Buena m?sica ?rabe instrumental - Good instrumental Arabic music - Mario Kirlis - TrackList HD
(video inspired by god of star)
(True god is human ally as Shariati thought)
Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is that Shariati saw enemy relation between gods and human in Western history.
Shariati noticed intuitively that Greece myth and medieval Christ Church were manipulated by negative gods.
I consciousness of human is in ectoplasm of god of star who overlaps on taichi of earth.
True god is human ally as Shariati thought.
こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、シャリアティが西洋史に人間と神の敵対関係をみたことです。
シャリアティは直観的にギリシャ神話と中世キリスト教会がネガティブ神に操作されていたことに気づいていました。
人間の私意識は、地球の太極に重なる星の神の思念体の中にあります。
真の神は、シャリアティが考えたように人間の味方なのです。
2、シャリアティの諸思想批判の視座
ヒューマニズムとしての諸思想、宗教
(1)普遍的人間的理想と諸思想、諸宗教の発展
シャリアティが問題にするのは、その思想、宗教おいて人間の高貴性、尊厳性がいかに実現されるかである。
彼によると、人間的理想は、歴史とイデオロギーを超越して、共有されているものであり、人間の道徳的価値を形成する。
そして、それは「強制からの自由、完成、正義、真実、人間的自覚への成長、個人に対する社会の優越、価値と達成のための共通の尺度、暴力、戦争、搾取、奴隷化と無知、弱さの廃止、生活と成長のための正当な権利のチャンス、そして階級、人種、家族の紛争、もしくはその他の排除の集団的形態の廃止、すべてこれらは人間の社会生活を通じて自由と人間的な人々のスローガンでありつづけた人間の理想である。」[27]
これが時代を越えて共有される人間の理想であり、その実現への願いが、ヒューマニズムの思想、宗教の一般的基礎をなし、この理想の実現の方法において様々の思想グループの相違が生まれる。
「これらの思想の解釈の過程で、とくにその実現の方法において様々の思想グループが生まれる。
世界の起源に人間性を付加することによる宗教。生活を支配する明瞭な法則を明かにすることを通ずる哲学。
権力を獲得し、科学の発展を導きつつ、物質的生産の分野において個人の自由な競争的な努力を通ることによる西洋ブルジョア自由主義ヒューマニズム。
国家の所有と統治によって、同様の結果をもたらそうとするマルクス主義。
精神的成長のために、知的自己充足に自分自身に向け、自然の欲求の拘束からの精神を解放させようとするスーフィズム。
反対に、自然の性質に自分を一致させることを通じて、それをめざす自然主義。
われわれは今、問わねばならない。
イスラムが、キリスト教が、ヒンズー教が、ヘーゲル観念論が、マルクスの弁証法が、そして諸々の思想が、どんな方法、どんなシステムを、これらの永遠の人間的理想を実現するために提供するかを。」[28]
このように時代とイデオロギーを越えて共有される人間的理想の実現への要求からヒューマニズムの諸思想、宗教が生まれたと特定の思想、宗教への無条件的に肯定ではなく、普遍的な人間性を前提とした上で、いったんすべての思想を相対化する。
別の箇所では、同様の問題を別の形で次のように論じている。
シャリアティは、人間に生来的に備わっている性質から生まれた世界的な諸思想は、神秘主義と平等主義と自由主義の三つの知的潮流に分類されるとしている。
そして他の諸思想は、この三つの知的潮流の支流に位置するものと考える。
三つの知的潮流の代表的なものは宗教、社会主義、実存主義である。
そのうち神秘主義の発生根拠については、次のように要約される。
人間が動物界から離れて人間としての出発をはじめた時、人は岩や偶像に神々しさを感じた。
神秘主義は自然から生まれた人間の本性から来ている。
というのは、人間になった人間は、もはや自然だけでは人間の必要をみたさない。
「なぜなら、自然は、人間と動物や植物がいっしょに住んでいる家である。
この自然の世界に現れ出た人間は、動物と共有している自然が、満たすことの出来ない必要を持っている。
それが、この世でわれわれの疎外、欠如、追放の感覚を生み出し、われわれが渇きを感じることになる。
これが神秘主義の源泉である。」[29]
われわれが、自然から遠ざかれば遠ざかるほど、この渇きは強くなる。
宗教の源泉はこの神秘主義的な人間の心であり、進歩を促してきたのもこの心である。
そしてこの初期の粗野な神秘主義に対して最初に起こった東洋文明は、神秘主義に深さを与え、古代宗教を成立させた。
その古代宗教は支配階級と合体したために、自由と平等への解放を求めてやまない人間の心が西洋においては反宗教的無神論ヒューマニズムとして発展したとする。
