Nasxe kaamel gofteguie sedaayw aamrikaayaa abdlalkardim soroush.
(video inspired by god of star)



(He was suppressed by Islam group because he did re-interpretation of Islam)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This page is whole article about Abdol Karim Soroush.
Soroush was leader of Islam revolution and professor of Tehran University.
He was suppressed by Islam group because he did re-interpretation of Islam.
In this page whole sentences was introduced.

I explain small parts one by one.

こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは、人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
このペ-ジはアブドル・カリ-ム・ソロウシュについての論文全体です。
ソロウシュは、イスラム革命のリ-ダ-で、テヘラン大学の教授でした。
彼はイスラムの再解釈をしたのでイスラムグル-プに攻撃されました。
このペ-ジは全文章を紹介し、
部分にわけて少しずつ説明します。



Third part 第三部
One more Islam ----- Abdol Krim Soroush
もう一つのイスラム復興主義  アブドル・カリーム・ソロウシュ


  もうひとつのイスラム復興主義---アブドル・カリーム・ソロウシュ
-イランにおけるイスラム型民主主義への模索-
(『アジア・アフリカ研究』 1997年 通巻344号

第1章 革命から18年後のイラン

第1節(1)「表現の自由」への願いが反映した97年5月の大統領選挙

第1項[予想以上のハーテミ師の勝利] 

1997年5月23日のイランの大統領選挙には233人が立候補を届けたが、憲法擁護評議会にかけられて、4人に絞られた。
その4人の中で、現実派と組んだ急進派のハーテミ師(khatemi)と保守派のナーテクヌーリー師(nateqnuri)の事実上の一騎打ちになった。
最高指導者ハメネイ師(khamenei)をはじめ、政府閣僚は、事実上ナーテクヌーリー師を支持していた。

しかし、結果は、ハーテミ師がほぼ70パーセントの得票を獲得したのに対してナーテクヌーリー師は24パーセントで、ハーテミ師の圧勝であった。
また投票総数2900万人は過去のあらゆる選挙をしのぐもので、またハーテミ師が獲得した2000万の票数自体が、過去の大統領選挙の投票総数すら大きく超えるものだった。
このことから国民の大きな関心と期待の中で闘われた選挙だったことが分かる。1

大統領に反体制的な人物が立候補者できるわけではなく、ハーテミ師自身もともと急進派の指導者で、イスラム革命以来、政権の一角を占めてきて革命政権を支えてきた人物である。
前大統領ラフサンジャーニー師(rafsanjani)の率いる現実派がハーテミ師支持まわり、保守派に対して優勢になったもので、この選挙によってイランの政治が根本的な変化をとげるわけではない。

第2項[イラン政治の現状へのノーの意志の反映]

しかし、97年3月の国会議員選挙では、後退したといえ保守派は半数をしめていた。
このような中で急進派のハーテミ師の圧倒的勝利は予想できないものだった。
予想以上のハーテミ師への投票は、イラン政治の現状へのイラン国民の圧倒的多数のノーの意志の表明であると考えることができる。2

では、イランの国民は何をノーと言ったのか。
大統領候補の四人の候補の訴えのうちハーテミ師の独自の公約は、「表現・出版の自由」「批判の奨励」「独裁の回避」「宗教と自由の両立」であった。
またハーテミ師自身の経歴を見ると、1982年からイスラム文化指導省の責任者を勤めているが、検閲が緩いことを保守派から批判され、1992年に辞任した経緯がある。
つまりイスラム革命政府の言論抑圧の責任者ではあるが、そのスタンスを徐々に表現の自由を認める方向に変えてきていた人物である。
ハーテミ師の圧倒的勝利は、経済の低迷への不満に加えて自由を求める国民の声の表面化であった。3

第2節(2)「第二の革命」への平和的第一歩としての意義

第1項[「原理主義派」に対する形を変えた「近代派」の闘い]

この選挙は、イラン革命期の動乱に匹敵する意義をもった変革への第一歩だと考える。
違いは平和的にそれが開始されようとしていることである。
1979年の革命に引き続く時期に、聖職者独裁とイスラム型民主主義をめざすグループの激突があり、前者の勝利に終わった。
今回の選挙はこの権力闘争が形を変えて国民的規模で現れはじめたものである。

第2項[1979年革命は諸勢力の事実上の連合による勝利]

現在の事態をより理解するために、1789年の18年前のイラン革命を簡単に振り返っておこう。
この革命前、政治的指導権の獲得をめざしていた部分をイデオロギー的に見ると、ホメイニーや現在の政権中枢につながるイスラム原理主義派、バザルガン(Bazargan)、バニー・サドル(Bani-Sadr)、革命前に死んだアリー・シャリアティ(Ali Shariati)などイラン自由運動のイスラム近代派、モジャッヘディーン(mojahhedin)のイスラム左翼ゲリラ、ツーデ党 (tudeh)、フェダーヤーン(fedayan)などの世俗左翼派、国民戦線などの世俗民主派、あるいはクルド民主党などの少数民族勢力があった。
これらが、事実上一つになって民衆を動員して国王独裁の打倒とその背後にいたアメリカの駆逐に成功したものであった。

第3項[なぜ宗教派が勝利したのか。]

これのうち、なぜ、宗教的イデオロギーをもったものが勝利したのかについては、当時の階級的民族的な対抗関係と革命の主体となるイラン民衆の置かれた文化的経済的社会的状況を考察する必要がある。
一般に民族や宗教に基づく紛争は、民族や宗教それ自体に紛争を起こす要因があるのではない。
経済的社会的文化的な支配・非支配の存在によって、対立したそれぞれの側が言語、地域、宗教、歴史、文化などのエスニックな諸要素を無意識的あるいは自覚的に利用するためにそれが紛争の表面に出てくるのである。

1905~11年の立憲革命の時のイラン国民の相手は伝統的な体制であるから、西洋的な考えをある程度、導入することによってにイランの問題が解決すると考えた。
ところが、ところが、1970年代のイラン国民の相手であるパーレビー王朝は西側資本主義、特にアメリカがバック・アップしており、独裁政権を支持する西側の世俗「民主主義」はイラン国民にとっては欺瞞としてしか映らず、国王打倒のための国民の原理として支持を広げることはできなかった。
また共産主義は、ソ連、中国が国王と手を結んだことで支持を失い、国内の自主的な左翼運動は徹底的な弾圧の中でゲリラ闘争以外に存在しようがなかった。

またシャーが、イスラム以前の古代ペルシャ帝国の歴史的メモリーやアーリア人意識を自己の統治の正当化に利用しようとしていた。
だからそれに対抗して国民の団結の原理として有効に機能しうるものは、イラン国民の内部にあるエスニックな諸要素うちイスラム以前の歴史メモリーでもアーリア人人種意識でもなかった。

したがって唯一、国内数千のモスクを持つシーア派イスラムとその伝統的宗教原理が、イラン人の抵抗と団結の拠点となって、政治の前面にでることになった。

第4項[イスラム原理主義派とイスラム近代派の連合政権と権力闘争]

一般大衆の持つシーア派イスラムの宗教意識と宗教的て歴史的メモリーに着目して、それを国王打倒のためのイデオロギーとして完成させたグループに二派ある。
その一つは、神学研究の中で、国王独裁に変わって「ヴェラーヤテ・ファギー」(聖職者=イスラム法学者の統治)理論を完成させたホメイニーとその弟子たちである。
ホメイニーは宗教学校の経歴しかもたず、近代科学思想には触れたことがない。
原理主義と呼ぶのは彼らの美化になる可能性があるが、ひとまずその近代思想を排除する質をもつ点で原理主義とする。
 それに対して、堅固なイスラム教の信仰を内面にもちながら、西洋的近代教育を受けてきた知識人で、大衆のシーア派イスラム信仰に着目し、近代的に教義を読み変えて、革命のイデオロギーに高めたイラン自由運動の知識人たち、すなわちバーザールガーンやアリー・シャリアティ、バニー・サドルたちである。
この二つは全く正反対の方向の社会階層を反映している。

一つは、パーレビー・シャー(Mohammad Reza Pahlavi)の白色革命の土地改革、司法改革、教育改革によってその財源と法的教育的役割を失おうとしている瀕死の聖職者階級ともう一つは、パーレビー・シャーの近代的工業育成政策が必要とする近代的産業の担い手として近代的教育を受けて政治参加を求める中産階級の若き知識層たちである。
すなわちイラン革命は、一方で「絶滅寸前の伝統階級の生き残りをかけた荒々しい叫び」と他方で「近代的諸階級によるより大きな政治参加をもとめる不運な企て」4 であった。

したがって、革命直後の政権は、ホメイニーなどのイスラム原理主義派とバザルガン、バニー・サドルなどのイスラム近代派の二派による世俗派と左翼派を排除した連合体であった。
その二つ派の綱領はイスラムを基礎しているが、正反対の方向のものであった。
すなわちホメイニーのヴェラーヤテ・ファギーは、神の法を解釈する聖職者が統治する政府である。
理念として民主主義は国民の代表が法律を作るものであり、神の法に基づく統治を実現するためにホメイニーは、イスラム共和国に民主主義の名を冠することを西洋の思想だとして拒否した。
それに対してイスラム近代派は、神は絶対だが、聖職者と聖職者以外の人間の間に差はないとして民主主義をめざした。
したがって、二つの勢力は、革命後に権力闘争を展開することになり、イスラム近代派は、ホメイニーの指示のもとで、バザルガン首相、バニー・サドル大統領という順にイスラム原理主義派によって排除されていった。
バニー・サドル失脚の時にはイスラム近代派がイスラム左翼ゲリラのモジャッヘデーンと組み、悲惨なテロの応酬となったが、結局、イスラム原理主義派の勝利に終わった。

第5項[なぜ、イスラムを革命の原理とした二つの勢力の中でイスラム原理主義派が勝利し、イスラム近代派が敗北したのか。]

まず第一に、原理主義派のイデオローグであったホメイニーがイスラム宗教革命の象徴としてカリスマ性をもちほとんどすべての党派から絶大な信頼を受け、彼の意志が貫徹する状況にあったこと。

そして第二は、 革命勝利にむけた巨大なエネルギーは、「白色革命」による土地改革の展開の中で都市に流出した膨大な元農民層=下層都市民衆の不満によってもたらされたのであるが、イランの農村の生産力段階で陶治された彼らは、近代派イスラムの教義に共鳴する力をもっていず、ホメイニーの教義に共鳴する質をそなえていたことである。
ホメイニーの声は、全国のモスクにテープで伝わり、下級聖職者を通じて、それら下層の部分に徹底してゆき、彼らは強固なホメイニー派の行動部隊を提供する支持基盤となった。

それに対してイスラム近代派の教義は、シャーの近代化政策の中で発達した近代的高等教育を受けた青年たちに共鳴盤をもった。
ところが当時約4割が文盲であったことで分かるように膨大な元農民=都市下層民は、イスラム近代派の主張に共鳴する力を持ち得なかったため大衆動員力と「狂信的」戦闘力においてホメイニー派の力量と決定的な差があった。
また国王独裁打倒が第一義的課題であったため、ホメイニーの非民主的体質については無警戒だったと考えられる。5

第6項[今回の選挙の意味、避けることのできない近代派の復活]

ここまで振り返れば、今回の選挙で「自由と批判」を強調したハーテミ師へ有権者の七割が投票した意味を読みとることがきる。
つまり、「絶滅寸前の伝統階級」が勝利して、政権を担当しても、「近代的階級」を消し去ることはできない。
その近代的階級は、必然的に自らの自己表現(政治参加=民主主義)を求める。
国王による凶暴な弾圧もそれを沈黙させることができなかったように、聖職者たちも、思想上でムハンマド時代の原理に帰れたとしても、現実の近代的階級を消すことはできない。
近代的諸階級は、自己表現を求めて聖職者支配と衝突せざるをえず、最終的に勝利することなる。
この過程の第一歩として私は今回の大統領選挙を位置づけるのである。

第7項[弛緩が避けられない宗教原理主義]

イスラムを国民の団結原理として政治的に利用すること自体もイラン革命の勝利それ自体によって弛緩せざるをえない運命にあった。
なぜなら、宗教原理が政治の前面に出た理由は、アメリカ帝国主義とパーレビー・シャー独裁に対してイラン国民を団結させる必要にあった。
しかし、今日、すでにパーレビー・シャー体制の復活の可能性はなくなった。
たしかに、イラク(スンニ派諸国)との対立、ペルシャ湾に展開するアメリカ軍との対立は存在するけれども、国民を団結させるために宗教が政治原理として前面にでる必要は大きく減少している。
また逆にアメリカ軍との対抗関係は近代的な軍の維持を必要とし、宗教教育の枠内に国民をとどめておくことは不可能である。
そして実際の国家運営にあたっては専門的な各分野のテクノクラートを必要とする。
実際、イラン政府は、国外に滞在するテクノクラートに帰国を呼びかけていた。
その層こそ革命後の権力闘争で敗北したイスラム近代派の支持基盤であった。

第8項[聖職者統治の維持のためには近代派の観点を組み込まざるをえない]

