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(video inspired by god of star)



(Mitsuki made clear points beyond previous research)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant of Mitsuki in whole life.
This part is previous research about Ali Shariati.
Mitsuki thinks that Ali Shariati was thinker beyond previous research.
Mitsuki made clear points beyond previous research.

こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは、人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
この部分はアリ・シャリアティについての先行研究です。
ミツキは、アリ・シャリアティは先行研究を超える思想家であったと考えています。
ミツキは、先行研究を超える論点を解明しました。





アリー・シャリアティ研究ノート
(『アジア・アフリカ研究』1995年通巻338)


1、シャリアティについての先行研究
2、シャリアティの諸思想批判の視座
3、シャリアティのイラスム解釈
4、西洋における無神論ヒューマニズムの発展
まとめ

 序
「アリー・シャリアティはしばしばイランのイラスム革命のイデオローグとして語られる。・・・
しかし、彼は今日のムスリム世界のイスラム的な知識人と政治運動家の新しい世代の模範となっており、シャリアティの重要性は、イランを越えたものとなっている。
アリー・シャリアティは国際的なイスラム的人物となっており、その思想と著作は、イランの国境を越えて広く研究され、討論され、熱心に学習されている。」[1]

 1979年のイラン革命におけるホメイニー(Khomeini)と並ぶもう一人の思想家はアリー・シャリアティ(Ali Shari'ati)[2]である。
革命の時点ではすでに死去していたが、パーレビー王朝末期の盛り上がる民衆運動の中でホメイニーとともにプラカードに肖像が掲げられていたように、革命に立ち上がった若者たちに絶大な影響を与えていた。
そして現在もイランの国境を越えて、広くイスラム世界の若者に影響を与え続けている人物である。

 彼は、イスラム思想の立場からアメリカに支えられたパーレビー国王独裁政権を批判する点においてはホメイニーと同じ立場であったが、同時にホメイニーの聖職者による統治に反対する思想を抱いていた。

 まず、シャリアティに言及した研究書をもとになるべくシャリアティ思想の全体像が浮かぶようにその論点を紹介しよう。

1、シャリアティについての先行研究

(1)イスラム思想と西洋思想とシャリアティ

 シャリアティの思想をどう位置づけるかについて、彼が活動した時期から様々の見解がでている。

 アブラハミアン(Ervand Abrhamian)は同時代の聖職者たちの中に次のような評価があったことを指摘している。
「彼の宗教的スローガンから、伝統的ウラマーに従う敬虔なイスラム信者」として見るもの、「彼の保守的僧侶への非難に驚いて近代マルコム・ハーンのようにイラスムの衣の中に世俗的な外国思想をもった反僧侶的刷新者として見る」もの、「彼の反帝国主義的、反資本主義的言動からイスラム・マルクス主義と見る」もの、逆に「イスラム世界への彼の貢献に印象づけられて、マルクスへのムスリムの回答として彼を称揚するもの」[3] などである。

 日本の研究書の言及のされ方をみても同様の形であらわれている。

 イラスム・マルクス主義者として見るのが、加納伍郎である。
「結論を言えば、シャリアティの主張するイスラームは、少なくとも、イスラーム教ではない。
彼の思想は、マルクス主義の反射である。」「イスラームという鏡に映ったマルクス主義である」[4]

 イスラムという鏡に写った西洋思想がシャリアティの思想だという見方に対して、逆に、小林達は、シーア派イスラムの思想家としての側面に力点をおいてシャリアティを見ている。
彼によるとシャリアティの思想は、西欧の経験というレンズを通してではなく第三世界それ自体がもつ語法をおいてその社会空間を把握する世界観的思想闘争のあらわれなのであり、深く第三世界に根ざした思想家なのである。
「より深層では『階級闘争』とは必ずしも表現されない世界観をめぐる思想闘争がくりひろげられている。」[5]とオリエンタリズムにみられるヨーロッパ民族中心の世界認識へのあり方への挑戦者の一人としてみている。

 評価のトーンは二つに分類される。
すなわちシャリアティの思想の西洋思想的な側面に重きをおいて評価するものとイスラム思想の担い手の側面に重点をおいて評価するものとの二つである。
ホメイニーは、名指しではシャリアティを攻撃していないが、暗に偽のイスラムとしてその思想を非難した。
何をもってイスラムの枠内にある思想と見るかのスタンスによって評価が異なってくるが、次のようにシャリアティの思想を位置づけるのが正確であると考えられる。

