1 Hour of Epic Space Music: Cosmos - Volume 2 | GRV MegaMix
(video inspired by god of star)




(This stage of morality sees that everything of universe is member)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article is development of morality.
I introduce little by little.

This part is post-post-conventional stage of morality.
Post-post-conventional stage of morality is way of cosmic centered.
This stage of morality sees that everything of universe is member.


こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文はモラリティの発達です。
少しずつ紹介します。

この部分は,モラリティのポストポスト慣習段階です。
モラリティのポストポスト慣習段階は,宇宙中心のあり方です。
このモラリティの段階は,宇宙のあらゆるものを仲間とみます。


第四部 コスモス中心思考   後後慣習道徳段階

はじめに

話のあらすじをわすれた人のために、「私6」までのおさらいをします。

これまでに説明した心の発達のおさらいをしてみましょう。
心を池としましょう。
心を統合する中心点を「自己」とします。

自己は、池の表面にあります。
それが「私1」の物的自己です。
自己は、池の表層にあります。
それが「私2」の情動的自己でした。
さらに心を統合して言葉を操作する自己は、さらにその下の層に進みます。
それは「私3」であり、幼児的自己中心の限界をもっていました。

9、10才のレベルで、さらにより深い心の層に自己が進みます。
親や先生から期待されていることに応えようとするよい子になります。
社会的責任感が発生します。
それが「私4」です。自分が属する社会やグループの期待に応えようとします。
しかし、自分たちのグループ中心の限界をもっています。

日本民族中心思考の枠をはめて、この段階に心の発達をとどまらせる国民をつくろうとする人々が「新しい歴史教科書をつくる会」の人々でした。
「私5」まで達していながら、人々を「私4」の発達段階にとどめようとしている学者たちは、そこに悪意があります。

「私5」は、心を統合する中心点が、自分が恩恵を受けている集団に自己の帰属意識のはめ込みから脱して、さらに深いところに達します。
それゆえ「良かれ、悪しかれ、わが祖国」という感情から、「わが祖国は本当に正しいのだろうか」と問うレベルに達します。
心を統合している自己は、普遍的で合理的に思考します。
したがって真理は一つだけに思えます。

「自己」が、心の池のもっとも深いレベルに達しているのが「私6」です。
このレベルまで達すると、「限りある存在としての私」が見え、この世のすべてが「時、場所、人」に影響を受ける相対的世界であることが見えます。
「無常」が見えて、「無情」に感じます。


「私7」の成立による心の統合力の強化 

 心を統合する自己の中心点は、「私1」から「私6」へと深化するにつれて、その統合力は強くなってゆかねば、心はバランスを失いやすくなります。

 今日の教育や学問は、分断された知や技術であり、統合力を強化する形では与えられません。
したがって、知識や技能ばかり、多様に発達させて、その多様性を統合する力を強化しません。
自分の多様な知的能力にひきずられて、心の内部は、苦悩に落ち込みます。
教育や文化の発達した日本のような国にノイローゼの人が多いのはそのためです。
頭のよい人の方がノイローゼになりやすいのはそのためです。

 この心の内部の多様性を統合する力について考えてみましょう。
目を閉じて桜の花のイメージを思い浮かべます。
心の材料は花の形をとった部分(チッタ)とそれを見ている部分(アハムタットヴァ)にわかれます。
さらに見ている部分の中心点に「私」(マハータットヴァ)があります。

心の統合力の無さは、目を閉じて、桜の花を念じてみればわかります。
別の考えが頭に浮かび、心は目まぐるしく変化します。
西洋哲学では心の外に対して自分がコントロールできることが自由です。
それは正しいです。
しかし、心を統合する力がないならば、本当の意味では自由になれません。
自分が、自分の心をコントロールできなくてはなりません。

お金がなくて困っている人、たえずお金をもうけようとばかり考える人は、心の材料が、お金の形をとるために、過剰にチッタの部分にゆきます。
統合する中心の「私」(マハータットヴァ)に少なくなります。
コントロールする「私」の統合力は弱まりますから、お金のために悪いこともしてしまいます。
スケベなビデオばかり見ている人の心は、心の材料がスケベな形をとるために、過剰にチッタの部分にゆき、統合する「私」(マハータットヴァ)にゆく部分が少なくなります。
自分の心をコントロールできないストーカーになったりします。

どうやったら、「私」の統合力を強化できるでしょうか。
毎日、朝晩、目を閉じます。思い浮かべている桜の花の部分、すなわちチッタを消します。
思い浮かべる作業をやめます。
すなわちアハムタットヴァを消します。
そして「私はある」という意識、すなわちマハータットヴァだけになる練習をします。
そうすると、心の材料はすべて「私」(マハータットヴァ)の部分にゆきますから、心の中心点である「私」の統合力は強化されます。

