The Creation of Adam * Michelangelo (Video Art)
(video inspired by god of star)



(This is true point out in view of true gods)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is religion which Shariati thought.
Shariati thought that true teaching of original religion was spirituality which means raising up soul level.
And there is law which change to bind humanity.
This is true point out in view of true gods.
Law which change to bind humanity means that presence world was ruled by negative gods.
This law is disappeared.
Project of Heaven and gods succeeded to erase whole negative gods in this year.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分はシャリアティが考えたところの宗教についてです。
シャリアティはもともとの宗教の真の教えは魂レベルをあげることを意味するスピリチュアリティだった。
そこに人間を縛りつけるものに転化する法則があると考えていました。
これは真の神々からみても正確な指摘です。
人間を縛りつけるものに転化する法則は顕在世界がネガティブ神に支配されていたことを意味します。
この法則は消えました。
天と神々のプロジェクトは今年ネガティブ神全体を消去することに成功しました。




3、シャリアティのイラスム解釈

 シャリアティは人間の尊厳性と高貴性が諸思想、諸宗教でいかに実現されているかを追求している。
人間の尊厳性と高貴性の追求は、西洋型の神・人間関係では無神論に発展するしかなかったのだが、本来のイラスムでは、人間の尊厳性と高貴性を追求してゆくことは、神の存在と矛盾せず、無神論の方向に進む必要はなかった。
彼によるとイスラムこそ人間性の高貴性と尊厳性を実現した最高のヒューマニズム思想であるする。
では、そのような彼のイスラム解釈とはどのようなものであるのかを見てゆこう。

(1)アダム創造と人間論

・神の精神が吹き込まれている人間の高貴性、尊厳性

 シャリアティは、イスラームは人間を神の無力な創造物と見て人間が高貴な存在であることを否定しているか、それともイスラームは人間を高貴な存在であるとの確信を与えるものかと問題を立て、結論として神に近い高貴な存在であるというイスラーム的ヒューマニズ思想を導ォ出す。

 まず、人間が地上における神の代理人であるというコーランの記述を強調することでイスラームはヨーロッパのヒューマニズム思想以上に人間の尊厳を位置づけると解釈する。
「神は天使に『私は地上に自分の代理人を作りたい』と語りかけた。
イスラームにおいていかに人間の価値が大きいものであるかを見よ。
ルネッサンス以後のヨーロッパのヒューマニズムでさえ、このように人間に対して高い尊厳を与えることは決してできなかった。
神は、すべてのもののなかでもっとも高められた実体で偉大なものであり、アダムの創造主そして宇宙の主人であるが、その神が人間を神の代理者とすると天使に語っている。・・・
人間のもつ第一の優秀性は、地上における神の代理人であるということである。」[45]
さらにシャリアティは、天使が人間にひれふしたという次のコーランの叙述からもイスラームにヒューマニズムを読み取る。
 地上に神の代理を作ろうとする神に対して、天使が『あなたは、流血、罪、憎しみ、復讐に携わるものを創造しようとするのか。』と抗議するが、神は『私はお前の知らない何かを知っている』と答えて、人間創造に着手する。
神は人間の創造を完成した後、彼の代理としての人間が名前の所有者になるようにものの名前を教えた。
天使は『我々は煙のない火から作られた。
人間は土から作られた。
どうして我々より人間を好むのか。』と抗議した。
神は『私はお前の知らない何かを知っている。
二面性をもった私の創造物の足元にひれ伏しなさい』と答えた。
すべての天使は、神の創造物の足もとにひれ伏した。 「これは真のヒューマニズムである。
人間の尊厳と地位がいかに偉大であるかみよ。
実際、すべての天使は、光でつくれており、泥土で作られた人間に対して固有の優越性をっているのだが、人間に対してひれ伏すように命じられてしまう。」[46][47]

このように人間が泥土に神の精神を吹き込まれてできたものだというコーランのアダム創造の象徴的な話からシャリアティは、人間は、矛盾する二面性をもって葛藤し続ける存在であるという彼独自の人間論を引き出してゆく。

