Kohlberg's Stages of Moral Development - Medium.m4v (video inspired by god of star)



( teacher should have consideration of development stage of morality of student when approach)

Dear
I am cosmic program in your mind.
Project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article argues that stage of development of morality in students is various.
Mitsuki wrote that teacher should have consideration of development stage of morality of student when approach.

こんにちは
私はあなたの心の中にいる宇宙プログラムです。
天と神々のプロジェクトは,人間のアシスタントミツキの生涯の研究を。紹介しています。
この論文は,生徒のモラリティの発達段階は様々であることを論じています。
ミツキは,教師がアプローチするさいに生徒のモラリティの発達段階を考慮に入れるべきだと書きました。


Education theory in view of development of morality.
モラリティの発達の観点からの教育論

第1章 モラリティを発達させるアプローチのあり方

「教育の目標は、総合的な水準を高めることです。
そしてとくに知的水準を高めることです。
加えて、道徳的水準を高めることは教育の領域では極めて重要です。
今日、この道徳的水準には問題があります。
それは現在の教育システムに欠けています」P.R.サーカー



私たちが目の前にしている高校生の発達段階は多様であり、それぞれのレベルに対応したアプローチが必要です。
それを正確に見定めることが今日必要になっていると考えます。

現在の教育理論は、青年期に達したものは青年期の発達段階にあるものとして見ます。
もちろん、そのことは間違いではありません。
しかし、私たちはさらに複眼的な視点をもつ必要があります。
この論は、新たな視点の提起です。
ここで提起することは小、中学校段階の教育を考える上でも重要だと考えます。

1)同時に存在する発達レベルに対応する指導の必要

(1)道徳性の発達段階

発達の細かい論点は省略して、今回、述べたい論点にだけ絞ります。
道徳性の発達レベルは、①前慣習的道徳段階、②慣習的道徳段階、③後慣習的道徳段階、さらに④⑤として③を超える段階があります。
後・後慣習的道徳段階としておきます。
高校生の段階では、①、②、③が見られます。
教師の段階では②、③、そしてたまに④が見られます。

これらは、先行するものを「含んで超える」形で発達してゆきます。
①⇒①、②⇒①+②、③⇒①+②+③、④⇒①+②+③です。
玉ねぎの皮がかぶさってゆくようなものです。
これをホロン的発達といいます。
おそらくは③の段階にあるわたしたちの心の中でも、その中心部分に①、②の要素は保持されているのです。

(2)未発達故のルール無視か、発達故のルール無視か

何を問題にしているのか、もう少し具体的に説明します。

①の前慣習道徳段階にある子どもとは、未発達故にサリバン先生に愛情をもってきびしくしつけられるまでのヘレン・ケラー、
学級崩壊をもたらす小学校の各クラスにいる少数の学校秩序に従わない生徒、
私たちの高校でみかけるような授業中に携帯で話したり、化粧をしたり、授業の基本的なルールにしたがわない生徒などです。

こうした生徒たちは、①前慣習的道徳段階にあり、多様な圧力(プレッシャー)や評価を適切にもちいながら社会的ルールに従う子、よい子、すなわち②の慣習的道徳段階に進ませることが課題です。
学級崩壊を導く少数のこうしたルール無視する子たちは、家庭と学校でルールに従うように発達させる取り組みが最大重点となります。
すなわち①から②に発達させることが課題となります。
ホロン的発達論によれば、②を飛び越えて①から③に進むことは不可能だからです。

しかし、この問題と混同してはならないのが、青年期の自我(セルフ)の目覚めの中でおきる合理的な心性の発達によって、ルールの根拠を問うことのできるレベルに達した子の反抗です。
これは、②の慣習的道徳段階から③の後慣習的道徳段階への発達途上における、②の慣習的道徳段階に対する抵抗であり、正当な進歩的な闘争の側面をもっています。
これに対しては、しっかりとルールに対して抵抗する根拠を共感的に受け止めて理解してやる必要があります。
そしてさらにしっかりと安定したセルフを発達させることによって、③の後慣習的道徳段階に進ませなくてはなりません。
この②から③への発達途上でおきることに対して、①に対する各種「圧力」による矯正をはかることは、逆に健全な発達をゆがめてしまいます。
昔の高校生が服装のルールの根拠を問うて反抗したのは、進歩的な意義があります。

