Declaration of Global Citizenship
(video inspired by god of star)




(This stage of morality sees all human beings as member)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article is development of morality.
I introduce little by little.

This part is post-conventional stage of morality.
Post-conventional stage of morality is way of universal.
This stage of morality sees all human beings as member.


こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文はモラリティの発達です。
少しずつ紹介します。

この部分は,ポスト慣習段階のモラリティです。
ポスト慣習段階のモラリティとは,普遍的なあり方です。
この段階のモラリティはすべての人類を仲間とみます。


第三部 世界中心思考  普遍性の獲得  (後慣習道徳段階)

「私5」の成立・・・合理的自我

「私4」は、心の中で、見る私(主観)と見られる対象(客観)が、分離することで成立しました。
その分離によって社会から見られている私の認識が成立し、社会から期待される役割を果たす「よい子」になります。

「私5」とは、「見る私」と「見る対象」の両方を見ることのできるレベルに達した「私」のことです。
「私4」の段階は主観と客観が分離することで生じましたが、「私 その5」の段階は主観と内奥の自己が分離し、主観を客観化できることで成立します。

「私4」は、主観(私の心)にはりついており、客観的に観察できません。
主観(私の心)は、自分の属する社会の文化やルールの中で形成されます。
したがって、どうしても「自分のグループ中心思考」になります。

「私5」の内奥の私は、「私4」のように自分のグループへのはまり込みから脱却します。
自分を「日本国家」「日本人」に同一化しません。
もっと普遍的な目、中国人も日本人も同じ人間であり、日本人と中国人を超えたレベルから考えるようになります。

「私5」の病理・・アイデンティティの危機

「私5」への到達は、社会中心思考(自分の属するグループ中心思考)から、より普遍的な見方(世界中心思考)への大きな飛躍でした。
しかし、この飛躍の時期は、青年心理学では「アイデンティティの危機」といわれ、心は不安定となります。

 この危機は、心の前進ゆえに生じます。
「私4」は、自分の属する社会にはめこまれており、自分の所属する社会と自己を同一視(アイデンティティ)し、その中に安住していました。
しかし、「私5」への到達は、心を統括する中心点(見つめる中心点)が、自分の所属する社会へのはめ込みから脱却する地点に達することです。
そしてこれまで安住していた集団への問いが生じます。
「自分は何者なんだろうか」あるいは、「日本人とはなにか」などの自分の所属する集団への問いが生まれます。
日本の教育を受けてきた外国籍の生徒は、とりわけ、この時期に自分のアイデンティティへの問いが強くでてくると考えられます。

 ところが、「私4」の段階にある人々は、アイデンティティの危機から発せられる問いが理解できません。
むしろ、その問いは、「私4」の人にとってきわめて不快なものです。
自分が同一化しているグループへの問いは、そのまま自分のアイデンティティをゆるがすものになりうるからです。
「良かれ悪しかれわが祖国」から「本当に我が祖国は正しいのだろうか」という問いに発展してゆくからです。
「私4」のまま理論的(ドグマ的)に固めた人間は、自分の心の安定のために「私5」への発展の封殺にかかります。
たとえば、「反日」(非国民)とかの言葉は、それをあらわしています。
「私4」から「私5」への発達を封殺するためには、「〇〇人」としての民族的ドグマを注入しようとします。

 国際化が進む中で、犯罪の国際化とともに、一般の人々が日常的に「外国人」と交流し、同じ人間として親近感をもってゆくなかで、「私4」に固執する人々は、危機意識をもち、教育の中に「愛国心」「日本人としての自覚」をもちこもうとします。

  「私4」段階にある一般の人々は、自分中心で社会的マナーを尊重しない「私3」の増加、外国人犯罪の増加などへの不安からその動きに追随してしまいます。

 それへの対案は、「人間としての自覚」、「ひとつの人類の一員としての自覚」に導くことです。
「人類の中の日本人、あるいは〇〇人」とかの自覚に導くことです。
私たちは、ひとつの人類が多様な展開をしている存在です。
  青年心理学でいうアイデンティティの危機は、青年期に限りません。
「私4」から「私5」に脱却する時点で、どうしても乗り越えざるをえない山です。

(日本が小さい国にわかれて、「薩摩藩のものだ」「長州藩のものだ」「会津藩のものだ」とかいっていた時、勝海舟や坂本龍馬たちは、日本人のアイデンティティでいこうと考えました。
彼らは、「私5」のレベルにあり、「私4」を脱却していたからそれができました。
当時の交通・コミュケーションのレベルに限界がありました。
現代は、「ひとつ人類」が提起されるところまでグローバル化が発達しています。
たとえば、世界社会フォーラムの憲章にある「惑星社会」の言葉にそれがみられます)

 「私5」の病理、自己の経験への同一化

「私5」は、心の中心点が深化することによって、自分の属する「社会」にはめこれまれた状態から脱却し、自分の属する集団を超えた視野から見ることができるようになりました。

