Islamic Revolution of Iran - Short Documentary - English.flv
(video inspired by god of star)



(presidential election of 1997 was beginning of second revolution)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is that presidential election of 1997 was beginning of second revolution.
First revolution was led by religious ulama.
Second revolution is led by Islam intellectuals.
Mitsuki explains correctly why second revolution is needed.
This understanding is necessary to recognize Islam society exactly.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトのプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、1997年の大統領選挙が第二革命の始まりであった,です。
最初の革命は宗教聖職者によって導かれました。
第二の革命はイスラム知識人によって導かれています。
ミツキはなぜ第二革命が必要なのか正しくに説明しています。
この理解がイスラム世界を正確に認識するために不可欠です。




Third part 第三部
One more Islam ----- Abdol Krim Soroush
もう一つのイスラム復興主義  アブドル・カリーム・ソロウシュ


  もうひとつのイスラム復興主義---アブドル・カリーム・ソロウシュ
-イランにおけるイスラム型民主主義への模索-
(『アジア・アフリカ研究』 1997年 通巻344号

第1章 革命から18年後のイラン

第1節(1)「表現の自由」への願いが反映した97年5月の大統領選挙

第1項[予想以上のハーテミ師の勝利] 

1997年5月23日のイランの大統領選挙には233人が立候補を届けたが、憲法擁護評議会にかけられて、4人に絞られた。
その4人の中で、現実派と組んだ急進派のハーテミ師(khatemi)と保守派のナーテクヌーリー師(nateqnuri)の事実上の一騎打ちになった。
最高指導者ハメネイ師(khamenei)をはじめ、政府閣僚は、事実上ナーテクヌーリー師を支持していた。

しかし、結果は、ハーテミ師がほぼ70パーセントの得票を獲得したのに対してナーテクヌーリー師は24パーセントで、ハーテミ師の圧勝であった。
また投票総数2900万人は過去のあらゆる選挙をしのぐもので、またハーテミ師が獲得した2000万の票数自体が、過去の大統領選挙の投票総数すら大きく超えるものだった。
このことから国民の大きな関心と期待の中で闘われた選挙だったことが分かる。1

大統領に反体制的な人物が立候補者できるわけではなく、ハーテミ師自身もともと急進派の指導者で、イスラム革命以来、政権の一角を占めてきて革命政権を支えてきた人物である。
前大統領ラフサンジャーニー師(rafsanjani)の率いる現実派がハーテミ師支持まわり、保守派に対して優勢になったもので、この選挙によってイランの政治が根本的な変化をとげるわけではない。

第2項[イラン政治の現状へのノーの意志の反映]

しかし、97年3月の国会議員選挙では、後退したといえ保守派は半数をしめていた。
このような中で急進派のハーテミ師の圧倒的勝利は予想できないものだった。
予想以上のハーテミ師への投票は、イラン政治の現状へのイラン国民の圧倒的多数のノーの意志の表明であると考えることができる。2

では、イランの国民は何をノーと言ったのか。
大統領候補の四人の候補の訴えのうちハーテミ師の独自の公約は、「表現・出版の自由」「批判の奨励」「独裁の回避」「宗教と自由の両立」であった。
またハーテミ師自身の経歴を見ると、1982年からイスラム文化指導省の責任者を勤めているが、検閲が緩いことを保守派から批判され、1992年に辞任した経緯がある。
つまりイスラム革命政府の言論抑圧の責任者ではあるが、そのスタンスを徐々に表現の自由を認める方向に変えてきていた人物である。
ハーテミ師の圧倒的勝利は、経済の低迷への不満に加えて自由を求める国民の声の表面化であった。3

第2節(2)「第二の革命」への平和的第一歩としての意義

第1項[「原理主義派」に対する形を変えた「近代派」の闘い]

この選挙は、イラン革命期の動乱に匹敵する意義をもった変革への第一歩だと考える。
違いは平和的にそれが開始されようとしていることである。
1979年の革命に引き続く時期に、聖職者独裁とイスラム型民主主義をめざすグループの激突があり、前者の勝利に終わった。
今回の選挙はこの権力闘争が形を変えて国民的規模で現れはじめたものである。