シャリアティは、人間性には本来的に神秘主義と自由と平等を求めてやまぬ心が備わっているが故にそのような諸思想が出現するのであると考える。
(2)「歴史的逆転」 人間性を拘束するものへ転化
その上で、彼はすべての思想が「歴史的逆転」を被らざるをえないとする。
「歴史的逆転」とは、このように本来人間性の解放をめざしたものが、人間性を束縛する鎖を強化するものに転化してしまうことを言う。
「さらに驚くべきことには、歴史を通じて、人間性はある種の歴史的逆転の中で通常、それ自身の解放 の思考の犠牲になってきた。
解放の希望を与えることによって、人々を落とし穴に導くのである。」[30]
イスラムも含めて諸宗教は「愛と完全救済の魅力をもって澄みきった根源から生じてきたもの」であり、本来、人間性を解放し、その完成をめざして出現したものであるにもかかわらず、人間性を抑圧するものに質的に変化したと次のように具体例を列挙している。
老荘思想と儒教について
「中国では 老子の学派が、本源的自然=道に合致している原初的な人間の性質を歪め、汚している、
人工的な生活 、断片化した知、そして人間を束縛に導く粗野な文明におけるとらわれからの解放への道筋を最初に示した。
老子の学派は、時を経て、人間を搾取し、人間の知力を奪い、人間に無限の恐れと葬式を宣告する無数の神々の崇拝に巻き込まれてしまった。
孔子は、人々の想像上の力の奴隷から解放するために、迷信と闘った。
彼は人々を無意味な幻想、無限の犠牲、誓約、懇願、苦行へのとらわれから、歴史、社会、人生、理性に導いた。
そして社会生活の合理的組織の知的基礎として『倫』の原則を提起した。
しかし、後にこの原則はいかなる社会的変化をも圧殺する無批判に服従すべき侵すことのできない慣習の形態をとるようになった。」[31]
ヒンズー教と仏教については
「インドの宗教は、神と自然と人間の統一についての深い理解と結合した人間の知識をもっていた。
すなわち世界の内に精神を組み込み、人間精神を昇華する力に奉仕しする理解もっていた。
しかし、それは多くの迷信に転化し、人々は無数の神々に襲われた。
これらの神々は、不運な崇拝者たちの最後のパン切れまで盗んでしまい、解放の主唱者を呪うようになった。
そして高度な東洋神秘主義は公的な宗教的制度のもとで死んだ迷信的耐乏と卑屈な奴隷状態をもたらすものとなった。
ブッダは、ヒンズー教徒を解放するために出現した。
かれは星の神聖さ(Astral divinity )を崇拝する束縛から自由をあたえる道を示した。
しかし、彼の後継者は、ブッダ自身の崇拝者となってしまった。」[32]
キリスト教についても
「イエスは、物質主義とラビの戒律主義から人間性を解放するために、そして宗教を商人とイスラエルの人種主義による自由の束縛から救い出し、平和と愛と精神の救いを実現するために現れた。
このように彼はラビとペリシテ人の迷信にとらわれ、ローマ人の破壊的な帝国主義のもとで奴隷の身分にされている人々を解放することを望んだ。
しかし、われわれはローマ帝国の皇帝制度を維持し、帝国秩序を永続させる役割を果たしたキリスト教を知っている。
さらに中世のスコラ主義は封建主義の知的支柱を提供してきた。
いかにそれが自由な思考、自由な人間的成長、自由な科学への道を圧殺することになったかを知っている。
平和の宗教がどんなに多くの血を流してきたことか。人間が神のようになるべきなのに神が人間のようになってきた。」[33]
同じ論理で自らのイラスムについても同様に抑圧思想に転化したことを述べる。
「イスラムは、人類に大地の低さから天の高みへの道、束縛から宇宙の君主への奉仕の道、宗教による抑圧からイスラムの正義への道を示した。
しかし、それがアラブのカリフのもとで再形成されて、もっとも野蛮な征服者の行為を合理化するものへと変質をとげたことを我々は知っている。
それは、時を経て法学やスコラ的な神学、スーフィズムなどの強力な文化的勢力となり、セルジュークとモンゴルの封建支配に対してムスリムの人々を信心深くさせ、鎖にしばりつける役割を果たした。
救いへの道は、もはりタウヒード、敬虔な行為、知識を通じては示されなかった。
かわりに、それは、盲目の順応や懇願、誓約、哀願などの伝統をもたらし、現実と社会、人生からの逃避の道を示し、人間の歴史、進歩と現世での人間の解放に関するペシミズムを与える道であった。」[34]
このようにシャリアティは、宗教は、本来的には人間を解放するものとして登場しながら、本来の精神から離れ、崇拝行為に堕落し、人間とその精神を束縛・抑圧するものに歴史的逆転を遂げたと説く。
また宗教思想にかぎらず、人間の解放をめざした思想が同様の歴史的逆転を遂げていることをルネッサンスにみる。
「宗教は(ヨーロッパ中世においては)カトリック教会やローマ法王などの公的な管理人を通じて人間の知性、精神性、意志の開花を妨げ、大衆が形式とタブーと迷信にこだわらせるようにし、科学と社会の進歩を阻む力となっていた。
ルネッサンスは、ギリシャとローマの黄金時代を宗教的管理人の支配する中世の停滞と比較することによって自由への魅力を提起した。
またナショナリズムによってローマ法王のラテン帝国主義に敵対し、迷信的なカトリックのスコラ主義に敵対した。
ルネッサンスのスローガンは『天の意志の束縛からの人間の自由、宗教的信念からの知的解放、スコラ的なドグマからの科学の解放、宗教が死後に約束した天のパラダイスの地上への転換』である。 ・・・
しかし、地上のパラダイスは誰の手で作られることになっているのか。
