Arabic Music By Aamir Kangda - Арабская красивая музыка и танцы
(video inspired by god of star)



(Now He is suppressed by religious group)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is about career of Soroush.
Soroush joined Iran Islam revolution.
He noticed problem of rule of religious leader.
Now He is suppressed by religious group.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトのプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、ソロウシュの経歴です。
ソロウシュはイランイスラム革命に加わりました。
彼は宗教指導者の支配の問題に気づきました。
今彼は宗教グル-プに攻撃されています。




第2章ソロウシュの履歴と現在 10

第1節小学校から中等学校

第1項生い立ち

1945年に南部テヘランで出生した。
両親ともテヘラン生まれの下層中産階級である。
テヘラン南部の小学校の六年間を終え、中等学校へ進む。
中等学校の二年の時にアラビ・ハイスクール(Alavi)に転校した。
この中等学校は、近代科学と宗教信仰を高めることを目的として設立されていた。
ソロウシュはそこで近代科学の基礎と宗教を学んだ。
このハイスクールの後期、ソロウシュは数学を専攻して卒業している。

第2項化学・薬学から歴史・哲学の研究へ

ハイスクールを卒業して、物理学と薬学で全国大学入学試験を受験し、両方に合格した彼は薬学部を選んだ。
大学ではソロウシュは単分子反応についての論文に取り組み、科学における不確定性の主題に対して関心をもち研究した。
学位を得た後、2年間、義務であった徴兵についた。
その後、ブシェル(Bushehr)で15カ月間、製薬関係の仕事をし、テヘランにある薬品監督署 で働くためにテヘランにもどった。
しかし、それからすぐにロンドンにゆき、ロンドン大学で彼が専門にしてきた分析化学の修士課程に入った。
その後、5年半、ロンドンのチェルシー大学(Chelsea College)で科学の歴史・科学哲学を研究した。

第2節イラン革命へ参加

第1項革命運動への参加

イラン本国で、人民大衆と国王の対立が激化した時期、欧米でも留学生たちの政治的結集が進んだ。
ソロウシュは友人たちとイギリスでムスリム青年協会(Muslim Youth Association ) に参加した。
後に西ロンドンの イマーム・バラ(imam-barah)という場所を拠点にして活動した。
この場所は、イラン人ムスリム学生の拠点となり、革命の直前にはここにはヨーロッパ中から大勢が集まり、議論していた。
その中にはホメイニー門下のベヘシュティ(Beheshti )やモタッハリ(Motahhari.)もいた。
1977年にロンドンに来て亡くなったアリー・シャリアティの葬儀もここで行われた。
ソロウシュはこの歴史ある地となったイマーム・バラの運営の中心人物であった。
ここでのソロウシュのスピーチは、パンフレットや本になっていった。
そのスピーチは本にまとめられ、イランで出版され、左翼の影響力拡大を防ぐ役割を果たした。
そしてその本はホメイニーからも賞賛を受けた。

第2項ホメイニーに指名され革命後の学問界の要職へ

イランにもどって、新しく創立されたイスラム文化グループ の長に任命されてテヘラン教師養成大学に行った。
一年もしないうちに、大学の閉鎖運動が学生からはじまり、すべての大学の全面閉鎖までに至った。
その後、ソロウシュは、ホメイニーから七人のメンバーからなる文化革命協会の一人に指名された。
この協会の目的は大学の再開と大学の教育内容の再検討であった。
大学の根本的なイスラム化のためには閉鎖を続けるべきだという意見の中でソロウシュたちはホメイニーに大学の再開を早める示唆を与えるスピーチを要請した。
一年半後に大学は再開した。

文化革命協会は文化革命評議会に変えられ、メンバーが17人に増やされた。
意見の違いを感じたソロウシュはこれには加わらず、ホメイニーに辞表を提出した。
以来、イランの支配制度の中に公的な地位をもたなかった。

第3節 研究と教育、講演、著作活動から90年代の迫害の開始へ

第1項 研究と教育、講演、著作活動

その後の彼の主な職は、文化調査研究所 の研究者である。
そしてテヘラン大学と大学院で科学哲学の講座をもち、多くの著書11 、論文を発表した。
講義は非常に人気があり、すべてカセットテープに録音されて、イラン内外に広められた。
他に大学院生に1995年まで講義していた。
また1988年からテヘラン北部でのイマーム・サーデク・モスクでの週に一度の講義をしていた。
この講義は6年間つづき2冊の本にまとめられた。

第4節 迫害の開始

第1項[最高指導者のハメネイの非難]

彼の議論は、体制側には問題があるものとして受けとめられた。
ホメイニーの後継者の最高指導者のハメネイ (Ali Khamenei) が、ソロウシュの論文と講演を批判しはじめた。
しかし、ソロウシュの考えは体制の目からは一層許せないものに発展していった。
合衆国 大使館占拠事件を記念した1995年11月の演説では、合衆国 とイスラエル批判の時間よりソロウシュ非難の時間が長かったという。

第2項[アンサーレ・ヘズボッラーの攻撃]

1995年来、アンサーレ・ヘズボッラー(Ansare Hezbollah 神の党の支持者)のソロウシュへの攻撃は何度もなされ、彼の自由な活動は妨げれ、その身は危険な状態に置かれるようになった。
1995年5月にアミール・カビール大学 (Amir Kabir) のイスラム協会主催の講演を依頼されていた。
流血の事態が予想されるとして出席を中止したけれども、ソロウシュは治安警察に逮捕され、情報省に連行された。
集会に参加しないよう、テヘラン大学で講義しないように、外国にいかないように警告された。

1995年10月には、テヘラン大学に侵入した約50人の集団が、治安警察の目の前で、講演のために演壇に立ったソロウシュを襲った。
彼のコップはこわされ、支持者たちとなんとか逃れた。
2000人の学生の中には負傷者もでた。
この事件の後に、テヘラン大学で学生が抗議集会を開催した。
これはムスリム学生 による大学でのその種の最初のデモンストレーションであった。

そのあとソロウシュは情報省によって尋問され、講演をやめ、宗教と政治、ヴェラーヤテ・ファギーについて論文を書かないように警告されている。

その後も「ナイフや棍棒」をもった集団がソロウシュと彼を支持する学生たちへの脅迫を続けた。
脅迫の中で1996年4月、ソロウシュの担当する講座は4クラスから1クラスにされた。

第3項[安全と研究の自由を求めたラフサンジャーニー大統領への手紙]

1995年12月、ソロウシュは、彼の考えが「国家的独立の基礎を弱めるものだ」というベラヤティ外相の非難に対して反論の手紙を書いて発表している。

さらに1996年5月、ソロウシュはラフサンジャーニー大統領へ「自由な研究の保障」について嘆願する公開の手紙を書いた。
107人の学者、作家、芸術家たちも、ソロウシュに安全を保障し、そのようなことがおこらないような措置を求めた手紙を大統領書いた。
大統領からの返事はなかった。

第5節 現在 12 -国外へ講演と研究の旅とパスポートの没収-

1996年5月にロンドンに出発し、イギリス・カナダ・アメリカ・トルコなどの主としてイラン人ムスリムに対する講演旅行をおこなった。
1997年4月、イランに帰国した。帰国後、ソロウシュは文化調査研究所 の職を奪われた。
テヘランでシャリアティの記念日に講演ができたけれども、情報省でパスポートを没収され、招待されていたドイツ、マレーシア、イギリスでの数多くのセミナーには出席することができなくなっている。






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