したがって革命の一翼を担った「イラン自由運動」の指導者が考えたような、進歩的イスラム知識人が指導して、西洋の近代科学技術、社会科学を採用することのできる政権の樹立はイラン社会の前進のための必須の通過点であった。
政権を担当した聖職者の中に自分たちの政治力の維持のためにも、イスラム近代派の主張を組み込まざるをえないことに気づくものがでてくる。

また神を利用して批判を受けつけない聖職者が権力にずっとしがみつくことは不可能である。
モジャッヘデーンは、革命当初から、「シャーの独裁に替わって聖職者の独裁が出現した」としてこのイスラム近代派と同じ目標をかかげて、武力闘争に突入して今日に至っている。
また世俗派の民主勢力が息を吹き返す可能性もある。
少しでも国民の動向に敏感な聖職者であれは下からの国民的革命的運動で聖職者が孤立し排除される日が来るのを避けようとする。
それがハーテミ師であると考える。

このような意味で、革命後18年経って、聖職者が特権をもって統治する体制と国民との間の矛盾が顕在化したのが今回の選挙だと見ることができる。
したがって今回の選挙をイスラム原理主義からイスラム近代派への権力移行というイラン革命で残された課題を遂行する「第二の革命」への平和的な第一歩と考えるのある。

第3節(3)イスラム原理主義思想に対するイスラム近代派の新たなイデオローグの登場

第1項[聖職者支配批判を開始したアブドル・カリーム・ソロウシュ]

「自由を」を主張した大統領候補に国民の圧倒的な票が流れた背景に、一人のイスラム知識人がいる。
アブドル・カリーム・ソロウシュ(Abdol Kalim Soloush)である。
彼は1990年代半より政府の黙認のもとに原理主義過激派、アンサーレ・ヘズボッラー(神の党の支持者)から暴行、迫害を受けながら発言を続け、選挙の前月には当局からパスポートを没収されている。
彼を通じて国民は自由のない自分たちの境遇を再確認する。
タイム誌はソロウシュについて次のように報道している。

「ソロウシュは、イスラム共和国のもっとも危険な異端派として登場した52才の哲学者である。・・・
ソロウシュは、意見表明を禁止された数百人の学者、芸術家、作家の一人である。
しかし、ソロウシュほど支配層の聖職者を怒らせた人物はいない。
その理由は、彼がマルクス主義者でも、王党派でもなく、ホメイニーの1979年革命に参加した確たるムスリムであるからである。
そのような信頼性によって、革命を支持したけれども聖職者の行き過ぎに失望したイラン人に彼の思想がアピールするからである。」6

第2項[今回の大統領選挙へのソロウシュの見解]

ソロウシュ自身は、今回の選挙結果についてCNNのインタビューで次のように答えている。
「・・・教育のあるものは政府に対して理論的な問題で不満を持ち、多数の人々は政府に経済的な不満をもっていた。
この種の不満が社会のいたるところに広がっていた。・・・・
昨日の投票は、社会のあり方、とくに自由に関する今のあり方に対する大きなノーであった。・・・
わが国の指導者たちは批判を受けないので、この流れに気づいていなかった。・・・
これは大きな一歩だった。
驚くべきことは、それが平和的な運動だったことである。
われわれはもはや大きな激変を重ねることはできないからこのことはわれわれの社会の未来にとっていいことである。・・・
もちろん、彼の反対派は弱い勢力ではない。
これからの時期は、緊張の時期となるだろう。・・・
彼がなすべき重要なことは、市民社会の制度を再強化することである。・・・
たとえば、政党だとか出版の自由とかということである。
彼の背後には民衆がおり、彼ができないとしたら、誰もできないことになる。・・・
第一にこの選挙は、人々が聖職者を信頼していないことを示している。
このことは重要である。
この選挙に聖職者はかかわってきたけれども、彼らが推薦した人物は選ばれなかった。
聖職者はこの選挙から教訓を学ぶべきである。
彼らは、民衆に対する彼らの方針を変えなければならない。
なぜなら、彼らの側は命令し、民衆の側はその命令に従うものと考えているからである。
しかし、もはやこのようなことはなりたたない。
少なくとも、政府と民衆の間の平等な基礎の上での協力がなされるべきである。・・・」

  この発言からソロウシュがハーテミ師勝利の流7 れと波長を一つにしている人物であることが分かるだろう。

第3項[18年を経て、変化したイラン社会 以前は当然だった事柄が、今は問われはじめている]

ソロウシュは、革命後18年を経て、イラン社会の雰囲気が変化していることを国外に生活するイラン人が認識していないことを次のように述べている。
「この旅行で気づいたことは、現在のイラン政府を支持する人も反対する人もその立場を問わず、国外に住む人々の現在のイラン国内の政治的・社会的事情についての知識が、極端に古びたものになっていることである。・・・
革命の支持者も反対するものも、まず、イランの新しい社会的政治的雰囲気を認識すべきである。
そのような認識が、賛成、反対の前に先行しなければならない。
幸運にも、国内の大学生は、社会の政治的社会経済的発展にずっと敏感である。
今、反対と批判はより深刻なレベルまで高まってきている。
以前に認められてきたものが、今や問われ始めている。・・」8

第4項[支配層に脅威を与えているソロウシュ問題]

ソロウシュが「革命の時には今のようには考えていなかった」と言っているように、彼も多くのイスラム知識人のように革命時にはホメイニーの聖職者統治にそれほど疑いを感じていなかった。
しかし現実のイラン社会の進展と思索と研究を重ねた成果を80年代後半から発表しはじめ、「表現の自由」をめぐる焦点の人となってゆく。

ソロウシュ問題について1995年にベラヤティ(Ali Akbar Verayati)外相は次のように述べている。
「・・・ソロウシュ教授問題は、あきらかにわが国の対外政策に影響する。・・・
公的なフォーラムは、スコラ的な議論をする場ではない。
新聞や公的な場にこれらの問題を持ち込み、国家の独立と調和の基礎を弱めることはこの国の人民に奉仕することではなく、むしろ人民に対立することだ。・・・
したがって、たとい、悪意はなくとも、このような態度は確実に否定的な結果をもたらす。
民族と宗教の信念を崩壊させることは、国と人民とイスラムに奉仕することではない。」9

これは、ソロウシュが体制側にいかに脅威であるのかの表白である。
イスラム原理主義者の政府当局に「国家の独立の基礎」を弱めるものだと語らせているソロウシュの思想とはいかなるものであろうか。

第5項[本論の目的]

本論の目的は、このようなソロウシュの思想を紹介することであり、ソロウシュの思想が、イスラム近代主義の系譜を引き継ぎながらイスラム原理主義の思考に対して全面的に対決したものとなっており、しかもその内容が旧来のイスラム近代主義の論点を乗り越えた新段階を画する思想となっている点を示すことである。

ソロウシュの思想の内容の検討に入る前に、まずソロウシュとはどのような人物なのか彼の履歴を見ておこう。

第2章ソロウシュの履歴と現在 10

第1節小学校から中等学校

第1項生い立ち

1945年に南部テヘランで出生した。
両親ともテヘラン生まれの下層中産階級である。
テヘラン南部の小学校の六年間を終え、中等学校へ進む。
中等学校の二年の時にアラビ・ハイスクール(Alavi)に転校した。
この中等学校は、近代科学と宗教信仰を高めることを目的として設立されていた。
ソロウシュはそこで近代科学の基礎と宗教を学んだ。
このハイスクールの後期、ソロウシュは数学を専攻して卒業している。

第2項化学・薬学から歴史・哲学の研究へ

ハイスクールを卒業して、物理学と薬学で全国大学入学試験を受験し、両方に合格した彼は薬学部を選んだ。
大学ではソロウシュは単分子反応についての論文に取り組み、科学における不確定性の主題に対して関心をもち研究した。
学位を得た後、2年間、義務であった徴兵についた。
その後、ブシェル(Bushehr)で15カ月間、製薬関係の仕事をし、テヘランにある薬品監督署 で働くためにテヘランにもどった。
しかし、それからすぐにロンドンにゆき、ロンドン大学で彼が専門にしてきた分析化学の修士課程に入った。
その後、5年半、ロンドンのチェルシー大学(Chelsea College)で科学の歴史・科学哲学を研究した。

第2節イラン革命へ参加

第1項革命運動への参加

イラン本国で、人民大衆と国王の対立が激化した時期、欧米でも留学生たちの政治的結集が進んだ。
ソロウシュは友人たちとイギリスでムスリム青年協会(Muslim Youth Association ) に参加した。
後に西ロンドンの イマーム・バラ(imam-barah)という場所を拠点にして活動した。
この場所は、イラン人ムスリム学生の拠点となり、革命の直前にはここにはヨーロッパ中から大勢が集まり、議論していた。
その中にはホメイニー門下のベヘシュティ(Beheshti )やモタッハリ(Motahhari.)もいた。
1977年にロンドンに来て亡くなったアリー・シャリアティの葬儀もここで行われた。
ソロウシュはこの歴史ある地となったイマーム・バラの運営の中心人物であった。
ここでのソロウシュのスピーチは、パンフレットや本になっていった。
そのスピーチは本にまとめられ、イランで出版され、左翼の影響力拡大を防ぐ役割を果たした。
そしてその本はホメイニーからも賞賛を受けた。

第2項ホメイニーに指名され革命後の学問界の要職へ

イランにもどって、新しく創立されたイスラム文化グループ の長に任命されてテヘラン教師養成大学に行った。
一年もしないうちに、大学の閉鎖運動が学生からはじまり、すべての大学の全面閉鎖までに至った。
その後、ソロウシュは、ホメイニーから七人のメンバーからなる文化革命協会の一人に指名された。
この協会の目的は大学の再開と大学の教育内容の再検討であった。
大学の根本的なイスラム化のためには閉鎖を続けるべきだという意見の中でソロウシュたちはホメイニーに大学の再開を早める示唆を与えるスピーチを要請した。
一年半後に大学は再開した。

文化革命協会は文化革命評議会に変えられ、メンバーが17人に増やされた。
意見の違いを感じたソロウシュはこれには加わらず、ホメイニーに辞表を提出した。
以来、イランの支配制度の中に公的な地位をもたなかった。

第3節 研究と教育、講演、著作活動から90年代の迫害の開始へ

第1項 研究と教育、講演、著作活動

その後の彼の主な職は、文化調査研究所 の研究者である。
そしてテヘラン大学と大学院で科学哲学の講座をもち、多くの著書11 、論文を発表した。
講義は非常に人気があり、すべてカセットテープに録音されて、イラン内外に広められた。
他に大学院生に1995年まで講義していた。
また1988年からテヘラン北部でのイマーム・サーデク・モスクでの週に一度の講義をしていた。
この講義は6年間つづき2冊の本にまとめられた。

第4節 迫害の開始

第1項[最高指導者のハメネイの非難]

彼の議論は、体制側には問題があるものとして受けとめられた。
ホメイニーの後継者の最高指導者のハメネイ (Ali Khamenei) が、ソロウシュの論文と講演を批判しはじめた。
しかし、ソロウシュの考えは体制の目からは一層許せないものに発展していった。
合衆国 大使館占拠事件を記念した1995年11月の演説では、合衆国 とイスラエル批判の時間よりソロウシュ非難の時間が長かったという。

第2項[アンサーレ・ヘズボッラーの攻撃]

1995年来、アンサーレ・ヘズボッラー(Ansare Hezbollah 神の党の支持者)のソロウシュへの攻撃は何度もなされ、彼の自由な活動は妨げれ、その身は危険な状態に置かれるようになった。
1995年5月にアミール・カビール大学 (Amir Kabir) のイスラム協会主催の講演を依頼されていた。
流血の事態が予想されるとして出席を中止したけれども、ソロウシュは治安警察に逮捕され、情報省に連行された。
集会に参加しないよう、テヘラン大学で講義しないように、外国にいかないように警告された。

1995年10月には、テヘラン大学に侵入した約50人の集団が、治安警察の目の前で、講演のために演壇に立ったソロウシュを襲った。
彼のコップはこわされ、支持者たちとなんとか逃れた。
2000人の学生の中には負傷者もでた。
この事件の後に、テヘラン大学で学生が抗議集会を開催した。
これはムスリム学生 による大学でのその種の最初のデモンストレーションであった。

そのあとソロウシュは情報省によって尋問され、講演をやめ、宗教と政治、ヴェラーヤテ・ファギーについて論文を書かないように警告されている。

その後も「ナイフや棍棒」をもった集団がソロウシュと彼を支持する学生たちへの脅迫を続けた。
脅迫の中で1996年4月、ソロウシュの担当する講座は4クラスから1クラスにされた。

第3項[安全と研究の自由を求めたラフサンジャーニー大統領への手紙]

1995年12月、ソロウシュは、彼の考えが「国家的独立の基礎を弱めるものだ」というベラヤティ外相の非難に対して反論の手紙を書いて発表している。

さらに1996年5月、ソロウシュはラフサンジャーニー大統領へ「自由な研究の保障」について嘆願する公開の手紙を書いた。
107人の学者、作家、芸術家たちも、ソロウシュに安全を保障し、そのようなことがおこらないような措置を求めた手紙を大統領書いた。
大統領からの返事はなかった。