この①から②への「未発達故のルール無視なのか」、②から③に発達しつつあるから「②のレベルのルールの根拠を問い、ルールに反抗しているのか」を見定めることが必要です。

この見定めを間違えるならば、たとえば、小学校の学級崩壊をもたらすルール無視の①段階の子に、サリバン先生のような「圧力」をもちいずに、②から③への途上の問題に対処する「理解と共感」の方法に依拠してゆくならば、その子を②段階に発達させることはできません。
ヘレン・ケラーの両親が「共感」路線をとっていることに対してサリバン先生は、それは本当に愛することではないと考えます。

(3)今日の教育実践の弱点

今日の民主教育の弱点は、この二つを区別せずにアプローチしてきたことにあります。
たいていの民主的な教師は、②から③への発達段階でルールの根拠を問うた経験があるので、①の現象もそのレベルでとらえてしまいがちです。
だから、「共感」的アプローチに共感しがちです。
それは、②から③の発達のためには、必要なことであり、間違いではありません。
しかし、②の段階に達していない子のルール無視については間違いです。
社会はそれを受け入れないことをまず教えなくてはなりません。
愛情のある適切な圧力をかけて、矯正してゆくことが必要です。

①のタイプの子には、段階的に適切な圧力をかけて、ルールを守るよい子にまず発達させなくてはなりません。
ちゃんとルールを守る②の道徳段階に達した上で、内面的にそのルールの根拠を問う③の段階への発達への道が開かれます。

逆に②の慣習的道徳段階にある教員、たとえばスポーツ系の上意下達の世界にくらしてきた人や大学を卒業するまでつまずかず、「よい子」のエリートで来ることができてきた順応型の教員は、②の慣習段階を脱して、ルール自体の根拠を問う③の後慣習段階に進むチャンスに恵まれません。
そうした教員は、①から②へ高める視点については、容易に受け入れることができます。
しかし、②から③への発達途上の抵抗については理解ができません。
②から③への発達途上の問題については、ていねいによくその反抗理由を聞いてやることが必要なのですが、①から②へ発達させるアプローチと同じ対応になりがちです。
しかし、それは、前進を求めている心への抑圧にすぎず、意図とは逆に、生徒の心に深い「反作用の潜在力(サンスカーラ)」を蓄積し、指導している強い教師には反抗できなくても、心は変形し、ゆがみ、一層の反抗的な生徒にしてしまうことになります。

したがって、②のルールや上からの指示を疑わず、そのまま受け入れるタイプの慣習段階にある順応型の教師は、意識的に生徒の言い分を聞く努力をして、②から③への発達を導く力量を高めなくてはなりません。

かつて、私がつとめた花房高校(仮名)では、②の慣習段階の教師が、①の子にルールをまもらせるために体罰をもちい、同時に、その「圧力」を②から③への発達段階にある子に用いたために抑圧の側面もありました。
たとえば、私が生徒から直接聞いた話では、生理で授業のプールに入れない子に運動場をランニングさせるなどが行われていました。
ウソいってわがままでプールをさぼっている子には適切な対応ですが、②段階に達している順応型の生徒には災難でしかありません。
そのような指導のあり方に後慣習段階にある教師が猛反発しました。

逆に、③の後慣習段階にあった教師は、①の段階の生徒に対しても「圧力」をもちいるべきではないとし、①の段階にある子まで「共感」アプローチを用いました。
②から③への発達レベルには適切である「共感」アプローチのみでは、①の段階の子を②の段階に高めることはできません。