植民地化された民族の人々は、その科学技術をつかって人間性を搾取された。
ここで科学と資本まで到達した。
科学は宗教に役立つものから権力に役立つものになった。
それは、視野の狭い、融通のきかない科学主義に転化した。・・・
自然を支配し、労働への奴隷化の軽減のための人間の道具であった機械は、それ自身が人間を奴隷化する機械主義に転化した。」[35]
このようにシャリアティは科学においても「歴史的逆転」をみる。
科学自体は肯定的に評価しながらも科学も人間を抑圧するものに転化することを見ている。
シャリアティは、同様の論理でマルクス主義も実存主義も批判するのだが、それについては後に述べる。
(3)神・人間関係の二大類型
シャリアティは、人間の自己完成、自由や平等の実現への願いは、時代を越えて共有される人間の理想であるとし、その実現への願いが、ヒューマニズムの思想、宗教の基礎をなし、この理想の実現の方法において様々の思想グループの相違が生まれると考えた。
したがってそのような宗教と思想のいずれもが本来はヒューマニズム思想の名に値するものであったのである。
このようにシャリアティは東洋、西洋の諸宗教、諸思想の共通性を検出しながら、東洋と西洋の思想史に文明論的な差異を読み込み、独自のヒューマニズム論を展開する。
西洋思想の源流である古代ギリシャ思想は、神と人間が不信と対抗の関係にあり、人間の発達と尊厳を求めてゆくヒューマニズム(人間主義)の発展は、最終的に神否定までに至る西洋無神論ヒューマニズムを生んだ。
それに対して古代東洋思想においては神と人間は、決して不信と対立関係にあるものではなかった。
だから東洋では人間の発達と尊厳を求めてゆくために神の否定まで進む必要性は生まれなかったのである。
この神・人間関係の二大類型論が、シャリアティのヒューマニズム文明論の基礎をなしている。
シャリアティの言葉を引用しよう。
「西欧自由主義は、古代ギリシャ文化を源泉としている潮流であり、今日の西欧で相対的な意味で完成の域に到達しているものである。
西欧ヒューマニズムは、古代ギリシャの神秘主義の視座を基礎にしている。
そこでは天と地(=神の世界と人間の世界)は、競争、敵対の関係にある。
神は反人間的力であり、人間を暴君的に支配しようとする。
そして人間が自覚、自由、独立、自然に対する支配権を得ることを妨げようとする。
そのようなことをもくろんだ人間は、神に対して謀叛を企てたものとして永久的に大きな罪を負わされ、死後、もっとも厳しい拷問と罰で呪われる。
人間は聖なる力を得ることを通じて神の支配の束縛からの解放をもとめつづける。
そして自分自身の意思と選択で生きることができることをめざす。」[36]
この神の世界と人間の世界の対立関係は、次のようにギリシャ神話の中に具体例を見いだすことができる。
「ギリシャ神話における神は、たとえば嵐、地震、疫病、干ばつなどともに海、川、地球、雨、美、物理的力、経済的豊かさ、季節などのような自然力のアーキタイプ(原型)であり、その表現である。
神と人間の間の戦争は、人間の生活と意思を支配する自然界の力に対する人間の戦いである。
ずっと増大しつづける力と自覚を通じて、人間は神々の支配から自分自身を解放し、自分自身の統治者となることを切望する。
そして自然と戦って勝利する。
自然に勝つというのは、もっとも偉大な力であるゼウスにとってかわることである。
ゼウスは、人類に対する自然の支配を象徴しているのである。」[37]
シャリアティによるとディドロ、ヴォルテールからフォイエルバッハ、マルクスまでの西洋近代の無神論ヒューマニストは、古代諸宗教までこの古代ギリシャの神秘世界の神・人間関係性と同等視した。
マルクスにとっての神は、現実世界の矛盾の疎外の産物としての神であった。
そしてマルクスは神の批判ではなく、それを生み出す人間社会の変革こそ真の宗教批判につながるとした。
しかし、シャリアティはそのような人間性に敵対するような神々は古代ギリシャの神・人間の関係性の系譜にあるという。
「彼らは、ゼウスと人間の関係とアフラマズダ、ラーマ、老子の道 、メシア、アッラーと人間の関係とをひとまとめに扱った。
ところが、これらの二組の関係は正反対のものである。
ギリシャの世界では、プロメテウスは人類に聖なる火を与えた。
彼は最初に火の神が、寝ている時に火を略奪し、こっそりと地上にもってきた。
そのために神々の手でこの罪のために拷問を受けることになった。
後者の神々の世界では逆である。
たとえば、アッラーと人間との関係を見よう。
もっとも高い地位の天使のイブリースは、神に呪われることになった。
なぜなら他の天使とちがって、神の命令にそむいて彼は人間アダムの足元にかしづくことを拒否したからである。
それどころか、賢明さと解放を意味する聖なる火は、神によって天の光の形態で人間性にもたらされるように預言者に委託された。
この光で暗黒の世界からアダムの子孫を呼び出せるように。」[38]
さらに別の箇所では「偉大な東洋の宗教においては、人間は神の世界と独自の関係をもっている。
ゾロアスター教では、人類はアフラマズダの仲間である。
その創造の偉大な闘争で、アングラマイニュと彼の主人のたいする善の勝利のために神と人間は同盟すらする。
ヒンズー教などのように存在の統一に基礎をおく神秘的宗教では、神、人類、愛は、ある種の存在の世界の再創造の計画に従事している。
この宗教において人間と神は、我々のスーフィの中に見られるように、あまりに混ざり合っているので本質的に分けることができない。」[39]と述べている。