第2項[1979年革命は諸勢力の事実上の連合による勝利]

現在の事態をより理解するために、1789年の18年前のイラン革命を簡単に振り返っておこう。
この革命前、政治的指導権の獲得をめざしていた部分をイデオロギー的に見ると、ホメイニーや現在の政権中枢につながるイスラム原理主義派、バザルガン(Bazargan)、バニー・サドル(Bani-Sadr)、革命前に死んだアリー・シャリアティ(Ali Shariati)などイラン自由運動のイスラム近代派、モジャッヘディーン(mojahhedin)のイスラム左翼ゲリラ、ツーデ党 (tudeh)、フェダーヤーン(fedayan)などの世俗左翼派、国民戦線などの世俗民主派、あるいはクルド民主党などの少数民族勢力があった。
これらが、事実上一つになって民衆を動員して国王独裁の打倒とその背後にいたアメリカの駆逐に成功したものであった。

第3項[なぜ宗教派が勝利したのか。]

これのうち、なぜ、宗教的イデオロギーをもったものが勝利したのかについては、当時の階級的民族的な対抗関係と革命の主体となるイラン民衆の置かれた文化的経済的社会的状況を考察する必要がある。
一般に民族や宗教に基づく紛争は、民族や宗教それ自体に紛争を起こす要因があるのではない。
経済的社会的文化的な支配・非支配の存在によって、対立したそれぞれの側が言語、地域、宗教、歴史、文化などのエスニックな諸要素を無意識的あるいは自覚的に利用するためにそれが紛争の表面に出てくるのである。

1905~11年の立憲革命の時のイラン国民の相手は伝統的な体制であるから、西洋的な考えをある程度、導入することによってにイランの問題が解決すると考えた。
ところが、ところが、1970年代のイラン国民の相手であるパーレビー王朝は西側資本主義、特にアメリカがバック・アップしており、独裁政権を支持する西側の世俗「民主主義」はイラン国民にとっては欺瞞としてしか映らず、国王打倒のための国民の原理として支持を広げることはできなかった。
また共産主義は、ソ連、中国が国王と手を結んだことで支持を失い、国内の自主的な左翼運動は徹底的な弾圧の中でゲリラ闘争以外に存在しようがなかった。

またシャーが、イスラム以前の古代ペルシャ帝国の歴史的メモリーやアーリア人意識を自己の統治の正当化に利用しようとしていた。
だからそれに対抗して国民の団結の原理として有効に機能しうるものは、イラン国民の内部にあるエスニックな諸要素うちイスラム以前の歴史メモリーでもアーリア人人種意識でもなかった。

したがって唯一、国内数千のモスクを持つシーア派イスラムとその伝統的宗教原理が、イラン人の抵抗と団結の拠点となって、政治の前面にでることになった。

第4項[イスラム原理主義派とイスラム近代派の連合政権と権力闘争]

一般大衆の持つシーア派イスラムの宗教意識と宗教的て歴史的メモリーに着目して、それを国王打倒のためのイデオロギーとして完成させたグループに二派ある。
その一つは、神学研究の中で、国王独裁に変わって「ヴェラーヤテ・ファギー」(聖職者=イスラム法学者の統治)理論を完成させたホメイニーとその弟子たちである。
ホメイニーは宗教学校の経歴しかもたず、近代科学思想には触れたことがない。
原理主義と呼ぶのは彼らの美化になる可能性があるが、ひとまずその近代思想を排除する質をもつ点で原理主義とする。
 それに対して、堅固なイスラム教の信仰を内面にもちながら、西洋的近代教育を受けてきた知識人で、大衆のシーア派イスラム信仰に着目し、近代的に教義を読み変えて、革命のイデオロギーに高めたイラン自由運動の知識人たち、すなわちバーザールガーンやアリー・シャリアティ、バニー・サドルたちである。
この二つは全く正反対の方向の社会階層を反映している。

