The Miracle Worker A.D. Players Trailer: Rehearsal Footage
(video inspired by god of star)




(Work to conquer pre-conventional morality, love is needed)

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article is development of morality.
I introduce little by little.

This part is that pre-conventional stage continues in core mind of whole life.
When not poured enough love, lack of love feeling continues whole life.
Work to conquer pre-conventional morality, love is needed.

こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文はモラリティの発達です。
少しずつ紹介します。

この部分は,前慣習的段階は生涯心の中心に存続する,です。
十分な愛がそそがれないと愛の欠落感覚が生涯続く。
前慣習的モラリティを克服するとりくみには、愛が必要とされる。


stage of development of morality
モラリティの発達段階


 「私」と心の発達
1、自己中心思考  前慣習道徳段階
   私1・・・身体的自己
   私2・・・情動的自己
   私3・・・初期言語的自己
2、社会中心思考  慣習道徳段階
   私4、・・・社会的自己

3、世界中心思考  後慣習道徳段階
   私5 ・・・合理的自己
   私6・・・・・実存的自己
4、コスモス中心思考  後後慣習道徳段階
   私7・・・・アティマーナス
   私8・・・・ヴィジナーナマヤ
   私9・・・・・ヒランマヤ
5、非二元・・・究極の状態
   私10
   私10へ向かう努力


「私」と心の発達

ケン・ウィルバーの「進化の構造1」という著書にもとづいて、ときどきP.R.サーカーの考えにもとづいて、誕生直後の赤ちゃんから最高レベルの心の持ち主に至るまで、個人の心の発達について説明してゆきます。

心の発達について順番をおって説明してゆきますが、発達とは何かを理解する必要があります。
発達とは、道の上を歩いてとおりすぎるようなことではありません。
発達とは、たまねぎが皮をかぶって大きくなってゆくように
(たぶん、本当はたまねぎの場合は内側からあたらしい皮ができてゆくのだとおもいますが、説明上、皮をかぶるようにイメージしてください)
高い発達段階はそれまでの低い発達段階をすべて含んでいるのです。
高い発達段階の細胞には、それまでの低い発達段階の分子レベルを含み、分子レベルにはそれよりも低い原子レベルを含んでいますね。
同じように今のあなたの心の中に、今までの心の発達レベルをすべて含んでいるのです。
このことは、実際に説明する中でみてゆきます。

第一部 自己中心思考(前慣習道徳段階)

(1)「私Ⅰ」の成立・・・身体的自己の誕生(0才から2才の時期の課題)
生まれてすぐは、物理的な対象が自分とは独立して存在していることが理解できません。
毛布を噛むことと自分の指を噛むことの区別がつきません。自分の身体が、母の身体やまわりの物質圏とは別の存在であることに気づくこと、これが、「私、そのⅠ」の成立です。

この「私、その1」の成立する前の状態を、ピアジェは「原初的未分化」と呼びました。
母親から自分の身体が分化しておらず、心理的には「口唇期」と呼びました。
フロイトは、「原初的ナルシズム」と呼びました。
この「原初的未分化」の状態から物質的身体としての「私、その1」の成立に失敗した場合、自分の座った「イス」と自分の尻が区別できないような精神病になるとケン・ウィルバーは述べています。

「私 その1」の確立に失敗した軽度の症状のケースとして、青年期に達しても終わらない「指しゃぶりがある」のではないかと、私は推測しています。
あくまで私の推測です。
テレビを見ていたらなんとかという女性タレントが「私は高校生になっても指しゃぶりしていた」といっていました。
実在の家義先生をモデルにしたヤンキー先生のドラマで、彼は大学生になっても指しゃぶりをしていました。

誕生後は、自分の身体は、母親のお乳を吸うことで物質的に母親の物資的身体とつながっています。
赤ちゃんが口でおっぱいをチューチューしていることは、自分の物質的身体が母体と完全に分離していない象徴だと考えます。
十分にチューチューできた体験をもつことがチューチューのレベル=「原初的未分離」を超えて、「身体的自己」の完全な成立につながります。