第5節 現在 12 -国外へ講演と研究の旅とパスポートの没収-

1996年5月にロンドンに出発し、イギリス・カナダ・アメリカ・トルコなどの主としてイラン人ムスリムに対する講演旅行をおこなった。
1997年4月、イランに帰国した。帰国後、ソロウシュは文化調査研究所 の職を奪われた。
テヘランでシャリアティの記念日に講演ができたけれども、情報省でパスポートを没収され、招待されていたドイツ、マレーシア、イギリスでの数多くのセミナーには出席することができなくなっている。

第3章 ソロウシュの議論

第1節革命後のイデオロギー状況とソロウシュの登場 

第1項[伝統派対ダイナミック解釈派の論争]

ホメイニーは、西洋文化の前にイスラムが死滅の危機に瀕していると説き、「ヴェラーヤテ・ファギー」(イスラム法学者による統治)を実現して、イスラムを守るべきだと考えた。
しかし、実際に聖職者が統治することになった現実のイランは、古代、中世のイランではなくて、パーレビー王朝の時代に導入された西洋起源の近代工業が存在する社会であった。
革命政府はホメイニーの存命中から、統治にあたって依拠すべきイスラム法(シャリーアまたはフェク)を旧来の伝統どおり解釈して適用するのか、イラン社会の現実にあわせるのかの問題にぶつからざるをえなかった。
 イスラム法学者(ファキー)の中で伝統派対ダイナミック解釈派の論争が起こった。
「・・・20世紀後半の神権国家の必要にシャリーアをいかに合致させるかの問題についての議論がはじまった。
聖職者は二つの陣営にわかれた。
伝統法学を神聖化する立場、よりダイナミックに法学を解釈する必要を主張する立場である。」13

実際にはより現実にあわせた解釈をしてゆかざるをえないので、ダイナミック解釈派の方が優勢となる。
「しばらくして、とくにシーア派の共同体において、イスラムの教えと世界のダイナミックな要求との調和をもたらすエジュテハードの重要性が認められた。」
しかし、現実のイラン社会についての正確な認識なしに聖職者たちイスラム法学者がコーランやスンナの解釈に向かっても現実に即した問題解決の方針がだせるわけではない。
「このすべては、近代科学の洞察力のある見解なしになされた。
結果は、一貫性のない折衷主義であった。
他方の極に、伝統主義者が初期の時代から続いているものを崇拝するよう主張していた。」14

第2項[1988年、ソロウシュの論文「理論的なシャリーアの縮小と拡大」の発表で論争は認識論へと発展]

このような状況の中で、非聖職者の宗教知識人ソロウシュが1988年4月に、従来の伝統派対ダイナミック解釈派の対立を超えたシャリーアを認識論的にいかに位置づけるかを提起した「理論的なシャリーアの縮小と拡大」を発表した。
このことで論争の論点は認識論へと発展していった。

「1985年にカール・ポパー Popper (1902-1994)の『開かれた社会とその敵』が翻訳されてイランの知識界に波紋をよんだ。
論争はポパー自身についてではなく政治的な方向づけと 認識論的原理に対してであった。」15 とあり、ソロウシュの議論の後景の一つとして見ておく必要がある。

革命にひきつづく時代のイランは、自由主義者と左翼の異端者は排除されていたが「聖職者の優越を認めた非聖職者の宗教的知識人は、それぞれの部署に留まることができ」「政治的には抑圧的時代だったが、知的には花咲く時代であった。」16 とボロウジェルド](Mehrzad Broujerd)は述べている。
この時代の成果としてソロウシュは、「聖職者の優越を認める」枠から外に知的開花の花を咲かせてしまった。

第2節普遍的な科学

第1項西洋文明をどうみるか。イスラムのアイデンティティを保持したままどのように西洋文明に立ち向かうか。

第2項[事実として近代文明は西洋起源]

古代にはなかった近代的な生産様式は、まず西洋で出発したものであり、それ照応する科学技術や法律学を含む社会科学は西洋にその研究の先駆者を生むことになった。
イランには、シャーの時代にすでに西洋起源の近代的工業が持ち込まれている。
その生産力を生かして社会の再生産を行なおうとするかぎり、西洋にはじまった近代的な自然科学と社会科学を修得したものを大量に必要とする。
西洋起源の文化を排斥するためには近代工業を壊滅させるしか道がない。
それは不可能である。
イスラムのアイデンティティを保持したまま西洋文明にどう立ち向かうかという問題が浮上せざるをえないことになる。

第3項[伝統主義者の西洋認識]

この西洋認識の問題をめぐって、非聖書者知識人のダバリ (Reza Davari Ardakani)とソロウシュが論争している。
伝統主義者のダバリは、「西洋近代は、神を捨て人間を宇宙の中心にすえる個人主義とヒューマニズムに堕落したとして、西洋を全面的に否定する。
そして近代科学を否定し、西洋の民主主義モデルを否定する。
美徳ある社会は、預言者の教えに基づくべきだと言う。
次のダバリのたとえは、分かりやすい。
「近代は西洋で植えられて、世界に広がった木である。
何年もわれわれは枯れかけた木の枝のもとに生活してきた。
そしてその枯れかけた葉は、まだわれわれの頭の上にぶら下がっている。
われわれがイスラム(の木)に避難しても、この枝の葉は、我々の頭上から完全に消えなかった。」17
ダバリは枝だけでなく、近代の木それ自体が引き抜かれなくてはならないと考える。
したがって、ダバリは、異なる木である西洋文明との文化交流の可能性を認めない。

第4項[知性には国境が無いとするソロウシュの主張]

このようなダバリの西洋=近代を全面的に否定する原理主義の思考に対してソロウシュは全面的に反論する。
ソロウシュは西洋近代に対してだけでなく、異なった宗教、文明間での交流と協力の可能性を信じている。

哲学、知性に国境はないというソロウシュの主張をボロウジェルドは次のように要約している。
「知性は縛られぬものであり、哲学はコスモポリタンであり、知識には国境がないがゆえに、出生の日付と場所は、その考えの正しさと正当性の評価の基準の役にたつことはできない。・・・
西洋から来るものは、必ずしも汚れたものではない。
人は、自分に害にならないように西洋の技術を取り入れることができると同じように西洋の思想や政治を取り入れることができる。・・・
そして異なった宗教の間で、独断的主張やひとりよがりをやめ、相互の承認と協力を促進すべきだとソロウシュは文化交流の可能性を確信している。」18

第5項[「文明の衝突」を避ける道]

ハンティントン(Hantington)の「 文明の衝突 」という考え方は、原理主義者に有利な考えであるとソロウシュは考える。
イスラムと西洋文明の共生の道を探るために次のような提起をしている。
「問題の根本をつかむためには、両方の文化の持っている根本的な諸前提を考える必要がある。
両方がともに生きてゆくことを可能にするためにどちかの文化の明白な特徴のいくつかを変える企ては適切ではない。
もし、それらの文明の根本的諸前提が調和をもって存在することができないものなら、文明のなんらかの和解は危ういままだろう。」19

ソロウシュは文明のより根源にあるものの考察の中に文明の衝突を避ける道があると提起する。

第6項[キリスト教における近代科学との出会いとイスラムにおける近代科学との出会い]

ソロウシュは伝統主義者の偏狭な西洋文明全面否定論が出てくる背景を文化的政治的な植民地化を避ける必要にあったと考える。
「西欧では近代科学との静かな遭遇の結果としてカトリック、プロテスタント神学を生み出した。
しかし、文化的政治的植民地化をおそれ、ほとんどのムスリムは、ヨーロッパ世界に対して絶対的否定の態度をとった。」
「結果として、無気力な状態となり、近代科学と哲学の挑戦に対決することができなかった。」
このような西洋科学導入の必要性についてはアフガーニー(Afgani)以来の近代的思考をするムスリムに絶えず出てくる論点であるが、ソロウシュは、単純な「西洋文明」観をとらず、西洋文明に多面性・多起源性を見、西洋科学自体、より普遍性をもったものとして見ている。

ムスリムとしてのアイデンティティを保持したまま文化の普遍的性格を信じる背景に彼の理論を貫く科学観がある。

第7項[科学は連続的な人間の経験の蓄積]

「重要なことであるが、今日西洋科学 と呼ばれるものは、イスラムの科学 の後継者である。
そしてイスラム科学は、ギリシャ科学、インド、ペルシャ、バビロニア科学の後継者である。
我々が持っているものは連続的な人間の経験である。」20
このことは宗教であるキリスト教文明と西欧科学文明の区別の指摘でもある。

第8項[ソロウシュの科学論] 

ソロウシュによると「自然の科学は自然を理解する人間の営みである、そして宗教の科学は宗教を理解する人間の営みである。」21
宗教の分野以外のところで発達した人間の知識である科学が宗教理解に影響を及ぼすことと宗教の知識自身が科学と同じく変化、発展するものであるというところにソロウシュの主張の特徴がある。
科学論にソロウシュ独自のものがあるわけではないが、科学とはいかなるものかをソロウシュの議論で確認しておこう。

科学的研究では、対象に対して今まで到達した知識・理論にもとづく研究仮説(理論、概念、体系)が、観察や実験の前にあらかじめ存在している。
「連続した出来事の規則的な関係が観察される単純て帰納的研究においてさえ、対象とする要素の完全なリストを確保できない。
これらすべてのケースにおいて、人は、どこからはじめて、どこで終わるべきか、何を含んで、何に注目するべきか、何が重要で、何を除外するべきか。
このような研究の場面のイメージがあらかじめ整っていなけれはならない」22

また観察自体も、「一方では理論によって導かれて、そして他方で同じ理論によって彩色される。」23
「興味深い事に、顕微鏡と原子核磁気共鳴装置のような注意深い観察と測定を提供するように思える科学的道具も、われわれが自然に対して問いを提起して、そこから答えを引き出せるような整理され客観化された複雑な理論的仮説がなければ役立たない。」
それ故、観察のための理論的前提は、自然の理解のために科学の方法が必要とするものであり、また科学の歴史の事実でもある。
そして、この観察のための理論的前提(体系、研究仮説)は不変の神聖なものではなく、それは批判され、修正され、深められてゆく。

したがって、「科学は正誤の考えの混在である。
すべての科学者は、確実な事実と真実の思想を求めるにもかかわらず、科学自体は、特定の科学者の超越的な信念や意見を超えて、確固とした事実や結論とともに間違いや疑わしい仮説や議論などから成り立つ。・・・
科学の発展にとって失敗は成功と同じだけ大切な価値がある。」24
歴史を通じて科学研究の成果としての自然認識だけでなく、研究のための方法としての理論的枠組(体系、概念)自身が変化してゆく。

このような科学と科学史の理解が、宗教の認識にも貫かれるとろにソロウシュの理論の独自性がある。

第9項[宗教的聖典の理解への科学研究の方法の応用]

宗教以外のテキスト(書物)の科学的研究についてソロウシュは次のように述べる。
「テキストもそれだけではなりたたない。
それは状況(context)の中に位置づけられなければならない。・・・
その解釈は変化するものである。
そして(理論的)仮説は、テキストの理解のために積極的に機能する。」
そして「宗教的なテキスト(聖典)も例外ではない。
その解釈は、それに先行する(理論的)仮定、もしくはそれに問いかける質問にそって拡大、縮小するものである。
今、(理論的)諸前提は、時代に規定されているゆえに、実際、宗教的知識、宗教の科学は変化はできるし、変化するものである。
それは、理解の産物であり、変化の状態にある。
人が啓示の声を聞くことができるのは、これらの(理論的)諸仮定を通じてである。
それは知識の分枝であり、それ以上でも以下でもない。」25  

第3節 科学的宗教認識

第1項 宗教における不変のものと変化するものの区別

[宗教は神聖であるが、宗教の解釈は人間の認識の問題]

このようにソロウシュは彼の科学観を宗教の考察に適応する。
神の啓示は不変で神聖であるが、人間の認識にかかわる宗教知識、聖典理解は、自然の科学と同じように研究の前提としての認識の枠組みと相互に影響しつつ、無限に変化していくものであるとする。
「どのように我々は宗教の不変の原則を世界の変化している状態と一致させるか?・・・
我々は変わりやすくて、そして同時に不変の何かを見いださなければならない。・・・
それは啓示された聖典それ自身である。
それは不変であると同時に変化することができる。
それは預言者 の心に明らかにされた。
それはそのまましておかれるべきで、誰もそれを変えることは許されない。
同時に、経典の解釈がある。
それは変わりうる。
解釈は(理論的)仮説なしにはありえず、仮説は時代の知識に拘束される。
時代の知識はいつも流動的である。」26
したがって宗教は神聖であるが、宗教の解釈は人間の側に属することで、変化するもので神聖ではないということになる。

[宗教における本質と偶然、宗教を本質に絞り込む企て]