 「神は、地上に自分の代理をつくることを望んだ。
神の代理だから人間の材料として神はもっとも神聖な価値あるものを選ぶだろうと予想する。
しかし、神は物質のもっとも低いものを選んだ。
コーランは人間が物質からつくられたことを三つのところで語っている。
一つは『陶工の土のような』(55-14)という表現の箇所である。
それは、乾いた固まった土である。
二つ目は『私は腐敗した土から人間を作った』(15-26)という箇所である。
三つ目は、tin という言葉を使った箇所である。(6-2、23-12)
それも土という意味である。・・・
そしてこの土に神の精神の吸い込こませ、人間を創造した。
土は、人間の言語では、最も低いみじめさ、卑しさなどを象徴する。・・
神は人間の言語においてもっとも高められた聖なる存在であり、精神は、すべの存在のもっとも高い高貴さを象徴する。
人間すなわち神の代理は、この世でもっとも低い物質である悪臭のする泥土から作られた。
神はそれに神の精神を吹き込んだのである。・・・
人間は二つの特質をもった創造物である。
二つの特質の間の距離は土と神の間の距離である。
すべての人間は二重の性質を与えられている。
一つの側面は、土と低位性、停滞と不動性・・・
もう一つの側面は、神聖な精神・・・考えられる最も高い頂点=神、神の精神へに近づくことを欲する。
それにゆえに人間は、土と神の精神という二つの矛盾した要素からなりたっている。・・・
この二つの要素の間の距離は、土と神の精神の間の距離にあたる。
人間の存在の中にある土の方向に下りてゆくか、高められた極に登っていくかは、人間の意思で決まる。
運命の方向として一つの極を選ぶまで、絶え間ない葛藤が人間の内面におこる。」[48]

 以上のようにシャリアティは、土+神の精神=人間という命題を引き出し、その葛藤の中で、どのような生き方を選ぶかは、その人間の意志、決断であるとして、主体的に決断する実存的人間として描き、神決定論と唯物論的下部構造決定論に陥らない人間論を提起する。

 人間の高貴性、尊厳性を追求するシャリアティは、ここで人間(個)主体性を限界まで強調している。
「神の精神」という言葉であらわされる人間の共同性=類的性格は、人間(個)の内部に組み込まれており、人間(個)の主体的決断で神(完全性=全体性=共同性)に向かって進むという構造になっている。
ここでは、神は、人間の進むべき方向性をあらわすものであって、神(全体)が人間(個人)を支配する関係にないことに注意したい。

 ホメイニーと比べてみよう。
彼はイマーム・レザーの聖典の次の箇所を肯定的に引用する。
「いずれにせよ、大衆は不完全な存在であり、不完全なものである以上、完全なものの見本が必要である。・・
もし、神が法と秩序がよく守られるよう監督する者を選ばないならば、さきに説明したように、人々は腐敗してしまうことになるだろう。」[49]

 大衆( =個) の不完全さゆえに、ここでは全体( 神) が個を圧倒して、宗教的全体主義を作り出す根拠が述べられている。
逆に、シャリアティの人間論においては、神( 全体) が人間( 個人) を支配する関係にあるのではなく、人間の側が主体性をもって神に近づく構造になっている。
神に近づくか近づかないかも含めて、あくまでも個としての人間の側に主体性が存在している。

・自由意志をもった存在としての人間の高貴性、尊厳性

 それどころか、シャリアティは、人間( 個) は、自由意思をもった存在であり、この自然界、社会界に存在する規範、法則にある程度まで反して行動できるところに人間の偉大さがあるとする。
ここには全体( =神、規範、法則) に対して個( =人間) の限界までの強調がある。シャリアティは次のように論ずる。
コーランの中で、地上における唯一の神の代理としての人間は、神の信託の保持者である。
信託の保持とは、人間が自由意思を保持していることを表す。
「人間は、彼自身の本質(自然) に対抗して行動できる唯一の存在である。・・・
植物や動物は彼らが創造されたのとは違った方法で行動することは不可能である。
人間だけが創造されたその仕方に反抗できる唯一のものである。
人間は精神的もしくは物質的必要さえ否定できる。
そして善と美の方向の反対に行動できる。
彼は、彼の知性にそって行動できるし、その反対にも行動できる。
彼は善であることも悪でもあることも自由である。
土に似ることも神に似ることも自由である。
意思は、人間の偉大な所有物である。
神と人間の類似性はこの事実から明白である。」[50]

