("I saw true hell under A-bomb")

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce studies of human assistant Mitsuki of whole life.
This page is testimony of experience of A-bomb of relatives of Mitsuki.

Mitsuki was born in Hiroshima prefecture.
Many people of friends of parents of Mitsuki died in Hiroshima by A-bomb.
Father of Mitsuki said that many people came to temple of village from Hiroshima and after several days all of them died for radioactivity.

Brother of mother worked at Hiroshima station just down of A-bomb.
He lost consciousness and notice that he was under wall of building of station.
He saw that whole of Hiroshima station was destroyed.
He saw many burned people in platform of station.
Few people lived.
They beg his to drink water of water supply.
After they drank water little, they died soon.
Mitsuki listened experience of his uncle directly.

Partner and his mother of sister of Mitsuki was near Hiroshima station.
Then mother was cleaning room and partner who was six years old was in nearby house.
When A-bomb, mother was under pillar of house which was burning.
Partner who was six years old could not help mother.
Neighbor helped to remove pillar.
Partner who was six years old drew injured mother on cart.
Mother said Mitsuki that houses of street were all burning, people running away were all injured by broken glass and skin of all people was burned and skin of hands downed like ghosts.
Partner and mother could run away to ground of elementary school.
Mother said Mitsuki.
'I saw true hell under A-bomb"


「私は原爆のもとで本当の地獄を見た」

こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの全人生の研究を紹介します。
このページはミツキの親族の被爆体験の紹介です。

ミツキは広島県に生まれました。
ミツキの両親の多くの友人が広島で被爆して亡くなりました。
ミツキの父は,多くの人々が広島から村のお寺に逃げてきて,数日してその全員が放射能のために亡くなったと言っていました。

母の兄はちょうど原爆が落とされたとき,広島駅で働いていました。
彼は意識を失い,気づくと駅の建物の壁の下でした。
彼は広島駅のすべてが破壊されているのを見ました。
駅のプラットホームにいくと多くの人々が焼け死んでいました。
わずかの人が生きていました。
彼らは水道の水を飲ませてくれと言いました。
水をちょっと飲んだとたんに彼らは誰もが死にました。
ミツキはおじさんから体験を直接聞きました。

ミツキの姉の結婚相手と彼の母親は広島駅の近くに住んでいました。
そのとき母親は掃除をしていて
結婚相手となる人は当時6歳でとなりの家にいました。
原子爆弾が投下されたとき,母親は燃え上がる自宅の柱の下敷きになっていました。
当時6歳だった姉の夫は母親を助けることができませんでした。
隣の人が柱を動かしてくれました。
当時六歳だったパートナーが荷車をひっぱって怪我した母親を載せて逃げました。
母親はミツキに言っていました。
「通りの道にある家はすべて燃え上がったいた。逃げている人々はガラスの破片が肌に刺さって怪我していた。
肌は誰もひどい火傷をしていて手の皮膚は垂れ下がり, まるで幽霊のような手の形をして逃げていた。
パートナーと母親は小学校の校庭に逃げることができました。
母親はミツキに言っていました。
「私は原爆のもとで本当の地獄を見た」

死んだ女の子 元ちとせ



KIZ COCU?U(Turkish peot:Naz?m Hikmet)

1. Kap?lar? calan benim
kap?lar? birer birer.
Gozunuze gorunemem
goze gorunmez oluler.

2. Hiro?ima'da oleli
oluyor bir on y?l kadar.
Yedi ya??nda bir k?z?m,
buyumez olu cocuklar.

3. Saclar?m tutu?tu once,
gozlerim yand? kavruldu.
Bir avuc kul oluverdim,
kulum havaya savruldu.

4. Benim sizden kendim icin
hicbir ?ey istedi?im yok.
?eker bile yiyemez ki
kaat gibi yanan cocuk.

5. Cal?yorum kap?n?z?,
teyze, amca, bir imza ver.
Cocuklar oldurulmesin
?eker de yiyebilsinler.

GIRL CHILD (Turkish poet)

1. Door and stealing my
One by one the gates.
I can not look into your eyes
browse the invisible dead.

2 dead in Hiroshima
going up to a decade.
Seven-year-old girl,
children grow up not dead.