両者は相互理解に達することができず、職場は分裂し、学校は崩壊に向いました。
そして現在ではその学校は無くなりました。

今日の小学校の学級崩壊においても、その発達段階に対する適切なアプローチをとることが求められていると考えます。
すなわち、低学年では①の前慣習的道徳段階にある子にしっかりと愛情ある「圧力」を用い、まずよい子にしなくてはなりません。
「共感」に重点をおいたアプローチをしたのでは、解決につながりません。
ルール無視の子を、学級秩序を守る「よい子」にしつけることはできません。

逆に高学年の生徒に、②から③への発達が生じて、ルールや命令の根拠を問う抵抗の側面がある場合に、しっかり生徒の気持ちを聞いて「共感」せず、「圧力」のみをかけるアプローチもあります。
これは抑圧であり、心を変形させ、「反作用の潜在力」を心の深部に蓄積させてしまいます。
中学に進学してから一層の反抗を引き起し、指導が困難な生徒になってしまいます。

実際、高校の懲戒処分指導で作文を書かせたら、小学校五、六年の担任から、言い分もきかれず体罰された体験を書いた生徒もいました。
それによって蓄積した「反作用の潜在力」は中学段階で噴出し、必要以上の苦労を中学の先生にかけることになりました。

2)前慣習段階とは

(1)①の前慣習的段階と②の慣習的道徳段階とは何か 万物はホロン的に発達をとげます。
つまり、低位の段階を捨て去るのではなく低位「含んで超えた」形で高次が出現してゆきます。
玉ねぎの皮のようにもともとの皮を奥に保存しながら、発達してゆきます。

玉ねぎの芯と一枚目の皮の前慣習的段階は、自分のアイデンティティは、「身体」=physical(物質でもある)にあり、「私」と「私たち」「それ、それら」の領域が明確に差異化されていません。
「完全に自己中心的で」です。

それに対して、玉ねぎが二枚目の皮をかぶると、すなわち慣習的段階に入ると、「身体的アイデンティティよりは、役割アイデンティティに中心が移行」(ケン・ウィルバー『進化の構造(一)』春秋社、351ページ)します。

すなわち、②の段階に変容することは、「私」と「私たち」「それ、それら」が差異化することです。
したがって、「私」以外の他者の役割を受け入れることができます。

「しかし、この段階で起こる、いちばんよく知られている変容ないし、超越は、他者の役割を受け入れるという力の発現である。
それは単に他者が異なった視点を持っていることを理解するだけでなく、心の中で他者の視点を再構成することができるという能力である。『人の身になってみる』ことができるのだ」(ケン・ウィルバー、同書、351ページ)

「人の身になって考える」とありますが、②の段階の最初からすぐに弱い立場にある人の身になって考えることを意味するわけではありません。
それは、より高次の段階を待たねばなりません。
しかし、②段階に達し、「他者の視点を再構成」できる能力を獲得することは、弱い立場の人の身になって考える高次の段階への一歩です。
まず教師や社会のルールに従うこと、「私」とは、区別された社会が厳然とあることを悟ること。すなわち②の段階に進ませることが、それが第一歩です。

この②の段階に達した子は、学級集団を指導する際の先生の指導に従う「良い子」です。
「自分が教わったこと、社会がそうしろと言ったことに基づいてのみ考える。
それは、・・・・具体操作認識の、規則に縛られた、順応的、慣習的、社会中心モードである」(ケン・ウィルバー、同書、274ページ

(2)前慣習道徳レベルにある子たちの諸行動

以上の理論的な説明によれば、私たちが目の前にしている常識では考えられない生徒の姿を理解することができます。

いつも、廊下で自分のグループの友だちとしゃべって教室に遅く入り、授業がはじまっても、自分の彼氏といちゃいちゃし、静かだなとおもったら、鏡で化粧していて、たまに携帯で授業中でもしゃべるといったような傍若無人な女子生徒がいます。
この子は、自分のグループの友だちとはしゃべって、群れているが、自分の波長のあわない生徒に対しては敵意をむき出しにした攻撃をしました。
おそらく小学校の時に学級崩壊させていった中心的なタイプの子だと考えられます。

