘密裡に交戦中のイランに兵器を売却していた。
レバノンの人質の交換の秘密交渉で、TOWミサイル二〇〇八発を七八五万ドルで、ホーク・ミサイル二三五基分のスペア部品を八〇〇万ドルで売却した。
判明したものよりも多量の武器が八五年から八六年にイランに渡され、武器の代金の一部がニカラグアの反政府ゲリラのコントラに渡されていた。
アメリカは、血を流している両交戦国に対する「死の商人」も演じていた。

(4)「死の商人」の国々とイラクの軍事大国化 
次の表をみるとフランス、ソ連をはじめとする多数の国々が地下の石油とひきかえにイラン・イラクへ兵器を売りつけていたことがわかる。
まさにこれらの諸国はイラン・イラク戦争にたかる「死の商人」たちであった。
これらの国々は、イラクのクウェート侵攻にいたるフセインの軍事大国イラクを育てた責任のある国々である。
(「中央公論」一九九〇年一一月号の168と169ページの表・・・そのうちスキャナーで読み込んで紹介します)
「イラク軍事力の全容」(省略)

(5)イラクへの武器供給国
(フランス  「死の商人」に徹するミッテラン社会党政権)
イラクのフセイン大統領は、イラン革命の直前から武器の買い付けを強化し、フランスが新たにイラクの主な武器供給国として登場した。
この戦争で、フランスのミッテラン社会党政権とフランス軍事産業は、石油とひきかえに兵器を売りつけるなりふりかまわぬ「死の商人」としてイラク軍を強化した。
七九年五月、フランスはAMX-三〇戦車を一〇〇〇輌、ヘリコプター一〇〇機など、一〇〇~一二〇億フラン分をイラクに売却するかわりに、年間五〇〇〇万トンの石油をイラクから供給されることになった。
さらに七九年七月、フランスが超現代兵器、とくに航空機、原子炉も供与するかわりにイラクは五年間、フランスの石油総需要の三分の一の供給することが約束された。
七九年末、ミラージュ二〇〇〇を二〇機、ミサイル搭載のミラージュF1が二四機(既契約分)が売り渡された。`
八〇年六月にはフランスは八〇年度分の石油を三〇〇〇万トンの供給のかわりにミラージュ二〇〇〇を四〇機購入する契約ができた。
すでにフランスは、イラク軍将兵一〇〇〇人をフランス国内で訓練していた。
さらにフランスは、イラン・イラク戦争の勃発後も引き続き、イラクに対する主な兵器供給国であった。
八一年の戦争開始後も八四年までに約五〇億ドルに相当する武器をイラクに供給し、八二年から八三年、フランスの武器輸出の四〇%はイラクがしめていた。 
八三年一月には、ミッテラン大統領はアジズ・イラク副首相と会談して、イラク産石油の買いつけの拡大と武器の支払い条件の緩和を決定している。
八三年六月には、エグゾセ・ミサイル装備のエタンダール機の貸与協定を結び、十月に五機がイラクへとびたった。この時、フランス軍パイロット七人とダッソー社の技術者あわせて、計三〇名くらいがイラク軍に加わっている。
八五年にはこのエタンダール機は、フランス軍に戻ったが、新たにミラージュF1戦闘機二四機と多数のミサイルをイラクに売却した。
この時も、軍事顧問、パイロット、技術者、整備士などをイラクに提供した。(「イラン・イラク戦争」鳥井順著による)
八七年にミラージュF1戦闘機をさらに二〇機の注文を受け、八八年に渡している。
八八年にさらに一〇機の追加注文を受け、ミラージュF1戦闘機の発注合計は一四三機にのぼっている。
フランスは、イラクの核開発に対しても協力していた。
フランスは、バクダッドの東のタムーズに原子力研究センターを建設し、究炉一基と小型実験用研究炉ならびに核燃料七一キログラムの売却と技術者の養成を契約し、八〇年には、そのまま核兵器に転用可能な高濃縮ウラの核燃料一〇~一五キログラムをイラクに引き渡していた。
これはイスラエルのモサドの情報によれば、核兵器製造施設だった。
八一年六月この建設中の原子炉施設はイスラエル空軍に爆撃され、破壊された。
ただし原子炉と核燃料は被害をまぬかれ、イラクの核兵器の研究は、完成一歩手前だと考えられている。