このように東洋古代宗教は、神・人間関係は敵対的ではなく、むしろ同盟関係にあったが、西洋思想では、神・人間は敵対的関係にあったがゆえに、西洋における人間の尊厳の追求は無神論ヒューマニズムへと発展することとなった。
だから無神論ヒューマニズムが前提としている神・人間関係を古代宗教に全部あてはめるのは的はずれということになる。
古代ギリシャ神話とちがい、古代東洋宗教の神々は人間性の解放に味方するものであった。
「この場合、ゼウスと反対に、神は自然への奴隷的くびかきからの解放を人間性に望んでいる。
われわれは次のように主張しなければならない。
偉大な宗教の世界観おいては、神は、人間性をゼウスに対する勝利に導き、すべての天使をアダムの足元にひれふせさせ、土地と海を人間に従順なものとする。」[40]
(4)神・人間の敵対的関係を前提として発展した西洋無神論ヒューマニズム
以上のようにシャリアティによれば西洋思想史の中に登場したディドロからマルクスまでの西洋無神論ヒューマニストは、東洋宗教まで含めてすべての宗教の神・人間関係が敵対的であると誤認した。
西洋思想の源流であるギリシャ的世界観の神と人間との関係の枠組みの中で生きる人間は、人間の尊厳の獲得をめざすさいに必然的に神を否定する世俗的世界観に至らざるをえない。
「このように古代ギリシャの神秘的世界観においては、人間性は、自然の原型(アーキタイプ)による支配に反対して発展した。
だから人間性と有神論(この場合は多神教)の間の敵対性の存在は、当然であり、論理的でなことである。
ここからギリシャのヒューマニズムは、神の否定と人間と天とのつながりの切断を通じて人類中心的宇宙に到達するための戦った。
人間を真実と偽りの試金石とするために、人間を美の基準として形づくらせるために、人間の力と喜びを高めるために。」[41]
ヒューマニズムと結合した唯物論的世界観が発展したのは西欧であり、他の地域では見られない。
天に敵対する人間中心主義は、唯物論に向かうと次のように述べる。
「人間中心主義が天に敵対する形をとる限り、それは、地上的になり、唯物論(物質主義)に向かう傾向をもつ。
このように西欧的視座における人間性は、古代ギリシャから今日のヨーロッパまで、唯物論の中にひきいられていった。
そしては、それは百科全書派の自由主義者、西洋ブルジョア文化、またマルクス主義においても同様の運命をたどった。」[42]
ルネッサンスは中世カソリックの神中心の世界観に抗して、ギリシャ、ローマ文化をモデルとして登場したものであるから一般にはシャリアティの理解と逆になっている。
しかし、シャリアティは、むしろ逆に中世カソリックの教義の神と人間のとの関係はギリシャ型の敵対的な神と人間との関係となっていて、中世キリスト教の教義はギリシャ文化の系譜にあることを指摘する。
「中世のカソリシズムはキリスト教の神を人間性と不和の関係においた。
それは原罪と人間のパラダイスからの追放というギリシャ風の注釈をして古代ギリシャとローマで得られた天と地の同じ敵対性を保持した。
それは人間を無力な呪われたもの、救いがたく非難されるべき弱い罪人として描く。
中世カソリシズムは、聖職者階級以外の人々にとっての解放の唯一の手段は、神のかわりに地上を統治する公的な制度の聖職者に無条件に従うことにあると主張する。
この種の思考はヒューマニズムを有神論と戦わせる。
そこでは神の支配の実現への道は、人間性が犠牲にされる祭壇の前に人々を導く。
このように中世では、科学と文化、生活とモラル、美術と美学において人間性には信頼がおかれない。中世のすべての芸術的美的表現は、聖なる精神、救世主、様々の奇跡の超自然的、超人間的な描写となる。
たとい人物の肖像が描かれても、使徒と聖者だけである。それでさえ、彼らは頭から爪先まで長いだぶだぶの僧衣で彼らの顔は覆われている。
または天の光の後光によって曖昧にされている。・・・
道徳は、原罪を償うためにすべての自然の願望の抑圧である。
現世での生活は、来世においての生活を実現するために犠牲にしなければならないのである。」[43]
このように人間性を抑圧する神と聖職者たちが支配する中世カソリシズムに対して人間中心主義=ヒューマニズムを追求すると必然的に神の排除につながってゆかざるをえないことになる。
中世カソリシズムは人間性を否定するものである。
「中世のカソリシズムにおいては人間が神に達することは純粋に人間的な特徴を否定することに基づいている。
なんと、このキリスト教の神はギリシャのゼウスと似ていることか。近代のヨーロッパのルネッサンス以後のヒューマニズムについて古代ギリシャのヒューマニズムの継続として語ることができるとすれば、同様にギリシャ神話の天中心主義の継続として中世キリスト教の天中心主義を語ることができる。」[44]
古代ギリシャで神々に敵対した人間中心主義のヒューマニズムの復活がルネッサンス以後のヨーロッパのヒューマニズムだとすれば、中世カソリックはギリシャ神話の天中心主義の継続であった。
西欧文化は、この古代ギリシャの源泉から流れでたこの二つの流れの中にあるとシャリアティは把握する。
だから西洋の無神論ヒューマニズムの発展の思想史的根拠は、その源流であるギリシャ思想の神・人間の敵対的関係にある。
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is that Shariati saw enemy relation between gods and human in Western history.