「私」(マハータットヴァ)は、心の池の一番深いところです。
あくまで心の池の領域の内部にあります。

しかし、このレッスンは、心の池を超える「超心理」の領域、スピリットの領域に進むプラクティスになります。

なぜ、心を統合する中心点が、心の池の領域を超えたところに進むのでしょうか。
マハータットヴァすなわち「私はある」という意識だけになった時、感じるという心の作業(アハムタットヴァ)をやめているのに、誰が「私は存在する」という判断を下しているのでしょうか。
それは、何もせず、心の出来事すべてを「見つめている意識」です。
個体意識(アートマン)といいます。
私の心をその奥から見つめている意識は、心の領域を超えています。
その地点まで達することが「私7」の成立です。

「私を見つめている意識」は、心の領域から脱しているため、心の多様な活動のいずれかにひきずられることがありません。
したがって、より強い統合力をもっています。

そして「私6」の病理である実存的苦悩からも解放されます。
それは、直観力によって、より広大な世界とのつながりが見えてくるからです。
コスモスのこれまで見えなかった部分が認識されてくるからです。

「私7」の境地

 ここから先は、ケン・ウィルバーという賢者とP.R.サーカーという聖者の言っていることを簡単に紹介するにとどめます。

 このアメリカ人とインド人の二人は、まったく互いの本を読んだことがありませんが、不思議なことに同じことを言っています。

 両者とも、超心理に四つの段階があると言っています。
「私7」「私8」「私9」「私10」です。
「私10」までです。

「私7」は、アティマーナス・コーシャ(サーカー)、サイキック(ウィルバー)と呼ばれます。

 「この新しい内面=超越は、社会中心的なアイデンティティから、すべての人間との世界中心的なアイデンティティへと超越するだけではない。それはすべての顕現との意識的な合一、同一化なのである。
すなわちすべての人間、すべての自然、すべての物理的な宇宙、『偉大なるもの、卑小なるもの』すべての存在との同一化である」ケン・ウィルバー『進化の構造1』448ページ

 このように「私7」は、高次の「私」ですが、決して他者から孤立した「私」ではありません。
「私7」にとっての私たちには、人間界を超えて、一切衆生が私たちの領域に含まれます。

「私1」からはじまる「私」の発達は、「私たち」の領域の拡張にほかなりません。
「私7」にいたって、この世のすべてを愛する人間が生まれます。

ピアニスト池邊幸恵の「ひびきあう」という詩は、「私7」の境地あった時に湧いてでた詩だと考えられます。
この詩の「わたしたち」は顕現した世界すべてを含んでいます。

何にひびきあいたいかな
心底からのよろこび
ひびきあえる わたしたち

何にひびきあいたいかな
ともに悲しむ涙
ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
たがいに有り難く思う気持ち
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
ともに生きる動物たちと
ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
ともに生きる木々に 草に 花に
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
小さな小さな虫さんたちに 微生物さんに

ひびきあえる  ぼくたち

何にひびきあいたいかな
自分を作る小さな小さな沢山の細胞たちに
ひびきあえる  わたしたち

何にひびきあいたいかな
心の中をかきわけて  光りを放つ意識に
ひびきあえる  ぼくたち  わたしたち

何にひびきあいたいかな
みんなをのせて進む  青く輝く地球に
ひびきあえる   みんなが

何にひびきあいたいかな
広大無遍(こうだいむへん)の大宇宙に
ひびきあえるんだ  すべてに

「私8」の境地

さらに心の中心点がコスモス深くに降りてゆくと「私8」になります。
「私8」は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(サーカー)、サトル(ウィルバー)と呼ばれます。

この段階では、大文字のスピリット(神)は、万物の中に顕現していることが直接的な認識として体験されます。
すべては喜びに満ちて輝きます。
一者が多者の中に輝きます。

次の詩は、「私8」の境地を表しています。

「私たちは一つ」

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
あの空とあの雲
あの梢、あの幹
あの街になって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
この机、この窓
教室、黒板
そして生徒たちになって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
この花、あの花の
赤、緑、黄色
そして緑の葉となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
コオロギ、スズムシ
小鳥のさえずり
小川のせせらぎとなって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
桜の花、照りつける太陽
紅葉、落ち葉
雪景色となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
原子、分子
銀河
空に輝く星々となって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
トラクター、コンバイン
キュウリ、カボチャ、トマト
稲、麦になって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
クレーン、スティール
圧延機
ベルトコンベアになって