もし、モサドの情報が正しければ、フランスのミッテラン社会党政権は、交戦中の国に核兵器を売っていることになり、おそるべき「死の商人」ぶりである。
いずれにしても、フランスは、自国に対する石油の安定供給のために、戦争終結への努力よりは、武器商人に徹して、ペルシャ湾の砲火を自らの利益にかえる政策を推進していた。
(イラク支援をつづけるソ連の態度   イラクへ武器を供給)
ソ連にとっては、イランのイスラム革命は、一方で反アメリカ帝国主義という立場ではイラン革命は歓迎すべきものであったが、他方で南部にイスラム教を信仰する住民からなるアゼルバイジャン共和国などの反体制民族運動にインパクトを与える可能性があり、スターリン的他民族抑圧体制のつづくソ連にとってはイラン革命が親ソ的な方向へ発展しないかぎり脅威でもあった。
ソ連はイランに八二年まで若干の援助をイランにしたが、イランの親ソ派共産党であるツーデ党が完全に弾圧され、イランに親ソ派的政権の展望がなくなると、完全にイラクの側の支援にまわった。
イラクは、ソ連軍のウム・カスル軍港の使用、イラン・イラク戦争開始時に六〇〇〇人と言われるソ連人軍事顧問団の駐留など、ソ連にとってイラクは手放したくない中東進出の足がかりであった。
しかし、超大国を批判し、非同盟をかかげ、国内の共産党を弾圧するアラブ民族主義のイラクは、ソ連にとって好ましいものではなかった。
もし、イラン革命が親ソ的な方向へ発展するならば、中東政策の軸をイランにおくこともできた。
そのため、イラン・イラク戦争の開戦当初はイラクに対しては少量の武器をおくっただけだった。
開戦時の八〇年にソ連と東欧諸国は、二〇万トンの武器・弾薬をイラクにおくっている。
アメリカが、イラクと国交回復の動きをしめしはじめた八四年から、ソ連は、イラクに対して大規模な武器供給を再開した。
八四年四月二七日、ラマダン・イラク副首相がクレムリンを訪問し、十月以降数週間で大量の兵器がソ連からイラクに渡された。
ソ連は八四年に注文された牽引榴弾砲二〇〇門総額四億ドルを八五年から八八年にかけて引き渡したのをはじめ、多額の戦車、ミサイル、砲弾など提供して、イラン・イラク戦争で重大な役割を果たしている。
(次のページの八九年度のSIPRI年鑑の資料参照)
八五年五月、ソ連のグロムイコ外相がモスクワでアラブ連盟代表団と会見し、「イランは、ペルシャ湾とソ連の安全に脅威をあたえるような革命計画を追求している」「わが国は、政治的・軍事的分野でイラクを支持し、国連安保理事会がとる行動をふくめ、戦争終結を目的としたあらゆる実際的な措置を支持する」と述べて、はっきりイラク側に立つことを言明した。
八五年にはさらに一〇〇〇人近いソ連軍軍事顧問団がイラクに到着し、イラン国境の第一線に配置されている。
ところが、ソ連は、イラクに兵器を売りつけ、支援をする一方で、イランとの経済協力もすすめていた。
八六年八月には、イランがソ連にガスを供給するかわりに、ソ連がイスファハンとアラクの石油精製施設の改修とカスピ海南岸の新しい油田開発の技術協力をするという天然ガス協定を結び、十二月にはイランと経済協力協定を結んでいる。
経過をみると、イラン、イラクからガス、石油をえて、兵器をイラクに売りつけるという「死の商人」の姿がソ連からも見えてくる。
なお、イラクによるクウェート侵攻後の九〇年一〇月の段階でも、ソ連は、七二年の軍事同盟にもとづいてラトビア共和国のリガ駐屯部隊で七七人のイラク軍人を訓練していると報道されている。
(イタリア、カナダ、ブラジル、イギリス、南アフリカ、スイス、チェコ、中国)
これらの国々も、交戦中のイラクに兵器を売りつけてもうけた国々である。つぎにSIPRIの表をあげる。
ブラジル、中国、チェコ、イギリスは、イラクの交戦相手のイランにも兵器を売りつけており、敵味方をとわない「死の商人」ぶりを発揮していることが分かる。
SIPRI年鑑 一九八九年の256~258ページの表の「イランとイラク部分」
(省略 そのうちスキャナーで読み取って載せます)