Shariati noticed intuitively that Greece myth and medieval Christ Church were manipulated by negative gods.
I consciousness of human is in ectoplasm of god of star who overlaps on taichi of earth.
True god is human ally as Shariati thought.
こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分は、シャリアティが西洋史に人間と神の敵対関係をみたことです。
シャリアティは直観的にギリシャ神話と中世キリスト教会がネガティブ神に操作されていたことに気づいていました。
人間の私意識は、地球の太極に重なる星の神の思念体の中にあります。
真の神は、シャリアティが考えたように人間の味方なのです。
2、シャリアティの諸思想批判の視座
ヒューマニズムとしての諸思想、宗教
(1)普遍的人間的理想と諸思想、諸宗教の発展
シャリアティが問題にするのは、その思想、宗教おいて人間の高貴性、尊厳性がいかに実現されるかである。
彼によると、人間的理想は、歴史とイデオロギーを超越して、共有されているものであり、人間の道徳的価値を形成する。
そして、それは「強制からの自由、完成、正義、真実、人間的自覚への成長、個人に対する社会の優越、価値と達成のための共通の尺度、暴力、戦争、搾取、奴隷化と無知、弱さの廃止、生活と成長のための正当な権利のチャンス、そして階級、人種、家族の紛争、もしくはその他の排除の集団的形態の廃止、すべてこれらは人間の社会生活を通じて自由と人間的な人々のスローガンでありつづけた人間の理想である。」[27]
これが時代を越えて共有される人間の理想であり、その実現への願いが、ヒューマニズムの思想、宗教の一般的基礎をなし、この理想の実現の方法において様々の思想グループの相違が生まれる。
「これらの思想の解釈の過程で、とくにその実現の方法において様々の思想グループが生まれる。
世界の起源に人間性を付加することによる宗教。生活を支配する明瞭な法則を明かにすることを通ずる哲学。
権力を獲得し、科学の発展を導きつつ、物質的生産の分野において個人の自由な競争的な努力を通ることによる西洋ブルジョア自由主義ヒューマニズム。
国家の所有と統治によって、同様の結果をもたらそうとするマルクス主義。
精神的成長のために、知的自己充足に自分自身に向け、自然の欲求の拘束からの精神を解放させようとするスーフィズム。
反対に、自然の性質に自分を一致させることを通じて、それをめざす自然主義。
われわれは今、問わねばならない。
イスラムが、キリスト教が、ヒンズー教が、ヘーゲル観念論が、マルクスの弁証法が、そして諸々の思想が、どんな方法、どんなシステムを、これらの永遠の人間的理想を実現するために提供するかを。」[28]
このように時代とイデオロギーを越えて共有される人間的理想の実現への要求からヒューマニズムの諸思想、宗教が生まれたと特定の思想、宗教への無条件的に肯定ではなく、普遍的な人間性を前提とした上で、いったんすべての思想を相対化する。
別の箇所では、同様の問題を別の形で次のように論じている。
シャリアティは、人間に生来的に備わっている性質から生まれた世界的な諸思想は、神秘主義と平等主義と自由主義の三つの知的潮流に分類されるとしている。
そして他の諸思想は、この三つの知的潮流の支流に位置するものと考える。
三つの知的潮流の代表的なものは宗教、社会主義、実存主義である。
そのうち神秘主義の発生根拠については、次のように要約される。
人間が動物界から離れて人間としての出発をはじめた時、人は岩や偶像に神々しさを感じた。
神秘主義は自然から生まれた人間の本性から来ている。
というのは、人間になった人間は、もはや自然だけでは人間の必要をみたさない。
「なぜなら、自然は、人間と動物や植物がいっしょに住んでいる家である。
この自然の世界に現れ出た人間は、動物と共有している自然が、満たすことの出来ない必要を持っている。
それが、この世でわれわれの疎外、欠如、追放の感覚を生み出し、われわれが渇きを感じることになる。
これが神秘主義の源泉である。」[29]
われわれが、自然から遠ざかれば遠ざかるほど、この渇きは強くなる。
宗教の源泉はこの神秘主義的な人間の心であり、進歩を促してきたのもこの心である。
そしてこの初期の粗野な神秘主義に対して最初に起こった東洋文明は、神秘主義に深さを与え、古代宗教を成立させた。
その古代宗教は支配階級と合体したために、自由と平等への解放を求めてやまない人間の心が西洋においては反宗教的無神論ヒューマニズムとして発展したとする。
シャリアティは、人間性には本来的に神秘主義と自由と平等を求めてやまぬ心が備わっているが故にそのような諸思想が出現するのであると考える。
(2)「歴史的逆転」 人間性を拘束するものへ転化
その上で、彼はすべての思想が「歴史的逆転」を被らざるをえないとする。
「歴史的逆転」とは、このように本来人間性の解放をめざしたものが、人間性を束縛する鎖を強化するものに転化してしまうことを言う。