さらにソロウシュは、本質と偶然という角度からも人間の領域に属するものから神聖さをはぎ取り、宗教をその本質的な位置に絞り込む。
「聖典コーランの内容は2つの部分に分けられる。
本質と偶然である。
偶然とは、啓示がなされた時の文化的、社会的、歴史的な状況である。・・・
ハデースの中に病気治療に関するところがある。
しかし、それをイスラムの本質であるとする人はいない。
人間自身が試行錯誤して病気と薬についての事実を見いだしてきた。
もし、そうなら哲学、経済学、政治についてはどうなのか。」27
「本質と偶然を区別する基準はものごとが別の状態でありえたかどうかである。
他の状態でありえた物事は偶然である。」として彼は、偶然の要素は多くあり、コーランの言葉がアラビア語になったのは偶然であり、イスラムがシーア派とスンニ派とに分裂したのもの偶然だったとする。
ムスリムが聖なる不変の要素と考えていたものの多くがその神聖さを失うことになる。

第2項宗教の歴史は不断の解釈と再解釈の歴史

[非宗教的な分野の理解が宗教理解に影響を及ばす]

宗教の歴史とは、不断の解釈と再解釈の歴史であり、人間の側の認識の問題であった。
したがって、宗教以外の人間の認識の発展が聖典の解釈に影響を与えることになる。
人間の知性によって蓄積された知識の総体(科学)によって、宗教に対する人間の理解を純化し、深化させるべきだとソロウシュは考える。
「このすべてが意味していることは、宗教は、常に相互に絶えず影響しあう多くの同時的な情報や議論にとりかこまれている。
その解釈は、外部の要素が変わらないかぎり不変であるが、いったん外部の要素が変化するとその変化は宗教の理解に反映する。
それ故に宗教の科学が変化するのは、不当な操作やとっぴな解釈などののためではない。
宗教の科学の変化は、非宗教的な分野における人間の理解の深化が宗教に違った理解を強いることから生ずる当然の産物である」28
そしてまたある時代に解釈が一貫するのも同じ理由からである。

[問いの深まりが、引き出す解答の深さを規定する]

自然、社会についての人間の理解の概念的な変化がいかに宗教の聖典の理解に影響を与えるかについて、わかりやすく説明している。
「聖典はあなたに語らない。
問l を発することによって、それに語らせる。
あなたが学識がある男の前にいるとしても、あなたが彼に質問をしないなら、彼は黙ったままである。
あなたは彼の知識から利益を引き出せない。
もし、あなたが彼に問を発するならば,あなたは、あなたこの質問のレベルに応じて、知識を引き出すだろう。
もし、質問が深められるならば、答えもまた深まったものであろう。
それゆえに解釈はわれわれの側に依存している。・・・
啓示は、われわれに直接に語ることによってその秘密を見せない。
我々は行って、そしてそれらを発掘して、そしてそこにある宝石を見いださなければならない。
われわれが宗教から得るすべては解釈である。・・・
これらの解釈は歴史的であるから、歴史性の要素がそこにある。・・・
あなたは歴史にむかい、そこからコーランとハデースにいくべきである。」29

[非宗教分野の理解が宗教に影響を与える際の二つのタイプ]

ソロウシュは、宗教(経典)に発する問い自体の変化を促す宗教外からの契機について次の二つをあげる。

その一つは、近代産業と近代社会を事実上導入しているが故に解決を必要とする古代にはなかった問いである。
「最初の一つは、宗教が新しい答えを期待される新しい問いが提起された時である。
たとえば、イスラムにおける人権とは、イスラム科学とは、利子のない銀行業務のシステムが可能か。
統治のイスラム的形態とは。
このような問いは時代の要請にそって出現する。
それらの答えは現在の理解の限界の中で定式化される。・・・」30

もう一つは、コーランの叙述が、科学的の発展による諸発見と矛盾するようになった場合である。
「第二は、人間の知識のより幅広い発展で聖典と伝統から新たな理解が得られた時である。
神が絶対確実であり、真実しか語らないという前提から、人はあきらかに現在の信念体系と一貫しない結論を推定することはできない。
コーランの初期の解説者は、七つの天の意味を説明するには何の問題もなかった。
その解釈は、当時の天文学的な知識では筋が通っていた。
宗教的な経典で使われた用語は、現在の理論から意味的に理解されるべきである。」31
すなわち、「もし、科学が客観的に真実であるなら、そしてもし宗教が客観的に真実であるなら、それらは相互に一貫するべきである。」32
天動説や進化論・自然選択説が正しければ、コーランが意味的に再解釈されねばならないのである。

第3項 以前のモダニストとソロウシュの議論を分ける分岐点

[宗教における不変のものと変化するもの区別]

不変である啓示と変化する宗教的知識のこの認識論的区別が従来のイスラムモダニストとソロウシュの理論を分ける分岐点である。
これまでは、コーランを近代的な枠組みに解釈してみせただけだった。
ソロウシュの理論の意義についてボロウジェルドは次のように述べている。
「たとえば、バザルガンのように、ソロウシュは、科学とイスラムの調和を試みたのではなく、宗教への科学的アプローチを正当化したわけでもない。・・・
宗教的知識と宗教の理解を強調することによってこれらのタイプの企てを超えて進まねばならないと信じていた。
ソロウシュは、科学と宗教の調和を語るのではなく、よりよく宗教を理解するために科学を使うことについて述べる。・・・
聖典とスンナは不変であるけれども、宗教的知識は、永遠の知的な交流過程である人間の知識のより大きな分野の一部である。
このデリケートな区別に注意をむけたことが、革命後、イランの知的思索に対するソロウシュの主な貢献である。」33

[科学を使って宗教を理解]

またカマリ(Hossein Kamaly)もソロウシュの理論の意義について次のように述べる。
「ソロウシュの主張は、人間のつくった科学や知識が宗教におきかわるべきだというものではない。
むしろ、人間の知性によって蓄積された知識の総体は、宗教に対する人間の理解を純化し、発展させるべきであるというのが彼の主張である。
源はそれ自身宗教である、
しかし人間のつくった科学がもっと深く情報源を探求して、そしていっそう洗練された内容を引き出す道具を供給する。」34

[イスラムの概念の縮小をめざす]

イラン革命前、国王打倒のためにシーア派イスラム教の教義を、革命的な教義に再編成したイデオローグにホメイニーとアリー・シャリアティがいた。
ホメイニーのめざした社会は聖職者が統治するもので、アリー・シャリアティのめざした社会は、聖職者は特権をもたず近代的なイスラム知識人がリードする社会であった。
聖職者が特権をもたないイスラム社会をめざす点ではソロウシュの立場は、アリー・シャリアティを継承するものであるが、その論点は根本から異なっていた。
ホメイニーもアリー・シャリアティもともにイスラムを生活の全領域を含む包括的な宗教体系として見ていた。
事実、イスラムは聖俗一致、聖教一致の特徴をもつからこそ民衆の革命動員に彼らが成功したのであった。
しかし、ソロウシュは、そのイスラムのもっている包括性を、認識論によって聖なる不変の部分を限定することによって縮小しようとする。
とするならば、ソロウシュは、イスラム社会が近代的な発展をとげるために必須の宗教改革を開始しようとしていることになる。

第4節イスラム法学論

第1項イスラム法シャリーアは宗教の核心ではなく、変化するもの

[宗教は法学ではなく倫理に依存するもの]

すでに述べたように1988年4月にソロウシュが「理論的なシャリーアの縮小と拡大」を月刊文化誌ケイハーネ・ファルハンギー(Keyhan-e Farhangi)に発表したことが、イスラム法学の伝統派対ダイナミック解釈派の論争を論争を認識論的次元に進めることになった。
ソロウシュの議論は、今までに見てきたように「不変の経典以外、すべての科学と知識の分野は、絶え間ない生成の過程にある。
そしてその変化は、宗教的知識、法学を含めて他のすべての人間の知識の分野に影響を及ぼす。」というものであった。
したがってイスラム法シャリーアも人間の認識の側に属するものであり、本質的に変化するものであり、宗教以外の研究の分野の光にあてて発展させられるべきものだということになる。

イスラム法学は宗教の核心ではないとソロウシュは次のように述べる。
「フェク(イスラム法学=シャリーア)は宗教の本質ではない。
イランにおける問題はフェクの強調にある。
宗教はフェクに 依存するものではなくて、倫理に依存するものである。
フェクは無価値なものではないが、宗教の核心ではないのである。」35

[人間の認識の限界の中にあるイスラム法]

なぜなら、ソロウシュによれば「宗教は、神からのものであり、純粋で、絶対である。
しかしそれが理解されるためには、人間の複雑な社会関係の中で作動する人間の認識能力というチャンネルを通じざるをえない。
だから・・・不完全で、その純粋性と絶対性を失う。・・・
宗教それ自体の神聖さのゆえに、宗教の解釈に神聖さを与えることはできない。
したがってイスラム法シャリーアの理解は、神聖で究極のものではないのである。」36

第2項 イスラム法学者は、社会科学を研究すべき

[イスラム法学の停滞の原因、他の関連した学問の欠如から]

したがってソロウシュは、イスラム法学者が、科学や社会科学を神聖な信仰の確信を害するとして科学的な理論を避けるのではなく、科学を学び、科学者との知的な交流に参加すべきであると主張する。
そしてイスラム法学の停滞は、宗教以外の分野の学問が欠落していることにあると述べる。
「それらの問題を扱うことはかなりの哲学、政治、社会学と歴史(の知識)を必要とする。
そしてそれは宗教の科学に時代の香りを与えるものである。・・・
これは、なぜイスラムの社会での宗教法学が最近の数世紀間ずっと低迷し続けていたのかを示すことなる。
それはイスラム法学フェクの中に内的なダイナミックが欠けているがゆえではなく、他の関連した学問の停滞のゆえである。
たとえば、神学と歴史、その他社会学のような学問が存在しないことである。」37

つまり、イスラム法学者は、自然や社会の認識を深める科学的仮説としての体系(枠組み、理論)を学び、その分野の現代的な知的な光のもとでコーランやスンナを解釈してゆくべきだというのである。

[聖職者の一部も支持]

ソロウシュは、この立場から宗教学校の生徒にもっと科学を学び、宗教以外の分野を学ぶように言い、宗教学校のカリキュラムが宗教に偏るべきでない主旨の発言をした。
このことが、一方で彼に対する迫害を招く引き金になってゆく。

しかし、他方で著名な聖職者のシャベスタリー(Mohammad Shabestari)がソロウシュのこのような論点を支持していることをボロウジェルドは紹介しており、ソロウシュの論が、現実の事件に対応して判断を下してゆく仕事を担うイスラム法学者たちウラマーの中にも一定の共鳴を広げていると推測される。
「我々の宗教学校が、社会科学から分離して、そしてこの学問における発展の認識無しで、自分の職分を守っているという事実は、我々が市民権の哲学あるいは倫理の哲学を持っていない現在の状態に導いた。」(シャベスタリー1988) 38

第5節 アイデンティティ論

第1項 イスラムのルーツに立ち戻ることを説いたイラン革命のイデオローグたち

イラン革命は、すでに述べたように一方でホメイニーに体現される「絶滅寸前の伝統階級の生き残りをかけた荒々しい叫び」と他方でアりー・シャリアティに体現される「近代的諸階級によるより大きな政治参加をもとめる不運な企て」であった。
彼ら両階層のイデオローグは、めざした方向は異なるが、どちらも西洋文化に毒されているパーレビー・シャーに対峙させて、ムスリムとしてのアイデンティティ確立を重視した。
アリー・シャリアティは、自分たちのルーツを忘れて西洋文化に毒された知識人を厳しく攻撃し、イスラムのアイデンティティに立ち返ることを説いた。
またイラン革命の勝利は、このような宗教原理主義をイスラムの内外に広めた。

第2項 アイデンティティは宗教の産物であって目的ではない。

ソロウシュは、そもそも預言者は、アイデンティティの危機から人々を救うためにやってきたのではなく、真実を伝えるためにきたのだとして、宗教がアイデンティティを追求することの間違いを指摘する。
「・・・イスラムは、本来、人間に自分たちでは手にすることのできない確かな真実に人間を導くために存在するのか、それとも、単に特徴ある文化としてムスリムのアイデンティティを形成させる道具であるのかについてムスリムはあらためて考えなければならない。・・・
真理の探求とアイデンティティの探求の微妙な違いをはっきりさせるべきである。...
預言者の主な使命はアイデンティティーの危機から人間性を救うためにやってきたのではなかった。
目的は人間に聖なる真実を伝えるためであった。
もちろん人々がある共通の真実を受け入れることで、彼らは新たな集団的アイデンティティを持つだろう。
それゆえ統一されたグループとして識別されるだろう。
だからアイデンティティは宗教の産物であって、宗教の目的ではない。」39

第3項 アイデンティティ追求の宗教の問題点

[問題点の一 紛争状態に導く]

ソロウシュは、ムスリムの思想家が西洋文明への対決のためにイスラムのアイデンティティを追求したことはイスラムにとって有害なのだと考える。
どんな問題がおきてくるか。

その一つは、アイデンティティを排他的に追求することは、相手を認めず、紛争状態に導くことである。
「アイデンティティを排他的に追求することは、真理の探求をネグレクトさせてしまう。
それどころか、アイデンティティの探求者は、ほとんど互いに相手を認める余地を持たないから、究極のところ紛争状態にならざるをえない。
けれども、真実の探求者は、お互いを相互に必要とする。
このため互いを理解しあう。明かりの光線のように真実は等質であり、すべて同じ家族である。
アイデンティティの追求者は、不可避的に拡張主義者である。
ライバルの権利を認めることができない。
そして遅かれ早かれ、互いに闘争に巻き込まれてゆく。」40

このようにアイデンティティのイスラムは、真実の信仰を失ってゆくのであるが、イスラムの真実をもとめた結果として生じたアイデンティティについては紛争と対立をもたらすものではないと次のように言う。
「真実のイスラムは、真実についてのみのイスラムの解釈である。
たといアイデンティティが結果としてつくられたとしても、それは、その結果として生じたものである。
このイスラムはすべての種類のイスラムと調和する。
それはどんな民族 や文化の利益のためにも使われない。
それは対話の扉を開いている。
そしてその信者はアイデンティティーの源としての実利のためにではなくその真実性のためにそれを求める。」41 .