一つは、パーレビー・シャー(Mohammad Reza Pahlavi)の白色革命の土地改革、司法改革、教育改革によってその財源と法的教育的役割を失おうとしている瀕死の聖職者階級ともう一つは、パーレビー・シャーの近代的工業育成政策が必要とする近代的産業の担い手として近代的教育を受けて政治参加を求める中産階級の若き知識層たちである。
すなわちイラン革命は、一方で「絶滅寸前の伝統階級の生き残りをかけた荒々しい叫び」と他方で「近代的諸階級によるより大きな政治参加をもとめる不運な企て」4 であった。

したがって、革命直後の政権は、ホメイニーなどのイスラム原理主義派とバザルガン、バニー・サドルなどのイスラム近代派の二派による世俗派と左翼派を排除した連合体であった。
その二つ派の綱領はイスラムを基礎しているが、正反対の方向のものであった。
すなわちホメイニーのヴェラーヤテ・ファギーは、神の法を解釈する聖職者が統治する政府である。
理念として民主主義は国民の代表が法律を作るものであり、神の法に基づく統治を実現するためにホメイニーは、イスラム共和国に民主主義の名を冠することを西洋の思想だとして拒否した。
それに対してイスラム近代派は、神は絶対だが、聖職者と聖職者以外の人間の間に差はないとして民主主義をめざした。
したがって、二つの勢力は、革命後に権力闘争を展開することになり、イスラム近代派は、ホメイニーの指示のもとで、バザルガン首相、バニー・サドル大統領という順にイスラム原理主義派によって排除されていった。
バニー・サドル失脚の時にはイスラム近代派がイスラム左翼ゲリラのモジャッヘデーンと組み、悲惨なテロの応酬となったが、結局、イスラム原理主義派の勝利に終わった。

第5項[なぜ、イスラムを革命の原理とした二つの勢力の中でイスラム原理主義派が勝利し、イスラム近代派が敗北したのか。]

まず第一に、原理主義派のイデオローグであったホメイニーがイスラム宗教革命の象徴としてカリスマ性をもちほとんどすべての党派から絶大な信頼を受け、彼の意志が貫徹する状況にあったこと。

そして第二は、 革命勝利にむけた巨大なエネルギーは、「白色革命」による土地改革の展開の中で都市に流出した膨大な元農民層=下層都市民衆の不満によってもたらされたのであるが、イランの農村の生産力段階で陶治された彼らは、近代派イスラムの教義に共鳴する力をもっていず、ホメイニーの教義に共鳴する質をそなえていたことである。
ホメイニーの声は、全国のモスクにテープで伝わり、下級聖職者を通じて、それら下層の部分に徹底してゆき、彼らは強固なホメイニー派の行動部隊を提供する支持基盤となった。

それに対してイスラム近代派の教義は、シャーの近代化政策の中で発達した近代的高等教育を受けた青年たちに共鳴盤をもった。
ところが当時約4割が文盲であったことで分かるように膨大な元農民=都市下層民は、イスラム近代派の主張に共鳴する力を持ち得なかったため大衆動員力と「狂信的」戦闘力においてホメイニー派の力量と決定的な差があった。
また国王独裁打倒が第一義的課題であったため、ホメイニーの非民主的体質については無警戒だったと考えられる。5

第6項[今回の選挙の意味、避けることのできない近代派の復活]

ここまで振り返れば、今回の選挙で「自由と批判」を強調したハーテミ師へ有権者の七割が投票した意味を読みとることがきる。
つまり、「絶滅寸前の伝統階級」が勝利して、政権を担当しても、「近代的階級」を消し去ることはできない。
その近代的階級は、必然的に自らの自己表現(政治参加=民主主義)を求める。
国王による凶暴な弾圧もそれを沈黙させることができなかったように、聖職者たちも、思想上でムハンマド時代の原理に帰れたとしても、現実の近代的階級を消すことはできない。
近代的諸階級は、自己表現を求めて聖職者支配と衝突せざるをえず、最終的に勝利することなる。
この過程の第一歩として私は今回の大統領選挙を位置づけるのである。

第7項[弛緩が避けられない宗教原理主義]