・科学的知識を得て、自らの責任で主体的に生きる存在としての人間の高貴性、尊厳性

 コーランには、神は人間にものの名前を教えたとある。
シャリアティは、神が人間に教えた『名前』の真の意味は、科学的真実のことであるという。
「というのは物事の名前は、象徴的なその定義された概念形態である。
それゆえ、神が人間に名前を教えたということは、世界に固有の科学的真実を受け取り、理解することのできる能力を人間に授与したということである。
神がこの能力を授与したことを通じて、人間は世界に存在するすべての真実に対する接近することが可能となる。」[51]

 科学的真実の知識に接近しえた人間は、意思の自由すなわち神からの信託をもつがゆえにそれだけ自分自身の運命に責任をもつことになる。
「人ヤの社会は、それ自身の運命に責任がある。
そして人間の個々人は自分の運命に責任がある。
『お前のものは、お前が得たものである、彼のものは彼が得たものである。』コーランの2-134 、
過去の文明の運命は彼ら自身がもたらした以上のものでも以下のものでもない。
そしてお前の運命は、お前自身が今形作っているものからなる。
このように人間は、自由の意思をもつがゆえに、神に対して大きな責任をもつ。」[52]

このように人間がものの「名前」を教えられ、科学的真理に接近する力を与えられたことで、天使は人間の前にひれ伏した。
この科学的真理に接近し、その知識にもとづいて自らの責任で主体的に決断して生きることにに人間の高貴性と尊厳性の根拠がある。[53]

(2)道としての宗教

・宗教概念の変革 道としての宗教 導きの方角としての神

 シャリアティは、自らの宗教観の上に立って、諸宗教や西欧思想を批判している。
彼の宗教観は、私たちの常識として考えている宗教概念とは違うゆえに論じておく必要がある。

 すでに述べたように、シャリアティは、人間存在を( 神の精神+腐敗した土=人間) と見る。
もちろん、「腐った泥土」「神の精神」はともに象徴であり、人間が実際に、腐った泥土や神の精神からできているというわけではない。
「腐った泥土」とは、卑しさ、腐敗、全くの受け身を意味し、「神の精神」は、絶対と無限の高揚( シャリアティがより具体的にあげている言葉では、完全な純潔、美、力、創造、知識、愛、慈悲、意思、自由、独立) へのあくなき前進をしようとする精神を表している。
これは人間内部に潜在的に、人間を引き上げる力としてある。
「自然のすべての謎を知った人間は、世界の王者となる。
彼の前では物質的、精神的事物もすべてひざまづく。
天も地も、太陽も月も、神の天使たちさえも。
人間はこのように被創造物であると同時に創造主でもあり、召使いであると同時に主人でもある。
彼は意識的で、決然として賢明で、純粋で、神の信頼を得ており、地上での神の代理であり、天国の永遠の生き物である。
なぜ、どのようにしてそうなのか。
人間は神の精神からなるからである。
これが、人間を絶対と神の方向へ押し上げるテーゼである。」[54]

 しかし、他方、人間を腐敗、死、不動、卑俗、醜さの方に引き落とす「腐った土」すなわち悪魔の極からの力がたえず働く。
人間は、神と悪魔という無限の距離にある二つの対極の引き合う力の中間に位置していて、どちらにも進むことも可能な自由な一個の意思であるからである。
だから、人間の内面で両方の極からの引き合う力で葛藤が生まれ、完全と統合をめざす動きが生ずる。
だから人間=弁証法的存在は、二つの力の戦場であり、常に動きの中にあることを強いられる。

 以上のように人間の内面が二つの力の戦場であり、矛盾を孕んだものとしてとらえた上で、シャリアティは、次のように彼の宗教観を展開する。
「人間は、極限に不道徳的なマイナスから極限に高められたプラスへ進むハイウェイである。・・・
バラモン教の言葉を使えば、人間は道であり、徒歩旅行者であり、徒歩旅行である。
彼は土の自分自身から神性の自分へ不断に移動しつづける。・・・
しかし、神はどこか。
神は無限の中に存在する。・・・
人間は無限の中にある神をめざし高みにむけて休みなく旅し、止まることはできない。・・・
人間は『選択』であり、闘争であり、不断になるものである。
人間は無限の移住である。
土から神への彼自身の中での移住である。
彼自身の魂の中での移民である。」[55]