[問題点の二 停滞に導く]

問題の二つ目として「ルーツにかえろう」という発想は、外部起源ものに精通しないことにつながり、停滞と偏狭を導いてしまう。
「『ルーツにかえろう』『忘れられた起源を掘り起こそう』『勇気ある自覚ある指導者を見いだそう』のようなモットーは非常に紛らわしい。
改革は、伝統的な仮説を読み変えることなしには起きない。
もし伝統と啓示の外で新しく発展した思想に十分に精通していなかったら、どのような読み変えもなされることはできない。
内部と外部の発見は、遅かれ早かれ、均衡に達する。
停滞を乗りこえるためには、外部の起源のものを動員しなければならない。
ムスリムの聖なる源泉の退廃的な理解は、文化的社会的文明的な全般状況への彼らの退廃の結果としておきているのであって、その逆ではない。」42

[文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反している]

ソロウシュは、そもそも自分たちの文化的ルーツを単一のものに求めるのは事実に反し、他の文化に不寛容な人間を作ってしまうと考える。
自分たちの文化的ルーツを探ると、実際は単一の起源に向かう排他的なものではない。
日本の文化が自分たち独自のものとインド、中国、西洋起源の文化の後継者であるように、イラン文化も異なった系列の文化の後継者であった。
「イラン人は三つの文化の後継者である。
前イスラムのペルシャ、イスラム、そして西洋である。
どれかが上にあるものではなく、イラン人はこれら三つを調和させることを考えるべきである。」43
このように事実を認識することによってイラン人は、それらの文化的相違により寛容になることができると主張する。

第4項 イスラムを真の復興に導く二つの方法

ソロウシュは、真のイスラム復興をめざすイスラミストである。
しかし、原理主義者がやるようにイスラムを政治的に利用して外観上イスラムの復興なしとげることがイスラム復興でないと考える。
ソロウシュによると真のイスラム復興には次の二つの道がある。
ネガティブな復興とポジティブな復興である。
「ネガティブな復興主義は、外部要素を宗教の実際の理解から浄化することである。
そしておろそかにされた分野をより正当に取り扱ってゆくことである。
たとえばアル・ガッザーリーである。
それに対してポジティブな復興主義は、聖典の理解を規定するその時代の宗教外の要素にいっそう関心を向けることである。
この方向の著名な代表者はイクバールである。
彼は、イスラム文化にたいするギリシャ思想の優越性を批判されている。
両方とも同じ目的に奉仕する。
すなわち宗教のメッセージを活性化することである。」44

そして、ソロウシュは、現在のイスラム復興のためにはポジティブな立場を強調する。
「私は強調したい。われわれの時代の宗教の改革は、もし、思考の別の分野の継続的な新しい発展に注意を払わないならば、成功することはできない。」45
 なお、ソロウシュの言うネガティブな復興主義は、純粋に内面的な信仰に目覚めることであって、決して原理主義的な意味でなはい。

第6節 イスラムにおける民主主義、自由、人権

第1項 イスラム民主主義論

ソロウシュは、イスラムは民主主義と両立可能であるばかりでなく、「それらの連携は避けられない。イスラム社会では、民主主義のないイスラムは完全ではなく、イスラムのない民主主義も完全ではない。」と主張する。
そしてイスラム民主主義の基礎として次の二つをあげる。

第一は、真の信仰のためには、それが自由意志にもとづくものでなくてはならないことである。
そのためには自由が保障されていなければならない。
「真の信仰者であるために、人は自由でなければならない。
圧力や強制を加えられて信仰するのは真の信仰ではないだろう。
そしてこの自由は民主主義の基礎である。」
だから、イスラムは国家によって押しつけることはできない。
理想的なイスラム国家は、大多数の国民の信仰と意志によって形づくられるべきで、信者も非信者も含む多数によって選ばれたときのみ正当なものだと考える。

第二に聖典の解釈は変化するものであるから宗教的複数主義を必要としていることである。
「聖典の解釈は常に変化の状態にある。
だから、誰も決して固定した解釈を与えることはできない。
誰もが解釈する資格がある。あるものは他のものより学識があるけれども、だからといってその解釈も自動的により権威があるというものではない。」46

すなわちウラマーであろうと政府であろうと公式の解釈を押しつけることはできず、民主主義が保障されてこそ経典解釈がより発展し、宗教理解が進むということである。

第2項 宗教的民主主義国家

[宗教のイデオロギー化に反対]

経典自体は不変で神聖であるが、経典理解はあくまでも人間の認識であり変化するものである。
だから公式の解釈、国定の解釈はありえないのである。
したがってソロウシュは、宗教のイデオロギー化に反対する。

イスラムが包括的なマルクス主義に相当するような世界観をもちイデオロギー的性格をもっているということは一般的に指摘されていることであるが、ソロウシュは、宗教はイデオロギーではないと言う。
「宗教的イデオロギーの発想はそれを全体主義にする。
宗教の解釈は複数ありうるので宗教は公式の解釈者を必要としないのに、イデオロギーは、解釈の公式の階層を必要とするからである。」47 、
アリー・シャリアティは近代派の立場からイスラムの教義をイデオロギーと考えた。
彼は聖職者の存在を否定する立場だったが、ソロウシュは、シャリアティのように宗教をイデオロギーとしてみれば、結局、意に反して解釈のための公式の階層を必要とすることとなると批判する。

。 また、宗教がイデオロギーと等置されれば、宗教は本来、紛争を悪化させるために存在しているのではないにもかかわらず、武器として使われ、敵を生み、敵を求め、愛を強調するより憎しみを強調することになると主張した。

[宗教国家の二つの概念] 

イスラムの公式の解釈者はありえない故に、誰も先験的に統治の権利をもたない。
統治の根本原則は宗教的ではない合理的アプローチを求めているとソロウシュは主張する。
彼の宗教国家の統治のイメージは次のようなものである。

「・・・第一の意味においては、主に「統治」があって、それから「宗教」である。
ところが、第二の意味においては、主に宗教的実体があり、それから統治である。
彼は最初の概念を強調した。
「統治する」とは、安全、法と秩序、正義、福祉、雇用などの社会の基本的な事項を管理するすることをまず第一に真っ先に扱うことである。
科学、芸術、宗教のような二番目に必要な事柄が、市民自身の共同の参加によって成し遂げられるべきである。
すなわち、宗教的な統治は、宗教的社会から生ずるものであり、市民の必要性に奉仕するものである。」48

[統治と服装] 

したがって、女性の服装を政府が強制するようなことは、仮に宗教的な倫理に由来するとしても、本来、政府が押しつける事柄ではないことになる。
またソロウシュ自身、服装はイスラム信仰にとって非本質的な事柄だと考えている。
「公的な場所で女性の服装がすべて黒くなければならないということはイスラム(の教え)にはない。
私は以前、マレーシアで教えたことがあるが、ムスリムの女性は非常にカラフルな服装をしていた。
そして宗教指導者もそれに問題を感じていなかった。
イランで我々がもっているのは、一グループの悪い趣味である。」 49

[政治と宗教の分離の論点] 

政教分離についてソロウシュは次のように述べている。
「世俗的社会が、世俗的法律のもとで適切に機能しているように、宗教社会は当然、政府の宗教システムを必要とする。
それゆえ政教分離の論点は強制されるべきものではない。
もしこの分離が起こらざるをえないなら、当然それは起こるだろう。
宗教を熱烈にその心になお持っている社会に上から押しつけられることは解決ではない。
少なくともそのような押しつけは非民主的である。」
イスラムが聖教一致という体質をもった宗教であるためにこの点でソロウシュは歯切れが悪いようにも思える。
しかしイスラムを政教一致の宗教として大衆が信じている限りは、パーレビー・シャーが政教分離を権力的に強硬するような形で社会に押しつけることはまさしく非民主的であった。
ソロウシュのように大衆のもつ宗教観の改革からはじめることは理にかなったことである。
ソロウシュのめざす方向は事実上の政教分離であり「強力な国家(state)と法による統治(rule of law)を実現し、その結果として宗教は、いくつかの古い社会的機能に限定されるようになるべきだ」50 と考えている。

[ヴェラーヤテ・ファギー論] 

ヴェラーヤテ・ファギーは、現在のイラン国家の根幹であり、いわば戦前の日本の国体にあたる。
インタビューに答えて次のようにソロウシュは答えている。
「私にとって ヴェラーヤテ・ファギーの理論は、それを支持する人もあるし、批判する人もある(イスラム解釈の中の)ひとつの理論である。・・・
私は政権を担当している人に誰にも不服はない。
正当化の根拠づけは、権力をにぎる以前にはやってこない。
それはその後でくる。・・・今日は、我々がどのように統治されるかが、誰が統治するかよりも重要である。」51

ここには、ヴェラーヤテ・ファギーも人間の解釈で生まれた誤謬を含んだ一つの理論であり、必ず変化する日が来るのでそれを待とうという姿勢が見られる。
政治家ではないソロウシュは、今の聖職者政権を倒そうとは言わない。
しかし、ソロウシュの議論は、聖職者たちには、その存立基盤を脅かすもの映る。
最高指導者のハメネイもソロウシュ批判をせざるをえなかった。
ヴェラーヤテ・ファギー論に必ず終わりが来ると信じるソロウシュの議論を再確認しておこう。

経典は、不変で聖なるものであるが、啓示の解釈・理解は、人間の属するものであり、自然と社会に対する人間の知識や理解の深まりの中で変化してゆくものである。
これまでの宗教の歴史は正誤を含んだ解釈と再解釈の歴史であった。
神の啓示は絶対であるが、過ちを含む人間の解釈は限界のあるものである。
ホメイニーのヴェラーヤテ・ファギー論も限界をもった人間の理論の一つにすぎない。
したがってホメイニーの解釈を信じる人が宗教共同体にその論を押しつけることはできない。
宗教的複数主義が尊重されるべきで、また聖職者という特別の階級が自分たちの解釈が正しい神の法であると国家権力を通じて社会に押しつけることもできない。
特別の階級が解釈の独占権を持っていないからである。

「ライセンス(解釈権)の拡大は支配階級としての ウラマーの考えと矛盾しませんか?はい。
啓示された聖典を解釈することができる人は誰でも 学者alim である。
我々はウラマー が聖典を解釈するべきだと言うべきではない。
むしろ、誰が聖典を解釈するとしても、その能力がある人は学者である。」52

以上が、ソロウシュによるヴェラーヤテ・ファギー論の論駁である。

さらに誰も特定の宗教解釈を押しつけることはできないという主張にとどまらず、ソロウシュは、イスラムにおける聖職者の存在自体を否定する。

「もうひとつがイスラムには ウラマーの公式の階級がないということである。
牧師 clergyはウラマーと同義語ではない。
ウラマーの定義はそれより広い。私が説明したように、啓示を解釈することができる人々をすべて含んでいる。」53

「・・・しかしながら、神とその預言者の名前で自分たちを崇拝させるように導く集団が現れる。
彼らは、神とその創造物の間の覆いとなってしまった。
その集団が、神と預言者の名前ですべての権限を主張するとき、彼らは自由の剥奪者となる。」54
このようなレベルの聖職者否定は、アリー・シャリアティの言葉にも見られるが、ソロウシュの議論は認識論に支えられているから説得力のあるものになっている。

そして聖職者は、自分の職分を狭く限定すべきであると次のようにソロウシュは述べている。
「理想的なイスラム民主主義では、聖職者はアプリオリに統治の権利をもっているのではない。
平等権の保障された法律の下で選出される人によって国家が運営されるべきである。・・・
宗教指導者は、伝統的に国家(たいていのスンニ派)あるいは人民( シーア派)から金銭的援助を受け取ってきた。
この場合、聖職者は、(純粋にコーランと信仰に基づくよりも)国家の見解あるいは人民の見解にとらわれてしまいがちである。
聖職者はそこから「自由」になるべきである。
宗教的天職は、ただ、宗教への真正の愛のためであり、そのために仕事をする人々のためのものである。
誰も宗教の基礎のうえに政治権力を主張したり、社会的地位を得たり、生計を保証されるべきではない。
聖職者も・・・学問、教授等々の仕事を通して他に依存しない収入を得るべきである。
このような独立性のみが、イスラムが折衷物となることを防ぐことができる。」55 、