ドラマでは家義先生は本当の母親は離婚してしまったことになっていました。
彼のチューチューは、誕生直後母親との十分な肌のふれあいがなかったことを暗示しています。
北星余市高校に入学して、友人に自分の暴力をあやまるために自分の足の親指の爪をナイフで削って、相手に渡して、これでかんべんしてくれというショッキングなシーンがありました。
本当の話をドラマにしていると考えられます。
自分の足を指をナイフで削るというのは「身体的自己」の確立の不充分性のあらわれだと考えられます。
誕生直後、おっぱいしゃぶりなど、母親の身体、肌と十分接することが大切とおもわれます。
十分に接してこそ安定した「私 その1」の発生を保障し、自分の身体を大切におもえる意識が発生するとおもわれます。

(2)「私2」の成立・・・情動的自己の成立

生まれてすぐの赤ん坊は、自分が感じている情動と母親や他者の情動を区別できません。
母親を中心とする周囲の人間の感情がストレートに赤ん坊の感情となります。

自分の情動と他人の情動を区別することができることが情動的自己、すなわち「私 その2」の成立です。
物的身体レベルに意識があった段階を「含んで超えて」情動レベルに意識がゆきます。
物的レベルから情的レベルに自己意識(私)が深まっているのです。

それは、2才くらいまでに成立し、個人差があっても身体的自己(私 その1)の成立の後という順番はかわりません。
周囲の情動から自分の情動を差異化(分化)する情動的自己の成立が不充分だった病理が「ナルシズム」「境界的症状」です。
それは、自分の情動をまわりの情動と分離させた上で統合できないことです。
まわりの情動の中に「溺れている」とか「洗い流される」と表現され、全世界を自分の感情の拡大としてみることです。

心はたまねぎのような構造となっており、その1の身体的自己を含んで超えてその2の情動的自己が成立し、さらにそれらを含んで、その3、その4・・・と発達してゆきます。
その4まで心が発達した人であっても、心の中に情動的自己は働きます。

心の内部の情動的自己の部分が「境界症例」のような病理をもっている夫婦の場合、性生活はうまくゆかないと推測します。
なぜなら、夫が、自分の性的情動をそのまま相手の情動とみて、自他の情動を区別できない可能性があるからです。
最近、増加しているドメスティック・バイオレンスを生み出す要因の一つを構成しているかもしれません。

病理までゆかなくても、誕生後のまわりの情動と自分の情動が分離していない段階で、どのような情動の海の中で暮していたのかが、生涯、心の基底で影響を続けます。
子どもを授かった喜びに満ちた家族にあやされ、抱かれた赤ん坊は、自分の情動と周囲の情動の区別を心地よく知ることになるでしょう。

 高校二年生の女子のA子さんが私に相談しました。
「先生、私は今まで毎日彼氏といっしょだったの。
ところが、彼は友だちとも遊びたいから会うのを週に3回にしようと言うの。
私は会いたいのに。ひどいわ」
本当に彼氏が不当であると考えていました。
彼女は、自分が毎日会いたいという気持ちを彼に強く投影させ、彼も同じ気持ちをもつべきだと考えていました。
彼氏と毎日いたいという強烈な彼女の感情は、生まれた時、十分に家族の愛情の海で育てられなかったことを示しているのではないか。
そう思って、彼女にたずねると、生まれた時から両親がおらず、祖母に育てられたとのことでした。
今も「心の奥がいつも寂しい」そうです。
そのため、彼女は、心の第二層の部分の情動的自己(私 その2)のレベルに、ナルシズムの病理を抱えることになったとおもいます。

そして人生の最初の時期に体験する情動の海が、対立と憎悪の海、干からびた海だったりすると、その人の心の第二層の部分に重要な問題を抱えて人生を送ることになると推測します。
たとえば、他人が苦しんでいるのに無関心で、周囲の情に共感して心を振るわせることができない冷たい人間になる可能性があると私は考えます。