 「シャリアティは、自分をムスリム・マルクス主義者でも、反マルクス主義のムスリムともみなしていず」
「シーア派の中にインスピレーションを、西欧社会科学の中に社会分析の道具をみいだすラディカルな思想家としてみなしていた。
要するに、シャリアティは、先行するラジカルなムスリムであるバザルガン、タレカーニー、ナフシャブがはじめた仕事を引き継ぎ、完成させることをめざしていた。
すなわち伝統的なバーザール商人と宗教的大衆を疎外することなしに、近代的インテリゲンチャにアピールすることのできる世俗的宗教を形成することである。」[6]

 このような思想の必要の社会的背景はアブラハミアンによって次のように指摘されている。
「1960年代から1970年代にかけて、新しい世代の指導者は、ムスリム社会のイデオロギー的空白を埋め、伝統と近代化のギャップを埋めようと追求した。
彼らは西洋への盲目的従属とそれに付随するアイデンティティとルーツの喪失を呪った。
そし第三の選択としてイスラムの復活を欲した。
それは西洋資本主義とマルクス主義者の社会主義そして社会の西洋化と近代化の拒否に代わる道であった。
これらのイスラムのイデオローグは、ムスリムが彼らの遺産を保持しながら未来を切り開く必要を宣言した。
その未来とは近代的でありながら、しっかりと自分たちのイラスムの歴史と価値に根ざしたものであるべきであった。」 [7]

(2)民族的アイデンティティの追求

 シャリアティがイラン社会の変革主体形成にあたって民族的アイデンティティを重視し、その中心にシーア派イスラムを見いだしたことは共通して指摘されている。 

 アブラハミアンは次のように書いている。
「シャリアティは、西欧帝国主義と闘うためには文化的アイデンティティをまず獲得しなければならず、文化的アイデンティティが大衆の宗教的伝統と混ざり合っている国もある。」[8]
「シャリアティのマルクス主義者への批判は、聖職者がするような、無神論かどうかではなく、民族文化(ナショナル文化)への態度についてである。
というのは、古典的マルクス主義にとって、ナショナリズムは大衆を社会主義とインターナショナリズムからそらせるために支配階級によって使われる道具である。
しかし、シャリアティにとって、第三世界のナショナリズムは、まず最初にそのルーツ、民族的遺産、民衆の文化を再発見することで、帝国主義を打倒し、社会的疎外を克服して、ヨーロッパの技術を導入する地点に成熟できるであろう。」[9]

 ペルシャ語の語彙で西洋の社会学や歴史哲学を論じたがゆえに、シャリアティの思想が支持されたのだという次の加納の指摘もこの点を指摘していると考えられる。
「ではシャリアティは、イランのマルクス主義者たちと何が違うのか。
それは、彼の用語法である。
彼は、社会学や歴史哲学を論じるにあたって、西洋で使われている用語は、ヨーロッパの文脈で発展したがゆえにイランの現状を分析するのに適さないとした。
そこで、イスラームの語彙の中から、必要な用語を拾った。
これらの用語は、共鳴板の役割を果たす。
歴史に根ざしたペルシャ語の語彙は、聞くものたちの心情の中で鳴り響くのである。
にもかかわらず、その中に盛られている内容は、新しい概念である。
このコンビネーションの中に、信仰と近代化という異質のもの、伝統への心情や忠誠、近代的革命という逆方向のものを統合して、大きな共鳴をおこさせた秘密がある。」[10]
 加納は、シャリアティ思想を本質的にマルクス主義であると見ているので、違いは用語法だけだという指摘になっている。
しかし、この用語法は、シャリアティがイラン社会変革の主体形成にあたって、シーア派イスラムという民衆の宗教意識に依拠することを追求したことの反映であり、用語法のレベルにとどまらない。