「さらに驚くべきことには、歴史を通じて、人間性はある種の歴史的逆転の中で通常、それ自身の解放 の思考の犠牲になってきた。
解放の希望を与えることによって、人々を落とし穴に導くのである。」[30]
イスラムも含めて諸宗教は「愛と完全救済の魅力をもって澄みきった根源から生じてきたもの」であり、本来、人間性を解放し、その完成をめざして出現したものであるにもかかわらず、人間性を抑圧するものに質的に変化したと次のように具体例を列挙している。
老荘思想と儒教について
「中国では 老子の学派が、本源的自然=道に合致している原初的な人間の性質を歪め、汚している、
人工的な生活 、断片化した知、そして人間を束縛に導く粗野な文明におけるとらわれからの解放への道筋を最初に示した。
老子の学派は、時を経て、人間を搾取し、人間の知力を奪い、人間に無限の恐れと葬式を宣告する無数の神々の崇拝に巻き込まれてしまった。
孔子は、人々の想像上の力の奴隷から解放するために、迷信と闘った。
彼は人々を無意味な幻想、無限の犠牲、誓約、懇願、苦行へのとらわれから、歴史、社会、人生、理性に導いた。
そして社会生活の合理的組織の知的基礎として『倫』の原則を提起した。
しかし、後にこの原則はいかなる社会的変化をも圧殺する無批判に服従すべき侵すことのできない慣習の形態をとるようになった。」[31]
ヒンズー教と仏教については
「インドの宗教は、神と自然と人間の統一についての深い理解と結合した人間の知識をもっていた。
すなわち世界の内に精神を組み込み、人間精神を昇華する力に奉仕しする理解もっていた。
しかし、それは多くの迷信に転化し、人々は無数の神々に襲われた。
これらの神々は、不運な崇拝者たちの最後のパン切れまで盗んでしまい、解放の主唱者を呪うようになった。
そして高度な東洋神秘主義は公的な宗教的制度のもとで死んだ迷信的耐乏と卑屈な奴隷状態をもたらすものとなった。
ブッダは、ヒンズー教徒を解放するために出現した。
かれは星の神聖さ(Astral divinity )を崇拝する束縛から自由をあたえる道を示した。
しかし、彼の後継者は、ブッダ自身の崇拝者となってしまった。」[32]
キリスト教についても
「イエスは、物質主義とラビの戒律主義から人間性を解放するために、そして宗教を商人とイスラエルの人種主義による自由の束縛から救い出し、平和と愛と精神の救いを実現するために現れた。
このように彼はラビとペリシテ人の迷信にとらわれ、ローマ人の破壊的な帝国主義のもとで奴隷の身分にされている人々を解放することを望んだ。
しかし、われわれはローマ帝国の皇帝制度を維持し、帝国秩序を永続させる役割を果たしたキリスト教を知っている。
さらに中世のスコラ主義は封建主義の知的支柱を提供してきた。
いかにそれが自由な思考、自由な人間的成長、自由な科学への道を圧殺することになったかを知っている。
平和の宗教がどんなに多くの血を流してきたことか。人間が神のようになるべきなのに神が人間のようになってきた。」[33]
同じ論理で自らのイラスムについても同様に抑圧思想に転化したことを述べる。
「イスラムは、人類に大地の低さから天の高みへの道、束縛から宇宙の君主への奉仕の道、宗教による抑圧からイスラムの正義への道を示した。
しかし、それがアラブのカリフのもとで再形成されて、もっとも野蛮な征服者の行為を合理化するものへと変質をとげたことを我々は知っている。
それは、時を経て法学やスコラ的な神学、スーフィズムなどの強力な文化的勢力となり、セルジュークとモンゴルの封建支配に対してムスリムの人々を信心深くさせ、鎖にしばりつける役割を果たした。
救いへの道は、もはりタウヒード、敬虔な行為、知識を通じては示されなかった。
かわりに、それは、盲目の順応や懇願、誓約、哀願などの伝統をもたらし、現実と社会、人生からの逃避の道を示し、人間の歴史、進歩と現世での人間の解放に関するペシミズムを与える道であった。」[34]
このようにシャリアティは、宗教は、本来的には人間を解放するものとして登場しながら、本来の精神から離れ、崇拝行為に堕落し、人間とその精神を束縛・抑圧するものに歴史的逆転を遂げたと説く。
また宗教思想にかぎらず、人間の解放をめざした思想が同様の歴史的逆転を遂げていることをルネッサンスにみる。
「宗教は(ヨーロッパ中世においては)カトリック教会やローマ法王などの公的な管理人を通じて人間の知性、精神性、意志の開花を妨げ、大衆が形式とタブーと迷信にこだわらせるようにし、科学と社会の進歩を阻む力となっていた。
ルネッサンスは、ギリシャとローマの黄金時代を宗教的管理人の支配する中世の停滞と比較することによって自由への魅力を提起した。
またナショナリズムによってローマ法王のラテン帝国主義に敵対し、迷信的なカトリックのスコラ主義に敵対した。
ルネッサンスのスローガンは『天の意志の束縛からの人間の自由、宗教的信念からの知的解放、スコラ的なドグマからの科学の解放、宗教が死後に約束した天のパラダイスの地上への転換』である。 ・・・
しかし、地上のパラダイスは誰の手で作られることになっているのか。
植民地化された民族の人々は、その科学技術をつかって人間性を搾取された。
ここで科学と資本まで到達した。
科学は宗教に役立つものから権力に役立つものになった。
それは、視野の狭い、融通のきかない科学主義に転化した。・・・