[人権論]

(西洋と人権) 

ソロウシュは、人権は、西洋でなされたもっとも貴重な発見のひとつであると考えている。
人権の発見者たちは、西洋の思想家であるが、政治家ではなく、西洋の権力者が狡猾に偽善的に人権概念を使ったからといって人権の重要性を否定してはならないと言う。

「人権は多くのムスリムと非ムスリムの思想家の心に占める興味深いトピックの一つである。・・・
人権の思想は、不当な政治的な目的を遂行するために強国が悪意から発明したものではない。
もちろん強国は、彼らの敵または仮想敵に圧力をかけるために人権の論点を濫用しなかったとは言えない。
けれども、歴史的事実として、それは、最初、人間についての新しい理解(すわなち人間は基本的な人間としての権利を持つという理解)をもって登場した西洋のヒューマニスティックな哲学者が、利他主義の考えから作ったものだ。」56

人権の論点は近代文明の決定的なかなめ石となっており、ムスリムの思想家も人権を所有する人間の観念について体系的理論的に考察する必要があると考える。
そして思考体系の深い層に探りをいれて、人権概念とイスラムの調和を可能にすべきだと説く。
「ムスリム世界では、多くの人が、人権の思想とフェク=イスラム法学の諸前提が一致しないことを覆い隠そうとしてきた。
けれど、おのおのの思考体系の諸前提のより深い層に探りをいれ、その深い層でのレベルで調和を確立することなしに、両者の調和を打ち立てることは不可能なことである。」57

(文化相対主義と基本的人権)

ソロウシュも、強国が「基本的人権」を口実に他国に対して自らの文化を事実上押しつけることはには反対する。
「それ自身ポストモダニズムの産物である文化的相対主義の立場から『いかなる社会も自分の権利と価値をもっている。
そしていかなる文化もその価値を他の社会に押しつける権利を持たない』という議論がある。
これは真実である。」

しかし、人権は、特定な文化に属するものではなく、ある普遍な側面を持っていることも指摘されるべきで、人権抑圧はいかなる文化をもつ社会であれ、肯定されるべきものではないと考える。
「人権の本質は、人間が、人間であるがゆえに、いかなる理由からも、そしていかなる権力によっても奪われることのできない基本的な権利を持っているということである。
誰も特定の信念を支持しているからいって他の人たちに対してなんかの権利あるいは 特権を得ることはできない。」58

(人権論は、超宗教的な問題である)

イスラムの立場から人権をどう考えるべきか。
ソロウシュは、神の啓示、宗教から説明すべき問題ではなく、人間の側の認識の発展の問題であり、真の信仰が成立するための前提の問題であるとしている。
「・・・もっとも重要なことは、人権が超宗教的思想であるということである。
それはどちらかというと自由意志の思想である。
我々が我々自身の主人公であるか、それとも、ある決まったふうに行動するようにあらかじめて決定されているかどうかという問題である。
これはあなたが教義を通して答えることができる問題ではない。・・・
人権の思想は、宗教の外にあるものである。
なぜなら、それは、信念を前もって示すからである。
特定な宗教に従うためには、その選択を行使する自由があなたに開かれていなければならない。」59

このようにソロウシュは、人権は宗教の教典からは引き出せない思想であり、むしろ聖典を理解する前提条件として用いられるべきで、理性で推論すべき問題だと考えている。
私見 であるが、ヨーロッパにおいてもキリスト教の聖典自体に人権概念があるわけではなく、世俗の信者思想家が、当時の時代背景のもとで聖典を人間中心に解釈する中で天賦人権論を発達させたと考えるので、ソロウシュのこのスタンスは正しいと考える。
イスラムにおける不変の聖なるものを狭く認識論的に位置づけたソロウシュであるがゆえにこのような把握が可能になっていると考える。

[自由論] 

ソロウシュは、自由の必要性について次のように考えている。
まず、第一に、真のイスラム信仰は、押しつけでなく自由意志で選択できる条件があってこそ成立する。
真の信仰のために民主主義の前提である自由が不可欠なのである。

そして、宗教解釈が、正誤を含んで絶えず変化の過程にあり、本来複数性をもつが故に特定の解釈を押しつけられない自由が必要であった。

さらに表現の自由は、政治の上でも必要不可欠のものである点をソロウシュは次のように説明している。
「社会の中にある思想、考え方も、本来、多様性と複数性を持つものである。
したがって意見表明の自由は、民主主義の制度として必要なばかりでなく、統治者と被統治者が、社会の中にある多様な意見の開かれた表明を通じて互いの理解を得るような文化における必要な構成要素である。」60

そしてソロウシュによれば、「自由とは、なんらかのタイプの富、すなわち精神的、文化的、あるいは物質的なものさえ含めて、富の蓄積の当然の結果である。
そして自由はこの豊かさであり、豊かさは自由への道を切り開く方向にそれ自身の表現を求めるのである。」61

しかしながら、イランは2500年の専制政治の歴史をもち、このような自由を実現してこなかった。
ソロウシュは、自由には、「内的自由と外的自由」があり、イラン人は外的自由のためには闘ってこなかったという。
「自由には二つある。内的自由と外的自由である。
内的な精神的自由については歴史を通じてに関わってきた。
たとえばモラビー(MOLAVI = RUMI)のような思想家詩人がそうである。
しかし彼は外的な政治的自由については論じなかった。
なぜなら、外的な闘争に携わることは、内的精神的自由のための闘いをネグレクトすることになると考えたからである。・・・
東洋と西洋の思考の違いがここにある。
われわれは 外的自由をネグレクトし、現在に至っている。」62

ソロウシュはルーミーを高く評価しているように決して内的自由を低くみるものではないが、彼の論理では真の内面的な信仰のためにも外的自由のための闘いは重要だということになる。

イランの過去の革命運動についても自由の点から反省する。
すなわち、イランにおける過去3回の大きな転覆(立憲革命、石油国有化運動、1979年革命)において、いつも、何か(独裁、外国勢力)からの解放を実現することを求めて闘ってきたが、解放の後については考えなかったことである。

「いつもわれわれの頭上に独裁があった。
彼らを追い払うことに集中すること以外選択の余地がなかった。
自由のための闘いは二つの段階をもつ。最初は何かからの解放。
そして第二は、解放後に何をするかを知ることである。」63

第7節イスラム社会発展の障害の分析

第1項近代社会を構成する要素の不均衡な発展 近代社会にふさわしい位置に宗教を見いだすこと。

ソロウシュにとって、発展とは、経済、家族、道徳、宗教を含む近代社会のすべての変化する部分の均衡状態を作り出す連続した過程である。
社会科学者のうちのあるものは、近代とは世俗化の時代の到来であり、宗教には役割と場が残らないと考えたが、実際には宗教は近代生活から消えなかったし、その役割を果たし続けた。
宗教が新しく解釈されて、近代社会にふさわしく位置づけられて、社会全体の均衡が作り出されることがソロウシュにとっての発展である。

しかし、ソロウシュは、宗教が現在のイラン社会の中で不釣り合いに大きな位置を占め、それにふさわしい位置に落ちついていないと考える。
「イラン社会は、過去の均衡を失い、全体として社会を形成しているすべての構成要素の修正と改革による新しい均衡が出現しない社会である。
その結果、宗教は、近代的な社会を定義するカテゴリーの中にふさわしい位置を与えられるのを待っている。」64  

第2項 宗教の理解の二つ輪郭

[最大限の宗教と最小限の宗教]

そして、近代社会に位置づけられるにふさわしい宗教のあり方についてソロウシュは、宗教理解の二つのカテゴリー、すなわち最大限の宗教と最小限の宗教を示して説明する。
「ひとつは、宗教を、あの世での幸福と人間がこの世で出会うであろう多くの問題を解決にする最大限の教義としてとらえる。
もうひとつは、宗教を信念と経典の最小限の集合ととらえ、人間に経験させるには高い危険性があり、通常の人間の届く範囲を超えている問題のみの解決を目的とする。」65

つまり最小限の宗教理解とは、人間の力が届く範囲のことは宗教の範囲から除外することである。
宗教の最大限の理解は、経済的社会的発展に導かず、最小限の観念こそ、宗教をそれにふさわしい場におくとソロウシュは考える。
それは、社会経済発展のための場をまったく開放しておくことになるからである。

[大胆な更新を必要とする一般的な神の理解]

このような立場から、ソロウシュは、最大限の領域での宗教理解の改革の必要を述べている。
「ソロウシュは神とイスラムの理解を三つのタイプにカテゴライズした。
一つ目は、フェク(法)である。
これは、神を法律を作り、従わないものを罰し、従うものに報いる創造主とみなすものである。
神と宗教のこの理解は、大胆な改革・更新を必要としている。
もし改革しないなら、それは腐朽し、人々にとってその意味を失った習慣になってしまうだろう。
これはもっとも一般的な神の理解である。」

[最小限理解のためにルーミーの宗教理解を広めるソロウシュ]

神とイスラム(宗教)理解の後の二つのカテゴリーについては次のように言う。
「二つ目は、カラミー (言葉)で、これは神がいかに完全にこの世界を創造したかの分析的理解である。
これは思想家、哲学者のイスラムであるが、預言者はこのような理解を主張したわけではない。」

三つ目は、ファルディー(個人)で、これは神の理解への個人的な道である。
それは個人的体験を通じて宗教を認識する。
これは、神を愛するものの方法であり、スーフィーの神体験である。」として、ソロウシュは、ルーミー(Jalaluddin Rumi)について高く評価する。
テレビ番組や講演でもルーミーについて数多く語り、ルーミーについての著作も多い。
これは、イランの著名な歴史上の人物をあげることで民衆に宗教の最小限理解を思い起こさせようという意図からであるものと思われる。66

[科学に低い地位を与えたスーフィーの伝統]

しかしながら、ソロウシュは、イランにおけるスーフィーの伝統について無批判なわけでなはい。
スーフィーの倫理の影響が、科学に低い位置を与え、経済的発展を遅らせていることを指摘する。
それは次のような内容である。
イラン社会の道徳性はギリシャとイスラムに起源を持っている。
しかし、宗教的な道徳性は、主に神秘主義者(スーフィー)の手ではぐくまれて、毎日の生活の上に大きく影響するようになった。
スーフィの倫理は、世俗=現世での生活よりも死後の世界での幸せを期待させた。
そして科学を死後の世界の幸福の達成にはなんの効果もないものと位置づけた。
「科学に対してわれわれの祖先が与えた低い地位は、わが国の発展を遅らせる障害のひとつであった。
科学について、彼らはたいてい宗教的な科学を理解した。
科学者の社会の地位はかなりの部分神学者と宗教的な学者のそれより低かった。」 67

このようにこの世俗世界の科学は死後の生活の幸福の達成に効果がないとして科学の位置を低く見る雰囲気が、社会の発展を妨げる一要素だったと言うのである。

第8節 宗教と現代 

第1項 信者と非信者を区別するもの 

啓示は不変で聖なるものであるが、啓示の解釈は人間の理性と知識の側にあり、不断に変化の過程にあるものであるとする認識論的な区別は、信者と非信者を分ける区分軸を近代社会にふさわしいものに移す。
ソロウシュは言う。
「この認識論的見地からみると、信仰とは、現世と来世での生活のための一般的な導きをうるため神の言葉をまじめに受けとめて絶えず解釈してゆくことである。
これが信者と非信者を区別するものである。
信念はいつも個人的で私的である。それは多かれ少なかれ確実であり得る。
しかし知識は共同で、公共で、そして誤りやすいもの以外ではありえない。」68

ソロウシュによれば、宗教に限らず、一般的な信念や確信も、人間の理性によって獲得する知識の分野から区別されるべき主観的心理学的問題だということになる。
どのような科学的知識も共同的性格をもち、変化してゆく過程にあるものだからである。
信仰、思想を異にする人間が、個々人の信念や確信を互いに尊重し、共同的で公共的な性格をもつ自然や社会についての研究にともに協力してゆく道がここに示されている。

第2項世俗主義と宗教は対立関係にはない。

一般的には世俗主義と宗教は対立的に見られている。
ホメイニーは西洋文明への屈服として世俗化をホメイニーはきびしく非難した。
しかし、ソロウシュは、西洋のケースとして近代化が世俗的な形をとって進んだにすぎず、その西洋の世俗的な制度のもとでも、宗教は、近代社会にふさわしい位置におさまることで、その役割と活力を維持し続けたと考える。
したがって仮に社会制度の世俗化が進んだとしても、信仰としてのイスラムは、ホメイニーの言うように「絶滅の危機」に瀕してはおらず、イスラムの未来をなんら悲観することはないのである。

そもそもソロウシュは、世俗主義は、敵あるいは宗教のライバルではなく、宗教の補完物であると言う。
「世俗主義は、科学的にものを見て、そして科学的に行動することを意味し、宗教に敵意をもっていない。
世俗主義はそれ以上でも以下でもない。」 69