イスラムを国民の団結原理として政治的に利用すること自体もイラン革命の勝利それ自体によって弛緩せざるをえない運命にあった。
なぜなら、宗教原理が政治の前面に出た理由は、アメリカ帝国主義とパーレビー・シャー独裁に対してイラン国民を団結させる必要にあった。
しかし、今日、すでにパーレビー・シャー体制の復活の可能性はなくなった。
たしかに、イラク(スンニ派諸国)との対立、ペルシャ湾に展開するアメリカ軍との対立は存在するけれども、国民を団結させるために宗教が政治原理として前面にでる必要は大きく減少している。
また逆にアメリカ軍との対抗関係は近代的な軍の維持を必要とし、宗教教育の枠内に国民をとどめておくことは不可能である。
そして実際の国家運営にあたっては専門的な各分野のテクノクラートを必要とする。
実際、イラン政府は、国外に滞在するテクノクラートに帰国を呼びかけていた。
その層こそ革命後の権力闘争で敗北したイスラム近代派の支持基盤であった。

第8項[聖職者統治の維持のためには近代派の観点を組み込まざるをえない]

したがって革命の一翼を担った「イラン自由運動」の指導者が考えたような、進歩的イスラム知識人が指導して、西洋の近代科学技術、社会科学を採用することのできる政権の樹立はイラン社会の前進のための必須の通過点であった。
政権を担当した聖職者の中に自分たちの政治力の維持のためにも、イスラム近代派の主張を組み込まざるをえないことに気づくものがでてくる。

また神を利用して批判を受けつけない聖職者が権力にずっとしがみつくことは不可能である。
モジャッヘデーンは、革命当初から、「シャーの独裁に替わって聖職者の独裁が出現した」としてこのイスラム近代派と同じ目標をかかげて、武力闘争に突入して今日に至っている。
また世俗派の民主勢力が息を吹き返す可能性もある。
少しでも国民の動向に敏感な聖職者であれは下からの国民的革命的運動で聖職者が孤立し排除される日が来るのを避けようとする。
それがハーテミ師であると考える。

このような意味で、革命後18年経って、聖職者が特権をもって統治する体制と国民との間の矛盾が顕在化したのが今回の選挙だと見ることができる。
したがって今回の選挙をイスラム原理主義からイスラム近代派への権力移行というイラン革命で残された課題を遂行する「第二の革命」への平和的な第一歩と考えるのある。

第3節(3)イスラム原理主義思想に対するイスラム近代派の新たなイデオローグの登場

第1項[聖職者支配批判を開始したアブドル・カリーム・ソロウシュ]

「自由を」を主張した大統領候補に国民の圧倒的な票が流れた背景に、一人のイスラム知識人がいる。
アブドル・カリーム・ソロウシュ(Abdol Kalim Soloush)である。
彼は1990年代半より政府の黙認のもとに原理主義過激派、アンサーレ・ヘズボッラー(神の党の支持者)から暴行、迫害を受けながら発言を続け、選挙の前月には当局からパスポートを没収されている。
彼を通じて国民は自由のない自分たちの境遇を再確認する。
タイム誌はソロウシュについて次のように報道している。

「ソロウシュは、イスラム共和国のもっとも危険な異端派として登場した52才の哲学者である。・・・
ソロウシュは、意見表明を禁止された数百人の学者、芸術家、作家の一人である。
しかし、ソロウシュほど支配層の聖職者を怒らせた人物はいない。
その理由は、彼がマルクス主義者でも、王党派でもなく、ホメイニーの1979年革命に参加した確たるムスリムであるからである。
そのような信頼性によって、革命を支持したけれども聖職者の行き過ぎに失望したイラン人に彼の思想がアピールするからである。」6

第2項[今回の大統領選挙へのソロウシュの見解]