自然を支配し、労働への奴隷化の軽減のための人間の道具であった機械は、それ自身が人間を奴隷化する機械主義に転化した。」[35]
このようにシャリアティは科学においても「歴史的逆転」をみる。
科学自体は肯定的に評価しながらも科学も人間を抑圧するものに転化することを見ている。
シャリアティは、同様の論理でマルクス主義も実存主義も批判するのだが、それについては後に述べる。
(3)神・人間関係の二大類型
シャリアティは、人間の自己完成、自由や平等の実現への願いは、時代を越えて共有される人間の理想であるとし、その実現への願いが、ヒューマニズムの思想、宗教の基礎をなし、この理想の実現の方法において様々の思想グループの相違が生まれると考えた。
したがってそのような宗教と思想のいずれもが本来はヒューマニズム思想の名に値するものであったのである。
このようにシャリアティは東洋、西洋の諸宗教、諸思想の共通性を検出しながら、東洋と西洋の思想史に文明論的な差異を読み込み、独自のヒューマニズム論を展開する。
西洋思想の源流である古代ギリシャ思想は、神と人間が不信と対抗の関係にあり、人間の発達と尊厳を求めてゆくヒューマニズム(人間主義)の発展は、最終的に神否定までに至る西洋無神論ヒューマニズムを生んだ。
それに対して古代東洋思想においては神と人間は、決して不信と対立関係にあるものではなかった。
だから東洋では人間の発達と尊厳を求めてゆくために神の否定まで進む必要性は生まれなかったのである。
この神・人間関係の二大類型論が、シャリアティのヒューマニズム文明論の基礎をなしている。
シャリアティの言葉を引用しよう。
「西欧自由主義は、古代ギリシャ文化を源泉としている潮流であり、今日の西欧で相対的な意味で完成の域に到達しているものである。
西欧ヒューマニズムは、古代ギリシャの神秘主義の視座を基礎にしている。
そこでは天と地(=神の世界と人間の世界)は、競争、敵対の関係にある。
神は反人間的力であり、人間を暴君的に支配しようとする。
そして人間が自覚、自由、独立、自然に対する支配権を得ることを妨げようとする。
そのようなことをもくろんだ人間は、神に対して謀叛を企てたものとして永久的に大きな罪を負わされ、死後、もっとも厳しい拷問と罰で呪われる。
人間は聖なる力を得ることを通じて神の支配の束縛からの解放をもとめつづける。
そして自分自身の意思と選択で生きることができることをめざす。」[36]
この神の世界と人間の世界の対立関係は、次のようにギリシャ神話の中に具体例を見いだすことができる。
「ギリシャ神話における神は、たとえば嵐、地震、疫病、干ばつなどともに海、川、地球、雨、美、物理的力、経済的豊かさ、季節などのような自然力のアーキタイプ(原型)であり、その表現である。
神と人間の間の戦争は、人間の生活と意思を支配する自然界の力に対する人間の戦いである。
ずっと増大しつづける力と自覚を通じて、人間は神々の支配から自分自身を解放し、自分自身の統治者となることを切望する。
そして自然と戦って勝利する。
自然に勝つというのは、もっとも偉大な力であるゼウスにとってかわることである。
ゼウスは、人類に対する自然の支配を象徴しているのである。」[37]
シャリアティによるとディドロ、ヴォルテールからフォイエルバッハ、マルクスまでの西洋近代の無神論ヒューマニストは、古代諸宗教までこの古代ギリシャの神秘世界の神・人間関係性と同等視した。
マルクスにとっての神は、現実世界の矛盾の疎外の産物としての神であった。
そしてマルクスは神の批判ではなく、それを生み出す人間社会の変革こそ真の宗教批判につながるとした。
しかし、シャリアティはそのような人間性に敵対するような神々は古代ギリシャの神・人間の関係性の系譜にあるという。
「彼らは、ゼウスと人間の関係とアフラマズダ、ラーマ、老子の道 、メシア、アッラーと人間の関係とをひとまとめに扱った。
ところが、これらの二組の関係は正反対のものである。
ギリシャの世界では、プロメテウスは人類に聖なる火を与えた。
彼は最初に火の神が、寝ている時に火を略奪し、こっそりと地上にもってきた。
そのために神々の手でこの罪のために拷問を受けることになった。
後者の神々の世界では逆である。
たとえば、アッラーと人間との関係を見よう。
もっとも高い地位の天使のイブリースは、神に呪われることになった。
なぜなら他の天使とちがって、神の命令にそむいて彼は人間アダムの足元にかしづくことを拒否したからである。
それどころか、賢明さと解放を意味する聖なる火は、神によって天の光の形態で人間性にもたらされるように預言者に委託された。
この光で暗黒の世界からアダムの子孫を呼び出せるように。」[38]
さらに別の箇所では「偉大な東洋の宗教においては、人間は神の世界と独自の関係をもっている。
ゾロアスター教では、人類はアフラマズダの仲間である。
その創造の偉大な闘争で、アングラマイニュと彼の主人のたいする善の勝利のために神と人間は同盟すらする。
ヒンズー教などのように存在の統一に基礎をおく神秘的宗教では、神、人類、愛は、ある種の存在の世界の再創造の計画に従事している。
この宗教において人間と神は、我々のスーフィの中に見られるように、あまりに混ざり合っているので本質的に分けることができない。」[39]と述べている。