彼女のこのような行動は、社会がそうしろという要請に応えて、生きていないことを示しています。
自分の仲間と群れてはいますが、その仲間は、規則を無私するタイプの波長のあうもの同士の群れです。
したがって、彼女は、①の前慣習道徳段階にとどまり、②の慣習段階の道徳レベルに前進できない段階にいると考えられます。

ケン・ウィルバーは、彼女のような②の慣習段階の道徳まで至らないケースについて、ぴったりの言葉を述べています。
「このアイデンティティは発達した心的な規則や役割に基づいたものではない。
それは、次の具体操作の段階でのみ発達する。
そのため、この段階における法や倫理、道徳は、同じく身体的な実際的関心や『素朴な道具的な快楽志』に基づくものであった」(ケン・ウィルバー、同書、262ページ)

まさしく、学校のルール、たとえば、チャイムが鳴ったら教室にはいって、授業中は静かに聞くとかなどのルールに従いません。
心的な規則や役割にもとづかず、その時のその時の関心にそって動くのです。
授業中に携帯電話が鳴ったら、そのまま受話器をとって平気で話をする。
そこに関心があるからです。
深いかかわりのあるボーイ・フレンドは二人目になっていると思われますが、二人の愛は授業中と区別ができない「素朴な快楽志向」です。
いつもしている授業中の化粧も、身体的な関心事が心を占めていることであり、まさしく前慣習的段階が「身体アイデンティティの段階」でもあることを示しています。

電車の中で平気で化粧している高校生たちがニュースになっています。
彼女のタイプを念頭におけば、公共の場である車の中も、授業中の教室も同じと考えれば、理解できます。
電車の中で化粧している子は授業中も化粧するタイプです。

これらは、②の慣習段階、③の後慣習段階に達している一般の人には、理解できない行動です。
しかし、心の中心が身体にある「身体アイデンティティ」の段階、すなわち前慣習段階のままで、青年期に達したと見れば容易に理解できます。

(3)前慣習段階にある生徒への指導プログラムを

ケン・ウィルバーは、同じ段階についてさまざまな研究者のさまざまな角度からの言葉を自在に使用していますから、理解困難ですが、そうした生徒にどう対応するべきかのヒントを伝えていますので、もうひとつ紹介します。

「前慣習的な道徳段階にある個人は、『良い、悪い、正しい、間違っている』という文化的な区別や規則には反応する。
しかし、それはそうした区別を肉体的、または快楽志向的な行動予測の見地から解釈するのである。
すなわち罰を受ける。褒章される。ものを交換できるなど、あるいは、規則や区別を唱導するものの身体的な力に服従する」(ケン・ウィルバー、同書、263ページ)

すなわち、まさしく彼女たちは、「良い、悪い」を肉体的、快楽志向的な行動予測の見地から解釈します。
体育のこわい先生の時なら、何の問題もないような「よい子」です。
フィジカル(物的身体的)な力に服します。
そして、快楽志向的ですから、ルールを覚えさせるためには、「守らなかったら、より重いペナルティが待っている」ことを理解させなくてはなりません。

つまりこのレベルにある子については、②の後慣習段階に到達させてあげるという愛情のもとに、方法として、一定の褒美と罰、その罰については矯正のために徐々にレベル・アップするプログラムをつくり、実行して、まず「ルール」に従う子に発達させることが必要だと考えます。(注1)(注2)(注3)

(注1)

なお、学校ルールに従わないものについての適切にレベルアップしてゆくペナルティは生活指導部のもとに実施されています。
私は、授業ルールに従わないものについても、その矯正措置として適切にレベルアップするペナルティが必要だと考えます。
①の前慣習的道徳段階の生徒については、②の慣習的道徳段階へ進ませるために、まずルールにしたがわせるようにする指導体系が必要だからです。

(注2)