それゆえ「私5」は、自分の所属する集団を超えた科学的で合理的な万人にとっての普遍的真理(誰にも共通する正しいこと)を信じます。

しかし、この顕現した世界における真理は、「時、場所、人に応じて変化する相対的なもの」(サーカー)です。
たとえば、ある時点で正しいとされた理論も時がたてば、かならず現実から遊離してゆきます。
実際には、この現象している世界には、唯一の絶対的真理はありえません。
真理は相対的なものです。ある時点で正しい論も時間の経過の中でその正しさのレベルは必ず劣化してゆきます。
ある科学的真理を絶対的な真理と勘違いして科学的真理をドグマ(教条)としてしまった時に「私5」の病理が発生します。

20世紀に人類の解放を担った進歩的思想は、大きな成果を上げましたが、すべてこの弱点をもち、より大きな統合に成功せず、分裂してゆくことになりました。

別の角度から考えましょう。
「私5」の合理的な心は、「もし、こうしたら・・こうなる」というふうに仮説を立て、実践し、そこから演繹するという科学的で合理的な思考ができます。
しかし「発達は、ここで皮肉な旋回を行いうる。
経験と行動に統一性と統合を与える原則としての自己の代わりに、自己の経験と行動に同一化する」ケン・ウィルバー『進化の構造Ⅰ』春秋社、410ページ。
ある社会運動の経験と行動に同一化した自己は、別の立場の運動と統合してゆくことができません。

今日、分裂ではなく、統合が求められています。
それは「多様性における統一」という原理によって成し遂げられます。
そのためには、経験と行動に同一化した自己を観察できるさらに深みにある「自己」である「私6」に到達しなくてはなりません。
その時のみ、経験と行動に統一性と統合を与える自己の回復が可能になります。

 「私6」の成立・・・普遍的多元主義(多様性における統一)

「私6」は、心の池のもっとも奥底に達した自己です。
もっとも奥底に達しているが故に、自己が普遍的真理に同一化することから、解き放たれ、すべてを客観的に見つめることが可能になります。

この世の「真理」は相対的であるがゆえに、普遍的真理(誰にとっても正しいこと)と思われる原理も、その具体化は、時、場所、人、すなわち状況に応じて多様であるべきことに気づきます。

「私6」は、私たちが「一つの人類」であると同時に、その「多様性と多元性」が尊重されるべきであると考えます。
「この世に原子、電子にいたるまで同一のものは何一つない」という徹底した多様性の観点をもち、その多様性を抹殺しようとする傾向とは闘うようになります。

ソ連の「社会主義」もアメリカの「自由と民主主義」も、自分の制度やあり方を唯一正しいものとして世界に戦争までして押しつけてきました。
「社会主義」「自由と民主主義」を普遍的真理(どこにもあてはまる真理)ではありません。
それらの原理も「時、場所、人」に応じて適用を変化させるべき、相対的真理です。

(もちろん、イラク侵略戦争を指導したブッシュ大統領のグループは「私4」のアメリカ中心主義ですが、その大義名分は「自由と民主主義」の「普遍的」真理でした)

この現象世界に唯一の真理という普遍主義を持ち込むことは、押しつけ以外の何者でもありません。
「私6」は、「多様性における統一」という多様性を前提とした普遍主義です。

2001年に発足した「世界社会フォーラム」の「原理憲章」の10章には「世界社会フォーラムは、経済や発展・歴史を一つの視点から解釈したり何かの原則に還元したりすることに、すべて反対します」とあります。
この文章の起草者のグループは、この世の真理は相対的である自覚した「私6」に達した人々であることがわかります。

「私6」の病理・・・実存的苦悩

「私6」は、この世の真理が相対的であり、絶対的なものではないことを認識できます。
「あれも正しい、これも正しい」と複数の真理が認識できる普遍的多元主義者です。

そして「私6」とは、心の池の最深部にまで達した自己でした。
そこからは自分の心と身体のすべてを見つめることがきます。
その自己は、私のすべてを見る故に、「その終末、死を見る。・・・極度の実存的な不安が忍び込む」415ページ、
これが、「私6」の特徴的な病理です。
心の中は陰気になります。
トルストイは50歳の時に次のように書きました。

「『なぜ、生きていなければならないのか?
いったいなぜ、それを望まなければいけないのか?』
いや、もう一度言えば、
『私の前に避けがたく待ち受けている死によって破壊されないような人生の意味など果たして存在するのか』

最近、私は同じ言葉を、友人から聞きました。
「おれは、戦争を肯定する風潮に抗して世の中をよくするために最後まで頑張るが、結局、死んだら無になり、意味がないと思っている」
つまり、死についてとらえきれず、ニヒリズムに陥っていました。
その表情は暗くなっていました。

この病理の克服のためには、自己の中心点が、心の池を超えてさらに深い部分に進む必要があります。それは「超心理=トランスパーソナル=スピリット」の領域です。 瞑想などの継続的なスピリチュアル・プラクティスによって、心の領域を超えて、スピリットの領域に自己を深化させることができます。
それは「私7」です。「私6」の病理の克服のためには、「私7」に進むスピリチュアリティの道しかありません。






H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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