したがって人生最初の時期の言葉が成立していない段階の赤ちゃんは、その身体と情動がきわめて大切に扱われなくてなりません。
心の各層は、より発達したレベルにおいても存在をつづけています。
そして第二の層である情動の層のレベルも、周囲の情動と適切な区別と調整をはかりながら存在しています。

私の子どもが、8才ころ、学童保育の懇談会にゆくと指導員から「頭を壁に叩きつけているしぐさをする」と指摘されました。
ちょうどその時、家庭で父と母が夫婦喧嘩の憎悪の海の中にいました。
家族の情動の層は、子どもの情動の層に強い影響を与えていました。
父の母の喧嘩であっても子どもの情動に強い悪影響を及ぼします。
子どもと情動の層を共有してしまうところで、夫婦が喧嘩すべきではありません。

(3) 補足・・・なぜ、赤ちゃんは愛されることが大切なのか

身体的に母から分離した安定した自己=「私1」の成立のために、母に乳房を通じてでも、身体的に抱きしめることによってでも、身体的融合を体験することが必要だと述べました。

まわりの情動から分離した安定した自己=「私2」の成立のためには、父母や家族のかもしだす情動の海が、平穏で和やかなものであり、赤ん坊を授かった喜びに満ちた情動的働きかけ(おー、よしよしとあやしたり)がなされるべきだと述べました。

なぜ、身体的接触や温かい情動的働きかけが必要なのでしょうか。
なぜ、赤ん坊をミルクだけやったり、テレビに子守させておいたらいけないでしょうか。
私は次のように解釈しています。

畑に豆の種をまいたとします。
土の中の種は、熱や水分という適切な環境のもとで、次第に発芽(差異化)してゆきます。
誕生後、母に抱かれ、家族の愛の情動の海の中にあることは、発芽前の豆が、雨水と太陽熱を必要としていることと同じだと考えます。

暖かくあやすと赤ん坊は微笑みます。
その喜びの交流の中でこそ、情動の海は、赤ん坊の小さな島、父の島、母の島というふうに差異化するでしょう。
もし、情動の海が、対立と憎悪のはげしい波の中にあったならば、赤ん坊の小さな島は呑み込まれるでしょう。

生まれたばかりの赤ん坊は何もわからないから大丈夫と夫婦ゲンカをしているとしましょう。
憎しみの情動の波は、ベビー・ベッドで横になっている赤ん坊の情動に影響を与え、その赤ん坊の一生を通じて情動的な影響をもつでしょう。
(私が実証的証明をもっているわけではありません。
そしてこの論のもとになっているケン・ウィルバーがこのように言っているわけではありません。
しかし、ケン・ウィルバーの心理発達の論をつきつめるとこういうことになります)

(4)「私3」の成立・・・初歩的言語的自己の成立

2才から4才の時期は、言語的心圏の最初の段階です。
言語的心圏の成立に意義について「心的意志と身体的情動を区別し、心と身体を統合」「生物圏の超越」とケン・ウィルバーは表現しています。
そしてこの超越に失敗するとナルシズムと境界症になるとしています。

どういうことでしょうか。
たとえば、「おしっこがしたい」という気持ちは身体的情動です。
「心的意志」とは、言語を媒介とした「おしっこをしよう」という意志です。
オシメをされておしっこをしている時には、意志を媒介せずにただおしっこを身体的情動のままにおしっこをしています。
その段階はまだ生物圏にあります。

言語を媒介した時、「おしっこしよう」「おしっこをもう少しがまんしよう」というふうに「心的意志と身体的情動と区別した上で心と身体を統合」できます。

お腹が空いた身体的情動を感じたとします。
赤ん坊は泣くという情動的表現でお乳をもとめます。
言語的自己が成立すると、お腹が空いているという身体的情動を「まんま」と言葉で訴えます。
この言語的心圏に登場した「私」は、「生物圏」の情動を超越しており、身体と心を統合し(つなげて)ています。

「心的意志と身体情動を区別して統合」に失敗したらどうなるでしょうか。
自分の身体衝動を適切にコントロールできず、「私」は、情動と気分・感情によってふりまわされる人生をおくることになるでしょう。