第3項現代という時代の時代認識

さらにソロウシュは、人間の社会は宗教独裁を経験してきたが、西洋のルネッサンスに続く近代で、次第に理性の独裁に替わってゆき、そして現代、宗教と理性がともに謙虚になり、両者は、和解してゆく方向にあると言う。

「古代世界は、宗教という単一の情報の源にもとづいていた。
近代的な世界は複数の源を持っている。
理性、経験、科学、論理である。
モダニズムは宗教の独裁から人類を解放する成功した試みであった。
ポストモダニズムは、モダニズムすなわち理性の独裁に対する反乱である。
ポストモダニズムの時代には、理性はもっと謙虚であり、そして宗教がいっそう受容的になってきた。
私にとって、この二つの和解は、まだ潜在的ではあるが、一層あきらかなものとなってきた。」 70 ,

このような時代認識が、イスラムの未来に確信をもちながら世俗主義や他文明に対して包容力あるアプローチを可能にしている。

第9節ソロウシュ批判

第1項伝統派の側からの神学的批判

[知識の相対化など]

ボロウジェルドの論文の中にソロウシュに対する批判として次のようなものが紹介してある。
そのうち「イスラム信仰の法を堀り崩すものである」「すべての科学が形成過程にあり、相互に関連しているという説は『知識の相対化』と懐疑主義に導くものである」「暗黙のうちに神の言葉よりも人間の科学を優遇している」の批判については、以上に見てきたソロウシュの議論に中に答えが見つかる。

[イスラム政府のイデオロギー的基礎を堀り崩すもの]

「イスラム政府のイデオロギー的基礎を攻撃しているものであるからマルクスとフロイトの思想よりも有害な恐るべきものである」71 という批判については、現在の優越した地位を守ろうとする立場の聖職者にとっては事態の真実を反映した批判である。
ソロウシュのような宗教理解が広がることは、聖職者が、現在の地位を失い、一般のより資質をもったものに権限をゆずることを次第に強いられてゆくことを意味しているからである。
実際、ソロウシュは未来のイランの知識界をリードするであろう大学生の中で大きな支持を集めつつあり、決して聖職者の杞憂ではない。

[西洋近代主義はその終末の段階にあるゆえ時代錯誤だ]

ソロウシュに対する深いレベルからの批判もある。
彼の論敵の非聖職者哲学者ダバリは「近代は西洋で植えられて、すべてに広がった木であり、腐っており、現在その終末を迎えている」と考えた。
したがって、ソロウシュらによるイスラム法学シャリーアの近代化は失敗するという。
「西洋は彼らの信仰を近代化しなかった。
むしろ、信仰を捨て去った。
近代科学の方法のイスラム法学フェクへの適用は、知的混乱をもたらし、フェクからその内奥の価値を奪うものである。
もしそれが科学的な方法に従わなければならないなら、宗教の必要は何であるか。」72
このように西洋近代は終末を迎えており、ポストモダンは、近代の科学主義が批判される時代となると見るダバリにとってソロウシュの方向は時代錯誤と映る。

ボロウジェルドは、ソロウシュの議論を全体として支持しながらも、次のように述べている。
「もっと重要なことは、この議論が、言語学的哲学、ポスト構造主義、ポスト植民地主義、文化相対主義、ヨーロッパ中心主義、イデオロギーの終焉についての文献の影響が、実証主義のパラダイムだけでなく、啓蒙の企画まさにそれ自体を問題にしている時になされたことである。
近代の行き詰まりを他の人が指摘しているその時に、科学的業績についての祝福と一体感が持ち上げられている。
この観点から、西洋思想の存在論的仮説によるダバリの批判は、容易に却下されるべきではない。」

世界全体を視野に入れる時、この指摘を無視することはできず、われわれが深く検討してゆくべき課題であるが、このことによってソロウシュの思索の意義はいささかも減ずるものではない。

[科学と宗教は異なる性格のものである]

さらに、ボロウジェルドは、信仰と確信を宗教的知識からは区別した認識論的区別をソロウシュの重要な業績として大きく評価しつつ、ソロウシュの議論は、伝統主義者の教条的批判になおも若干の反対の余地を与えている点を指摘している。
それは、宗教と科学の性格の違いである。
「宗教は世界を先験的に認識する。・・科学的観点は、世界を後天的に認識する。・・・
宗教的な世界観は、特定の聖典にたち帰ることを通して知識と確信に到着しようと試みるのに対して、科学は、帰納と観察による手順を通して事実を識別しようと努力する。」73
すなわち、先験的に認識すべき対象(宗教)を後天的認識方法である科学の方法で認識することはできないということである。

第2項宗教独裁確立に反対して闘った側からの批判

[左からの批判]

ソロウシュは、世界各国に居住するイラン人に講演をしているが、ワシントン大学での講演会では、イラン政府支持派の人間がイスラム共和国に謝れと抗議した他に、イスラム共和国に加担したことを抗議したイラン人もいた。
ニューヨーク大学での講演では、コミュニスト組織のメンバーと思われる人が、シャツをめくってイスラム共和国の拷問でのやけどの痕を見せながら文化革命協会の初期のイスラム共和国とのソロウシュのかかわりについて抗議した。74

[原理主義者の人権抑圧体制に加担した倫理的責任]

ソロウシュは、人権抑圧の宗教全体主義の勝利に貢献した知識人であり、イスラム革命初期には文化革命協会メンバーという要職にあった。
まさしく当時、ヴェラーヤテ・ファギー確立のために妨げとなる勢力は、徹底的に排除され、迫害を受けていた。
ソロウシュは90年代になって人権について主張しはじめたが、人権侵害のイスラム体制加担の倫理的責任を避けることはできないという批判である。

[ソロウシュの弁明]

これに対してソロウシュは、次のように弁明している。
「いつの日か、何が起きたかを誰もが正確に知ることができるように革命後の大学の歴史が編集されなければならない。
大学がすでに閉鎖された時点の後に文化革命協会は設立された。
私たちは短期間で大学が再開されるように努力した。
そして文化革命協会は、二年も経たないうちに大学を再開することに成功した。・・・
大学からの教員の追放は、全く異なった問題である。
それは協会とは関連がない。
国のすべての制度を含むより広範囲にわたる計画の一部である。
文化革命協会の責任と権限を超えたところにあった。・・・
文化革命の過程で、人間科学の存在自体が、危機的状況だった。
私はもっとも頑固に人間科学の学部の存続を主張した人間である。・・
いずれにしても、私は文化革命協会に4年以上はいなかった。
協会が私の受け入れることのできない方向に向かっていることに気づいて、辞退した。」 75

[しかし、革命に協力した中心的知識人だったからこそ]

ホメイニー体制の確立を、パーレビー・シャーの独裁にかわる聖職者の独裁の成立と位置づけ、革命初期の段階から民主主義の確立を掲げて聖職者体制と激突していったモジャッヘデーンなどの立場からみると、あるいは抑圧されていった左翼諸派からみると、現在のイスラム体制への加担は許すことのできないことである。
しかしながら、ソロウシュがホメイニー体制に協力した中心的な知識人の一人であったからこそ、現在の彼の言説は、モジャッヘデーンの武力闘争以上に権力にとって脅威となっていると私は考える。

第10節  ソロウシュの思想はイランの伝統の中に根をもちうるか。

第1項ソロウシュの論を補強する伝統

一般的に社会変革をイスラム教という宗教を使ってなしとげようとするものが、世俗派に対して優位にたつのは大衆のイスラム信仰の層の厚さである。
したがって、イランのイスラムの伝統の中にソロウシュの論点「宗教の観念の縮小による宗教の復活」「宗教的複数主義」「科学の尊重」などを補強するものがあるかどうかは、彼の思想がより大きな影響力をもつかどうかにかかわる。
ソロウシュの論を補強すると思われる歴史と伝統のいくつかをあげておこう

第2項アル・ガッザーリーの認識論

まず、彼の認識論はイランの歴史の中で特異なものではない。
11世紀のアル・ガッザーリー(al Ghazzali)について井筒俊彦が次のように言及している。
「ガザリーは悟性の権威と信仰の権威とを比較して、どちらが上であるとか大であるとかは言わない。
ただ、この二つは本質的に違ったものであると言う。
両者を混同することは絶対に許されない。
知の世界は飽くまで知の世界であり、信の世界は何処までも信の世界である。・・・
ガザリーの目に映った法学者とはイスラームにおけるパリサイ主義にほかならなかったのである。
彼らの努力は宗教の権威を人間生活の隅々まで浸徹させ、一般大衆に対する宗教の権勢をいやが上にも強化することには成功したが、同時に宗教は社会的に固定し、個人の精神裡に育まれるみずみずしい信仰は全く影をひそめてしまった。
ガザーリーの史的意義は、この固形化し枯涸した信仰を再び個人の心の温床に移すことによって、その生命を甦らせようしたところに認めなけれはならないのである。」76

第3項シーア派の宗教的複数主義、ホメイニー理論も少数派だった

そしてシーア派イスラムの聖職者の伝統の中にソロウシュの言う宗教的複数主義の伝統があった。
イスラム法学者は、複数の学派に分かれて発展してきたのである。
決して宗教的複数主義は民主主義を持ち込むための方便ではなかった。
さらにイラン革命の時期に、ホメイニーのヴェラーヤテ・ファギー論は複数ある宗教学派の中で少数派であった。
当時のもっとも有力な聖職者のシャリーアト・マダリやタレカーニーなどは、ホメイニーの解釈に反対であった。
ホメイニーが国民の圧倒的な政治的支持をバックに権力闘争に勝利したにすぎず、宗教界の議論の中に通説となったわけではなかった。
当然、それらの学派の複数主義の伝統は命脈を保っていると考えられる。

第4項 幅広い知的伝統をもったイスラム文明

そしてイスラムはかって輝かしい知的伝統をもった文明を築いていた。
ソロウシュは、情報省の役人に連行された際、宗教の名で脅迫している集団こそ逮捕せよと主張する中で「イマーム・アリーは、遅れたアラブ社会(ジャーヒリーヤ=ムハンマド出現前の無道時代)を無知が賞賛され、知識あるものが沈黙していると描いた。
私たちの社会がそのようになることを許すな。無知を賞賛するようなことをさせるな。・・・」77 と述べている。

実際、彼が「ポジティブなイスラム復興の方法」とよんだように、イスラム文化はギリシャ・ヘレニズムの文化遺産を吸収することによって大きく発展したのであった。

したがって、これらのことからソロウシュの学説がイランの知識界に受け入れられてゆく歴史的背景はあると考える。

第5項 困難 ソロウシュの考えの実現を妨げる伝統の大きさ

しかし、ソロウシュの取り組んでいる課題はあまりに大きい。
ルターが結果的に成し遂げたような宗教改革、聖職者を除去して、神と個人の内面を直接つなぐような宗教改革を成し遂げようとしている。

政治の道を捨てて、修行の道に入り悟りを得たゴウタマ・シッダルタやローマと結んだ当時のユダヤ共同体の規範(律法主義)と衝突したイエス・キリストと比べ、イスラム教の預言者は、信者の共同体を統治した政治的リーダーでもあった。
ここにイスラムにおける聖と俗の一致、あるいは政教一致の源があった。

したがって、政治的闘争に宗教を利用できる宗教的風土もまた存在している。
ソロウシュの主張する宗教的民主国家の実現の途上で、また実現した後でも、政教一致的な大衆の宗教観を利用する原理主義的なものとの長期の闘いを必要とする。

第4章 まとめ

第1項ソロウシュの二面性 

イスラム近代派のイデオローグ(ソロウシュ自身が使っているイデオロギーの意味より広い意味で)としてソロウシュは二面性をもっている。
二つの軸からソロウシュを見ることができる。

第2項イスラムを危機から救う信仰の擁護者

第一の軸は、イスラム信仰の擁護者である。
ソロウシュは、かつてパーレビー国王によるイスラムへの攻撃に対して立ち上がり、革命の中で影響を広げる世俗左翼に対して青年層をイスラム信仰の枠内に留める役割を果たした。
今また、聖職者独裁を放置するならば、大統領選挙に示された「自由」への願いは非合法の左翼諸勢力の支持に向かうものも出てくる可能性を示している。
聖職者政府は彼らの意に反して、宗教への失望とイスラムの危機を生まざるをえない。
このようにして生じた新たな信仰の危機の中で、ソロウシュの議論はイスラムの枠内に青年層を留める上で大きな役割を果たすと思われる。

ソロウシュの支持者が次のように言っている。
「ソロウシュの著作から分かるように、彼は、宗教が三つの硬直した形すなわち教条的タイプ、法学的タイプ、イデオロギー的タイプから解放されないならば、宗教あるいは信仰それ自体も死んでしまうだろうと危惧している。
ソロウシュの考えが、イランの人々とイランの知識人に受け入れられなかったなら、彼らは世俗的近代主義を選びとるだろう。
世俗的近代主義は、ますますよく知られるようになり、人々を惹き付けているから。」78
ソロウシュは信仰を守ろうとするムスリムなのである。