3. Before my hair on fire,
My eyes burned roasted.
I became a handful of ashes,
My ashes were thrown into the air.

4. For myself from my first
There is nothing I want.
Even that can not eat sugar
Kaat burning like a child.

5. I am ringing your door,
aunt, uncle, give me an autograph.
Children be killed
they may eat sugar.

作詞:ナーズム・ヒクメット、作曲:木下航二
日本語詞:飯塚 広

1 とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

2 十年前の夏の朝
  あたしはヒロシマで死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

3 あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった

       (間奏)

4 あたしは何にもいらないの
  誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない

5 とびらをたたくのはあたし
  みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい

(親戚の人の原爆体験)

私の生まれた家は、広島県の地図の真ん中あたりです。

母の話
1945年8月6日の朝、母が田んぼで草取りをしていたら広島市の上に方に雲が見えたそうです。

父の話
翌日、広島にいた父の友人が命からがら「ひどい目に遭った」といって家に逃げもどったけど、翌日にはその友人は亡くなっていたそうです。
そうするうちに何人もの人たちが広島市では生きてゆけないのでどんどん逃げてきたお寺などに泊めてもらっていたけど、次々に亡くなっていったそうです。
一週間してから、父は村の人たちといっしょに広島の後片付けの手伝いにゆきました。
まだ木の先から煙がでていたそうです。
広島市は焼け野が原になっていて、人々は簡単なバラックの中に住んでいたそうです。
もっていったおにぎりをあげたら喜んでおられたといっていました。

母の兄の話
母の兄は、国鉄(今はJR)の広島駅につとめていました。
8時15分の原爆の直下にいました。
運良く建物の影にいて、つぶれた建物のすきまにいて助かりました。
プラットホームでは、汽車をまっていた人々がたくさんのそのまま死んでいました。
生き延びた人々は、「水が飲みたい」「水が飲みたい」と言って水道のところに集まりました。動けなくなっている人には、水をもっていってあげたそうです。
でも、水は飲んだ人は、飲んだらすぐに死にました。
そこで、母の兄は、水を飲んだら死ぬんだとおもって、水を飲むのをがまんしたそうです。原爆にあった人々は、水が飲みたかったようです。
太田川という川のほとりに水を飲みにたくさんの人が集まってきて、そのまま、水を飲んで死にました。

姉の結婚した相手とそのお母さんの話
姉の結婚相手は、6歳でした。
本当は、広島もあぶなかったので、疎開(つまり)小さい子は非難しないといけなかったのですが、おねしょするから疎開していなかったそうです。
8時5分に50メートル離れたとなりの家に遊びにゆきました。
そして「8時15分に窓が黄色の色をはりつけたようになった。
意識がなくなった。
気がついて、家にもどると母親がタンスの下敷きになって、助けてと言っていた。
(母親によると掃除をしていたときだったそうです)
もちろん、家はつぶれていた。
「お母さんを助けて」と言っても誰も自分のことで一生懸命でそれどころではなかった。
そうしているうちに近くの人が手伝ってくれた。
となりの人が大八車をかしてくれたので姉と、腰を痛めて動けなくなった母をひっぱって小学校の校庭に逃げた。
(母親は、この時の様子を
『本当の地獄だった。
道の両脇の商店街はぼうぼうと燃えていた。
逃げる人たちは、全員手を前にだしていた。
顔や手はささったガラスだらけだった。
顔や手全体が火傷して皮膚が大きく垂れ下がっていた。
この世の地獄だった』
とおっしゃっていました。
 そこから東の方に逃げて山を越えた。
姉がひっぱって、私が後ろからおした。
たくさんの人が逃げていた。
顔の皮膚が垂れ下がっていた、
その垂れ下がっている皮膚の中には火傷の時の体液があった。
私の顔を穴のあくようにみつめた女の人がいた。
自分に子どもがいたのかれしれない。
 途中に負傷者がたくさんいた。
横になっていた母のとなりの人が死んだと思ったら、蛆虫がわいていた。
という姉の結婚相手の話でした。
 「リンがもえていた。ガスの炎のように燃えていた」とおっしゃっていましたから、本当に人が死んだら、リンが燃えるンでしょうか。
たぶん線路の木で死体を焼いた時の話だったと思います。
肉親をさがしにきていた人もどんどん亡くなったそうです。


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