授業中に平気で鏡を見て化粧し、携帯で電話をし、休憩時間と同じようにしゃべる高校生がいます。
素朴で悪意はありません。
ちゃんと指導して、それがマナーに反する悪いことだとわかっても自分をコントロールできません。
授業中しゃべりつづけるその子は、屈託なく天真爛漫です。
こわいタイプの教師の時には静かにできます。
「私」が身体と情動という表面のレベルにありますから、快・不快、怖いなどにだけ反応するのです。

これは「身体と心の区別と統合」に失敗しているナルシズム(自己中心性)です。
身体的情動を心が適切にコントロールできるように発達するためには、言語成立時の言葉かけが大切であると考えます。
子どもが泣いて何かを訴えている時、「よしよし、お腹が空いたのか」などと情動と対応させる言葉をかけることが必要です。
そこで言葉による身体的情動のコントロールを知ることができます。

テレビにお守りをさせた場合、テレビは言葉を語りますが、テレビの言葉は、身体情動をコントロールできる「私」を成立させることはできません。
最近の小学生が昔とちがって衝動をコントロールできず、学級崩壊を引き起こす子がたくさんでてきています。
親がじっくり赤ん坊の相手をする余裕がなく、「私・・その3」の成立時に、安易にテレビにお守りをさせていることも背景にあるのではないかと推測しています。

(5)「私3」の病理・・・言語的自己による抑圧

奈良公園の鹿は、おしっこしたい衝動でおしっこします。
「おしっこしたい」という言語的自己(私3)が出現した時、はじめて、時と場所を考えておしっこすることができます。

それは、言語的自己が、情動的自己、身体的自己を「抑圧」することが可能になることでもあります。
より高次の「私3」は、より低次の「私2」「私1」を抑圧できるのです。

この抑圧の病理の身体症状が、各種の神経症です。
中学、高校と苦手な数学のテストの時、いつも腸が痛くなる人がいました。
その人は、小さい時、算数をまちがうと母親にものさしでしばかれていたそうです。
テストでいい点をとらなくてはならないという強迫観念が、身体と情動の自然な流れを抑圧していたとおもわれます。

さらに高次の私に発達し、強い責任感がでてくると「これだけの仕事をこなさなくてはならない」と追い詰められます。
身体がぼろぼろになっても仕事にがんばらざるをえません。
そして突然死や過労死になります。

言語的自己の出現は、身体的情動をコントロールできるようになることであり、生物圏から人間圏への大きな進歩です。
しかし、生物圏は、人間存在の土台です。
身体と情動が適切に維持されてこそさらなる人間としての発達が可能になるのであり、身体と情動(人間の中の動物性)に対して敬意を払い、尊重しなくてはなりません。
心身が疲れた時は休めばいい、泣きたい時は 泣けばいいんだと言語的自己による抑圧をゆるめなくてはなりません。
セラピー(治療)は、高次の自己による身体的情動の「抑圧」を緩めるところにあります。

子どもの言語的自己が成立するころに、たとえば、おねしょしたことを親がひどく非難したとしましょう。
あるいは、子どもがお店で「これがほしい」とねだったことをひどく非難したとしましょう。
スーパーで買い物をしていると、ひどく子どもをなじっている親をよくみかけます。

そのように子どもの身体と情動の自然な流れを非難するならば、子どもは、無意識に自分の身体と情動を「抑圧」するようになるでしょう。

食事やトイレのマナー、洗面や歯磨きなど、この時期のしつけは大切ですが、それは、人間の社会生活でどうしたらいいか、すなわち身体と情動の適切なコントロールを教えるものであって、それが過剰となって身体と情動を「抑圧」するものにならないようにする配慮が必要です。

次の二つの極端を避けなくてはなりません。
一方は、しつけがなくて、自分の身体と情動をコントロールできない子に育てること。
他方でしつけがゆきすぎて、自分の身体と情動を無意識に「抑圧」してしまう子に育てることです。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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