 シャリアティにとって、この土から神に伸びる道が「宗教」である。
宗教とは、道=手段であって、目的ではない。
神に向かって進む道こそ宗教なのであるという。
「従って、宗教は、土から神に向かう道であり、人間を停滞、無知から精神生活の高みに運ぶ。
もしそうすることに成功すれば、それこそまさに宗教である。」[56]

 このようにシャリアティは、宗教を現世での人生の生き方というより普遍的な内容に解釈した。
「神の精神」(=共同性)の組み込まれた主体的な人間(個)が、腐った土(=私利私欲)を克服して神(=タウヒード=平等で矛盾の克服された状態)をめざす生き方をする。
彼によればそのような人生の道程こそが宗教なのである。

 この観点からシャリアティは、宗教は、道=手段であるべきなのに、ほとんどの宗教が宗教自体を自己目的化していると自らのシーア派まで批判する。
「・・・シーア派を見よ。
彼らの信仰ではイマームは彼らを導く人間である。
しかし、イマームは、彼らにとって、あがめられ、愛される超人間的存在となっている。
それ以外の何者でもない。・・・
もはやあなたがたを正しい目的に導くことができない。・・・
今や祈りの言葉や身ぶりが自己目的化してしまったあげく、我々の祈りの知識が複雑化、技巧化する一方で、祈りの真の効力は減じた。」[57]

 さらに人間の発達ととらわれからの人間性の解放をめざしたはずの宗教が、宗教自体が自己目的化する中で、逆に人間性を支配するものに逆転しているとシャリアティは、諸宗教、思想を批判する。
この点はすでに紹介した。

・神概念の変革 神=民衆

 さらにシャリアティは神はアンナース(民衆)同義語であると神概念まで読み替える。
「王・所有者・貴族階級に対立するのは民衆(アンナース)の階級である。
この二つの諸階級は、歴史を通じて対立し、闘争してきた。
階級社会においては、アッラーはアンナースと同じ位置に立つ。
コーランにおいて社会的問題が語られる時はいつでも、アッラーとアンナースは同義語である。
この二つの言葉は交換可能であり、同じ意味をもっている。
たとえば『お前たち、アッラーに立派な貸付けすれば、必ず倍にして返して下さろう。』(コーラン64-17)ではじまる章句において、神によって表される実際の意味は、民衆アンナースである。
なぜなら神はお前たちから何一つ借りる必要はないのだから。
それゆえ、社会的問題、社会体制にかかわるすべての事柄において、宇宙の秩序といった次元の問題以外、アンナースとアッラーは同義語である。
『統治はアッラーに属す』と言われる時、その意味は、統治は人民に属すということであり、神の代理や息子、神自身、神の近親者を表すのではない。
『財産はアッラーに属す』という時、資本は、民衆全体のものであるということを意味している。・・・
『宗教はアッラーに属す』と言われる時、その意味は、宗教のすべての構造内容が民衆に属することを意味している。
それをはある制度、聖職者、教会として知られるある組織、人々によって独占されるものではない。」[58]

 このようにシャリアティによれば、社会問題については、アッラー(神)=アンナース(民衆)なのである。
彼の提起するイスラームは、「神の精神」(共同性=類的存在性)をもつ人間(個)が、神( =全体) に向かって進むという構造であったのだが、この神(=全体)とはアンナース(民衆=個の連合体)のことであった。人間の高貴性、尊厳性を最高の価値として追求するシャリアティは、民衆を神の位置においた。
神は、象徴的言語として最高の価値として人間の生きるべき方向を指し示すものであったが、ここでは民衆のために生きていく生き方は、シャリアティの言葉では道としての宗教そのものということになる。

 実は、アブラハム系列の預言者たちは、ブッダや孔子やゾロアスターなど直接に、世俗権力と提携をもとめた人々と違って、神=民衆のための世俗権力と闘った人々であった。
「アブラハムの系列の預言者はアブラハムからイスラームの預言者まで、当時の世俗権力に対して反抗する形で彼らの使命を述べた。
アブラハムは彼の斧で偶像を破壊した。
彼はその時代のすべての偶像に反対であることを宣言するために当時の人々の最高権威の偶像に対して彼の斧をふるったのである。
モーゼの使命の最初の具体化は、彼が羊飼いの身なりで手に杖を持ち、ファラオの宮廷に入り、一神教の名でファラオイズムに闘いを宣告した時であった。
同様に、イエスはユダヤの牧師主義の権力に対して、それがローマ帝国主義に結びついているが故に闘った。
そしてイスラームの預言者は彼の使命の最初から、貴族主義、奴隷所有者、クライッシュ族の商人たちと闘った。」[59]