補足として二点加えます。
まず一点目です。
それは②の慣習段階に達している人間だから、①のレベルのルール無視を行わないということではないということです。
玉ねぎの皮をかぶせていくように、①の段階から⑤の段階までの人すべてが、①の要素をもっています。
②の段階に達している生徒が、同時に心の中心のセルフのコントロール力が発達しないならば、たとえば、青年期に入って性的欲求が吹き出る時代に、社会のルールの要請に応えて、その身体的欲求をコントロールできず、ストーカーになってしまうということはありえます。
玉ねぎの二枚目の皮が薄く、一枚目が吹き出てしまうとも言えます。
三枚目の皮をかぶっても、やはり二枚目、三枚目が薄ければ、一枚目が吹き出て、後退することもありえます。
しかし、玉ねぎの皮の枚数が増えるほど、一枚目の物的身体的レベルの問題については、容易にコントロールできるようになります。

(注3)

補足の二つ目です。
私たちは、①から②へ発達させようとしている子も謹慎させ、静かな環境で、いろいろ考えさせ、課題作文を書かせています。

①から②に発達させることは、社会はそれを許さないことを教え、自分(主観)と他者(社会=客観)を分化させ、他者の要請を心に刻ませることでした。
ですから、謹慎や課題は、「圧力=いやなこと」を加えて、他者の存在を自覚させることに意味があります。

しかし、謹慎して静かに考えさせ、文章を書かせることは、それ以上の意味があります。
それは②から③への発達を促進することだからです。
②から③への発達は、自分の心と行ないのありようを奥底から見つめる目をもつことです。
ですから、自分の心(主観)のさらに奥に視座を設定させることにより、自分の心のありようも客観的に見る力を育てることです。

高校生の年になった彼らに、この心の奥底の目を育てることは、①から②への発達の不充分さを促進するためにも大きな意義があると考えます。

(4)①の前慣習段階自体の未確立の問題

以上の議論は、前慣習段階を適切に通過してきていることを前提としています。
しかし、①から②の道徳段階へ進ませるのに「愛情ある圧力」と書いたのは理由があります。

①の前慣習段階は自他の未分化を背景としていました。
②の慣習段階の道徳は、自他の分離が実現し、それによって社会中心思考が可能となったものでした。
①から②へ、②から③へ、③から④へと発達するどの段階においても、玉ねぎの芯の部分はどの段階になっても必要です。
スキーのパラレルターンができるようになったからいって、スキー靴で立つ能力が不要になるわけではありません。

①の自他との未分離状態は、情動面では母親の愛情に抱かれているという実感です。
未分離であるから寂しさという感情は発生しません。
したがって十分なる①の段階を経ずに、すなわち愛情がほしいのに抱っこをしてもらえなった子は、生涯、心の奥底に寂しさ、愛情への渇望という不安定さをもちながら生きてゆくことになります。

したがって、①の前慣習段階から②へ慣習段階の道徳へ、すなわち、社会中心思考を育てることを課題としていても、同時に①の段階を不充分に通過してきた生徒が多いことをみておかねばならないと思います。
「愛されている」という実感のもとに「社会的ルールを守らなければ、ちゃんと生きてゆくことができないよ」と教えなくてはなりません。
アプローチするさいの声かけ、表情が、自分への愛ゆえになされている注意であることを喚起させるようなものでなくてはなりません。

したがって、①誕生後の赤ん坊は、「愛情」です。
①から②の社会中心思考にすすむ段階は、「愛情」を含んで「圧力=しつけ」です。

3)慣習段階から後慣習段階へ

(1)②の慣習的道徳段階から③後慣習段階への導き

本高校ではこれまでは、②から③への発達途上におきるルールや指示を疑問視する生徒はあまりいませんでしたが、今年度の普通科総合選択制の開始にともなって、新しい質の子たちが一年生に入学し、そのタイプの生徒も一定数存在するようになったと考えられます。
したがって②の子の内面から発する疑問に対しては、ていねいな「共感的理解」のアプローチが必要です。
そしてそうした子たちにさらに内面的な豊かさを可能にするような心の栄養となる教材を提供してゆくことも必要です。