第3項 イスラム近代派の思想史を画するソロウシュの意義

第二の軸は、現代的な生産力と現代的な社会を願う近代派ということである。
宗教学校での生活しか知らない聖職者のホメイニーらと違いイギリスで研究生活を送り、外の世界を知っているソロウシュにとっては聖職者が特権をもつ社会は満足できない。
自分たちの社会を近代的に発展させようという願いをもった知識人は、イスラムの教えを現代にふさわしいものに変えようとしてきた。
古くはアフガーニーにはじまり、近くはアリー・シャリアティがその代表者である。
彼らは聖典とスンナを近代社会にふさわしいものに解釈しようとした。
彼らは、聖職者と連携して社会運動に大きく貢献した。

しかし、聖職者の政治的宗教的特権が民主主義前進にとって重大な障壁となっている現在の時点で、ソロウシュのアプローチは、これまでのイスラム近代派と全く異なるものとなった。
これまでは聖典を近代社会の課題にみあうように再解釈してみせた。
ソロウシュは、伝統派も近代派も当然の前提としていたもの、すなわちイスラムの宗教としての領域の大きさ(法や政治まで含む包括性)自体の縮小を行ったのである。
彼の仕事は宗教を現在にふさわしい大きさに位置づけることであった。
ここにイスラム近代派の思想史を画するソロウシュの意義があると考える。

近代的な教養をもったムスリムであれば、ソロウシュの指し示す方向に進まざるをえない。
ソロウシュの支持者は言う。
「私も、大学閉鎖へのソロウシュの貢献は、間違っていると思う。
しかし、それがどうしたというんだ。
われわれは別の完璧な人物を探すのか。
われわれがソロウシュに信頼のすべてを預けて彼が別のミスをしないかと案ずるのか。
私は、彼のアプローチはイランにおける宗教の役割を変革するもっともよい企てだと思う。信仰において宗教の役割を変えることは、われわれの抱えているもっとも大きな問題の一つだ。
われわれは一夜にして宗教を殺すことではできない。
(そしてまたわれわれはそうは望んでいない。)
われわれは、それが実際に属するところ、すなわち政治と法的制度の外に位置づける必要がある。
私は、ソロウシュのアプローチが、この目標をもっとも効果的に現実的に成し遂げるものであることを見いだす。」79

1997年7月27日脱稿



1イラン大統領選挙 投票結果 Iran Times,1997,5,30(略)
 過去の投票数  Ibid.(略)
2新大統領ハーテミ師(Hojatoleslam Seyyed Mohammad Khatemi) の略歴
1943年、アヤトラ・ルーホッラー・ハーテミ師の息子としてヤズド地方ののアルダカンに生まれる。伝統的な宗教教育を受けて、コムの宗教学校を卒業する。1965年に、22才で、イスファハーンにうつり、宗教学校で神学の研究を修めた。同時にイスファハーン大学に通い、哲学の学士号をとる。さらにテヘラン大学で修士号をとった。聖職者としてこのような学歴をもつものは例外的である。
1960年代から70年代にはシャーの独裁政治を批判した論文を書いた。それがアヤトラ・モハマッド・ベヘシュティの目にとまり、革命の中心人物の一人になった。1978年にベヘシュティは、国外追放になっているイラン人を動員するために彼をハンブルグのモスクに派遣した。一年後、革命勝利の直前にイランに召還された。
革命後ハーテミ師は、イランの最有力紙ケイハーン紙の監督官となり、1980年に第一回国会の議員に選出された。1982年にムサビ(Hossain Musavi)首相のもとで、イスラム文化指導省の大臣として入閣する。次のラフサンジャーニー大統領のもとでも1989年まで同じ地位にとどまった。
文化情報省の大臣として、検閲の責任者であったが、イラン映画産業の多くの台本を許可した。また彼は相対的に小説やメディアの検閲を緩くした。また単身女性が公的な場にでることの禁止をやめた。ところが1991年ごろ、反動がはじまった。次第に開放的になってゆくことがヘズボッラー(神の党)の感情を害した。急進派の議員も保守派の議員も彼を攻撃した。新聞も「リベラリズム」に染まっていると彼を攻撃した。批判の内容は、彼が「退廃的な」映画、音楽、出版を許していることである。ハーテミ師は、政治家は批判を聞いたり、討論をすべきであって、自分たちに賛成しない思想を禁止するように政府に求めるべきではないと答えた。1992年5月にハーテミ師は辞表をラフサンジャーニー大統領に提出した。ハーテミ師は公開した辞表の手紙の中で、知識人、芸術家、信仰厚い革命の友人を脅かす「停滞」と「衰退」の空気を訴えていた。数日後、最高指導者アリー・ハメネイ師からイランを侵害する「文化的退廃」を許す役人として暗に攻撃され、その後、ハーテミ師は公的な場から消えた。しかし、国立の図書館の長の地位は維持していた。
英語とドイツ語ができ、最近は、19世紀のアメリカ民主主義の古典アレクッス・トクビルの「アメリカにおける民主主義」を読んだという。2冊の著書をもち、3冊目の「ムスリムの政治思想」が出版予定。現在、54才。Ibid.

3イランの議会勢力
ナーテクヌーリー師の「闘う聖職者協会」はホメイニー路線を踏襲し、現在の最高指導者のハメネイ師につながるグループで、保守派と呼ばれる。革命後このグループがイラン国会で最大勢力を占めてきた。ラフサンジャーニー大統領の支持母体が「建設の奉仕者」は、「闘う聖職者協会」から分かれ、自由主義経済や対西側関係改善を掲げ、現実派と呼ばれている。ハーテミ師がその指導者である「闘う聖職者たち」は、経済的には統制経済、対欧米強硬姿勢を唱え急進派と呼ばれ、今回の大統領に当選した。毎日新聞97年3月2日、富田健次『アーヤトッラーたちのイラン イスラーム統治体制の矛盾と展開』第三書館、1993年300~304ページ
4Mohsen M.Milani,The Making of Iran's Islamic Revolution From Monarchy to Islamic Republic,Boulder and London:Westview Press,1988,p.26.
5松尾光喜「イラン革命における宗教と民族」『アジア・アフリカ研究』第328号、2~73ページ
6TIME,JUNE23,1997,VOL.149NO.25 
7CNN Interview with Dr Soroush,June 1997 - following the surprise election of Mohammad Khatami in presidential elections, http://www.seraj.org/cnn.htmCNN - 
8Dr Soroush's Interview with Seraj, http://www.seraj.org/interApr.htm
9the daily kayhan,December26,1995, http://www.iranian.com/Jan96/Opinion/SoroushFarsi.html 
10、 主としてA Biography of Dr Abdol Karim Soroush,First draft - July 1996,http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/biog.htm、そしてMuslim News - 31 May 1996, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm, そしてRobin Wright,Two Visions of Reformation,Islam and Liberal Democracy,Journal of Democracy - April 1996, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm
11、 ソロウシュの著作
Tazad Dialectiki (Dialectical Antagonism)
Nahad-e Na-Aram-e Jahan (The Restless Nature of the World)
Cheh Kasi Mitavanad Mobarezeh Konad? (Who can be an Activist?)
Ma Dar Cheh Jahani Zendegi Mikonim? (What World Do We live in?)
Roshanfekri va Dindari (Intellectualism and Religious Conviction)
Elm Chist, Falsafeh chist? (What is Science, What is Philosophy?)
Falsafe-ye Tarikh (The Philosophy of History)
Danesh va Arzesh( Knowledge and Value)
Idology Sheytani yaDogmatism Neghab-dar (Satanic Ideology - or Masked Dogmatism )
Binesh Dini (Religious Studies)
Tafarroj-e Son'a ( Lectures on Ethics and Human Sciences)
Qabz va Bast-e Teoric Shari'at - ya Nazariyeh-ye Takamol-e Marefat-e Dini
(Theoretical Expansion and Contraction of Religion - or TheTheory of Evolution of Religious Knowledge)
Owsaf-e Parsayan ( Attributes of the Pious )
The Story of the Lords of Wisdom (Ghesseh-ye Arbab-e Ma'refat)
Farbeh Tar Az Idology (Sturdier Than Ideology).
Hadees-e Bandegi va Delbordegi (The Tale of Love and Servitude)
Mathnavi Ma'navi (Rumi' s Mathnavi)
Publications of Dr Soroush in Persian, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/persian.htm
12、 News update on Dr Soroush Updated July 1997
,http://www.seraj.org/news.htm
13、 Mehrzad Boroujerd,"Three Philosophical Debates in Post-Revolutionary Iran",,Iranian Intellectuals and the West: The Tormented Triumph of Nativism, from Seraj Homepage,1997, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/borouj.htm
14、 Hossein Kamaly,A Research Program for Islamic Revivalism,February 1995, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/kamali.htm
15、 Mehrzad Boroujerd,Op.cit.
16、 Ibid
17.、Ibid.
18、Ibid. 
19、 Dr Soroush's Interview with Seraj,Op.cit.,
20, Hossein Kamaly,Op.cit.
21, Abdol Karim Soroush,"The expansion and contraction of religious knowledge"Lecture Delivered at McGill University, Institute of Islamic Studies, 13th of April ,1995, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/mcgill.htm
22、 Abdol Karim Soroush,"Op.cit.、
23、 Ibid.
24、 Ibid.
25、 Ibid.
26、 from Notes by Robin Wright on Lectures and Interviews Given by Abdul Karim Soroush, April-May 1995, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm
27、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
28、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
29、 Q-News International (British Muslim weekly), No 220-221, 14-27 June 1996, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm
30、 Q-News International (British Muslim weekly),Op.cit.
31、 Ibid.
32、 Hossein Kamaly,Op.cit.
33、 Mehrzad Boroujerd,Op.cit.
34、 Hossein Kamaly,Op.cit.
33、 Soroush speech in Oakland, California,http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/Oakland.html
34、 Hossein Kamaly,Op.cit.
35、 Soroush speech in Oakland, California,http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/Oakland.html
36、Mehrzad Boroujerd,Op.cit.、
37、 Dr Soroush's Interview with Seraj,Op.cit.
38、 Mehrzad Boroujerd,Op.cit.、
39、 Dr Soroush's Interview with Seraj,Op.cit.
40、 Ibid.
41、 Dr Soroush , Truth Islam vs. identity Islam, lecture delivered at McGill University,31July 1996, News update on Dr Soroush Updated July 1997 ,http://www.seraj.org/news.htm
42、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
43、 Mehrzad Boroujerd,Op.cit.
44、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
45、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
46, The Guardian, 1 February 1995 (quoted from The Los Angeles Times - January 1995) http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm、
47、 Muslim News,Op.cit. - 31 May 1996,
48、 Dr Soroush,Two concept of Religios State,lecture delivered at Quebec University,On 17 July 1996, Canada.Updated July 1997 ,http://www.seraj.org/news.htm
49、 Soroush speech in Oakland,Op.cit.
50、 Seyed Fazel Alyasan, Adapting religion for modern times ,http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/Adapting.html,
51、 Q-News International (British Muslim weekly),Op.cit.
52、 Ibid.
53, Ibid.
54、 Soroush speech in Oakland,Op.cit.
55、 Robin Wright,Op.cit.
56、 Dr Soroush's Interview with Seraj,Op.cit.
57、 Ibid.
58、  Dr Soroush,"Human rights and the Religious man",lecture at Toronto, 2 August 1996,http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/news.htm
59、 Q-News International (British Muslim weekly),Op.cit.
60、 Payman Arabshahi , Soroush in Seattle, http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/Seattle.html
61、 Payman Arabshahi,Op.cit.
62、 Ibid.
63、 Soroush speech in Oakland,Op.cit.
64、 Dr.Soroush , "Theological barriers of development",lecture at the School of African and Oriental Studies, London University, 18Sepember1996,http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/news.htm
65、 Ibid.
66、 Ali M. ,Soroush speech in Houston, alihttp://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/Houston.html
67,  Dr.Soroush,Op.cit.
68、 Abdol Karim Soroush,Op.cit.
69、 from Notes by Robin Wright,Op.cit.
70、 Ibid.
71、 Mehrzad Boroujerd,Op.cit.
72、 Ibid
73、 Ibid.,"なお、ボロウジェルドは、ソロウシュは実証主義の立場からダバリの歴史主義を批判しているが、彼の「歴史主義」の定義が、すべての人間の知識が時と場所に依存しておるということであるとするならば、ソロウシュ自身が歴史主義者とみなされうると批評していることを紹介しておく。
74、 Haleh Nazeri, "We need to use reason", http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/NewYork.html
75、 Dr Soroush's Interview with Seraj,Op.cit.
76、 井筒俊彦「イスラーム思想史」岩波書店、1975年、121~124ページ
77、 Kiyan journal - published in Tehran,October,1996, http://dspace.dial.pipex.com/town/parade/ac889/press.htm
78、 Seyed Fazel Alyasan,Op.cit.
79、 Babak Jahromi , He was wrong. But so what?, http://www.iranian.com/Feb97/Editor/Letters/SoWhat.html
インターネット・アドレスは、1997年6月~7月のもの





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