(6)イランへの武器供給国  
イランは、リビア、シリア、および北朝鮮、中国、ブラジル、チェコなどから武器を仕入れている。
そのほかにイスラエル、南アフリカ連邦、台湾などからも手にいれていた。
イランが、最大の敵としていたイスラエルから兵器を入手していたことは驚くべきことである。
暴露されたイスラエルとイランの売買契約書によれば、MGMフランス地対地ミサイル五〇基、一五五ミリ用タムペラー砲弾四〇発、一五五ミリ用鉄甲弾三七三〇発、一五五ミリ用高炸薬ヘラプ砲弾四六四〇発、一五五ミリ榴弾砲M-一〇七用砲弾四三〇〇発、およびMIM-二三ホーク対空ミサイル六八基で、総額一億三五八〇万ドル、代金支払いはイラン中央銀行となっていた。
八二年までにイランのバンダル・アッバース港に陸揚げされた。
この他に、戦車の部品をイランに供給しただけでなく、総額六〇〇〇~一二〇〇〇万ドルの借款援助をおこなったと言われている。
(「イラク・イラン戦争」鳥井順著による)
米国の武器禁輸で、パーレビー王朝時代のアメリカ製の兵器で戦うイランにとっては、武器の入手競争では完全にイラクに負けていた。
手に入れることのできた武器もソ連タイプの一時代古いものであった。 
したがってイランはイスラエルを絶対に認めない立場であったが、当面の敵はイラクであり、イスラエルから武器が入るなら、イラン軍は革命前からのアメリカ製の兵器を使っており、イスラエルからアメリカ製の兵器を入手することがイラクと戦う上で絶対に必要であった。
イスラエルにとってはイラク・イラン両国とも敵であったが、地理的にイラクが近く脅威でもあり、イラクの圧倒的な勝利におわるより、両国の力が戦争で弱まることが利益であった。
しかし、全体として兵器購入においてはイランの方が不利であった。
とりわけ、八七年十月、アメリカは西側同盟国にイラン制裁のために全面的禁輸措置をうちだし、そのためにイランは軍事物資が不足し、継戦能力を失っていった。

(7)イラン・イラク戦争の結果  
[イラクの領土的要求は実現したか]
(シャトル・アラブ川の国境線はふりだしに)
七五年のアルジェ協定ではシャトル・アラブ川のイランとの国境線は川の中央(渇水時の最深部)となっていた。
それ以前の川全部がイラク領という線にもどそうというのが、フセイン大統領のねらいであった。
ふりだしにもどしたのはフセインの成果であったが、イランは、この問題でアルジェ協定の線はゆずらず、今後も尾をひくだろう。
(イランのアラブ人居住区の併合はできず)
イラン革命で中央権力が弱体化したところで、イランのアラブ人の居住区の住民の支持を背景にフーゼスターンの併合を考えていたと推測される。
しかし、フーゼスターンのアラブ人はイラク軍を解放者としては迎えず、イラン国民として行動した。
八〇年末には一五〇万人のイラン領のアラブ人の難民がでたという。
この点でも、まったくフセインの目的は達成されなかった。
[イラクのアラブ世界での発言力は]
イラン革命をたたくことでアラブ世界の中で有力な地位を得ようとしたイラクのフセイン大統領の意図は、軍事大国化とともに一定程度実現したと考えられる。
ペルシャ湾でのタンカー戦争と米軍の介入という情勢のもとでひらかれた八七年のアラブ連盟緊急首脳会議は、イランに停戦をよびかけるとともにイラクを支持する決議を採択した。
七八年のキャンプ・デービッド会談以来、アラブ世界から孤立してしまっていたエジプトも、八一年以降、大砲、ミサイルなどをイラクに売却し、エジプト兵をイラクに送り、イラク支援にまわった。
イランとの戦いは、アラブ対イランというセム人対アーリア人という人種的言語的相違、スンニ派イスラム対シーア派イスラムという宗教的相違を背景にもち、加えてイランの徹底したイスラエル非難にかかわらずイスラエルがイランに軍事的に加担したという状況は、スンニ派イスラムのアラブの民衆の感情はイラクの勝利の方を期待するものであったと考えられ、フセイン大統領のねらいはこの面では一定の成功であったと考える。
今回のクウェート侵攻という事態のもとでのアラブ民衆とくにパレスチナ人たちのフセインへの期待のもりあがりは、このイラン・イラク戦争の遺産もあると思われる。
しかしながら、この戦争を通じて、イラクの発言力の増大の一方で、イラクのイラン侵攻をめぐってアラブ諸国の立場は大きく分かれ、アラブ世界の分裂は深まった。
イラクを支持したのはヨルダンやサウジアラビア、クウェートなど湾岸諸国で、シリア、リビア、南イエメン、アルジェリアはイランを支持した。
エジプト、PLOは中立であったが、エジプトはイラク支援の立場にうつった。
アラブ世界は大きく分裂し、対イスラエル、対帝国主義という大義にもとづくアラブの団結は後景にしりぞいた。
アラブ分裂の遺産はイラクのクウェート侵攻に際してもアラブ諸国の自主的解決をめざす上で阻害要因となった。
[ホメイニーのイスラム革命の運動の拡大の阻止の課題は]
政教一致のホメイニー革命の理論の影響の拡大は、被支配層にシーア派住民を多くかかえるイラクのバース党フセイン独裁政権にとっては、自己の政権基盤をゆるがすものに発展する可能性もあった。
この点においては、諸外国の支援も得てフセインの目的は一応達成されたと考えられる。
しかし人口の六割がシーア派イスラム教徒で、イラクの被支配層を構成し、政権の中枢を占めるスンニー派イスラム教徒は少数派であるという現実はかわらず、イランとの戦争が終結した段階でも、底流には、弾圧の網の目をくぐって革命運動が広がる可能性をもっていると考えるべきであろう。
イランとの国家的対立である戦争でシーア派住民が国家に協力したとしても、戦争終結で、その国家的対立が後景にしりぞいた時、シーア派住民の目が国内の支配・被支配を背景にもつ宗教的対立の問題に向く可能性は大きい。
九〇年八月のクウェート侵攻の必要性の政治的側面に、このようなイラク国内の政治的矛盾をそらせるという意味はなかったであろうか。
[クルド人の独立運動は壊滅、しかし]
八六年末からはクルド人の組織がイランと協力してゲリラ戦を行っていた。
しかし八年間にわたるイラン・イラク戦争終結と同時にイラク軍は毒ガスをもちいた大弾圧を行って抵抗を鎮圧した。
戦争終結後、クルド人ゲリラを鎮圧したという側面においては、イラク政権は一層の安定を得たと言える。
しかし、ゲリラは鎮圧できたとはいえ、イラク全人口の一七〇〇万人の中の三〇〇万人ちかくのクルド人が存在しているので、再び自治と独立をもとめる運動が高揚する可能性があると考えるべきであろう。
[累積債務の増大]
イラクは、この戦争を通じて中東一の軍事大国になった。
しかし、戦費調達のために莫大な借金をかかえるようになった。
外貨を使い果たしただけでなく、停戦時五〇〇~七〇〇億ドルの対外累積債務があったと言われる。
イランに対するアラブ民族の戦争という大義からクウェートなどの湾岸諸国から無償の援助があったが、それも戦争が終わり、とだえた。
戦争により産業施設は打撃を受け、農民が戦場にでたことで、農業生産力も後退していた。
イラクは外貨収入をほとんど石油に頼っている。その石油収入はOPECの生産枠との関係から限定されていた。
戦後復興の経済的困難から、国民のイランへの勝利が失望に変わってフセイン政権の基盤が弱体化しないうちに、経済的見通しと対外的成果を得なければならない。
イランとの国境紛争が、戦争終結でいったん終了し、かつ背後でおびやかすクルド人の独立闘争を鎮圧した後には、イラク国民の中にある「クウェートは自国領土」すなわちクウェート併合の課題がフセイン政権の日程にのぼってくる。