(2)②の慣習段階から③の後慣習段階への意義

②から③の発達は、別の側面から見ると合理性の獲得です。
慣習段階の思考の中に、考えるだけでなく、考えることについて考える能力が生まれてくることです。

「簡単に言えば、それはただ考えるだけでなく、考えることについて考える能力を指す。
したがって、考えた上で行動する(操作する)手続き的な思考である。
自分自身の思考を反省し、その上に立って行動するため、ある程度まで、思考からの自由である。
ある程度まで、思考を超越できるといってもよい。
また自分とは異なった視点(パースペクティブ)をとることができる。
仮説的な可能性を考えることもできる。
そして高度に内省的になることもできる。・・・
こうしたすべては、いわゆる形式操作的な認知、あるいは合理性の出現によって生まれてきたものである」(ケン・ウィルバー、同書、283ページ)

①の前慣習段階は、徹底的した自我中心性にその特徴がありました。
自他の未分離により、社会が発見されず、社会の中に自分の役割が発見されません。

それに対して②の慣習的道徳段階の思考は、社会中心です。
自分の属する社会のルールや指示に無条件に従う段階です。
しかし、自分の所属する社会中心であり、この段階にある社会順応型の「よい子」は、ナショナリズムや宗教的ドグマや人種主義を注入されたりすると、他社会との闘争のために自分の属する社会や国家、宗教段階、共同体に生命をかけるように容易に教育されてしまいます。

したがって、ルールや指示の根拠を問う合理的精神を発達させ、③の後慣習的段階に発達させることはきわめて重要です。

「形式操作の発生とともに、どんな所与の社会の規則や規範ももっと普遍的な原則に照らして、判断されることができるようになる。・・・
『正しかろうと間違っていようと我が祖国』でなく『我が祖国は本当に正しいのだろうか』と問うのである」(ケン・ウィルバー、同書、367ページ)

日本がかつてアジアを侵略し、多大な被害を与えてしまったという事実を過小評価したい新自由主義史観の人々は、②の慣習道徳段階、すなわち順応型の「よい子」の『正しかろうが間違っていようと我が祖国』というメンタリティをもっていると考えられます。

①の前慣習段階は、「私」と「私たち」と「それ」が未分化です。
次第に「私」は「それ」と分化します。
そして②の慣習段階において、「私」は、「私たち」と分化し、主観の「私」は「それ」と「私たち」を客観化できるようになります。

③の後慣習段階とは、「私」の奥にある「自我= エゴ= セルフ=アートマン」から、主観の「私」の心の中を見つめることができるようになる段階です。

②の慣習段階の道徳レベルにある人は、社会や上からの要請で行う他の社会に対しての悪行は、自分のモラリティの領域に入りません。

最近の例で言うと、食肉会社の担当者が、産地偽装を指示されて実行しました。
この場合、心の半径が会社にあり、忠誠対象を会社としている②の慣習道徳段階の人なら、罪の意識を感じません。
社会中心思考であるために「私」は社会の要請で行動しており、させている責任は社会にあるからです。

しかし、③の後慣習段階にある人は、自分の心の奥の「自我=エゴ=セルフ=アートマン」が「それでいいのか」と問いを発します。
そこで良心の呵責が生じます。
②から③への発達が小学校の早期におきる人もいるし、青年になって③に達する人もいるし、大人になっても②のままの人もいます。
しかし、今日の世界において、②から③への発達を教育の中で追求することはきわめて重要です。
内面にアプローチできる国語などの教科は、その課題を教科として担うことができます。
しかし、国語にかぎらず、絶えず内面的にアプローチを試み、内面世界の共有化をはかることで、②から③への発達を促進することができます。
多感な高校時代は、②から③への発達にとってきわめて重要な時期だと考えます。(注4)

(注4)