スピリットは現出している
私とあなた、私たちとして
不安と安堵
憎しみと執着
無限に広がる愛となって

スピリットは現出している
私とあなた 私たちとして
私とあなたの父や母
私とあなたの子や孫
すべての人となって

スピリットは現出している
私とあなた 私たちとして
心とからだが
過去から未来へ
ひとつの流れとなって

「私9」の境地

 「私9」は、ヒランマヤ・コーシャ(サーカー)、コーザル(ウィルバー)と表現されています。
  「私7」から「私9」までが、心の領域を超えた「超心理=スピリット」の領域です。
その領域は、心の奥からただじっと見つめているだけの「私」です。
 「私7」から「私9」に進めば進むほど、個体意識の個別性が薄れてゆきます。

 ケン・ウィルバーが引用している「私9」のラマナという人の言葉です。

「人々は、『自己(私9)』を何かのようであるかのごとく、見たがる。
目もくらむような光などと。
しかしどうすればそんなことが可能であろうか。
『自己(私9)』は光ではないし、暗やみでもない。
何か観察できるものではないのだ。
『自己(私9)』とは永遠に目撃者である」ケン・ウィルバー『進化の構造1』春秋社、483ページ

では、「私9」から「私10」との違いとは何でしょう。

 『自己(私9)』には、個体として成立させるわずかの個別性が残っています。
個別性がまったく無くなり、ただの純粋な意識だけの状態になった時が、「私10」です。

 サーカーによれば「私10」の個別的属性をもたない意識とは、この全宇宙の出発点であり、それを材料としてこの全宇宙が成り立っている意識です。
サーカーはその意識を「至上の意識」(パラマ・プルシャ)と呼びます。

 すなわち「私10」とは、有限の個別自己が無限の中に融合した状態です。
それは「非二元」の境地です。

 したがって「私10」の意識は、「時、場所、人」の限界の超えた「無限」「永遠不変」の中に確立した意識です。

(注)
サーカーは、「無限の意識=至高の意識」が、自分の「個体意識」の出発点であることに気づくことですから、「私10」に達することをself-realization(自己認識)と言います。
Enlightment(悟り)とは言いません。

ケン・ウィルバーの場合は、サーカーの「無限の意識」にあたるものを、仏教の影響を受けて、「空」や「無」であらわしていますが、説明している中身は、サーカーと同じことです。
まだやや理論的に不徹底なところを感じます。

 サーカーの言葉で、説明します。
(  )の中は、私が書き加えたところです。

「不死性の達成とブラフマの認識(=私10)への道の最後のハードルは、個体のヒランヤマヤ・コーシャ(=私9)です。
ヒランヤマヤ・コーシャが存在する限り、サーダカ(=スピリチュアル・プラクティスをおこなって私10をめざしている人)は絶対的真理を認識することができません。
創造の魅惑と破壊の恐れが常にサーダカを動揺させます。
その無限の栄光の中の最高存在は、ヒランヤマヤ・コーシャ(私9)を超えたところに位置しています)
(ヴェーダの直観科学 The Intuitional Science of Vedas)

究極の境地 

「私10」

 「私10」はサティヤ(サーカー)、非二元(ウィルバー)と表現されています。
 「私10」は、「心」の領域を超えて、さらに「超心理」の領域をも超えていますから、心の領域にある言葉で表現することが不可能です。
 「私10」の「私」は無限の意識の中に消滅しています。
(ですから、本当は、「私10」という表現は不適切です)

「ブラフマは議論することができない実体です。
彼はすべての議論を超えています。
なぜなら、心の小さな領域の中に入る対象しか議論のテーマにできないからです。・・・

 もし、「神があらわれて『汝は私の愛しい息子である』とか『汝は最後の預言者である』と告げたと誰かが言ったとしましょう。
このように言うと、だまされやすい人からは尊敬を得るかもしれません。
しかし、識別力のある判断力をもつ人々には受け入れられないでしょう。

 というのは、人に直接的に見えるものは、すぐに議論と論理の領域の内部に入り、当然形を持ちます。
この点で、それは、ニラーカーラヴァーダ(神の無形性)の説と対応しません。
 人類は意識ある存在です。
人は、非論理的なことや虚偽は受け入れるべきではありません。
心が存在しないところで、神は何を言えるでしょうか。
そこで誰が神の言うことを聴くことができるでしょうか。・・・

ブッダの弟子が、彼Heが存在するかどうか聞きました。
ブッダは無言でした。
弟子が彼に「その時、彼Heは存在しなかったですか」と聞いた時、ブッダは言葉を失ったままでした。