(3)シーア派イスラムの教義を社会変革の理論として読み込む 

 シャリアティが、シーア派イスラムの教義を社会変革の革命的イデオロギーとして再解釈したという指摘も共通に指摘されている。
アブラハミアンは、次のようにふれている。
「シャリアティのメッセージは、イスラム、とくにシーア派は、世俗知識人によって非難されるような保守的で狂信的な信条ではなく、また反動的な僧侶が言うような非政治的な保守的な信念ではなく、生活のすべて、とくに政治を貫く革命的イデオロギーで、信者をすべての抑圧、搾取、社会的不正義と闘うように真の信者を鼓舞するものである。」
「預言者は単なる共同体ではなく、ムスリムのウンマ=進歩に向って不断の運動をするダイナミックな共同体を作るために現れた」
「単なる一神教ではなく、タウヒード体制=善、正義への努力、平等、人間の友好関係、富の公的所有、とりわけ無階級社会を」
「カルバラのフセインの殉教は、シーア派が、時と場所や優劣の差にかかわりなく、現在の不正義の根絶のために立ち上がる義務を持っていることを表している。」[11]

 同じことをレザー・ゴッズ(M. Reza Ghods)は
「シャリアティは、体制と闘うイデオロギー的基礎としてシーア派イスラムを使用した。
シーア派イスラムを社会における主な進歩勢力のダイナミックな政治イデオロギーとしてみた。」と触れている。[12]

 またモフセン・ミーラーニー(Mohsen M. Milani)も、次のように指摘している。

 「彼は言う。
シーア主義は抵抗の、暴君に対する継続的闘争の、行動の宗教である。
それはヘズベ・タマーム(完全な党)であり、その目的はこの惑星に神の町 (=抑圧と搾取から解放されたタウヒーディの社会)をつくることである。

 マルクスの未だ実現されていない無階級社会のユートピアと違って、シャリアティのタウヒード社会は預言者ムハンマドとイマーム・アリーのもとで二度実現した。
そしてイスラム政府の再建の担い手をアヤトラ・ホメイニーがウラマーに見たのと違って、シャリアティは、タウヒード社会を作る担い手を宗教的傾向のあるシーア派知識人に見た。」[13]

 モフセン・ミーラーニーもシャリアティが「カルバラの悲劇」を革命的殉教者精神としてとりあげていることに言及している。

 「シャリアティにとって、アラビ・シーア主義は、ホセインの信条である。
彼は第三代のイマームで680年にウマイヤ家のカリフを冒涜として非難した。
そして自分自身を正統なイマームとして宣言した。
信じられない優劣の差にもかかわらず、イマーム・ホセインと彼の仲間と親族は、カルバラでカリフの軍と戦った。
彼らのほとんどは虐殺された。
それ以来、イマーム・ホセインは、殉教者の模範となった。
そして殉教はシーア主義の不可欠のエートスとなった。
シャリアティはイマーム・ホセインの精神を若いイラン人の間に再び活性化することを望んだ。」[14]

(4)保守的シーア派教義への批判

 このようなシーア派教義の革命的解釈は、同時に支配体制を支えてきた保守的シーア派への批判と表裏一体をなしている。

 アブラハミアンは、次のように書いている。
「さらに彼(シャリアティ)にとっては単にイスラムに回帰するというだけではなかった。
たちかえるべきイスラム教とは保守的あるいは反動的イスラム教ではなく、被支配者のイスラム教であり、正義と平等のために戦い、自由と進歩を求めるイスラム教であった。
シャリアティは次のように述べる。
『真のイスラムは、貧しき人々に関心をもつだけでなく、正義と平等と貧困の根絶のために闘うものである。
われわれは、宮廷のイスラムではなく、アブー・ザールのイスラムを欲することを明確にすべきである。
カリフの、階層化の、貴族的特権のそれでなく、正義と真実のリーダーシップのイスラムを、監禁、停滞、沈黙のそれでなく、自由、進歩、覚醒のイスラムを、われわれは精神的指導者のイスラムでなく、闘うもののイスラムをもとめる。
サファビー朝のイスラムでなく、アリー家のイスラムを。』」[15]

