Free Prisoners of Conscience in Iran
(video inspired by god of star)



(Soroush thinks that true belief is base of respect of human right)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is human right in view of Soroush.
Soroush thinks that true belief is base of respect of human right.
When belief is forced, it is not true belief.
This point of view of Soroush is very important for true gods.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトのプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、ソロウシュの人権についての見方です。
ソロウシュは真の信仰は人権の尊重の上になりたつと考えます。
信仰が強制されるとき、それは真の信仰ではありません。
ソロウシュのこの観点は、真の神々にとって非常に重要です。




[人権論]

(西洋と人権) 

ソロウシュは、人権は、西洋でなされたもっとも貴重な発見のひとつであると考えている。
人権の発見者たちは、西洋の思想家であるが、政治家ではなく、西洋の権力者が狡猾に偽善的に人権概念を使ったからといって人権の重要性を否定してはならないと言う。

「人権は多くのムスリムと非ムスリムの思想家の心に占める興味深いトピックの一つである。・・・
人権の思想は、不当な政治的な目的を遂行するために強国が悪意から発明したものではない。
もちろん強国は、彼らの敵または仮想敵に圧力をかけるために人権の論点を濫用しなかったとは言えない。
けれども、歴史的事実として、それは、最初、人間についての新しい理解(すわなち人間は基本的な人間としての権利を持つという理解)をもって登場した西洋のヒューマニスティックな哲学者が、利他主義の考えから作ったものだ。」56

人権の論点は近代文明の決定的なかなめ石となっており、ムスリムの思想家も人権を所有する人間の観念について体系的理論的に考察する必要があると考える。
そして思考体系の深い層に探りをいれて、人権概念とイスラムの調和を可能にすべきだと説く。
「ムスリム世界では、多くの人が、人権の思想とフェク=イスラム法学の諸前提が一致しないことを覆い隠そうとしてきた。
けれど、おのおのの思考体系の諸前提のより深い層に探りをいれ、その深い層でのレベルで調和を確立することなしに、両者の調和を打ち立てることは不可能なことである。」57

(文化相対主義と基本的人権)

ソロウシュも、強国が「基本的人権」を口実に他国に対して自らの文化を事実上押しつけることはには反対する。
「それ自身ポストモダニズムの産物である文化的相対主義の立場から『いかなる社会も自分の権利と価値をもっている。
そしていかなる文化もその価値を他の社会に押しつける権利を持たない』という議論がある。
これは真実である。」

しかし、人権は、特定な文化に属するものではなく、ある普遍な側面を持っていることも指摘されるべきで、人権抑圧はいかなる文化をもつ社会であれ、肯定されるべきものではないと考える。
「人権の本質は、人間が、人間であるがゆえに、いかなる理由からも、そしていかなる権力によっても奪われることのできない基本的な権利を持っているということである。
誰も特定の信念を支持しているからいって他の人たちに対してなんかの権利あるいは 特権を得ることはできない。」58

(人権論は、超宗教的な問題である)

イスラムの立場から人権をどう考えるべきか。
ソロウシュは、神の啓示、宗教から説明すべき問題ではなく、人間の側の認識の発展の問題であり、真の信仰が成立するための前提の問題であるとしている。
「・・・もっとも重要なことは、人権が超宗教的思想であるということである。
それはどちらかというと自由意志の思想である。
我々が我々自身の主人公であるか、それとも、ある決まったふうに行動するようにあらかじめて決定されているかどうかという問題である。
これはあなたが教義を通して答えることができる問題ではない。・・・
人権の思想は、宗教の外にあるものである。
なぜなら、それは、信念を前もって示すからである。
特定な宗教に従うためには、その選択を行使する自由があなたに開かれていなければならない。」59