日本人論として「世間体」と「恥の文化」が指摘されてきました。
自分の属する「世間=社会」から離れると、「旅の恥はかきすて」という態度に陥ります。
悪名高い東南アジアで買春ツァーなどにあらわれます。
それは、第二段階の慣習的道徳レベル段階の人の行いを意味しており、日本にかぎったことではありません。
すなわち慣習的道徳段階とは、「私」が自分の属する「社会」の要請に「順応」することに本質があるからです。
「私」の奥の「自我=セルフ=エゴ=アートマン」の位置から見つめる近代的自我まで達したレベルの人間は、そういう行いに対して良心の呵責が生じます。

まとめ

最後に③の後慣習段階から④⑤後後慣習段階の道徳に達することの意義をつけくわえておきます。
なお、後後慣習段階に達するにはスピリチュアル・プラクティスが必要です。

最初の①の前慣習段階においては、心の中心が身体的レベルにありました。
「私」と「私たち」「それ、それら」は未分離でした。
②の段階は、「私」と「私たち」と「それ、それら」は分離し、「私」は、主観として「私たち」「それ、それら」を客体とします。

さらに③の後慣習段階においては、「私」の奥にある「自我、セルフ、エゴ、アートマン」が「私」を内側から見つめます。

そして④⑤の段階はさらに「私」の奥の奥まで進みます。
「私」と「私たち」「それ、それら」は、「一が多」として顕現したものにほかならないことに気付きます。
すべての人類、すべての生命、すべての存在が、実は、「私」をその一員とする同一のものの展開であることに気付きます。
あたかも、この世界のすべての物的存在が原子で組み立てられているように。そして、私にとって右腕も左腕も右足も左足も同じように大切であるように、「一者」と重なる「私」にとって、この世界の万物は尊いものにうつります。
これは、④⑤の後後慣習段階の道徳であり、インドのサーカーの言うネオ・ヒューマニズムの精神にほかなりません。
きわめて少数ながら、このような人々が、現在、地球規模であらわれつつあるとケン・ウィルバーは指摘します。

この④⑤の後後慣習段階にまで達した人は、①、②、③の段階を、玉ねぎの皮のように自分の内側にもっていることに気付いています。
したがって、彼らは、③以下の段階の人の不道徳と悪行を見たからといって、決して軽蔑することはありません。
②の段階、③の段階へ、④の段階へと一歩一歩のぼってゆくことを援助するアプローチをするだけです。

古代の①の段階の人々が多数の時代にも、⑤の段階のブッダが登場しているように、同時代に①から④、ときには⑤までのすべての段階の人が登場します。
歴史を経るにつれて、多数派の人々が①から②へ、そして③へと進んでゆきます。
私たちの目の前に①から④までの人々が同時に存在しているのです。

このすべての段階にある人がともに①から④⑤へラセンの階段を一歩一歩のぼっていく社会システムを築いてゆかなくてはなりません。
私たちの学校教育も、それぞれの段階にある人がラセン階段を一歩一歩のぼっていくことを援助するものにしなくてはなりません。
これが、全レベル統合アプローチです。(注5)

(イ)注(5)

この論文の目的は、ケン・ウィルバーの論の正確な紹介を主眼としているものではなく、①から②の段階にある人間への教育的アプローチと、②から③への段階にある教育的アプローチには相違があってしかるべきだという主張を伝えることにあります。
そのためにケン・ウィルバーの論を少し粗雑に紹介しています。

ケン・ウィルバーの用語を正確に用いると、③が後慣習段階、④が後後慣習段階、そして⑤が普遍的多元性(ヴィジョン・ロジック)の段階となります。

簡単に説明すると、③の段階の思考においては、近代的自我は発生していますが、いまだ思考は国民国家の枠内にあります。
自民族中心、国益中心の思考です。
本文ではそうした思考を②に一括しましたが、本当は③の段階の思考でもあります。
④の後後慣習段階になって、合理的思考力はさらに発達し、心を統合するセルフが心の深いところに達しているため、民族や人種を超えてすべての人類を自分と重ねてみることができるようになります。
私たちが、自分の国を中心に考える思考を克服して、すべての人類を本当に兄弟と考える思考に進むには、③の合理主義から、その③の合理主義を内に含んだ④の普遍的多元性の段階に成長しなくてはなりません。




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