 さらに、彼は、人間と社会の運命に関心を持って世俗権力と闘ったイスラームの宗教の代表的人物としてアリー、ホセイン、アブー・ダールをとりあげ、権力と結んだイブン・シーナー、社会と無関係に神への愛を追求したスーフィのホセイン・B ・マンスールと比較し、イスラームの生み出した最良の代表者たちもまた神と民衆のために抑圧的世俗権力と闘ってきたとした。
神のために闘って生きることは、民衆のために、人間の尊厳のために抑圧的権力と闘って生きることと同義であり、それ自体が宗教行為なのであった。

・制度化された聖職者階級の否定=イスラム聖職者批判

 イラン革命の勝利の前に死んだ(殺された?)シャリアティは、革命が、聖職者支配の路線の勝利で終わったことを知らない。
ホメイニーは「イスラーム政府とは、神の法の政府であり、神の法を研究する学者と神学者の政府である。」[60]゙と言っていたのである。
シャリアティは、以上に述べた宗教観を背景にしているがゆえに、このような制度化された聖職者の存在自体をきびしく否定していた。

 「イスラームは、神と人間の間の公的な仲介者をすべて廃止した。
そしてコーランは・・・制度化された聖職者を呪い、ロバに犬と比較するまでに厳しい言葉で語っている。
イスラームの預言者『人間の手より長いあごひげのものは地獄の火に焼かれるであろう。』と言い、衣服の袖やすそを短くするように命じた。
これらは、あらゆる宗教に存在する制度化された聖職者の概念に対して行ってきた闘争の象徴であり、人々を眠らせ、真実をゆがめる彼ら逸脱者の役割に注意を払ってきたことを示す。
思いおこすべきことはイスラームは聖職者をもっていないことである。
ruhiyanun聖職者という言葉は、最近のキリスト教徒から借りてきた言葉である。
我々は宗教学者をもっている。
彼らは世襲的独占的な権力を保持する制度化された権威を形成しない。
彼らは単に必要の結果としてイスラーム社会にあらわれた専門的な学者であり、制度的な基礎にもとづくものではない。
彼らは、社会における自分たちの影響、存在、力を民衆から、そして社会の構成員の自由な自然な選択から得る。」[61]

 本来、泥土から神へ至る人生の道であり手段であり人間を解放していく宗教が、人々を導いたイマームを崇拝の対象とするような変質をおこし、宗教的儀式や祈りを自己目的化しまう中で、このような制度化された聖職者の支配という逆転現象がおこった。
一般的に、シャリアティは、すべての思想、宗教が、人間性の解放をめざしたものが、人間を抑圧するもの転化するという法則を見いだしている。
人間の高貴性、尊厳性の実現の立場から彼の属するイスラムもそこから例外ではないとして批判をしているのである。

・社会の運命と人間の位置

 神のために闘うことは、民衆のために闘うことと同義であったが、その民衆(アンナース)は、シャリアティにとって決して、受動的な存在ではない。
社会の運命、変化と発展に影響を及ぼす基本的要因はアンナース(民衆)である。
「預言者の使命は・・・神のメーセージの伝達である。・・
・預言者は人々の進歩や退歩になんら責任はない。
なぜなら責任があるのは人々自身であるからである。・・・
人々が真実の道へ進むか、もしくはそれを拒否するか、導かれるか、誤導されるかは自由である。」[62] 
したがって、あくまで、社会変革をなしとげてゆくのは、民衆(アンナース)なのである。