 またモフセン・ミーラーニーも同様のことにふれている。
「アラビ・シーア主義と彼(シャリアティ)が呼ぶ真のシーア主義は、イマーム・アリーの正統な指導権がアブー・バクルによって否定された時に始まった。
当初からアラビ・シーア主義は、差別されたものも、弱いものを解放するイデオロギーであった。
1501年に国定宗教とされたシーア主義は、サファビー・シーア主義に転化した。
それは君主絶対主義を正当化する保守的イデオロギーであった。
この退歩したイデオロギーの顕著な性格は、的外れの宗教的瑣末事への信念であり、第12代イマームの帰還を期待して苦しみを受容することである。
シャリアティにとってサファビー・シーア主義は社会的麻酔として機能するのである。
そのために多くのイラン人がシーア主義を見捨てたのである。・・・
たたし、このような内容は、当局の検閲やサファビー・シーア主義を宣伝する宗教界の攻撃をさけるために比喩的に類推で理解されるように述べている。」[16]

 レザー・ゴッズは、次のように書いている。

 「(シャリアティは)、現代の多くのイスラム指導者の古めかしい不動の立場を批判した。
人間と神の間に仲介者は必要ないとして宗教ヒエラルヒーを否定した。
そして反動的モッラーは、社会進歩への妨害物であるとした。」[17]

(5)シャリアティによるシーア派教義の革命的再解釈の中身

・タウヒード[18](一神教)についてのシャリアティの解釈

 シャリアティの理論を構成する核となる哲学部分は、タウヒード(一神教)の解釈である。
比較的分かり易く紹介しているのが、加納吾郎著「イスラームの挑戦」である。
加納は、その本の「若者を引きつけたシャリアティ思想」の章の中で、その思想を批判的分析的に紹介している。
すなわち、シャリアティ思想の特徴を「階級闘争」「弁証法」「行動主義」「物質主義」「知識人主義」の5つにまとめて紹介し、シャリアティの理論はイスラムの物質的解釈であるとして次のように批判する。

 「人間は土と神の霊からできている・・・この認識そのものは、イスラーム一般のものと大差がないが、その次の段階で『神に近づく』という考え方は、明らかに神秘主義からとられている。
しかし、本来一人一人が『我を滅することによって真の実在を知覚する』ことで、内なる神性を実現するというふうに理解されている『神への上昇』をシャリアティは、人類全体の歴史的進歩と同義にしてしまう。
したがって、シャリアティの思想の中では、弁証法的発展を通じて、無階級のタウヒード社会へと進歩してゆくことが、すなわち神に近づいてゆくことに他ならない。」[19]

 では、タウヒードとは何か。

 「タウヒードとは、存在の普遍的唯一性を論証する独特の世界観である。
それは、三つの個別的な本質、すなわち神、自然、人間がひとつのものであることを示す。
なぜなら、この三つの源は同じだからである。
三つとも同じ方向をもち、同じ意志をもち、同じ精神をもち、同じ動きをもち、同じ生命をもっている」というシャリアティのタウヒード観を紹介したあと「一般にイスラームの教義上のタウヒードとは、『神は唯一であり、絶対的である』ということで、それは造物主と被創造物を峻別するから、自然と人間と神はひとつである、というような発想は出てこない。
したがって彼は明らかに、その発想を、神秘主義に言う「存在の唯一性」からとっている。
「存在の唯一性」とは、「創造主-被造物」の二元論を否定するものとしてある。
簡単に言ってしまうと、創造主は、普遍的で絶対的な存在である。
しかし、もし、創造主(神)という存在の他に被造物(世界)という別の存在があるとすれば、「普遍的で絶対」ということはありえなくなる。
ゆえに、真に存在しているのは創造主のみである、というのが神秘主義の立場である。
この考えに従えば、世界を独立した存在としてとらえようとする「我」を滅却すれば、世界の中には神が見えることになるのであるが、シャリアティはこの見方を「我の滅却」後の霊的知覚といった次元ではなしに物質的なレベルで論じているのである。・・・
つまり、神・自然・人間のタウヒードとは、タウヒード社会(無階級社会)をもたらす革命という方向・目標において、この三つがひとつだということに他ならない。」[20] 
加納によるとシャリアティのタウヒード解釈は、神秘主義のタウヒード解釈を受け継ぎつつ、それを霊的な次元から物質的次元に置き換えられたものだとする。