 その結果、何人かの人々は、ブッダは、神が存在しないと言いたいのだ思い込みました。
その時、何人かは神の存在を推論しました。

 しかし、本当の直観主義者である人々は、彼が心の領域を超えた実体、すなわち「ある」か「ない」かの領域を超えた実体であることを理解していました。

心の活動範囲にやってくるものは相対的真実にほかなりません。
永遠の真実ではありません。
だからそれは、移り変わってゆきます。
経典や神話は、積み重なったレンガの山のようなものです。
それらは、層をなして積んであるだけであり、本質的な価値はありません。
どうして、それが心の領域を超えている究極の実体を描き、説明することができるでしょうか」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE (SHREYA ANDと PREYA) [初期の編集ではBLISS AND PLEASURE]

  サーカーは、この「私10」の「個体の意識」が「無限の意識」に融合する境地に達することを、人生の究極の目標であることを、旅人が北極星を道しるべにするように常に頭において生きなさいと言います。
そうすれば「私3」の人は「私4」に、「私4」の人は「私5」へと階段を一歩一歩のぼり、道をはずれないように進むことができると思います。

「私10」をめざして

(「私10」とは、一者=多者)

この世界は一者が多者として展開しており、一者=多者です。
一本の木とその枝の関係です。
木と枝は、一者=多者であるのに、枝は、木とは別の存在であると感じています。
枝が木であることを知るようになることが、「私10」への道です。
そのためには、二つの実践が必要です。
一つは一者に近づくことです。
枝の心が内面的に木の心に近づくことです。
もう一つは、多者の幸せのために尽くすことです。
枝が、他の枝を支えたりして、その一体性を認識してゆくことです。

(一者の方向へ・・スピリチュアル・プラクティス)

前者とは、直観科学、すなわち黙想を中心としたスピリチュアル・プラクティスによって精妙な心の状態をつくりだしてゆくことです。
そして意識を無限に拡張させる同時に、存在するものすべてへの愛をもてるようになることです。
ちょっと長くなりますが、サーカーの言葉をそのまま紹介します。

「すべての個体の対象は外的です。
そのような個体の対象に対する愛は、決して永続できません。
なぜなら、心は常にひとつの対象から別の対象に飛び回るからです。
私が、あなたの愛を個体から撤収して、自分自身を全体の中に融合させなさいというのはそのためです。

個体を魂soul あるいは神 Godと取り違えてはいけません。
その人の最奥の自己selfへの到達は 無限に対する愛によってのみ可能です。
劣っているふりをしてはいけません。
結果として怠け者になります。
自分の心を無限への愛で満たしなさい。
あなたの魂は至高の魂Supreme Soulに転化してゆくでしょう。

現世的な幸福には限りがあります。
自分自身を至高の魂Supreme Soulの至福の海に捧げなさい。
その時のみ、あなたは幸福が本当には何であるが分かるでしょう。・・・
この世の義務を誠実に実行し続けなさい。
そして同時にあなたの内部の純粋の自己 pure selfについて考えなさい。
あなたの内奥の純粋の自己Selfについての恒常的な思考はいつの日かあなたのもともとの源の中にあなたを確立するでしょう。
これがサーダナー(スピリチュアル・プラクティス)の究極の目的です。
魂は、もともとピュア(純粋)です。

 心はその活動のためにサンスカーラ(反作用の潜在力)と結びついています。
個体が生死の奴隷になるのはそのためです。
すべてのサンスカーラが精神性のサーダナーと心の浄化を通じて壊される時、人は、生死を超えて不死の永遠の領域に進みます。
そこでは魂soul と至高の魂Supreme Soulの区別はありません」(ヴェーダの直観科学 The Intuitional Science of Vedas)

(「多者」の方向と「一者」の方向にバランスがとれていること)

だからといって、この粗大な現実世界から背を向けて、瞑想だけしていてもだめです。
粗大な現実の方向に向かうアヴィディヤーと精妙な内奥に向かうヴィディヤーの両方向にバランスよくとりくんでくことが、「私10」への階段を進んでゆく道です。

「ヴィディヤー、アヴィディヤーのふたつの原理のどちらかひとつでは、救済は不可能であると主張してきました。
解放salvationの達成のためにはヴィディヤーとアヴィディヤーの間にバランスがなくてはなりません。
ブラフマに向かう運動は内向き (ヴィディヤーVidya')でなくてはなりませんが、現実の世界について完全にアヴィディヤーを放棄すべきではありません。