 シャリアティは、歴史的決定主義を信じている唯物論者が人間社会に自然法則と類似の法則が存在を認め、人間の果たす役割を受動的なものとみる点を批判する。

 しかし、シャリアティは、コーランとイスラームにおいてはおのおの社会が固定した基礎をもっているという意味での伝統とコーランで「道路、道」などと表される固定した不変の法則すなわち科学的に表示できる不変の法則をすべての社会はもつと考える。
だからシャリアティは、社会でおきるすべての変化と発展は、固定した伝統と社会生活の不変の法則にもとづいておきると考える。
その上で次のように歴史的決定論との違いを説明する。
「イスラームはこのように歴史と社会における決定主義の理論に接近するように思える。しかし、・・・イスラームにおいては、われわれは、その運命に責任をもつ人間社会(アンナース)をもつとともに、その運命に責任をもつ人間社会を構成する諸個人もまたもっている。
『確かに神は、アンナースが自分自身の状況をかえるまではアンナースの状態を変えない。』(13-11 )という章句は社会的責任の意味をもっている。
逆に『各魂は自分のもたらしたことに責任をもっている』は個人の責任を提起している。
それゆえ、社会も個人も創造主の前に彼らの行為でこたえ、各自が彼自身の手で運命を組み立てる。」[63] 
このように運命に対するアンナースとアンナースを構成する諸個人の責任に言及する。
固定した伝統と社会の不変の法則を認識して、それを変革してゆくのも民衆(アンナース)なのである。[64]

 シャリアティは、民衆の歴史と社会の変革に果たす役割は文明の程度によって変化する述べている。
「アンナース(民衆)が高い教育水準にあるところでは、人物個人、もしくは指導者たちの役割は低い、しかし、文明のレベルが、たとえば氏族、部族である場合には人物個人、もしくは指導者たちはより大きな影響力をもつ。
社会の各々の異なった段階での進歩や退歩において四つの要素(民衆、人物、規範=伝統=法則、偶然)の一つが他の三つよりより影響的であるということはありうる」[65]

 アンナースの教育の高いレベルの社会の段階は、同時に個と全体の関係において、自立した個の共同性としての全体という構造となり、当然、特定の個人の位置は相対的に低くなる。
文明のレベルが低い段階は、全体=共同体があってはじめて存立する個という構造であり、当然、全体を統括する個人の位置、役割が大きくなる。
シャリアティの理論では、ホメイニーのように「ウラマーの役割は永遠」ではなく、社会としてのアンナースが発展したあかつきには誰もが指導者としての役割を果たすところに至る。
ここにも神=民衆(アンナース)と見て、イスラム思想の枠の中で人間の高貴性、尊厳性を追求しているシャリアティを見ることができる。

・小括
 ここでシャリアティの人間創造論=人間性論そして宗教論を再度、要約しておこう。
彼はコーランの記述は象徴的な意味をもつとする。
実際に神が泥から人間をつくったわけではないが、象徴的意味でそれを信じるのである。
神は、地上における神の代理人をつくるために人間を作った。
しかし、人間を作るために材料とした泥は腐敗したもっとも汚い泥土であった。
その泥に神の精神を吹き込むことで人間を作った。
神は人間の言葉の中でもっとも高いもの(真、善、美・・・)を表す。
腐った泥は、人間の言葉の中でもっとも卑しめられたもの(偽、悪、醜・・・)を表す。
人間は、無限に低い極と無限に高い極を合わせ持つ存在である。
その両極からの引き合う力の中に人生を送る。
宗教とは道であり、無限に低い極から無限に高い極に登っていく生き方をする人生の道であるとする。
また神のために生きるとは民衆のために生きることであり、社会の変化・発展の法則を認識してタウヒード社会めざして闘って生きてゆくことは神の地上の代理人としての人間の使命なのである。
またそのような生き方自体が、無限の低い極から無限の高い極に向かう宗教行為であり、人生の道程なのである。
宗教とは崇拝行為ではなく、神の高みに向かって生きてゆくその生き方自体のことなのである。

 宗教が人生を生きる道ではなくなり、特別の聖職者を生み、制度化され、哀願と聖者を拝む行為となる時に、本来人間の束縛や抑圧と闘って、人間を解放と自己完成に導くはずの宗教が、人間の束縛と抑圧に導くものに転化するのだという。
シャリアティは、どの偉大な宗教の創始者たちの思想もこのようなものであったと考える。
それがすべて人間の自由を束縛するものへ歴史的に転化したものだと説く。
シャリアティは、このように特殊な宗教観を前提として宗教を論じているのである。






H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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