このように東洋古代宗教は、神・人間関係は敵対的ではなく、むしろ同盟関係にあったが、西洋思想では、神・人間は敵対的関係にあったがゆえに、西洋における人間の尊厳の追求は無神論ヒューマニズムへと発展することとなった。
だから無神論ヒューマニズムが前提としている神・人間関係を古代宗教に全部あてはめるのは的はずれということになる。
古代ギリシャ神話とちがい、古代東洋宗教の神々は人間性の解放に味方するものであった。
「この場合、ゼウスと反対に、神は自然への奴隷的くびかきからの解放を人間性に望んでいる。
われわれは次のように主張しなければならない。
偉大な宗教の世界観おいては、神は、人間性をゼウスに対する勝利に導き、すべての天使をアダムの足元にひれふせさせ、土地と海を人間に従順なものとする。」[40]
(4)神・人間の敵対的関係を前提として発展した西洋無神論ヒューマニズム
以上のようにシャリアティによれば西洋思想史の中に登場したディドロからマルクスまでの西洋無神論ヒューマニストは、東洋宗教まで含めてすべての宗教の神・人間関係が敵対的であると誤認した。
西洋思想の源流であるギリシャ的世界観の神と人間との関係の枠組みの中で生きる人間は、人間の尊厳の獲得をめざすさいに必然的に神を否定する世俗的世界観に至らざるをえない。
「このように古代ギリシャの神秘的世界観においては、人間性は、自然の原型(アーキタイプ)による支配に反対して発展した。
だから人間性と有神論(この場合は多神教)の間の敵対性の存在は、当然であり、論理的でなことである。
ここからギリシャのヒューマニズムは、神の否定と人間と天とのつながりの切断を通じて人類中心的宇宙に到達するための戦った。
人間を真実と偽りの試金石とするために、人間を美の基準として形づくらせるために、人間の力と喜びを高めるために。」[41]
ヒューマニズムと結合した唯物論的世界観が発展したのは西欧であり、他の地域では見られない。
天に敵対する人間中心主義は、唯物論に向かうと次のように述べる。
「人間中心主義が天に敵対する形をとる限り、それは、地上的になり、唯物論(物質主義)に向かう傾向をもつ。
このように西欧的視座における人間性は、古代ギリシャから今日のヨーロッパまで、唯物論の中にひきいられていった。
そしては、それは百科全書派の自由主義者、西洋ブルジョア文化、またマルクス主義においても同様の運命をたどった。」[42]
ルネッサンスは中世カソリックの神中心の世界観に抗して、ギリシャ、ローマ文化をモデルとして登場したものであるから一般にはシャリアティの理解と逆になっている。
しかし、シャリアティは、むしろ逆に中世カソリックの教義の神と人間のとの関係はギリシャ型の敵対的な神と人間との関係となっていて、中世キリスト教の教義はギリシャ文化の系譜にあることを指摘する。
「中世のカソリシズムはキリスト教の神を人間性と不和の関係においた。
それは原罪と人間のパラダイスからの追放というギリシャ風の注釈をして古代ギリシャとローマで得られた天と地の同じ敵対性を保持した。
それは人間を無力な呪われたもの、救いがたく非難されるべき弱い罪人として描く。
中世カソリシズムは、聖職者階級以外の人々にとっての解放の唯一の手段は、神のかわりに地上を統治する公的な制度の聖職者に無条件に従うことにあると主張する。
この種の思考はヒューマニズムを有神論と戦わせる。
そこでは神の支配の実現への道は、人間性が犠牲にされる祭壇の前に人々を導く。
このように中世では、科学と文化、生活とモラル、美術と美学において人間性には信頼がおかれない。中世のすべての芸術的美的表現は、聖なる精神、救世主、様々の奇跡の超自然的、超人間的な描写となる。
たとい人物の肖像が描かれても、使徒と聖者だけである。それでさえ、彼らは頭から爪先まで長いだぶだぶの僧衣で彼らの顔は覆われている。
または天の光の後光によって曖昧にされている。・・・
道徳は、原罪を償うためにすべての自然の願望の抑圧である。
現世での生活は、来世においての生活を実現するために犠牲にしなければならないのである。」[43]
このように人間性を抑圧する神と聖職者たちが支配する中世カソリシズムに対して人間中心主義=ヒューマニズムを追求すると必然的に神の排除につながってゆかざるをえないことになる。
中世カソリシズムは人間性を否定するものである。
「中世のカソリシズムにおいては人間が神に達することは純粋に人間的な特徴を否定することに基づいている。
なんと、このキリスト教の神はギリシャのゼウスと似ていることか。近代のヨーロッパのルネッサンス以後のヒューマニズムについて古代ギリシャのヒューマニズムの継続として語ることができるとすれば、同様にギリシャ神話の天中心主義の継続として中世キリスト教の天中心主義を語ることができる。」[44]
古代ギリシャで神々に敵対した人間中心主義のヒューマニズムの復活がルネッサンス以後のヨーロッパのヒューマニズムだとすれば、中世カソリックはギリシャ神話の天中心主義の継続であった。
西欧文化は、この古代ギリシャの源泉から流れでたこの二つの流れの中にあるとシャリアティは把握する。
だから西洋の無神論ヒューマニズムの発展の思想史的根拠は、その源流であるギリシャ思想の神・人間の敵対的関係にある。
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