ま と め 
アメリカはすでにペルシャ湾の石油を直接的武力介入で死守しようという方針を確立している。
イラン・イラク戦争をつうじて、イラクのクウェート侵攻後のアメリカとの武力的対決の構図はすでに浮かび上がっていた。
すなわち、ペルシャ湾の「アメリカの代理憲兵」パーレビー・シャー政権なきあと、直接ペルシャ湾の憲兵として登場したアメリカ軍と主としてソ連、フランスの援助で軍事大国化したイラクとの対決の構図が。
したがってこの構図から判断すれば、ペルシャ湾地域の平和と民主主義の発展のためには、イラクのクウェートからの撤退とともに憲兵アメリカ軍をはじめとする諸外国のこの地域からの撤退とアラブ民族の自決権の尊重が求められている。

注・イラク軍の毒ガス
イラン・イラク戦争の特徴の一つにイラクの毒ガス使用をあげねばならない。
この表では毒ガスの取り引きは分からない。
イラクの毒ガス使用は、次の国々の援助で可能となった。
イラクは、七十年代にイギリス、イタリアから多量の化学剤と製造プラントを輸入して、マスタードガスをつくる工場をサマーワ市につくった。
バグダッドの西にあるラマディの殺虫剤工場も、神経ガスをつくっていると推定されている。
  戦争中、毒ガス兵器の材料を売った「死の商人」の国は、ソ連、東西ドイツ、そしてアメリカの一部企業であった。
ソ連はSU624戦闘機やミグ23戦闘機から毒ガスや毒性液体を散布する特殊コンテナをイラクに売却し、東ドイツは、イラク化学兵器部隊の教育のために数十人の専門家をイラクにおくり、八十年代中期に化学戦争のための訓練施設をつくった。
西ドイツ軍需産業の数十社は、神経細胞にかかわる先端技術をイラクにもたらし、さらにアメリカもボルチモアにある化学工業のアルラック社は、五〇〇トン以上のマスタードガスをバグダッドに売却した。
また細菌兵器の研究材料についても、アトランタ伝染病検疫センターが、八五年に三種類のウイルスを「誤って」イラクに送っている。
1990年12月28日脱稿(巣山靖司編著「[米ソ協調]と湾岸危機・戦争」水曜社、1991年)




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