 小林達夫はタウヒードについて「第三世界それ自体の語法にもとづいてその社会空間を理解しよう」という姿勢で共感的にシャリアティのタウヒードの世界観の紹介をしている。
「私はタウヒードを世界観という意味において理解している。」
「タウヒードの世界観では、存在は秘められたものと認識可能なものという相対的なアスペクトに分けられる。・・・
しかし、これは存在の二元論的な区分ではなく、相関的な分類であり人間の認知能力の方法に関わる分類である。・・・」
世界とは「意志と目的とを備えた知覚力のある理念と目的とをもった生命体」であり「存在とは生命、意志、知覚、目的を備えた唯一の調和ある秩序をもった生命体」である。
そして、この「生命体」の「現れている世界すなわち自然」は「現象アーヤと規範スンナの連続によって成立している。」
「科学が存在のアーヤを扱うことができるのは、可知の自然がアーヤの連続体だから」である。

 「全存在を統一的に把握するタウヒードの『世界観』は、『わたし』もあらゆる次元で存在を絶対的平等性において律する『生命体』であることを要請するのである。
つまり、世界における人間の位置は宇宙を支配する唯一の意志であり、唯一の意識であり唯一の力の真理を具象化するものであることになる。
これは実に凄まじい力を帯びた人間の自己認識である。」[21]

・タウヒードの現象学

 黒田は、シャリアティがタウヒードの神秘主義的解釈を物質的に解釈した点について、加納と違い、次のように肯定的に言及している。
「彼は自らの見解が、もっぱら形而上学的世界の存在論的認識に終始していた旧式な神秘主義者たちの『存在の唯一性論』(バフダテ・ボウジュード)とは異なり、科学的分析的な『存在の一性論』)タウヒーデ・ボウジュード)であると主張する。
もっぱら精神的高みの組成を観想する伝統的世界観が否定され、現実認識の固有の道具としての世界観が提出されるのである。」
「タウヒードの世界観において、自然すなわち外的世界は、一連の徴(アーヤ)と規範(スンナ)から成っている。・・・
アーヤは、現れ、指示という意味をもっているが、これはまた物理学のみではなく、感覚的世界を対象とするすべての科学で用いられる(現象)と同義なのである。
もっとも一般的な意味での現象学は、絶対的な真理、世界や自然、物質的の基本的実体が、われわれの認識の圏外にあると容認することに基礎をおいている。
われわれの経験、知識、知覚により認知されるものは(現れ)であって(存在)ではない。
それは不可視で、知覚の外にある実体の、外的で知覚可能な現れ、痕跡からなるものである。
物理学、化学、心理学は、世界の真の実体の外的な現れ、知覚可能な指示について検討、分析し、認識可能にする。
要するに科学は、存在の徴、指示、現れを取り扱うが、それは可知の自然がこれらの徴や現われの集合体であるからにほかならない。・・・
『クルアーン』は(徴)に科学的価値を賦与し、それを真理の表面に漂う幻影、泡沫とはしていない。
むしろ(徴)は真理のなんたるかを示す指示なのであり、それを無視し、蔑ろにせず、真剣に科学的な態度をもって観察することによってのみ、真理が把握されるとしているのである」

 「イスラームの現象学ともいえる(徴)、つまり世界の現象に関するのこのような観点が、近代科学の観点にきわめて近似していることは、言うまでもあるまい。
シャリアティーはAイスラームの世界観が科学的追求と背馳するものではないことを、このような観点から見事に立証しているのである。」[22]
これは、シャリアティがイスラムへのアイデンティティを保持しつつ近代科学の方法の受け入れ可能なイスラム理論へ再解釈したことの指摘である。

(6)西洋思想としてのマルクス主義批判

 レザー・ゴッズは、シャリアティのマルクス主義批判について次のように述べている。
「彼はマルクスが社会の基礎として経済を描くことを批判した。
彼の著作では、文化とくに宗教が、真に社会の発達を促す勢力である。
その唯物論的ルーツと教条的傾向のために現代マルクス主義は革命性を失った。
『プロレタリアートのためにブルジョア的生活を実現するための手段』に転化した。
シャリアティは道徳的基礎においてマルクス主義を拒否した。」[23]

 一番、詳しくシャリアティのマルクス主義批判を紹介しているのはアブラハミアンである。

 「シャリアティの著作は、イランの前世代の知識人によって受け入れらてきたマルクス主義、とくにスターリニズムに批判を集中する。」

 アブラハミアンの紹介するシャリアティのマルクス主義批判は、第一にマルクス主義の知識の必要を肯定した上で、宗教の重要性を強調するものであることである。
「マルクス主義に対しては愛憎関係をもっていた。
一方で、彼は、マルクス主義の知識なしには社会と現代史は理解できないと認めていた。
経済的基礎、階級構造、政治イデオロギー的上部構造、そして多くの宗教がイデオロギー的上部構造に属することも認めていた。
歴史を階級闘争の歴史と見ることも認めていた。
ただし『主な闘争は、物的所有をめぐるものではなく、政治的権力をめぐってである。』としている。」