このようにソロウシュは、人権は宗教の教典からは引き出せない思想であり、むしろ聖典を理解する前提条件として用いられるべきで、理性で推論すべき問題だと考えている。
私見 であるが、ヨーロッパにおいてもキリスト教の聖典自体に人権概念があるわけではなく、世俗の信者思想家が、当時の時代背景のもとで聖典を人間中心に解釈する中で天賦人権論を発達させたと考えるので、ソロウシュのこのスタンスは正しいと考える。
イスラムにおける不変の聖なるものを狭く認識論的に位置づけたソロウシュであるがゆえにこのような把握が可能になっていると考える。

[自由論] 

ソロウシュは、自由の必要性について次のように考えている。
まず、第一に、真のイスラム信仰は、押しつけでなく自由意志で選択できる条件があってこそ成立する。
真の信仰のために民主主義の前提である自由が不可欠なのである。

そして、宗教解釈が、正誤を含んで絶えず変化の過程にあり、本来複数性をもつが故に特定の解釈を押しつけられない自由が必要であった。

さらに表現の自由は、政治の上でも必要不可欠のものである点をソロウシュは次のように説明している。
「社会の中にある思想、考え方も、本来、多様性と複数性を持つものである。
したがって意見表明の自由は、民主主義の制度として必要なばかりでなく、統治者と被統治者が、社会の中にある多様な意見の開かれた表明を通じて互いの理解を得るような文化における必要な構成要素である。」60

そしてソロウシュによれば、「自由とは、なんらかのタイプの富、すなわち精神的、文化的、あるいは物質的なものさえ含めて、富の蓄積の当然の結果である。
そして自由はこの豊かさであり、豊かさは自由への道を切り開く方向にそれ自身の表現を求めるのである。」61

しかしながら、イランは2500年の専制政治の歴史をもち、このような自由を実現してこなかった。
ソロウシュは、自由には、「内的自由と外的自由」があり、イラン人は外的自由のためには闘ってこなかったという。
「自由には二つある。内的自由と外的自由である。
内的な精神的自由については歴史を通じてに関わってきた。
たとえばモラビー(MOLAVI = RUMI)のような思想家詩人がそうである。
しかし彼は外的な政治的自由については論じなかった。
なぜなら、外的な闘争に携わることは、内的精神的自由のための闘いをネグレクトすることになると考えたからである。・・・
東洋と西洋の思考の違いがここにある。
われわれは 外的自由をネグレクトし、現在に至っている。」62

ソロウシュはルーミーを高く評価しているように決して内的自由を低くみるものではないが、彼の論理では真の内面的な信仰のためにも外的自由のための闘いは重要だということになる。

イランの過去の革命運動についても自由の点から反省する。
すなわち、イランにおける過去3回の大きな転覆(立憲革命、石油国有化運動、1979年革命)において、いつも、何か(独裁、外国勢力)からの解放を実現することを求めて闘ってきたが、解放の後については考えなかったことである。

「いつもわれわれの頭上に独裁があった。
彼らを追い払うことに集中すること以外選択の余地がなかった。
自由のための闘いは二つの段階をもつ。最初は何かからの解放。
そして第二は、解放後に何をするかを知ることである。」63

第7節イスラム社会発展の障害の分析

第1項近代社会を構成する要素の不均衡な発展 近代社会にふさわしい位置に宗教を見いだすこと。

ソロウシュにとって、発展とは、経済、家族、道徳、宗教を含む近代社会のすべての変化する部分の均衡状態を作り出す連続した過程である。
社会科学者のうちのあるものは、近代とは世俗化の時代の到来であり、宗教には役割と場が残らないと考えたが、実際には宗教は近代生活から消えなかったし、その役割を果たし続けた。
宗教が新しく解釈されて、近代社会にふさわしく位置づけられて、社会全体の均衡が作り出されることがソロウシュにとっての発展である。