  現実の世界に対して通常の意味と神性な意味をもたせることによって自分自身のスピリチュアルな生活方法と両立させるべきです」(ヴェーダの直観科学1 The Intuitional Science of Vedas)

 外部世界の不公正に目をとじて、心の内側だけを追求することは欺瞞的生き方であり、「私10」には到達できず、二重性の病に苦しみます。

「客観的な世界では、人間は、宗教、文化、政治経済などの生活を持っています。
誰がこれらを拒むことができるでしょうか。
それらを拒む人は、ペテン師です。
その人は真実をゆがめています。
そのような人々は、決して、自分自身のためにも、自分たちの世界のためにもどちらにもなんらの良いことができません。
彼らは、常に二重性の心の病気に苦しみます。
すなわち、彼らの内部の心と外部の表現との間が一致していないのです。
この心理的二重性は、非常に深刻な心の病を生じます。
それは最後に彼らを破滅させます」(Samasama'ja Tattva)

 そしてすべての人類が衣食住、教育、医療が保障される世界をめざして活動するなどのネオ・ヒューマニズムの観点を身につけて活動する中でこそ、その二重性の病から解放されるます。

 「他の人が何を言おうとも、すべての人間が、食物、衣服、住居、教育、医療の権利を持っていることを私は心から信じます。
原理として彼らの権利を認めたというだけでは不十分だ。
正直な人間として、私は、彼らが自分たちの権利を実現するよう最大限の努力をします」(Samasama'ja Tattva)

(天地万物をブラフマのあらわれと見る)

このようにネオ・ヒューマニズムの精神とは、全人類、全生命、全存在を尊いものとして見る意識です。

「この世界は変化しつつあります。
動きつつあります。ジャガトjagat (世界world)という言葉は、語根の gam-kvipに由来します。それは『動いていること』を意味します。
この天地万物はブラフマの心の表現です。
すべての思考過程は動いており、御しがたいものです。
それは、この世界がブラフマの心理的顕現だからです。
すべての思考過程は、動いており、御しがたいものです。・・・

今日、美しく思えるものは、明日は必ずしもそうではありません。
今日、おいしいハタハタ(砂糖菓子) は数日後には食べられなくなっているでしょう。
実際、原型を保ったままの形を請け合うことすらできないでしょう。
あらゆる個体は変化の状態にあります。
それが個体の対象を源とする喜びが、永遠に続くことができないのはそのためです。

だからサーダカ(精神性の修養者)は何をすべきでしょうか。
あらゆる個体の対象に神聖さがあるとしなくてはなりません。
あらゆるものが神の顕現です。
それが土地であれ、家であれ、川であれ、山であれ、 敬意であれ、侮蔑であれ、昼であれ、夜であれ、あらゆるものはブラフマであり、個体としてのブラフマの顕現です。

すべての対象が私たちへのブラフマの贈り物だと考えて適切に用いなさい。
何かを楽しんだり、耐えたりすることは 、ブラフマを楽しんだり、耐えたりしていることです。
個体unitへの執着を避けなさい。
完全な全体integral wholeとつながりなさい。
あなたがそのように生きることができた時、他人の財産を自分のものとしたい願望はまったく消えるでしょう。・・・

諸対象を神性に帰することは、有限なものを背後にして無限なものを追求することを意味します。
あなたは息子を養っていますか。
いいえ、あなたは息子のようなブラフマの現れを養っているのです。
あなたは畑を耕していますか。
いいえ、あなたの鋤で、ブラフマの有限の現れに奉仕しているのです。
実際のことを言うと、対象を神性に帰することは、その時、対象は非物質的な最高のブラフマに溶け込んでいるので、物質的に楽しむことを不可能にします。
このように、自分を本当のヴァイラーギヤVaera'gya (すべての官能的喜び放棄)の中に確立した人の心は、決して、有限の対象に執着しなくなることができます。
その最中でさえ、その魅力(引力)のとどく範囲を超えてあることができ、死後、永遠の平穏を得ます」(ヴェーダの直観科学1 The Intuitional Science of Vedas)


(注)「超心理学」「トランスパーソナル心理学」

「私7」「私8」「私9」「私10」は、心の領域を超えているので、「超心理」です。その領域の学問として、サーカーは、「超心理学」として論じ、ケン・ウィルバーは、「トランスパーソナル心理学」として論じています。
(ただし、ケン・ウィルバーは、トランスパーソナル心理学はその狭さを超えてゆかないと学問界から見捨てられるだろうと独自に「四象限統合アプローチ・全レベルアプローチ」という「統合心理学」を創始しました)



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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