 第二にマルクスを理想主義者でむしろ宗教者に近い人物であると見ていることである。
「またシャリアティは、マルクス主義が、粗野な唯物論で、経済決定論で、人間の歴史に高度な理念が果たす役割を否定しているといった考えはとらず、むしろ、マルクスを、事実上、自称理想主義者で宗教信者よりもずっと唯物論的ではない人間として、評価している。」

 第三にマルクス主義政党が官僚主義に陥り、民族解放運動への援助を否定したことである。
「他方、マルクス主義、とりわけ正統派共産党の『制度化』されたマルクス主義のある側面を批判する。」
「これらの党は、官僚主義の鉄の法則の犠牲になった。
大衆の支持と政府の認可を得ることで、自分自身を制度化し、革命的情熱を喪失した。
これらの党が民族解放運動への援助を否定し、現代において主要な闘争が、資本主義と労働者でなく、帝国主義と第三世界の矛盾にあることを否定した。」

 第四にイランが西洋と違う社会文化状況であることをマルクス主義者が理解せず、宗教的大衆の気分感情を配慮してないことである。
「またシャリアティは、マルクス主義の多くが、イランがヨーロッパと違ってアジア的生産様式によって形づくられ、そしてルネッサンス、啓蒙思想、産業革命、封建社会から資本主義社会へと進んでいないためにイランに適用できないと主張した。
結果としてイランは、なおも高度に宗教的な大衆と社会的影響の非常に強いつ聖職者、世俗主義、自由主義、資本主義的倫理に影響されてないバーザール商人をもち、後進的な状態にあるとした。」[24]
またイランの共産党であるツーデ党が、イランの宗教的大衆の信条をまったく配慮してない例として、イランの共産党であるツーデ党が出版した本のタイトルが、宗教を破壊し、外国の無神論を導入しようと受けとめられるような題名であることなどをあげている。

(7)シャリアティ思想の支持基盤

 アブラハミアンは、シャリアティが若い知識人層に熱烈な支持を受けた背景を次のように説明している。
「シャリアティは、知識人の若い世代に支持された。
シリアティのように中産階級=バーザール商人、聖職者、小土地所有者、近代的学校教育制度の発展の中で学んだ若者たちは、パーレビー王朝への政治的経済的文化的不満で、英米とその手先となっている国王と特権階級の支配を打ち破りたいと感じていた。
その課題を実現するイデオロギーとして先行する世代が支持したマルクス主義に疑問を感じていた。
それはマルクス主義が、西洋起源で、反イスラム的あり、共産主義国家が公正な社会建設に失敗したこと、そして中国とソ連がシャー権力と結びついていたからである。

 同時に、前イスラム時代からくる古代王朝、帝国の栄光、人種的な神話のナショナリズムをはねのけた。
それが人民大衆に基礎を欠いていることと、君主制の正当化に使われていたためである。
1971年の2500年祭の浪費によって、若い知識人に対するこのナショナリズムの魅力を粉々にした。」[25]
このような背景が、帝国主義、上流階級と闘い、ナショナル・アイデンティティを保持しながら近代科学を受け入れ、イラン社会を発展させることのできるシャリアティのイラスム解釈に若者たちに魅力を感じさせたとのだとしている。[26]

 以上、従来の研究の中で言及されてきたことを紹介した。
しかし、シャリアティは、以上の論点だけにとどまらない思想家である。
彼は、西洋思想、とりわけマルクス主義の批判に多くを費やしているが、その批判は、自らのイスラムも含めて、諸思想、諸宗教をより根元から照射して批判しようとしたものである。
以下、第一に彼の諸思想、諸宗教批判の視座とはいかなるものなのか。
第二に、ではシャリアティは自らのイスラムをどのように解釈しているのか。
第三に、西洋無神論をシャリアティはいかに批判しているのかを課題として論じ、シャリアティの思想像をより明らかにすることをめざす。






H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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