しかし、ソロウシュは、宗教が現在のイラン社会の中で不釣り合いに大きな位置を占め、それにふさわしい位置に落ちついていないと考える。
「イラン社会は、過去の均衡を失い、全体として社会を形成しているすべての構成要素の修正と改革による新しい均衡が出現しない社会である。
その結果、宗教は、近代的な社会を定義するカテゴリーの中にふさわしい位置を与えられるのを待っている。」64  

第2項 宗教の理解の二つ輪郭

[最大限の宗教と最小限の宗教]

そして、近代社会に位置づけられるにふさわしい宗教のあり方についてソロウシュは、宗教理解の二つのカテゴリー、すなわち最大限の宗教と最小限の宗教を示して説明する。
「ひとつは、宗教を、あの世での幸福と人間がこの世で出会うであろう多くの問題を解決にする最大限の教義としてとらえる。
もうひとつは、宗教を信念と経典の最小限の集合ととらえ、人間に経験させるには高い危険性があり、通常の人間の届く範囲を超えている問題のみの解決を目的とする。」65

つまり最小限の宗教理解とは、人間の力が届く範囲のことは宗教の範囲から除外することである。
宗教の最大限の理解は、経済的社会的発展に導かず、最小限の観念こそ、宗教をそれにふさわしい場におくとソロウシュは考える。
それは、社会経済発展のための場をまったく開放しておくことになるからである。

[大胆な更新を必要とする一般的な神の理解]

このような立場から、ソロウシュは、最大限の領域での宗教理解の改革の必要を述べている。
「ソロウシュは神とイスラムの理解を三つのタイプにカテゴライズした。
一つ目は、フェク(法)である。
これは、神を法律を作り、従わないものを罰し、従うものに報いる創造主とみなすものである。
神と宗教のこの理解は、大胆な改革・更新を必要としている。
もし改革しないなら、それは腐朽し、人々にとってその意味を失った習慣になってしまうだろう。
これはもっとも一般的な神の理解である。」

[最小限理解のためにルーミーの宗教理解を広めるソロウシュ]

神とイスラム(宗教)理解の後の二つのカテゴリーについては次のように言う。
「二つ目は、カラミー (言葉)で、これは神がいかに完全にこの世界を創造したかの分析的理解である。
これは思想家、哲学者のイスラムであるが、預言者はこのような理解を主張したわけではない。」

三つ目は、ファルディー(個人)で、これは神の理解への個人的な道である。
それは個人的体験を通じて宗教を認識する。
これは、神を愛するものの方法であり、スーフィーの神体験である。」として、ソロウシュは、ルーミー(Jalaluddin Rumi)について高く評価する。
テレビ番組や講演でもルーミーについて数多く語り、ルーミーについての著作も多い。
これは、イランの著名な歴史上の人物をあげることで民衆に宗教の最小限理解を思い起こさせようという意図からであるものと思われる。66

[科学に低い地位を与えたスーフィーの伝統]

しかしながら、ソロウシュは、イランにおけるスーフィーの伝統について無批判なわけでなはい。
スーフィーの倫理の影響が、科学に低い位置を与え、経済的発展を遅らせていることを指摘する。
それは次のような内容である。
イラン社会の道徳性はギリシャとイスラムに起源を持っている。
しかし、宗教的な道徳性は、主に神秘主義者(スーフィー)の手ではぐくまれて、毎日の生活の上に大きく影響するようになった。
スーフィの倫理は、世俗=現世での生活よりも死後の世界での幸せを期待させた。
そして科学を死後の世界の幸福の達成にはなんの効果もないものと位置づけた。
「科学に対してわれわれの祖先が与えた低い地位は、わが国の発展を遅らせる障害のひとつであった。
科学について、彼らはたいてい宗教的な科学を理解した。
科学者の社会の地位はかなりの部分神学者と宗教的な学者のそれより低かった。」 67

このようにこの世俗世界の科学は死後の生活の幸福の達成に効果がないとして科学の位置を低く見る雰囲気が、社会の発展を妨げる一要素だったと言うのである。






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