ソロウシュ自身は、今回の選挙結果についてCNNのインタビューで次のように答えている。
「・・・教育のあるものは政府に対して理論的な問題で不満を持ち、多数の人々は政府に経済的な不満をもっていた。
この種の不満が社会のいたるところに広がっていた。・・・・
昨日の投票は、社会のあり方、とくに自由に関する今のあり方に対する大きなノーであった。・・・
わが国の指導者たちは批判を受けないので、この流れに気づいていなかった。・・・
これは大きな一歩だった。
驚くべきことは、それが平和的な運動だったことである。
われわれはもはや大きな激変を重ねることはできないからこのことはわれわれの社会の未来にとっていいことである。・・・
もちろん、彼の反対派は弱い勢力ではない。
これからの時期は、緊張の時期となるだろう。・・・
彼がなすべき重要なことは、市民社会の制度を再強化することである。・・・
たとえば、政党だとか出版の自由とかということである。
彼の背後には民衆がおり、彼ができないとしたら、誰もできないことになる。・・・
第一にこの選挙は、人々が聖職者を信頼していないことを示している。
このことは重要である。
この選挙に聖職者はかかわってきたけれども、彼らが推薦した人物は選ばれなかった。
聖職者はこの選挙から教訓を学ぶべきである。
彼らは、民衆に対する彼らの方針を変えなければならない。
なぜなら、彼らの側は命令し、民衆の側はその命令に従うものと考えているからである。
しかし、もはやこのようなことはなりたたない。
少なくとも、政府と民衆の間の平等な基礎の上での協力がなされるべきである。・・・」

  この発言からソロウシュがハーテミ師勝利の流7 れと波長を一つにしている人物であることが分かるだろう。

第3項[18年を経て、変化したイラン社会 以前は当然だった事柄が、今は問われはじめている]

ソロウシュは、革命後18年を経て、イラン社会の雰囲気が変化していることを国外に生活するイラン人が認識していないことを次のように述べている。
「この旅行で気づいたことは、現在のイラン政府を支持する人も反対する人もその立場を問わず、国外に住む人々の現在のイラン国内の政治的・社会的事情についての知識が、極端に古びたものになっていることである。・・・
革命の支持者も反対するものも、まず、イランの新しい社会的政治的雰囲気を認識すべきである。
そのような認識が、賛成、反対の前に先行しなければならない。
幸運にも、国内の大学生は、社会の政治的社会経済的発展にずっと敏感である。
今、反対と批判はより深刻なレベルまで高まってきている。
以前に認められてきたものが、今や問われ始めている。・・」8

第4項[支配層に脅威を与えているソロウシュ問題]

ソロウシュが「革命の時には今のようには考えていなかった」と言っているように、彼も多くのイスラム知識人のように革命時にはホメイニーの聖職者統治にそれほど疑いを感じていなかった。
しかし現実のイラン社会の進展と思索と研究を重ねた成果を80年代後半から発表しはじめ、「表現の自由」をめぐる焦点の人となってゆく。

ソロウシュ問題について1995年にベラヤティ(Ali Akbar Verayati)外相は次のように述べている。
「・・・ソロウシュ教授問題は、あきらかにわが国の対外政策に影響する。・・・
公的なフォーラムは、スコラ的な議論をする場ではない。
新聞や公的な場にこれらの問題を持ち込み、国家の独立と調和の基礎を弱めることはこの国の人民に奉仕することではなく、むしろ人民に対立することだ。・・・
したがって、たとい、悪意はなくとも、このような態度は確実に否定的な結果をもたらす。
民族と宗教の信念を崩壊させることは、国と人民とイスラムに奉仕することではない。」9

これは、ソロウシュが体制側にいかに脅威であるのかの表白である。
イスラム原理主義者の政府当局に「国家の独立の基礎」を弱めるものだと語らせているソロウシュの思想とはいかなるものであろうか。

第5項[本論の目的]

本論の目的は、このようなソロウシュの思想を紹介することであり、ソロウシュの思想が、イスラム近代主義の系譜を引き継ぎながらイスラム原理主義の思考に対して全面的に対決したものとなっており、しかもその内容が旧来のイスラム近代主義の論点を乗り越えた新段階を画する思想となっている点を示すことである。

ソロウシュの思想の内容の検討に入る前に、まずソロウシュとはどのような人物なのか彼の履歴を見ておこう。






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